古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

山部赤人の印南野行幸歌

2024年07月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻六の前半に、笠金村かさのかなむら車持千年くるまもちのちとせ山部赤人やまべのあかひとによる長反歌からなる行幸従駕歌がある。ここでは山部赤人の印南野行幸従駕歌について検討する。

  山部宿禰赤人やまべのすくねあかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南野いなみのの 大海おほみの原の 荒栲あらたへの 藤井ふぢゐの浦に しび釣ると 海人船あまぶねさわき 塩焼くと 人そさはにある 浦をみ うべも釣りはす 浜をみ 諾も塩焼く ありがよひ 御覧母知師 きよ白浜しらはま〔八隅知之吾大王乃神随高所知須稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尓鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尓有浦乎吉美宇倍毛釣者為濱乎吉美諾毛塩焼蟻徃来御覧母知師清白濱〕(万938)
  反歌三首〔反謌三首〕
 おきつ波 邊波安美 いざりすと 藤江ふぢえの浦に 船そ騒ける〔奥浪邊波安美射去為登藤江乃浦尓船曽動流〕(万939)
 印南野の 浅茅あさぢ押しなべ さの 長くしあれば いへしのはゆ〔不欲見野乃浅茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生〕(万940)
 明石潟あかしがた 潮干しほひの道を 明日あすよりは したましけむ 家近づけば〔明方潮干乃道乎従明日者下咲異六家近附者〕(万941)

 これら赤人の行幸従駕歌は、一般に、土地の讃美をもって王権讃美に代えた作とされ、柿本人麻呂の吉野讃歌の様式に則ったものと捉える見方が主流となっている(注1)。筆者はすでにいわゆる吉野讃歌が王権を讃美するためのものではないことを明らかにしている(注2)。当該長反歌も、土地の讃美や王権の讃美ではない。第一に、釣りをしたり塩焼きをしたりすることを歌うことがどうして土地の讃美になるのか皆目わからない。第二に、万940・941番歌では家に帰りたい気持ちを歌っていて、訪れている印南野に名残惜しさが感じられず、長歌と反歌の関係性が不明である。第三に、これらの歌は行幸時に歌われていると考えられるが、歌を聞く対象は従駕している人たちで、つまりは都から来ている人たち、ふだんから王権を支えている宮廷人たちであり、辺鄙なところで自画自賛しても何も始まらないからである。
 虚心坦懐にこれらの歌を聞いた時、印南野はこんなところです、よく来ましたねぇ、目的は達成されましたから、さあ、そろそろ帰りましょうよ、と歌っているように感じられる。歌は歌である。理屈を並べて陳述してみてもその場で耳で聞く人の心には届かない。人々が共感する内容が歌われたから、歌として成立しているものと考えられる。それ以外のものはわからない歌であり、記憶されず、記録もされなかっただろう。
「高所知須」(元暦校本万葉集、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0002621・E0002621をトリミング結合)
 長歌には訓みに難がある箇所が見られる。「高所知須」、「御覧」、「邊波安美」の訓みが定まっていない。「高所知須」については、「須」字を西本願寺本で「流」とするが、元暦校本では「須」とし、右傍に「流イ」としながら朱で見せ消ちがあって「須」が正しいと認識されていた。讃美の歌だという色眼鏡で見てしまうと、「高所知」を採って訓みを歪曲し、「たか知らせる」と誤って訓みたがってしまう。そして、「御覧」については、「ます」や「さく」などと訓まれている。フラットな気持ちで向き合わなければ本文校訂はできない。
 まず、「神ながら」という言葉の意味を捉え直す必要がある。「神ながら」という言葉は、「神の性質として。神であるままに。」(岩波古語辞典340頁)の意とされ、天皇が神性を有して支配することを表すための語であると考えられてきた。しかし、「神」という言葉は人知を超えたところにあることを強調する。人間が神となるにはある特殊な状況が求められる。死んだら神になる(注3)。今、挽歌を歌っているわけではない。「神ながら」という言葉は、天皇が神さながらにうまく「高所知須」ことをしているということではなく、「神」がいて当たり前に通じていること、人の意向を超越し、予定調和的にうまくかなっていることを表しているものである。歌の文句の「やすみしし わご大君」という枕詞による掛かり方が、神業的に絶妙な言い回し、あやなす巧みな言い方であると追いかけながら形容している言葉、それが「神ながら」である(注4)。「神ながら」が登場する他の歌を見ても、「蜻蛉島あきづしま やまとの国」や「葦原あしはらの 瑞穂みづほの国」などと常套句が現れている。ただの「わご大君」や「倭の国」や「瑞穂の国」では「神ながら」とは言えない。「やすみしし わご大君」、「蜻蛉島 倭の国」、「葦原の 瑞穂の国」と、形容表現として慣用化していることに対して言葉に神意が顕れているとして、「神ながら」と称しているのである。当たり前に「やすみしし わご大君」という言葉づかいをするように当たり前に「高所知須」ことになっていると言っている。何が当たり前といって、オホキミと呼んだ時点で支配者であることを認めているのだから、どこだって支配するのは当然のことなのである。嫌だ嫌だという意味のいなむと呼ばれているイナミノというところであれ変わりはない。長歌の冒頭、「やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南野いなみのの」の歌意はただそれだけである。
 ここまでの検討で、長歌で何を歌いたいかかなり明らかになっている。印南野に行幸しているが、ここは天皇が支配している。ここへは行幸で来ているのであって、敵地へ遠征に来ているのではない。天皇の支配が確立しているところである。わかりきったことを歌にしている。そんなことを歌って何になるか。それはそもそも長歌というものの性質にかかわる。だらだらと尻取り式に語句を並べ、対句をとり入れながら歌い進めている歌を聞き取ることができるのは、最初から聞き手が歌の内容を理解しているからである。もし何か殊更の主張があったら、聞く人は徐々に疲れてきて聞かなくなってしまうだろう。だからこそ、歌に予定調和的な言葉が配されており、よく似合っているのである。
 もちろん、わかっていることをだらだら漫然と述べて話にオチがないというのではおもしろくない。オチを期待してだらだら続く言葉列を聞いている。この歌のオチは「きよ白浜しらはま」である。歌っているのは赤人である。赤人という名を負っていて、色について論じるのにもってこいの人物である。最後のオチ、シラハマへ向け、収斂するために歌の中の語句は散りばめられている。「高所知須」、「御覧母知師」の訓みはこれにより定まる。 
 「高所知須」については、七音に訓もうとして「たかろしめす」(紀州本)といった案が出されている。しかし、無理に七音に訓む必要はない。「神ながら」が予定調和、慣用句を示しているのだから、その点を強調するためには五音で訓むことに支障はないし、かえって効果的でさえある。すなわち、「たからす」と訓めばよいのである。「やすみしし わご大君おほきみの かむながら たからす 印南野いなみのの ……」と歌えば、われらが天皇陛下が支配なさるのは当たり前の印南野のことですがね、と前置きをしていることになる。五音で言い切ることで、イナミノが否もうがどうしようが支配するに決まっているじゃないか、と印象づけることに成功している(注5)。歌のオチはシラ・・ハマであり、タカシラ・・スという訓みの正しさが検証されている。シラの音が掛かっている。
 次に「御覧母知師」について考える。「覧」字は万葉集中に他に六例ある。「梅の散るらむ〔梅乃散覧〕」(万1856)、「行くらむわきも〔徃覧別毛〕」(万2536)、「妹待つらむか〔妹待覧蚊〕」(万2631)、「くるらむわきも〔明覧別裳〕」(万2665)、「乳母おももとむらむ〔於毛求覧〕」(万2925)、「今日か越ゆらむ〔今日可越覧〕」(万3194)である。みな助動詞ラムを表している。
 「御覧母知師」は素直にミラムモシルシと訓めばよい。現在の推量を表す。「ありがよひ らむもしるし」、つまり、いつも通ってきて見ることになっているらしい徴候として「きよ白浜しらはま」はあるのだ、と言っている。「しるし」は名詞、助詞モは不確かさを表している。印南野に来るのははじめてで、今後も通ってきて見るように常態化するかどうかは本当のところはわからないため、不確かさを表す助詞モを伴っている。どうしてそのように奥歯に物が挟まったような言い方をしているのか。簡単である。帰りたいのである。また来ればいいじゃないかと思っている。だから、常に通って見るだろうと言い、その証拠に、きれいなシラハマがあることを示している。地名としてはイナミ(否)だけれど、実態としては支配、領有されることを嫌がってなどいない。完全にヤマト朝廷の版図内である。シラハマ(白浜)があるとおりシラス(知・領)ところなのだからいつでも来れますよ、と言っている。ホームシックの気持ちを歌う反歌(万940・941)との整合性もとれている(注6)。行幸に従っている宮廷人たちの間に帰りたい気持ちが募っていたから、その気持ちを代表して歌にして声をあげている。これまで論者が述べていたように万940・941番歌で私情を詠むことの意味を問題にする必要はない。なぜなら、土地褒めも王権讃美もなく、〈公〉と〈私〉の区別もないからである。長歌から一貫して、ねえ帰ろうよと歌っているだけである。頭をひねって何事であるかを議論する対象ではない(注7)
 第一反歌の「邊波安美」の訓みについては、ヘナミヲヤスミ、ヘナミシヅケミ、ヘツナミヤスミ、ヘナミヤスケミなどが案としてあげられている。澤瀉1960.は「波に対して「安し」と云つた例は無」(73頁、漢字の旧字体は改めた)いとし、鈴木2024.は「赤人の作品中、……「を」はすべて「乎」ないし「矣」で表記され、読み添えとなる例はない。」(155~156頁)と指摘して、ヘナミシヅケミと訓む説を主張する。傾向としてはそうかもしれないが、例外を排除するものではない。
 長歌において、「御覧母知師」を「らむもしるし」と訓むことが確認された。将来的な徴候について語っている。すなわち、この反歌でも、将来の見通しについて安心していられること、以後も波が立たずに気兼ねなく漁に出られることを言おうとしているものと考えられる。それを古語にヤスシ(安・易)という(注8)
 漁をするのに船を出す際、気をつけなければならない波には二通りある。船を出すときの海岸での波と、出てからの波浪である(注9)。海岸に打ち寄せる波は受けても命にかかわらないものの、ひどく水が入ったり船が横倒しになったりしてやり直しになることがある。船出した後の波は操舵の自由を奪われたり、魚がおびえて釣果が乏しかったりする。その両方を対比して言おうとしているから、「おきつ波」と「つ波」と形をそろえているものと考えられる(注10)。よって、ヘツナミヤスミと訓み、「つ波やすみ」の意であると捉えるのがふさわしいだろう。「おきつ波」も「つ波」も、今もそうだがこれからも安らかであるだろう、そう言えるのは、「きよ白浜しらはま」が「らむもしるし」としてあるのだから、という理屈である。もちろん、科学的な言説ではなく、言葉づかいのロジックを語っている。声に出して歌って周囲の人に聞いてもらうのが上代の歌だから、その場で通じて聞いただけで楽しめることを言っているのであった。

(注)
(注1)梶川1997.、神野志2001.など。
(注2)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be68298a70ce0aab17ace7832ecd2e0、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b28999093cc2e134e55a0f0751b4602e参照。
(注3)「現人神あらひとがみ」(景行紀四十年是歳)、「現人之神あらひとがみ」(雄略紀三年四月)、「現人神あらひとがみ〔荒人神〕」(万1020・1021)といった例もあるが、人の形となって現れた神という意味合いが強く、神の万能性を述べたものではない。景行紀の例は、蝦夷えみしに対する威圧のための方便としてその子であるとヤマトタケルが言い放った言葉、雄略紀の例は一事主神ひとことぬしのかみが人の姿となって現れて言った言葉として登場している。万1020・1021番歌の例は、「住吉すみのえの 現人神あらひとがみ」とあり、海神である住吉神を指しており、あるいは人の形に作って船霊として祀られていたものかもしれない。
 また、「あきつ神〔明津神〕」(万1050)と歌の冒頭にあって「わご大君」に被さっているのは、「久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首〈并せて短歌〉」のもとに詠まれた歌で、古の神代の言い伝えによりながら遷都していることを歌ったものだから、神が人の形となって現れていると形容するために冠せられているものと考えられる。拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d0d5cf0a4d2b25a651a0ebd895f8f7da参照。
(注4)天皇が支配することを讃美して「神ながら」と形容しているとしたら、一介の下級役人の分際で評論していることになりはなはだ不遜である。拙稿「「言挙げ」の本質にについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7c75b6111e2415c0f4fc7b72704f61d4、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)神野志2001.や廣川2023.は、「高知らす」や「高知る」、「高知ります」には、「宮」、「高殿」、「大御門」「御舎みあらか」などの言葉を伴って、建物の高さ、壮大さを表すはずであると指摘している。続紀・神亀三年九月条に、「従四位下門部王・正五位下多治比真人広足・従五位下村国連志我麻呂等一十八人を以て造頓宮司とす。播磨国印南野に幸せむとしたまふ為なり。」なる記事があるものの、「頓宮」は仮殿以上のものではない。印南野には立派な離宮は存在しない。そんなところで「高知らす」と口を滑らせている。破格の五音で歌うことで、豪華な別荘もないところにいつまでも留まることに対する疑問の念を表明としてふさわしい。
(注6)第二・第三反歌は、長歌の主題を受け継ぎ、内容を要約するという一般的な反歌のあり方とは異なっていると考えられ、それが定説化している。そのうえでの辻褄合わせの考えが梶川1987.、伊藤1996.、稲岡2002.、清水2005.、阿蘇2007.、神野志2013.、廣川2023.、鈴木2024.に見られる。みな長歌の意が酌めていない誤読である。「行幸の時の歌であっても、……[私情を社会化して]歌うべきものであったというべきなのであり、私情までをからめてとり込んであることを、『万葉集』の世界の本質として見るべきなのである。」(神野志2013.22頁)、「[万940・941番歌の]「望郷の心」も〈君臣の共感〉に裏打ちされたものであると理解できる。」(廣川2023.38頁)、「プロパガンダ的なパフォーマンスという意味が明らかにな[り、]……有徳の天子として喧伝される必要があった。」(鈴木2024.169頁)などと大風呂敷を広げてみても、歌から離れた空理空論でしかない。
(注7)歌は歌われて周囲の人々に聞かれることで成り立っている。印南野に行幸したご一行の気持ちを表すために「山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉」が歌われている。題詞に書いてあること以上/外の事柄、例えば聖武天皇は偉いなあ、といったことは歌われていない。歌詞にないことを読み取ろうとすることは、「こくご」の科目では御法度、零点である。
(注8)ヤスシの意味として、物事のなりゆきに障害や不安がないから安心していられる。その感覚には時間の感覚を含んでいて将来不安がないことをいう。これからも平穏無事だと思えなければヤスシにならず、夜も寝られない。

 たまきはる うちの限りは たひららけく 安くもあらむを 事も無く  も無くもあらむを ……(万897)
 さは 多くあれども ものはず 安く寝る夜は さねなきものを(万3760)

 第一例に「平らけく 安くもあらむ」とあり、当該反歌、万939番歌の用例と合致した使い方である。
(注9)波に風浪とうねりの違いがあることは知られていたであろうが、船を出して「鮪釣」、マグロ釣りをするのに支障があるものとして山部赤人という都会人が考えている。歌の言葉に沖の波と波打ち際の波とを対比させて歌にしている。
 なお、東1935.は、マグロは瀬戸内海にいないから別の魚を候補にあげている。しかし、この歌は忠実に叙景しているとは認められないから、通例のとおりマグロと考えるのが妥当である。「浦をみ」を「うべ」の根拠としている。船を漕ぎ出して沖釣りをする際、魚種を「浦」の様子から想定することはできないではないか。
(注10)「おきつ波」に対して「なみ」のケースが多いものの、「おきつ波」と「つ波」の形も存在する。

 …… 吾妹子わぎもこや が待つ君は おきつ波 来寄きよ白玉しらたま つ波の する白玉 求むとそ ……(万3318)

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1960. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第六』中央公論社、昭和35年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
神野志2013. 神野志隆光『万葉集』の「歴史」世界─巻六をめぐって─」『萬葉』第214号、平成25年3月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/2013
神野志2001. 神野志幸恵「赤人の印南野行幸歌」坂本信幸・神野志隆光編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
清水2005. 清水克彦『万葉論集 第二─石見の人麻呂他─』世界思想社、2005年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。(「山部赤人の神亀三年印南野行幸従駕歌」『東京大学国文学論集』第9号、2014年3月。東京大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.15083/00035090)
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。
廣川2023. 廣川晶照「山部赤人「播磨国印南野行幸歌」について」『美夫君志』第106号、令和5年4月。

紀伊行幸時の川島皇子と阿閉皇女の歌─題詞のフレーミング機能について─

2024年07月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 持統天皇の紀伊行幸時、四年九月に歌われたとされる歌二首である。

  紀伊国きのくにいでましし時に川島皇子かはしまのみこの作りませる御歌みうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉〔幸于紀伊國時川島皇子御作歌〈或云山上臣憶良作〉〕
 白波しらなみの 浜松はままつの 手向草たむけぐさ 幾代いくよまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉〔白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃経去良武〈一云年者経尓計武〉〕(万34)
   日本紀に曰はく、朱鳥あかみとり四年庚寅の秋九月、天皇すめらみこと紀伊国に幸すといへり。〔日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也〕
  の山を越えし時に阿閉皇女あへのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山〔此也是能倭尓四手者我戀流木路尓有云名二負勢能山〕(万35)

 一首目は、川島皇子が作ったとことになっている歌で、山上憶良が代作したものかもしれないということを題詞が伝えている。諸説に、有間皇子ありまのみこの挽歌との関係が指摘されているが、有間皇子の歌は政争に負けて刑死させられたときのただならぬものである。有間皇子の歌は、斉明天皇の「紀温湯きのゆ」(斉明紀四年十月)への行幸時の歌を元歌にして作られている。また、有間皇子の挽歌に感銘して追和した歌もある。

  中皇命なかつすめらみこと紀温泉きのゆいでましし時の御歌〔中皇命徃于紀温泉之時御歌〕
 君が代も が代も知れや 岩代いはしろの 岡の草根くさねを いざ結びてな〔君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去来結手名〕(万10)
 吾が背子せこは 仮廬かりほ作らす 草なくは 小松が下の 草を刈らさね〔吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核〕(万11)
 吾がりし 野島のしまは見せつ 底深き 阿胡根あごねの浦の たまひりはぬ〈或頭に云ふ、吾が欲りし 子島こしまは見しを〉〔吾欲之野嶋波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曽不拾〈或頭云吾欲子嶋羽見遠〉〕(万12)
   挽歌
  後岡本宮御宇天皇代のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ天豊あめとよ財重たからいかし日足姫ひたらしひめの天皇すめらみこと譲位じやうゐの後に後岡本宮にあまつひつぎしらしめす〉
  有間皇子の自らいたみて松がを結ぶ歌二首〔挽謌/後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮〉/有間皇子自傷結松枝歌二首〕
 磐代いはしろの 浜松がを 引き結ぶ まさきくあらば また帰り見む〔磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武〕(万141)
 家にあれば に盛るいひを 草枕くさまくら 旅にしあれば しひの葉に盛る〔家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛〕(万142)
  長忌寸意吉麻呂ながのいみきおきまろの結び松を見てかなしびむせぶ歌二首〔長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首〕
 磐代いはしろの 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも〔磐代乃崖之松枝将結人者反而復将見鴨〕(万143)
 磐代の 野中のなかに立てる 結び松 こころけず いにしへ思ほゆ〈未だつばひらかならず〉〔磐代之野中尓立有結松情毛不解古所念〈未詳〉〕(万144)
  山上臣憶良やまのうへのおくらの追ひてこたふる歌一首〔山上臣憶良追和歌一首〕
 鳥かけり ありがよひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ〔鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武〕(万145)
   右のくだり歌等うたどもは、ひつぎく時に作らえずといふとも、歌のこころ准擬なぞらへるが故以ゆゑに挽歌のたぐひに載す。〔右件謌等雖不挽柩之時所作准擬歌意故以載于挽哥類焉〕

