唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 概念論 (1.存在論・本質論・概念論の各第一章の対応)

2022-08-29 07:48:59 | ヘーゲル大論理学概念論

 以下に大論理学の第一巻存在論の第一篇「質」論と第二巻本質論第一篇「本質」論、および第三巻概念論第一篇「主観」論の各章の論理展開における異名同内容をまとめる。


・物体と観念と事

 存在と無の排他統一である成は、それ自身が運動する存在である。しかしそれがただの即自態であるなら、成は単に延長と叡智を結合したスピノザ式実体に留まる。それは形相を付随した質料に過ぎない。要するにそれは非人格的な物体である。ところがこの物体の非人格は、成の否定でもある。物体運動は無方向なヘラクレイトス式流転を表現するだけで、その全体は何も変わらない。そしてその無変化な全体は、そのまま成の対極である。この成の矛盾が示すのは、無変化な全体が観念に過ぎないことである。それゆえにこの虚偽観念の対極には、運動する全体が現れる。しかし全体が運動する場合、運動の前後の全体は区別される。したがってそれぞれの全体は、実際には全体ではない。この矛盾を解決しようとするなら、どちらか一方の小さい全体が大きい全体の部分となり、大きい全体が小さい全体を包括すべきである。そして反省とは、この包括運動の思惟的表現である。これにより先の静的全体の虚偽観念も、動的全体の真的観念に転じる。当然ながらこの反省の全体は、静的全体に過ぎなかった物体と区別される。すなわちそれは反省する思惟であり、つまり観念である。形式的に言うと、概念とはこの思惟の全体を指す。ところがこのような概念は、一覧表式悟性に現れる一覧表式概念にすぎない。それは観念の集合体として相変わらず観念である。ところがこの思惟の全体は、再び次の全体に包括されなければいけない。そしてその次の全体が観念と区別されるなら、さしあたりその全体は観念ならぬものである。もちろんその全体が観念ではないなら、それは反省する物体である。すなわちそれは反省する物理世界である。言うなればそれは、思惟を媒介にして自己に復帰しただけのスピノザ式物理世界である。しかもその物理世界もまた再び次の観念世界の全体、さらに次の物理世界へと順次に包括されなければいけない。結局ここでの物体と観念は、区別の都合上で分けられただけであり、同じ全体にすぎない。それゆえにその全体は、物体が観念を媒介にして物体に復帰し、観念が物体を媒介にして観念に復帰する円環に転じる。このような全体が表現するのは、手段の自己自身を媒介にして目的の自己を実現する事(仕事)である。始まりにおける存在と無の単純な排他的統一は、事において物体と観念の充実した全体に転じる。それが擁立するのは、無機質な存在ではなく、有機的に生命を得た理念である。


・純粋存在と純粋本質と純粋概念

 存在を純粋存在と区別するのは、存在が無を含むことにある。純粋存在は単なる存在と違い、無を含む存在ではない。逆に言えば純粋存在は、存在とも区別された無限定な抽象である。すなわちそれは純粋存在の彼岸に現れる無限定な純粋本質である。一方で存在から無を除外する場合、前提として無を必要とする。この無は、存在を限定し、存在と異なる必要がある。この存在を含まない無は、絶対無である。つまり純粋存在は、絶対無を前提する。当然ながらこの絶対無も、存在を含む無ではなく、無と区別された無限定な抽象である。それゆえに絶対無もまた、純粋存在の彼岸に現れる無限定な純粋本質である。ただしこの絶対無も、純粋存在が絶対無を前提したように、純粋存在を前提する。結果的に純粋存在と絶対無は、相互に前提し合う。そして両者はともに同じ無限定な純粋本質である。両者は同じ無限定において区別されない。ところが存在の場合と同様に、本質を純粋本質と区別するのは、本質が非本質を含むことにある。その非本質は画一な本質における質の欠落であり、本質の穴である。そしてこの穴は、本質における無である。それゆえにやはり存在と無は区別される。絶対無が純粋本質であるのは、存在が無における質の欠落であり、無の穴だからである。すなわち絶対無を無と区別するのは、純粋存在の限定に従う。したがって純粋本質は絶対無ではなく、純粋存在である。そしてこのような区別が純粋存在を具体にし、絶対無と純粋本質を普遍にする。しかし純粋本質における純粋存在と絶対無の同一は、この具体と普遍を統一する。それは擁立された純粋概念である。したがって純粋概念は、まず自己を純粋存在とし、次に自己自身を絶対無または純粋本質として分離し、両者を統一した全体の自己である。この純粋概念の自己自身は純粋本質であり、純粋存在の自己に復帰することで純粋概念は自己を限定する。そしてこのような自己限定において、純粋概念は自己原因である。


