(3)資本の一般定式と比較される単純再生産
資本は自己増殖する価値である。したがって資本は、入力以上の価値を出力してこそ資本である。その一般定式は、次にように示される。
G→W→(Pm+A)…P→(W+Wa)→(G+Ga) ※G:貨幣、W:商品、Pm:生産手段、Aは労働力、P:資本
なおGaとWaは貨幣と商品の増殖分
この一般定式に現れるAは剰余労働力であり、必要労働力ではない。一方で筆者はこの章の始まりから労働力を、必要労働力に限定している。それゆえにその生産財転換式は、 最初と終わりのGを追記し、労働力LをWに表現し直しても、次の式に留まる。
G→W→(Pm+A)…P→(W)→G
入力の商品Wを生産手段に変え、それに付加労働力Aを加えた資本は、出力の時点で商品増殖分Waを控除し自己取得する。結果的に資本Pの出力の商品Wは、入力の商品Wの価値を超えない。簡単に言えばこの生産財転換式で、資本は自己増殖しない。言い換えるとこの生産財転換式が表現するのは、資本の単純再生産である。ここで資本の自己増殖が発生しなかったのは、生産手段に追加対応した労働力Aが正当な報酬である商品増殖分Waを取得し消化してしまったことに従う。そのことが逆に、次のような資本の拡大再生産の必要条件を露わにする。その必要条件とは、資本における労働力Aが自らの正当な報酬である商品増殖分Waを取得できないことである。労働力にその正当な報酬を与えないことは、労働者からの労働力の強奪に等しく、搾取と呼ばれる。そしてこの搾取こそが、資本の拡大再生産を可能にする。ただしその始まりの搾取は、まだ資本主義的搾取であると限らない。資本主義的搾取は、資本と労働者の間での価値通りの労働力交換を通じて実現する。それに対してこの始まりの搾取は、資本が労働者に対してあからさまに労働力の無償拠出を強要する。
(3a)生産財転換モデル2が生来的に含む搾取能力
消費財部門から仕入れる資源としての消費財は、資本財部門にとって不変資本として固定している。それゆえに資本財部門にとって原材料の消費財は、自由な価値変更の対象ではない。ただしその不自由さは、消費財部門と資本財部門の力関係に従うのではない。むしろその不自由さは、資本財部門が原材料を仕入れた際に、消費財部門にその対価を渡す必要に従う。もし資本財部門が消費財部門に対し、はなから消費財の無償拠出を要求できるなら、資本財部門は支配階層として自立し、資本財生産からも遊離する。そしてそのようなことをできないがゆえに、資本財部門は律儀に消費財部門に対価を渡す。一方で可変資本としての労働力は、このように不自由な不変資本と違い、資本財部門にとって自由な価値変更の対象となる。また資本が自己拡張のための原資を持たないのを前提して言えば、生産財転換モデル2の資本は拡大再生産のための原資を、労働者による労働力の無償拠出に見出すより外に無い。先の(2e)の生産財入出力または商取引で見ても、資本財部門(=商業部門)は、自部門の労働力に対する生活消費財の充当、すなわち労賃支払いを第三部門取引の終了後に実施する。しかもその労賃支払いは、消費財部門から仕入れた原材料充当にもおそらく劣位する。とは言え継続可能な商取引は、自部門の労働力に対して正当な労賃支払いを要求する。それは個々の労働者に対する必要消費財Nmの拠出である。ところがその等価交換は、資本財部門の資本の拡大再生産を不可能にする。ここには自己資本の拡張を目指す資本財部門のジレンマがある。ただしよくよく見直して言えば、生産財転換モデル2の資本財部門において労賃支払いの実施は、第三部門取引の終了後である。したがって資本財部門は生産活動を行うために必要な労働力を、既に無原資で取得している。ここでの資本財部門の労働者は、最初から商取引が不成功に終わったときのしわ寄せを期待されている。すなわち成功は指導者の収益となり、失敗は労働者の詰め腹になる。その不平等な受難の前提は、搾取の前提でもあり、それ自身が既に搾取でもある。そうであるなら同様に、資本財部門が資本の拡大再生産のための原資を、労働者による労働力の無償拠出に見出すのは、資本財部門の資本にとってさほどハードルの高い注文ではない。そして極限して言うと生産財転換モデル2の資本は、生来的にこのような搾取を自らの前提に含む。なおその搾取能力は、商取引の損失を労賃未払いで回収し、後付けで問題を解決する商才の如く称賛される。しかも資本財部門はこの非資本主義的搾取の痕跡を、繰り返される資本蓄積過程を通じて消去し、最終的に自らの機知と度胸に富んだ工夫と努力の成功談に塗り替える。
