唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 概念論 (1.存在論・本質論・概念論の各第三章の対応)

2022-08-29 07:56:02 | ヘーゲル大論理学概念論

 以下に大論理学の第一巻存在論の第三篇「度量」論と第二巻本質論第三篇「現実性」論、および第三巻概念論第三篇「理念」論の各章の論理展開における異名同内容をまとめる。


・実体の脱自と流出

 存在論において質を廃棄した質料の形式は量であり、量の限界に単位が現れる。さしあたり単位は、恣意的に決まる集合の外延と内包の量である。その最も単純な姿は、無限大と無限小である。悟性において集合の外延と内包は、無限大と無限小の外側にも拡がるが、恣意にとってそれはどうでも良い。またどうでも良くなければ、無限大は無限大ではなく、無限小も無限小ではない。そもそも大きさは存在にとって空虚な限界である。それは恣意の自己が自覚しない自己自身の大きさである。しかしその同じ自己は、対自において自己自身の大きさからはみ出る。このときの自己は、自己自身を廃棄した新たな自己である。そしてこの脱自が大きさと時空の数直線を形成する。脱自において古い自己は新しい自己を湧出する起源であり、新しい自己は古い自己から派生する。このときに起源を物体と捉え、派生した自己を不完全な意識とするなら、意識は実体の不完全な寄せ集めを超えない。そしてその多数の意識の全体は、つねに物体の完全より小さい。ヘーゲルはスピノザをこの流出説および汎神論と捉える。


・受容体としての絶対無

 さしあたり脱自において自己は、自己ならぬ他者に転じる。このときに始元の自己を存在とするなら、脱自した自己は非存在である。また始元の自己が物体なら、脱自した自己は物体ではない。それゆえに脱自した存在は、その無内容を絶対無として開示する。一見するとその絶対者は、スピノザ式実体の対極である。しかし絶対無は、全てを受容する存在の形式である。そしてその純粋無は、純粋存在と区別されない。したがって絶対無は、対自を通じて自己に回帰した始元存在である。すなわち絶対無は、否定的に自己復帰した絶対者である。絶対無は物体ではないので、その脱自も存在の脱自と逆転する。すなわち絶対者の脱自した自己が存在であり、物体となる。もともと物体はその思惟の欠落において有限であり、無限定な無と異なる。しかもその無限定な存在も、対自を通じて無に限定される。それゆえに観念論は起源を物体ではなく意識として捉え、派生した自己を不完全な物体にする。ところがこの場合でも意識は、物体を媒介にして自己を認識する。結局スピノザ式流出は変わっておらず、ここでも物体の不完全が意識の自己認識を不完全にする。


・本質と様相

 本質は対象を限定する形式である。しかしこの本質も抽出されただけの質にすぎない。それは現象の没落に応じて現れる相対的な局面的真理である。スピノザにおいてこの本質は属性である。そしてスピノザは実体と属性に続くカテゴリーに様相を挙げる。それは存在と本質に続く概念に相当する。それは集積した局面的真理の全体である。ところがその様相は、矛盾する本質も集積した一覧表式概念に留まる。ここでそれらの対立する本質の全てを受容するのは、カント式悟性ではなく絶対無である。カント式悟性は弁証論の虚無を示すだけで、対立する本質の結合に耐えられない。しかし矛盾を単に内包するだけの様相は、即自概念にすぎない。さしあたりそれは、様相に転じただけの始元の成である。そこでこの矛盾の内包は、対自を通じて即自概念を対自概念に転じさせる。この対自する即自概念が生命である。生命は対立する本質の結合を脱自で実現する。それは存在と無を結合する絶対者の脱自を再現する。そしてこの脱自が生命を様相から区別する。


