唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第二編 第一章 機械観)

2022-04-03 20:15:15 | ヘーゲル大論理学概念論

 分立して存在する直接的な感覚がそれぞれ一つの客観に従うなら、それは単純な機械論である。しかし実際には分立する感覚が、それぞれ異なる客観として対立し合う。そこでの対立は相互の仲裁のために共通の土台を要求し、その普遍を前提にして特殊な静止を擁立する。ところがそのようなことが前提として成立するなら、やはり分立する感覚的存在はそれぞれ一つの客観に従っている。ただしそれは単なる機械論の原点復帰ではない。その原点復帰は、感覚的存在を実在とした単純な機械論の、抽象的普遍の実在を認める絶対的機械観への転化として現れる。

[第三巻概念論第ニ編「客観性」第一章「機械観」の概要]

 直接的客観の個別限定が特殊の反作用を媒介にして法の普遍に漂着する論述部位
・主観的実在    …感覚的存在に留まる空虚な直接的客観。
・客観的実在    …概念の充実した抽象的実在。
・客観の全容
 ‐機械観     …直接的客観として個々に自立した主観の単なる総体。
 ‐化合観     …直接的客観の自立を廃棄し、個々の主観を統一する主観としての法。
 ‐目的観     …個々の主観の目的に統一主観としての法を擁立した全体。
 ‐理念      …目的の主観性を廃棄し、実現を通じて外的合目的から内的合目的に転じた目的
・機械観
 ‐単子(モナド) …相互に影響することなく無関係な客観の放射口。
 ‐決定論     …根拠による自立しない単子の決定。
 ‐形式的機械過程 …普遍に従う個別な直接的客観の集合体。
 ‐実在的機械過程 …個別の反作用が擁立する特殊な機械的全体
 ‐絶対的機械観  …特殊を運命の普遍が最終決定する機械的世界
 ‐法Gesetz    …外面的自由にある個別が内面的必然において目指す普遍限定


1)客観と実在

 大論理学一巻の存在論では、抽象的存在が限定存在を媒介にして本質へと転じた。次の二巻本質論では、本質の実存が実体を媒介にして概念に転じた、さらに三巻概念論では、概念が客観を媒介にして理念に転じる。この概念から客観の推移は、神の概念から神の存在の推移、すなわちデカルト式神の存在証明に類比される。この神の存在証明は、限定存在の限定内容は限定存在の実在ではない、とするカント式批判にさらされた。ところが概念は、判断において自己の抽象的実在を擁立する。そして推論において述語の含む抽象的普遍が、この概念の抽象的実在を客観化する。とは言え、さしあたりまだ概念の実在化は、述語の含む主観により阻まれている。ここで概念を客観化するのは、抽象的普遍の非主観である。そしてその非主観が客観を実在化する。この客観的実在は感覚的存在ではない。しかしこの客観的実在との比較では、むしろ感覚的実在の方が主観的実在である。その感覚的実在がもたらす客観は、空虚な感覚的存在の総和に留まる。すなわちそれはスピノザ式唯物論の神である。


2)客観の二義的矛盾の自己展開

 客観は一方で主観的観念論における絶対的真理、すなわち自我に対立する客体である。他方で客観は、主観的意識の恣意的偶然に対立する即自対自的な理性的諸原理である。ここで論じられるのは後者に示された即自対自的客観であり、それはまず直接的存在と同一にある。しかしそれは主観的意識の恣意的偶然に対立し、自我の存在に対立する無に転じる。すなわちそれは前者に示された自我に対立する客観である。この客観の二義対立は、次のように客観を自己展開させる。
 ・機械観 …直接的客観として個々に自立した主観の単なる総体。
 ・化合観 …直接的客観の自立を廃棄し、個々の主観を統一する主観としての法。
 ・目的観 …個々の主観の目的に統一主観としての法を擁立した全体。
 ・理念  …目的の主観性を廃棄し、実現を通じて外的合目的から内的合目的に転じた目的


3)機械観

 個々の直接的客観のそれぞれの自立は、相互の相関を外面的なものに留める。すなわちその相関は、個々の直接的客観の内面と結合していない。したがってそれらの外観上の統一は、単なる集合でしかない。しかしこのような客観は、機械観である。その統一の全体には、個々の直接的客観の自由が欠けている。個々の直接的客観は、統一の全体が体現する普遍の直接的な個別にすぎない。このような直接的個別に、普遍的質料と形式的特殊の区別は無い。したがってその無差別において、直接的個別に属する偶然も無い。それゆえに統一の全体を客観として見ると、直接的個別における対立も無い。この対立の不在は客観を静的実体に押し留め、その無対立において無限定にする。直接的個別は、全体に含まれる部分である。しかしそれは全体と対立する部分ではない。このことは全体に現れる多様を、一つの客観から枝分かれした無数の同じ客観にする。したがってその無数の客観は、それぞれが勝手気ままに動く原子ではない。その無数の客観は、それぞれが一つの客観の放射口としての単子(モナド)である。それらは相互に影響することなく無関係である。