(4)剰余価値を含む資本の単純再生産
上記(3)に示した資本の一般定式において資本の単純再生産と拡大再生産を区別するのは、資本が排出する貨幣と商品の増殖部分だけである。その増殖部分は単純に言えば出力と入力の差分であり、入出力の不変資本部分に差異が見られなければ、増殖は可変資本部分で発生する。その資本による可変資本部分の増殖は、資本主義的搾取と同義であり、基本的に次のような差額略取として現れる。すなわちそれは、可変資本をその時間的生理限界または空間的物理限界を超えて使用する一方で、可変資本に最低限の生活維持資源を引き渡すことで得られる差額略取である。ただしこの差額略取において資本は、労働力を提供した労働者に対し、最低限の生活維持資源を引き渡している。資本と労働者の間で交換される労働力と生活維持資源は等価であり、そこに不等価交換としての差額略取は現れない。逆にこの形態以外の労働力の差額略取は、労働力と生活維持資源の不等価交換となる。ただしその場合の不等価交換は、労働者からさらに最低限の生活維持資源を奪う。それが表現するのは、単なる労働者の生活破壊である。資本はこの差額略取を通じて可変資本から剰余価値を生産する。しかし資本の支配者がその生産した剰余価値を私的生活のために全額消費してしまうと、資本の単純再生産も拡大再生産に転じ得ない。とは言えさしあたりここでは資本の剰余価値生産を付加した上で、単純再生産する生産財転換モデル2’を補正すると次のようになる。なおこのような可変資本の差額略取と違い、不変資本の差額略取は基本的にどれも不等価交換となる。それが表現するのは、取引の一方による他方の生活維持資源の奪取である。ただし不変資本を取得保管するための労働力が、その差額略取の増分に相応するなら、その不変資本の差額略取は不等価交換ではなく、等価交換になる。
[資本財交換における生産財転換モデル3] ※∮gXは価値形態の∮X
[資本財交換における生産財転換モデル3での商取引]※▼:出力、△:入力、なお∮gXは価値形態の∮X
(4a)剰余価値率
上記において剰余価値Mwは、利潤∮wMとして分離した可変資本∮wの一部分にすぎない。したがって利潤∮wMは、可変資本∮wとその分離比率の二つから導出できる。その比率が表現するのは、部門固有の有機的構成における可変資本労働力に対する搾取比率である。その比率は資本の有機的構成に変化が無ければ、さしあたり資本規模に関わらず同一と見込まれる。そしてそうであるなら利潤の大きさも、可変資本規模とこの搾取比率により導出できる。またその方が、資本回転終了時の可変資本と剰余価値を表現するのに、いちいち∮wVと∮wMを記載する必要も無い。この搾取比率はマルクスの記名に従い、剰余価値率と呼ばれるものである。それは剰余価値率m=剰余価値M/可変資本Vとして言い表される。したがって上記の資本回転終了時の可変資本と剰余価値も、それぞれ(1―m)∮wとm∮wに表現される。剰余価値率は、利潤率と違い、部門全体の不変資本の規模を排除した部門の利益率である。それが利潤率と区別される理由は、不変資本の大きさと無関係に、剰余価値が可変資本の大きさに規定されることに従う。すなわち不変資本の大きさは、剰余価値の大きさと直接に関係しない。上記の生産財転換モデルはこのことを、資本財部門において消費財部門から得た不変資本が、価値の大きさを変えずに消費財部門に還流される動きで示している。