・普遍と特殊と具体

 普遍は具体の全体であり、個別の全体を成す類である。それは個々の区別を包括した無限定な存在である。それゆえに普遍の抽象は、一切の差異を消失したカント式物自体として現れる。すなわち抽象的普遍は、無とも区別のつかない純粋存在である。しかしこのような純粋存在と違い、普遍は具体的内容を持つ非純粋存在である。むしろそれは純粋存在の対極であり、内容のある概念の即自態である。そのように具体的な普遍を捉えるなら、抽象の極限に現れる抽象的普遍は、その無内容のゆえに逆に絶対無に転じる。そして抽象とは、具体から炙り出た具体の本質を指す。したがって具体の無内容に見える存在を純粋存在とするなら、絶対無は純粋存在から抽出される無内容な本質である。すなわち絶対無とは、存在としての自己を廃棄した純粋存在の特殊な本質を言う。この絶対無は、自己自身を純粋本質に転じて残骸と化した純粋存在の自己である。それは存在の無内容な対自態である。それゆえに具体的普遍の純粋概念は、純粋存在を存在とし、絶対無を純粋本質とした具体の全体として現れる。またそのように少しだけ具体的な姿であることにより、純粋概念は純粋存在と絶対無から自己を区別する。普遍と特殊と具体は、それぞれが存在と本質と概念として始まる。しかしそれらの実現する自己は、それぞれ類と種と個別である。その始まりの姿はそれぞれの自己の内容であり、終わりの姿はそれぞれが実現した自己自身の形式である。すなわち普遍は存在として始まる類であり、特殊は本質として始まる種であり、具体は概念として始まる個別である。それゆえに類は具体的内容の薄い普遍的存在を実現し、個別は普遍的内容から外れた具体的概念を実現し、種は両者の中間に特殊な本質を実現する。このような種は、存在しない具体に始まり、普遍的ではない概念に終わる。


・微分と積分、および三分法と四分法

 単純に言えば存在の究極が本質であり、本質の究極が概念であり、概念の究極が理念である。この究極化の運動を無視して言うなら、本質は存在であり、概念は本質であり、理念は概念である。それでは存在は本質であり、本質は概念であり、概念は理念なのかと言えば、言葉が異なる以上、それらは区別される。さしあたり本質は存在から抽出された存在の微分値である。そして概念は本質を集積した積分値である。そして理念は再び概念から抽出された概念の微分値である。ただし理念が概念の微分値にすぎないなら、本質と理念の間に大差は無い。せいぜいそれは物体の微分値が本質であり、観念の微分値が理念であるかの区別に留まる。そしてそのような本質や理念は、目的ではなく手段に留まる。論理の目的は、主語の真を擁立することにある。本質を積分した概念は、部分的真の全体像として自らの目的を体現する。ただしその擁立された目的は、理念の前では手段にすぎない。そのような概念は何かの対象についての目録であり、植物図鑑や電話帳のようなものである。それゆえに次に一覧表式概念に内在する目的が理念として抽出される。ただし抽出されただけの理念は、プラトン式の無力なイデアに留まる。そしてその弁証法も三分法の枠の中にある。それゆえにこの微分値としての理念は、積分を必要とする。この理念の積分を行うのが、四分法の弁証法である。その積分値は理念の全体を成す絶対理念として現れる。それは個々の仕事が円環を成す全体循環である。それゆえに精神現象学における絶対理念も、力を得た国家や共同体の理念として自らを実現していた。


・成と印象と主観

 存在は無の変化において現れる。変化が無ければ存在は存在としての自己を表現しない。したがってその始まりの姿は成である。一方で世界の始まりでは存在と無が区別されない。それゆえに成の変化により現れるのは、存在であるか無であるかも不定である。しかし無は現れないから無である。それゆえにここで現れるのは、やはり存在である。それはただ無と区別されただけの存在である。同様に本質も存在の変化において現れる。ここでも変化が無ければ本質は本質としての自己を表現しない。ここでも変化により現れるのは、本質であるか非本質であるかは不定である。さしあたりその現れは存在と区別される。それゆえにここで現れるのも、やはり本質である。しかしその始まりの本質は印象に留まる。それはただ存在と区別されただけの本質である。同様に概念も本質の変化において現れる。それは抽出された本質に対する概念である。もともと存在から抽出される本質は、存在の部分である。それゆえにここで部分と区別される概念は、部分に対する全体である。そして部分の極限的な抽象は絶対無である。それゆえに概念は、本質の無に対して存在として現れる。しかしそれは本質を綜合した形式的全体にすぎない。この単なる集合にすぎない概念は、本質との比較で概念であるとしても、存在との比較では本質である。したがって存在と本質の間の懸隔は、存在と概念の間でも縮まっていない。そして存在は直接的客観である。この始まりの概念は主観に留まる。


