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応報刑というもの

2006-01-26 21:11:13 | 犯罪・刑事関係
18日に宮崎勤の最高裁判決について書いたところ、「心の闇」の解明を求めようとしている方からTBをいただいたので、それについて書いたところ、また興味深いTBを頂きました。

<動物裁判>としての宮崎勤死刑判決精神鑑定批判(松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG)

kabuさんの意見を参考に、応報刑論について考えてみました(結論は違います。同じなら記事にする必要もないですね[笑])。
最初に言及すると「責任能力にも社会的常識を要求すべき」という結論は一致しています。ただ、kabuさんとは結論部分で一致しているものの(私の方が説明で混乱してる部分があるので、読み比べて「一致してねえよ」と言う方はおられるかもしれませんが…)、刑罰に対する考え方のアプローチで若干違うかなと思うわけで、TBして自分の見解を述べてみるわけです。
こういうのを嫌がらせといい、今までこの手のTBをした相手からはTB返しすらもらっていません(笑)。ただまあ、私は別に嫌がらせをしたいわけではなく、時にアンチテーゼ(元記事がもっともであるように見えれば見えるほど[笑])を示すことで、理論の成熟などに貢献できればと思ったりするわけで。

責任ある行為に対して特に社会は「犯罪への怒り」を感じ「刑罰を求める情念」を燃やすのである。而して、もし、刑事法の諸制度が社会のこの「犯罪への怒り」や「刑罰を求める情念」に応えないようであれば、これらは直ちに<自力救済>に向かう社会的な実在である。畢竟、近代法は個人の仇討ちを国家の刑事法のシステムに吸収した。しかし、仇討ちへの社会の欲求は去勢された牡牛の如きものではないのであって(たとえ、仇討ちが違法であり仇討ちは第二の犯罪にすぎないとしても)、刑事法と刑事制度がその欲求を満たさない限りそれは瞬時によみがえる社会的実在である。

なぜそう言えるのか? 簡単だ。人工のイデオロギーにすぎない国家や法や人権と比べるまでもなく、仇討ちを求める人間の欲求は類としての人類に/生身の人間が形成する現実の社会の中にビルトインされているからである。


kabuさんが考えられている責任ある行為に対する刑罰の根拠は概ねこの部分にあると思います。応報という形できちんとなされない場合、復讐に走る。それが妥当ではないから、応報をきっちりとなさなければならないと。

まず、復讐と応報というものは似ているようで異なっています。
国語辞典には前者は「(やられた者が)相手を同じようにひどい目に遭わせること」とあり、後者は「悪いことをした報い」とあります。
似ているようですが、実際問題として、
復讐については やられた側の反撃 ≧ やった側 となる傾向があり、
応報については やられた側の反撃 ≦ やった側 となる傾向が多いです。

そもそも復讐を完全に放任してしまえば国家秩序というものは崩壊してしまうでしょう。秩序というものは極端な話、刑罰と報償で成り立っている側面があり、片方または双方がなくなった社会は秩序を失うからです。ま、それはそれで一つの考え方ではあるでしょうけれど、↑にあるように復讐の場合は受けた被害以上の反撃が許容される点は問題でしょう。
殺されたから殺す、というのはまだしも。
侮辱されたから殺す、というのも復讐理論などにはまかり通るわけですし。
フラれた腹いせに殺す、という最悪のストーカー行為も復讐であることには違いないわけです(ちなみに男に捨てられた娘が自殺したら、その父親が男を殺害して「復讐だ」と言ったという話があります)。
というか、復讐理論の提唱者は大半のストーカー犯罪について、それは少なくとも復讐であると許容しなければならないといえるでしょう(彼らの大半は無視されていることに対して復讐心を抱いているので)。復讐の起点を勝手にどこかに設定するのは真実に対する冒涜行為であり、独善の実現以上の何者でもないでしょう。
こんなことが罷り通る社会はさすがに考えものです。

ということで、いくら何でも復讐理論・自力救済がまかり通るのはまずいということで国家が私人に代替して刑罰を課すようになったわけですね(無茶苦茶適当ですが、ぶったぎればそういうこと。もちろん、歴史的に見れば独自の秩序をもっていたギルドなどの部分社会にかわって、近代国家が統合的な権限を有するようになったとかそれらしい説明もできますけど、そんな分かりにくい、自分でも分かっていないことを書くの嫌なので)。
で、復讐理論によく似た概念としての応報論が唱えられるようになったと。まで言えるかどうかは分かりませんが、とにかく応報刑理論というものが現れたと。応報刑論とは、つまり刑罰は過去の犯罪行為に対する応報として犯人に苦痛を与えるためのもの、ということですね。
もちろん、古くはハムラビ法典にも出てくる概念ですけど、例えばカントあたりがその理論をキリスト教哲学の中で完成させていったわけです。

