唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(A章.意識)

2016-05-07 20:29:07 | ヘーゲル精神現象学

 「精神現象学」でヘーゲルは、感覚的所与から始まり絶対知へと到達する精神を記述することにより、論理自らの生成を説明する論理学を構築した。ここでは、精神現象学のA章にあたる意識の章を概観する。

[A章全体の概要]

 直接知に現れる感覚が知覚を生み、この知覚がさらに物と意識を生む。これらの対象の真理は、対象の即自存在と対他存在、すなわち対象自体とその現象に分裂して現れる。しかしヘーゲルにおいてこの存在形態の分裂は、ただ単に対象の運動を現すものに過ぎない。つまり対象自体は潜在する力であり、その力の現れが現象であり、結局いずれも力として同じものである。対象の存在は、内在的な力に一元化され得るわけである。しかしその力の形式は、そもそも自らに対立する別の形式に対抗して現れるものと考えられる。法則とはこの二重の形式を統合した円環の形式であり、その全体は再び直接知へと回帰してゆく。これにより直接知は、自らを自己意識として理解することになる。


1)感覚と知覚

 ヘーゲル弁証法における始まりの直接知に現れる感覚とは、五感や感情などの所与的存在者である。直接知においてこれらの感覚は、自らの真理を廃して知覚へと転じる。ここでの知覚とは、所与的存在者が持つなんらかの共通の性質を体現した一種の標識である。直接知は知覚を定立することにより、各種の所与的存在者についての何らかの本質を実現する。したがって知覚とは表象でもあり、さらに言えば言葉のことを指す。もともと直接知は、世界でもあり意識でもあるような原初的存在であった。しかし知覚の登場において、直接知は感覚と知覚に分裂する。


2)知覚と物

 次にこの知覚も、自らの真理を廃して物へと転じる。ここでの物とは、知覚の真理を統合し、対象として知覚が定立した異存在である。すなわち物とは、知覚にとって知覚ではない存在である。さらに意識の登場を待って言い直すなら、物とは意識にとって意識ではない存在である。逆にこの物との比較で言うなら、当然のこととして知覚は物では無いし、感覚にしても物ではない。それらは端的に言えば意識である。しかし実際には知覚と同様にこの物も、もともと直接知が作りあげた存在であり、言わば直接知の作品にすぎない。ところが物の登場において知覚の真理が廃されているので、物だけが真理として現れる。当然ながら知覚の誤りも、物において正されることになる。ただし注意すべきなのは、ここでの知覚と物は、やはり感覚的真理の単なる代替品にすぎないことである。したがって知覚の誤りは、実際には物によって正されるわけではない。感覚と知覚、知覚と物、さらには感覚と物の三者間で齟齬の調整が行われ、その調整の結果で真理と認定されたものが物であるにすぎない。つまり物の真性は、物の真において規定されるのではなく、真なる存在を物として扱うことにおいて規定されている。逆に言えば物に誤りがあるとすれば、既にそれは物ではなく、単なる感覚や知覚にみなされる。すなわち「勝てば官軍」の如く、真であれば既にそれは物なのである。したがって感覚と知覚の二者だけを比較すると、感覚はその所与の真性において、あたかも本来の物の如く現れる。ただしそれは、端的に言えば錯覚である。


3)物と意識

 一方で意識とは、このような物と異なる存在である。すなわち直接知が物との比較で真偽不安定な存在として定立した存在、それが意識である。当然ながら物が定立されなければ、意識も定立され得ない。同様に物が意識の外に実在するかのような事実的性格も、意識の定立において完成する。物があってこそ初めて意識は定立され、意識があってこそ物の実在性も生まれる。ただし意識は、自ら物の真から外れることで物の真の完成者としての役割を果たす。対象の真は、偽を通じた逆説的な二重否定において説明されるからである。


