唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 概念論 解題(3.独断と媒介(1)媒介的真の弁証法)

2022-11-05 22:39:51 | ヘーゲル大論理学概念論

1)独断真理と媒介真理

 ヘーゲルの捉える真理は、独断真理を排除して擁立された媒介真理である。単純に言えばそれは主観を排除して擁立した客観である。この見解に対してヒューム式に評価を加えれば、客観と言えどもそれが観念であるなら、それは何者かの思惟であり、やはり主観である。しかし主観と客観に言葉の区別がある以上、両者は一緒くたにならない。さしあたりその区別をカント式に考えれば、主観は経験則であり、客観は先験則である。先験則は経験則の他者であり、経験則を制約する。それは経験則の形式として経験則を根拠づける。ところがその先験則も、やはり経験則の一群から現れる。そしてその先験性は、先験則が経験則の根拠であることに尽きている。したがってその先験を極言するなら、先験はカントの言う物自体DingSichに極限される。それは認識が到達不能な認識の根拠である。それ以外にカントが取り上げる先験則は、いずれも局面的な経験則に必要な形式に留まる。とは言えその根拠排除に対する拒否は、カント超越論をヒューム経験論に対して優位づける。その根拠排除に対する拒否は、他者排除に対する拒否であり、独断の拒否である。それゆえにカント超越論は、ヒューム経験論と同じ主観的観念論でありながら、客観的に成り得た。このカント超越論を客観的にする他者と根拠の容認は、そのまま独断真理の排除に通じる。すなわちカント超越論が前提したのは、独断の真に必要な他者であり、根拠の媒介である。それゆえにヘーゲルは、カント超越論が拘泥する独断論の残滓を排除し、媒介真理の弁証法を講じる。以下にその論理的骨子をまとめる。


1.1)事物と現れ

 限定存在の判断は、さしあたり眼前の事物そのものである。すなわち事物の現れ自体が判断である。この眼前の事物を判断と捉え、その判断の主語と述語を探すと、主語は事物であり、述語はその現れである。ここでの現れは主語の事物を修飾し、主語が何であるかを表現する。それは主語の前提として現れ、主語を根拠づける。それゆえに述語は、主語の具体に対して普遍である。このときに限定存在の判断は「具体は普遍」に転じる。ただしここでの主語の具体は、既に反省された事物である。それは過去化した眼前の事物であり、結局ただの表象である。したがってこの分節化した判断は、既に反省判断になっている。しかしその表象化した事物は、実際には過去の事物であるとしても、常に現在の事物に扱われる。一方で述語の普遍も、反省された事物である。しかしそれは主語の事物と区別される。すなわち述語は、主語の同語反復ではない。それゆえに述語は、一方で事物の類比される過去の経験であり、他方で事物のあるべき未来の理念である。そして限定存在に過去も未来も無いのであれば、述語はただ単に非現在の事物の印象である。さしあたりまだそれは、質と区別されただけの無内容な本質である。
   事物    現れ  .
   主語    述語  .
   具体    普遍  .
   現在    非現在 .
   質     本質  


1.2)存在と本質

 ふり返って限定存在の判断を見ると、主語と述語、事物と現れの間に区別は無い。このために限定存在を判断として扱うのは、やはり反省の仕業である。一方でその主語と述語の分離を否定すると、眼前の事物に主語と述語、事物と現れの区別が無くなり、それは疑いを入れようの無い実体となる。ところが人は、往々にして眼前の事物に騙される。このときの眼前の物体は、明らかに実体ではない。それゆえに眼前の事物の実在を疑うのは、経験的に見て奇妙な気の迷いではない。そしてこの疑いが、眼前の事物を実体ではなく、実体から派生した現象にする。すなわち疑いが、眼前の事物を非実体の現象に転じる。それゆえに主語は現れた始めに実体であったのに、述語の登場により非実体に格落ちする。この格落ちした主語は、反省が眼前の事物を廃棄して擁立した存在である。ここでの反省が廃棄するのは、眼前の事物の真および実在である。そしてその眼前の事物の真および実在は、眼前の事物の根拠である。したがって主語から述語への事物の真および実在の移動は、根拠の移動に等しい。すなわち述語は、眼前に事物に対して反省が擁立した、眼前の事物と異なる根拠である。この根拠の擁立は、存在と本質の区別の擁立に等しく、事物と現れの区別の擁立に等しい。ここの本質は、存在する質と区別されており、文字どおりに本当の質を指す。これに対して言えば、存在はむしろ虚偽的な質である。そしてその区別の擁立に従って、眼前の事物における主語と述語の区別も生じる。ただしその判断の主語は既に実体ではない。そして今では判断の述語が実体である。判断は述語に本質を擁立し、述語を根拠にする。非実体に転じた主語は、単なる存在である。それが単なる存在であるのは、本質が抜けたことに従う。
   主語    述語  .
   現象    根拠  .
   存在    本質  