・実在比

 他者を係数にするだけの比例は、他者に従属する自己の対他存在である。すなわち比例式における自己xは、係数に応じて自己の対他存在yに転じる。そしてその等式は区別された自己と他者の関係式となる。ただしその他者は、係数に限定された自己の対他存在に過ぎない。しかし対自する自己の対他存在は、自己自身を変数に加えて自己に冪比例する。この冪比例は係数に自己自身を含めた自己の自律である。ただし本質的相関だと冪比例するのは自己だけでなく、他者もまた冪比例する。またそうでなければ自己の自律も自律とならない。この双方が自律する相互限定が、比例式を自律する二者の関係式に転じる。しかし双方が自律する自他相関は、一種の無政府状態である。この無政府状態の単純な解消方法は、自他のいずれかの自律の死滅である。しかしもともと比例式は、相手の存在を前提する。もし他方の自律が死滅するなら、一方の自律も死滅する。したがって双方が自律して存続しようとするなら、自他相関における均衡を必要とする。ここに現れる自他相関は、単純な自他の量に従う等式ではなく、相互の質的関係である。その等式は、相互が擁する限界値に左右される。このときの等式は、自他それぞれを単位にした実在比である。ここでの式の一項の冪変化は量を累進的増減させ、量の累進的増減が式の一項を冪変化させる。すなわち質は量に転化し、その量が質に転化する。この実在比における質変化は、量を中間辞にした推論を構成する。ただしその推論を保証するのは、継続転化する質の量的同一である。質の量的同一を実現しなければ、その量変化の増減に関わらず、長期的に推論は偽に転じる。とは言え推論の破綻は、もっぱら質を崩壊させる量の継続的減少に従う。逆に言えば質の崩壊が露見しなければ、量変化の増減に関わらず、短期的に推論は真を装う。しかしそれは仮象である。


・生命

 自他相関における均衡は、自他双方にとって到達可能な目的である。もし均衡が実現不可能なら、その相関は一方が他方を駆逐する悪無限な直線運動となる。さしあたりそれは、一方による他方の絶対支配である。このときに一方は、自立しない他方を完全包括し、両者の区別も消失する。この直線運動と逆に、自他相関における自律の無い均衡も可能である。ただしそれは運動の無い均衡であり、停止物体の悪無限な結合である。その内実は悪無限な直線運動と変わらない。この場合でもやはり、自他双方の区別は消失する。これに対して自律を伴う均衡は、自己復帰する自己同一な全体である。さしあたりそれは自然全体の均衡がとれた物理的流動が体現している。そしてその同じ流動的均衡が、個物の中に再現される。もし自然の均衡が個物の中で再現しなければ、その個物は一方的に分散するか集積する。そのような個物は、運動の通過点に現れる物体にすぎない。すなわち物体が体現するのは、悪無限な分散と集積、または停止の直線運動である。相互自律する自己と他者は、それぞれを目的因と作用因、および主観と客観にする。一方でその相互自律の全体も、主観にとって外面的な客観である。そこでの主観は客観に内包される。しかしその内包において主観は、客観の内面を形成する。すなわち主観が客観を擁立する。それゆえにその擁立は主観を主語とし、客観を述語にした判断となる。その主語が述語に転じる「AはBである」は、主観的主語の目的意識的な客観的述語への脱自である。そしてそのように目的の自己を実現する主観が、生命である。


・認識と実践

 対自する自己は、客観の自己自身を擁立して主観の自己に脱自する。これが実現する対自態の自己は、即自態の自己を廃棄する自己自身の全体である。そこに現れる自己の概念は、客観を手段にして目的の実現において自己同一する主観である。したがってその概念は、即自態の自己に内在する自己概念の外化である。すなわち自己概念が対自および脱自を限定するのではない。それだとあたかも自己概念は、対自および脱自の単なる抽象的前提である。しかし自己概念は、対自および脱自から遊離して別に存在しない。対自および脱自それ自体が、自己の概念である。この自己概念の外化は、一方で自己にとって自己認識である。他方でこの自己概念の外化は、自己が為す実践でもある。いずれにおいても外化は、客観の自己自身を主観の自己から区別する。しかし区別された自己自身は、やはり自己である。この判断による自己自身と自己の結合は、「自己は自己自身」の判断となる。この判断は、無限定な主語の自己を、自己自身として限定する認識かつ実践である。ただしその判断は、自己の局面的真理にすぎない自己自身をもって自己を限定する。端的に言えばそれは「私は肉体」である。そしてその定言は、第三格推論の結論「具体は特殊」である。それゆえにこの判断は、第三格大前提「普遍は特殊」の偽を含む。


