古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について─「思へや(も)」の用法とともに─

2023年11月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻六に、大宰府の帥である大伴旅人に対して、都のことを思わせるよう導く歌が二連載る。
 本稿では、それらの通訓の誤りを指摘し、歌の内実に迫る。

「思ふやも君」

  大宰だざいの少弐せうに石川いしかはの朝臣あそみ足人たるひとの歌一首〔大宰少貳石川朝臣足人謌一首〕
 さすだけの 大宮人おほみやびとの 家と住む 佐保さほの山をば 思ふやも君〔刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君〕(万955)
  そち大伴おほとものまへつきみこたふる歌一首〔帥大伴卿和謌一首〕
 やすみしし わご大君の す国は 大和やまともここも 同じとそ思ふ〔八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曽念〕(万956)

 これら二首の歌は大宰府において歌われた歌である。歌われた状況は明らかではない。ただし、大伴旅人が大宰帥に任命されたのが神亀四年(727)冬頃、赴任したのは翌神亀五年(728)二月頃とされており、石川足人が大宰府を離れ上京したのも同じ神亀五年(728)のことなのでその年に歌われたと考えられている(注1)
 万955番歌の五句目は「思ふやも君」と訓まれている。これまで異議が唱えられたことはないようである。「や(も)」は疑問の助詞とされて、大宮人が風雅を楽しんだ高級住宅(注2)として住んでいる佐保の山すじのことを思いますか、大宰帥の大伴旅人卿さま、と石川足人が聞いたのに対して、我らが天皇陛下が治めていらっしゃる国は、大和であれここ筑紫であれ同じだと思う、と答えたものと考えられている。大伴旅人の平城京での屋敷の一つも佐保の地にあったことが知られている(注3)
 「や(も)」という助詞は誤解されることがある。「や」という言葉は感動詞として掛け声に始まっている。歌のなかに投入され、間投助詞と呼ばれて詠嘆の意を表す。歌いかける相手に気合をかけ、相手にかかわっていく気持ちを表している。さらには、係助詞と呼ばれるものへと展開し、「や」が終止形の下について文末にあれば相手に問いかける疑問の用法になり、「や」が已然形の下につくと否定的な問いかけを表す反語の用法になる。こういった展開に振り回されて理解に迷うことがある。しかし、「や」はもともと掛け声で、投入されたものなのだから、「や(も)」がなくても文意は成り立つもので、基本的には動詞などの活用形そのものの意をそのまま表しているとみて差し支えない。
 具体的に万葉集で用法を見てみる。ここでは、「思ふ」ならびに「思ふ」系統の語の下に「や(も)」が下接する形(助動詞が介するものも含む)を例に見る。

 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)

 「思ほすや君」の「や」は、問いかける側に一つの見込みないしは予断があることが多いとされている(注4)
 そして、この歌は、万955番歌を下敷きにして作られた歌であると考えられている。大伴四綱おほとものよつなが大伴旅人に対して歌いかけたもので、一首目からして石川足人と大伴旅人の歌のやりとりを踏襲している。前後にわたる一連の歌群を記す。

  大宰少弐小野老朝臣だざいのせうにをののおゆのあそみの歌一首〔大宰少貳小野老朝臣歌一首〕
 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり〔青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有〕(万328)
  防人さきもりの司佑つかさのすけ大伴四綱の歌二首〔防人司佑大伴四綱歌二首〕
 やすみしし わご大君の 敷きませる 国のうちには 都し思ほゆ〔安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念〕(万329)
 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)
  帥大伴卿の歌五首〔帥大伴卿歌五首〕
 が盛り また変若をちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ〔吾盛復将變八方殆寧樂京乎不見歟将成〕(万331)
 が命も 常にあらぬか 昔見し きさ小川をがはを きて見むため〔吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見為〕(万332)
 浅茅原あさぢはら つばらつばらに ものへば りにし里し 思ほゆるかも〔淺茅原曲曲二物念者故郷之所念可聞〕(万333)
 忘れくさ 吾が紐に付く 香具山かぐやまの りにし里を 忘れむがため〔萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎忘之為〕(万334)
 吾がきは ひさにはあらじ いめのわだ 瀬にはならずて ふちにあらむかも〔吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛〕(万335)