・存在と本質と概念の限定

 無限定な存在の限定は本質を擁立し、無限定な本質の限定は概念を擁立し、無限定な概念の限定は理念を擁立する。擁立された本質や概念や理念は、元の存在や本質や概念の純化した限定存在である。そしてその限定存在は、いずれもが概念の即自態である。したがってそのいずれもが判断として現れる。さしあたり無限定な存在の限定には、無限定な本質が対応する。その内容を伴わない限定は、無内容な名辞による限定を超えない。「AはB」と限定しても、AもBも無内容な判断はそれ自体が無内容である。とは言え主語のAは具体的な対象を指示しており、述語のBはその具体的な内容に該当する。あるいは逆に主語のAが具体的な内容を指示して、述語のBがその対象に該当するかもしれない。しかし内容の限定がまだ存在しないのであれば、やはり主語は具体的な対象から始まる。したがって前者の「対象Aは内容B」が限定存在の直接判断であり、後者の「内容Bは対象C」が表象の反省判断に該当する。反省判断を通じて自立した内容Bは中間辞となり、「対象Aは対象C」の無限定判断を可能にする。ただしここでの対象Cは対象Aと内容Bの全体であり、対象Aの概念である。したがって「対象Aは対象C」の内実は、本質の無条件判断「対象Aは概念C」である。そして当然ながらその反省判断は「概念Cは対象D」となる。それは再び概念Cを中間辞にした「対象Aは対象D」の判断を可能にする。さしあたりこの判断は「対象Aは対象C」と同じ無限定判断である。しかしその無限定は内容を得ている。なぜなら対象Aは概念Cを媒介にして自己に還っており、その自己実現の全体が対象Aの理念になるからである。


・主語と述語と判断における実在の移動

 質を即自態にする存在は、自己を抽象化した量の対自態を経て単位度量の本質に転じる。一方で質と区別されたこの本質の即自態は、存在と区別された無である。その存在を失った本質は、さしあたり印象であり、観念の抽象である。しかし無の絶対性は逆に本質を存在に格上げし、存在を空虚な非存在に転じる。それはそのまま自己の実在化であり、自己自身の非実在化である。そしてこの自己の実在化と自己自身の非実在化が、主語と述語を否定的に統一した判断となる。判断の最初に現れる主語は、名前だけの無限定な存在に過ぎない。このような主語に対して述語が現れると、主語の実在を述語が擁立する。主語は空無と成り、実在するのは述語である。ところが判断の全体は、述語を主語に従属させる。したがって述語の実在も、再び主語に復帰する。ここでの存在は主語と述語の中間辞を成し、主語から述語に移動して再び主語に還る実在を表現する。ただしこの判断の弁証法は、定立した主語に対立する述語を擁立し、両者の相関を通じて主語を限定する形式的な三分法である。しかしこれで実現される判断は独断に留まる。このような独断に判断の真は問われない。それゆえに判断は再び自己の独断を抜け出し、述語に代わる根拠を別の独断に求めざるを得ない。このように或る独断を別の独断により根拠づける判断は、判断ではなく推論である。ただし根拠となる独断をどこまでも追い続ける限り、その無限反復は推論を独断のままにする。ところが根拠の独断が、根拠づける独断の主語を擁立するなら、独断は整合する。単純に言えばAがBであり、BがAであるなら、AはAである。そしてその真のゆえにAはBとなる。この四分法の弁証法は推論の根拠問題を解決し、数学的な形式的三段論法に代わって現実世界の事象を説明する有効な論理の在り方を提示する。それは媒介を通じて自己を実現する生命の論理となっている。しかし整合した論理の円環さえあれば、独断が真理となるのは妙である。それは観念のレトリックであり、根無し草の理屈である。この空虚感をもたらすのは、推論の中間辞が体現するA=Aの観念的等式にある。そしてこの得をしたのか損をしたのか判らないような観念の弁証法に対する憤慨が、哲学世界を共産主義と実存主義に連繋させた。


・各種の限定形態

 存在論と本質論と概念論のそれぞれで主語の限定は異なって現れる。それというのも主語を限定するのは述語であり、述語は反省された主語の本質である。存在論で限定を語る場合、そもそも主語の本質は前提されるだけで現れていない。それは成としてのみ語られただけである。同様の事情は本質論にも該当し、主語の本質は、主語と区別されて現れた主観的印象に留まる。これらに対して概念論において、ようやく主語の本質は述語として現れる。すなわち概念論における主語の限定は判断である。ただし判断をその短文で切り出された姿だけ言えば、判断は常に無条件な独断である。そして独断が自らの独断を反省する限り、独断は仮言でなければならない。さらに独断が自らの仮言を反省する限り、独断は推論である。すなわち独断の無条件判断は、実際には常に推論である。したがって存在限定「~がある」も、実際には推論である。それは本質の無条件判断であり、反省の究極にようやく現れる定言である。概念論においてその推論の根拠は無の自己同一であり、思惟の無に対して主語の実在を確信する。この概念論と違い、存在論では無条件な存在限定「~がある」は無自覚に先行する。それは存在論における判断が、自らの推論を推論として自覚しないことに従う。またそれゆえに存在論の限定存在は、何か或る実在する個物Etwasとして現れる。これに対して本質論の限定存在は、「~が無い」で存在限定された無である。本質論の主語は個物から思惟に移っており、個物の実在に対して思惟が自己の無を実在として反省する。ただしそれは個物の実在判断と違い、思惟の自己同等判断である。結果的に実在は思惟と個物の二方向に分裂し、思惟はその非同一だけを確認する。さしあたりここでの主語と述語は、どちらかが表象された思惟であり、どちらかが個物の物体である。それは「主語は述語」の判断の普遍的形式に転じる。ここには明らかに推論が含まれるが、カント式不可知論では推論を排除する。ところがそれだとそもそも「主語-述語」の判断一般が成立できない。それは文章の不成立に繋がる奇怪な事態である。