もちろん不変資本が、生産される剰余価値の大きさと全く無関係なのでもない。例えば最新式機械の導入は、おそらく生産される剰余価値の大きさを増大させ、剰余価値率も増大させる。サミュエルソンによる剰余価値率についての評価も、むしろこの面で妥当すべきである。とは言えそのことを考慮しても、上記の生産財転換モデルで見る限り最新式機械の導入は、せいぜい最新式機械がより効率的に可変資本を搾取することを超えない。それよりも剰余価値率が抱える難点は、もっと別のところにある。それは剰余価値搾取一般における、最低限の生活を営む労働力に対し、さらに搾取を始めると言うかなり無茶な説明である。すなわちそれは、乾いたタオルからさらに水を搾り取るような、剰余価値理論があらかじめ持つ困難である。とは言え、ここで乾いていないタオルを他に探そうとすると、反対にそれは生産物交換に差額略取の不等価交換の困難を持ち込むだけである。この点については次章で論じるとして、上記の生産財転換モデルの記載を、剰余価値率mにより表現し直すと次のようになる。
[資本財交換における生産財転換モデル4] ※∮gXは価値形態の∮X
[資本財交換における生産財転換モデル4での商取引]※▼:出力、△:入力、なお∮gXは価値形態の∮X
(4b)消費財部門における剰余価値を含む資本の単純再生産
上記表の想定において、剰余価値を生産するのは資本財部門だけである。しかし剰余価値生産は可変資本を有する限り、どの経済部門でも生産可能である。そこで同じ生産財転換モデルの表を、消費財部門が剰余価値を生産するものに変更すると、次のようになる。消費財部門における剰余価値の生産に対し、第三部門は直接関与しない。しかし消費財部門の生産量が増加するなら、それに合わせて資本財部門と第三部門の生産量も増加する。ただし資本財部門と第三部門は、その生産量増加に対応する消費財を可変資本に充填するので、資本財部門と第三部門で剰余価値は発生しない。なおここでは簡略化のために、逆に資本財部門における剰余価値の生産記載を排除した。
[資本財交換における生産財転換モデル5] ※∮gXは価値形態の∮X
[資本財交換における生産財転換モデル5での商取引]※▼:出力、△:入力、なお∮gXは価値形態の∮X
(5)可変資本の拡大再生産
上記(4a)(4b)のように生産した剰余価値の全てが部門支配者の個人消費に消える場合、資本回転の反復は財と資本の同じ動きの単純反復に終わる。一方で部門支配者は、既に部門から自らの生活資材を得ている。部門支配者は、生産した剰余価値を自らの個人消費にもできれば、それを自部門の生産拡大に投資することもできる。そして往々にして期待される部門支配者の選択は、その中間である。すなわち部門支配者は、生産した剰余価値の一部を自らの個人消費に回し、残りを自部門の生産拡大に投資する。もちろん部門支配者が、生産した剰余価値を自部門の生産拡大に投資するなら、資本の拡大再生産も可能となる。そこで以下に拡大再生産する生産財転換モデルを示す。なおここでは資本財部門支配者に剰余価値全部を自部門の生産拡大に投資させ、資本回転を2回実施した場合を想定している。したがってその資本回転終了時に、資本財部門可変資本の搾取部分 m∮wが、そのまま資本財部門の蓄積資本として滞留する。この場合に資本回転後の資本財部門の可変資本は、資本財部門の資本回転前の可変資本∮wと蓄積資本m∮wの合算値となる。つまりそれは資本回転前の可変資本∮wの(1+m)倍を表す。一方で資本財部門の可変資本の増大は、それに対応する資本財部門の不変資本の増大を要する。もちろんそれは、消費財部門の可変資本の増大でもある。またそれらの増大は、翻って資本財部門の資本回転後の蓄積資本m∮wを(1+m)倍に増大させる。それらの増大幅は、単純に可変資本の拡大規模に比率に準じる。すなわち拡大再生産における資本財部門の不変資本と蓄積資本の増大は、資本回転前の(1+m)倍である。それが回転を重ねてn回転すると、回転後の不変資本と蓄積資本の大きさも次のようになる。