 何か曰くありげな歌群であるが、その点については後に見ることにし、いま、文法的問題について考える。
 万330番歌に「御念八君」とあって「思ほすや君」と訓んでいる。「思ほす」と尊敬語になっていて、主語は「君」(帥大伴卿)のこととされる。お思いになられますか、あなた様、の意である。二人の立場の違いから敬語で問いかけられている。自分より身分の高い相手だから失礼のないように、最低限「思ほす」などと敬語で問いかけているわけである。ただし、ニュアンスとしては誘導尋問していて、お思いになられますよね、あなた様、と言っているように感じられる。解釈において腑に落ちないところがあるが、その点は後述する。ひるがえって万955番歌をみたとき、どうして一切敬語表現を用いていないのか疑問が生じる。

 いもそで 別れてひさに なりぬれど 一日ひとひも妹を 忘れて思へや〔妹我素弖和可礼弖比左尓奈里奴礼杼比登比母伊毛乎和須礼弖於毛倍也〕(万3604)

 「和須礼弖於毛倍也」とあって「わすれておもへや」としか訓めない。主語は歌の作者、「妹」の夫君ないしはフィアンセである。一日だって妻のことを忘れることなどない、と言っている。「忘れて思へや」という反語は、忘れて思うか、いやいや忘れて思うことなどない、すなわち、忘れるか、いやいや忘れることなどない、という意である。
 万330・3604番歌の二例を比較したとき、「思ふ」という言葉と「や(も)」という言葉のつながりについて、独特な性質があるのではないかと予感させられる。「思ふ」とは内心の出来事である。オモ(面)には表れることなく内心深く感情が起こることを指すのが原義であるとも解されている。岩波古語辞典に、「オモヒが内に蔵する点に中心を持つに対し、類義語のココロは、外に向って働く原動力を常に保っている点に相違がある」(254頁)と解説されている。
 現代語であっても、ねえねえ、どう思う? と尋ねるとき、対象となることについてどこかしら否定的なニュアンスを含んで聞いていることがある。単純な疑問文として、この電車の次の停車駅は上野駅だと思いますか? と言った場合、これまた、どこか否定的ニュアンスを有している。答えとして肯定的な回答を求める場合には、あなたは「思う」か? ではなく、この電車の次の停車駅は上野駅ですか? とストレートに聞くのがまともな問い方である。「思う」を差しはさむことは、「思う」人の内心に入り込み、問う側の意向を強要し、相手の気持ちを矯正するようなところがある。
 上代においても、「思ふ」と「や(も)」との接続において、疑問の用法で扱われる際にはその傾向があったのではないかと類推される。大宮人が高級住宅地として住んでいる佐保の山すじのことなんかを、思ったりするのですか、大宰帥の大伴旅人卿さま、という意味である。どこか詰問にも似たところがある。また、他でもない佐保の山のことを思いますか? と尋ねたのに対して、大和もここも同じだと答えている。しかるに、思うか? と聞かれたら、yes、no、思う、思わない、で答えるのが問答の論理としては正しい。レトリック使いに秀でていて、大和もここも同じだと答えたのだとされているのであろうが、「大和もここも」と言っていて、「佐保もここも」とは言っていない。佐保の山ふもとに大伴卿の豪邸があったから、それを見越して石川足人は問いを投げかけたのだというのが一般的な考え方である。佐保の山ふもとには時の高官のみが邸宅を構えることができたようである。とても贅沢なことであった。それを思い出さないか、と聞くことは、贅沢な境遇のことを今でも望んでいますか、と聞くことと同じことである。官職として太宰帥も高位である。都から離れて辺鄙で文化のないところへ押しやられることには左遷の印象がつきまとう。筑紫文化圏を気負うのも、ひなびたところへ追いやられたことの裏返しと言えそうである。そんなデリケートな問題についてずけずけものを言うことはとても失礼なことである。下位の役人が長官に対して、その内面に立ち入るような真似をしていることになる。その失礼に対して、大伴旅人はやんわりとかわしたということなのだろうか。納得の行かない解釈である。
 他の可能性としては、万955番歌の「大宮人の 家と住む 佐保の山」は、当時権勢を誇っていた長屋王の邸宅のことを暗示していて、反長屋王派の手によって、大伴旅人は都から遠ざけられたのであろうとする説が浮かびあがる。大宰府帥に任ぜられても実際に赴任することのなかった例もあり、しかも旅人はそのとき60歳を超えて高齢であった。左遷説には辻褄の合うところが多い。万955番歌は、大宰府に遷されてなお長屋王のことを慕う気持ちがあるかどうかを問い質した歌なのではないか。大伴旅人は歌に通じた人だから、相手の言わんとしていることがわかり、婉曲的に遠回しに答えている。「佐保」という地名には触れずに、「大和もここも」と言ってごまかしているという考え方である。この見方は見方としてはかなり正しいものと考えるが、文法的に「や」を疑問の助詞と捉えている限りにおいて疑問は解消しない。なにしろ、長屋王の変は翌年、天平元年(729)のことである。いまだ長屋王は罪人(注5)でもなく、健在であるなか、立場も弁えずにそのように問うことなどあるのだろうか。「思ふやも君」という言い方は、土足で位が上である相手の心に上がり込んでいることに変わりはなく、無礼きわまりない。