・限定存在の直接判断

 「AはB」の直接判断における主語と述語は、それぞれ存在とその本質、または具体とその普遍を体現する。ただし存在論ではまだ本質も普遍も語られないので、「AはB」における主語と述語は、それぞれ主語となる対象とその質に留まり、その直接判断も対象と質の結合を語るだけである。そして存在の始まりではまだ質も判断も語られないので、「AはB」における主語と述語は、異なる二者の単に恣意的な区別を示すだけであり、その直接判断の結合も恣意的な二者の一体化を語るだけである。とは言え既にここでの判断は、主語Aを媒介Bを通じて概念Aに自己復帰させている。さしあたり媒介Bは、無内容な主語Aの恣意的限定である。そこでBはAの質として現れる。例えば「この人は田中さんである」との判断では、「田中さん」は「この人」の質である。もちろん「田中さん」も「この人」もほとんど無内容な限定なので、この判断も同程度に無内容な判断になる。この名辞限定に比べれば「この人は背が高い」との判断は、「この人」がどのような質を持つか明瞭である。しかし背の高さのような質限定は、空間認識の経験的蓄積を前提する。したがって無内容な「この人は田中さん」の名辞的限定の方が、むしろ背の高さのような質限定に先行する。すなわちそれは「これはあれである」の直接判断である。しかし名辞的限定の主語と述語は、登場順序のほかに両者の差異をもたない。それゆえに主語と述語は、それぞれ本質とその存在、または普遍とその具体を体現するとしても変わらない。直接判断「これはあれである」は、「あれはこれである」に容易に転じる。この主語と述語の単純な同一は、無内容な同一律である。


・本質の反省判断

 「AはB」の直接判断における主語と述語は、その差異において対立する。それゆえに端的に言って主語が存在を体現するなら、それと区別される述語は無でなければいけない。ただし存在論においてこの述語の抽象的普遍はまだ表面化しない。さしあたり主語は対象の即自態なので、述語はその対外的現れに留まる。そしてこの述語の対他存在は、具体である主語の抽象である。言い換えればそれは、反省された主語の表象である。直接判断においてAがBに転じると、存在Aは既に存在Aではない。したがって存在Aが表象Bに転じると、Aの存在も無に転じる。しかしその帰結は、直接的判断「AはB」を「AはAではない」に帰結させる。そしてこの帰結は、明らかに矛盾である。この矛盾に対して一覧表式悟性は、「AはB」を廃棄して「AはA」「BはB」に固執させる。しかしその無内容な絶対的真理は、「存在は存在」「本質は本質」、または「物体は物体」「観念は観念」、「具体は具体」「普遍は普遍」を述べるだけの空虚な定言である。それゆえにこの悟性の固執は、むしろ自らの判断を推論だと自覚させる。すなわちこの「AはB」の直接判断は、仮言判断である。あるいはその命題は仮説にすぎないと言っても良い。ただし質限定の場合と同じく、相変わらず存在論において仮説の自覚は成立しない。それは肯定判断「AはB」の逆方向に、否定判断「BはAではない」を生むだけである。しかし本質論における直接判断に対する仮説の自覚は、「AはBではない」の矛盾律に転じる。なおこの矛盾律はAとBが異なるなら、実際には矛盾ではない。その本来の姿は「AはAではない」の矛盾律である。主語が主語と異なる述語に転じる場合、述語は主語の特殊な姿である。このことは主語が具体でも普遍でも変わらない。いずれにおいても述語は主語の特殊である。