資本n回転後の∮wn =∮w(1+m)n
資本n回転後の∮fn =∮f(1+m)n
資本n回転後のm∮wn=m∮w(1+m)n
資本n回転後の∮wnのm(1+m)倍は、搾取後に蓄積資本に充当する剰余価値に該当し、同じく(1+m)倍は、搾取後に労働力に充当する労賃に該当する。ちなみに資本財部門の生産増は、消費財部門における生産増の限界と第三部門における消費増の限界に制約されるはずだが、ここでは無視する。
[資本財交換における生産財転換モデル6] ※∮gXは価値形態の∮X
[資本財交換における生産財転換モデルでの商取引6] ※▼:出力、△:入力、なお∮gXは価値形態の∮X
(5a)拡大再生産における蓄積資本の可変資本への充填
上記資本の拡大再生産は資本回転において、蓄積資本を後続する可変資本の拡充に充填している。この場合に資本の拡大再生産は、可変資本を増大させ、労働力需要を増大させる。ただしこの可変資本の増大はそれだけに留まらず、その可変資本に結合する不変資本、すなわち原材料の増大を必要とする。そしてこの資本財部門の不変資本は、消費財部門の可変資本に等しい。したがって資本財部門における不変資本の増大は、消費財部門が生産する原材料の増大を必要とし、消費財部門の労働力需要も増大させる。ここにはマルクスが思い描く資本主義の未来像、すなわち資本主義の発展が労働者の職を奪い、労働者を貧困のどん底に投げ込む職の椅子取りゲームの世界は登場しない。むしろ可変資本需要の増大は、労働力需要を増大させ、労賃上昇に連携する。おそらくそれは労働者の労働環境を改善する効果に連携し、むしろ資本主義の発展が労働者に人間的生活を与えるのを期待させる。そしてそれが優先するのは、労働者の個人消費の増加である。ところがその形での蓄積資本の労賃への充填は、既存労賃水準の可変資本増大を阻み、自部門の生産拡大に連携しない。また上記モデルにおいて部門支配者は、生産した剰余価値を自らの個人消費に回すのを断念し、蓄積資本を可変資本の拡充に充填している。その部門支配者の断念と目論見が目指すのは、労働者の生活改善ではなく、あくまでも部門資本の拡大再生産である。そのような部門支配者にすれば、蓄積資本が労働者の個人消費に充填されるくらいなら、部門支配者自らの個人消費に充填されるべきである。つまり労賃上昇と労働環境の改善は、資本の拡大再生産を目論む部門支配者にとって阻害要因でしかない。それゆえにここでの可変資本の拡充は、最低限の生活を営む労働者の量的増大に終わり、その残余の全てが部門支配者自らの個人消費に充填される。とは言えそれがもたらす労働力需要の増大は、労働者を最低限以下の生活から解放する。そしてそのことは、労働者にとってそれ以上の生活改善が見込めないとしても、さしあたり労働者を資本主義に満足させるかもしれない。
(5b)不変資本が実現する特別剰余価値、および可変資本減資
蓄積資本の投資先は、自部門の可変資本拡張に進むのでなければ、他部門の不変資本導入に進む。さしあたりこの不変資本は、ただ単に他部門の労働力でも良い。その労働力が自部門の労働力より安価で優秀であれば、その強められた労働が部門に利益をもたらす。ただし不変資本の導入部門にとってその利益は、優位技術に立脚した不変資本がもたらす特別剰余価値であり、自部門の可変資本がもたらす一般的な剰余価値ではない。この点については先の(2)に記載したとおりである。この不変資本が優位技術に立脚した道具や機械であるなら、なおのことそれがもたらす剰余価値は特別剰余価値である。そのもたらす利益の特質は、次のようになっている。
(5b1)可変資本の増強