「思へや(も)」

 このように考えてくると、「思ふやも君」という訓み方自体に問題があるのではないかと悟られよう。万葉集の他の例を見ると、「や(も)」を疑問の意で用いることは稀で、反語の用法で使われることがきわめて多い(注6)

 楽浪さざなみの 志賀しがの大わだ よどむとも 昔の人に 逢はむとへや〔左散難弥乃志我能大和太與杼六友昔人二将會跡母戸八〕(万31一云)
 大伴の 御津みつの浜にある 忘れ貝 家にある妹を 忘れて思へや〔大伴乃美津能濱尓有忘貝家尓有妹乎忘而念哉〕(万68)
 明日香川 明日だに見むと 思へやも わご大君の 御名みな忘れせぬ〔明日香川明日谷将見等念八方吾王御名忘世奴〕(万198)
 真野まのの浦の 淀の継橋つぎはし 心ゆも 思へや妹が いめにし見ゆる〔真野之浦乃与騰乃継橋情由毛思哉妹之伊目尓之所見〕(万490)
 夏野なつの行く 牡鹿をしかの角の つかも 妹が心を 忘れて思へや〔夏野去小壯鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉〕(万502)
 飫宇おうの海の 潮干しほひの潟の 片思かたもひに 思へや行かむ 道の長道ながてを〔飫宇能海之塩干乃鹵之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)(注7)
 荒磯ありそゆも まして思へや 玉の浦 離れ小島こしまの いめにし見ゆる〔自荒礒毛益而思哉玉之裏離小嶋夢所見〕(万1202)
 河内女かはちめの 手染てぞめの糸を 繰り返し 片糸かたいとにあれど 絶えむと思へや〔河内女之手染之絲乎絡反片絲尓雖有将絶跡念也〕(万1316)
 思ひ寄り 見ては寄りにし ものにあれば 一日ひとひの間も 忘れて思へや〔思依見依物有一日間忘念〕(万2404)
 あらたまの 年はつれど しきたへの 袖へし子を 忘れて思へや〔璞之年者竟杼敷白之袖易子少忘而念哉〕(万2410)
 梓弓あづさゆみ すゑ原野はらのに 鳥狩とがりする 君が弓弦ゆづるの 絶えむと思へや〔梓弓末之腹野尓鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋〕(2638)
 吾妹子わぎもこや を忘らすな 石上いそのかみ 袖布留ふる川の 絶えむと思へや〔吾妹兒哉安乎忘為莫石上袖振川之将絶跡念倍也〕(万3013)
 伊豆いづの海に 立つ白雲の 絶えつつも 継がむとへや 乱れそめけむ〔伊豆乃宇美尓多都之良久毛能多延都追母都我牟等母倍也美太礼曽米家武〕(万3360或本)
 妹が袖 別れてひさに なりぬれど 一日ひとひも妹を 忘れておもへや〔妹我素弖和可礼弖比左尓奈里奴礼杼比登比母伊毛乎和須礼弖於毛倍也〕(3604)
 こしの海の 信濃の浜を 行き暮らし 長き春日も 忘れて思へや〔故之能宇美能信濃乃波麻乎由伎久良之奈我伎波流比毛和須礼弖於毛倍也〕(4020)
 垂姫たるひめの 浦を漕ぐ船 楫間かぢまにも 奈良の吾家わぎへを 忘れて思へや〔多流比女能宇良乎許具不祢可治末尓母奈良野和藝弊乎和須礼氐於毛倍也〕(4048)
 春山の 霧にまとへる うぐひすも 我にまさりて 物思はめや〔春山霧惑在𪄙鴬我益物念哉〕(万1892)
 年にありて 一夜ひとよ妹に逢ふ 彦星ひこほしも 我にまさりて 思ふらめやも〔等之尓安里弖比等欲伊母尓安布比故保思母和礼尓麻佐里弖於毛布良米也母〕」(万3657)
 天離あまさかる ひなにある我を うたがたも 紐解きけて 思ほすらめや〔安麻射加流比奈尓安流和礼乎宇多我多毛比母登吉佐氣氐於毛保須良米也〕(万3949)