4)決定論

 単子が自己を決定する根拠を求める場合、根拠となる全体を知る必要がある。しかし全体は無限定なので、その現れである自己に再び戻る。そこで今度は自己と全体の二者の根拠を知ろうとすると、それを根拠づける第二の全体が次に現れる。しかし第二の全体は無限定なので、その現れである自己に再び戻る。そもそも無限定な第一の全体と無限定な第二の全体に差異も無い。それでもさらに自己と第一の全体と第二の全体の三者の根拠を知ろうとすると、それを根拠づけるさらに第三の全体が次に現れる。この原因追究の無限反復は、何処までも続く。そこで原因追究を諦めた単子に残るのは、自己と全体が得体のしれない何かに限定されている決定論である。さしあたり第二の全体を想定すると、第一の全体はその第二の全体の配下に含まれる一つの部分である。ここでの第二の全体の配下に現れるのは、並行して存在し相互に関わることのない多数の全体である。結局これらは第一の全体に現れた単子と同じものである。すなわち第一の全体は、第二の全体の単子にすぎない。このような無駄な多層構造を想定をするくらいなら、最初から一つの全体とその配下の無限の単子の二層構造で十分である。二層構造であろうと無限の多層構造であろうと、どのみち得体のしれない決定論が現れる。


5)形式的機械過程

 決定論において因果の結果は、原因の他面に過ぎない。それゆえにその因果は単なる同語反復になる。この同語反復は、因果をただの表象に変える。ここでの直接的客観の相互の無関係は、直接的客観の自由を保証せず、直接的客観を根拠に擁立されただけの存在にする。それゆえにこの相互に無関心な直接的客観の全体は、一つの客観を媒介に連動する機械的相関にすぎない。すなわちこの二者を媒介する一つの客観それ自体は、全ての直接的客観を連動させるただの機械である。さしあたりその最も単純な因果連繋は、二者の間の情報伝達として現れる。情報伝達が可能なのは、二者における伝達情報の共有である。したがってその伝達情報は二者における普遍である。逆に普遍ではない特殊な伝達情報は、二者の間で伝達され得ない。そこで特殊な伝達情報は、二者において伝達不能の反作用を起こす。単純な例で言えば“はい判りました”の代わりに“いいえ判りません”が生まれる。


 5a)反作用

 伝達の二者の間の中間辞はもともと普遍であり、それゆえに二者の間の情報伝達が可能であった。しかし伝達情報が特殊でも、伝達自体は普遍である。したがって伝達の結果が反作用であっても、情報は特殊に伝達する。また反作用は先のような完全反発でなくても、二者における部分的な情報受容でも良い。そもそも完全受容であっても、伝達は二者の間の実体的差異を前提する。それゆえにいずれにおいても情報伝達は、普遍な伝達情報と伝達自体を特殊化し、その類を種に降下する。すなわちここでの中間辞の普遍は、特殊に降下する。それゆえに普遍な伝達情報の伝達は、この伝達情報の個別化において没落する。この没落が現すのは、二者における個別の樹立である。したがって伝達がもたらすのは、前提されていた結果と全く違い、無関心な二者の間の表面的変化だけである。ここでの伝達結果は伝達に先だって存在せず、情報の送り手と受け手の両者が擁立する。すなわち初めて結果を限定するのは伝達である。結局この結果の偶然が、因果を再び復活させる。


6)実在的機械過程

 形式的機械過程は、それぞれの直接的客観に静止的な外面限定を与える。ただしそれは直接的客観にとって反省された自己自身の外面にすぎない。とは言えその限定は、直接的客観の区別として自立している。一方でその擁立された区別は、直接的客観にとって自己と無関係な普遍に留まる。そしてこの普遍との対立が、直接的客観を個別にする。ただし自立する個別と違い、この普遍は自立していない。そこで個別は、この自立しない普遍に与られた外面限定を無視する。それは個別にとって、自らに対する恣意的限定にすぎない。これを先の伝達の例で言えば、伝達の不成立として現れる。しかし伝達が無ければ、そもそも個別は普遍に抵抗できない。さしあたりそこで成立する個別と普遍の主述関係は、無限判断に留まる。そこで個別と普遍の共通領域として、先の中間辞の特殊が要請される。しかし個別は普遍の外面限定に対して抵抗するので、普遍の方が個別ごとにその対立を量的に配分する。ただし伝達が成立するなら、今度は普遍が個別の抵抗を圧倒する。そのことが示すのは、個別における直接的客観の自立欠如である。すなわち直接的客観は、普遍に代わることができない。この普遍の力は自然本来の力であり、個別を自立させた抽象的自己否定を没落させる。