基本的に生産部門は不変資本を増資しても、その増資不変資本から搾取できない。それゆえにその資本回転が実現するのは、資本の単純再生産である。ところが生産部門が増資した不変資本は、新規技術に立脚した他部門の労働力や道具、または機械である。それは自部門の可変資本を強力にし、その強められた労働により可変資本からの搾取部分を増大させる。その可変資本の増強は、協業による労働強化と同じ効果を持つ。あるいは不変資本自体が一種のパッケージされた協業である。それは他部門の労働でありながら、より効率的に自部門の生産工程の一部を肩代わりする。ただし他部門がこの不変資本の生産に要する労働力量は、この不変資本が肩代わりする自部門の労働力量より小さい必要がある。そしてその小さいゆえの労働力の差分が、自部門の可変資本を増強する。例えば或る山を手作業で掘削する作業に、従来の可変資本がのべ100万労働日を要していたとする。生産部門が同じ作業をダイナマイト使用により100労働日で実現すると、ダイナマイトは自部門の可変資本を1万倍強化する。しかしこのときに自部門がダイナマイト導入に99万9900労働日を費やす場合、あるいは他部門が導入ダイナマイトの生産に99万9900労働日を費やしている場合、その導入コストは不変資本による可変資本の増強を帳消しにする。この場合にダイナマイト導入は、実質的に自部門の可変資本を強化しない。
(5b2)可変資本の削減
新規技術に立脚した不変資本は、従来の生産工程の一部を実現する。したがって不変資本は、その生産工程に携わる可変資本を不要にする。生産部門がこの不要になった可変資本を減資すれば、従来の生産工程の運用資本との比較で、その減資分が生産部門に一時的な利益として現れる。もちろんその利益は、資本回転における単なる労賃未払いでも実現可能である。しかし単なる労賃未払いは、資本回転の継続に支障をもたらす。それに対して不変資本導入による可変資本の減資は、資本回転の継続を可能にする。その手始めの一時的利益は、上記の可変資本の増強と相まって、不変資本の導入部門にさらに大きい利益をもたらす。一方でこの可変資本を削減した生産工程は、該当不変資本を使用する限り、生産部門の前提となる。もし生産部門が該当不変資本の導入をとりやめた場合、逆にその不変資本に代替すべき可変資本の増資が、生産部門において必要になる。その不利益は、該当不変使用を導入していない同業他社の全体が被っていた不利益と同じものである。その利益は可変資本の減資も併せて、物財生産に要する平均的な投下労働力と新規不変資本を媒介した投下労働力の差分である。それは生産コストの差分なので、市場価格と生産経費の差分で得られる投下労働力量と捉えても同じである。その手始めは市場から得られる差額略取として現れるが、長期的な内実は同業他社の投下労働力の横取りである。その利益は、同業部門全体における可変資本の減資に由来する。
(5b3)利益の一過性
可変資本の増強と削除が生み出す利益は、いずれも不変資本導入前の部門収支、および同業他社の生産能力との比較で生まれる可変資本に関わる差額利益にすぎない。それはさしあたり不変資本の優位技術が有効な間、すなわち同業他社が同じ不変資本を横並びに導入するまでの間、物財生産において不変資本の導入部門にもたらされる。それゆえにその利益は、一過的に生産部門にもたらされる特別剰余価値に留まる。その横並びにより消滅までの特別剰余価値の運動については、別記事に記載したのでここでは割愛する。それは差額利益なので、その大きさも不変資本がどれだけの必要労働力を不要にしたのかによってのみ測定可能である。つまりその差分を算出できれば、特別剰余価値の大きさも算出できる。しかし不変資本の優位技術がどれだけの可変資本減資を実現したのかを算出するのは困難である。上記のダイナマイト使用の例で考えても、ダイナマイトがどれだけの規模の可変資本を代替するかは、ダイナマイト生産に要する可変資本規模から推察できない。なぜならその両者の間に相関が無いからである。しかもその可変資本減資の効果は、同業他社が同じダイナマイト作業を横並びに導入するまで漸減し、その横並びの実現において消滅する。他方で不変資本が優位技術それ自体の場合も可能である。その不変資本の波及効果は、最初に小さい状態から次第に増大する。同様にそこでの特別剰余価値も、波及に伴い増大した後に、波及の収束に伴い減少して消滅する。