 「や(も)」は、「思ふ」やそれに助動詞がつく形で、已然形を承けて反語を表している。疑問の用例は見られないから、万955番歌も反語と解して捉え直してみる。

 さすだけの 大宮人おほみやびとの 家と住む 佐保の山をば 思やも君〔思哉毛君〕(万955)

 「さす竹の 大宮人の 家と住む 佐保の山をば 思やも」の主語は、歌の作者、話者である石川足人その人ということになる。大宮人が高級邸宅として住んでいる佐保の山すじのことを思うか、いやいや私は思わないですよ、大伴長官、と言っている。歌のイメージががらりと変わってくる。
 高級官僚の豪邸のことなんか屁とも思わない、と石川足人は言っている。そして九州くんだりへ来た大伴旅人に同情ではなく、同調を求めている。なぜそんなことをしているのか。「や(も)」を疑問の意ととる説においても、慰めの心が成した歌であると評されることがあった。それはあるいはそのとおりなのかもしれない。
 問題はそこではない。歌の主がそういうことを言うのにふさわしい人物だったから、そう歌わしめたと考えられるというところが肝である。
 彼の名は「足人」である。足ることを知った人である。禅宗の到来よりはるかに遡る奈良時代人であるが、欲望を追えばきりがなく、そんなことをしなくても満足できるものだと自得している人、そのことを名に負っている人であった。名に負っているのだから実際にそういう言動をする人物だったのだろう。そんな人の発言だから、歌を受けた大伴旅人もまともに受け答えをし、問いかけられた旅人ばかりでなく、周りで聞いていた人々も、なるほどそういう歌を足人なら大伴卿に投げかけるわよね、と理解されたということになる。
 石川足人なる人物は、大伴旅人様は、大宮人が高級邸宅として住んでいる佐保の山すじのことを思うことがありますか、懐かしいですか、と聞いているのではなく、自分がその立場だったら、大宮人が高級邸宅として住んでいる佐保の山すじのことなど思わないだろう、と主張しておいて、大伴卿に対してどうでしょうか、と同意を促す歌を歌っていたのである。
 それに対して大宰府の長官である大伴卿は、赴任間もない時点にあって、その立場上、まったくそのとおり、都近くの豪勢な住まいのことなど屁とも思わない、と答えようとしている。あるいは、そう答えざるを得なかった。題詞に、「帥」と規定されている。大宰府を統率するのが役目である。大宰府仕えの下級役人たちを前にして、建前を述べる必要がある。部下の心が離れて行かない配慮が求められていた。この時点で、もはや「佐保」のことなど等閑視されなければならない。都のある大和と今いる筑紫大宰府しか、議題にさえ載せられなくなっている。だから、「大和もここも同じ」という自らの内心を─たとえそれが本心ではなかったにせよ─表明することになっている。題詞と歌が明記されて、歌の歌い手が作るべくして作った歌が歌われたこととなっているのである。
 したがって、「や(も)」は、通説のいう疑問を表す助詞ではなく、已然形を承けて反語を表している。

