goo blog サービス終了のお知らせ 

唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第一編 第二章 D 概念の判断)

2022-04-03 17:48:13 | ヘーゲル大論理学概念論

 概念の自己実現は、肯定判断における述語の二重否定、単称判断における主語の二重否定に続き、さらに判断の単一限定の二重否定を通じて無条件な本質判断を選言判断に導いた。それがたどり着く判断は、無条件な一覧表的悟性である。しかしそれは普遍の諸関係の欠落に満足する主観である。これに対して客観は、次に主観を廃棄した主語と述語の同一を目指す。さしあたり主観は個物を主語とし、直観を述語とする。しかしその主語と述語の非同一は、やはり特称判断である。それゆえに悪無限を避ける判断の運動は、さらなる述語と主語の二重否定を放棄し、主観の二重否定に進む。ここで主語と述語の非同一が最初に否定するのは、選言判断における価値の直接限定である。それは主語との関係を述語に直観で現す。それは主観においてのみ充実した価値である。しかしその述語の価値は、元の直観に対して否定的な反省と入れ替わる。このときの価値は、直観とそれに否定的な反省を包括する表象である。ところがその包括的価値は、相変わらず主語と述語を無限定に同一にしない蓋然である。そこでその主語と述語の非同一は、この蓋然的価値を否定し、普遍化した包括的価値を擁立する。この普遍化した包括的価値では、主語の具体的普遍と述語の価値は無限定に同一である。その判断は客観化した主観であり、かつ主体化した客体である。これにより客観と主体が一体化し、判断は推論に転じる。

[第三巻概念論第一編「主観性」第二章「判断」D「概念の判断」の概要]

 無条件な本質判断から推移した概念判断の論述部位
・概念の主観判断の全容
 -実然判断 …美の直接的価値判断。個物を対象にした直観の主観的断言。
 -蓋然判断 …善の反省的価値判断。表象を対象にした悟性の主観的断言。
 -必然判断 …真の本質的価値判断。概念を対象にした理性の主観的断言
・推論    …必然判断が回復する主語と述語の完全な一致。


1)概念の主観判断

 選言判断による概念の擁立は、判断に対してまずその述語の普遍に概念を充当させる。その述語が表現するのは、概念に対する主語の適合である。このときにその適合は判断において、あたかも主語の属性のように現れる。例えばそれは “薔薇は美しい”とか“ソクラテスは良い人だ”とか“彼の意見は正しい”の美醜・善悪・真偽の価値判断である。この概念の判断は、様相の判断だと受け取られている。この様相の判断が論じるのは、主語述語関係の外的悟性における現実性・可能性・必然性である。そしてその繋辞に現れる価値が考察するのは、観念に対する関係だけである。その現実性・可能性・必然性は、それぞれ様相の判断を実然判断・蓋然判断・必然判断として現す。様相は外的属性全体の否定的統一であり、属性全体の外的反省である。そしてその外的反省を媒介するのが、外的悟性である。しかしその統一は、定言において具体を否定しただけの抽象的普遍である。あるいはせいぜいそれは、仮言において抽象的普遍を否定しただけの特殊な普遍である。それはいずれにおいても主観に留まる。それに対して概念の統一は、選言判断において抽象を否定した具体的普遍であり、すなわち客観である。そしてこのことは、概念の判断より以前の判断の全てに該当する。すなわちそれらの判断は、いずれも主観的なものであった。ただし具体的普遍としての概念は、そのままでは表象であり、やはり外的反省である。なぜなら選言において実現したように見えた全体は、具体の単なる寄せ集めだからである。そのような統一は、具体的概念として未完成である。当然ながらこの未完成は、選言において同一化した主語と述語を再び非同一にする。それゆえにその主語と述語は、分離において同一化すべきである。ここで分離するのは、選言判断が擁立した具体的普遍の自己自身と自己である。それらは概念判断において主語と述語に分離し、繋辞が統一する。ただしそこに現れる断言は、あからさまに主観を超えられない。それゆえにそれが次に目指すのは、判断の推論への転化である。実然判断・蓋然判断・必然判断は、その推理の開始を告げるものであり、かつ分離の諸契機として現れる。


2)実然判断

 概念の判断は、対象の価値を良し悪しとして表現する。それは例えば“この薔薇は美しい”とか“この薔薇は良い”とか“この薔薇は正しい”とかの各種の価値判断として現れる。その先鞭となる。実然判断は、具体的な限定存在すなわち個物を対象にした直観の主観的断言である。それは感覚的な個物に対する感情判断である。端的に言うとそれは“薔薇は美しい”の美的判断である。ここでの概念は、肯定判断の主語において即自態で現れる感性的美の表象である。その述語の好評価は主語に対する感性的賞賛であり、悪評価はその逆である。その評価は主語の普遍的本性として自らを擁立する。そこでその評価は、あたかも主語の属性の如く現れる。しかしそれは、選言判断が擁立する主語の概念に無関心な外的実存である。したがってその普遍的本性は特殊な本性であり、どちらかと言えば恣意である。ただしその普遍的本性は類の否定的原理であり、主語を種に特殊化させる。実然判断の主観性は、主語と述語の即自的連関が擁立されていない偶然であることに従う。この偶然は判断における主語と述語の結合を或る場合に適合させ、或る場合に適合させない。それゆえに実然判断は、本来的に蓋然判断である。