ところが、カントをはじめ、多くの哲学者、偉大な法律家の全てが、では、誰がために応報がなされるのか、という命題について答えを出していないように思えるんですね。犯罪者に対する応報として刑罰が与えられる。しかし、では誰に対する報いとして応報は存在するのか。

考え方は大きく3つほどあるでしょう。
1.被害者本人のための応報がなされる
2.被害者の家族などのために応報がなされる
3.社会の共同体のために応報がなされる(kabuさんの見解…と思われる)
もちろん、これは殺人のような極端な場合であり、たとえば窃盗などの場合には1と2は融合するでしょう。

kabuさんの見解は3と思われますが、一応1と2についても触れておきましょう。

1は応報という言葉的にはもっとも適切です。また被害者の人権、というものを認める立場に近いですね。ここでいう被害者の人権とは国家賠償請求権などのことを言うのではなく、早い話が「殺人犯に生きる権利があるなら、被害者にも生きる権利があった。それを奪ったのだから(相殺して?)犯人は死ぬべきだ」とかまあそういうことを意味します。
たまに死刑廃止論者が「犯人を赦す遺族もいるではないか」という意見を提唱しておりますが、殺された当人を問題とする以上は批判として適切ではないですね。
ただし、1には致命的な難点があり、被害者の生きる権利が侵害されるという点では殺人と過失致死に違いがないということ。車に轢きつぶされた場合(過失致死)と刺されて即死させられた場合(殺人)とでは被害者当人の苦痛はむしろ過失致死の方が大きいかもしれません。
となると、過失致死であろうと死刑を取りいれなければおかしい、ということになります。もちろん、中には殺人犯並に赦しがたい過失致死犯もいますが、工事現場でパイプを落としたら、それが下の人に当たって死んだ。応報として死刑、ということにもなるわけですね。被害者当人の苦痛に基づく応報を問題とする限りは。これは不当といえるでしょう。
もちろん、死んだ被害者の感情が分からないという批判もできうるでしょう。

2は大半の人にとっての応報・復讐の起点はここを指し示しているという点でスタンダードな見解といえるでしょう。
ただし、死刑廃止論者が言うように、犯人をどう遇しようとするかについて遺族はまちまちですし、この見解による限り、家庭内の殺人をどう取り扱うかについての答えに窮することになります。遺族に応報感情がそもそもないわけですからね。
ついでに言えば、遺族がいなければ応報の根拠がなくなるということにもなりかねず、身寄りのない者を殺害する場合にはどうなるのか。また、家族を全員殺害した方が一人だけ残すより刑罰が軽くなるのではないかという理屈も生まれうることになります。

そこで3がでてきます。応報論という場合のイメージは一般的には2でしょうけど、現実的にはこの3ということになるでしょう。いわゆる「法が予定する一般感情」というものです。
この点については、以下の記事が非常にうまくまとめられているので、そちらを参照してください。
死刑存置の理由 <1> 応報刑論 (死刑廃止と死刑存置の考察・BLOG版)
ただし、3にもやはり問題点はあるわけでして、この視点に立つ場合、第三者(社会)が知ることで初めて応報意識が生まれるということになるわけです。
そうなると刑罰権の生かす殺すを握っているのは行政でも司法でもなく、(第三者にそれを伝える)メディアという第四権力ということになりかねません(実際、shinさんは「誰にも知られない状況になれば死刑存置論は生まれない」と述べておられ、この見解を意識の有無は別として肯定されているようにも思われます)。
では、国家権力が与える刑罰というものはメディアの報道によって生まれた応報意識に対する追認に過ぎないのか。これは変ですね。
また、知る過程において歪められた場合、本来あるべき応報とは異なる刑罰を要求される可能性がありますね。証拠能力において刑事訴訟法では伝聞法則を定めて、伝聞証拠を原則として排除していますが、処罰意識は伝聞が通じてしまう。となると訴訟法と実体法とで一致しないことになりかねません。
少なくとも、捜査機関が経過を含めて、全部公表してくれないと公平とはいえないでしょうが、それは警察などにとっては困る話でしょう。となると、最悪被告人はやられ放題ということになります。ま、殺人事件のような犯罪ではそれもやむをえないかもしれませんが、それ以外の傷害罪とかで伝聞が罷り通るのはやや酷といえるでしょう。
また、殺人のような重大犯罪であればともかく、それ以外の社会があまり関心をもたない犯罪の場合は社会が処罰意識を持たないので、刑を軽くすべきということになりかねません。

