戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

慶応四年六月二十四日 板垣退助日誌  棚倉城落城

2005年06月24日 | 板垣退助日誌
板垣退助ら新政府軍は、白河を出て旗宿村と郷土の本道から部隊を二つに分けて、新政府軍は早朝に七百の兵力を出発させる。
進軍する。
旗宿を進む新政府軍は奥羽越列藩同盟軍とたびたび交戦するも、これを撃破し、本道から進んだ新政府軍は
郷戸村にて会津藩・棚倉藩・仙台藩・中村藩が堡塁を築いて、新政府軍を待ちかまえていたが、
午前六時、会津藩の木村兵庫隊が新政府軍と銃撃戦となり、交戦するが新政府軍は火力でもって圧倒する。
このとき、板垣退助は「応援来る前に棚倉城を落とせ」命令して退路をたつ。
表郷村にて棚倉藩兵を破り、金山村で新政府軍の二つの部隊は合流する。
会津藩ら同盟軍は棚倉城へ行き籠城しようとするが、城は混乱しており籠城戦が出来ないと
悟り、城より北へ二キロのところにある逆川にて陣地をつくり、土佐藩と長州藩と抗戦していたが、
薩摩藩・大垣藩なとが応援にきたため撤退する。
棚倉藩兵は棚倉城では援軍に来ていた同盟軍が引き上げてしまい、棚倉藩兵は単独では棚倉城を守ることは不可能とさとり
城に火を放ち、逃亡する。午後二時には城や城下より火の手があがり、棚倉城は落城する。

新政府軍は出発させる。
このとき、板垣退助は「応援来る前に棚倉城を落とせ」命令して退路をたつ。
会津藩ら同盟軍は棚倉城へ行き籠城しようとするが、城は混乱しており籠城戦が出来ないと
悟り、城より北へ二キロのところにある逆川にて陣地をつくり、土佐藩と長州藩と抗戦していたが、
薩摩藩・大垣藩なとが応援にきたため撤退する。。
午後二時には城や城下より火の手があがり、棚倉城は落城する。