 有間皇子事件は斉明四年(658)のことである。万34番歌、川島皇子の歌は左注によれば朱鳥四年(689)のことである。30年も前の壮絶な事件について、風化とまでは言えないが、単なる過去の記憶へと転化していたことであろう(注1)。持統天皇の行幸で古跡地を通過しているときに、なまなましい記憶を蘇らせようとして歌ったものではなく、座興的に同行者の心をなごませるものであったはずである。
 有間皇子は松の枝を結んでいた。中皇命が草(根)を結んでいたことに対抗した歌い方である。亡くなった有間皇子を悼んで花輪が掛けられることがあったかもしれないが、ひょっとすると草で作った草輪が掛けられたかもしれない。「手向草たむけぐさ」はふつう、手向けのために置かれた幣のこと、その種類のことをいうからタムケグサと呼ぶと思われている(注2)。実際そうであったのだろうが、タムケグサという言葉がいったんできあがってしまったら、手向けるために雑多なものを用いたとしてもヤマトコトバとしては理にかなう。クサは grass のことも variety のことも表すからである。
 今回の行幸で通過した折、そんな「手向草たむけぐさ」が浜松の枝に懸かっていて、時間が経過して枯れた状態になっていると思われるものが見えた。「幾代いくよまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉」と贅言を尽くしているのは、もとは「手向草たむけぐさ」だったと思われるものが目についたということであろう。それは何か。鳥の巣である。左注にも秋九月とあるから、鳥はみな巣立っており、放置された残骸が残っている(注3)。それを目にしながら川島皇子は歌っている。ほのぼのとした歌である。
左:鳥の巣、右:川の洲
 この歌は、題詞の注にあるように、たとえ山上憶良がネタを考えたとしても川島皇子しか歌うことはできない。彼の名は川島である。川の中にある島は、川の流れに従って姿を変え、まったく姿を消すこともある。それをという。樹上のを歌にしてふさわしく、聞いた人たちがおもしろがることができるのは川島皇子をおいて他にない(注4)

  紀伊国きのくにいでましし時に川島皇子かはしまのみこの作りませる御歌みうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉 白波しらなみの 浜松はままつの 手向草たむけぐさ 幾代いくよまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉(万34)
 白波が寄せては返す浜辺の松の枝にタムケグサとして捧げられたかに思われる草が、どれほど年月を経たのだろうか、打ち棄てられた鳥のになっている。そこでの名の負う私(川島皇子)は呟いてみたよ。どうだね皆さん。

 二首目の歌も、おそらく同じ時に紀伊行幸に同行していた阿閉皇女あへのひめみこ(ヘは乙類)が作っている。都は大和にあって、このたび行幸で都を離れている。都にいる間じゅう、アヘの皇女は、会へ、会へと言われていた。そのヘは乙類だから、アフ(会・逢)の已然形である。誰とすでに会っているのかわからないが、そういう名なのだから呼ばれるたびに会っている、会っていると言われている気がしていた。彼女は女性だから、意中の男性、ダーリンに、つまり、古語で「」に会っているのだと思っていた。ヤマト(トは乙類)でそう言われていた。山とすでに会っている、と言われていたということである。助詞の「と」は乙類である。今、紀伊路の「背の山」と会っている。彼女でしか歌えない歌を時を逃さず歌っている(注5)。頓智の効いた名歌である。

  の山を越えし時に阿閉皇女あへのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山(万35)
 これがかつて聞いていた背の山なのですね。ヤマトにいるとき、会っている、会っていると呼ばれては、恋しいヤマトすでに会っている、と言われているようでした。いま、まさしく山とすでに会っています。あなた、と呼べる名前をもつ、紀伊路の背の山とすでに会っています。おもしろいじゃありませんか。

 万葉集は、基本的に題詞と歌で構成されている。題詞は歌が歌われる場面設定、舞台の説明、歌の枠組みを決めている。その条件下で歌が歌われている。フレームが呈示されているから、歌で何が歌われているか理解することができる。歌の意味、内容が理解できる。題詞に示された額縁を外して中の歌の画面を見ようとしても、どこまでが地で、どこからが図なのかわからない。近代短歌では、いきなり歌だけを取り出して評価することがあるが、それは、近代という枠組み、短歌という枠組みのなかで暗黙の裡に作品として成り立っているからである。万葉歌を歌だけ引き出して内容を理解しようとしても、中途半端なものになり、多くの場合、誤解が生じる。題詞を無視した歌理解は、上代の文芸ばかりでなく、古代史についても誤った見方を与える。近代的な視座を古代に持ちこんで捻じ曲げ歪めることにしかならない。無文字時代に使われていたヤマトコトバには、そもそも物事を抽象化する意図がない。ブリコラージュとして具体的に語っていた。メタメッセージを抽き出して現代の議論の場で論じることは、記紀万葉のテキストから離れてテキストに即さない空理空論を弄することになる。

(補論1)
 これまで行われている万葉歌の英語訳は、日本における研究を反映して万葉歌の醍醐味であるヤマトコトバの地口、頓智、言葉遊びについて無視していることが多い。現状で理解されていないのだから仕方がない。ヤマトコトバ→(古典日本語→)現代日本語→英語へという訳出過程は変わるはずもなく、英語を母語とする万葉集研究者の手による訳で本質に違いが出たりはしない。「万葉和歌の「文学的な」翻訳への道のりはまだまだ遠い」(ワトソン2017.109頁)という発想は、万葉集を既成概念の「文学」であるとする立場に立っている。万葉歌の真の理解から程遠いものである。
 Duthie 2014. の英訳を載せる。原文と対照され、歌部分にはローマ字がルビとして振られている。「濱松pamamatu」と奈良時代当時のハ行音を表しているが、「幾代ikuyo」とヨの乙類であることを示していない。上代特殊仮名遣いでは、「yo」(甲類)と「」(乙類)は別音であった。

34
At the time of an imperial visit
to the Land of Kii, a poem
graciously composed by Prince
Kawashima. Another (text) says it was
composed by Yamanoue no Omi Okura.


On the white-waved
 beach, the pine branch
with a cloth offering
 since then how many ages
how many years have passed?
one says “how many years had passed?”

The “Chronicles of Japan” say that
in the fourth year of Akamitori,
Yang Metal Tiger, in Autumn in the
ninth month, the Heavenly Sovereign
visited the Land of Ki.


35
At the time of crossing over Mt. Se,
a poem graciously composed by
Princess Ahe

This must be that
 which when in Yamato
I long for
 that which is on the road to Ki
Mt. Se that bears the name(p.186)

 日本語訳であるダシー2023.には次のような英訳を載せる。ダシー氏は題詞(headnote)や左注(endnote)の書き方に統一性がないことから『万葉集』の多様性を見、「歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。」(164頁。“Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man'yōshū itself.” Duthie, 2014, p.180)として論を展開しているにも関わらず、訳本末尾に載る英訳には題詞や左注がない。訳者が付けたものか。anthologization のために headnote や endnote を付けているわけではなく、歌自体の枠組みを示すために当初から付けられたものであることは本論で述べたとおりである。

34
For the offering on the branch of a pine
upon the beach of white waves, for how long
have years been passing by?
 one says, “had years been passsi[ママ]ng by”

35
This must be that, which being in Yamato
I did yearn for, which on the road to Ki
bears the name of Mt. Se.((13)頁)

 Levy 1981. は次のように訳している。

34
Poem by Prince Kawashima at the time of the procession
to the land of Ki
  One book has Yamanoue Okura as
  the author.

How many generations
has the prayer cloth passed
hung from a branch
of the pine on the beach
where white waves break?

  In the Nihonshoki it is written that in
  autumn, the ninth month, of the
  fourth year of Akamitori (690), the
  Empress went on a procession to the
  land of Ki.

35
Poem by Princess Ae when she crossed Se Mountain

Ah, here it is,
the one I loved back in Yamato:
the one they say lies by the road to Ki
bearing his name,
Se Mountain,
“mountain of my husband.”(pp.55-56)

 Cranston 1993.は次のように訳している。

34
A poem composed by Prince Kawashima when the Empress [Jitō] made a progress to the province of Ki (or by Yamanoue no Omi Okura, according to another source)

 Where the white waves splash
Across the branches of the pines
 Along the sandy shore,
How many ages have they passed,
These offerings on the boughs?

Nihongi states: “In the fourth year of Akamitori [689], Metal-Senior / Tiger, in autumn, ninth month, the Empress made a progress to the province of Ki.”(p.185)

35
A poem composed by Princess Ahe when crossing over Senoyama

 Is this then the spot
For which I yearned in Yamato,
 The famous mountain
Said to lie along the road to Ki,
Senoyama, Husband Peak?(p.272)

 Vovin2017.は次のように訳している。

34
A poem composed by Imperial Prince Kapasima at the time when the Empress went to Kïyi province. Some say [it was] a composition by Yamanöupë-nö omî Okura.

The safe passage offerings on the branches of pines at the shore [that is washed] by white waves for how long the years would pass [until they remain]? A variant: the years would have passed [since I tied them]?

The Nihongi says that in the ninth lunar month in the autumn of the fourth year of Akamî töri the Empress went to Kïyi province.(pp.103-104)

35
A poem composed by Imperial Princess Apë at the time when [the imperial excursion to Kïyi province] was crossing Mt. Se.

Is this Mt. Se that bears [this famous] name that is said to be on the road to Kï[yi province], for which I am longing for when [I] am in this Yamatö [province]?(pp.105-106)

 筆者の英試訳を記しておく。題詞や左注は歌の訳に含めてしまった。万葉集はヤマトコトバで歌われてはじめて poem となるものである。駄洒落を他言語に訳すことは、dictionary =字引く書也、のように、双方の言語で語呂合わせが揃わなければならず、困難を極める。

34
The white waves come and go on the beach. Here, it is well known that a famous person died. Since then, people would offer grass to the branches of the pine tree growing on it. After a long time, the grass is withered and looks completely different, like a bird's nest. My name is “Prince Kahasima”. “Kaha” means river and “sima” means island or sandbank. So we know it well that sandbanks appear and disappear, just like the waves come and go and the ground appears and disappears. In early Japanese, river banks and bird's nests were both called “su”.

35
Oh, this is just Mt. “Se”, which is the famous mountain on the road to Ki, that I heard about when I was in Yamato. My name is Ahë. In Yamatö, people called me “Ahë”, which was also the realis form of the verb "to meet". So, Hearing the sound “YamatöAhë” demands a recognition “already met a mountain”. “Yamatö” sounds like “Yama”-“tö”. In early Japanese, “Yama” means mountain, “tö” means “face to face”, and “Ahë” means “already met”. I didn't know what they were saying until now, but I just understand. Now, I confront this mountain, it’s name is “Se”. “Se”, in early Japanese, means my darling. We can say that I already met the mountain, so called my darling.

(補論2)
 ダシー氏は海外の万葉集研究家である。万葉集の歌よりも題詞や左注に注目して、編纂において「帝国のインペリアル」歌集を志向する暗黙知があったと考えている。「律令国家と平安の宮廷文化が徐々に崩壊した結果、『万葉集』は再評価されて、平安時代に確立した作歌修練とは別個に取り扱われたり、研究されたりすべき古代のテクストとして位置づけ直された。これと同様に、二十世紀後半には文化・文学研究において国民という枠組みが崩壊した結果、古典文学が近現代世界と切り離して捉えられるようになって、『万葉集』自体の語るところを読み取ろうとする可能性もそこから開けてきたのだと思われる。」(ダシー2023.181頁。“Just as the gradual breakdown of the ritsuryō state and Heian court culture led to a reevaluation of the Man'yōshū as an archaic text that should be treated and studied independently from the practice of waka poetry established in the Heian period, so perhaps has the breakdown of the national frameworks of cultural and literary scholarship in the late twentieth century and the consequent perception of classical literature as irrelevant to the modern world opened up the possibility of trying to read the Man'yōshū on its own terms.” Duthie, 2014, p.200)という。万葉集をどう捉えるかという枠組み(frame)について再検討を求めている。ところが、万葉集に記されている題詞や左注は、それぞれの歌の枠組み(frame)を個別に定め示すために加えられたものである(注6)。歌だけを取り出すことができないのは、一定の状況の設定において歌が歌われているため、舞台設定を明示する必要があるからである。作者名が記されるのは、名に負う存在として言葉を吐いているものが歌だったからで、他の人が歌ったのでは意味を成さないことも多かった。くり返すが、題詞は編纂過程で新たに付けられたものではない(注7)
 括弧つきの『万葉集』を見て歌を見ず、に陥った議論は今日の研究に散見される。古典文学が近現代のそれとは別物であることはそのとおりであるが、万葉集など上代のテキストは、平安時代以降の古典文学とさえ別物である。なぜなら、古典日本語で作られているのではなく、ヤマトコトバで作られているからである。万葉集の編纂には、ヤマトコトバの用例集作成を志向する傾向があったという側面さえ認められる。言語ゲームの所産であった。
 万葉集というタイトルについて、よろづのことのはの集と考えていた仙覚の説は、万世に伝わるように期待されたものとする捉え方以上のものである。Collection of myriad leaves という逐語訳はある程度正しいと考える。「葉」の原義は植物の葉である。それが言葉のことを表すのは、タラヨウに字を書いたものを葉書(letter)としていたことからも首肯される。歌の備忘のために言葉が書き付けられたたくさんの紙片をひとつに集めたものを万葉集と名づけたのであろう。編纂者の意図が勝つわけではなくて、collect したというよりは gather したという感触が強い。防人歌のうち、「但有拙劣歌十一首不取載之」(万4327左注)と記す理由は、編纂者の判断で取捨することをお許しくださいとの断り書きである。万葉集の編纂者は撰者ではなかった。雑歌、挽歌、相聞といった部立や、おおむね時代順に並べられているのも、そう整理しておいたほうがわかりやすく、歌ごとにいちいち説明をつける必要もなくなるからそうしておき、一つの体裁として整えている。その意味では assenble していたということだろう。
 ダシー氏は、「この[神野志2007.の「複数の古代」という]考え方は、私見では、『万葉集』の歌に施された種々の題詞や注記から窺える多様な歴史的立場、また多様な歴史化の様式にも適用可能だと思われる。この、歴史的枠組みの複数性こそが、テクスト内部に歌集編成のポリティクスを発生させるのだろう。」(同上171頁、“This [what Kōnoshi has called "multiple antiquities" (複数の古代)] is a concept that, in my view, also applies to the converging of different historical perspectives and styles of historicization in the various notes and commentary that surround the poems in the Man'yōshū. It is this multiplicity of historical frames that creates a politics of anthologization within the text.” ibid. p.188)という。題詞や注記は当該歌のために記されたもので、編成のポリティクスを示そうと(無意識的にさえ)意図されたものではない。歴史的枠組みとしてではなく、当該歌の枠組みを示すために存在している。それぞれの歌が主役であり、歌を定位させるために題詞や注記は記されている。
 参考の便宜のため、ダシー氏の主張の根幹部分を引いておく。

 私が『万葉集』を「帝国の」歌集と称するのは、巻ごとに異なる編纂の原理と様式とを通じ、歌の集積を帝国の歴史として、また帝国の空間的表象として、さらには天皇を中心とする詩的表現の広大な世界として構成しようとする傾向を捉えてのことである。……本章で明らかにするように、『万葉集』に表象される〝国体〟は、さまざまな社会階層の人々が共通の生得的感性を通して統合された国などではない。あくまでも古典的な帝国的世界レルムであって、そこでは、歌が媒介となって宮廷の文化的感性を全土に広め、天皇と宮廷を中心とする広大な文明的な感情世界を生み出すとされる。(同上149頁、“The reason I describe the Man'yōshū as “imperial," is that throughout the various different principles and styles of anthologization that each of its volumes exhibits, there is a pervasive commitment to configuring the collection as an imperial history, a spatial representation of the empire, and a universal realm of poetic expression centered on the figure of the sovereign. ……As this chapter will make clear, the "shape of the state" represented in the Man'yōshū is not that of a nation in which various people of different social classes are united by a common native sensibility, but that of a classical imperial realm, in which poetry serves as a vehicle for the cultural sensibility of the court to spread throughout the provinces and create a universal world of civilized feeling centered on the sovereign and the imperial court.” ibid. pp.161-162)
 繰り返すが、『万葉集』が〈帝国のインペリアル〉歌集だということは、天皇のインペリアル命で編纂された──勅撰──という意味ではない。さまざまな構成原理と長期にわたる編纂史にもかかわらず、この歌集の組織には帝国史と帝国世界とを表象しようとする一貫した志向が看取されるという意味である。(同上157頁、“The Man'yōshū may not be an "imperial" anthology in the usual sense of having been imperially commissioned (勅撰), but it is in the sense that among its variety of structural principles and long compilation history one can nevertheless detect a pervasive commitment to organizing the anthology as a representation of imperial history and of the imperial realm.” ibid. p.172)
 改めて言おう。帝国史、帝国世界の空間的表象、大伴氏一族に関する脇筋という三つの側面は、どれも単一の視点からではなく、相互に衝突しがちな複数の立場パースペクティヴを交えて描かれている。『万葉集』が相異なる複数の立場から成り立っているのは、単に、長期にわたる編纂過程を通じて帝国の理念が変質したためではないだろう。むしろこの多様性は、『万葉集』自体の内部に刻み込まれた、歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。(同上164頁、“As I noted earlier, none of these three aspects─the imperial history, the spatial representation of the imperial realm, or the Ōtomo lineage subplot─are represented from a single viewpoint. All of them include multiple perspectives that are often mutually conflicting. The fact that the Man'yōshū is made up of different perspectives is not simply due to imperial ideals changing over time throughout the long process of compilation. Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man'yōshū itself.” ibid. p.180)

(注)
(注1)2024年の30年前、1994年のトップニュースは自社さ連立村山内閣の発足であるが、今、村山富市氏の眉毛について知らない人、忘れている人のほうが多いのではないか。
(注2)「手向草」については古くから何を指すか諸説立てられている。

