唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第二編 第三章 目的観)

2022-04-03 21:02:23 | ヘーゲル大論理学概念論

 普遍の外面的原因と内面的原因は、それぞれ作用因と目的因として分裂する。ただし作用因は目的因が前提する起点に過ぎず、概念の全体を描くのは目的因である。それが描く目的の実現は、主観が自己自身を媒介にして自己を擁立する運動である。そしてその擁立する概念は、作用因を手段として擁立して自己を実現する全体となる。内面的な目的観に転じた外面的な機械観において、手段は目的のための消費財にすぎない。このことは直接的客観と目的主観のそれぞれの物体と意識としての自立を表現する。そしてその交互作用の全体が外面的な化合観に内面的充実をもたらし、その作用因に留まる概念を目的因の理念に転じる。

[第三巻概念論第二編「客観性」第三章「目的観」の概要]

 外面的機械論の内面化が主観的目的として擁立される論述部位
・目的      …外面的な作用因から推論される内面的対極。機械観と化合観の限定者。
・外的手段    …前提される作用因としての自己を廃棄し、目的主観に復帰した直接的客観。
・内的手段    …目的限定により自己の外面性を廃棄した外的手段。
・外面的目的論  …目的限定を中間辞にした機械論。手段の目的化。
・目的の交互作用 …手段の目的化を廃した機械論。手段と目的の擁立と廃棄の全体。
・理念      …反省された目的論における作用因と目的因の否定的統一として現れる概念。


1)作用因と目的因

 機械観における限定は、人間にとって外面的な作用因として現れた。それが擁立するのは、客観が自らに対して無関心に現れる宿命論や決定論である。これに対して目的観における内面的限定は、自由な悟性が創出する目的因である。それが擁立するのは、客観が自己のために存在する自由な世界である。この作用因と目的因は、さしあたりそれぞれ機械観と化合観として対立する。まず機械観における諸客観は、概念を外に持つ無限定な具体である。それは相互に他者との反発においてのみ実存する。これに対して化合観における諸客観は、擁立した中和客観との対自により自己を普遍として限定する。中和はそれ自体が諸客観の相関であり、諸客観の内在的原理である。それゆえに機械観における二者の否定的統一が結果を持たない判断に留まるのに対し、化合観における否定的統一は結果を擁立する推論である。とは言え化合観は、結果をあたかも目的の如く現す機械観にすぎない。またその目的の如き結果も、機械観の延長に現れる中和に留まる。その中和はことさらに人間のための存在するものではない。したがって化合観も機械観と同様に自然必然性の下に一括される。せいぜいそれがもたらすのは、質料世界を統一する形式世界である。このことは目的因を消失させ、化合観を機械観に吸収させる。しかし既に示されたことから言えば、機械観の真理は目的に依存する。このことが現れるのは、そもそも諸客観が統一された自然が全体としてあり、機械観の目的がその全体的統一にあることである。したがって作用因と目的因のいずれか一方で世界を捉えるのは、不完全な一面的理解に終わる。


2)カントによる二律背反の解決

 目的観が掲げる恣意的な自由に対し、機械観は自然の偶然に自由を見出す。ここでの自由は価値であり、目的である。この点でスピノザを筆頭にした唯物論は、目的観より無限な自由を世界に見出す。それに対して目的観の自由は、むしろ外面的な合目的である。その合目的は、もっぱら人間にとって外面的な機械観の合目的から恣意的に抽出される。しかしそれはたまたま人間に利する結果だけを捉えて得心するだけの自己満足である。人間にとって内面的な合目的は、そのようなものではない。それは自然の外面的な合目的を脱却する自由である。またそれだからこそ機械観と目的観の対立は、必然と自由の対立になっている。この外的合目的と内的合目的の区別は、カントにより行われた。ただしカントは結局その区別を二律背反する矛盾のままに残す。カント弁証論における定立命題は自然因果の根拠に自由を擁立し、反定立命題は自然因果の根拠に自然法則を擁立する。しかし二つの命題はともに背理を許さず、正反対な形に因果を否定する。すなわち対象は人間に無関心な真理のまま変わらず、美は人間のための真理のままである。ただしこのような不手際の一方でカントは、客観的法則の不可知を擁立し、その解決を単に主観的格率において果たす。一見すると法則を格率に名前を変えたところで状況に差異は無い。しかし個別と普遍の中間辞として主観の目的を擁立するなら、対象は有用であり、有用は美であり、したがって対象は美となる。その推論では対象を有用とし、有用を美とする限定判断が、対象を美とする反省判断に転じる。ただしその主観の客観へのすげ替えでは、個別も普遍も既に目的と化している。


