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唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第二編 第二章 化合観)

2022-04-03 20:46:12 | ヘーゲル大論理学概念論

 推論の第一格が擁立する機械観は、三段論法の客観的機械論の総体にすぎない。それゆえにその含む個別の推論は相互に対立する。そこでその内面的な統一を推論の第二格が充当する。第一格が擁立した中間辞が具体と普遍を橋渡す特殊であったのに対し、第二格が擁立する中間辞は特殊と普遍を橋渡す個別である。それは具体を融解して現れた元素であり、元素を通じて機械論の特殊は普遍に包括される。これにより機械論の総体は、諸元素が化合する特殊な客観の総体に転じる。しかしそれが現す化合観は、空虚な元素の抽象的諸関係に留まる。結局ここで問題になるのは、外面的機械がどのように内面的自律を始めるのか、すなわち物体からどのように意識が生まれるのかの説明である。

[第三巻概念論第二編「客観性」第二章「化合観」の概要]

 対立する諸客観を元素の抽象的諸関係に普遍化する論述部位
・化合観
 ‐化合      …機械観が擁立した諸原理の融合。
 ‐直接的化合過程 …並存するだけの親和における情報伝達を通じた中和。
 ‐実在的化合過程 …中和した客観における元素の分裂と純化。
 ‐化合客観の対自 …機械的普遍に対する自由な個別の差異の露呈
 ‐目的      …普遍の外面的原因と異なる個別の内面的原因


1)対立する客観の化合

 機械観が無限定な直接的客観の全体として始まるのと違い、化合観は機械観が限定し擁立した全体として始まる。この点で機械観における各個別が限定に無関心なのと違い、化合観における各個別は機械観が限定した普遍の特殊化に進む。その特殊化は、原理による実存の包摂として現れる。ここで原理が自らに対立する外面的実存を包摂するのは、原理自らの内的全体としての即自に従う。ちなみにここでの特殊化は、化学的化合だけでなく、気象学の物理や生物の生殖、または愛や友情なども含む。そこで機械的客観の反省が対他であったのに対し、化合する客観の反省は対自となる。このことは化合する客観に、外部関係を形式的抽象的普遍として捉えさせ、それを直接的客観と実存の関係、すなわち個別とその特殊の関係と理解させる。しかしそれはまた限定存在の限定を廃棄し、実在する類を擁立する端緒である。このことは直接的客観自らを自発的な化合に向かわせる。


2)直接的化合過程

 さしあたり並存する直接的客観は互いを推論の二項ではなく、判断の二項として親和する。さしあたりそれは、対立の無い物同士の外面的な機械論的結合である。その中間辞は、二項の全体である。しかしその全体において補足し合う二項は、対立する実存である。それゆえに二項は共に、異なるままに結合しなければいけない。そこで二項は、中間辞に特殊な媒体を擁立する。そしてその特殊な中間辞を通じて二項は伝達し合う。伝達が二項の概念と実存の対立をとり除くことで、二項は中和する。すなわち二項は、対立を止揚し合う物同士の内面的な有機的結合に至る。ちなみにここでの化合は、熱と色、音と大きさの癒合のように前提となる二項の分類が配列される前の化合一般である。とは言えここでの化合は、化学実験での二元素の化合のように、既に前提となる二項の分類が配列された後の化合も含んでいる。


3)実在的化合過程

 中和において対立する二項の否定的統一は消滅する。したがってこの中和する客観は、二項の外に実存する特殊な普遍である。これに対して前提された二項は、恣意的な直接的客観として区別される。さしあたり直接的客観は、中和客観を中間辞にして対自する。そしてこの対自が、直接的客観を中和客観から離反させる。そこで今度は中和客観と二項の直接的客観との間に三つ巴の中和が進行する。したがって度量における三つ巴の度量の設定は、ここでも三つ巴の対自として現れる。中和客観は直接的客観を中間辞にして対自し、自らを直接的客観の抽象的諸関係として擁立する。したがって二項の直接的客観も、二項の否定的統一としての中和客観に限定される。例えば否定的統一が熱と色を二項とする抽象的諸関係なら、その抽象的諸関係における直接的客観は、熱と色の度量体系の中で選言的に限定される。しかしこの限定は否定的統一した二項を分裂させ、それぞれをこの抽象的諸関係における諸要素として自立させる。それゆえにここでの対立する二項の限定も、この抽象的諸関係の中で純化する。例えばそれらは抽象的な熱素や色素のような元素に還元される。


4)分離二項の中和

 直接的化合過程は中間辞に特殊な抽象的諸関係を擁立し、親和する二項を中和した。ここでの二項の一方は、その都度にどちらかが特殊な普遍である。そしてその特殊な限定が抽象的諸関係として現れる。しかしその限定は一方による他方の限定である。したがってその限定は、一貫性を与えない限り恣意的で偶然である。それゆえに二項の直接的客観は、この偶然な限定に対してそれぞれ対立する。そこでこの対立は直接的客観を媒介にして、この特殊な抽象的諸関係を変様させる。それは直接的客観もろともにその抽象的諸関係の全体を、具体的な普遍に転じる。すなわち中和客観と直接的客観の対立は、暫定的に擁立された特殊を、個別検証を通じて普遍化する。このときに中和客観が中間辞に擁立するのは、個別の直接的客観である。これにより実在的化合過程は、中和した二項を実在化した。しかしこの普遍化は、機械の精度を上げただけに留まる。すなわちそれは機械全体とその各部の動きを具体化しただけであり、機械全体とその各部の終局の姿を説明しない。この点でこの実在的過程が行う普遍化はまだ外面的で不徹底である。それゆえに次の化合過程は中間辞に普遍を擁立し、これら外面的な諸客観の全体をその特殊に転じる。それが目指すのは、中和から分裂した二項の内面的な中和である。