手向草、只手向なり、草は万にそへて云詞にて、……幣を初て、何にても神に物を奉るを云、今は松か枝を結て奉るなるべし、有間皇子の結松の事あれど、昔はさしも忌べからざる歟、(契沖・万葉集代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874349/1/69、漢字の旧字体は改めた)
手向草とは、古松の枝にかゝる蘿也。……これを手向草と名付るは松が枝に垂たるさま、さかきか枝にしらがつけと詠る如くに垂に似たれば手向草とはいふ也。其色白くして、浜松にかゝりたるは、波のかゝれるとみゆるが故に、白浪の浜松が枝乃手向草とよめる歟。(荷田春満・僻案抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970572/1/62、漢字の旧字体は改めた)
手向草 「タムケグサ」とよむ。……神を祭る為に供ふるをいふ。「草」は「料」字の意にてこゝは何にても手向くる料をいふ。行旅の時人々道々に「ぬさ」をとりて神に手向け往来の恙なからむことを祈たるは古の習俗なり。その「ぬさ」は布帛を主とせり。されば、こゝにも浜の松が枝に白き布などの誰人かの手向けたるまゝに残りてありしを見てよまれしならむ。或る説にこの巻二の有間皇子の磐代の結び松の故事を思ひてよみたまひしかといへれど、行幸の折にさる忌はしき事を古とてもよむべくもあらず。又この手向草を松枝を結びたるなりといふ説あれど、これも松を結びて神に手向けたりといふ事例を知らず。(山田孝雄・萬葉集講義 巻第一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/91~92、漢字の旧字体は改めた)
手向草。「手向」は、神を祭る為に供へる物の総称。「草」は、料の意の語で、手向の物の意。古へは行旅の際、途中の無事を祈る為に、行く先々の神に幣物を供へて祭をするのが風で、その幣物は、主としては布であつたが、木綿ゆふ、糸、紙なども用ゐた。……行幸の供奉をしつつ、途中、浜辺の松の枝に附けてある手向草を見られての感である。「幾代までにか」と云はれてゐるので、比較的長く朽ちない布であつたらうと思はれる。(窪田1951.91頁、漢字の旧字体は改めた)
手向草 タムケグサ。タムケは、行路にあつて、無事であることを願つて神を祭ること。天神を招請して、邪悪の神を拂うのが原義で、ムケは征服の義。コトムケのムケと同語であろう。タは接頭語、手の意がある。それから転じて、道路の悪神に、幣帛を捧げて、災禍を免れようとする思想に移つた。そこで手向として幣帛を献ずる意になるのである。クサは料の義。タムケグサは、手向の祭の材料。幣帛をいうので、実質としては、布、木綿、糸、紙等が数えられる。それらのものが、古くなって松が枝に懸かつているのを見て、いつの代からの物かと疑うのが、この歌の意である。(武田1956.174頁、漢字の旧字体は改めた)

 近年の注釈書では次のようにある。

手向け草─道中の無事を祈って神に捧げる幣帛へいはくの類。木綿ゆうなどを用いた。「草」は、材料の意。松の枝に懸けたり、結んだりしたのだろう。松は土地の霊の宿る神木とされた。この地が岩代いわしろなら、有間皇子事件(六五八年)への意識がある。あるいは、一四三、一四四歌と同時の作か。事件後三十二年。(多田2009.47頁)
「手向くさ」は旅の安全を祈って道の神に捧げた幣帛(へいはく)。作者は、浜松の枝に幣(ぬさ)を掛けようとして、古の旅人が残した古幣を目にして感慨を催した。それは「古(いにしへ)にありけむ人も我がごとか三輪の檜原(ひばら)にかざし折りけむ」(一二八)にも似た懐古の思いであっただろう。(新大系文庫本81頁)

(注3)鳥は巣の素材を選ばない。都市に棲む鳥は、洗濯ハンガーやビニール袋なども使って作っている。幣となっていた布帛であれ何であれ、すなわち、クサと呼ぶに値する名もなき存在を用いる。一般大衆は名もなき存在、「青人草あをひとくさ」(記上)と呼ばれていた。「くさ」と「くさ」はアクセントを異にするから語として起源的に別とされるが、混用する条件は整っている。
(注4)山上憶良の作とする類歌が巻九にある。

 白波しらなみの 浜松はままつの木の 手向草たむけぐさ 幾代いくよまでにか 年はぬらむ〔山上歌一首/白那弥乃濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄経濫/右一首或云川嶋皇子御作歌〕(万1716)

(注5)「背の山〔勢能山〕」について、稲岡2004.は、阿閉皇女にとって亡き夫、草壁皇子への追慕の念があり、雑歌に入れられているが相聞歌に他ならなかったと推測している。注釈書ではその考えが続いている。筆者は、副次的にそういう気持ちが存在していたのか可能性を推し測ることをしない。澤瀉1957.も、「むやみに悲痛な感情をこのお作に汲み取らうとするのは正しくこのお作を会する所以ではない。」(279頁、漢字の旧字体は改めた)と述べている。当該歌が歌われて、周囲で聞いた人に、ああ、旦那さんを亡くされてお気の毒になあ、という感情を惹起させたとは思われない印象の歌である。彼女の名、アヘ(ヘは乙類)と、地名のヤマト(トは乙類)と、山の名のセとを掛け合わせてはじき出されたヤマトコトバの頓智に聞き入って感心し、記憶され、書きとめる者がいて、後にそのジョークをよく理解していた人が万葉集に組み入れたのだろう。当然、雑歌に分類される。
(注6)Goffman 1974. ほか参照。
(注7)万葉集にある標目や題詞を見て、全体の構造ないし構成を考えようとする一派がある。伊藤1974.、市瀬・城﨑・村瀬2014.、村瀬2021.など参照。

(引用・参考文献)
伊藤1974. 伊藤博『萬葉集の構造と成立 上・下』塙書房、1974年。
市瀬・城﨑・村瀬2014. 市瀬雅之・城﨑陽子・村瀬憲夫『万葉集編纂構想論』笠間書院、平成26年。
稲岡2004. 稲岡耕二「大名持神社と人麻呂歌集─人麻呂の工房を探る(其の三)─」『萬葉』第188号、2004年6月。学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir/2004
澤瀉1957. 澤瀉久隆『万葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
窪田1951. 窪田空穂『万葉集評釈 第1巻』東京堂、昭和26年。
神野志2007. 神野志隆光『複数の「古代」』(講談社(講談社現代新書)、2007年。
阪下2012. 阪下圭八「初期の山上憶良」『和歌史のなかの万葉集』笠間書院、平成24年。(『万葉集を学ぶ』有斐閣、1977年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈三』角川書店、昭和31年
ダシー2023. トークィル・ダシー、品田悦一・北村礼子訳『万葉集と帝国的想像』花鳥社、2023年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
村瀬2005. 村瀬憲夫「妹勢能山詠の諸問題」『萬葉集研究 第27号』塙書房、2005年。近畿大学学術情報リポジトリhttps://kindai.repo.nii.ac.jp/records/1269
村瀬2021. 村瀬憲夫『大伴家持論 作品と編纂』塙書房、2021年。
ワトソン2017. ワトソン・マイケル「万葉集の英訳について」『万葉古代学研究年報』第15号、2017年3月。奈良県立万葉文化館HP https://www.manyo.jp/ancient/report/
Cranston 1993. Edwin A. Cranston. A waka anthology. Vol. 1: translated, with a commentary and notes. California, Stanford University Press. 1993.
Duthie 2014. Torquil Duthie. Man'yōshū and the Imperial Imagination in Early Japan. Leiden, Brill, 2014.
Goffman 1974. Erving Goffman. Frame analysis: an essay on the organization of experience. Massachusetts, Harvard University Press, 1974.
Levy 1981. Ian Hideo Levy. Man'yōshū: A Translation of the Japan’s Premier Anthology of Classical Poetry Volume one. New Jersey, Princeton University Press.1981.
Vovin 2017. Alexander Vovin. Man'yōshū : Book 1: a new English translation containing the original text, Kana transliteration, Romanization, glossing and commentary. Leiden, Brill, 2017.

安積山の歌(万3807)

2024年07月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 次の歌は古今集の序(注1)にも引用されてとみに有名であり、また出土木簡にも見出されている(注2)。けれども、歌の解釈には諸説あっていまだ定説を得ていない。歌の主旨について左注を絡めて全体として理解されるに至っていない。この歌が言葉遊びを極めた歌であることを指摘した論も見られない(注3)

 安積香山あさかやま 影さへ見ゆる 山のの あさき心を が思はなくに〔安積香山影副所見山井之浅心乎吾念莫國〕(万3807)
  右の歌は、伝へて云はく、「葛城王かづらきのみこ陸奥国みちのくのくにつかはさえし時に、国司くにのみこともちつつしみてうけたまるに緩怠おほろかなることはなはだし。時に、みここころよろこびず、いかりの色おもあらはる。飲饌をくと雖も、うたげたのし不肯かへしたまはず。ここさき采女うねめ有り、風流みやびたる娘子をとめなり。左の手にさかづきささげ、右の手に水を持ち、みこひざちての歌をむ。爾乃すなはち王のみこころよろこびて、楽しび飲むこと終日ひねもすなり」といへり。〔右歌傳云葛城王遣于陸奥國之時國司〓(示へんに弖)承緩怠異甚於時王意不悦怒色顯面雖設飲饌不肯宴樂於是有前采女風流娘子左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌尓乃王意解悦樂飲終日〕

 歌の解釈においてこれまでに問題視された点としては、歌にある「山の井」に映っているのは何か、「さへ」はどういう意味か、「井」の水は澄んでいるか、「あさ」という音の反復は意識されているか、上三句の序詞は「浅き」のみにかかるか下二句全体にかかるか、ナクニ止めで終わっている歌の余韻をどう捉えるか(注4)、があげられている。現在の通釈書の現代語訳は次のようになっており、特に違和感はない。

 安積山、山影まで見える山の泉の水のように、浅い心で私はあなたを思うのではありません。(新大系文庫本269頁)
 安積香山の、山の姿までも映って見える山の泉のように、浅い気持であなたのことを思っているわけでは決してありませんのに。(阿蘇2012.302頁)
 安積山の影までが映って見える山の井のような浅い心で、私は思ったわけではないのに。(多田2010.148頁)

 しかし、左注との関係についてとなると、途端に皆、奥歯に物が挟まったような解説となる。
 万葉集巻十六は、「由縁有り、并せて雑歌〔有由縁并雜歌〕」という標題のもとさまざまな歌が採録されている。「由縁」とは経緯があって歌が詠まれているということであり、状況設定について題詞や左注に説明されることが多い。この歌でも、葛城王が陸奥国に派遣された時に、国司主催のおもてなしの宴会が開かれたが、礼に欠けるものであったため葛城王はふくれていた。その時、「前采女」が気の利いた歌を歌いかけたので、気をとり直して楽しんだと事情が説明されている。
 万葉集巻十六の編者がはるかに遠い陸奥国で歌われた歌を書き留めて置こうとしたのは、この歌に「由縁」が有ると考えたからだろう。そういう状況だったらそういう歌を歌って興趣が生まれ、聞いた王の気持ちも楽しくなるだろう。まことにその場にふさわしい歌であると認めたということである(注5)。何がふさわしいかと言えば、歌は言葉でできているから、言葉づかいが洒落ていて場面に合い、見事だということである。
 「前采女風流娘子」とは、以前都へ行き采女を務めていて今は国元の陸奥へ帰って来ていた女性のことである(注6)。「風流みやび」とは、都会風、宮廷風ということだが、所作ふるまいがミヤビである(注7)ということよりも、言葉をうまく使って歌を歌ったところがミヤビなのである。なぜなら、歌の左注の文章に書かれているからである。歌は言葉でできていて、それ以外のものではない。
 誰もが気づく言葉づかいの妙は、「あさ・・か山」と「あさ・・き心」を掛けている点である。陸奥みちのく国、つまり、道の奥の遠い国だから、都で重んじられている礼を知る者がおらず、お客様には失礼をおかけしていてお恥ずかしい限りですと歌っている。「山のの あさき心を」と掛かる時、「山のあさき」というのがどういう状態なのか議論されている。水深が浅いとする説と地上から水面までの距離が浅いとする説である。関連して、水が清浄かどうかということも考慮されている。井戸の話をするのに、井戸水が涸れそうなことを「浅い」と表現するものか筆者は知らない。井戸が「浅い」のは深井戸の反対で、水位が地面に近いことを指すものである(注8)。水汲みがたやすいことを言っている。誰の仕事か。宮中でいえば采女の仕事である。だから「前采女」の歌として伝わっている。深井戸なら屈強な男性が跳ね釣瓶などで汲み揚げたであろう(注9)
左:自噴井戸(扇面法華経下絵、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/967638/1/24をトリミング)、右:撥ね釣瓶の井戸(一遍聖絵(写)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/25をトリミング)
 彼女は、「左手捧觴、右手持水、撃之王膝」っている。この状況はどういうことなのか注意が必要である。手が空いていないのに膝を撃つことはできるのか。また、葛城王の膝がその体に密着していると撃つことはできない。体勢としては胡床居あぐらゐと呼ばれる座り方なのだろう。左手でさかづきを捧げていたというのは元采女が昔取った杵柄のごとき所作であるが、右手はどうやって水を持っているのか。ふつうならお酌をして回るのだから酒を入れた銚子や提子を持っていなければならない。なのに水を持っている。觴に水を注ぐというところが「国司〓(示へんに弖)承緩怠異甚」の核心を突いているようである。宴なのに酒の用意がなかった。
 酒を注がずに水を持っている。そして、井のことが歌われている。井戸から汲み揚げた水を手にしている(注10)。右手にあって中身が水である容器はヒサコ(瓢、瓠)で、コは古く清音であったものと考えられている。容器の素材は土器の可能性もあるが、その呼称は用途を同じくするからヒサコと呼ばれたものと推測される。水を汲む容器にしているヒサコには、植物のヒサコ、すなわち、瓢箪の類の核を刳り抜いたものを利用した。植物名の場合、ヒサとも言ったとされている。ヒサコを手にしているから、その右手で王のヒザ(膝)を撃った。ヒザ(ヒは甲類)のザは濁音であるが、清濁相通じて言葉を掛ける例はよく見られる。ヒサコとは手にさげること、古語にいうヒサグ(提)ことのできるところに特徴を見たものでもある。そのヒサグという語はヒキ(引)+サグ(下)の約と考えられている。ヒク(引)のヒは甲類だから、ヒサコのヒも甲類だったろう。人間の膝の方には膝頭の骨がある。いわゆる膝のお皿である。柄杓ひしゃくのように水を掬い溜めることができるものと見立てられる。その両者を撃ち合っておもしろがっている。機知あふれる言葉遊びを実行に移している。
 ヒサコ、ヒサ、ヒザが一連の言葉群を構成している。「前采女風流娘子」は、ヒサコでヒザのコ、膝頭の骨部分をコツンと撃ったのである(注11)。どうしてウツ(撃)ような真似に出たのか。それはその場がウタゲ(宴)だからである。ウタゲという言葉は、ウチ+アゲの約、酒宴の際に手をうちたたくことに由来する言葉とされている。ここでは、手と手をうちたたくのではなく、ヒサとヒザをうちたたいている。歌う時に撃っているから拍子を取っているわけである。ヒサ(久)にヒサにと囃している。宴で囃子言葉の歌が歌われたことは知られている。

 冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇すめらみこと大田田根子おほたたねこて、大神おほみわのかみいはひまつらしむ。是の日に、活日いくひ、自ら神酒みわささげて天皇にたてまつる。りてうたよみして曰はく、
 此の御酒みきは 我が御酒ならず やまとなす 大物主おほものぬしの みし御酒 幾久いくひさ幾久(紀15)
如此かく歌して、神宮かみのみやとよのあかりす。即ち宴をはりて、諸大夫等まへつきみたち歌して曰はく、
 味酒うまさけ 三輪みわ殿とのの 朝門あさとにも でてかな 三輪の殿門とのとを(紀16)
ここに、天皇歌してのたまはく、
 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押しびらかね 三輪の殿門を(紀17)
即ち神宮のみかどひらきて幸行いでます。所謂いはゆる大田田根子は、今の三輪君みわのきみ始祖はじめのおやなり。(崇神紀八年十二月)

 酒をささげたてまつり、幾世までも久しく栄えよと歌った歌が伝わっていた。「前采女」はそれを伝えようと瓠で膝を撃っている。そういう伝承が思い起こされたなら、同様に、宴の席で采女が歌ったとされる歌も思い出されたことであろう。それはちょうど今、葛城王が怒っているように、雄略天皇が怒っていた時に三重の采女が歌を歌ってそれを鎮めたという話に沿っている。わざわざ王が怒っているときに采女が歌う設定にしている。昔話を踏襲しているからである。「前采女」は、無礼を詫びながら楽しませる機知を持っていた。

 又、天皇すめらみこと長谷はつせ百枝槻ももえつきしたいまして、豊楽とよのあかりたまふ時に、伊勢国いせのくに三重みへうねめ大御盞おほみさかづきを指し挙げてたてまつりき。しかくして、其の百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮く。其の婇、落葉おちばさかづきに浮くこと知らずて、なほ大御酒おほみきを献る。天皇、其の盞に浮く葉を看行みそこなはして、其の婇を打ち伏せ、たちを以て其のくびに刺して、らむとしたまふ時、其の婇、天皇にまをしてはく、「が身を殺したまひそ。白すべき事有り」といひて、即ち歌ひて曰はく、
 纏向まきむくの しろの宮は 朝日の 日る宮 夕日ゆふひの 日がける宮 竹の根の 根る宮 の根の 根ふ宮 八百土やほによし いきづきの宮 真木まきく 御門みかど 新嘗屋にひなへやに てる ももる つきは つ枝は あめへり なかつ枝は あづまを覆へり 下枝しづえは ひなを覆へり 上つ枝の 枝のうらは 中つ枝に 落ちらばへ 中つ枝の 枝の末葉は しもつ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は きぬの 三重みへの子が ささがせる 瑞玉盞みづたまうきに 浮きしあぶら 落ちなづさひ みなこをろこをろに しも あやにかしこし 高光る 日の御子 事の 語りごとも をば(記99)
かれ、此の歌をたてまつりしかば、其の罪をゆるしき。爾くして、大后おほきさき、歌ふ。其の歌に曰はく、
 やまとの 高市たけちに だかる いち高処つかさ 新嘗屋にひなへやに てる 葉広はびろ 真椿まつばき が葉の ひろいまし の花の 照り坐す 高光る 日の御子に とよ御酒みき たてまつらせ 事の語り言も 是をば(記100)
即ち、天皇の歌ひて曰はく、
 ももしきの 大宮人おほみやひとは 鶉鳥うづらとり 領巾ひれ取りけて 鶺鴒まなばしら へ 庭雀にはすずめ 群集うずすまて 今日けふもかも 酒水漬さかみづくらし 高光る 日の宮人みやひと 事の語り言も 是をば(記101)
 此の三つの歌は、天語歌あまがたりうたぞ。
 かれ、此の豊楽とよのあかりに、其の三重のうねめめて、あまたのたまひものを給ふ。(雄略記)

 しかし、この雄略記だけでは万3807番歌の状況を定めきれない側面がある。「前采女」は酒を持っていない。持っているのは水である。酒が切れていて用意できなかったのだろう。ために井戸から水を汲んできてそのまま葛城王に提供しようとしている。そのような逸話は記紀説話のなかにある。ソラツヒコの話である。海神わたつみの宮を訪れた火遠理命ほをりのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみこと)は、海神から虚空津日高そらつひこ(虚空彦)と呼ばれている。海神の宮を訪れてカツラの木の上に登って様子を見ていたことが発端である。