・概念の形式判断

 直接判断「AはB」は、反省においてAをBに純化し、その純化においてAをAならぬものに転じる。ところがその判断の全体では相変わらずAはBを媒介にしただけでAのまま変わらない。すなわちAはBに転じることでAとなる。このような判断は、反省において現れる否定判断「BはAではない」を否定する。この否定は反省判断「AはB」におけるAのBへの純化の否定でもある。そしてこの純化の否定は、直接判断「AはB」をその始元の成に引き戻す。すなわち主語と述語は異なる表象であり、異なる表象でありながら一つの存在へと排他的に統一する。ただしこの排他的統一は、始まりの成と区別される。すなわちその排他的統一は、始まりの存在ではない。この判断に現れるAは、主語Aの概念である。とは言え「AはB」を単にAとBの排他的統一だと示しても、存在と概念はどちらも成であり、両者の区別が再び消失してしまう。ここに問われるのは、AとBの排他的統一の境界である。それは存在と本質の境界であり、具体と普遍の境界であり、個物と抽象の境界であり、全体と部分の境界であり、物体と観念の境界である。それらは端的に言うと、存在が無に転じる限界である。その限界を超えてAがBに転じるのを示すことにより、無内容な主語Aは概念Aに転じる。ここでAとBを限定するこの限界は、AとBの限定を根拠づける。それは両者の矛盾と対立が消失する特殊を表現する。直接判断「AはB」においてAとBを限定するこの限界は、二者を限定する形式である。


・主観の価値判断

 形式を通じてAとBの差異は量化する。それはAとBのそれぞれを、限界の前後における概念Aの量的差異に転じる。これにより「存在Aは本質B」で始まった直接判断も、形式のもとで「概念Aは本質B」の形式判断に転じる。ここでの主語Aは、既に存在ではなく概念である。そして概念はもともと本質を包括する。もともと主語が包括する述語を主語と結合しても、その判断は直接判断に留まる。例えば「この魚は左半身に目が寄っている」と言おうと、「ヒラメは左半身に目が寄っている」と言おうと、どちらも主語の質を語るだけである。ところが概念の質は、理念である。それは存在の質と異なる。形式を通じた差異の量化が表現する質は、概念Aに対する形式整合性である。その質とは、形式整合する主語概念に対する主観的評価である。言い換えるとそれは主語の価値である。したがって概念における本質の反省判断も、概念Aに対する主観の価値判断として現れる。ここで主語Aに対して結合される質は、美であり、善であり、真である。概念Aはこれらの質を包括するにせよ、その根拠である限界は概念Aの他者である。すなわち「Aは美しい」「Aは悪い」「Aは虚偽である」との主観的評価の根拠は、Aの理念としてAの存在の外側にある。Aは自らの理念と照らし合わせて、美であり、善であり、真である。このうち美的判断は主観の感性を根拠にするのに対し、善の倫理判断は経験的悟性を根拠にし、真偽判断は理性を根拠にする。そしていずれの判断においても、その根拠に従う判断は推論である。しかし感性や経験的悟性の根拠は、恣意的偶然を含む。これに対して理性の真偽判断は、この恣意的偶然を根拠から排除する。それゆえにその根拠に従う推論は、必然である。


・質の量化

 判断において主語は述語である。ところが主語と述語は異なるので、主語は述語ではない。この矛盾はもともと思惟の対自において自己と自己自身の間に起きている。即自態の自己は自己自身を外化することで自らを廃し、自己自身に対自する対自態の自己に転じる。即自態の自己は、外化した自己自身と区別される。すなわち自己は自己自身ではない。しかもその即自態の自己は廃棄されている。一方で対自する自己にとって、自己自身は既に自己の即自態である。対自態の自己は即自態の自己自身を包括しており、自己自身は自己の一部を成す。ここでも即自態の自己自身は、外化した自己と区別される。すなわち自己自身は自己ではない。自己を否定した自己自身を否定することにより、即自態の自己は対自態の自己に回帰している。ここでの即自態の自己と自己自身、および対自態の自己は、それぞれ区別された質である。しかし内包関係を言えば、それぞれが先行する自己自身を包括する自己である。そのような自己の質を自己の本質とするなら、それらの自己に差異は無い。これらの自己の差異は、自己自身の内包量において区別されるだけとなる。自己における自己自身の包括は、自己の形式である。そして内包量を成す自己自身は、自己の質料である。


・限定の根拠

 限定は根拠を前提する。そしてその根拠が限定存在であるなら、根拠の前提は無限に遡及する。したがってその始点となる限定の根拠は、無限定な存在でなければいけない。この無限定存在は、その根拠を問えないと前提される。つまり無限定存在は、ただ無内容な純粋存在である。そのように存在論における無限定存在は、対象の存在を超えない。すなわち存在が対象の根拠であり、質料である。ところが根拠を問えないにもかかわらず、その対自において存在に対し、本質論では非存在が前提に現れる。すなわち存在は無を根拠にする。しかしこの無が前提するのも存在であり、存在と無は相互に相手を前提する。この両者の相互限定は、自己と自己自身の相関と同じものである。それゆえにこの相互限定は、それ自身が存在の形式であり、存在と無を限定する根拠である。ここで量化して現れる存在の本質は、やはり成である。ただしその成は、存在論における存在の端点にすぎない成ではない。それは自己廃棄で擁立した無を媒介にして自己を擁立する存在の成である。その成は判断における独断の廃棄であり、独断の無根拠を根拠にして推論を擁立する。