 さすだけの 大宮人おほみやびとの 家と住む 佐保の山をば 思へやも君(万955)
 (さす竹の)大宮人と称し、大宮に仕えながら、豪邸暮らしをしている大宮外れの佐保の山のことなどを、私だったら思うだろうか、いやいや思いません、どうでしょう大伴長官。

 この解釈によって、この歌はなかなか鋭い問いかけであったと気づかされる。都にある大伴旅人の家は左保の地にあったが、佐保の邸宅といえば何より長屋王のそれが第一に思い浮かぶ。この歌問答は、その長屋王に与するかどうか試したものなのであった。
 長屋王の変は、神亀六年二月のこと、旅人の大宰府赴任の翌年である。石川足人は、この歌問答を携えて「遷任」されて都へ戻っている(万549~551)。反長屋王派、すなわち、藤原氏側は、長屋王に同調しかねない大伴氏の族長である旅人を大宰府へと遷し、しかも九州で王に呼応して反乱を起こしたりしないことを確認した上で王を誣告して自刃に陥れている。旅人はこの歌問答によって時局に抗えないようにされている。文芸サロンで親交を深め、公務上も便宜を図ってもらっていたかもしれない長屋王が次期天皇になることはなく、皇太子の首皇子、後の聖武天皇が位に即くことを了解せざるを得なくなったということである。だから、和ふる歌として、国の体制についての歌を歌っている。この国はすべからく天皇制の下にあるべしというのが原則である。「わご大君の 食す国」という言い方で歌われている。

 やすみしし わご大君の す国は 大和やまともここも 同じとそ思ふ(万956)

 この「和歌」は、藤原氏側の密偵のような石川足人による若干の政情批判に対して、天皇制の原則を述べることで和した歌である。大伴旅人は政局について、立場上も言動に注意していた。今置かれているのは筑紫国の大宰府なのだから、国政の局外にあるように振舞って「足人」の主張に添う歌を作り、「帥」たるにふさわしく応えたのである。問題となっているのは「佐保」大臣たる長屋王のことだから、「佐保」については触れないことにし、足るを知れば都も鄙も変わらないと言っている。石川足人は満足し、また、因果な勤めも無事に果たしたということになる。おかげで早々に都へ帰ることがかなっている。
 以上の解釈によって、万955番歌の「や(も)」の例も、已然形+「や(も)」の形を成して、反語を表すことが示された。

「思ほせや君」

 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)