 即ち、其の香木かつらに登りていましき。しかくして、海神わたつみむすめ豊玉毘売とよたまびめ従婢まかたち玉器たまもひを持ちて水をまむとする時に、かげ有り。あふぎ見ればうるはしき壮夫をとこ有り。いと異奇あやしと以為おもひき。爾くして、火遠理命ほをりのみこと、其のまかたちを見て、水を得まくしと乞ふ。婢、すなはち水を酌み、玉器たまもひに入れて貢進たてまつりき。爾くして、水を飲まずて御頸みくびたまを解き、口にふふみて其の玉器につはき入る。是に其のたまもひきて、婢、璵をはなつこと得ず。かれ、璵を著けしまにまに、豊玉毘売命にたてまつりき。爾くして、其の璵を見て、婢に問ひて曰はく、「し、人、かどに有りや」といふ。答へて曰はく、「人有り。我が井のの香木のうへいます。いと麗しき壮夫ぞ。我がきみして甚たふとし。故、其の人水を乞ひしがゆゑに水を奉れば、水を飲まずて此の璵をき入る。是、離つこと得ず。故、入れし任にち来てたてまつる」といひき。爾くして、豊玉毘売命、あやしと思ひ、出で見て、乃ち見でて、目合まぐはひして、其の父に白して曰はく、「吾がかどに麗しき人有り」といひき。爾くして、海神、自ら出で見て云はく、「此の人は天津日高あまつひこ御子みこ虚空津日高そらつひこぞ」といふ。即ち、内にりて、みちの皮の畳八重やへを敷き、亦、きぬ畳八重を其のうへに敷き、其の上にいませて、百取ももとり机代つくえしろの物をそなへ、御饗みあへて、即ち其の女、豊玉毘売命にはしむ。(記上)

 万3807番歌の左注にあるカヅラキノミコ(葛城王)は、カツラキ(香木、桂)+ノ(助詞)+ミコ(御子)であるとなぞらえられている。井戸にゆかりがある人だから井戸水を汲んできて提供しようとしている。「前采女」は従婢まかたちの役目を担っている。着席している様は、板の間に藁蓋などを敷いたところに座らされているのではなく、たくさんの敷物を重ねたところに腰掛けるような具合になっていると考えられる。胡床居あぐらゐになるからヒザ(膝)が出て、ヒサコ(瓢)で「撃」つことができた。「みちの皮の畳八重やへを敷き、亦、きぬ畳八重を其の上に敷き、其の上にいませて」という状況である。陸奥みちのく、ミチ(道)+ノ(助詞)+オク(奥)の地である。ミチという言葉にはアシカの意味もあり、アシカの毛皮が敷物に利用され、カヅラキノミコ(葛城王)はミチの皮を何枚も積み重ねたところに座らされていた。実際のところ、ミチノクはアシカの毛皮の大生産地でもあった。
ニホンアシカ(絶滅種)(兵庫県立考古博物館「動物と考古学展」展示品)
 「前采女」が葛城王に伝えようとしているのは、陸奥国は海神が住むほど遠い国で、国司は王のことをぞんざいに扱っているわけではなくて、龍宮城のような別世界のおもてなしをしているのですよ、ということであった。王はまるでソラツヒコのようで、見目麗しくいらっしゃる。だからその先例に従っておもてなしをしているというのである。題詞中の「飲饌」は、オモノ(御物)、あるいは、ツクエシロノモノ(机代物)などと訓めばよいのであろう。御馳走がいろいろ並べられている。
 これまでの解釈では、宴と井の水とを結びつけて捉えられていなかった。井の水の神聖性を歌ったとも考えられていたが、その場合、畏怖の念を覚えはしてもおもしろいと思うことはなく、酒宴との関係も不明である。畏まることになって「王意解」のことはあっても「悦楽飲終日」には至らないだろう。この日、「王」は何を「飲」んでいるのか。「前采女」が持っていた「水」である。すなわち、ナクニ止めで語られている安積香山の歌の共通項とは、水である。酒の用意がされていないことに「怒色顕面」となっていた葛城王は、「雖飲饌、不宴楽。」であったが、「前采女」に膝を撃たれながら歌われた歌を聞いてなるほどと思い、酒ではなく水の飲み会、ソフトドリンクの食事会を一日中楽しんだということになる。
 以上のように、左注に記されていることとの整合性を保った理解が行われることではじめて、この歌は万葉集巻十六、「有由縁」歌として蘇ることができるのである。

(注)
(注1)古今集・仮名序に、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は采女の戯れより詠みて、この二歌は、歌の父母の様にてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と見える。
(注2)紫香楽宮跡から出土している。天平十六〜十七年当時のものと推定されている。
(注3)言語は、主張、問いかけ、命令、祈り、約束、懇願、脅迫、言葉遊びなど、無数のゲーム的な行為の束である。この歌がそのうちのどの要素を強く持っているかを探ることが万葉集研究の唯一無二の方法である。ところが、村瀬2010.は、左注の「伝云」について、「作りものの語り」であると決めて歯牙にもかけない。「「左手に觴を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて」という振舞いは千手観音ならいざしらず、現実の采女の行動としては不自然である。思うにこれは、もともとあった安積香山歌……に、「伝云」に記されたような盛りだくさんな内容(宴席で詠まれた歌、采女が詠んだ歌、王への忠誠の心を吐露した歌等々)を付与したがために生じた無理に起因するのであろう。」(95頁)とする。わざわざ左注を記して「有由縁」として編んだ採録者の意図を無視している。仮に後から話を作ったとした場合、最終的に馬脚を現すことはあり得ても、最初から誰もが疑問視するような話を付け足すようなことはない。話にならないからである。
(注4)ナクニは、打消の助動詞ズがク語法によって体言化された形、クニに助詞二が下接したもので、ナクニ止めで終わる歌には独特の余韻を残す効果がある。鉄野2008.は、「ナクニ自身は、単に否定的な状況を提示するに過ぎない。しかし、その否定的な状況に対して、それに応じようとすれば、両者の関係はおのずと逆説的にならざるを得ない。更にナクニで言いさしにすれば、自分には、その状況に対して如何ともし難い、乃至はそれ以上何も言えない、といった気持を暗示することになる。口ごもることによって、以下は察してくれ、あるいはあなたはどうしてくれるのか、などと、聞き手に下駄を預ける体なのである。」(5頁)と解説する。そして、「ナクニ止めの歌のように、最後に全体を否定する形では、その語[「つなぎことば」(伊藤1986.)]は結局否定される側にあることになる。……そうした時、序詞は本旨に対して多様で微妙な関係を結ぶことになる……。その関係の多くは、何らかの比喩である。比喩が、異なるもの同士の中に共通の要素を見出すことに成り立つのだとすれば、そこには必ず裏面として、差異が存することになる。」(14頁)としている。そして、安積香山の歌では、「差異(山の井は浅いけれども、自分の心は深い)をあえて挙げることで、かえって共通項(清らかであること)が浮かび上がる仕組みになっている。」(同頁)と結論づけている。以下に述べるように、共通項が井の清らかであることと捉えるのは誤りである。
(注5)史書に見られないから史実ではなかっただろうとの主張もあり、また、説話化された歌であるとの見方もある。しかし、なにより歌の理解が第一である。講釈はその後で(したければ)することである。
(注6)采女の制に合わないから嘘であるとする生真面目で融通の利かない、文学的でない見解も見られる。また、多田2010.に、「「采女」は水司や膳司に配属されたが、井の聖水に奉仕する「水の女」としての役割がその職掌の一端であったらしい。」(147頁)と尤もらしいことが語られている。しかし、女中が主人に仕える卑近な仕事は、おーい、お茶、と呼ばれた時、さっと茶を入れて差し出すことであろう。
(注7)これまでの説ではそう捉えられている。「都から来訪した葛城王を適切にもてなす術を唯一心得ていた「前采女」の洗練された振舞いと関わって用いられている。」(高松2007.168頁)という。具体的には、膝を撃つことに色っぽさを含むとする説に、鉄野2008.、上野2018.などがある。また、拍子を取るリズミカルな撃ち方とする説に、折口1971.、藤井1987.などがある。
 なお、「芸能」として捉えようとすると「風流」はもはやミヤビでは意が解し尽くせないから音読みするとする説が佐藤2024.に見られる。評するに値しない。
(注8)木村2008.が指摘していて正しい。近年の注釈書では、多田2010.や阿蘇2012.はこの説に依っている。だが、現在でも研究者のなかには否定的に捉える向きもある。加藤2019.は、「「安積山…」詠のように、単に「山の井」について「浅き」といった場合は、山の井の水の深浅についていわれたものと理解するのがふつうで、そのような自然な理解を排して水面の位置のことであるとするのは、説明を重ねる中でしか発動しない読解と言わざるをえない。」(15〜16頁)と批判している。井戸水を汲み揚げることを知らないようである。万葉集のなかで「井」に関して浅い、深いと形容しているのはこの歌だけである。「井」は飲み水を得るためのもの、「田井たゐ」は稲の飲み水のあるところ、つまりは水田のことを言っている。人は「井」から水を汲み揚げて使う。電動ポンプはない。

 もののふの 八十やそ娘子をとめらが 汲みまがふ 寺井てらゐの上の 堅香子かたかごの花(万4143)
 勝鹿かつしかの 真間ままの井を見れば 立ちならし 水汲ましけむ 手児名てこなし思ほゆ(万1808)
 山辺やまのへの 五十師いし御井みゐは おのづから 成れる錦を 張れる山かも(万3235)

 上二首は水を汲むことが歌われている。最後の歌は、井戸端にきれいな着物を着た女官が集まっていることを、錦を張った山のようだと譬えている。井に水が溜まっている、その水深について、当時の人は頭に浮かべたことがあったのだろうか。溜池の水深なら深くあることが望まれただろう。たくさんの水を貯えていることを指すからである。しかし、井の場合は、湧泉であれ、掘井であれ、「走井はしりゐ」のような川の水の活用であれ、水の深さは求められていない。次から次へと湧き出してくるところを「井」と呼んでいる。汲み揚げたらじわっと滲みだして次に汲む時にはまた満ちている。それが「井」である。角川古語大辞典は「山の井」の項を設け、「山中にわき出る泉。掘り井戸ではないために、たまっている水の量が少なく、浅いことのたとえに用いられる。」(764頁)としている。これは誤解だろう。水を汲むのに十分な条件がそろわないところを「井」とは呼ばなかっただろう。日本国語大辞典では、「山中の、湧水をたたえたところ。掘井戸に対して、それが浅いところから、和歌では「浅い」の序詞の一部としても用いる。」(190頁)としている。水量の問題ではなく、釣瓶を使わなくても汲むことができることをいうものとしている。これが正しい。
 廣岡2005.に、「古代において、影(姿)を写すことは神秘なものと理解され、その魂まで宿すものと考えられていた。ここはそういう深い井を言うものであろう。古代における井の多くは湧泉であり、この歌の井も泉をいう。山名もアサだけではなくて、アサカの音は浅からずの否定形を内にもっていると理解してよい。その清泉の水を右手に持って歓待したというのは、この陸奥の地霊の奉仕を意味している。」(320頁)とある。後付けの空論である。波立たない水面は影を写す。田に水を張れば影を写す。盥の水も同じである。盥が魂を宿す祭具となり、実用から外されたことはない。そして、この講釈によって、葛城「王意解悦、楽飲終日。」ことになるとは考えられない。しかも、井戸がとても深かったら、覗き込んだ自分の顔も見えなくなるだろう。清泉で歓待することを地霊への奉仕と論理を飛躍させ、反証不可能な言辞にしている。
(注9)影が映るのだから水はきれいで深くないといけないとする考えが意外に多くみられる。契沖・万葉代匠記に、「影さへみゆるは山の井のきよきによりてなり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/66)とあるのが発端かもしれない。しかし、影が映るのは水の表面の反射による。水面が風波に揺らいでいたり、水草が水面から出ていたり、藻が繁殖しすぎてガスが発生して泡立っていたりしたら映らないが、水面が穏やかなら水中の色は乱反射により全体のトーンにはなるが影が映らないことはない。強い光が当たる場合や他に光が乏しい夜景などが、水鏡の映りやすい条件である。
水鏡の例(平等院)
 むろん、安積山を映した井の水はきれいだっただろう。なぜならそれは井であり、井は飲み水を供するところだからである。飲用に適さなくなった井戸が廃される時、独特なお祭りをして埋めたであろうことは出土状況から確認されている。もはや「井」ではないということである。
(注10)廣岡2005.は、三句目までの序詞と主意を表す下句との関係について、「[序詞は]一般には下句の「浅し」へ冠すると理解するが、……今の場合、「浅き心を我が思はなく」という全体に冠するものであろう。そうでなかったら序詞にする必要はなく、「安積山」だけの枕詞でよい。」(320頁)などと乱暴なことを言っている。左注で「前采女」は「右手持水」していて、「井」のことを歌のなかに歌い込んでいる。歌と左注をもたれ合いの関係にして伝えようとしているのだから、両者を一括して理解しなければならない。
(注11)コツンという擬音語がコツという字音に由来するのかはわからない。

(引用・参考文献)
阿蘇2012. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第8巻』笠間書院、2012年。
伊藤1986. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
上野2018. 上野誠『萬葉文化論』ミネルヴァ書房、2018年。(「難波津歌の伝─いわゆる安積山木簡から考える─」『文学・語学』第196号、2010年3月。)
內田1999. 內田賢德「綺譚の女たち─巻十六有由縁─」『伝承の万葉集』笠間書院、平成11年。
折口1986. 折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集14』中央公論社、1996年。
加藤2019. 加藤睦「「安積山影さへ見ゆる…」詠(万葉集・巻十六)について」『立教大学大学院日本文学論叢』第19号、2019年10月。立教大学学術リポジトリhttps://doi.org/10.14992/00018924
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
木下1972. 木下正俊『萬葉集語法の研究』塙書房、昭和47年。(「「なくに」覚書」『万葉集研究 第一集』塙書房、昭和47年。)
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佐藤2024. 佐藤陽『古代的心性研究序説』武蔵野書院、2024年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
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日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館、2002年。
廣岡2005. 廣岡義隆「積山さかやま 影さへ見ゆる やまの 浅き心を が思はなくに(16・三八〇七)」『セミナー万葉の歌人と作品 十二巻 万葉秀歌抄』和泉書院、2005年。
藤井1987. 藤井貞和『物語文学成立史』東京大学出版会、1987年。
村瀬2010. 村瀬憲夫「「安積香山」歌と「伝云」」『国語と国文学』第87巻第11号、平成22年11月。

駿河采女の歌の解釈

2024年07月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集中には、駿河采女するがのうねめの歌が二首ある。天皇の宮に仕える駿河出身の下女のことであり、同一人物の作かどうかはわからない。

  駿河采女するがのうねめの歌一首〔駿河婇女謌一首〕
 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ 浮寝うきねをしける 恋のしげきに〔敷細乃枕従久々流涙二曽浮宿乎思家類戀乃繁尓〕(万507)
  駿河采女するがのうねめの歌一首〔駿河采女謌一首〕
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも〔沫雪香薄太礼尓零登見左右二流倍散波何物之花其毛〕(万1420)

 万507番歌は、枕から濡れこぼれる涙が溢れ、水鳥のようにその水に浮かぶ思いで寝ている、恋心が激しいので。万1420番歌は、消えやすい泡のような雪が、まだらに降るかと見まがうほどに流れつつ散っているのは何の花だろうか、といった意味であると解されている。雪の降るさまは梅の花の散ることになぞらえることがある(注1)から、ここでも梅の花を意識していると捉えている釈が多い。これらの内容は誰が歌ったとしても意味が通じる。茫漠とした一般論を詠んでいるように感じられる。しかし、特段に駿河出身の采女が歌ったと記録されている。その理由はどこにあるのだろう。また、駿河出身の采女には名はなかったのだろうか。
 前後を見ると、万505・506番歌の題詞は「安倍女郎あへのいらつめの歌二首」、万508番歌には「三方沙みかたのさみ弥の歌一首」、万1419番歌の題詞は「鏡王女かがみのおほきみの歌一首」、万1421番歌には「尾張連をはりのむらじの歌二首〈名をもらせり〉」とある。名のある人、また、闕名の人の間にある。
 題詞が歌の内容の枠組みとなるフレーミング機能を果たすものであるなら、スルガノウネメというだけでその職掌が定まり、個別的特異性をもって歌が歌われていると目されよう。采女は下働きの女官なのだから、天皇の宮における雑事のうち、スルガの名を冠したものに与えられたであろう役割にまつわる歌が詠まれていると考えられる。その第一候補は、スルガというのだから、スル(摺・摩・擦・擂・磨)+ガ(処)の意で、何かをスルことを仕事としていた者として認識されていただろう。実際にそうしていたかについては記録はない。それでも古代には、名負氏の考えがあって職掌が名と深く結びついていた。名に負う存在として宮廷に仕えていたのである。
 古代の人がスル(摺・擂・擦・磨)といえば、食料製造のためのスル、顔料製造のためのスルが考えられる。万507番歌からは、涙のように液体が涌き出ていること、万1420番歌からは、雪のように思える花が関係することという二つの条件が示されている。両者を兼ね備えた事柄としては、菜種を擂って菜種油をとることが導き出される(注2)
 奈良時代に栽培が確認されているアブラナ科の植物として、ダイコン(注3)があげられる。食用とされており、他の蔬菜類よりも高価であったことが知られている(注4)。食べる時期に収穫せずに放置すれば薹が立って白い菜の花を咲かせ、莢の状態の種を採ることができる。絶対に種を採ることがあったのは、翌年も栽培するために欠かせないからである。種には油分を多く含んでいる。そこで、エゴマなどと同様、油をとることが行われたと考えられる(注5)。炒る、擂る、蒸す、搾る、濾す、の工程を経て菜種油ができあがる。液体の上澄みが油で、下には水分が沈んでいる。この油は食用ではなく灯明用の灯油である(注6)。松明などと比べて煤が少なく、魚油と比べれば臭いもきつくない。庶民に手が出る値段ではなく、皇室や高級遺族の屋敷、寺院でのみ使われていた。宮中での生活に使うために作っていたのだろう。名に負う駿河采女が製作に携わっていた。
 以上を前提として歌を再解釈すると次のようになる。

 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ 浮寝うきねをしける 恋のしげきに(万507)
 枕のような擂臼のところから流れ出る涙のようなものに、不安な思いをいだきながら身を横たえるように低くしてのぞき込む。油がとれていることにとても関心があるので。
 
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも(万1420)
 沫雪がまだらに降るかと見立てられるほどに、流れ飛び散っているのはいったい何の花でしょう。(あれはアブラナ科のダイコンの花ですね。私の出番は間近なようです。)
青味だいこん(アブラナ科の十字花、花の色は白い)

 万507番歌では、「恋」という言葉を比喩的に用いている。苦労して油を搾っており、滲み出てきたので賞愛するようになっている。また、万1420番歌の修辞表現は、「何の花そも」とふるったものになっている。ふつうなら食べるために収穫されてしまい、ダイコンの花を目にすることはなく知られていないからである。今日でも白い十字花を目にした人は驚いて、黄色くない菜の花に蝶は気づくのだろうかと想像をめぐらせる感想を発している。このように、両首はスルガノウネメでなければ歌い得ない歌なのであった。