1.3)前提と概念

 反省判断において主語と述語は分離する。しかしそれに先立って限定存在の判断においても、主語と述語は分離しているべきである。そうでなければ反省判断は、単なる気の迷いを超えるものではない。このときに述語における根拠は、判断の前提に転じる。そして主語と述語の分離も、この前提に従って生じる。またそもそもの主語と述語の分離も、その分離が恣意ではないなら、この前提に含まれる。ところが主語と述語が前提において分離し、反省においても分離するなら、両者はずっと分離したままである。ところが限定存在において両者は結合している。そして判断が表現するのも、両者の結合である。しかもその結合が単なる気の迷いでないなら、両者は判断に先立って結合しているべきである。すなわち主語と述語の結合は、その結合が恣意ではない限り、判断の前提である。そして両者は眼前の事物において結合し、判断においても結合している。主語と述語の分離と結合がともに前提に現れるのは、一見すると矛盾である。しかしその矛盾は、分離した結合を分離したままに捉えることで生じている。それゆえに分離した結合は、結合した分離に戻される必要がある。そして判断がさしあたりこの結合を担う。上記に従い主語と述語をそれぞれ存在と本質と捉えるなら、両者を結合する判断はその全体が概念である。しかし異なるものとして区別された存在と本質の結合は、単なる折衷である。それは概念ではなく、様相である。そのような結合は、結合の存在に留まる。それゆえにその結合においても結合の本質が現れる。したがって眼前の事物における存在と本質の分離、およびその概念への結合と同じ運動は、結合においても繰り返される。すなわち結合の存在において結合の本質が現れ、判断がその存在と本質を結合する。そしてそのことは結合だけでなく、分離についても該当する。分離もまた、分離の存在において分離の本質が現れ、判断がその存在と本質を結合する。単純に言えばこの分離判断は、分析判断である。それに対して結合判断は、綜合判断である。その両判断の全体が概念を構成する。


1.4)様相

 ヘーゲル概念論における独断の自己展開を支えるのは、独断の根拠欠落である。それが擁する始元矛盾は、独断の主語述語の乖離である。その矛盾の実態は、そもそもの独断の対自、すなわち自己認識にある。したがってその矛盾は、デカルト式コギトの矛盾でもある。対自において独断の自己は、自己自身の他者である。逆にその自己自身は自己の他者である。そして自己と自己自身は、それぞれ互いの他者になることにより相手の客観となる。このときに一方の客観化した自己自身は物体であり、他方の客観化した自己は観念となる。他者を根拠とする独断では、その独断の都度に物体と観念が根拠に現れる。根拠は独断の他者として、独断の外から仮言の形で独断を限定する。さしあたりその仮言の総体は、独断を選言に転じる。その根拠の遡及は、一方で内包に向かい、他方で外延に向かう。内包への根拠遡及は、分析して得た部分を綜合し、擁立した内包諸単位を内包概念として擁立する。逆に外延への根拠遡及は、綜合して得た全体を分析し、擁立した外延諸単位を外延概念として擁立する。物体の内包と外延は最小単位の原子から最大単位の宇宙へと概念を展開し、観念の内包と外延は最小単位の印象から最大単位の神へと概念を展開する。原子と印象が分割不能なのは、一方でそれを分割不能と宣言することにより決定され、他方でその分割が単なる悪無限にすぎないことに従う。すなわちそれらの最小単位が表現するのは無限小である。同じ事情は、無限大の側に該当する。ただしこれらの根拠限定は、いずれも外面的である。当然ながらその根拠限定が擁立する選言の総体も、様相に留まる。


1.5)価値

 様相における根拠相関は外面的であり、その因果相関は反転可能である。生体を構成する細胞は、細胞の塊となって生体に戻る。行動を構成する各種諸意志関係は、力の均衡において行動に戻る。全体の根拠に現れた部分はただの全体の部分であり、部分の根拠に現れた全体もただの部分の全体にすぎない。この事態は根拠をただの相互関係にし、全体の規定的根拠を喪失させる。それは一種の唯物論的虚無世界である。しかしこの根拠の喪失が、独断の恣意を是認する。またそのような事態としてヘーゲル概念論は、機械観および化合観を目的観に転じる。この展開は、独断の否定が独断に転じる矛盾を内に含む。それゆえにここでの新たな独断は、事物の現れの独断と違い、自らの独断を自覚する。したがって独断は、このときに現れる事物を、事物の現れと区別する。その新たな事物は、独断の事物である。それは事物でありながら事物ではない価値である。一方でその新たな独断は、事物が現れたときの独断と同じ独断の出発点である。それゆえにその新たな独断について再び存在と本質が現れる。それは価値におけるその存在と本質の分離である。それは後で資本論式の使用価値と交換価値の分離にも繋がるが、ここでは単純に主観的価値と客観的価値の分離である。分離の前において価値は、単なる事物の快である。しかし分離において価値の存在と本質がそれぞれ美と善に転じる。現れ出た善はさらに分析と綜合を経て真に連携する。その真は媒介を経て擁立された真であり、事物の直接的真ではない。なお実際のヘーゲル概念論において、媒介真理の弁証法は快と美の媒介を外して、そのまま善と真に続いている。しかし価値を捉えるにあたり先行するのは快および美である。それゆえにここでは次にまず、ヘーゲル弁証法に対するその補填を挟む。

(2022/11/06) 続く⇒目的論的価値


ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法
  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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