 作者の大伴四綱は集中に五首の歌が載る。そのいずれもが「大伴四綱」と記され、姓表記を持たない。同じ大宰府に従っていて、族長を大伴旅人と考える人物であろう。旅人の心に寄り添う歌を作って問いかけているはずである。間諜のような心休まらない石川足人の歌を下敷きにしている。ご主人様が仰られましたとおり、この国の大君がお治めになっているわけですが、そのうち一番に思われるのはやはり都のことでございます、そうでございましょう、その都では藤の花が盛りになったそうです、奈良の都のことをお思いになられますか、ご主人様、という意味に解されている。
 上述したように、万330番歌の「御念八君」を「思ほすや君」と訓む限りにおいては、万329番歌からの流れとして、お思いになられますか、ご主人様、の意となる。それに対して大伴旅人は、万331~335番歌で、とても気弱な歌で応えている。もう都は見られずじまいになりそうだ、吉野の象の小川を見たいから長生きしたいなあ、物思いに行ければ明日香の里のことばかり思い出される、いっそのこと香具山のある明日香の故郷のことなんか忘れてしまいたい、吉野の夢の川の屈曲部分は早くは流れないで自分の老い先同様ゆっくりと流れてほしい。
 この敗北感はどこから生まれるのだろうか。大伴四綱は何を歌いかけたのだろうか。
 「藤浪の 花は盛りに なりにけり」の「けり」は、目前の事態に対する気づきというよりも、伝聞としてはじめて知ったことを表している。つまり、藤の花が盛りになっているというのは大宰府のことではなく、奈良の都での状況である(注8)。奈良の都で藤の花が盛りであるとは、長屋王が滅ぼされて藤原氏がいよいよ権勢を誇っている様子を表している(注9)。石川足人に無理強いに答えさせられ、結果的に奈良の都は藤原氏ばかりになってしまった。そんな奈良の都のことを思って見ても仕方がないでしょう、と大伴四綱は具申しているのである。

 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)

 この部分も已然形+「や」の反語表現である。お思いになられますか、お思いになどなられませんでしょう、ご主人様、の意である。
 だから、藤原氏が権勢をほしいままにしている奈良の都はもう見ないのではないかと歌い、思い出すは奈良以外の故郷のことだと言っている。吉野の象の小川、明日香の古京、吉野を流れる夢の屈曲部である。「思ふ」対象として、長屋王が亡くなり、藤原氏に席巻されている奈良の都のことを、極力忌避しているのだった(注10)
 それらの旅人の歌を導いた大伴四綱の歌は、小野老の歌を受けたものである。

 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり(万328)

 「にほふ」という動詞は、赤い色が浮き出ることから、色美しく映えること、顔色の美しいことをいうが、色に染まるという意にも使われる。香りについて使われるのは平安時代からである。次の歌では、馬の毛に黄土を混じらせてきれいに見せようと思っている。

 馬のあゆみ さへとどめよ 住吉すみのえの 岸の黄土はにふに にほひて行かむ(万1002)

 単に花の都パリならぬ花の都奈良のことをいうのであれば、「如く」と言い添えたりしない。「あをによし」は奈良の枕詞である。あをの二色が含まれている。混ぜれば藤色である。奈良京の美しさを詠んでいるのではなく、ひね媚びたことに権力闘争の結果を語っている。都で今盛んに咲いている花は藤である─実際に wisteria が咲いているわけではない(注11)─と、藤原氏の権勢が盛んなることを喩えている。「にほふが如く」と、周りまで染まっていっているかのようだというのは、どんどん藤原氏に染まって行っていること、清盛時代のように平氏にあらずんば人にあらず状態になっているということを表している。これまで行われてきた凡庸な解釈は見直されなければならない。
 小野老という人物は、石川足人の跡を襲って大宰少弐として赴任してきている。長屋王の変に功績があったらしく、天平元年三月に叙位を受けて従五位上となり、そのときに大宰少弐に任ぜられて大宰府に来たのではないかと考えられている(注12)。小野老という人は、自分が昇進していっていることを鼻にかけ、都の藤原氏勢力の盛んなさまを大宰府に来て吹聴している。藤原氏に必ずしも同調しているわけではない大伴旅人にとって愉快なものではない。大伴四綱はそのことを理解していて、小野老が上機嫌で歌って立ち去った後、残っている旅人に対して、かつて石川足人が歌によって探りを入れていた歌詞を踏まえ、旅人の心情に寄り添う歌を歌ったのであった(注13)

(注)
(注1)万549題詞に、「五年戊辰大宰少貳石川足人朝臣遷任餞于筑前國蘆城驛家謌三首」と見える。
(注2)別邸かとも考えられている。近江2015.参照。
(注3)姪に当たる大伴坂上郎女の万葉集歌の題詞や左注を依りどころとしている。万525・526番歌、万528番歌左注、万979番歌題詞、万721番歌題詞脚注、万1447番歌左注参照。
(注4)岩波古語辞典1499頁。
(注5)実際のところ冤罪で謀反など企てていなかった。要するに政争に敗れて亡き者にされたということである。続紀に次のようにある。