(注)
(注1)例えば次のような歌がある。

  紀少鹿女郎きのをしかのいらつめの梅の歌一首
 十二月しはすには 沫雪あわゆき降ると 知らねかも 梅の花咲く ふふめらずして(万1648)

(注2)神野・中村・深澤2014.に、「奈良時代には荏胡麻油、胡麻油、麻子油、曼椒油、椿油、胡桃油、閉美油(イヌガヤ)の7種類の油があったことが文献史料にみえる。」とある。延喜式に書いてあるのが手がかりであるが、史料類から原材料を正確に搾り出せないのは、結果的に灯油がとれて明りになればそれでよいから任せておいたということだろう。
(注3)和名抄に、「葍 爾雅注に云はく、葍〈音は福、於保禰おほね、俗に大根の二字を用ゐる〉は根、正に白くして之れを食ふべしといふ。兼名苑に萊菔〈上の音は来〉と云ふ。本草に蘆菔〈音は服〉と云ふ。孟詵食経に蘿菔〈上の音は羅、今案ふるに萊菔、蘆菔、蘿菔は皆、並びに葍の通称なり〉と云ふ。」と見える。
(注4)関根1969.参照。
(注5)深津1983.は、アブラナの油料としての利用は江戸時代をあまり遡らないと推定している。市場に出回る製品レベルではそうであったかもしれないが、使えるものは使うのが民俗的な知恵である。
(注6)食用にしたことがないとは言い切れないが、現在の精製油と違い酸化が進んでいて、あまりお薦めできる代物ではない。

(引用・参考文献)
神野・中村・深澤2014. 神野恵・中村亜希子・深澤芳樹「「曼椒油」再現実験」『香辛料利用からみた古代日本の食文化の生成に関する研究』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所、平成26年9月。奈良文化財研究所学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/11177/2851
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
辻本1916. 辻本満丸『日本植物油脂 訂正増補再版』丸善、大正5年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/981096
深津1983. 深津正『燈用植物』法政大学出版局、1983年。

万葉集の「辛(から)き恋」

2024年06月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に「からき恋」という言い方が三首に見られる。「からし」という言葉は、舌を刺すような鋭い感覚、塩辛いばかりでなく酸っぱい場合にも用いられる味覚の意味と、そこから派生して骨身にしみるようなつらい気持ちに陥る状態のことを指した。「辛き恋」の歌はその二通りの意味を掛けたもので、序詞で塩辛さを伝え、その「辛き」という言葉で表されるようなつらい感覚の恋をする、という比喩表現である(注1)

志賀しか海人あまの 火気ほけ焼き立てて 焼くしほの からこひをも あれはするかも〔壮鹿海部乃火氣焼立而燎塩乃辛戀毛吾為鴨〕(万2742)
  右の一首は、或るに云はく、石川君子朝臣いしかはのきみこのあそみ作るといふ。〔右一首或云石川君子朝臣作之〕

  筑紫つくしたちに至りてはるかに本郷もとつくにを望みて、悽愴いたみて作る歌四首〔至筑紫舘遙望本郷悽愴作歌四首〕
②志賀の海人の 一日ひとひも落ちず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも〔之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能可良伎孤悲乎母安礼波須流香母〕(万3652)

  (平群氏女郎へぐりうぢのいらつめの、越中守こしのみちのなかのくにのかみ大伴宿禰家持に贈る歌十二首〔平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首(万3931題詞)〕)
須磨すまひとの 海辺うみへつね去らず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも〔須麻比等乃海邊都祢佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安礼波須流香物〕(万3932)
  (右のくだりの歌は、時々に便たより使つかひに寄せて来贈おこせり。一度ひとたびに送らえしにはあらず。〔右件歌者時々寄便使来贈非在一度所送也(万3942左注)〕)

 歌の内容は、海浜で塩を焼いていて、そこでできあがる塩のように辛い恋なんかを私はするのかな? と歌っている。塩焼きのことと恋のことは無関係(注2)だから、修辞を先行させてとぼけた歌を歌っているとしか考えられない。
 文法学の論者は、このように表面的に受け取ることを嫌う。序詞を用いた表現と用いない表現の違いを指摘し、序詞表現の効果を言い立てる。

 序詞によらない場合は、形容詞……「辛き」が直接「恋」を形容している。それに対して序詞を用いた……[歌で]は、恋の……「辛さ」を「志賀の海人の……焼く塩の辛き」事実に即しながら、具象的・象徴的に表現しているのである。少なくとも……「辛し」のみによっては、それがどのように……「辛き」恋であるのかを具象化することは不可能である。ここに、序詞の表現上の特質があると言わなければならない。(和田2022.221頁)

 「辛き恋」だけではどのような恋だかわからないというが、重労働である塩焼きの結果できた塩のような「辛」さで譬えられるような「恋」なのだ、と言われてもどのような恋なのかわからない。片思いや三角関係のような大がかりなつらさを伴うものから、男女間のささいなやりとり、その際にいちいち気になる心の襞のようなものまで、「辛き恋」にはいろいろあるだろう。それをぐずぐず述べるとき、はじめてその恋は具象化する。そもそも唐突に「辛き恋」と言って相手に伝わるとは思われない。塩焼きが何たらかんたらと前置きすることによってのみ、「辛き恋」という表現はあり得ただろうということである。「辛し」という言葉のもつ二つの側面を使う限りにおいておもしろい表現となり、だから悦に入って歌にしていたということである。
 ①は、巻十一の「物に寄せておもひぶる歌三百二首」の一首である。逆に言えば、物に寄せずに歌うことなどかなわない内容であるとも考え得る。①と②は、「志賀の海人」が塩焼きしていることを思い浮かべている。「志賀の海人」は漢委奴国王の金印で有名な福岡市の志賀島の海人のことである。②は、巻十五、遣新羅使の歌である。筑紫まで来て奈良の都を振り返って思い悲しんでいる。大陸へ行くということは、すなわち、カラ(からから)へ向かうわけだから、カラ(辛)いことを歌いたかった。①でも、渡海の起点となるところだからカラの地が意識されている。そういうところの海浜で焼いてできあがる塩はさぞかしカラいものだと洒落を言っていて、辛い恋という言い方が成立している。冗談のような成り立ちであるが、言葉が音でしかなかった無文字時代、ないしその余韻を残している万葉の時代には、決定的である。誰かが語呂合わせに気づいて言葉遊びをした。その言葉遊びの延長線上でこれらの歌は歌われている。
 ➂はその応用形である。「志賀の海人」が「須磨の海人」(注3)ではなく「須磨人」に代わっている。平群氏の女郎は九州へ出向いていないし、歌を贈る相手は越中にいる。近場でどこか「辛き恋」を歌うのに良いところはないかと探して、スマヒトだったら行けるのではないかと思いついた。スマノアマでは駄目である。
 スマヒトという言葉(音)にはスマヒという言葉(音)が隠れている。あるいは、スマヒビトの約かもしれない。すなわち、相撲取りのことである。相撲節会のため、部領使ことりづかひを各地に派遣して力士を都へ召し出していた。同じく防人を招集して引率する者も部領使ことりづかひと呼ばれていた。コトリはコト(事)+トリ(執)の約と見られている。区別するために「相撲すまひの部領使ことりづかひ」(万864序)、「防人さきもりの部領使ことりづかひ」(万4327左注)とも言っている。
 スマヒトは部領使に連れられて行く人のこと、同じ部領使に連れて行かれる防人かもしれず、となるとそれはカラ(韓・唐)に対して防衛に当たる人のことで、塩焼きすればことのほかカラ(辛)い塩ができあがっただろうと連想が働いている。スマヒ(相撲)は現在の相撲よりも範囲が広く、二人が組み合って力比べをする武技を言っていた。
 ②と➂で、「一日も落ちず」、「海辺常去らず」と否定形を表現内に含めており、旅の慕情や旅人の非日常性へと導く表現であるとも考えられている(注4)。しかし、述べてきたように、カラ(韓・唐)と関係があり、カラ(韓・唐)に対抗的な役目を果たす防人の要素をスマヒトは持っている。動詞形のスマフは平安時代になって確例が見られるが、抵抗する、身をもって拒む意を表す。組み合ってする力比べは、相手の力をいかに防ぎ拒むかに力点が置かれると見られていたようである。その点は「志賀の海人」でも似ていて、予備自衛官の役目を兼務していたのだろう。塩を焼くには「一日も落ちず」、「海辺常去らず」見ていなければならない。同様に、敵であるカラ(韓・唐)が襲ってこないか見張るためには、休むことなく常時監視していなければならなかった。レーダーが故障していたら敵軍の攻撃に抵抗することはできない。
 万葉集の研究でこれら三首がとりあげられるのは、序歌としてのありかた、序詞表現をどう捉えるかという視点からであることが多い。その際、序詞は本意を導き出すためのものと思われている。当該歌でいえば、「辛き恋をも我はするかも」が歌の本意であるとされ、三句目までは序詞で「辛き」を導き、そこまでが「恋」を修飾する言葉であると見られることが多い。「辛き」を「つなぎことば」と措定する見解もあり(注5)、また、序詞が下の句(本意)のどこまで掛かるかが議論にのぼることもある。

(和田2022.221頁を縦横改変)

 ところが、いま見てきたように、「辛き恋をも我はするかも」を伝えたいために歌が作られているとは一概に言えないのである。すてきな修辞法が考えついたから歌にして歌い、聞いてもらっている。聞いた相手も、つらい恋ですねえ、お気の毒に、頑張ってくださいね、などとは受け取らなかった。カラだけにカラとはうまいこと言いますね、お話がお上手ですね、なかなかに賢いですね、というのが感想であったろう。恋心を伝えるために言葉を使っているのではなくて、言葉心を伝えるために言葉を使っている。序詞や枕詞という修辞法をなぜ使うのか。言語が持つ魔性が一役買っていることは疑い得ない(注6)。頓知、洒落、地口、なぞなぞなどの言葉遊びも含めて言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)と呼ばれている。

(注)
(注1)序歌に関し、伊藤1976.は、「つなぎことばそのものは、本質において掛詞、結果において譬喩で、れっきとした二重表現と考えられる」(257頁)と述べている。
(注2)平舘2015.に、三首に加えて万5番歌「…… 海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心」をあげ、「塩焼きの景色を恋心に重ねるこの手法は人口に膾炙していたことが知られる。」(244頁)との妄言がある。「下心」(万5)は恋心とは限らないだろう。当該三首は「焼く塩の辛き恋をも我はするかも」を常套句にしてそれぞれに捻った作となっているにすぎない。「塩焼きが導く「辛き恋」に対して、家人を思うその辛さを詠むのではなく、それをする「我」を内省する表現には、もはや都と通じ得ない遠い地に居るという心情の反映を窺える。」(同245頁)も妄言である。「塩焼き」が「辛き恋」を導いているのではなく、「……焼く塩の」が「辛き」を導いている。なお、平舘氏の主張は、現在の通行している序詞一般についての標準的な見解から外れるものではない。考え違いが横行していると筆者は考えている。
(注3)須磨の海人が塩焼きをしていたことを歌に詠んだものは二例ある。塩屋という地名が知られている。前者は「大網公人主宴吟謌一首」、後者は「過敏馬浦時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉」の「反歌一首」である。塩を焼いたらどこでも「辛き恋」を導くかと言えば、上代人にとってはそうではないのである。

 須磨の海人あまの 塩焼きごろも 藤衣ふぢごろも とほにしあれば いまだ着なれず〔須麻乃海人之塩焼衣乃藤服間遠之有者未著穢〕(万413)
 須磨の海人の 塩焼きぎぬの れなばか 一日も君を 忘れて思はむ〔為間乃海人之塩焼衣乃奈礼名者香一日母君乎忘而将念〕(万947)
 
(注4)平舘2018.は、万2742番歌の序詞の表現、「火気焼き立てて焼く塩の」が「繋がる本旨の「辛き恋」に激しい炎が燃えるような恋の思いを連想させる」(367頁)のに対し、万3652番歌の「「一日も落ちず」は欠けることの無い時間の把握と共に相聞的な情調をすでに包含していることを窺わせ……、旅の日々の中で一日も欠けることなく重ねられてきた慕情に導かれるものとしてある」(369頁)とし、「序詞中の否定の表現を含む用法が、その表現によって、事象の継続を意味し、本旨の心情の在り方に、単なる継続以上の時間性を反映させていることが考えられる」(372頁)としている。この考え方の誤りについては(注2)参照。
 万葉集で他に「からし」の例とされるのは以下のとおりである。一首目はカラクニ(韓国)という音がカラク(辛)を導き出しているところに興趣を覚えて歌っている。二首目は蟹の塩漬けのことを歌っているが、実態はよくわかっていない。それでも、カラウス(唐臼)とカラク(辛)との間には音の連繋が見て取れる。三・四首目は原文に「少可」、「小可」を「苛」の誤字としてカラクと訓む説である。カラシ(辛)は骨身にしみることをいうのだから語義に合わないと思われる。アシク(悪)、ツラク(辛)と訓む説があり、そちらが穏当であろう。すなわち、カラシ(辛)という語を歌に使う理由は、カラ(韓・唐)との音の戯れがおもしろいからなのである。

 昔より 言ひけることの 韓国からくにの からくも此処ここに 別れするかも〔牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久尓能可良久毛己許尓和可礼須留可聞〕(万3695)
 …… さひづるや 唐臼からうすき 庭に立つ 手臼てうすに舂き おしてるや 難波なには小江をえの 初垂はつたりを からく垂れ来て 陶人すゑひとの 作れるかめを 今日けふ行き 明日あす取り持ち が目らに 塩りたまひ きたひはやすも 腊賞すも〔……佐比豆留夜辛碓尓舂庭立手碓子尓舂忍光八難波乃小江乃始垂乎辛久垂来弖陶人乃所作〓(瓦偏に缶、缻の左右反対)乎今日徃明日取持来吾目良尓塩漆給腊賞毛腊賞毛〕(万3886)
 黙然もだあらじと ことなぐさに 言ふことを 聞き知れらくは 辛くはありけり〔黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波少可者有来〕(万1258)
 大夫ますらをと 思へるわれを かくばかり 恋せしむるは 辛くはありけり〔大夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在来〕(万2584)
(注5)伊藤1976.。同書では当該三首をとり上げていないが、「万葉の序詞は、リズムの快感をたのしむ表現であるとともに、寄物して陳思する心物融合の修辞表現だったと考えられるのである。」(262頁)としている。「つなぎことば」による二重表現は、「同音異義語に富み、連想性の豊かな日本語固有の性格に由来することはいうまでもない。」(同頁)としていながらそこで止まっている。万葉歌は、ヤマトコトバを使っているうちに言葉がひとり歩きをし、その結果、成果として声に出して歌われているという側面を多分に持っているのである。
(注6)鈴木1990.は当該三首をとり上げていないが、序詞を使った万葉集の表現構造を、「事物現象を表す言葉と心情を表す言葉がたがいに対応しあうことによって、歌中の〈心〉〈物〉いずれの言葉をも超えて新たなイメージを構築しうるというしくみ」(138頁)と捉えている。言葉についてフラットにしか見ていない。実態は、さまざまな意味合いを錯綜させながら再生産しつづけるのが言葉というものである。

(引用・参考文献)
伊藤1976. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
鈴木1990. 鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会、1990年。
平舘2015. 平舘英子『萬葉悲別歌の意匠』塙書房、2015年。(「辛き恋─遣新羅使人歌の旅情─」『萬葉』第206号、平成22年3月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2010)
平舘2018. 平舘英子「序歌の方法」芳賀紀雄監修、鉄野昌弘・奥村和美編『萬葉集研究 第三十八集』塙書房、2018年。
和田2022. 和田明美『古代日本語と万葉集の表象』汲古書院、2022年。

万葉集巻一・大宝元年紀伊行幸時の歌について

2024年06月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大宝元年の紀伊行幸の際に歌われた歌は、万葉集中に少なくとも二十一首を数えるという。巻一・54~56番歌、巻二・143・144・146番歌、巻九・1667~1679番歌、同・1796~1799番歌が確かなものとされている。
 巻一に載る持統上皇の紀伊行幸にまつわる歌は以下の三首である。これらの歌について深く考察された議論は見られない。他に十八首もありながら、なぜ巻一の編者は紀伊行幸の題詞において三首しか採らなかったのか。当該題詞のもとにいかに枠組まれたのか、疑問さえ呈されていない。

  大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌〔大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌〕
 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を〔巨勢山乃列々椿都良々々尓見乍思奈許湍乃春野乎〕(万54)
  右の一首は坂門人足さかとのひとたり〔右一首坂門人足〕
 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも〔朝毛吉木人乏母亦打山行来跡見良武樹人友師母〕(万55)
  右の一首は調首淡海つきのおびとあふみ〔右一首調首淡海〕
  或る本の歌〔或本歌〕
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は〔河上乃列々椿都良々々尓雖見安可受巨勢能春野者〕(万56)
  右の一首は春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆ〔右一首春日蔵首老〕

 現状の解釈では、紀伊へ向かう途中、巨勢山、巨勢の春野、真土山について、その景勝を歌にしたかのように捉えられている(注1)。秋に行幸しているから椿の花の咲く春の野のことは今は偲ぶしかない(注2)、あるいは、真土山は明媚なところで紀州の人は上京の折ごとに愛でられて羨ましい、といったことを歌っていると思われている。しかし、その考え方には無理がある。
 「巨勢こせ春野はるの」は固有名詞であろう。季節が秋であってもコセノハルノである。また、「紀人きひと」であっても、都へ行き来することがなければ「真土山まつちやま」を見ることはない。なのにすべての「紀人」について「ともし」と評している。つまり、何を言っている歌なのか、まったくわかっていないのである。深く考えることなくなんとなくわかった気になり、放置されたままになっている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)

 作者の坂門人足さかとのひとたりがどのような人であったか、行幸に従駕していたという以外わからない。それでも、坂門さかとという氏であり、巨勢山を登っていく坂の入口に関係があるらしく思われ、そのあたりで歌を詠んだものと推測される。
 峠を越えるために坂を上っていくのは、つらく疲れる。その山道の両側に椿の木が生えていて、それを目にして歌にしたという推測は当たっているであろう。道には道端が二つある。両サイドである。前を向いて歩いていれば、顔の左右のツラ(面)に当たるところに椿が生えている。道の真ん中に生えていたら伐採されるから、自ずと左右のツラに生えていることになる。だから、「巨勢こせ山のつらつら椿」という言い方が妥当になる。それをよくよく見ながら、「巨勢こせ春野はるの」のことを思い描いて慕ってみようよ、と言っている。
 どうして「巨勢の春野」を思慕しなければならないのか、理解に苦しむ。そのため、伝誦歌として万56番歌があり、有名だったから、それに似せた歌が歌われたと思われている(注3)。しかし、この考え方を100%追認することはできない。「河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせ春野はるのは」という歌は、どうして人口に膾炙していたのだろうか。仮に都で歌われたものだとすると、春日老かすがのおゆという人が紀伊に遣わされ、帰京後に道中どうだったか聞かれて歌を歌い、天皇以下居並ぶ群臣たちから拍手喝采を受けたと想定することになる。不可能ではないものの、そのとき記憶されたとしてはたして人々に伝えられるものだろうか。確かにツラツラの部分の言い回しはおもしろいが、それ以上の含蓄を持っているわけではない(注4)。覚えておく必要のないことを口ずさんだものとは考えにくい。
 歌は歌われた時、ほとんどその時にのみ人々の関心を呼び、頭脳に働きかけるものである。奈良時代までの古代の歌は、その刹那的な瞬間芸、一回性の芸術として存在していた。無文字時代の歌だったということである。万54・56番歌に「巨勢こせ春野はるの」という言葉がくり返されている。そこに焦点が当たっているのだから、コセノハルノという言葉に人々の興趣をそそるものがあったと考えるべきであろう。もちろん、コセノハルノは地名であり、固有名詞である。すなわち、固有名詞以上のことを表しているからおもしろがられて使われていると考えられる。要するに駄洒落である。
 コセ(巨勢)のコは乙類である。下二段活用の動詞、コス(遣)の連用形と同音である。希求の助詞コソと同根の語とされ、呉れる、寄こすの意のオコスのオが脱落した形と考えられている。

