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唯物論の再構築

剰余価値理論(2)

2012-08-19 01:12:07 | 資本論の見直し

 剰余価値率とは、商品生産における必要労働部分に対する剰余労働部分の比率を指す。前回記事の剰余価値理論の基礎モデルには、まだ剰余価値率自身の法則性は登場していない。現実にはこの剰余価値率は、資本一般での平均利潤率を実現する値に収束する。それは、市場価格が競争を通じて商品の再生産に要する労働力を表現する特定価格に収束することと、歩を一にしている。もし商品価格が、共同体的生産者の商品のように単純に生産コストだけで語れるなら、価格は労賃対価だけで説明され得る。しかし資本主義的生産者の商品のように不労所得を考慮に入れると、価格は労賃対価だけで説明され得ない。そのことは、剰余価値率の法則性を示さない限り、労働価値論における価格理論は成立しないことを意味している。このことを踏まえてマルクスの示した価格理論が、資本論第三巻で登場する生産価格論である。そしてそのことをもってエンゲルスは、資本論第三巻が価値の価格転形を展開すると約束していた。一方でバヴェルクは、エンゲルスの考えに対し、その約束は果されていないとみなしている。ただし資本論第三巻に登場した生産価格論は、紛れも無くマルクス自身による価値の価格転形を目指した理屈である。生産価格論は、労働価値論の歴史を内包した理屈となっている。したがってその内容とその内包する問題点の理解のためには、剰余価値生成の歴史的出発点、すなわち資本主義的生産開始の歴史を理解する必要がある。

 剰余価値理論では、資本主義的生産者、または封建主義的支配者の商品は、それが利潤を生む限り、商品の中に不払い労働が生産した部分を含む。それに対して共同体的生産者の商品は、商品の中に不払い労働の生産部分を含まないし、また含む必要も無い。共同体的生産者にとっての自らの生活は、市場において自らの商品を、自らの商品が含む労働力に相応する商品と交換し、それを消費することを超えないからである。もし共同体的生産者における過剰な利益が発生したとしても、共同体的生産者は常にそれを過剰な労働の結果として理解している。その意味で共同体的生産者の商品交換は、労働価値論における労働の等価を前提にしており、そもそもそれを疑う必要も無い。この共同体的生産者は、その内部に階級分化の種を常に抱えている。しかしそれは種のまま発芽しない。生産力の低さが、現実的な力となって不労所得の発生を抑止しているからである。

 このような共同体的生産者の商取引に対し、封建主義的支配者の商品交換は、交換において前提になっていた労働の等価を破壊した。労働せずに商品を受け取る階級の登場は、商品交換をあからさまな単なる収奪に変えたのである。ただし名目上この収奪も、支配者による共同体の維持サービスと被支配者の貢物の等価交換となっている。しかし現実の封建主義的支配は、商品交換における労働の等価を最初から拒否しており、支配者が受け取る利潤にも、その出生の痕跡を生々しく残す。したがってこの商品交換には、不労所得発生の謎、すなわち利潤発生の謎は存在しない。

 共同体的生産者の商取引において自明なものとして前提されていた労働の等価は、さらに資本主義的生産者の商取引でも自明なものとして現われない。なぜならこの商取引の抱える特殊な事情が、その商品の等価交換自体を疑問視させるからである。そしてその特殊な事情は、この商取引が等価交換であったとしても、商品における労働の等価交換を疑問視させる力を持っている。このような疑問視を生む特殊な事情とは、労働せずとも商品を受け取る資本家の存在である。封建主義的支配者の商品交換において利潤は、単なる収奪の結果として現われた。しかし資本主義的生産者の商取引において、利潤は単なる収奪の結果として現われない。封建主義的搾取が商品の不等交換として現われたのに対し、資本主義的搾取は商品の等価交換として現われるからである。仮に産業の種別や部門を背景にして商取引に不等交換が存在したとしても、その不等価は商品交換における労働の不等価をそのまま永続的に表現できない。商品交換における労働の不等価は、生産者全体が構成する市場原理が、資本の移動を通じて矯正するからである。言い直すと、より少ない労働力で同じ等価物を実現する商品があるなら、全ての資本がその商品生産への移動を目指すからである。この市場原理は、商品交換が依拠する商品価値が、労働力にほかならないという労働価値論を既に示している。つまり資本主義的生産者が目指す利潤とは、限界効用理論が考えたような主観的快楽という観念ではなく、現実的な労働力という物質なのである。しかし資本主義的商取引における等価交換の事実は、不等交換を通じた利潤の生成という封建主義的搾取の常識に反している。このことは古典派経済学において、利潤発生の謎として存在した。そしてこの謎に答えたのが、剰余価値理論である。剰余価値理論は、等価交換が支配する商品市場に入る前に、等価物の介在が不要な形で既に不等交換が終わっていることを示し、利潤発生の謎に答えたのである。