3)蓋然判断

 蓋然判断は、特殊な反省すなわち表象を対象にした悟性の主観的断言である。それは反省された表象に対する良し悪しの判断である。端的に言うとそれは“この薔薇は良い”の倫理判断である。とは言え“この薔薇”の良さを言い得るためには、対象の良し悪しを決める属性条件を必要とする。ただしその倫理価値が感覚的個物の美醜にあるなら、その倫理判断は単なる実然判断である。逆にその倫理価値が概念の真偽にあるなら、その価値判断は既に必然判断である。それらに対してここでの概念は、肯定判断の主語において対自態で現れた悟性的善の本質である。その述語の好評価は主語に対する悟性的許容であり、悪評価はその逆である。その評価は、或る場合には主語の属性の如く現れ、そうでない場合には主語が有する属性と異なる普遍的本性を現す。しかしその不安定な評価は、自らを主語の特殊な本性として擁立する。そしてその特殊な本性は、主語の概念に対する関係を直に限定する。このような蓋然判断は、特称判断であり仮言判断でもある。それゆえにこの判断は、選言判断が擁立する主語の概念に無関心ではない。したがってここでの特殊な本性は、既に具体的な普遍でもある。それは種の否定的原理でもあり、主語をより個物に具体化させる。その否定的統一は、概念ではなく様相である。この蓋然判断の部分的な客観性は、主語と述語の対自的連関が或る場合に擁立される必然であることに従う。またそうでなければ、主語は単なる普遍にすぎない。このような蓋然判断は、肯定的とも、否定的とも受け取られる主観に留まる。ところがこの蓋然は、個物の判断における主語と述語の結合の普遍的姿である。それゆえに実然判断は、本来的に必然判断である。


4)必然判断

 必然判断は、普遍的な必然すなわち概念を対象にした理性の主観的断言である。それは擁立された概念に対する正誤判断である。端的に言うとそれは“この薔薇は正しい”の真偽判断である。とは言え主語の“この薔薇”の正しさを言い得るためには、主語と概念の一致を決める根拠を必要とする。それは対象の真偽を決める本質属性を含む具体的普遍である。ただしその真偽が表象の良し悪しを決めるだけなら、その真偽は蓋然である。ここでの概念は、肯定判断の主語において即自対自態で現れる理性的真理の具体的普遍である。その内容は一方で客観的普遍の類であり、他方でその具体として擁立される。それゆえに主語は、その類と具体を統一した事Sacheとしてある。一方の述語の普遍を構成するのは、肯定判断における主語との一致である。それは自らを主語の具体的な本性として擁立する。その述語の好評価は主語に対する理性的承認であり、悪評価はその逆である。ただしいずれにせよその評価は、主語が有する属性と異なる普遍的本性を現す。その定言判断は、選言判断が擁立する主語の概念に普遍的に関わる。それゆえにその普遍的本性は具体的普遍であり、個物の否定的原理である。それは主語の特定の概念、あるいは主語自体を否定する。したがってそれは他者への反省であり、主語はその根拠である。つまりその判断は必然である。


 4a)判断の推論への推移

 必然判断において主語と述語の内容は、即自的に同一である。ここでの主語は自己自身の具体的普遍を他者として反省し、その対自反省関係を述語の中に擁立する。したがってその述語は、普遍に対する主語の関係だけを内容とする。例えば“この薔薇は正しい”の“この薔薇”と“正しい”の内容は即自的に同一である。“この薔薇”は自己自身の類としての薔薇を他者として反省し、“この薔薇”と類としての薔薇の関係を述語“正しい”の中に擁立する。したがってその“正しい”は、普遍の薔薇に対する“この薔薇”の関係だけを内容とする。選言判断において概念の全体は、述語の中に擁立された具体的普遍である。そして必然判断の主語は、この選言判断が擁立した概念の全体である。ところが必然判断において、具体的普遍は判断の他者である。そして述語は、擁立された主語と他者の二つの普遍の関係である。一方で判断の形式は、主語を具体とし述語を普遍としていた。したがって必然判断における主語と述語は、この判断の形式を離れている。他方で選言判断において主語と述語は一致していなかった。しかし必然判断において主語と述語は完全な一致を回復する。必然判断の客観性は、この主語述語の対自的連関の普遍的な擁立に従う。ただし必然判断は、主語の普遍を他者の具体的普遍と区別してもいる。それゆえに主語の普遍は主観的なだけの普遍であり、もしくは単なる特殊である。とは言え主語と述語の内容的同一は、反対に主語の普遍または特殊に限定力を擁立する。この限定力は、主語述語の対自的連関を内に含む内容を得た判断の繋辞に現れる。このような必然判断は既に推論である。

(2021/11/13) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第三章 A) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第二章 C)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


唯物論者:記事一覧


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヘーゲル大論理学概念論 解... | トップ | ヘーゲル大論理学概念論 解... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

ヘーゲル大論理学概念論」カテゴリの最新記事