結果的にこれらの事情は、不変資本導入がもたらす特別剰余価値について、可変資本拡張と同様の拡大再生産モデルを用意するのを実質的に不可能にする。あるいは個々の不変資本の優位技術について経験的にその利益増大効果を得て、それを拡大再生産モデルに適用するだけとなる。すなわち不変資本導入の拡大再生産モデルに可能なのは、不変資本導入がもたらす利益について増減する関数を想定し、それを上記の可変資本拡張における拡大再生産モデルに適用するだけになる。ただしこのことは、特別剰余価値それ自身の起源を明らかにする限り、その拡大再生産モデル設定を不可能にするものではない。
(5b4)不変資本が持つ私有適性
上記(4d)が鮮明にしたのは、労働者の個人消費増大と部門支配者の個人消費増大のトレードオフ関係である。もともと部門支配者にとって配下の労働者は、一方で彼らの私物であり、他方で私物ではない。言い換えると彼らにとって労働者は、一方で隷属する奴隷であり、他方で自律した人間である。ところが労働者はやはり自律した人間である。それゆえに部門支配者は、自部門の可変資本を私物化し得ない。部門の生産工程は労働者を人間的に接するべきかどうかで対立し、それが部門支配者の内面に人間的葛藤をもたらす。一方で部門において自部門の労働力が可変資本であるのに対し、他部門の労働力は不変資本である。自部門にとってそれは人間の形をした物体である。それゆえに最終的に自らの個人消費増大を目指す部門支配者は、私物として純化し得ない労働者を忌避し、その不変資本への代替を目指す。とは言えその不変資本の内実も、基本的に他部門の労働力である。ところがそれは特段に労働者の姿をしている必要を持たない。むしろその実現すべき生産工程が様式化した定型作業であるほど、それを実現する他部門の労働力も単なる道具や機械に転じる。そしてその実現すべき生産工程が様式化した定型作業であるほど、その労働は本物の道具や機械に代替し易い。そしてそれが道具や機械の様式化した定型的物体の姿であるほど、その不変資本はそれを私物化したい使用者にとって有意である。それゆえに資本の拡大再生産を目指す部門支配者は、可能な限り資本回転において、蓄積資本を後続する不変資本の拡充で充填する。
(2023/07/22)
続く⇒第二章(3)不変資本を媒介にした可変資本減資 前の記事⇒第二章(1)生産財転換モデル
数理労働価値
序論:労働価値論の原理
(1)生体における供給と消費
(2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
(3)供給と消費の一般式
(4)分業と階級分離
1章 基本モデル
(1)消費財生産モデル
(2)生産と消費の不均衡
(3)消費財増大の価値に対する一時的影響
(4)価値単位としての労働力
(5)商業
(6)統括労働
(7)剰余価値
(8)消費財生産数変化の実数値モデル
(9)上記表の式変形の注記
2章 資本蓄積
(1)生産財転換モデル
(2)拡大再生産
(3)不変資本を媒介にした可変資本減資
(4)不変資本を媒介にした可変資本増強
(5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
(6)独占財の価値法則
(7)生産財転換の実数値モデル
(8)生産財転換の実数値モデル2
3章 金融資本
(1)金融資本と利子
(2)差額略取の実体化
(3)労働力商品の資源化
(4)価格構成における剰余価値の変動
(5)(C+V)と(C+V+M)
(6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
4章 生産要素表
(1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
(2)不変資本導入と生産規模拡大
(3)生産拡大における生産要素の遷移
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