・無限定存在の定言的推論(第一格)

 直接判断「AはB」が自己の独断の真を示す場合、この判断の自己は、自己自身に対自する思惟となる。そしてこの自己自身と自己の分裂が、そのまま直接判断「AはB」の分裂となる。元のAとBの単純な相互限定は、AとBのいずれかを根拠にする独断でしかない。それゆえにこの分裂の必要は、この独断を回避する正当な第三者を必要とする。それは、AとBの両者を限定する他者であり、主語と述語の両方を量化して比較するための手段でもある。そのように直接判断「AはB」は、AとBの中間辞に他者Cを擁立することにより自らを推論と成す。すなわち無限定な直接判断「AはB」は、「AはC」[CはB]に自己を分裂し、そのことで自らを推論の定言的結論「AはB」に転じる。中間辞のCは推論の根拠であり、「AはC」「CはB」は推論の小前提と大前提を構成する。これにより「AはC、CはB、ゆえにAはB」の三段論法が誕生する。この直接判断の二つの前提命題への分裂は、推論の形式である。そして媒介の中間辞Cは、根拠となる推論の質料である。この形式と質料が一体となって推論の内容を成す。しかしこの三段論法は、限定の根拠を独断の他者として擁立するだけの形式的推論である。その反省は本質を非本質に恣意的結合しただけの外的反省にすぎない。


・定言的推論の大前提の根拠(第二格)

 「具体-特殊-普遍」の三段論法を構成する大前提「特殊は普遍」について形式的推論を加えると、その三段論法の中間辞に特殊と普遍と異なる他者が充当する。ただしその他者は中間辞なので、特殊と普遍に共通な質料でもある。この条件に該当する中間辞は具体しかなく、その三段論法も第二格の推論「特殊-具体-普遍」となる。この推論は中間辞の具体を媒介にした特殊と普遍の否定的統一である。それは特殊の具体例を媒介にした特殊の普遍化である。その大前提「具体は普遍」は、定言的推論の三段論法の結論であり、定言的推論が推論に転じる前の最初の独断のまま変わらない。その独断は具体を定義するが、さしあたり具体の名称決定に留まる。したがって「特殊は普遍」の推論を根拠づけるのは、小前提「特殊は具体」である。ところが「具体は特殊」と違い、「特殊は具体」は主語述語の包括関係が逆転している。この不自然が示すのは、「特殊は具体」における具体の具体性である。すなわちここでの具体は、無内容な具体と異なる具体である。言うなればそれは、内容を持つ普遍的具体、あるいは具体的普遍である。それゆえにこの小前提の内実は、「抽象的特殊は具体的普遍」である。つまり小前提「特殊は具体」は、内容を持つ具体により特殊を限定する。それは特殊の具体化、または種の具体化を言い表わす。例えばそれは「ライオンはこれである」と主語の具体例を示す。そして第二格の推論は、具体例を媒介にして特殊を普遍に結合し、「ライオンは哺乳類」と推論する。ここで推論が媒介するのは、特殊の含む具体である。そして媒介であるゆえにその具体は廃棄され、特殊を普遍に転じる。


・定言的推論の小前提の根拠(第三格)

 上記と同様に「具体-特殊-普遍」の三段論法を構成する小前提「具体は特殊」について形式的推論を加えると、その三段論法の中間辞に具体と特殊と異なる他者が充当する。ここでも具体と特殊と異なる他者が中間辞に充当し、具体と特殊に共通な質料となる。この条件に該当する中間辞は普遍であり、その三段論法も第三格の推論「具体-普遍-特殊」となる。この推論は中間辞の普遍を媒介にした具体と特殊の否定的統一である。それは具体の類例を媒介にした具体の特殊化である。その小前提「具体は普遍」は、定言的推論が推論に転じる前の最初の独断であり、さしあたり具体の名称決定に留まる。ここでも「具体は特殊」の推論を根拠づけるのは、大前提「普遍は特殊」である。そして先の「特殊は具体」と同様にこの「普遍は特殊」も、主語述語の包括関係が逆転している。ここでの不自然も、「普遍は特殊」における特殊の具体性に従う。それゆえにこの大前提の内実は、「抽象的普遍は具体的特殊」である。つまり大前提「普遍は特殊」は、内容を持つ特殊により普遍を限定する。それは普遍の具体化、または類の具体化である。それは「哺乳類は例えばライオンである」と主語の類例を示す。そして第三格の推論は、類例を媒介にして具体を特殊に結合し、「これはライオン」と推論する。ここで推論を媒介するのは、特殊の含む普遍である。そして媒介であるゆえにその普遍は廃棄され、具体を特殊に転じる。内容を言えば第二格は類を推論し、第三格は種を推論する。しかし第二格の類は、抽象されただけの類に過ぎない。むしろ第三格の種の方が、具体的な類に該当する。


