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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

お役所仕事  

2023-01-03 22:33:09 | 文化

>現代ビジネス   >日本の「お役所仕事」で「台湾有事対策」はできない…遅すぎた「ソ連軍の北海道侵攻対策」から学ぶこと   >木元 寛明 - 12 時間前   

>2022224日、ロシア軍がウクライナに軍事侵攻を開始しました(以下、ウクライナ戦争)。   

>現在も戦争は進行中で、今後の推移は予断を許しません。   

 

そうですね。   

 

>ウクライナ戦争は戦術・作戦術を映す鏡であり、わが国の防衛態勢を直視する教訓でもあります。   

>わが国の周辺では、中国軍が8月初旬に台湾を取り囲む大規模な軍事演習を実施し、台湾侵攻のシナリオが垣間見えました。   

>台湾有事は即、わが国の有事につながります。   

 

そうですね。   

 

>ここでは『戦術の本質 完全版』の著者であり、旧ソ連による北海道侵攻が勃発した場合、その最前線でソ連地上軍を迎え撃つ任務を担っていた第71戦車連隊元・連隊長でもある木元寛明氏(元・陸将補)が、いまから「台湾有事」に備えるべき理由を解説します。   

>このままでは「領土喪失」につながる?   

>わが国の喫緊の課題の1つは、中国による台湾の武力統一、すなわち台湾有事=日本有事への対応です。    

>中国が三戦(輿論戦、心理戦、法律戦)を駆使してグレーゾーンで戦争を着々と進めていることに鑑み、わが国に残されている時間は多くありません。   

>この対応を平時の感覚で進めると「領土喪失」という無残な結果につながりかねません。   

>タイミングを外した典型例を、筆者の現役時代の体験を踏まえて紹介します。   

>冷戦最盛期の昭和50年代、北方領土の択捉島にソ連軍1個師団規模の部隊が配置され、ウラジオストック軍港への空母「ミンスク」「ノヴォロシースク」配備などが、わが国を威嚇するようにこれ見よがしに続けられました。   

>このような情勢から、極東ソ連軍の北海道侵攻が現実味を帯びてきたため、第2師団(北海道旭川駐屯地)の戦車部隊に配置されていた筆者は、対ソ戦を想定した訓練にまい進しました。

>そして1979(昭和54)年1227日、ソ連地上軍2個師団が陸路アフガニスタンに武力侵攻します。   

>以降、ソ連軍は兵力を逐次増強して翌年4月には6個師団11万人に達しました。   

>当時の米国はベトナム戦争の「後遺症」で内向きとなっており、ソ連はこの米国の退潮に歩を合わせるように、アフリカ、中東、極東、中米などへ露骨に勢力を拡大していました。   

>完全に時期を逸していた侵攻対策   

>このような状況に対処するため、わが国の防衛当局は、極東ソ連軍による北海道侵攻の脅威を想定した種々の施策を講じました。   

>その1つが、道北の防衛を担う第2師団の装備と充足率の向上です。    

>これにより、第2戦車大隊(北海道上富良野駐屯地)の増強が計画されました。   

>その結果、第2戦車大隊は74式戦車の増強(60両→74両)と増員(442人→506人)により、人員装備100%充足部隊に改編され、結果として規模世界一の戦車大隊になりました。   

>筆者は2度目の第2師団配置で、戦車大隊長としてこの改編に立ち会いました。   

>しかし、問題なのはそのタイミングです。   

>2戦車大隊の改編は、ソ連のアフガニスタン侵攻から約8年後の1988(昭和63)年325日です。   

>完全に時期を逸していました。   

>ソ連軍は同年5月にアフガニスタンから撤退を開始し、翌年2月に撤退を完了しています。   

>改編翌年の1989年には東欧革命でベルリンの壁が崩壊し、その2年後の1991年にソ連という国家そのものが消滅、名実ともに東西冷戦が終焉しました。   

>また、北部方面隊の戦車戦力を強化するため、内地の第9師団を除く各師団の戦車大隊から各1個中隊を抽出して北海道に転用する「戦車北転事業」(19902004年)が計画・実行されました。   