 …… の鳥も 打ちめこせね〔宇知夜米許世泥〕 いしたふや 天馳使あまはせづかひ 事の 語りごとも 此をば(記2)
 霍公鳥ほととぎす 初声はつこゑは われにこせ〔於吾欲得〕 五月さつきたまに まじへてかむ(万1939)(注5)
 奥まへて 吾を思へる 吾が背子は 千年五百年ちとせいほとせ 有りこせぬかも〔有巨勢奴香聞〕(万1025)
 白玉の 五百箇いほつつどひを 手にむすび おこせむ海人あまは〔於許世牟安麻波〕 むがしくもあるか(万4105)

 他の動詞の連用形に連なる形のケースが多く、〜してくれる、の意に解されている。その後どうなってもかまわずにすることを表していて、ヤル(遣)の意に極めて近い。ヤルは、遠くへ派遣させたり、先行きがどうなってもかまわないものとして人を遣わせたり、くよくよ考えずに物事を進行させたりすることである。遠くへ行かせる、先へどんどん進めるの意からは、思いを晴らす意の心を遣るという言い方が生まれている。

 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心をるに あにしかめやも(万346)
 忘るやと 物語りして 心遣り 過ぐせど過ぎず なほ恋ひにけり(万2845)
 もののふの 八十やそともの男の 思ふどち 心遣らむと 馬めて うちくちぶりの ……(万3991)

 上代の人たちは、この意を、コセ(コは乙類)という音を聞いた時に感じ取っていたのだろう。心が晴れるところ、だから、巨勢には春野という特定の場所があって当然だと納得し、歌に歌われるのを耳にしておもしろがっていたのである。 
 いま、紀伊への行幸の途上にある。峠を越えようと難儀な行進を続けている。本当にここを登って行ったらその先に紀伊への道は開けているのだろうか、と不安がり、嫌がる気持ちを抱く人もいたことであろう。そんな心配は無用だと、この歌は歌っている。どんどん進めば思いは晴れると地名に謳っているではないか。なるようになる、案ずるより産むが易しなのだ。予定していたよりも遅れがちな鹵簿の歩みを鼓舞する歌として歌われている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)
 巨勢山で進行が遅くなっているけれど、道の両側に並び生えている椿を、遅い歩みに従ってよくよく見てごらん、そして、ここは巨勢の春野のすぐ近くであることを思い出してごらん、コセノハルノというのは、どんどん進めば心が晴れるところのことだっただろう、何のことはない、どんどん先へ進んでいけば良いことがあるに決まっているじゃないか。紀伊への道を急ごうよ。

 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
  右の一首は調首淡海つきのおびとあふみ
 
 枕詞「あさもよし」については、麻裳の産地として紀伊国が挙げられるからという説が有力視されている(注6)。この考え方は誤りであろう。そうと知らなければ成り立たなくなってしまうからである。枕詞と被枕詞との関係は、知識の有無とは無関係に成り立っているはずである。無文字時代の人にとって、言葉は誰にでも共有されなくては存立しない(注7)。それが嵩じて、今となっては訳がわからないほどに不思議な連着をもよおしている。そのようなことが成り立つ根拠には、ああ、そういうことかと納得するに足る頓知が控えているに違いないのである。
 誰にでも(子どもにでも)わかる連着の理由は、アサモというものが、喪着として使われていたことによる。キ(キは乙類)には、、そして、(注8)がある。棺を前にするには麻喪あさもを身につけるのがふさわしい。だから、「あさもよし」はキ乙類の枕詞になるのである。次のアサモノミソは、麻喪あさも御衣みその意であろう。

 七年の七月の丁巳に、[斉明天皇]かむあがりましぬ。皇太子ひつぎのみこ[中大兄]、素服あさものみそたてまつりて称制まつりごときこしめす。(天智前紀皇極七年七月)
 [菟道稚郎子うぢのわきいらつこ]乃ちまたひときに伏してかむさりましぬ。是に、大鷦鷯尊おほさざきのみこと素服あさのみそたてまつりて、発哀かなしびたまひて、みねしたまふこと甚だぎたり。仍りて菟道うぢの山の上にはぶりまつる。(仁徳前紀応神四十一年二月)
  霊亀元年歳次乙卯の秋九月に、志貴親王しきのみこかむあがりましし時の歌一首〔并せて短歌〕
 …… 玉桙たまほこの 道来る人の 泣く涙 こさめに降り 白栲しろたへの ころもひづちて 立ちまり 吾に語らく ……(万230)

 このような言葉どうしの結びつきは、この歌でさらにくり広げられている。
墳墓(左:餓鬼草紙、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016937をトリミング、右:一遍聖絵、鈴木久治写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591577/1/20をトリミング)
 「真土山まつちやま」は固有名詞で、もともと地名としてあった言葉である。それを受けて、マツチヤマとはどういうことか謎解きをしている。万葉人の語義解釈、洒落解きである。ヤマ(山)には、山岳の意のほかに山陵の意味もある。真の土でできた山陵、ないしは、真の槌の形をした山陵である。饅頭形にしててっぺんに槌の柄が立っていたとすれば、墳墓の墓標の様子さながらである。紀人きひととは棺人きひと、葬る人のことで、紀伊の棺人はあらかじめ墳墓が用意されていて世話いらずであると、きつい洒落を飛ばしているのである。したがって、四句目の「行きと見らむ」の主語は紀人ではなく、いま行幸に従駕している人々のことを指している。つまり、文句たらたらで進んでいる人に対して、遭難しても大丈夫だ、紀人きひと棺人きひとになってうまいこと葬ってくれる、すでに寿陵として真土山まつちやまが用意されているじゃないか、と言っている。トモシ(羨)という形容詞は、稀少性をもって評価の判断にする語である。ただ少ないことばかりでなく、逢うことや触れることの少なさから心が惹かれること、そこから、そういう経験を有する存在はうらやましい、という意に展開している。行幸先が紀伊国きのくにで、そこの住人は紀人きひとであり、いつでも棺人きひとになってくれる。後の心配はいらないということである。そんなことは他の国へ行く際には見られないことだから、トモシ(羨)であるとしているのである。

 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
 麻の喪服もうまい具合に合っているのが棺人きひとならぬ紀人きひとで、そんな稀な合致はめずらしくて心惹かれるなあ、なおさらマツチヤマという、いかにも墳墓にふさわしい名の山があって、我らは行きにも帰りにも目にすることだろうよ。ああ、棺人きひとならぬ紀人きひとというめぐり合わせはめずらしいものだなあ。どんなことがあっても後の心配が要らないなんてすごいじゃないか。どんどん先へ進もうよ。

 「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌」の題詞の下に、行幸の歩みを促す歌が二首並べられている。題詞と歌との関係がすっきりしている。同じ機会に歌われたであろうが、人々を進ませるために歌われたのか定かではない歌は、「或る本の歌」ということになる。

  或る本の歌
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
  右の一首は春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆ

 この歌は、万54番歌との類似性からそのもととなったとも、また、歌としてはこちらのほうがうまいとも評されることがある。しかし、それらの観点は度外視して編者は採っているものと推測される。「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌」であることに違いはないが、趣旨が異なる。皆に統一したい意思とは、紀伊国への行幸の達成である。途中でぼやぼや物見遊山することは、目的達成の妨げになりかねない。だから、「或る本の歌」というように脇へ置かれている。作者は春日老という人である。この人は当時、閲歴からして老人であったようだが、若い頃から「おゆ」という名であった。歩くのが遅いと目され、見物に夢中になって道草を食うなと注意されているようである。
 証拠がある。続紀の記事に次のようにある。

○[九月]丁亥(18日)、天皇すめらみこと紀伊国きのくにみゆきしたまふ。○冬十月丁未(8日)、車駕きよが武漏温泉むろのゆに至りたまふ。○戊申(9日)、従へるつかさ并せて国・郡のつかさどもに階を進め、并せてきぬふすまを賜ふ。また国内くぬちの高年に稲給ふことおのおのしな有り。当年ことしの租・調でう、并せて正税しやうぜいくぼさることからしむ。ひとり、武漏郡のみ本利ほんりならびゆるし、罪人つみひと曲赦きよくしやす。○戊午(19日)、車駕、紀伊より至りたまふ。○己未(20日)、駕に従へる諸国の騎士に当年の調・庸と担夫たんぶの田租とをゆるす。(続紀・文武天皇・大宝元年)

 往路で二十もかかっている。何か問題が生じたのか記されていないが、例えば豪雨による崖崩れなどに遭遇して逗留を余儀なくされていたかもしれない。そんなとき、無聊を慰めるためにこの歌が歌われていたのではないか。河が流れていれば、河には岸が両サイドにあり、だからツラ(面)は二つあるから「つらつら」にあるのであり、「つらつらに」あれば「つらつらに」見ることになるだろうが、足止めを食っているのなら文句を言わないで、ここは良いところだ、見ても見ても飽きないところだと無理やりに褒めて、人々の不満の捌け口になるような歌が歌われたのだろう。いきり立った気持ちは和んで、腰を落ち着かせることとなった。だが、これは「紀伊国きのくにいでまの歌」ではあっても、行幸の列の進行を歌ったものではないことになる。だから、万54番歌を生む本歌であっても「或る本の歌」としてしか収まらないのだった。
 このように読み解くことによってはじめて、万54〜56番歌は、その題詞のもとで三首採られていることに合点が行き、編者の意図ともども理解することができるのである。

(注)
(注1)「五四は、交通の要衝「巨勢山」の景物を、春野を表現に呼びこむことでほめた歌、五五は、その地から先の国境いの山「真土山」を、現地の人を呼びこむことでほめた歌。……旅先の土地や景物を楽しんでうたいながらも、過ぎ行く重要な地の土地ぼめを行ない、安全な羈旅を願う古くからのしきたりの上にも立っている。……地名はうたいこまれるだけで、すでに祭られたことになる。愉楽の中にも、こうして、過ぎて来た道を、今過ぎる道も、そして先行く道も安まるのである。」(伊藤1983.229〜230頁)などと、ツッコミどころ満載の評論が行われている。
(注2)シノフという言葉は、賞美する、の意のほかに、遠方の人、故人などを思慕する、慕う、の意があるが、同じ場所のめぐる季節について使われたとする確例は見られない。
(注3)山田孝雄・萬葉集講義に、「上の「巨勢山」の歌[万54]の意の本づく所はこの歌[万56]によめる如きものにして、上の歌はこの歌の如きを本としてよめるものなるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/142)とあるように、万56番歌が先に伝誦されていて、それを踏まえて万54番歌が紀伊へ向かう途上で歌われたとする考え方は広く行き渡っている。森1987.は、万56番歌に作者の春日蔵首老の名が明記されているからには、同じ紀伊行幸時に詠まれた歌であったとしている。
(注4)有間皇子事件の岩代の浜松のような強烈な印象を与えることはない。
(注5)三句目は「吾にもが」と訓まれることが多い。「吾にこせ」は木下1993.の案で、新編全集本萬葉集が採っている。
(注6)村瀬1986.
(注7)ある村だけで通じるいわゆる方言のようなものや、特定の技能に関する専門用語のようなものは、誰にでも通じるものとは言えないが、文字に定着させる術がないという条件からすれば、永続するには危うい言葉であったと考えられる。残り伝えられる言葉に秘匿性、秘儀性がないということについては、人は言葉で考え、言葉を共有することによって人であるという基本的な位置づけを顧みた時、古代における暮らしの全般、相聞、祭祀、権力など再検討されるべき課題は多いことを示唆している。
(注8)白川1995.に「き〔棺〕 ……「き」が「おく」、また木の意ならば、キは乙類である。」(265頁)とある。

(引用・参考文献)
伊藤1983. 伊藤博『万葉集全注 巻第一』有斐閣、昭和58年。
木下1993. 木下正俊「万葉集存疑訓注─枕詞「味凝」のことなど─」『萬葉』第146号、平成5年4月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/1993
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集➂』小学館、1995年。
福井1960. 福井久蔵、山岸徳平補訂『枕詞の研究と釈義 新訂増補版』有精堂出版、昭和35年。
村瀬1986. 村瀬憲夫『万葉の歌─人と風土─9 和歌山』保育社、昭和61年。
森1987. 森「春日老歌論─「つらつら椿」をめぐって(一)─」犬養孝編『萬葉歌人論─その問題点をさぐる─』明治書院、昭和62年。

「一重山(ひとへやま) 隔(へな)れる」歌

2024年06月10日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四に、大伴家持が坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思って歌った歌を横にいて聞いていた藤原郎女ふぢはらのいらつめが引き取って一首歌い、そこでさらに家持は二首歌を作り坂上大嬢に贈っている。

  久邇京くにのみやこに在りて寧楽ならいへに留まれる坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思ひて大伴宿禰家持が作る歌一首〔在久迩京思留寧楽宅坂上大嬢大伴宿祢家持作謌一首〕
 一重山ひとへやま へなれるものを 月夜つくよよみ かどで立ち いもか待つらむ〔一隔山重成物乎月夜好見門尓出立妹可将待〕(万765)
  藤原郎女ふぢはらのいらつめ、之れを聞きて即ちこたふる歌一首〔藤原郎女聞之即和歌一首〕
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり〔路遠不来常波知有物可良尓然曽将待君之目乎保利〕(万766)
  大伴宿禰家持、更に大嬢おほをとめに贈る歌二首〔大伴宿祢家持更贈大嬢謌二首〕
 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尓不所見来〕(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な〔今所知久迩乃京尓妹二不相久成行而早見奈〕(万768)

 この歌群では問題点がいくつか挙げられている。一首目の題詞に「思」とあり、妻の坂上大嬢のことを思って家持は歌を作っているが、それをなぜか藤原郎女が引き取って「即和」して歌を作っている。しかる後、家持は「更贈」る歌を二首作っている。最初は「思」うだけだったのが、今度は「贈」ることになっている。この間の事情についてどう考えたらよいか。
 多くの論者は、万765番歌の題詞に「思ひて……作る歌」とあり、万767番歌の題詞には「更に……贈る歌」とあるから、最初から贈る歌として作られていたのを横から藤原郎女が割り込んだと考えている。村瀬1988.は、「言わば一対一の男女の密室の相聞であるべき歌に、第三者……が「これを聞きて即ち和ふる」というかたちで介在してくるところに、言わば広間の相聞へと広がりをみせる」(60頁)ものであると論評している。鈴木2017.は、万765番歌の「月夜つくよよみ」について、万735・736番歌の「月夜つくよ」という言葉を踏まえた表現であると指摘し、二人の記憶に残された思い出の言葉なのだという。影山2019.は、この四首の背後には、妻に逢えずにいることを距離感をもって表すほかはないというやりきれない気持ちがあったとする(注1)。そして、家持に特有の歌群構成の手法によりできあがったものであると決めつけ、その経緯を推測して二通りの可能性を見ている。

1 当初は宴席などで交わされた家持歌と藤原郎女歌とを後日大嬢に贈ることになり、その二首と内容の上で連続する書簡歌二首を取り合わせ、全体を浄書して「寧楽宅」へ届けた。
2 家持歌と藤原郎女歌とは宴席などで交わされたのだったが、家持七六五歌一首は後に大嬢に届けられ、さらに後日、七六七、八歌を大嬢に贈った。歌集編集段階に及んで後部二首詠作の導因となった藤原郎女歌をこの位置に据え、全体を一連の作品として再構成した。
いずれに拠るときにも、全体が家持によって整えられた歌群であることに変わりはない。(30頁)

 なぜこのように曲げて解されなければならないのか。筆者はシンプル、素直に解釈する。家持が妻を思って歌を口ずさんだら、横にいた人がそれにこたえるように歌を歌った。なるほど、そういう言葉づかいもあるなと家持は思い返し、さらに歌を作って妻のもとへ計四首を伝えることにした。ただそれだけのことではないか。「浄」などしていないと考える。この点は根本的な問題である。
 相聞歌について、二人だけの内密なやりとりであるとする考え方は以前からある。村瀬1988.が想定するような、二人だけの相聞歌、密室の相聞歌、限られた相聞歌という捉え方である。しかし、歌なのだから声に出して歌われており、近くにいる人は自ずと聞いてしまう。二人だけで完結して他の誰にも聞かれないとすると、当事者が書き残す以外に後の時代に伝えられるはずはない。万葉集の編纂者の一人に違いない家持なら可能であると考えることは、他にも相聞歌が多数あることからして捻くれた見方である。相聞の歌は、歌として歌われて、周囲の人が耳にしていた。当時の歌は、歌われ、聞かれて、はじめて歌として成立していた。至極あたり前のことである。その前提で当該歌群を見直してみると、題詞のあり方に議論を呼ぶような不可解なところはない。
 家持は久邇京にあって、奈良の屋敷に留まっている大嬢のことを思って歌を歌った。当初は伝えようとは考えていなかったのだろう。それを横で聞いていた藤原郎女がすかさず合いの手を入れた。それを聞いて家持は、興が乗り、さらに二首の歌を作った。前の歌、自身の歌と藤原郎女の歌も併せて坂上大嬢に贈ることにしたのである。歌としてのおもしろさを伝えるには、声に出して聞かせることが肝要である。ましてや文字が読めたか不確かな妻へ、書いて贈ったりはしない。使者に覚えさせ伝言としたのである。
 ようやく本論の入り口にたどり着いた。問題点は二つある。第一に、藤原郎女はどうして家持の万765番歌に即座にこたえる歌を歌ったのか。第二に、家持はどうして藤原郎女の歌を聞いて、さらに二首作り、妻のもとへまるごと伝えようと思ったのか、である。興が乗った理由こそが理解されなければならない。それがわからなければ、この歌は、本当のところわかっていない。

 一重山ひとへやま へなれるものを 月夜つくよよみ かどで立ち いもか待つらむ(万765)
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり(万766)

