唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第三編 第二章 Aa 分析)

2022-04-03 21:20:04 | ヘーゲル大論理学概念論

 理念の対自過程はまず生命として現れた。しかしそれはやはり直接的客観の制約の下で展開する物体の自己反射に留まる。このような生命において自我がどのように現れるかはまだ明らかではない。しかし自我は自らの内容について了解を得ており、その内容も自己自身に関わる自己の概念として示され得る。そして少なくとも自我は何かを思惟する。したがって自我の自己関係も、その何かの思惟に対する判断形式を持つ。さしあたり生命の機械的反射の対象判断は認識として現れる。それが推論するのは、目的である主観と所与の具体的客観の一致である。そして真はその一致判断の結論である。この認識はまず対象の単なる反映なのだが、実際にはこの単なる反映には既に主客の綜合が含まれる。それゆえにまず認識の検討は、綜合を切り離した分析から認識を捉える必要がある。

[第三巻概念論第三編「理念」第二章「認識」A「真」a「分析」の概要]

 物体の自己反射が客観と区別された中間辞となる論述部位
 ‐自我の概念    …客観に関する主観、身体に関する魂、自己自身に関する自己として自己同一な限定存在。
 ‐自我の超越性   …主観が限定する客観の廃棄において無限定となる絶対者。
 ‐認識の主客統一  …自己と自己自身の推論による統一。
           目的である主観と制約となる客観を統一しただけの手段。
 ‐分析       …客観の限定可能を前提し、推論が擁立した主観と客観の中間辞。
           具体的客観と抽象的主観の二重否定。客観と区別された具体の受容。
  ・先天的綜合  …客観を主観に転じる分析に内在する自己と自己自身の先験的な綜合。
  ・算術での綜合 …限定量の単なる分離と統一と異なる無限定量の限定。


1)自我のアポリア

 直接的理念としての生命が判断の形式で現れるなら、それは表象一般の形式としての認識である。それは生命の実在の普遍化でもある。その限定存在の形式は概念の自己同一であり、物体の客観的形式ではない。それゆえに生命の理念も魂の主観的概念と身体の客観的概念に分裂する。心理学は現象を根拠として客観的自然物の分析手法を魂に適用する。しかし対立を統一する魂に対してこの手法を適用するなら、下されるのは恣意的な推論である。それゆえにカントも知覚を含めた諸経験の魂への適用を拒否する。しかしこのことは魂に対する全ての限定を奪い、魂を無限定な先験的主観に変える。そして心理学におけるこの拒否の適用は、魂を物自体としての自我に転じた。このような自我では自己自身を論じる自己の無限循環が進行する。それは自我の説明に自我が現れるアポリアである。そこでその無限反復を単純否定すると、自我は内容を拒否する不可知な主語に留まる。しかし自我が自我を語る以上、自我は既に自我の内容について何らかの了解を持つ。そして既にその内容は、自己自身に関わる自己の概念として示されている。


2)カント自我論の非超越性

 少なくとも自我は何かを思惟する。ここでの主観としての自我が思惟する自我は、主観としての自己と区別された主観ならぬ自己自身である。その自我が判断として表現するのは、魂としての自己と身体としての自己自身の統一である。端的に言えば魂は身体を持ち、自己は自己自身を持つ。それゆえに主観と客観の限定存在の形式は、自我において統一される。自我の限定存在は反省であり、反省において初めて自我の循環が生じる。ただしそれは自我が擁立した循環にすぎない。それだからこそカントの拒否に関わらず、自我のアポリアは経験的事実において真理となる。そしてこの真理は、カントの提示する没概念で不可知な自我を拒否する。カントが形而上学的自我に対して行う反論は、物体化した自我に対する反論にすぎない。その物体的自我は内容を持ち、その内包量のゆえに不滅ではない。ところが自我はこの内包量を含む客観の外面的限定を廃棄している。したがって自我は自己限定において内容を持つとともに不滅である。しかもカントによる現象からの超越に対する拒否は、概念一般が行う現象からの超越と対立する。それがもたらすのは、虚偽的な現象への悟性の安住である。


3)自我論理の諸形態

 生命は理念であるが、普遍を内在するだけの具体にすぎない。それゆえに生命は実在を目指して個別の自己を廃棄し、自己を普遍にする。この実在する生命が精神である。ただし生命は直接的に精神を実現するわけではなく、次のような魂の論理諸形態に現象する。論理学は下記諸学の究極に自由な概念として現れるが、むしろ下記諸学を湧出する根拠である。
・単子論    …物理的原子を心的な単子とみなし、単子の心性に応じて個物を物体にも意識にもする。
・人間学    …対自存在の直接的限定存在に限定した形而下学。しかしそれは直接的客観による魂の支配において形而上学にも浸食する。
・精神現象学  …精神の低次な物質形態が高次な意識形態に転化する際の外化した精神現象の考察。
・哲学的心理学 …意識の即自的対象を対自的表象の形式で考察。有限な精神における無限な精神の把握に至る行程の叙述。