・衝動と自己実現

 判断「具体は特殊」において特殊は自然生命である。それは自己が実現した客体である。ところが判断「具体は特殊」の根拠は、中間辞の普遍的実在である。それは主語と述語の両方にあり、なおかつ両方の他者である。それは自己を実現する論理的生命、すなわち主体としての魂である。したがって魂が普遍的生命として自然生命を実現する。その自己実現において、自己はまず自己の具体を手段として廃棄し、その否定を通じて自己自身の種を実現する。ここでの魂は自己を手段として廃棄し、否定を通じて肉体を実現する。一方でこの種の自己にとって、類は自己の種である。そこで種の自己も自己の特殊を手段として廃棄し、その否定を通じて自己自身の類を実現する。ここでの最初の自己実現は、種が類に該当する。ただしその種は主観的な類にすぎない。それゆえにその自己実現意欲も、主観的衝動に留まる。次に種の自己実現意欲は、自己自身の類的自立を目指す。その意欲は種を客観的に自立させる客観的衝動である。そしてその実現が種を類として自立させる。全体を通じて普遍は擁立した特殊を手段として廃棄し、その否定を通じて自己を実現する。すなわち魂は擁立した肉体を手段として廃棄し、否定を通じて類の自己を実現する。ただしここでの自己実現の衝動は、種と類の双方で現れて区別されない。それゆえに種と類の両方が、判断の前提に擁立される。


・生命的客観

 判断の前提に現れる特殊と普遍、または種と類は、それぞれ作用因と目的因である。それは普遍的自己における他者と自己である。端的に言えばそれは肉体と魂である。しかし名称的区別から言えば、作用因は目的因の手段に過ぎず、目的とならない。ところが手段と目的は相互に外的であり、それぞれにとって自らが目的因である。あるいは作用因と目的因にとって、常に相手は手段であり自らが目的である。したがって作用因にしても自らを目的とし、目的因を手段とする。作用因と目的因は、それぞれ相手を手段にして自らを実現するので、その作用因と目的因の位置も逆転する。当然ながらこのことは、肉体と魂のどちらが自己であっても変わらない。すなわち肉体にとって魂は自己実現の手段に過ぎない。魂は自らを目的とする限り、肉体を主観的虚妄とする。同じように肉体は自らを目的とする限り、魂を主観的虚妄とする。魂は肉体ではないので、肉体の主観を理解できない。同様に肉体は魂ではないので、魂の主観を理解できない。ここでの肉体と魂にとって、相手は常に自己に外的な客観である。しかしそれぞれにとって相手は、自己実現に必要な媒介である。そこでその自己実現の全体は、どちらを主体にするにせよ、肉体と魂の有機的全体となる。ただしその全体過程は、どちらの主観にとっても外的な客観である。それは生命的客観である。


・直観における受容と再生

 生命的客観は主観と客観の双方の彼岸であり、双方を受容する絶対無である。さしあたりこの絶対無は、何かを受容する場として直観である。この絶対無に受容される何かは、直観の中に自己をありのままに晒す。もちろんその何かは、ゆくゆくは主観と客観に再び分かれる。しかし絶対無の中で主観と客観は区別されず、何らかの自己に留まる。それは主観と客観の否定的統一であり、そのどちらでもない生命的客観の自己である。ところがその絶対無の自己は、既に自らの絶対無の中に浮かんでいる。したがって絶対無は、既に自己の対自存在である。ここでの絶対無の中に浮かぶ絶対無は、直観された絶対無である。それは直観する絶対無と区別される。したがってその対自存在の直観は、既に受容の場としての直観ではない。それゆえに絶対無の自己も、直観された自己から直観する自己に移る。そして直観された自己は、直観する自己の自己自身に転じる。この絶対無の自己自身は自己の抽象であり、無内容な絶対無に復帰する。これに対して絶対無の自己は、無形式な感情として自己自身に対自する。すなわち感情は、絶対無の対自存在である。ただしその対自する自己自身が無内容であれば、感情もまた空虚である。しかし空虚であっても感情は、対自を自己とする。ここで再び絶対無の自己も、直観する自己から直観された自己に移る。すなわち直観する自己は、直観された自己の自己自身に転じる。それは再生した絶対無の自己である。ただしこの再生した自己は単なる受容体ではなく、感情の形式である。そしてその自己は、自己自身をそのような形式として外化する。一方で生命的客観の絶対無は、再生した自己と異なる自己も受容する。それゆえに絶対無において、自己自身も種々雑多に現れる。そして感情もまたそれに応じて種々雑多に現れる。それらの自己自身は、全て絶対無が再生した自己の存在である。


