戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

慶応四年八月二十三日 板垣退助日誌

2005年08月23日 | 板垣退助日誌
払暁、新政府軍は攻撃を開始し、戸ノ口原周辺で守っていた会津藩兵はすぐに交代し、新政府軍は一気に本道より若松城へ目指す。
この日の新政府軍の先陣だった土佐藩兵は滝沢峠にでるまで抵抗らしい抵抗は受けなかったが、滝沢峠にて遊軍寄合組を難なく突破し、
そのまま会津盆地が見えるところまで進出する。そこで板垣退助の盟友牧野群馬【小笠原唯八】は会津盆地を見晴るかし、「ああ、われ死所を得たり。」と叫んだという。

若松城下北方の入り口にて、蚕養口の手前の国産奉行河原善左衛門が新政府軍に抵抗するが、すぐに退却し、新政府軍は
甲賀町口かせ南方七百メートルの若松城北出丸に迫り砲撃する。会津藩兵の抵抗も激しく昼すぎても若松城の落城の気配もなく、
薩摩・長州・土佐藩兵が一小隊ずつ出して斥候を南側へ回している。

この日は土佐藩兵は功を焦るばかりに、若松城の大手門に殺到するが、そこで城を守る会津兵の狙撃を受け多くの迅衝隊の幹部たちが倒れる。
板垣退助の盟友牧野群馬は狙撃を受けのちに戦死、その弟で迅衝隊三番隊長小笠原謙吉もここで戦死、板垣退助の留守や別働隊を率いてよく戦った半大隊長祖父江可成、
鳥羽伏見の戦いで参戦した九番隊隊長二川元介、同じく十番隊隊長山田喜久馬、十二番隊隊長長谷口伝吉などが戦傷し、前線から離脱していった。
この日の土佐藩の被害状況は、戦死者二十六名、負傷者二十名にもなる。