唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 存在論 解題(第一篇 第一章 存在)

2019-12-08 20:42:12 | ヘーゲル大論理学存在論

 「精神現象学」では直接知の知覚への限定、すなわち「これ」「いま」「ここ」は突如として現れた。「大論理学」でのヘーゲルはこの精神現象を説明すべく、ソクラテスの「無知の知」を真似る形で、始元存在の質から無を引き出し、限定を出現させる。そして素朴実在論における実在説明、すなわち殴ると感じるから物は在るとの実在説明と同じ要領で、直接知の知覚への限定を締めくくる。ここでの限定の由来の観念性は、ライプニッツに始まり後にハイデガーに「なぜ無いのではなく在るのか」と言わしめ、サルトルに「無はどこから来るのか」と言わしめたものと同じものである。以下では存在論において始元存在が限定存在へと展開するヘーゲルの説明を概観する。

[第一巻存在論 第一篇「質」第一章「存在」の概要]

始元存在から派生する限定・質・契機・観念などについての論述部位

・成     ・・・始元における存在と無の無時間的反転
          無を包括する無限定な始元存在。
・止揚    ・・・存在と無の二元論と両者の区別欠落の一元論の回避。
・限定    ・・・始元存在における無限定に始まる限定
・質     ・・・限定内容
・限定存在  ・・・限定された存在としてのDasein
・生成と消滅 ・・・始元存在の二様の現れ方
・運動と静止 ・・・生成と消滅の二様の現れ方
・根拠    ・・・均衡状態の成における運動の生成
・結果    ・・・運動が消滅した静止状態の成
・契機    ・・・成における存在と無の反転。成の限定。
・観念    ・・・運動の媒介により直接性を失って現れた直接知の無。
          契機において限定され、存在と無の対立を止揚した成の質。


1)存在と無の無時間的反転としての「成る」

 純粋存在と純粋無は、それら自身の無限定性において同一のものである。しかしそれでいて互いに相手を自らと区別する。そこで純粋存在はその虚無において純粋無に反転し、純粋無はその虚実において純粋存在に反転する。それは時間進行に伴う生成や消滅ではなく、無時間的な反転である。そしてこの無時間的な反転が始元存在を成にする。すなわち「ある」は「成る」である。ここで両者の同一性を否定し、両者の区別に固着する場合、その考えは純粋存在と純粋無の二元論へと落ち込む。逆に両者の区別を否定し、両者の同一性に固着する場合、その考えは純粋存在と純粋無が始元存在の二面であるのを忘れる。無限定な純粋存在と純粋無は、それぞれ始元存在の限定された抽象にすぎない。そして限定がなされた以上、純粋存在と純粋無の区別は、既にその限定の必要を内に含む。そもそもこのことは、言葉の上で存在と無が分離していることに現れている。「成る」は同一の二者の分離の止揚を表現する。「成る」において二者は、同一のものとして分離する。それゆえにヘーゲルは、本質から実存への遡及を否定するカントに対し、両者の区別の必要に賛同しつつ、その区別の止揚による廃棄を提唱する。


2)質および限定存在Dasein

 無限定な純粋存在と純粋無が限定された抽象に転じたことは、純粋存在または純粋無の内に無限定な始元存在の「ある」を見い出すのを不可能にする。純粋存在には無は無く、純粋無にも存在は無いからである。同じことは存在と無に限らず、純粋空間と延長、純粋時間と思惟などにも該当する。この限定された抽象にすぎない純粋存在に対し、無限定な始元存在は無を包括する。始元存在には存在と無の区別が無いからである。言い換えるなら、神は悪をも包括する。このことは、始元存在が無限定であることに現れる。すなわち始元存在は、自らの無限定において自らを限定する。言い換えれば、始元存在は自らの自由において自らを限定する。そしてこの限定は、始元存在の質として現れる。また自らを限定することにおいて始元存在は、現存在する。このように限定において現存在する始元存在は、限定存在Dasein、すなわち「である」に転じている。ちなみに始元存在が限定存在に転じるより先に、純粋存在と純粋無は既に限定存在に転じている。両者ともに始元存在との区別において、純粋存在は虚無として現れ、純粋無も虚実を得ているからである。


3)成の生成と消滅の二様態

 始元存在は始元である。それゆえに始元存在の質は無限定である。これに対して純粋存在と純粋無の二元論は、純粋存在と純粋無をそれぞれ純粋な存在と無として限定する。そしてその限定のゆえに、純粋存在と純粋無は始元たり得ない。このために二元論における論理の開始点は、無限に遡及する。このようなことでヘーゲルにおいて無限小は無に等しい。ただしその無は、存在を包括する無であり、純粋無ではない。当然ながら、この全ての正反対が無限大に対して該当する。そこで「成る」としての始元存在は、生成と消滅の二様に現れることになる。そしてさらにこの生成と消滅の「成る」それ自身にしても、生成と消滅が可能である。始元において「成る」は均衡しているが、「成る」の生成において「成る」は運動し、「成る」の消滅において「成る」は静止する。この「成る」の運動と静止は、始元存在を限定する。したがって始元存在は、この「成る」の運動と静止においても限定存在に転じる。


4)観念への止揚

 均衡する「成る」は運動の根拠として現れ、運動の結果として「成る」は静止する。ただし分離して現れるこれらの根拠や運動や結果は、全て一つの「成る」である。そして全体の一つの「成る」として静止することにおいて、「成る」は無としての「成らない」を発露する。この無の発露は、「成る」の存在の無への反転を表現する。それゆえにこの無の発露は、「成る」にとって契機である。すなわち契機とは、「成る」の限定である。そしてこの限定において「成る」における存在と無は、観念に転じる。観念とは、媒介を通じて現れた「成る」の存在に現れた無である。観念が無であるのは、それが直接知の直接性を失った「成る」の質だからである。「成る」の諸限定は観念に昇華し、観念として保存される。この「成る」における存在と無の観念への昇華および保存が、止揚である。ヘーゲルは契機の例示を、梃子における重量と均衡点の空間的距離をもって行っている。すなわち或る距離において重量の影響力が無に転じ、その無が直接知としての重量を観念に変える。この重量の観念化において、梃子の均衡点はそのまま存在が無に反転する契機となっている。そしてその重量は契機において観念化される。すなわち、重量は契機によって観念へと止揚される。


(2019/04/28) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第一篇 第二章) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 緒論)


ヘーゲル大論理学 存在論 解題
  1.抜け殻となった存在
  2.弁証法と商品価値論
    (1)直観主義の商品価値論
    (2)使用価値の大きさとしての効用
    (3)効用理論の一般的講評
    (4)需給曲線と限界効用曲線
    (5)価格主導の市場価格決定
    (6)需給量主導の市場価格決定
    (7)限界効用逓減法則
    (8)限界効用の眩惑

ヘーゲル大論理学 存在論 要約  ・・・ 存在論の論理展開全体

  緒論            ・・・ 始元存在
  1編 質  1章      ・・・ 存在
        2章      ・・・ 限定存在
        3章      ・・・ 無限定存在
  2編 量  1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り
        2章C     ・・・ 量的無限定性
        2章Ca    ・・・ 注釈:微分法の成立1
        2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
        2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
        2章Cc    ・・・ 注釈:微分法の成立3
        3章      ・・・ 量的比例
  3編 度量 1章      ・・・ 比率的量
        2章      ・・・ 現実的度量
        3章      ・・・ 本質の生成


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