 二月辛未(十日)、左京人従七位下漆部造君足、無位中臣宮処連東人等告密称、左大臣正二位長屋王私学左道、欲国家。其夜、遣使固守三関。因遣式部卿従三位藤原朝臣宇合、衛門佐従五位下佐味朝臣虫麻呂、左衛士佐外従五位下津嶋朝臣家道、右衛士佐外従五位下紀朝臣佐比物等、将六衛兵、囲長屋王宅。壬申(十一日)、以大宰大弐正四位上多治比真人県守、左大弁正四位上石川朝臣石足、弾正尹従四位下大伴宿禰道足、権為参議。巳時、遣一品舎人親王・新田部親王、大納言従二位多治比真人池守、中納言正三位藤原朝臣武智麻呂、右中弁正五位下小野朝臣牛養、少納言外従五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等、就長屋王宅、窮‐問其罪。癸酉(十二日)、令王自尽。其室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王・葛木王・鉤取王等、同亦自経。乃悉捉家内人等、禁‐着於左右衛士・兵衛等府。甲戌(十三日)、遣使葬長屋王・吉備内親王屍於生馬山。仍勅曰、吉備内親王者無罪。宜例送葬。唯停鼓吹。其家令・帳内等並従放免。長屋王者依犯伏誅。雖罪人、莫其葬矣。長屋王、天武天皇之孫、高市親王之子、吉備内親王、日並知皇子尊之皇女也。丙子(十五日)、勅曰、左大臣正二位長屋王、忍戻昏凶、触途則著。尽慝窮姧、頓陥疏網。苅‐夷姧党、除‐滅賊悪。宜国司莫_衆。仍以二月十二日、依常施行。戊寅(十七日)、外従五位下上毛野朝臣宿奈麻呂等七人、坐長屋王交通、並処流。自余九十人悉従原免。己卯(十八日)、遣左大弁正四位上石川朝臣石足等、就長屋王弟従四位上鈴鹿王宅、宣勅曰、長屋王昆弟・姉妹・子孫及妾等合縁坐者、不男女、咸皆赦除。是日、百官大祓。壬午(二十一日)、曲‐赦左右京大辟罪已下。并免長屋王事徴発百姓雑徭。又告人漆部造君足・中臣宮処連東人並授外従五位下、賜食封卅戸、田十町。漆部駒長従七位下。並賜物有差。丁亥(二十六日)、長屋王弟・姉妹并男女等見存者、預禄之例。(天平元年二月)
 東人、即誣‐告長屋王事之人也。(天平十年七月)