3)主観的目的

 主観は機械観の中心に個別と普遍の否定的統一を見出し、次に化合観によってそれを客観として擁立した。しかし主観はその諸限定の外面性に反発し、反発することで自己を主観として統一する。このような主観が次に擁立するのは、自己と客観の中間辞である。それが両者を否定的統一した主観的概念としての目的である。その体現するものは、自己を外面的に限定する主観の衝動である。すなわち目的は、客観化した主観である。しかし目的は原因や実体と同様に、発現することでのみ自らの限定存在を得る。そして目的自身は自己実現する力を持たない。それは例えば満足や善、あるいは真理として現れる。したがって目的が実現するためには、目的と異なる別の作用因を必要とする。それは満足に対する不足であり、善に対する悪であり、真に対する偽である。すなわち目的因の真は、作用因の偽の主観的な彼岸である。したがって作用因が目的を実現するなら、作用因と目的因はともに自らを廃棄する。しかし目的因は実現において自己を廃棄することにより、再び作用因を擁立する。したがって目的は結果となることで作用因を廃棄し、それと同時に作用因を擁立することで再び目的因となる。つまり目的因は作用因を媒介にした自己原因である。


 3a)目的における主観と客観の否定的統一

 目的観における内面的限定は、自由な悟性が創出する目的因である。したがってその限定内容は、推論された理性的知である。例えばそれは偽から推論された真である。その真は自己に反発する偽を内に含む普遍的活動にある。その自己否定的諸関係は、その諸段階を特殊として現す。またその諸段階における自己自身との関係は個別の直接的客観である。それゆえにその反省は、普遍的主観にとって内面的でありながら、個別の客観にとって外面的である。そしてその外面性のゆえに目的の客観的限定も、個別の客観にとって無関心で外面的な主観に留まる。その有限な直接的客観は、主観と客観の否定的統一と異なる。またその前提する自然の機械論は、目的の主観性と対立する。そこで目的の実現は、まず前提された直接的客観の廃棄から始まる。ただしその廃棄は、同時に目的の主観性の廃棄でもある。そして目的の実現において直接的客観は目的と合一し、それ自身が目的の主観的限定が擁立した概念の外面となる。一方で目的も直接的客観と合一することにより、自らの普遍的概念の単純性に反発する。それゆえに実現した目的における主観と客観の否定的統一は、目的に対して概念としての自己を開示させる。そしてここでの普遍概念の直接的客観による自己限定が、概念自身を特殊として擁立する。


 3b)外的手段

 目的主観における直接的客観による自己限定は、目的の内面を成す内容を主観的目的として開示する。他方で直接的客観は、主観的目的を限定する前提である。そして前提として区別された直接的客観は、その主観に対する無関心において作用因になる。これに対して開示された目的の内面は、作用因との対比により目的因となる。したがってここでの目的の内面と外面の分裂は、端的に言えば目的因と作用因の分裂である。しかし目的主観は主観的目的と直接的客観の否定的統一なので、目的主観は作用因としての直接的客観を廃棄している。つまり最初から既に直接的客観は、二重否定により目的主観に目的として復帰している。それゆえにその目的主観への復帰は、目的の実現でなく反省であり、目的の実現の始まりである。ただし先に示したように、直接的客観は目的因ではない。そこでこの二重否定は、直接的客観の作用因としての外面性を否定すると、それを目的の媒介項に転じる。すなわち直接的客観は作用因ではなく、手段として擁立される。それは主観的目的と外面的客観を結合する推論の中間辞である。その推論だと目的は手段であり、手段は直接的客観であり、それゆえに目的は直接的客観である。ところが手段自身は直接的客観なので、やはり目的に対して無関心で外面的である。そしてこの外面性は、手段を目的とする推論の小前提を外面的にする。それゆえにこの推論は形式的である。