 6a)運命

 普遍の力は、主観に認知できない客観的な運命である。例えば生物の運命は類である。ただし生物個体はもっぱら類を意識せず、偶然な主観に支配されて運命を持たない。この生物個体が運命を持つ上で必要なのは、客観的な運命と主観的な自我の分離である。それゆえに運命を持つのは、自由な自己意識だけである。そしてその分離が、行為する自己意識の前に機械的運命を呼びよせる。自己意識は客観的普遍から分離した抽象的普遍を受け入れ、自らを特殊として機械過程の中に入り込み、そして外界と運命を動かす。しかしその主観は、機械的客観の中に落ち込むことにより、自らの主観としての本質を喪失する。さしあたりここでの個別は、普遍に対立する自立的主観の仮象を廃棄した客観である。それはまず反省する自己意識として客観の第一存在であったが、次に自己否定を否定して普遍となる。ただしその普遍が命ずるのは、自己否定を求める限定との対立ではなく、理性の限定に準じる運命である。その普遍は自らを不動の区別に特殊化する。その区別は、自立欠如した特殊な直接的客観を固定する法Gesetzである。


7)絶対的機械観

 客観の多様は個別の直接的客観を中心にして集約される。しかし直接的客観が普遍の限定に対して無関心な限り、その限定も非本質な客観の並存に終わる。これに対して本質的限定は、相互に機械的作用する直接的客観の実在的中間辞である。すなわち中間辞が、並存する直接的客観の客観的普遍である。それは上記の伝達の例で、二者の間で擁立され、二者を貫通する普遍として述べられた内在的本質である。物質界では物体の類として個別の直接的客観の機械過程に現れる普遍が中心物体である。それ以外の物体は、相互に対立し合う非本質物体である。この点で中心物体同士は対立せずに静止する。ただしその静止は、直接的客観の外面的当為Sollen(べき)に留まる。それは伝達において擁立された外面的普遍と変わらない。絶対的普遍は、直接的客観が中心に向かって持つ内在的傾向Strebenである。運動物体の静止は、摩擦によって起きるのではなく、運動の機械的中心が起こしている。


 7a)絶対的中心物体と相対的中心物体

 中心物体の客観は個別の非本質な即自ではなく、その対自である。したがってその限定は各部分の外面的秩序ではなく、内在的形式としての原理である。それは最初に二項を持たない中間辞であり、自らを否定的統一として二項に分裂する。この分裂は、普遍により自立欠如した直接的客観の個体の回復である。一方で個別の中心物体は、それが直接的客観の外面的当為に留まる限り、外面を随伴する。逆に言えばその外面は、直接的客観の外面を取り込む限り、直接的客観の個別である。このときに最初の中心物体を絶対的中心として言えば、直接的客観はそれぞれ絶対的中心の外に現れた相対的な中心物体となる。ここでの最初の中心物体が類であるなら、相対的な中心物体はその特殊であり、自立しない直接的客観は個別である。この個別と特殊を結合するのは、中間辞の類である。そしてこの推論(第三格)は、類と個別の包摂中間辞に特殊を擁立する第二推論(第一格)、および特殊と類の外面的類比の中間辞に個別を擁立する第三推論(第二格)を構成する。ただし第三推論は外面的類比に留まり、第一推論か第二推論に自らの真理を持つ。


 7b)法Gesetz

 推論において類と特殊と個別がそれぞれ二項と中間辞として現れると、その全体は自由な機械観を形成する。その異なる客観の根本規定をなすのは、客観的普遍である。それは特殊化の中で一貫する自己同一な重力である。これに対して圧力・衝突・牽引・集合・混合は、先の外面的な第三推論の構成材料にすぎない。これにより各客観が持つ外面的限定としての秩序は、内在的な客観的限定に推移する。それが法Gesetzである。法において明確になるのは、観念的実在と外面的実在の区別である。外面的実在は即自対自的に存在しない。しかし単なる同一的個体も、直接的客観の内在的傾向Strebenに留まる。観念的実在に現れる個体は、即自対自的に否定的統一の具体的原理である。それは自らを限定概念の区別に分割しながら自己同等であるような普遍の全体である。もともと主観的個体と外面的客観の否定的統一では、主観的個体が外面的客観の区別を成している。その外面を内面に連れ戻す統一の自己運動は、即自対自的な否定的統一よりも鮮明である。しかし実際にはその生動態の限定が法である。ここでは自立的に見えた直接的客観が自立欠如しており、その中心物体は直接的客観の外にある。逆に自立していない普遍が自立しており、中心物体は普遍の内にある。それゆえに自由な機械観以前の機械過程が提示するのは、偶然で無限定な不等、または形式的一様は限定に留まり、法となり得なかった。法は自由な必然である。


 7c)機械観の化学観への推移

 ここでの法は、まだ物体の中にある。それは直接的客観に直接拡がる普遍であり、直接的客観と対立していない。すなわちそれぞれの直接的客観は、全体の中の自立的個体に過ぎず、個体的に見えるだけの全体の外面である。それは概念の判断に抵抗するための抽象的で無限定な自立と閉鎖的な自己維持をする力を持っていない。直接的客観の自立した限定存在は、今では概念が擁立する非自立である。そこで直接的客観の自立を表現していた直接的客観の中心に向かう内在的傾向も、逆に中心に対立する内在的傾向に転じる。しかしそれが示すのは、中心の分裂である。したがってそれは全体と部分の否定的統一を、再び相互対立の客観化へと推移させる。それは自由な機械観を化合観に転じる。

(2021/12/26) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第二篇 第二章) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第三章 C)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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