 最初の二首の問答の本旨は、「一重山ひとへやまへなれるものを」を「みちとほじ」で返したところにある。現在の通釈書では、「一重山ひとへやまへなれるものを」は、一重の山が隔てているだけのものを、と解して、いつだって来れるだろうからと妻は門に立って待っていることだろうという意と捉えている。それに対し、「みちとほじ」と承けている。ちぐはぐな受け答えである。それが実は、藤原郎女が家持の歌意を的確に受け取ったことの証でもある。どういうことか。
 恭仁京遷都に当たり、聖武天皇は平城京からほど近い恭仁京へまっすぐ向かったわけではない。藤原広嗣の乱の最中でありながら行幸が伊勢へ向かって始まり、美濃、近江をめぐって山背の恭仁京へ遷っている。天平12年(740)10月29日に出発し、12月15日に恭仁宮に入っている。壬申の乱の時の天武天皇の行路になぞらえていると考えられている。二か月にも及ぶ「みちとほ」い行脚をしている。さぞや遠いところへ行ってしまったのだろうと、奈良の都に留まっている妻、坂上大嬢は思うことであろう、というわけである。藤原郎女が坂上大嬢の代弁をしている。
「聖武天皇の「大行幸」行程図」(栄原2014.39頁に「一重山」(⛰⛰⛰⛰)を筆者加筆)
 では、どうして「一重山ひとへやまへなれるものを」と冒頭から断っているのに、相手は近くにいるとは気づかなかったのか。それは、次の「月夜つくよよみ〔月夜好〕」という文句である。ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)は、月夜が良いので、月明かりがきれいなので、の意に解されている。だがそればかりではない。「月夜つくよ」という語には月の意を表すことがある(注2)。すなわち、ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)はツクヨ、すなわち、月をヨミ(読)した。月読つくよみとは月日を数えることである。したがって、万765番歌は、一重の山が隔てているだけなのだけれども、迂回しなければ往き来できなくて、行った時に二か月かかったように、妻のもとへ帰るのには同じだけ日数がかかるだろうから、あと何日か、あと何日かと月日を数えては、妻は門に立って待っていることだろうという意にも捉えられるわけである。
 こういう機知あふれる歌を家持は歌にした。そうでなければそこにいない人のことを思った歌を、これ見よがしに声を張って歌ったりしない。妻を思って歌を歌って悪いとは言わないが、お宅のことなど知ったことではない、大人なんだからぐずぐず言わない、といったところがもっぱらの反応ではないか。洒落た言い回し、頓知の歌ができたから家持は歌を披露した。その意をよく理解した藤原郎女がすぐに歌で和した。家持さん、うまいじゃないの、と敬意を抱いている。興に乗った家持は、加えて二首作り、奈良に留まっている妻のもとへ、こんなやりとりがあったよ、おもしろかったよ、お前もおもしろいと思うだろう、と伝えているのである。

 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な(万768)

 万767番歌にあるウケヒは、願って、の意と解する説が多い。多田2009.に、「「ウケヒ」は、ここでは夢を見るよう祈誓すること。「ウケヒ」は、本来、神意を判断する呪術。A→a、B→bのように、生ずる事態とその判断とを前もって定めておき、得られた結果を神意と見なした。……大嬢の魂が通って来れば、魂逢いによって夢が見られる。自分を思ってくれないことへの恨み言。」(174頁)と説明がある。だが、ここで言いたいのは「妹」への恨み節ではなく、「都路みやこぢを遠みか」を示すところにある。藤原郎女が代弁する形で「道遠み」と言っていたように、「寧楽の宅」から「久邇京」まで50日弱かかる道のりのことを指している。「妹」は50日弱かかると思っているから夢に現れてくれないのだろう、ととぼけたことを歌っている。ウケヒと断っているのも、「妹」が「寧楽の宅」と「久邇京」とは「一重山ひとへやまへなれる」にすぎず、実は近いところだと思っているのなら近いのだから夢に現れるだろうし、50日弱かかる遠路だと思っていたら遠いから一晩のうちでは辿り着けずに夢に現れないだろう、と仮定しているわけである。
 仮にこの歌で恨んでいるとすると、家持のほうが思いが強い片思い的な状況になる。すると、次の万768番歌が、家へ帰って「妹」の顔を早く見たい、それで夫婦関係を安定させたいというやきもち的な内容を歌っていることになる。しかし、それでは、万765番歌で「かどで立ちいもか待つらむ」と歌っていたこととの間に齟齬が生じてしまう。万767・768番歌の題詞に「更」(注3)とあることに反することになる。筆者の捉え方に依れば矛盾なく受け取ることができる。
 そして、万768番歌も、「寧楽の宅」と「久邇の都」との間の距離感をおもしろがって歌にしたものだろう。「今知らす久邇くにの都」と冒頭に歌われている。既知のことがらをなぜ詠むのか疑問視する向きもあるが、遷都した意味を述べるのではなくて、その都の名について頓智としているのである。クニの都というのは、国都を意味する。「今知らす」とは、今、天皇が領有しているという意味で、その版図の中心にあるのが都である。対外的に「日本」と表記される国であるが、訓みはヤマトである。その中心に位置して都があって然るべきなのは、行政単位としての大和やまと国である。ところが、平城京から一山越えただけの恭仁京は、行政単位としては山背やましろ国にある。言葉の論理の上では少々問題が起きている。だからこそ、「今知らす」と当たり前のことを冠して歌っているわけである。
 つまり、この歌は、山背国にある「久邇くにの都」がはたしてヤマトの国の都としてふさわしいのか、長い行幸の末に遷都したところよりも、平城京へ戻った方が賢明なのではないか、といった感慨を「妹」と早く逢いたいと歌うことによって言わんとした可能性を含む歌なのである。論理的誤謬に対して聖武天皇は秘策をくり出している。「大倭国やまとのくにを改めて、大養徳国やまとのくにとす。」(続紀・天平九年十二月二十七日)、「なづけて大養徳やまと恭仁大宮くにのおほみやとす。」(同・天平十三年十一月二十一日)とある。天皇は、ヤマトを「大養徳」と書くように命じている。天皇が大いなる徳を養ってそのために垂れる国になるようにというのである。だから、天皇の在所は「大養徳」なるところであるはずで、行政区分では山背国に当たるのかもしれないが、「大養徳恭仁大宮」だと言って憚らないのである。
 この「大養徳恭仁大宮」なる命名(命字)が当該歌よりも先であったなら、「今知らす久邇くにの都」は「大養徳やまとの恭仁大宮くにのおほみや」であり、「寧楽の宅」同様、ヤマト・・・にあるのだから、近いのだから、「はや見」ることは簡単なこと、すぐにでもできることである。「一重山ひとへやまへなれる」だけだということを言い方を変えて歌にしたのである。

(注)
(注1)影山氏の生硬な言い回しを筆者なりに砕いた。
(注2)ツクヨミという語に、「月読つくよみ(ミは乙類)」の意とは別に、「月夜霊つくよみ(ミは甲類)」、月の意のツクヨに神の意のミがついた形があって、早くから混同されていた。
(注3)「更」字を「また」と訓む説もある。

(引用・参考文献)
影山2019. 影山尚之「坂上大嬢に贈る歌─距離の感覚と作品形象─」『萬葉』第227号、平成31年3月。萬葉学会HP学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir(『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。)
栄原2014. 栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』敬文舎、2014年。
鈴木2017. 鈴木武晴「家持と書持の贈報再論─異論を超えて真実へ─」『都留文科大学研究紀要』第85集、2017年3月。都留文科大学学術機関リポジトリhttp://trail.tsuru.ac.jp/dspace/handle/trair/802
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
田野2007. 田野順也「『万葉集』における隔絶感の表現─中臣宅守歌の「山川を中にへなりて」をめぐって─」『同志社国文学』第66号、2007年3月。同志社大学学術リポジトリhttps://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005382
村瀬1988. 村瀬憲夫「家持の相聞歌─恭仁京時代─」『上代文学』第60号、1988年4月。上代文学会HP機関誌『上代文学』目次
https://jodaibungakukai.org/02_contents.html(『大伴家持論─作品と編纂─』塙書房、2021年。)

玉藻の歌について─万23・24番歌─

2024年06月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻一の万23~24番歌は、罪科に問われた「麻続王をみのおほきみ」という人にまつわる歌である。原文と伊藤1995.の訓読、訳をあげる。



解釈の現状と「和歌」

 背景の事情はよくわからないものの、万23番歌は、島流しにあった麻続王が海岸で藻を採っておられるのを人々が同情して詠んだ歌であるとされている。そのことは次の万24番歌の「和ふる歌」を併せて考えれば明らかだという。ただし、「和歌」と呼べるものは、先に作られた歌を主とし、それに応えて従とされる歌のはずであるとも考えられている(注1)。筆者の予断ではあるが、「和」さずとも一首で十分に歌として機能して完結しているものに、さらに加えて厚みを増す作用を示したものが、「和歌」と呼ばれたのではないかと考える。同じ事柄について別の視点から歌としてあわせたという意味である。歌う立場が異なるのは贈答歌である。伊藤1995.を含め、現状の解釈では、万23番歌+α の歌として計二首を捉えるのか、逆に万24番歌を導く伏線として万23番歌が置かれているか、いずれにせよ、そうだそうだと言い合っているに過ぎないものとして考えられているように感じられる。足して1になるのではなく、足せば2以上の効果、膨らみがあるのが「和歌」なのではないか。
 なお「白水郎」はアマと訓んで「海人あま」のこととされる。もとは中国南方の白水地方の郎、すなわち男性の称から来ているという(注2)。また万24番歌の第一句、「うつせみの」は、現実の世の意味から「命」を導く枕詞とされている。ほかに、第五句は、「玉藻刈りす」、「玉藻刈りむ」と訓ずる説もある。この五句目と一句目の訓は、これらの歌の眼目である「和歌」の真髄において正しく訓まれなければならない。現状の解釈では不十分である。
 影山2011.は、万17・18番歌の額田王の近江下向の歌に続く万19番歌の井戸王の歌に「即和歌」とある点について、次のように論じている。



 万19番歌は左注にあるように和歌に似ていないとされている。万葉集の編纂者は時代を追って引き継いでいったものと考えられるから、厳密に文字を使い分けていたかどうかは定められないものの一定の目安にはなるであろう。「即和歌」にはもう一例、左注で記される万3844・3845番歌がある。そこでは「左注」に記されており、お互い、からかい喧嘩の言い合いになっている点から、影山2011.の考察では対象としていない。
 万23・24番歌は、「和歌」とだけあり、「即和歌」ではないが、①~④の例と共通点が多い。そこで、以下にそれらの例を示す。



 以上の歌のやり取りの特徴として、即座にその場にいた作者が、前の歌に和して歌い返していること、そして、応酬の場を具体的に想定できることがあげられている。さらに、影山2011.は、「鸚鵡返しや人称の一方通行」(27頁)が見られることを指摘する。「前歌との接続性を主張するために言語上の密な関係を構築しようとする所為と理解され、いうならば本来は贈答唱和を期待していない詠歌に対し自ら進んで「和歌」として連なろうとするのが「即和歌」であると考えられるのである。」(25~26頁)という。万23・24番歌も、即時性や同場性は欠けているものの、これらととてもよく似た傾向にある。両歌の主語は麻続王である。同時代性と共場性を有した歌ということができるのではないか。麻続王は自ら進んで「和歌」として連なろうとしたのである。
 村田2004.は、万23番歌「哀傷作歌」の作者について、紀歌謡に現われる「時人歌」の特徴と共通すると論じている。「すなわち、①歌の表現上に事件に関する固有名詞が登場し(麻続王)、②作者に興味を示されず(人)、③短歌形式であり、④事件最中(後)の詠であり、⑤話者の感想が歌われる(海人なれや)」ことから、「当該歌は「時人歌」の一つとして把握してよいであろう。」(277頁)とする。「時人歌」的な性格を持った万23番歌に対して、事件渦中の当事者である麻続王が「和」したことになり、きわめて特殊な歌群である。
 この点は、歌の字句にある「玉藻」を「刈る」ことに関しても指摘されている。内藤2012.は、万葉集中の「玉藻刈る」歌全24例について概観し、「玉藻」を「刈る」主体がアマ(海人)やアマヲトメ(海人娘子、海人通女、海少女)の例が多く、他には後に触れる41番歌に「大宮人」が「玉藻」を「刈る」歌があるなか、万23・24番歌は、罪を得て配流された王自らが「玉藻」を「刈る」歌となっていて、「『万葉集』において他に類例のない特殊な「玉藻刈る」歌である。」(272頁)と評している。

歴史事件との関係

 左注の記事と現行の日本書紀との間には、日付の干支に違いが見られる。紀では天武四月朔日を甲戌きのえいぬ、麻続王が罪を得た日を辛卯かのとうに作る。しかし、いずれにせよ18日に当たっているので、事実に誤りはないものと考えられている。結局、麻続王は因幡、一人の子は伊豆大島、もう一人は五島列島に流罪になっている。

 辛卯に、三位みつのくらゐ麻続王罪有り。因幡に流す。一の子をば伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋ちかのしまに流す。(天武紀四年四月)(注3)

 新大系文庫本万葉集に、「左注の日本書紀の言う通りだとすれば、遠流・中流・遠流の三つのうち、罪の主体と考えられる王が近流の因幡、連座したと思われる子の一人が中流の伊豆、一人が遠流の九州の血鹿島(→八九四)に流される重い刑を受けたことになり、尋常ではない。史料に何らかの混乱があったか。」(73~75頁)とする。「罪の主体」が「王」であるという前提は先入観にすぎない。子どもの方が罪を犯し、親が連座させられているのだろう。連座でも罪は罪だから、「三位麻続有罪。」と記されても不思議ではない。少なくとも、その可能性を排除して史料批判をしてはならない。
 天武朝は中央集権的な国づくりが進んだ時代であった。斉明天皇が構想していた天皇中心の国家像は、律令制度の導入によってより完成されたものになっていく。人々にとって、それは「百姓おほみたから」にせよ、官人にせよ、必ずしも明るく伸びやかで自由な風潮の時代であったとは限らない。実際、天武天皇は当初から諸々の禁令を発している。

 癸巳にみことのりしてのたまはく、「群臣まへつきみたち百寮つかさつかさ天下あめのした人民おほみたからもろもろのあしきことすことまなし犯すこと有らば、事に随ひて罪せむ」とのたまふ。(天武紀四年二月)

 漠然とした一般論に見えるが、推古朝に聖徳太子が山背大兄王やましろのおほえのみこ等に語ったとされる遺言、「諸のあしきことそ。諸のよきわざ奉行おこなへ。」(舒明前紀)に由来し、大本は七仏通誡偈「諸悪莫作、諸(衆)善奉行、自浄其意、是諸仏教」によっているとされている。聖徳太子が親族の心の戒めとして言っているのに対して、天武天皇は治安維持のために言っている。道徳の内面化を社会全体に広めようとした政策である。教育勅語のようなものと考えればわかりやすいだろう。

 癸卯に、人有りて宮のひむかしの丘に登りて、妖言およづれごとして自らくびはねて死ぬ。是の夜のとのゐに当れる者に、ことごとくかがふり一級ひとしなを賜ふ。(天武紀四年十一月)

 夜中に、飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやの東の岡、現在の明日香村岡に登って、反体制のアジテーションを行って自決した者がいた。宿直の者全員が一階級増されているところを見ると、政権は口封じをしたようである。

 丁酉に、宮中みやのうち設斎をがみす。因りて罪有る舎人等とねりどもゆるす。乙巳に、飛鳥寺のほふし福楊ふくやうつみしてひとやに入る。庚戌に、僧福楊、自ら頸を刺してみうせぬ。(天武紀十三年閏四月)

 罪科を問うておいて恩赦を与えたり、牢獄へぶち込んだ僧侶が自死している。事をとり立てている記事ではないから、当たり前のことと思われる世相であったと考えられる。窮屈な世の中に暮らし続けると、だんだん感覚が麻痺してくる。全体主義的な時代を経験している。職務を全うすることに明け暮れた役人は、良心を滅却して火もまた涼しくなる。

 壬寅に、杙田史名倉くひたのふひとなくら乗輿きみ指斥そしりまつれるといふに坐りて、伊豆島に流す。(天武紀六年四月)
 丁亥に、小錦下せうきむげ久努臣摩呂くののおみまろ詔使みかどのつかひむかこばめるにりて、官位つかさくらゐことごとくらる。(天武紀四年四月)

 律令では名例律の規定として、「八逆」の大罪の一つ、「大不敬だいふきやう」の罪に、「……乗輿じやうよ指斥ししやくするが情理じやうり切害せつがいある、及び詔使ぜうしむかこばむで人臣にんじんらい無きをいふ。」とあげている。それぞれ本来なら斬首、絞首に相当する罪である。罪が軽くなっているのは、厳格に適用するのには当たらない低俗なものだったからであろう。後者の事例で登場する久努摩呂という人は、諫言する人物であったようである。同じ天武紀四年四月条に、「辛巳に、みことのりしたまはく、『小錦上せうきむじやう当摩公麻呂たぎまのきみまろ・小錦下久努臣摩呂、二人、朝参みかどまゐりせしむることなかれ』とのたまふ。」とありながら、天武天皇の亡くなった朱鳥元年九月条に「直広肆ぢきくわうし阿倍久努朝臣麻呂あへのくののあそみまろ刑官うたへのつかさの事をしのびことたてまつる。」と再出する。天皇は反省して適材を適所に復帰させていたようである。しかし、天武四年の段階では、完璧なるイエスマンが求められている。社畜ならぬ国畜になり切らないといけない生きづらい時代になっていた。
 その天武四年四月、麻続王は罪を得た。彼が子どもともども連座して流されているのは、大不敬のような重罪を犯しつつ、罪一等を減じられたということであろう。子どもの方が都から遠いところに流されているから、子どものいたずらの責任を親が負わされたに違いあるまい。久努麻呂という人が懲戒処分で官位を奪われてからわずか四日後である。あるいは、麻続王事件に関係してのことではなかろうか。査問委員会か懲罰委員会にかけられた麻続王一家のことについて、どうだっていいじゃないかという久努麻呂と、こういうことこそ大事なのだという天皇の使者との間のいさかいである。玉藻の歌とは、その時の事件簿であった可能性が濃厚である。