・可能と現実

 全てを受容する絶対無における存在と無の並存は、単なる混合である。これに対して存在と無の否定的統一は、両者の有機的結合である。少なくともその結合は、存在と無の転換点を有する化合である。当然ながらこの化合の前提は、存在と無が相互転換する全体である。この存在論における存在と無の相互転換は、本質論では現実と可能、あるいは必然と偶然の相互転換である。すなわち本質論における全てを受容する絶対無は、可能であり、偶然である。存在を受容した無と同様に、可能は現実を受容し、偶然は必然を受容する。そして無が存在を前提したのと同様に、可能は現実を前提し、偶然は必然を前提する。すなわち存在が無ければ無は無く、現実が無ければ可能は無く、必然が無ければ偶然も無い。このことは逆に可能を現実となる可能にし、偶然を必然となる偶然にする。したがって可能や偶然は、自己を自己自身の正反対の現実や必然に転じることで実存する。さらに言えば可能や偶然は、現実と必然を媒介にして自己を実在させる。また現実と必然の実在も、可能の現実化と偶然の必然化に等しい。それゆえに可能や偶然の形式は、可能や偶然の自己自身と非同一である。つまり実在的可能は、可能を現実にする可能でしかあり得ない。また実在的偶然も、必然を可能にする偶然でしかあり得ない。なお自己非同一の形式は、可能や偶然の自己同一と対立する。その自己同一な単なる可能や偶然は、現実や必然を拒否する。それは非現実な純粋可能であり、必然の欠けた純粋偶然である。ただしその形式的な可能は、現実化の拒否において単なる不可能である。そして形式的な偶然も、必然を拒否する非合理となる。ただしその非合理は、必然の対極に現れる影にすぎない。したがってそれは純粋偶然と異なるただの正反対の必然である。したがって形式的可能も現実となるし、形式的偶然も必然になる。それゆえにその形式的な可能と偶然は、可能と偶然を逆に否定する。それらは実在しない現実と必然である。


・判断と推論

 本質論における可能と現実の相互転換は、概念論では分析と綜合、または認識と実践の相互転換として現れる。それは推論を媒介にした判断の実現であり、手段を媒介にした目的の実現である。ここで全てを受容する絶対無は直観であり、直観の判断である。ただしそれは存在を受容した無と同様に、推論も受容する。それと言うのも直観にとって、推論が主観的か客観的かに区別は無いからである。またそもそも直観判断は、推論を前提する。なぜなら無根拠な直観は、もともと推論だからである。それゆえに推論が無ければ直観の判断も無い。このことは逆に判断を推論となる判断にする。したがって判断は、自己を自己自身の正反対の推論に転じることで実存する。さらに言えば判断は、推論を媒介にして自己を実在させる。また推論の実在も、判断の現実化に等しい。それゆえに判断の形式は、判断の自己自身と非同一である。つまり実在的判断は、判断を推論にする判断でしかあり得ない。またこのことが懐疑一般の根拠になっている。なおその自己非同一の形式は、判断の自己同一と対立する。その自己同一な単なる判断は、推論を拒否する。それは非現実な判断であり、推論の欠けた純粋判断である。ただしその形式的判断は、推論の拒否において思い込みの推論となる。したがって形式的判断も推論となる。それゆえにその形式的な推論は、逆に判断を否定する。それは虚偽の推論である。そして不可知論は、このような虚偽推論の自己純化した姿である。さしあたりその虚偽と非実在は、判断を否定する判断、あるいは推論を否定する推論として示される。