>これにより19901991年にかけて、9個戦車中隊が順を追って北海道に移転しましたが、移転開始の時点で、すでに移転事業そのものの意義と必要性が完全に消滅していたのです。    

 

それは残念でしたね。   

 

>にもかかわらず、当局は既定方針に則って移転事業を強行したあげく、19952004年にかけて新編した5個戦車中隊を移転先で廃編し、残りの戦車中隊も原隊復帰することはありませんでした。   

>当時の陸上幕僚監部は移転事業自体に反対しましたが、防衛庁内局の主導で強行されたと仄聞しています。シビリアン・コントロールに名を借りた「公家長袖」の生兵法といわざるを得ません。   

>お役所仕事では「力の信奉者」に勝てない   

>極東ソ連軍の北海道侵攻に備えた施策(戦車の増強など)の発想自体は時宜に適していましたが、必要性が消滅した後に事業を開始し、事業が完結するというお粗末な内容だったのです。   

>状況の変化に応じる機敏な対応は一顧すらされませんでした。

 

それは残念でしたね。  

 

>今となっては笑い話の1つですが、教訓の種は山ほどあります。   

>完全な準備を実施した後に空振りになるのは、危機管理から言えば名誉の「向こう傷」です。   

>しかし、あまりにもタイミングを外したこと、必要性が消滅した後も、お役所仕事として計画を強行したことは日本的官僚システムの重大な欠陥として猛省すべきです。   

 

そうですね。    

 

>台湾有事の問題を、このような平時感覚のお役所仕事として処理するなら、完全にタイミングを外すこと疑いなしです。   

>危機が顕在化した時点でバタバタしても間に合わないことは、容易に想像できます。   

>あえてこの問題を取り上げるのは、ロシアのウクライナ侵攻に見られるように、私たちの常識が通用しない世界があり、わが国も現実にその事態に直面しているからです。

 

そうですね。   

 

>私たちの目の前に立ちはだかるのは、「韓非子」や「三国志」や「孫子」の世界観の体現者です。

>どんなよい計画も機を逸すれば価値なし   

>わが国の組織運営の一般的傾向として、決断が遅い、実現に多くの時間がかかる、リーダーシップに欠ける、といった問題があります。   

 

それは昔から指摘されている我々日本人の民族性ですね。   

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

 

>原因として考えられるのは、縦割り組織による複雑な調整、総花式のバラマキ予算、責任の所在不明などです。   

 

我が国は序列社会ですから縦割りになりますね。   

政治哲学がないからバラマキ予算にするしかありませんね。   

日本人には意思がないので、責任の所在は定まりませんね。   

 

>現政権のドタバタぶりなどはこの典型と言えます。   

 

ドタバタは民族性ですね。前もってということが考えられません。   

 

>戦いの原則に「目標の原則」「集中の原則」「兵力の節用の原則」「指揮の統一の原則」があります。    

>「集中の原則」と「兵力の節用の原則」は矛盾していますが、「目標の原則」と「指揮の統一の原則」を加えて4者を一体としてとらえると「組織運営の原則」となります。

>すなわち、目標を明確に定め、目標を達成できる決勝点に資源を集中し、第二義的なものには最小限の資源を配分し、そして1人のリーダーに実行を任せるということです。

 

そうですね。力を一点に集中するのですね。それは理想的ですね。      

 

>実行の段階では「適時・適切」をとくに重視します。   

>完全な計画を策定することよりも、時間に間に合うこと……すなわちタイミングを優先します。   

 

そうですね。打球と同じですね。       

 

>いかに完璧な計画を練り上げても、時機を失すると、結果として敗北・失敗という憂き目を見るからです。

 

そうですね。空振りになりますね。       

 

>このことは、官民を問わず、いかなる組織にも共通する原則でしょう。   

 

