唯物論者

唯物論の再構築

独我論

2011-07-17 22:35:09 | 各論

観念論の一つの極として独我論がある。独我論とは、事物や観念が認識主体の意識の内部にだけ現われることをもって、全ての存在者を認識主体の観念にすぎないとみなす理屈である。存在者が現われるのが意識の内部だけというのは、反論の余地が無い話である。しかし独我論は、そのことをもって意識の外にいる他在の認知可能性を拒否する。つまり独我論は、認識不可知論と結合している。具体的には、認識主体は物質を認識できないとみなす。なぜなら物質は観念ではない存在であり、したがって意識の他在だからである。ただし独我論は、物質を許容しないが、物質と言う名の観念を許容する。言い直すと、物質の存在を認めないが、物質という観念の存在を認める。このように「という観念」とつけさえすれば納得するところに、独我論の無意味さが現われている。この極端な観念一元論は、意識から物質を排除するのに熱心なあまり、物質に限らず、他人も含めて、他在一般の居場所を意識から廃絶した。結果的に意識のうちに物質が存在し得ないにもかかわらず、物質の観念だけは存在するという不可解な理屈となっている。

[機械的唯物論からの反駁]
 上述で示したように独我論は、存在者全てに「という観念」とつけさえすれば納得する。または文脈の末尾全てに「と思われる」とつけるのでも良い。これに対し、オッカムの剃刀流に「という観念」「と思われる」という表現を全廃すべきとの反論が可能である。この反論を徹底すると、面白いことに今度は全ての存在者が物質として、または物理運動として現われる。簡単に言えば、独我論は唯物論に転化してしまう。愛や信念でさえも、観念ではなく物理的な形をもって、例えば投げキスや血判書として現われる。その行動が心の中で行われていたとしても、その物理性に差異は無い。口に出して念仏を唱えても、心の中で念仏を唱えても、浄土教信者は浄土教信者である。結果的に論旨が真逆に見えるだけで、このような唯物論と独我論に差異は無い。好み次第で、もう一度全ての存在者に「という観念」という表現をつけ直すのも可である。
 この反論の問題点は、独我論で意識から物質が消失したように、今度は物質世界から観念が消失している点である。結果的に産まれた唯物論は、独我論が存在者の表記記号を観念に一元化したのと同様に、存在者の表記記号を物質に一元化しただけの代物にすぎない。ヘーゲルはスピノザを評して、意識を世界から一掃したために意識を憤慨させたと述べている。ここで仕上がる機械的唯物論もまた、同様に意識を憤慨させるものである。しかしその憤慨は、等しく独我論にも向けられている。なぜなら独我論と機械的唯物論は、同じ理屈の単なる裏表だからである。違いと言えば、機械的唯物論が憤慨させるのは自らの意識なのに対し、独我論が憤慨させるのは他人の意識だという点である。

[超越論から反駁]
 独我論は因果律を拒否する。なぜなら原因が結果がもたらすのを認めると、客体によって主体が影響を受けるのを認めてしまうためである。それは他在を意識が認識してしまうのと同義である。ところが原因と結果の関係は、存在の時間推移そのものであり、認識主体の経験から切り離された時間形式にほかならない。この時間形式が存在して初めて経験が成立するのであり、その逆ではない。つまり因果律は、経験に先立って、先天的に意識に与えられた純粋形式である必要がある。それは、意識の内部に現われる全ての観念は、自らの起源を必要とするのを意味する。ここで観念の起源を意識の内部に求めても、単なる同語反復に帰結し、どこまで行っても起源に辿りつけない。したがって観念の起源を、意識の外に見出すしかない。つまり意識の内部の現象は、意識の外の物自体によって基礎づけられなければいけない。この結論は、意識が他在を正しく認識し得るかどうかを別にしても、少なくとも意識が他在の存在を認識可能であるのを十分に示している。
 哲学史上の独我論者として名前を挙げられるのは、バークリやヒューム、近代ではフッサールやヴィトゲンシュタインがいる。このヒュームの独我論に先験理論をもって反駁したのがカントである。カントは、物体という観念を基礎づけるために物自体が必要だとして、ヒュームに対抗している。ちなみにヒュームは、素直に因果律を拒否している。ここでカントの述べる物自体とは、物質ではなく、イデアである。イデアとは、意識の他在としての観念的実体である。つまり物自体が本当の意味で不変の観念であり、逆に意識の内部に立ち現われる移ろい易い現象の方が物質なのである。このような観点で独我論を見直すと、不思議なことに独我論者は、観念論を装っただけの単なる隠れ唯物論者となる。
 このカントの反駁は、独我論の完全な解体にまで到っていない。カントは物自体が現象するのを認める一方で、不可知論を放棄しなかったためである。おかげで物自体は背後的実体となり、イデア世界と現象世界の乗り越え不可能な二重構造が残ってしまった。このイデアと現象の二重構造は、カントにおいて意識の自由を確保する上での必然である。認識の根拠を物体に求めることは、意識の自由を奪うことに直結するからである。この点でカントの考える因果律は、ラプラス流の因果律に留まっている。彼は、現象が常に何かに基礎づけられると想定しており、現象自体が自律した実体になることを全く考えていない。カントの世界観には、彼の嫌った機械的唯物論と同様に、必然だけが存在し、偶然が存在しないわけである。結果的に意識の格率というカントの自由は、単なる錯覚に終わらざるを得ない。この機械的必然を避けるためには、ショーペンハウアーが考えたように、物自体は盲目的な意志にみなされる必要がある。このようなことから、哲学における現象の復権が始まる。カントがもたらした背後的実体を拒否すべく、その後のヘーゲル弁証法やフッサール現象学が登場するのも当然の成り行きだったわけである。ちなみにカントの述べる物自体が、観念でなく物質的実体であったとしても、表記記号が観念から物質に変わるだけである。そのことは、独我論の完全解体と無関係の事柄である。