 生産者内部において階級分離が存在しない共同体的生産者、それに対して生産者内部において階級分離が存在する資本主義的生産者とでは、両者の商取引における商品の価値構成に差異がある。共同体的生産者の商品は、必要労働だけを含んで不払い労働を含まないのに対し、資本主義的生産者の商品は必要労働のほかに不払い労働を含むからである。当然ながら共同体的生産者と資本主義的生産者の生産力水準が同じなら、共同体的生産者の商品は、資本主義的生産者に対して、その必要販売量が常に少ない。すなわち共同体的生産者は、資本主義的生産者に対して組織的耐久性が高い。そのことは、資本主義的生産者の利益を侵食し、共同体的生産者を常に優位に立たせる。このために共同体的生産者と資本主義的生産者の競争は、通常は競争自体が成立しない。共同体的生産は、資本主義的生産を必要としない産業部門、例えば農業などの一次産業を陣地にして小資本家集団を形成する。

 共同体的生産と資本主義的生産の住み分けは、共同体的生産の介入をよせつけない生産手段の要否が決定する。生産手段の要否は、溶鉱炉や機関車のような大型の道具や機械、それを維持する人的組織を必要とする産業部門に資本主義的生産を振り分ける。この住み分けは、資本主義的生産者を共同体的生産者との競争から解放し、資本主義的生産に独自の価値法則を成立させる。それは剰余価値の価値法則である。すでに述べたように、資本主義的生産の商品は、必要労働のほかに不払い労働を含む。不払い労働が大きい産業部門は、不払い労働が小さい他の産業部門に比べて、資本家により大きい利潤をもたらす。特定の産業部門に不払い労働の偏りがある場合、その旨みは他の産業部門の資本家を誘致し、業種を超えて多くの資本を呼び寄せることとなる。生産条件の独占などの資本移動を受け付けない特殊な条件が存在しない限り、この資本移動が停止するための条件は、不払い労働の比率がその社会の平均水準より下回ることだけである。すなわち資本移動は、資本一般での平均利潤率の実現において収束する。それがなぜ平均剰余価値率ではなく、平均利潤率なのかと言えば、不変資本が労賃と同様に総売上に対する費用として現われるからである。

 労働価値論では、市場の需給関係が決定する商品価格を、商品の再生産に要する労働力の価値表現とみなす。だとすれば同じように、資本主義的商品の価格が内包する剰余価値部分にしても、それが平均利潤に対応するにせよ、何らかの意味があるはずである。容易に想像されるのは、それが商品の再生産に要する資本の価値表現だという考えである。もともと剰余価値は、労働の総生産物から労働対価部分を除いた残余である。労働者が2万円を生産し、その労働対価が1万円であるなら、残余としての剰余価値は1万円である。したがって仮に労働者が10万円を生産しても、労働者は賃金1万円を受け取るだけであり、残余9万円は資本家が受け取る。この資本家的強欲の報酬が果たして高いのか安いのかは、難問である。判明しているのは、それが平均利潤を上回るなら、資本移動を受け付けない特殊な条件が存在しない限り、資本市場の需給関係が、間違い無くその暴利を平均利潤にまで押し下げることだけである。逆にそれが平均利潤を下回るなら、その産業部門から資本が撤退するはずである。その意味するところは、その産業部門の資本家に飢餓が発生していることである。つまり不労所得だけで生活する資本家にとって、安い商品価格は、既に商品の再生産に要する資本価値を喪失している。労働者にとって、商品価値全体に占める必要労働部分こそが価値実体である。しかし資本家にとって、商品価値全体に占める剰余労働部分こそが価値実体の名にふさわしいわけである。

 かくしてマルクスの生産価格論は、剰余価値理論の基礎モデルとしての図2を、次の図3のように改変する。

[図2]       必要労働 剰余労働
      商品価値 価値実体 剰余価値

[図3]       必要労働 剰余労働
      生産価格 費用価格 平均利潤

マルクスによるこの改変は、見事と評価することもできるし、どこか変だぞと疑惑を持つこともできる。実際にバヴェルクは、この解決に納得しなかった。ただしバヴェルクの場合、その批判にそもそもの労働価値論に対する勘違いがあるように見える。バヴェルクに比べると、同じ視点でなおかつ正当に生産価格論に噛み付いたのが宇野弘蔵である。ただし宇野弘蔵は自らの論点を整理し切れておらず、筆者の見るところでは、転形問題の解決をしたのは櫻井毅である。

(2012/08/19)(続く)



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