4)対象自体とその現象

 このように物の真は、物に実在性を与える。逆にこのとき物と区別された意識は実在性を持ち得ない。すなわち物こそが存在であるなら、物ではない意識は無である。ところが意識自らにおいて意識は存在する。そこで意識が自らを存在に扱うなら、今度は物が無として現れる。このような実在と非実在の反転は、物と意識の間だけではなく、物同士の間でも起きる。いずれの場合でも物や意識は、他者に対して対他存在として関わる一方で、自らにおいてその対他存在を廃して即自に存在する。例えば物体は、他者に対して色や重さなどの多数態として現れる。しかし物体自身にとって自らは、常にそれらの対他的な性質と無関係な自立した一者である。結果的に物や意識は、存在する無、対他的な即自、多数態にある一者として自らの矛盾を引き受けなければならない。ただしヘーゲルにおいてその矛盾の解消は、対立規定の非合理な並存や相互浸透の衒学的把握を指していない。なぜならその矛盾の解消過程は、それ自体が物や意識の運動だからである。したがって矛盾対立するように見える二つの契機も、物や意識の継時的な二局面にすぎないか、あるいはその継時性を喪失した派生的な単なる二側面にすぎない。当然のことながら、存在と無、対他と即自、多数態と単一性の相反する姿も、例えば実在の出現、他者からの自立、内容からの形式分離のような形でその矛盾した両契機を存立させる運動として現れる。二契機の対立が矛盾として現れるのは、この運動を静的に捉える限りの仮象にすぎないわけである。またそのような物や意識の運動を明らかにしてこそ、それらの動態的理解も完成する。もちろんこのような矛盾対立の動態的な統一把握は、それらの物や意識の概念成立と同義である。


5)現象運動と力

 ヘーゲルは、ここで物や意識の運動の規定者を力として捉える。その動態的理解では、内在的な対象自体の外化、すなわち対象の認識は、そもそもそれ自体が対象の運動である。当然ながらそもそも認識対象の即自存在は、力の発信源として存在する実体にほかならない。他方の認識対象の対他存在として現れる全ての性質、例えば色や音や重さや熱なども、全てその実体の対他的な現れにすぎない。ヘーゲルは、このようにして実体を現象するものとして扱うことで不可知論を頭から否定する。ヘーゲルにおいて現象しない実体とは、最初から存在しない実体である。結果的に即自存在とは現象する前の潜在的な力であり、対他存在とは現象として発現した力であり、いずれも力として同じものとなる。これにより実体と現象の間にあった区別も、ひとまず外面的な区別として消失する。ただしその同じ力の区別は、潜在する力と現象した力の間の区別として内面化して残る。つまり実体と現象の区別は、今度は悟性的な区別として現れるようになる。


6)力の法則と無限循環

 感覚から始まり力に至るまでの知覚の弁証法は、それ自体が力の形式であり、対象となる所与的存在者の法則を示す。しかしそれは、所与的存在者の運動を単純に示すだけであり、その法則自身の必然性を説明しない。そこでヘーゲルはこの必然性を、既存の法則に対立する第二法則において見出す。この第二法則は第一法則の転倒法則であり、それだからこそ第一法則が要請される。逆に第一法則も第二法則の転倒法則として、第二法則の存在を必然化する。もし第一法則が右方向の必然であるなら、第二法則はそれに対抗する左方向の必然である。逆にもし第一法則が下方向の必然であるなら、第二法則はそれに対抗する上方向の必然である。したがって極端な例を考えると、法則としての第一法則は、偶然に支配された無法状態と言う第二法則において必然化されており、あるいは逆に形骸化した第一法則からの離脱が第二法則を必然化することになる。例えば第一法則が単なる偶然として現れるなら、第二法則はそれを偶然たらしめる必然である。逆にもし第一法則があるべき必然であるなら、第二法則はそれを要請する偶然である。この対立する二つの法則は、相互に補完し合う形で共存して無限循環の円環をなす。この相互補完的に現れる対立する法則の無限循環とは、煎じ詰めるなら力が現象する対他的法則と逆に力が潜在化する即自的法則の無限循環となっている。


7)対自存在

 無限循環が閉じた体系であるなら、本来なら無限循環の外に立つ神の目線の中でのみ無限循環は現象すべきである。ところが直接知は、全ての無限循環の閉じた体系でありながら、自らの内に無限循環を現象している。ただしそのことは、驚くようなことではない。無限循環の全契機は、どれも直接知自らの内で現象しているからである。つまり直接知は、直接知自らを知るだけである。このことにより直接知が現象する対他的法則は、直接知自らに現象するだけの対自的法則にすぎなかったことも判明する。すなわち直接知は、即自存在でありながら、なおかつ自らを自覚する対自存在なのである。このような直接知の自己認識こそが、混沌とした感覚としてあった自らを自己意識にまで昇格させる。今では意識は、対象自体が現象した概念としての自己意識である。または即自存在が対自存在となる無限循環としての自己意識である。さらに言えば主語が述部である文章としての自己意識となっている。

(2016/05/07)続く⇒(精神現象学B)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項    ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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