[弁証法からの反駁]
 独我論に対する反駁では、物質と観念の区別が重要である。独我論に媚びた区別立てをすれば、意識のうちに感覚として現われる存在者が物質であり、意識のうちに概念として現われる存在者が観念である。この区別立ては、「意識のうちに」という表現を強調しているところだけが独我論に媚びた形になっており、それ以外は物質と意識の一般的な定義になっている。しかしこの段階で見ても、意識のうちに現われるということは、物質の定義と明らかに無関係である。ところが独我論は、このような物質と観念の定義を無視し、意識のうちに現われる存在者を全て観念として扱うという前言の撤回を始める。それは、観念に対立して現われるはずの物質の定義を消失させる。それはさらに、物質は観念である、という不可解な結論に辿りつく。明らかに独我論は、物質と観念の言葉の誤用に始まっている。
 ちなみに感覚として現われる事物映像は全て物質である。もしその事物映像が感覚上の錯覚であっても、相変わらずその錯覚映像は物質のままである。月が半月に見えるのが錯覚であるにしても、その半月の視覚映像は観念になるわけではない。そして概念としての月は、そのような半月や満月や三日月を綜合したものを指す。もし綜合に失敗して間違った月の概念を作りあげた場合、感覚上の錯覚と同様に、それは概念上の錯覚となる。この概念上の錯覚は、純然たる観念である。逆に純然たる観念とは何かと言えば、この間違った概念にほかならない。
 したがって独我論への反駁は、全ての存在者が認識主体の観念にすぎないとすれば、物質と観念の区別も存在しないのかと独我論者に問うだけで良い。物質と観念の区別が存在すると答えると、全てが観念にすぎないという独我論の理屈と矛盾する。したがって独我論者は、物質と観念の区別は存在しないと答えるしかない。物質と観念の区別が存在しない場合、存在者が観念としてのみ存在すると言おうが、物質としてのみ存在すると言おうがどちらでも良いことになる。一見すると、このような形の観念と物質の区分けの無意味化は、存在者の表記記号を観念と物質のどちらにするかという論者の言葉の好みの問題に帰結する。しかしこの帰結は、論理矛盾である。
 全ての存在者が観念にすぎないと言い得るのに対し、全ての存在者が物質にすぎないと言い得ない。なぜなら少なくとも意識が物質ではないのを、意識自身が了解しているためである。したがって存在者が観念としてのみ存在すると言おうが、物質としてのみ存在すると言おうがどちらでも良いわけが無い。論旨を遡ってこのことを言い直すと、物質と観念の区別は存在せざるを得ない。そしてさらに論旨を遡ってこのことを言い直すと、全ての存在者が認識主体の観念であるわけが無くなる、つまり認識主体の観念とは別の異種存在として、物質の存在を容認せざるを得なくなる。簡単に言えば、独我論を破棄せざるを得なくなる。
(2011/07/17)


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