(注6)異伝の類は該当するもの以外割愛した。
 また、「思ふ」+「か(も)」についても似た傾向が見られる。「か」は内心の疑問を自分に投げかけることが原義とされ、個人的な内心の活動をいう「思ふ」に続けば確からしさのなさの二乗(「も」を伴えば三乗)のような言い方になり、なりゆきとして反語的なもの言いに用いられることになるのであろう。
 用例を見ると、「思へかも」(万198一云・499・583・611・3055・3162)、「思へか君が」(万617)、「物思へかも」(万2137)、「あど思へか」(万3572)、「いかに思へか」(万3647)、「われを思へか」(万3791)とあって已然形に接続している。
 助動詞、補助動詞を間にはさむ形では、「思ひけめかも」(万460・633)、「思ひいませか」(万443)、「思ひをれか」(万217)と已然形に接続するものと、「家思ふらむか」(万1696)、「思はるるかも」(万3372)、「思ひつるかも」(万649・1841)と連体形に接続するものがある。
 「思ふ」+「か(も)」の形としては、「思ふ」に自発の助動詞ユが付いた「思ほゆ」の形に「か(も)」が接続した例のほうが圧倒的に多く、「思ほゆるかも」は40例を超え、「思ほえむかも」も10例近くある。理の当然として思われるというのであれば、強い反語を表明することはないから連体形に接続して「かも」は詠嘆を表すことになる。また、尊敬の助動詞スが付いた「思ほす」では、「思ほしめせか」、「思ほしけめか」という已然形に接続する例が見える。疑問詞の「いかさまに」などと結びついて表されており、お思いになられたのでしょうか、いやいやそのようなことは私どもには、まして今さらわかることではない、と反語的な投げかけをしていると考えられる。
 なお、現状の注釈書では、疑問なのか、反語なのかについて、必ずしもきちんと訳し分けられているわけではない。
(注7)万536番歌の訓みについては拙稿「門部王の恋の歌」参照。
(注8)大宰府で藤の花が咲いているとする見方は、西宮1984.、伊藤1996.、稲岡1997.、阿蘇2006.などに見られる。
(注9)この考え方はこれまでもときどき述べられてきた。尾山1935.は、「藤浪の花の盛りは、観方によれば藤原氏の世盛りを意味する。其処で旅人はかういふ歌を作つて四[綱]に報いたものと見える。次の四首もその嘆息の延長である。」(9頁)といい、中嶋2012.は、「老の昇進の一か月前、都では大きな政変せいへんがあった。……ながおうの変である。それは藤原氏の専横せんおうによるへんであり、都は藤原氏とともに印象付けられる状態であったのは間違いない。四綱は、たまたま開花したであろう藤の花と、小野老のおめでたい歌とを生かして、旅人に問いかけたのではないか。」(29頁)としている。
(注10)諸注釈書には、旅人の望郷の対象は、人生でもっとも長い時間を過ごした明日香古京や、従駕した吉野であったのである、などといった悠長な解説が見られる。
(注11)佐藤1984.によれば、華都の発想は万葉集では他に見られないという。小野老も華都を歌おうとしていたわけではなかった。
(注12)北村1983.参照。
(注13)万328~335番歌は、同一の宴席で歌われたとされることが多い。だが、宴席が題詞に提示されているわけではない。「大宰少貳小野老朝臣歌一首」、「防人司佑大伴四綱歌二首」、「帥大伴卿歌五首」と記されるばかりである。心和む宴の席の歌作ではなかったからであり、それぞれに作者を記してその時にあった事実を伝えているのであろう。小野老が着任の挨拶をしに政庁へ来て、帥の旅人の前でこれ見よがしの歌を披露して呵々とばかりに笑った。帰った後、苦々しく思った大伴四綱が、かつて奸佞にして狡猾な歌をぶつけていた石川足人の言葉を思い出して、逆手に取るように歌を作り、旅人を慰撫しようとしている。とはいえ、政治的な敗北は如何ともしがたく、旅人は気弱な歌を歌っている。藤原氏の権勢に歯向かうことなどかなわなかった。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第2巻』笠間書房、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『万葉集釈注 二』集英社、1996年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
近江2015. 近江俊秀『平城京の住宅事情─貴族はどこに住んだのか─』吉川弘文館、2015年。
大浦2016. 大浦誠士「万葉集巻三「大宰府望郷歌群」考─小野老歌・大伴四綱歌の機能─」『専修国文』第98号、2016年1月。専修大学学術機関レポジトリhttp://doi.org/10.34360/00001341
尾山1935. 尾山篤二郎『作者別萬葉集評釈 第四巻 大伴旅人・山上憶良篇』非凡閣、昭和10年。
川口1976. 川口常孝『大伴家持』桜楓社、昭和51年。
北村1983. 北村進「長屋王の変と小野老」『上代文学』第50号、1983年4月。上代文学会ホームページhttp://jodaibungakukai.org/02_contents.html
佐藤1984. 佐藤美知子「旅人帥時代の少弐たち─小野老の都讃歌を中心として─」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究』第十二集、塙書房、昭和59年。
鉄野2021. 鉄野昌弘『大伴旅人 新装版』吉川弘文館、2021年。
中嶋2012. 中嶋真也『コレクション日本歌人選 大伴旅人』笠間書房、2012年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。

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