4)手段としての認識

 主観が客観であると推論する場合、一方の主観は目的として実在する対自理念であり、他方の客観はその制約として現れる外面的な即自世界である。そして認識が推論形式で両者の統一を擁立する。したがってこの最初の両者の統一は、抽象的理念と具体的世界の単なる中間辞である。それは思い込んだ主観と思い込まれた客観の形式的一致にすぎない。しかしこれにより主観は客観から内容を獲得し、自らの抽象的実在を具体的実在にする。したがって主観的理念は、主観の真理を実在化する衝動である。この主客の一致は、主観的概念を主語にして述語に客観を擁立した判断形式にある。この判断は前提した客観の即自存在を否定し、それを主観の中に擁立する。例えば「リンゴは赤い」とした判断でのリンゴの客観的赤は、その結論で主観的赤に転じる。その主観的赤は最初の主観の思い込みの赤でもなく、前提された客観の赤でもない。とは言えその内容は客観の所与である。それゆえに客観の即自存在は否定されただけで、まだ廃棄されていない。このためにその主客の一致は主観の真理ではなく、概念と実在の一致でもない。要するにその一致は目的の実現ではない。あるいは実現したのは、目的のための手段に留まる。したがって認識も果たされていない。この客観の制約は、認識の有限性になっている。そしてその有限性が認識の不可知論を生じさせる余地となる。しかしそれが見出す空虚な物自体は、主観の抽象的実在への後退にすぎない。


5)分析的認識

 有限な認識は、客観の具体的実在を主観の抽象的実在から否定し、逆に主観の抽象的実在を客観の具体的実在から否定する。しかしこの否定は限定である。それが限定するのは、やはり客観と主観である。したがって限定を通じて、認識は自己同一的に自己自身に関わる。またこの衝動的認識は思弁的認識と違い、前提した客観を物自体として自らに対立させない。それは特殊を持ち得ないからである。すなわちこの主観は客観を限定可能と前提する。それゆえに認識の推論は主客統一体として概念を擁立し、前提した具体的客観と抽象的主観の両方を廃棄する。それは認識が客観の中に擁立した主観の理念である。この推論では主観は概念であり、概念は客観である。しかしここで同一にある概念と客観にはやはり区別がある。そしてその区別は概念と客観を分離し、概念に存在を擁立する。その概念の存在は、客観の最初の否定となる。ただし概念の存在は前提として見出されただけである。またその内容も所与の把握であり、その限りで所与と区別されるに留まる。それゆえに認識は自己自身の無内容な主観を否定し、自己を具体的客観の受容と把握にする。このような認識が、分析的認識である。


 5a)分析における綜合

 分析的認識では、既知から未知を分析してそれを既知として擁立する。その先に再び既知から未知の分析が始まる。これに対して綜合的認識では、未知を既知に綜合してそれを未知として擁立する。その先に再び未知の既知への綜合が始まる。綜合の未知認識との比較で言えば、分析の既知認識は同語反復である。したがって分析に既知認識する理由は無い。しかし分析において未知が露呈するなら、分析が既知認識から始める理由になる。その分析の始まりにおいて認識主観は直接的に客観である。ただしその直接的同一は、認識主観の自己自身を否定する。同様にその直接的同一は、分析における綜合一般も排除する。これに対して主観的観念論は、客観の概念諸限定を分析の所産とし、客観自体を概念の彼岸に擁立する。一方で実在論は客観に全ての概念諸限定を起因させる。それゆえに概念諸限定は一方で擁立されたものであり、他方で即自に既存である。この両者が落ち着く認識は、主観の擁立と客観の所与の否定的統一である。単なる客観の所与は進展の無い認識であり、それに対して同じ認識が主観を擁立する。その主観は全体から部分、原因から結果の相関として分析された抽象である。その認識の全体は客観の主観への転化であり、具体の抽象への転化である。ただしそれは主観が擁する既成の相関関係にすぎない。そしてそこで起きている内在的進展は、実質的に綜合である。ここにはカントが認めた先天的綜合原則がある。ただしカントの原則には区別への推移が欠落している。


 5b)算術と解析

 算術の原理は、具体に無関心な抽象的一者の限定量である。したがってその外延と分離の量的増減も、それらの質に無関心である。その異なる量は、限定量の反復の大小にすぎない。演算の左辺と右辺が同じ原理で説明されるのであれば、その演算式に証明は不要であり、むしろ証明は時間の無駄である。このことに関連してカントが加算を綜合認識として評価したことの誤りは、第一巻第二編の量論における限定存在論で既に述べられている。それらの単純な数理演算は、完了した分析の操作を超えず、その統合も分離も新たな概念を擁立しない。しかし演算結果の説明に異なる算術原理を擁立する場合、数理演算に綜合が現れる。それはまず限定量の比において現れ、分数や無理数や円周率、二項演算や微積分や虚数などで現れる。これらは限定量の分析の果てに、綜合が導出した新たな算術の原理である。これらの原理が限定するのは、いずれも既存原理に内包されていた無限定量である。またそもそも自然数自体がそのように擁立された限定量である。その無限定から限定への必然的推移は、直接を回避した媒介、または抽象的同一から擁立された区別を形式とする。すなわちそれは、対自する主観的概念が限定量の連関を再び限定量として擁立した主観的概念である。

(2022/03/01) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第二章 Ab) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第一章)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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