・第二格における根拠の量化

 独断を形式的推論が根拠づけ、その形式的推論を第二格と第三格の推論が根拠づける。そして第二格と第三格の推論を根拠づけるのは、それぞれの中間辞の具体と普遍である。具体と特殊と普遍は、それぞれ個別と種と類に該当する。それゆえに第二格の推論は、主語の種と述語の類の結合である。しかしそれは実際には二つの種の結合にすぎない。ただその結合形式において主語を種とし、述語を類に扱う。この結合形式の恣意は、第一格の小前提と大前提にも共通する。すなわち第一格における個別と種と類は三つの具体の結合にすぎない。さしあたり主語と述語の区別により、個別と種と類の包括関係を決定するだけである。この包括関係の決定だけを言えば、第一格の小命題「具体は特殊」と大命題「特殊は普遍」は同じ恣意的な包括関係の決定である。そしてそれゆえに恣意的な包括関係を根拠づける第二格が、第一格の根拠となっている。第二格における推論は、中間辞に具体を擁立することで、特殊と普遍を一体化する。それは本質と概念を存在に還元し、同一化する。ここでの存在は物体であり、質料である。本質と概念は、その質料の量的小において区別される。すなわち本質を存在と区別するのはその観念性であり、本質よりさらに非物体なのが概念である。それゆえに第二格の中間辞である存在は、物体の構成単位として現れる。すなわちそれは原子である。なおライプニッツ式単子は素粒子の質的差異を極小化しただけなので、原子と区別される。ここでの本質と概念は、その物理的構成単位の量的により大きな包括単位にすぎない。第一格の形式的三段論法は、この質を度外視した量により実現する推論である。これに対して第二格の推論は、第一格を根拠づける蓋然的推論となる。ただし上述のようにこの推論は、主語と述語の結合形式に恣意を残す。


・反省の蓋然的推論

 定言判断「具体は普遍」を根拠づけるのは、推論「具体-特殊-普遍」である。そしてこの推論を根拠づけるのは、小命題「具体-特殊」と大命題「特殊-普遍」である。さらにそれらを根拠づけるのは、推論「具体-普遍-特殊」と「特殊-具体-普遍」である。ところがそれらの推論を根拠づける大小命題は、やはり定言判断「具体は普遍」である。したがって結論の根拠を目指したはずの限定存在の定言的推論は、結論を前提にした堂々巡りに終わる。そしてこの堂々巡りに対する反省が、推論第二格と第三格における大小命題から「具体は普遍」を除外した残りの大小命題の恣意的自立を促す。それは推論第三格の大前提「普遍-特殊」と推論第二格の小前提「特殊は具体」の自立である。このそれぞれの前提命題に対してさらに形式的推論を加えると、それぞれ中間辞に具体を擁立した「普遍-具体-特殊」と中間辞に普遍を擁立した「特殊-普遍-具体」に転じる。しかしいずれの独断でも含まれるのは、主語と述語に「普遍は具体」の包括関係の逆転である。それゆえにこの前提命題の自立は、「普遍は具体」の恣意的独断に極限できる。ところがもともと推論が根拠にする判断は「具体は普遍」なので、根拠問題を解決するために「普遍は具体」を自立させるのは、命題の根拠関係の逆転である。それは新たな根拠命題「普遍は具体」が、元の根拠命題「具体は普遍」を根拠づける矛盾である。そして矛盾であるからこそ、「普遍は具体」は独断に留まる。ただしこの矛盾は「普遍は具体」を具体的に「哺乳類はこれである」と示すよりも、「哺乳類はライオンである」と示す方が明快になる。この包括関係の逆転と矛盾は、ライオンではない哺乳類の存在を通じて露呈するからである。この新たな独断は、本質に対する存在の量的大に従う。言い換えるとそれは経験に従う推論の根拠づけである。すなわちこの反省された推論は、推論の根拠を帰納により擁立する独断である。言い換えればそれは、存在による本質の根拠づけである。そしてこの存在による本質の根拠づけは、本質による概念の根拠づけにも派生する。それは本質を根拠にした概念の類比的推論である。しかし帰納も類比も経験的推論にすぎない。それらの推論は、いずれも蓋然に留まる。単純に言えば存在は本質ではなく、本質は概念ではないからである。


・第三格における根拠の実現

 第三格の推論は中間辞に概念を擁立することにより、具体と特殊を一体化する。すなわちそれは存在と本質を概念に還元し、同一化する。ここでの概念は思惟であり、形式である。本質と概念は、その形式の質的小において区別される。言い換えると本質と概念の区別は、形式の内容量に依存する。したがって存在と本質も、その形式の比較的無内容において概念と区別される。この区別は概念を全体とし、本質を概念の構成部分に扱う。そして存在は本質を構成する最も無内容な下位概念となる。つまり概念に比してより無内容な概念が本質であり、さらに端的に無内容な概念が存在として現れる。それゆえにこの三者の包括関係は、さしあたり恣意とならない。先に見た第二格の経験的蓋然は、その恣意的な三者の包括関係に従う。しかしこのことがむしろ露わにするのは、正当な三者の包括関係が、第二格の経験的蓋然を必然に変えることである。このことから第二格の推論の根拠に、第三格の推論が現れる。すなわち独断に留まる第二格を根拠づけるのは、第三格の推論である。ただし存在と本質と概念の形式的包括関係は、その全体と部分が先験的包括を外れる場合、再び恣意に転じる。それは部分が全体に転じ、全体が部分に転じる場合である。このときに根拠規定もまた自己の必然を廃して、自由に転じる。