結局、応報を実現する主体は誰であっても不適当な部分を含みます。
それは当然であり、そもそも応報論の原典ともいえる「ハムラビ法典」ですら、身分制による応報の違いなど定めているわけです。
結局のところは応報も国家秩序の中において認められているものであり、そういう意味では単純な応報は存在できず、社会(国家)秩序と睨めっこしながら存続しているといえるでしょう(例えば、麻薬を大量に売りさばいて何十人も廃人にした売人はある種の殺人犯以上に応報の対象になりうべき存在ですが、現実として彼らに死刑判決が下されることはありません)。

応報の主体は結局のところ、4.国家と見るべきでしょう。
そして前述のように国家は社会秩序と睨めっこしつつ、ある場合に重く、ある場合には軽く操作することによって社会を巧く機能させようとしている、ということです。したがって、応報の場合には反撃行為が、最初の行為よりも軽くなることがあるとなるわけですね。これは時に不合理でしょうが、やむをえない。ただ、それでは不都合も生じるから、国家賠償などの別の方法によってカヴァーしようとしているのではないでしょうか。

また、応報というものは基本的に不安定なものです。というのは、例えば殺人犯が官憲の手をしばらく逃れ、悠々自適な生活を海外で送った後病死した場合(犯行直後に自殺した場合でもいいでしょう)、書類送検はされるでしょうが、弁護人や検察官を呼んできて裁判をした末、死者に死刑判決を下すなどという真似はしないですね。
当たり前のように思いますが、応報という観点からすれば、犯人の行為に対して刑罰を形式的であっても与える必要があるのではないでしょうか(史記に伍子ショが復讐として仇敵の遺体を引きずり出して鞭打ったという話がありますが、応報を実現するにはこういうことも必要ではないかということ)。
あとはまあ、極端な話犯人が逃げ切った(公訴時効完成まで逃げおおせた)場合はどうなるのかということで。

で、結論。
主体が国家であり、国家は社会秩序維持(基本的には抑止力)と衡量しながら刑罰を決めていく以上、また現実論としての応報が不安定である以上、純粋な応報論を絶対視する見解は難しいと考えます。
刑法界における通説が応報論を主にし、教育・改善の部分は補佐たる部分に過ぎないという新古典派を採用しているにもかかわらず、現実問題としてはその応報論自体を貫くことが困難な場合が多々でてくるという事実は見過ごせません。となると、応報の果たす役割はそれほど大きくなく、むしろ社会秩序維持としての一般予防機能の方が大きいのではないでしょうか。もちろん、犯人の教育・改善という部分もあるでしょう。
刑罰の根拠はつまるところ、一般予防4:教育改善3:応報3くらいであると見るのが現実的ではないでしょうか。

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4 コメント

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いえいえ堪能しました (KABU)
2006-01-26 21:19:05
嫌がらせとは思いませんよ(笑)。このポイントは、大昔の話ですが、団藤さんの「応報主義理解」と藤木英雄さんのそれ(それに一番近いと思うのは、大谷実先生のそれ)との違いと同じだと思います。勉強になります。今後とも宜しく。
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>KABU様 (川の果て)
2006-01-26 21:41:48
大文字だったですね。失礼しました。



>嫌がらせとは思いません

-それは幸いです(笑)。たまに真面目に言い返すと無視されるので、TBで議論を交わすのは理想論で嫌がらせと思われるのかと思っていましたので。



>団藤さんの「応報主義理解」と藤木英雄さんのそれ(それに一番近いと思うのは、大谷実先生のそれ)との違いと同じ

-私は団藤先生や藤木先生の本は読んだことないです(笑)。勉強不足ですみません。広く浅くがモットーですので。



如何せん広く浅くで、アンチテーゼを示す以外に興味をもたない人間ですがこちらこそ宜しくです。
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TBありがとうございます (Shin)
2006-01-28 15:29:02
TBありがとうございました。なんだかまとまりつきませんが、再度記事上げてみました。御笑読下されば幸いです。
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>Shin様 (川の果て)
2006-01-28 19:33:48
こんにちは。

三つまとめてというところに何だか恐ろしさを…。

心して読んでかかりたいと思います(笑)
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