そうですね。   

過去の内容は変えることができないが、未来の内容は変えることができる。それには未来の内容を自己の意思として示すことが必要である。しかし、それには無為無策でその日暮らしをしている人には望み無しである。

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文の内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないので仕方なく無為無策でいる。それで、おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら 我々は '指示待ち人間' として育成されたようです。このやりかたで成功すると、他人の受け売りと後追いの専門家になりますね。我が道を行く人にはなりませんね。未来を先取りしない人は他人を唱道する人にはなれませんね。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)          

 

 

 

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渋谷申博氏  

2023-01-03 15:53:52 | 文化

>ラブすぽ   >神道には教義がないのはなぜか?神道には釈迦やイエスのような開祖はなく、開祖の教えを記した聖典もない?【図解 神道】   

>教義はなくても体験で敬神を伝える   

>1項でも述べたように、神道には開祖と呼ばれる存在がありません。  >したがって、開祖の教えを記した聖典はありません。  >「古事記」「日本書紀」が聖典に準じるものとして扱われることもありますが、この2書は歴史書として編纂されたものであって、神道の教理などが記されているわけではありません。  

 

そうですね。   

 

>仏教やキリスト教は聖典に記された教義を根幹として堅牢な教理体系をつくり出してきましたが、神道は教義が占めるべき核心部分が中空、あるいは不可視となっているのです。   

 

奥ゆかしい限りですね。思慮がありそうにみえますね。

印欧語族の文法には時制があり意思があるので、人々は加害者意識に苛まれることが多くあります。   

罪の意識に苛まれて魂の救済を求める人が多数出ますから、贖罪・涅槃による救済を求める人が後を絶ちません。ですから宗教家のスコラ哲学・インド哲学が役に立ちます。   

      

 

>平安末期の歌人の西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌に「何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」というものがあります。   

>何が祀られているのかわからないけれど、涙が流れるほどありがたいというのです。   

 

無哲学・能天気ですね。気分・雰囲気の問題ですね。       

 

>正体がわからないものをありがたいと思う心情は、日本人にはごく当たり前な心情ですが、他宗の信徒、とくに一神教の信徒にはわからないことでしょう。 >こうした差異は、神道と他宗教とでは信仰のありようが根本的に違うことに由来しています。   

 

そうですね。哲学と無哲学の差は大きいですね。    

 

>仏教やキリスト教は聖典に記された教義を伝え広めることが重視されますが、神道では神道的価値観を伝えることが重視されます。   

 

気分・雰囲気の問題ですね。    

 

>そして、神道的価値観の伝授に用いられるのが、神話や神社と祭り(儀礼)なのです。   

 

そうですね。日本人の文化には儀式があって教義が無い。日本人は形式のみに価値観を求めていますね。         

 

>これらを知り、体験することを通して、神道的価値観が受け継がれてきたのです。   

 

気分・雰囲気の問題ですね。祓え給え、清め給えですね。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え) がない。          

 

>ただ神道的価値観には、地域や時代によって変化があります。  

 

現実は変化してとどまる所を知りませんね。非現実の内容は不変ですね。   

 

>けれども、こうした曖昧さが神道の懐の深さを生んでいるという面もあるのです。   

 

そうですね。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)   

 

>出典:『眠れなくなるほど面白い 図解 神道』監/渋谷申博   

 

 

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官僚達  

2023-01-02 18:40:24 | 文化

>AERA dot.   >倫理観も夢も失った官僚達 古賀茂明   

> かなり前から、霞が関の若手官僚が次々に退職して行くことが話題になっている。   

>その原因について、幹部職員の不祥事、長時間の無報酬での残業など職場のブラック化、低い給与水準、スキルアップ機会の欠如などが挙げられている。   

 

最悪の職場環境ですね。   

 