・分析と綜合

 独断が自らの根拠を求めて推論に転じるなら、独断は分析に始まり、綜合に終わる。その推論への転化では、分析は推論の小前提を成す認識であり、綜合は推論の大前提を成す実践である。すなわち独断は自己を認識し、その認識を実践により実現する。ただし推論への転化の全体は、それ自体が認識でもある実践である。そして分析と綜合はまず認識であり、それぞれ分析認識と綜合認識である。したがって独断はまず自己を局面的真理に分解し、次に局面的真理を統合し、その全体を認識と成す。もちろんこの推論による認識の擁立は、それ自体が認識と言う名の実践である。分析は既知から未知を抽出し、それを既知と成す。ただし分析は、既知を経験的要素に分解するだけである。それゆえにその経験的要素を集積して最初の既知を擁立しても、それは経験的概念に留まる。しかもその経験的概念は、既知の重要な諸部分を失っている。それゆえにその経験的概念は、要素の帰納に現れる経験的結論に扱われる。これに対して綜合は、分析が抽出した既知を再び未知と成す。綜合はこの未知を集積し、それを最初の既知と成す。この綜合が擁立した概念も、既知の多くの諸部分を失っている。ただしその失った諸部分は、綜合が廃棄した諸部分である。それは概念にとってどうでも良い非本質部分である。綜合は経験に左右されない本質部分だけを、概念に抽出する。それゆえにこの綜合概念は、経験的概念ではない。なお数理的加算は、本質の抽出を含まない。それは経験的抽出のただの集積である。したがってそれは綜合ではない。


・定義・分類・定理

 部分の集積が本質の集積であるなら、それは経験的概念と区別された先験的綜合となる。しかし本質と非本質の区別が恣意的であるなら、結局その綜合は経験的である。またどのみち先験は自らが現れるために経験の媒介を必要とする。この現実的な事情はとめどない先験認定の動揺を制し、経験的概念をさしあたりの定義にする。そこでの本質は、対象の目印となる第三者的特徴Merkmalである。しかし本質を根拠づけるのが経験であるのは、やはり本質にとって不名誉である。そこで定義が自らを根拠づける推論は、自己分析に入る。それは定義の普遍における特殊の分類である。分類は定義が含む対立を仮言に代えて、定義に関係限定を与える。この定義の対自が擁立するのは、第二定義としての定理である。しかし定理が相変わらず経験的要素に留まるなら、定義と定理の一致は同語反復にすぎない。定理を単なる経験的要素の混合と区別するのは、定義に対する仮言と選言の関係限定である。この関係限定は定義の含む対立を中和し、定理を化合にする。ここで化合が擁立するのは、関係限定の総体であり、選言である。ただしこの選言は判断であるにせよ、その判断の目的から言えば手段にすぎない。さしあたり分類の分析と定理の綜合が擁立する全体は、それ自身が分析であり、認識に留まる。


・証明

 認識は定理を擁立する一つの実践である。しかし実践はもっぱら認識が擁立した定理から始まる。すなわち実践は、定理の実現である。それゆえに認識が推論の小前提「具体は特殊」であるのに対し、実践は推論の大前提「特殊は普遍」となる。その実践判断は主語の特殊を廃棄して、述語の普遍を擁立する。したがってやはり認識と実践は区別される。その始まりの具体は直接的普遍であり、終わりの普遍と同じものである。つまり小前提は具体から抽象を擁立し、大前提は抽象を具体に復帰させる。それは特殊が廃棄した具体であり、認識の主語に現れた自己である。したがって実践は認識の主語を実現することで、認識の全体を証明する。一方で証明は、定理の真の認識である。それは実践でありながら認識である。それゆえに認識が一つの実践であるように、実践も一つの認識である。むしろ認識は実践によってのみ自己を実現する。