5)推論における飛躍程

 限定存在の推論における“特殊な具体は普遍”、“具体的特殊は普遍”、“普遍的具体は特殊”では、前の二格が述語に普遍を持つ。ここでの前の二格は、あらかじめ恣意的かつ抽象的な普遍を用意して“具体は普遍”、“特殊は普遍”と結論する。その結論は恣意的普遍を根拠にした推論である。これに対して第三格は、普遍を中間辞に擁立する。したがってここでも普遍は前提である。ただしこの普遍は、前の二格が限定した具体的な普遍である。しかも前の二格で述語に普遍があるのと違い、この普遍は主語を形容するだけである。それゆえに第三格の結論“具体は特殊”に普遍は現れない。このために第三格の推論は、前の二格と違い無根拠である。しかしこの無根拠は、むしろ第三格に推論の体を与える。その無根拠は前提から結論への飛躍を表現するからである。逆に前の二格は、用意した結論が仮定の中に含まれている分だけ単なる同語反復になっている。この第三格の無根拠は、反省の類比推論でも継承されている。また必然の選言推論も、部分をいきなり全体とし、蓋然をいきなり必然にする飛躍を含む。要するに推論の第三格は、いずれにおいても数学的三段論法と異なる飛躍がある。そしてこの飛躍が、前提と結論、さらには作用因と目的因を区別する。しかし推論は飛躍を含むからこそ推論である。逆に言えば、飛躍の無い推論の第一格と第二格は恣意の同語反復であり、推論になっていない。すなわちそれは“そうなっているからそうなのだ”と言うだけの推論である。


6)推論の根拠

 演繹に対する帰納の論理的評価は、部分をもって全体とするその経験的な推論形式に対して否定的である。すなわち太陽が毎朝東から昇って来るとしても、明日は西から昇ってくるかもしれない。それに対して明日の朝も太陽は東から昇って来ると予想するのは、経験論に過ぎないとされる。ところがこのような推論の否定は、不確定要素を含む推論一般を不可能にする。この場合にさしあたり可能なのは、不確定要素を含まない推論である。例えばそれは、一昨日の朝は太陽が東から昇って来たので、昨日の朝は太陽が東から昇って来たと予想するような過去の推論として現れる。ところが過去の出来事が推論の対象となる場合でも、過去が不確定要素を含むとやはりその推論は否定される。昨日の朝に太陽が東から昇って来たのを誰も見ていなければ、もしかしたら昨日の朝は太陽が西から昇ったのかもしれないからである。結局この場合に求められているのは、部分的経験を経験全体として確定する作業である。すなわち毎朝太陽が東から昇る部分的経験を経験全体として確定すれば、それを定理に扱う事により過去および未来を推論できる。したがってさしあたり定理の確定は、推論一般を演繹に変えて飛躍を消失させる根拠となる。ただしそれは飛躍の現場を推論過程の結論時点ではなく、推論過程が始まる定理確定時点に移動させただけである。この定理確定のためには、やはり部分を全体とする推論が必要である。結局ここにはカント式の根拠の無限遡及が生じる。ここで根拠の有無を問題にしたときに問われるのは、全体の有無である。全体が無いのであれば根拠も存在せず、いかなる推論も不可能である。しかし全体は常に存在する。したがって推論は可能である。結局判明したのは、ロードス島は今ここにあり、ここで飛ばなければいけないことである。


7)目的因

 機械観は推論の第一格の三段論法の客観的機械論の総体であった。そして化合観は機械観を反省し、それを多次元の元素の抽象的諸関係に展開した。この実在化した普遍は、自ら述語として具体を支配する。しかしその具体としての直接的客観は、普遍に包括されながら自らの実存を普遍の他者とする。普遍の支配を外れた個別にとって、普遍は媒介的な参考に留まる。したがって個別は自らの自立のゆえに自律する。自由な個別にとって普遍は自己であり、自己の外の普遍は自己にとっての普遍ではない。とは言え個別は普遍に包括されている。それゆえに個別にとっての普遍は常に特殊に留まる。ただしこのような個別と普遍の相関は、始まりの機械観の本来の姿である。むしろ自律する個別にとって、自らを自律しない具体として捉える絶対的機械観の方が異常である。個別は機械観の始まりにおいて既に自律しており、その度外視において機械観が成立していただけである。個別はただ自律して普遍を遵守していただけである。すなわち普遍とは、個別が遵守する法である。この限りで普遍による個別の支配は仮象にすぎない。この自律する個別において自己の運動は常に推論の第三格に従う。それは普遍を媒介的な参考にして普遍的な自己を特殊とする運動である。ただしもし個別が媒介的な参考に過ぎない普遍に常に支配されるのであれば、その世界観は絶対的機械観である。このときに原因と結果は同じ事の単なる二面である。しかし個別が普遍から自由であるなら、原因と結果は別物である。この場合にその結果は、個別の普遍的な自己を体現した特殊な原因を体現する。それは個別の実存を成す目的である。

(2022/01/06) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第二篇 第三章) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第二篇 第一章)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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