> これを前提に各省庁は、残業時間縮減や国会業務の効率化などの対策を少しずつ進めているが、私から見ると、残念ながら、ピント外れだ。   

> 実は、最近、それをあらためて強く感じることがあった。   

>それは、私が幹部候補の中堅官僚2人に匿名を条件に取材した時のことだ。   

>この2人は、省庁の利権などには目もくれず、タブーなく改革を進めようとする志の高い官僚たちだ。   

> 彼らへの覆面インタビューで、私は、近畿財務局の職員で、財務省の佐川宣寿理財局長(当時)の指示で公文書改ざんという犯罪行為を強要され、後に自殺に追い込まれた赤木俊夫さんのことを取り上げた。   

>私の質問は、財務省では多くの人がかかわっていたのに、何故誰も異論を唱えなかったのか、官僚の倫理観はどうなっているのかというものだった。   

>私が予想したのは、安倍晋三総理(当時)の進退に直接かかわる重大局面で、通常とは違った特殊な圧力を感じて、迷いはあったが、最後はやむにやまれずやってしまったのだろうというような回答だったが、彼らの答えは違った。   

> こんなことは日常茶飯事だというのだ。   

 

朱に交われば赤くなる。   

 

> 霞が関では幹部クラスが皆、事務次官や大臣、官邸、声の大きい有力議員の方を向いて仕事をしていて、しかもその内容が政治家や役所の利益のためのものである場合が非常に多いが、公僕意識が希薄化し、まっとうな倫理観に反することでも、それを止める力が働きにくくなってしまった。   

 

あるべき姿の内容が存在しない社会ですね。    

 

>安倍政権で特徴的なのは、仕事の内容が国民のためになっているのかなどと考えたり議論すること自体がなくなったことだ。   

 

考えの内容は一人一人違いますからね。議論は絶えず必要ですね。     

 

>今や、おかしいと思っても、部下たちが声を上げることなどほとんど考えられないという。   

 

我が国には個人主義が希薄であるから自己主張も弱い。   

 

>稀にそういうことを試みても、周囲から冷たい目で見られた上に議論さえされず、何もなかったかのようにスルーされてしまうから、どうにもならない。 >幹部から、官邸に逆らうようなことはするなとあらかじめ釘を刺されることさえ経験したというから驚きだ。   

 

出る杭は打たれるからでしょうね。    

 

> この2人の官僚は、霞が関は絶望的だとためらいなく証言した。  

 

我が国には教育改革が必要ですね。    

 

>「残業とか安月給などは承知のうえで官僚になった。  >それでも、国民のためになる大きな仕事ができれば、やりがいがあると思って官僚を続けて来たが、今や、そんなことは夢のまた夢。 >どこにも希望が見えない」と途方に暮れる。     

 

我が国には何でも揃っているが、ただ夢と希望だけがない。    

 

> 若手官僚の中でも大志を抱く人ほど現実との落差を強く感じ、優秀な人ほど先を見て辞めて行く。   

 

我が国民には現実 (事実) があって非現実 (考え) がない。だから、大志などは夢のまた夢。      

 

>もはや、若手に対して、国のために頑張ろうというのは、白々しくて口にすることができないという。   

 

本人が無哲学・能天気であってはどうにもならないですね。自分はどのような国が欲しいのかを赤裸々に語る必要がありますね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.         

 

> この話を聞くと、霞が関改革の議論の中心が職場のホワイト化というのでは、全くピント外れだということがよくわかる。   

> 一番大事なのは、国民のための政治が行われ、官僚がそのために働ける環境の整備だ。   

 

そうですね。政治家には政治哲学が必要ですね。そうでなければ政治家は官僚に対して指導性を発揮することができません。        

 

>霞が関再生には、党利党略で動く政治家、省庁利権にまみれ自己保身に走る幹部官僚の一掃から始めるしかない。  

 

自己の哲学がない人間は処世術 (損得勘定) に頼るしかないですね。一掃したら人がいなくなる。      

 

>※週刊朝日  202316-13合併号   

 

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。  

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

 

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