・形式的証明

 形式的証明は対象と認識、すなわち認識されるものと認識したものの一致である。この証明はそれ自身が実践である。しかしその実践は同語反復である。そこでその一致確認は、具体の媒介を必要とする。このときに「特殊は普遍」は、中間辞に根拠となる具体を擁立する。それゆえにもっとも単純な経験的証明では、対象の感覚的媒介が現れる。その最も卑近な例は、物体を手に取ったときの存在確認である。ここでの手の触感は、そのまま存在証明である。それが証明であるのは、定理が含む関係限定に従う。すなわち「手に取れば」の仮言において「触感がある」との第三者的特徴が確認されるなら、それは判断の主語の「物体」と述語の「存在」を一致させる。もちろんそれが証明するのは物体の存在だけであり、物体がどのような存在なのかを何も説明しない。さらに述語との一致に対し「必要があるなら」の仮言を加えることで、証明について諸条件を追加することも可能である。手の触感だけだと主語の物体は夢か幻であるかもしれないからである。それにはさらに確認の第三者的承認を加えることも含まれる。逆にもし対象の定理が触感の不在を含むなら、その確認も逆になる。例えば「虹」に触感は無い。虹をつかんでみて触感が無いなら、それは虹の存在証明となり得る。もし虹をつかんでみて触感があるなら、それは虹ではなく、別の虹色の物体である。


・手段と目的

 形式的証明は、定理を媒介にして定義に復帰する実践である。もしその証明の全体が普遍であるなら、認識と実践の全体も完結する。言わばそれは対象を捉える捕食であり、正常系の単純な生命活動である。その実践は正常であるがゆえに目的と一体である。しかし間違った認識は、間違った実践に直結する。この場合に証明の全体は特殊に転じる。それは正常な実践を実現するための特殊な実践である。その実践は不正常であるがゆえに目的と乖離する。この特殊な実践は目的との比較で手段として現れる。それは災いをもって福と成すための媒介項である。ただし間違った実践は、正しい実践も特殊に転じる。このときに形式的証明における定理を媒介にした定義への復帰は、最初から普遍ではなく、特殊であったことが露見する。すなわち形式的証明の全体は、もともと一つの特殊である。したがって形式的証明は手段を実現するだけに終わる。それゆえにその「具体は普遍」から「具体は特殊」への変転は、その根拠となる中間辞の擁立に進展する。このときに中間辞の普遍が擁立されると、その普遍は形式的証明の目的となる。そして形式的証明は、それ自身がただの手段に転じる。


・主観的目的と事

 最初の形式的証明における根拠は直接的客観である。それは具体的作用因であるが、普遍的目的因にもなっていた。しかし形式的証明の対自は、間違った実践を媒介にして根拠を作用因と別に擁立する。このときに対自が擁立した根拠は目的因となり、その目的に対して作用因は手段に格落ちする。このことは「定義は定理」の主語述語の主従関係を不定にし、「定理は定義」の逆転を可能にする。この作用因から目的因への根拠の移動は、現実から理想への実践の根拠の移動に等しい。そしてそれは主語を作用因から自由な主体に変える。したがって作用因の格落ちは、作用因に準じることで間違いを犯した述語の怨嗟を表わす。ところがその主観が擁立した目的は、良く言えば自由の発露であるが、悪く言えば恣意である。それゆえに「客観は主観」の不定が、「主観は客観」に逆転するのは、やりすぎである。経験論に準じて言えば往々にその恣意的目的は、新たな間違った実践を誘発する。その間違った実践は、再び恣意的目的因を廃棄して作用因の目的因への復帰を促す。この場合に恣意的目的は、最初の作用因と同様にただの手段に転じる。そこで具体的作用因を根拠づける普遍的目的因の擁立は、具体的目的因を根拠づける普遍的作用因の擁立に至る。プラトン式観念論の場合、その普遍的作用因は主観の彼岸に現れる客観的イデアである。しかしヘーゲルにおいてその普遍的作用因は、恣意の擁立を包括する全体である。それは作用因から目的因への根拠の移動を包括する一連の具体的形式であり、事(仕事)として現れる。