 3c)内的手段

 主観的目的は、目的主観の反省された自己関係である。ここでの手段は目的に限定される述語であり、手段はこの限定を通じて他の無限定な客観をさらに限定する。そしてこの結合の全体が、目的と客観を結合する推論である。ただし主観的目的が限定存在を持たない合目的活動であるのに対し、手段は目的に対して無関心に実在する限定存在である。さしあたりこの主観的目的と手段は、目的主観の自己関係において否定的統一している。しかし自己関係する合目的活動にとって、手段は目的に無関心な自己の外面である。それゆえに主観的目的は内面の自己と対立する外面の手段を分離する。ここでの手段と合目的活動は先の推論の二項であり、合目的活動による手段の限定が両者の中間辞である。すなわち手段は目的限定であり、目的限定は合目的活動であり、それゆえに手段は合目的活動である。この中間辞は目的に限定された客観である。したがってこの中間辞もまた手段である。ところがこの手段は最初から目的限定なので、目的に対して無関心でも外面的でもない。このように手段が目的に従属すると、上記3b)の推論もその形式性を脱する。それゆえに今では客観全体が目的に従属するようになる。とは言え相変わらず直接的客観は、主観的目的を限定する前提であり続ける。すなわち直接的客観は、やはり目的に対して無関心で外面的である。この限りで客観が目的に完全に従属することはない。


4)機械論の目的論への転化

 目的限定は合目的活動である。しかし合目的活動が直接的客観の限定に限定されると、合目的活動の所産も直接的客観の限定に終わる。そして直接的客観の限定は手段である。この場合に合目的活動は手段を擁立する無限運動となり、目的に到達しない。したがって手段は自己を媒介として限定し、手段としての自己を廃棄すべきである。そこで3c)の最初の推論を見直すと、手段が他の客観を限定する大前提は、手段の含む目的が他の客観を限定している。そしてこのことがその後の推論の小前提に転じている。後の推論の中間辞は目的限定であり、したがって先の推論の中間辞の手段も、目的限定としての手段である。手段を限定する目的は、手段に他の客観を目的限定させて自分は何もしない。その目的限定の内容は機械論の推移において同一である。ただし目的限定としての合目的活動は、手段として直接的客観を目的限定することで自己を廃棄し、次に手段の廃棄を通じて他の直接的客観を目的限定する。その所産は、実現された目的である。その機械論は、目的を原因として目的に復帰する目的論になっている。この目的論の推移は、機械論に現れた原因と結果、自己と他者の区別をその概念の同一において廃棄する。


5)実現した成果の外面性

 主観的目的は手段を限定し、手段は直接的客観を限定する。この目的論的活動を機械論的活動として捉えるなら、活動の成果は活動の外で前提された目的を実現したものにすぎない。そのような目的は成果にとって外面的である。せいぜいそれは目的論の形式を得た機械論である。そこで目的論的活動を見直すと、主観的目的による手段の限定も、手段による直接的客観の限定も直接的限定なので、この外面性は直接的二限定の結合における中間辞の欠落として示される。ただし手段はもともと中間辞なので、この二限定の対立にさらに中間辞を擁立するのは、手段のための手段を擁立する無限累進に陥る。しかし中間辞を擁立しなければ、成果は目的を実現する途上に現れた暫定的な成果となる。ところがそれは成果ではなく、中間辞としての手段にすぎない。この場合に目的を実現するために、手段を成果に転じる後続項が続く必要がある。しかし二項の結合における二限定の対立がある限り、その後続項の成果も手段を実現するだけである。この場合も手段のための手段を擁立する無限累進が生じる。つまり成果の外面性は、目的論的活動が実現した成果が直接的客観であることに従う。実現した成果は、それが直接的客観である限り、目的にとって外面的な手段にすぎない。したがってこの成果が目的を実現するのは、それが廃棄されることに従う。すなわちその直接的客観を目的主観のために消費することが、目的の実現である。手段としての直接的客観は、使用と消耗による否定を通じてのみ目的と一致する。