・概念の必然的推論

 第二格の推論がもたらす経験的独断への反省は、全体が部分を包括する先験的独断に回帰する。ここで第三格が擁立する独断は、第二格と同じ「普遍は特殊」「特殊は具体」である。それらは煎じ詰めて言えば「普遍は具体」であった。しかし「普遍は具体」に対して根拠を問う形式的推論を加えると、「普遍-特殊-具体」の三段論法が生じる。ここでは第三格の大前提「普遍-特殊」と推論第二格の小前提「特殊は具体」が癒合しており、さしあたり推論第二格の蓋然的独断も形式的に回避される。この推論が前提するのは、特殊に対する普遍の抽象的実在であり、具体に対する特殊の抽象的実在である。その実在は純粋本質と純粋概念としてあらかじめ擁立されている。ただしそれらは名前だけの実在であり、純粋である以上の内容をほとんど持たない。この無内容な普遍が特殊を包括する場合、その根拠に具体が必要となる。同じことは無内容な特殊が具体を包括する場合にも該当し、その根拠に普遍が必要となる。いずれにおいてもその根拠は、無内容な主語を限定するより具体的な具体であり、より具体的な普遍である。そこでこの無内容な主語を限定するより具体的な存在は、条件として現れる。またそうでなければ「普遍は特殊」「特殊は具体」の逆転した量的包括は、第三格の推論を第二格の蓋然に留める。したがってそれは「普遍は特殊」を或る具体を条件にして真とし、「特殊は具体」を或る普遍を条件にして真とする。そしてこの仮言による主語の限定が、無内容な主語の述語に対する質的大を宣言する。またそうでなければ、無内容な主語の述語に対する量的小が、各命題に対して独断の恣意を残してしまう。ここで仮言の条件に現れる具体や普遍は、述語と一体化して主語の局面的本質を形成する。例えば「哺乳類はライオンである」の蓋然的推論は、「哺乳類はこれこれのライオンである」と現れることで、推論の蓋然を廃棄する。それと言うのも「これこれのライオン」は、主語の局面的本質だからである。そしてこの局面的本質は、そのまま主語の部分を成す。そしてこの局面的本質の綜合が、主語の概念を成す。すなわち「哺乳類はこれこれのキツネである」「哺乳類はこれこれのタヌキである」などの全体限定が、主語の「哺乳類」を表現する。全体限定に転じた部分限定は、仮言を選言にする。この選言の推論は、全体が部分を包括する先験的独断を根拠にした必然的推論である。


・完全な根拠

 判断の真が主語と述語の他者であるなら、その他者は判断の根拠である。このときの判断は、根拠を迂回した推論の結論部分に相当する。この迂回ではまず主語の本質が抽出され、次にその本質を束ねた概念が主語に復帰する。それは主語の部分への分散であり、分散した部分の全体への回復である。その単純な姿は、主語の否定に始まり、その否定を否定する二重否定である。ここでの判断の根拠は、最初に主語ではなく本質である。しかしその本質も否定されて根拠は概念に移る。ところが概念は自己復帰した主語なので、根拠はもともと主語の内にある。しかし根拠をもともと主語の内に措くと、この主語の自己展開は静止する。逆に根拠を主語の外に措いたままにすると、判断は主語に回帰できない。主語の外にある根拠に対してさらに根拠の抽出を加えても、主語の部分への分散が虚しく無限進行する。その判断は主語を述語に移動するだけであり、判断全体を無内容な主語の名称変更に転じる。推論はこの無内容な名称変更に対抗する反省である。それゆえに推論は、判断の分散の綜合に帰結する。しかしこの推論は、本質の一覧表を概念として擁立するだけの虚しい思惟の運動ではない。それは主語の自己展開において、主語が自己を維持する主語の仕事である。そのような推論である限りで、推論はその根拠を含めて自己を完結する。このときの根拠は、原因であるとともに結果である完全な根拠である。その根拠は自らが必然である。それゆえに完全な根拠は、必然から自由である。この自由は根拠を無限定にし、それを無限定者にする。ただしこの無限定者は、虚しく判断の彼岸に見え隠れした本質の無限定者ではなく、概念の無限定者である。

(2022/08/30) 続く⇒(存在論・本質論・概念論の各第二章の対応)


ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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