・価値

 主体の推論は、目的因を作用因の根拠に擁立する。またむしろこれによってこそ主体は、作用因から自由な主体となる。逆に作用因は主体を制約するだけの客体となる。つまりその作用因は、主体を制約するだけの物体である。この作用因に対して主体が擁立した恣意的な目的因は、主体の自由そのままであり、主体と区別されない。ところがその目的因は、明らかに作用因を制約するほどの力を持っていない。とは言えその無力への失望が目的因をただの作用因に引き戻すと、主体の推論も出発点に引き戻される。それは主体の推論を悪無限に引き込む。それゆえに主体と一体の目的因は、やはり主体と区別された別の客体でなければいけない。ただしそれは客体を偽装した主体である。それは主体が客体を偽装した表象と同じく、自己が廃棄した自己自身にすぎない。ところが目的因を客体に転じると、目的因は一つの作用因になる。ここで目的因を最初の作用因に引き戻してはいけないのであれば、目的因は最初の作用因と異なる別種の作用因でなければいけない。そして最初の作用因は、主体を制約する物体である。したがって目的因が転じる新たな作用因は、非物体の観念でなければいけない。ここにおいて目的因は、価値として現れる。


・善

 価値は非物理的客体であり、物理的客体と非物理的主体の両方を限定する根拠である。ところが妙なことにこの目的因としての価値は、主体と一体でありながら、主体と区別された客体である。この主体と客体の間を動揺する価値は、そのまま主体の価値と客体の価値に分裂する。ヘーゲルは区別していないが、このときの主体側の価値は美である。そして客体側の価値が善である。美と善は価値として同一であり、その主体からの距離において別物として現れる。美による主体の支配は、主体の自己支配である。これに対して善による主体の支配は、客体の主体支配である。それゆえに主体は善による支配を希求しながら、その支配を嫌悪する。しかしこの嫌悪は実際には逆方向にも成立する。すなわち主体は美による支配を希求しながら、その支配を嫌悪する。ただしいずれの嫌悪の根拠も単純である。その嫌悪の原因は善と美が含む虚偽にある。真の善と美はそのような嫌悪と無縁である。またそうでなければその善と美は、そもそも善でも美でもない。善は価値の悟性的表現であり、美は価値の感性的表現であり、同じものである。その分離は主体と客体の分離に従う。そしてその分離自体が両者を虚偽にする。この分離は、主客の差別が眠るように消去すると同時に消失する。


・悪

 価値は目的因であり、物体や観念の理想を表現する。その理想は主体において目的である。そして哲学における主体は、神ではなく人間でなければいけない。したがって価値は人間の目的であり理想である。それゆえに価値を根拠づけるのは、人間生活である。この点で椅子の価値は、人間生活を実現する形状と性質である。それは椅子が必要とされる局面に応じて変化する。そしてそれに応じて個々の椅子の価値も決まる。この同じことは人間自身に対しても適用される。ただし人間において物理的な形状と性質は、個々の人間の価値で問題にならない。人間の価値の高低は、家族と共同体の人間生活を実現する知性と人間的行動に従う。それは椅子の場合と同様に、必要とされる局面に応じて変化する。さらにそれは類において人間生活のより多くの規模と内容を実現することで高まる。そしてそのような価値が人間の善を決定する。したがって善は人間に対してだけ限定される価値である。椅子のような道具に対して与える価値は善と呼ばれない。価値の高い椅子に対しては「善い」ではなく、「良い」が充当する。ただし善の対極となる低価値は、人間においても道具においても悪が充当する。それと言うのも人間の低価値は、道具の低価値に類比され、さらに低価値な道具以上に人間生活の破壊を実現するからである。なお「哺乳類」とか「血痰」とか「正夢」のように道具に値しない物体や観念は、そもそも人間の理想にも目的にならない。さしあたりそれらは選言において概念になるだけであり、手段となるだけに留まる。


・絶対理念

 善は客体を偽装した主体であり、主観的目的である。それはまだ存在していない。すなわち主観的目的は非現実である。ところが現象世界は主観であり、むしろ主観的目的の方が客観である。したがって今存在する現実は、客観的現実ではない。そこで主観的目的は、今存在する現実を廃棄し、自らを現実化する。ただしこの現実化は、主観的目的自身も廃棄する。それは現実化した目的において既に手段となっている。そして目的は現実化することにより、自ら客観的目的となる。もともとこの客観的目的は善の主観的目的であり、主観的目的は推論が擁立した価値である。この価値は作用因を根拠づける目的因であり、作用因の実体である。そして作用因は、判断が擁立した認識の対象である。つまり判断の認識対象は、善が実現した客観的現実である。したがって主体の対象認識も、善の実現において完遂する。この認識と善の一体が絶対理念である。それは一つの仕事の全体として現れた認識であり、認識したものと認識されるものの分離を放置して両者の一致を企てる形式的証明ではない。それは認識したものを認識されるものとして擁立する。すなわち両者は最初から一致している。ここでの目的因は最後に結果として実現するので、原因と結果は同じものである。因果は作用因を媒介にして自己復帰するだけである。それゆえにその絶対的相関は、部分において因果を現すが、全体として因果から解放される。部分における因果を限定しているのは、主体の自由である。