6)目的実現における直接的客観の二重否定

 主観的目的は直接的客観の目的限定により自己を廃棄したが、目的の実現ではその直接的客観の廃棄により主観的目的が自己に復帰する。目的が直接的客観と結び付いている限り、目的は実現しない。ところが直接的客観と結び付かない限り、目的は手段にも達しない。ただし目的関係において直接的客観は目的の仮象にすぎない。つまり主観的目的の活動は、直接的客観を目的限定することにより、実際には直接的客観の外面性を廃棄している。それゆえにこの目的限定が直接的客観の最初の否定であり、その直接的客観を廃棄する目的の実現はその否定を否定する。それは主観的目的の自己復帰であると同時に、外面的な直接的客観の自己復帰でもある。それゆえに実現した目的にとって自己の実在は手段である。そして目的の実現は、目的からこの手段としての実在を消失させる。実存する自己としての目的にとって、自己自身は消失されるべき手段である。また目的の実現において中間辞であり媒介である手段も、一方で目的の具体的同一の中に消失し、他方で限定存在の抽象的同一と直接性の中に消失する。


7)直接的客観と主観的目的の交互作用

 直接的客観は主観的目的の前提として現れる。すなわち目的因は作用因を前提する。したがって目的因は、作用因にとって手段である。そして目的因にとっての手段は、作用因にとって目的因を媒介にして擁立した成果である。すなわち主観的目的における手段の擁立は、手段にとっての目的実現となる。その限りで主観的目的による直接的客観の目的限定は、直接的客観の目的因を限定した作用因への自己復帰である。それゆえに主観的目的による直接的客観の目的限定は、主観的目的にとっての自己否定である一方で、直接的客観にとっての自己復帰である。すなわちそれは直接的客観にとっての目的実現である。そして主観的目的における目的実現は、主観的目的にとっての自己復帰である一方で、直接的客観にとっての自己否定である。すなわちそれは直接的客観による主観的目的の目的限定である。この直接的客観と主観的目的の交互作用は、両者の一種の共生関係を形成する。これと同様の交互作用は直接的客観同士の間でも起きており、その無関心な外面性によりその概念の運動は二重に複雑である。そこでの直接的客観の自己同一は自己を他者とする反発であり、したがってその自己反発が自己同一である。直接的客観のこのような全体としての自己復帰は、概念を客観化する。


8)理念

 目的実現が含む直接的客観の二重否定は、機械論を目的論に従属させた。これに対して直接的客観と主観的目的の交互作用では、作用因と目的因、または手段と目的は交互に交替する諸契機にすぎない。この全体が目的主観に反省させるのは、目的関係の廃棄である。第一篇(主観性)の終わりに主観判断は推論により客観に転じた。しかし第二篇(客観性)では機械的客観の根拠が作用因と目的因として分裂し、目的因による作用因の従属をもって両者は統一した全体の根拠に転じた。それは一方で直接的客観であり、他方でその直接的客観の自己の擁立と自己自身の廃棄の媒介である。第一篇(主観性)の終わりに客観として現れた概念は、推論された当為(~すべき)の即自存在に留まっていた。しかしこれに対する反省が概念を理念に転じる。それは即自概念の全体的同一を自己限定する即自対自概念である。

(2022/01/24) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第一章) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第二篇 第二章)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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