・方法

 概念論の後半の内容は、存在論における事(仕事)、および本質論における絶対的相関の概念展開に該当する。ここでの主観的目的は、自ら実現することで自己を客観的目的に転じる。これにより主観的存在は時空の制約を外れた事となり、主観的本質も形式的因果から自由な絶対的相関となる。しかし客観となることで主観的善が真になるのは、結局ただの現状追認である。そもそも非存在のはずの主観的目的が既に存在しているのは、逆に主観的目的から客観的現実の資格を剥奪し、それをただの外的現実に変える。やはり主観的目的が客観的目的となるのは、その実現より前でなければいけない。非存在の主観的目的は、非存在のままで既に客観的目的となるべきである。そしてその客観的現実を根拠づけるのは、主体の恣意ではなく、主観的目的の真でなければいけない。唯物論から言えばこのときに目的因を根拠づける真は、やはり作用因である。一方で目的の自己実現を目的の客観化に扱うヘーゲルにとって、作用因は目的因の外的な他者である。すなわち主観的目的を客観的目的に転じる真は、唯物論式の物理的真ではない。当然ながらそのような主観的目的の真は、主観的目的に内在すべきである。ここでヘーゲル論理学の最終章は、方法の問題に入る。なぜなら主観的目的に内在する真は、方法だからである。ただしそれは感性的存在の定義を擁立する形式を指すものではない。そのような形式は、無限定な感性的存在の内在形式から流出する不出来な抽象を超えない。同じことは無限定な具体的全体から普遍を抽出する悟性の外的反省にも該当する。いずれも対象を対象の外側から理解するだけの不完全な方法である。


・弁証法

 感性的存在を認識する形式的方法、または抽出において普遍を擁立する外的反省に対し、ヘーゲルが代置する絶対的方法は弁証法である。ただしその内容は、大論理学の全体を通じてヘーゲルが陳述してきた内容を超えるものではない。それと言うのも既にヘーゲルは、媒介を通じて最後に概念として自己実現する事を存在と示しているからである。したがって陳述の諸媒介を通じて最後に自己実現する論理学も、それ自身が論理学の内在的真であり、つまり弁証法となる。ただしこの結末は、大論理学の陳述理解に疲れた読者に対して憩いではなく、失望をもたらす。さしあたりその失望は、その論理学の無益さに対している。もし哲学が現状打開の指針提示に供するべきであるなら、そしてヘーゲル論理学がそれに全く役立たないように見えるなら、この失望は憤慨に転じる。そして実際にヘーゲルの門弟哲学は、その憤慨をバネにして多方向に分解することになった。とは言えヘーゲルの門弟たちは、ヘーゲルを完全に見捨てたわけでもない。また見捨てるほどにヘーゲル論理学が無益な抽象物なのでもない。そもそもヘーゲルが示した認識における媒介の必要は、他者の媒介を必須とする民主主義と同義である。民主主義さえ実現しない世界においてヘーゲル論理学が無益になるはずもないし、民主主義を拒否した偽共産主義にヘーゲルを超えられる道理も無い。逆に原点に確認する意味でも、共産主義はヘーゲル論理学に立ち返り、そこで何が語られていたのかを見直す必要がある。

(2022/08/30) 前の記事⇒(存在論・本質論・概念論の各第二章の対応)


ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


唯物論者:記事一覧


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヘーゲル大論理学 概念論 ... | トップ | ヘーゲル大論理学 概念論 解... »

コメントを投稿

ヘーゲル大論理学概念論」カテゴリの最新記事