無文字時代の「歴史」

 それは、歌の題詞と左注との間の齟齬からも感じ取れる。左注の筆者は、万19番歌(「綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓着成目尓都久和我勢」)に左注を施したのと同一人物である蓋然性が高い。万19番歌では、「右の一首の歌は、今かむがふるにこたふる歌に似ず。ただし、旧本、このつぎてす。このゆゑになほ載す。」と注している。一方、万24番歌においては、「和歌」とある点についていっさい疑問を呈していない。左注の筆者は、「和歌」であることはそのとおりであるとしている。「歌辞」にある「伊良虞嶋」自体も不審に思っていない。歌辞ではなく、設定としての題詞のほうに疑問をいだいている。題詞に、流された場所を「伊勢國伊良虞嶋」としている点について間違えではないかと感じている。現在伝わる紀にも引用と同等の記事があり、麻続王が「伊勢國伊良虞嶋」に流罪になったという事実はないようである。
 では、左注の言うように、歌の字句のために題詞を間違えたかと考えてみると、そもそも歌の字句がなぜ「伊良虞嶋」の話になっているのかという疑問が浮かぶ。「伊良虞嶋」は現在の愛知県の渥美半島の先端、伊良湖岬かその近辺の島に比定されている。半島をもってシマと呼ぶ例は、志摩国が半島であるなどあり得ることである。しかし、「伊良虞嶋」は伊勢国ではなく三河国である。もとより当時の国境がいかなるものであったか確かではなく、伊勢湾を挟んで隣接する「国」である。その間にある神島を指しているとする説(澤瀉1957.227~228頁)もある。しかし、むしろ、伊勢国と三河国の間に、志摩国が位置していることに注意が払われるべきであろう。
 左注を付けた人は万葉集の最初の編者とは別の人であったと思われる。最初の編者はシンプルに、標目、題詞、歌だけを記し、それを引き継いだ二番目の編者が、左注を施したうえで歌の採録を続けていったのだろう。万19番歌の左注に、「旧本」と記されており、左注を付けた人は「旧本」を写しているとわかる。この両者の間には時代の展開、文化的な大転換点があった。完全な無文字文化から一部に生得的に文字を学んだ世代がいる文字文化への転換である。それは同時に、律令制の導入時期にあった。万葉集の歌においても、それとちょうど対応するように、額田王の口承の歌から、柿本人麻呂の筆記メモ帳の歌へと転換していった(注4)。その両文化の間にあるクレバスは深く、無文字文化の文化について、文字文化の人には時にわからないことが起きるようになっている。言い伝えに伝えられた説話の内容は、無文字文化で当たり前のこととして常識として受け止められていたが、文字文化の時代が進むにつれ、常識ではなくなっていった。世の中を学ぶことの意味合いが、それまでの言い伝えを聞いて悟って知るという方法から、書いてある文字を見て知識を積み上げて理解するという方法へと変っていった。脳の使う部位が異なってきた。音声言語によりかかった思考と、視覚言語(文字)によりかかった思考とでは性質が異なる。知恵と知識の違いとして表されよう。なぞなぞとクイズの違いと言っても良い(注5)
 万24番歌に左注を施した人はネイティブに文字に親しんで育った人であり、麻続王よりもひと世代後の人、つまりは異文化に属していた。反対に、麻続王事件を歌った「人」と彼に和した「麻続王」は、ともに同時代の無文字文化の人である。それらの歌詞を聞くと、狐につままれたような感じになる。記紀に残されている語句があらわれている。万23番歌に見える「海人あまなれや」という句である。この句は、言い伝えのなかの諺に登場する。応神記、仁徳即位前紀の皇位継承辞退の話に、「海人あまなれや、おのが物からねなく」などとある。



 当時、皇太子のウヂノワキイラツコとオホサザキノミコト、後の仁徳天皇とが皇位を譲り合っていた。そして、菟道宮、今の宇治市と難波、今の大阪とに分かれて住んで三年が経過していた。時に漁師が鮮魚を贄として天皇に献上しようと菟道に持って行ったところ、ウヂノワキイラツコは自分は天皇ではないと言って断り、難波に進上させた。ところが大オホサザキノミコトも固辞して今度は菟道へ向かわせた。行き来する間に贄の魚は腐ってしまい、漁師は泣いたというのである。そこから、自分の持ち物が原因で憂き目を見ることがあるという諺になったと伝えている。
 この諺の焦点は、真ん中のヤが反語の助詞で、海人であるからか、そうではないのに、自分の持ち物が故につらい目に遭う、という意味のことである。応神記、仁徳前紀の逸話は、諺に「海人」が持ち出されている謂われを語っている。逸話があって諺が成立したのではなく、諺はもともと存在し、それを後講釈するのにとてもうまく合致する贄献上の出来事があったので、それに託けて逸話をまとめ上げているものと考えられる。
 万23番歌にしても、麻続王は海人ではない。諺を意識して上の句を挿入しているとすれば、歌の後半の玉藻を刈ることがつらいことという考えに固まってくる。けれども、諺が持つべき本来の意味、言葉の変化技が少しも生きてこない。ただ泣きを見たというのでは冴えない。意外なことに自分の持ち物が災いして泣く結果に至ったという展開が欲しい。修飾形容のために諺を引いてきた理由は必ずやあるだろう。
 反歌の万24番歌の題詞に、「麻続王、聞之感傷和歌」となっている。この歌を作ったのは麻続王である。前の万23番歌を受けて歌っている。結果、四・五句目が繰り返し調になっている。この箇所の訓については、意図的に用字を変えているようであり、違えて訓むのであろうとする見解も多く見られた。しかし、用字を変えた真の理由は、同じ言葉、言い伝え世代にとって重要な音を強調するためであったとも考えられる。題詞には、「和歌」と明記されている。影山2011.の指摘どおり、同じ言葉(音)の反復をこそ求めている。微妙なニュアンスや音韻の違いを引き立たせるべき理由は見当たらない。ただし、単に同じ語句(意味)を追従したというのではない。この場合、音は同じであるが意味は異なるということではないか。なぞなぞ的発想である。
 コタフルウタに「和歌」と記されている。「応歌」、「答歌」とはされていない(注6)。論語・子路篇に、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(君子和而不同、小人同而不和。)」の有名な文句がある。この言葉の例証としては、春秋左氏伝・昭公二十年条に載る、斉の景公と晏氏(晏嬰)の問答が分かりやすい。景公が狩りから帰った時、腹心の部下が急いで駆けつけてきた。それを見て景公は、彼だけが心が和合すると言った。それに対して晏氏は、彼はただ君と心を同一にしているだけで、和合してなどいないと答えた。その時景公は、「和と同と異なるか。(和与同異乎。)」と尋ねた。晏氏は、和というのはあつもの、すなわちスープを作りようなことだと譬えている。狩りの獲物でスープをこしらえるとき、料理人は火加減、水加減、味加減を調節する。それが「和」であると言っている。足りないところは増やし、多すぎるところは減らす。塩梅アウフヘーベンである。
 「和歌」とはその原初段階において、弁証法的なものであったと推測される。つまり、万23・24番歌の下の句の類似は「和合」の一致をみている。しかも万24番歌の作者は、流罪にあった当人だから、流刑地が「伊良虞嶋」でないことはもとより承知している。にもかかわらず、前の歌を踏襲しているということは、「射等籠荷四間乃珠藻苅麻須」=「伊良虞能嶋之玉藻苅食」にはワザがあって、歌意を示す重要なキーワードが隠されているということである。この四・五句目の訓みこそがこの歌の焦点である。

「玉藻」とは何か

 「玉藻たまも(珠藻)」は、美しい藻のことで、「玉(珠)」は美称であるとされている。ほかに「玉裳たまも」という言葉もあり、美しいスカートのことを指す。柿本人麻呂には、この二語の類想から作られたらしい歌がある。



 これらの歌は、持統六年(692)三月、諫言を聞き入れずに行幸を決行したときの歌である。三首目には「伊良虞」の地名まで登場している。この時、三河へ渡ったという記事は見られない。持統天皇は後に退位し太上天皇となり、文武天皇の大宝二年(702)十月に三河まで足を延ばし、その年の十二月に亡くなっている。問題は、飛鳥時代の後半当時、文字に慣れていた人麻呂すらが、「玉藻」と「玉裳」の同音異義語の駄洒落を楽しんでいる点である。歌はヤマトコトバで作られ続けており、言語空間は声を中心に成立していて、基本的に無文字時代と変わりがなかったのである。人麻呂は、万23・24番歌を参考にして、万40~42番歌を作ったようである(注7)
 「玉藻の歌」において、伊良虞なる地名は地名本来の役割を果たしていない。麻続王と関連性がないのである。「伊良虞の島の」は序詞で、「玉藻」を導く字詞として使われた可能性が高い。その地と歌との間に何らつながりはなく、駄洒落として地名が引っ掛けられて採用されているにすぎないからである。流された因幡は今の鳥取県の東半で海沿いではあるが、彼が漁師に転職したという話は伝わらない。また「玉藻」ではなく、「玉裳」であったと仮定しても、麻続王が女装したために刑に処せられたとは考えにくい。ヤマトタケルが女装して熊曾(熊襲)を征伐したという騙しの話は伝わるものの、罰則を伴った女装禁止令は見られない。最後に残るのは、「玉藻」=「珠藻」とあるのは、ふつうのタマモ、万葉集中の海藻のタマモではないという説である。玉藻は、中国の冕冠べんかん玉藻ぎょくそうのことを指し、その訓読語のようなものではないか。そして、「海女なれや、……」の諺を引用している。

 打麻うつそ(注8)を 麻続王をみのおほきみ 海人あまなれや 伊良虞いらごの島の 玉藻たまもす(万23)
 うつせみの 命をしみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す(万24)

 〔打麻を〕麻続王は大海人皇子おほあまのみこ(注9)(天武天皇)なのであろうか、大海人皇子ではないのに、(伊良虞の島といえばお馴染みの)玉藻たまもならぬ玉藻ぎょくそうのついた冠を借りて国を治めるとは。(万23)
 〔うつせみの〕命が惜しいから、浪に濡れて(伊良虞の島で名高い)玉藻を刈って食べるような暮らしに甘んじるのだよ。(万24)

 礼記・玉藻篇に、「天子は玉藻ぎょくそう、十有二りう、前後、延をふかくす、龍巻りょうかんして祭る。(天子玉藻、十有二旒、前後邃延、龍巻以祭。)」とある。天子の冕冠には、垂れ玉を十二条つけるように指示されている。冠の前後は、糸で玉を貫いて飾りとしていた。麻続王よりもその子どものほうが遠流になっているので、天皇だけが被ることのできる垂れ玉付きの冠を子どもたちが遊んで被ったらしい。
 増田1995.165頁によれば、袞冕十二章は、中国の天子が元日朝賀の儀に身につける服装で、唐書・車服志に、「袞冕者、践祚・饗廟・征還・遣将・飲至、加元服、納後、元日受朝賀、臨軒冊拜王公之服也。広一尺二寸、長二尺四寸、金飾玉簪導、垂白珠十二旒、硃絲組帯為纓、色如綬。深青衣、纁裳、十二章、日・月・星辰・山・龍・華蟲・火・宗彝八章、在衣、藻・粉米・黼・黻四章、在裳。衣画、裳繍、以象天地之色也。自山・龍以下、毎章一行為等、毎行十二。衣・褾・領画以升龍、白紗中単・黻領・青褾・襈・裾、韍-繍龍・山・火三章、舄加金飾。」とあるように、頭に冕冠を被り、深青色の衣と纁色の裳をつけるようになっているという。
 中国で旒の垂れる冕冠の形態が整えられたのは、後漢・明帝の永平2年(59)のこととされている(注10)。冕冠の古い絵画作品できれいに残っているものとして、宋代の模写、20世紀の加筆も見られつつつも、唐・閻立本(?~673年)の「歴代帝王図巻」がある(注11)
伝閻立本、歴代帝王図巻(唐時代、7世紀、絹本着色、ボストン美術館蔵、武皇帝劉秀(後漢光武帝)、Wikimedia Commons「Han Guangwu Di.jpg」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Han_Guangwu_Di.jpg)
 説苑・君道篇、呂氏春秋・審応覧・重言篇、史記・晋世家本紀には、周の成王と唐叔虞との逸話が載る。成王は年の離れた幼い弟、唐叔虞に対し、大きな桐の葉っぱを細工して冠の形に作り、爵位を与えて諸侯にしてあげようと言った。子どもだから喜んで、叔父さんの人格者、周公旦、のちに孔子が理想の聖人と考えた人のところへ報告に行った。周公旦は成王に会見して、「天子に戯言無し。(天子無戯言。)」と説いた。そこで、言葉通りに幼い弟を封じたという。上に立つ者は発言を慎重にしなければ、治まるものも治まらない。麻続王も子どもたちをきちんと躾けておいてもらわないと困るのである。三位(注12)麻続王は、天武天皇(大海人皇子)の冠帽を整える役職にあったのかもしれない。「麻績王」という名があったのは、名に負う役職に就いていたからという可能性は十分にある。冕冠の本体は絹製かもしれないが、ガラス玉を垂らす紐は麻の緒でできていたのではないか。そして、仕事場へ子どもを連れてきて、遊び場と化していたようである。
 下二句は、「玉藻たまも」と「玉藻ぎょくそう」、「借り」と「刈り」の準え、駄洒落から成っている。カルはいずれもアクセントを等しくする。万23番歌の用字は借訓である。五句目はともにヲスと訓む。統治する意味と食べる意味の敬語とを掛けている。万24番歌のヲスは、自嘲的に使われた自称敬語なのであろう。編者は万23番歌の原文に、「白水郎」、「藻」などと紛らわしい表記を施して、当局に感づかれないようにしている。政権に対するシニカルな諷刺戯歌(万23)が先にあり、それに呼応する形で諦観の歌(万24)を唱和した掛け合わせになっている。麻続王は、「(大)海人あま(皇子)なれや、己が物から泣く」羽目に陥ったらしい。

「うすせみの」と服制

 万24番歌の冒頭、「うつせみの」は、一般に「世」や「人」を導く枕詞である。この言葉の由来はウツシオミにあると指摘されている。



 「うつしおみ(宇都志意美)」(ミは甲類)は、「現し臣」がもともとの言葉とされている。雄略天皇は山中で謎の人物に出会い、横柄な態度をとっていた。すると相手が一言主神ひとことぬしのかみであるとわかった。そこで、自分は現世において神に仕える臣下だからわからなかったと謝っている。つまり、「うつせみ(うつそみ)」という言葉は、現在という時制を表すだけでなく、この世の人、なかでも天皇を指した言葉であった。
 続紀に、「天皇命すめらみこと」(文武元年八月・慶雲四年四月ほか)という表記がある。詔を記した宣命体の話し言葉の場面で用いられている。古代の言文一致運動の成果である。「皇」=スメ(ラ)、「命」=ミコト(御言)が本来である。ミコトに命の字を当てることは、古事記に「倭建命やまとたけるのみこと」とすでに使用されている。高貴な方のお言葉、「御言みこと」とは命令である。よって、「うつせみの」は命という字で表される言葉を導き、寿命の意味でイノチとも言うから、枕詞的な序詞に流用されたのであろう。
 中国の真似をして天皇が玉藻のついた冕冠を被った記録としては、奈良時代の天平四年(732)正月、聖武天皇の朝賀の儀からとされている。続日本紀に、「四年春正月乙巳の朔、大極殿だいごくでんおはしましてでうを受けたまふ。天皇始めて冕服べんふくす。」とある。朝賀の儀の記述は、大宝元年(701)正月条に、「天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。」とあるのが最初である。だが、その半世紀前の天武天皇(大海人皇子)代、さらにその前にも、賀正の礼の記事はある。



 また、大仏開眼会のような仏教行事の関連で言えば、まさに天武四年四月にも行われている。

 夏四月うづきの甲戌の朔にして戊寅に、僧尼ほふしあま二千四百余ふたちあまりよほたりあまりせて、大きに設斎をがみす。(天武紀四年四月)

 天武天皇(大海人皇子)は、髪形や服装を中国風に改めたほど中国にかぶれている。

 乙酉に、詔して曰はく、「今より以後のち男女をのこめのこことごとくに髪げよ。十二月しはすの三十日みぞかのひより以前さきに、へよ。唯し髪結げむ日は、亦勅旨おほみことのりなぞらへ」とのたまふ。婦女たをやめの馬に乗ること男夫をのこの如きは、其れ是の日におこれり。(天武紀十一年四月)

 髪形を中国のように髷に結わせようとしている。服装のほうもやかましい(注13)

 辛酉に、詔して曰はく、「親王みこたちより以下しもつかた百寮つかさつかさ諸人ひとたち、今より已後のち位冠くらゐかがふり及びまへもひらおび脛裳はばきも、着ることまな。亦、膳夫かしはで采女うねめども手繦たすき肩巾ひれ 肩巾、此には比例ひれと云ふ。ならびることまな」とのたまふ。(天武紀十一年三月)

 襅は前裳、褶は枚帯、脛裳は脚絆、手繦は襷、肩巾は肩にかける薄い布切れである。



 前半は中国風の服装について、子細は自由にして構わないとの記事である。後半は、二年前の髪形、馬の乗り方についての規定を緩めるお達しである。巫覡のような神職に垂れ髪を許すのは、憑依による神憑り儀礼のときに、髷を結っていては様にならないためであろう。さらに三年後に、中国の服装、髪型の導入が失敗に終わったことを物語る記事がある。

 秋七月ふみづきの己亥の朔にして庚子に、みことのりしてのたまはく、「また男夫をのこ脛裳はばきもを着、婦女めのこ垂髪于背すべしもとどりすること、なほもとの如くせよ」とのたまふ。(天武紀朱鳥元年七月)

 以上の服制についてのごたごたを勘案すれば、玉藻のついた冕冠も、最初は飛鳥時代のほんの一時期、天武朝期に皇位を重々しく見せるための装飾品として利用された可能性が十分にあると考えられる。賀正の礼や設斎に被ったのだろう。
 歌の本来の意味について、左注を付けた人は微妙な言い回しをしていて、理解しているようには見えない。言葉を表面的に検索するばかりでは、無文字時代特有のなぞなぞの知恵が施された歌意にたどり着くことはできない。

伊勢国の伊良虞島という設定

 最後に、この「玉藻の歌」が、なぜ配流地と関係のない「伊良虞嶋」に設定されているか、また、それを編者は、なぜ「伊勢国」と断り記したかについて検証する。「伊良虞嶋」が唐突に登場しているのには、天武紀の麻続王事件の記事に近いところにヒントがある。

 壬午に、詔して曰はく、「諸国もろもろのくに貸税いらしのおほちから、今より以後のちあきらか百姓おほみたからて、富貧とめりまづしきことを知りて、三等みしなえらび定めよ。りて中戸なかのへより以下しもつかた貸与いらしたまふべし」とのたまふ。(天武紀四年四月)

 種籾を貸与しておいて、収穫に当たっては利子として税を徴収するという政策である。その割り当てについて、種籾を十分に持たない者を優先して貸し付けるようにと通達している。中小企業ローンの促進策のようなものである。「貸」とは、上代語でイラスである。すなわち、イラゴとは利子のことである。それが税にプラスされて上納される。中小零細農家に貸し付ければ、種籾を持てないぐらい切迫しているから、秋に収穫した新米で返済することになる。大規模富裕農家だと、前年以前に収穫した古米を取り置いて充てるかもしれないから返された米は美味しくない。そうならないように、中小零細を使っている。この新米の上納とは、伝統的にいえば、いわゆる速贄のことである。速贄の言い伝えは、古事記のサルタビコとサルメキミの話の終わりに添えられている。

マナマコ(ナマコ綱シカクナマコ科、葛西臨海水族園展示品。突起があるからイラ(刺)ゴと考えたかどうかは不明。)
 「海鼠」が「嶋之速贄」になっている。「嶋之速贄」が、イラ(貸付利子)であると思えば、イラゴは島である。また、「伊良虞嶋」は志摩国であるけれど、もともと伊勢国に含まれており分国したものである(注14)。貸付金の元本が伊勢国、その利子が志摩国に相当するというアナロジーである。題詞はそれを物語る。元本よりも利子の部分を先に返して「速贄」とするという考え方は、取り立てる側に立った業者ばかりか、一度でもローンを組んだことのある人なら納得のいく話であろう。利息が複利で膨らんでいく。借りた金額が2倍になるのは、年利5%で14.21年、10%で7.27年、15%で4.96年である。養老律令・雑令の規定では、「公出挙くすいこ」は5割、「私出挙しすいこ」は10割の利息を徴収できることになっている。当時の利息制限法である。また、複利計算はしない定めになっている(注15)。天武四年四月の施策は、「中戸より以下」の余裕のない者をローン地獄に陥れようという質の悪いものである。そこまで計算した上で、万葉集の「麻続王の歌」は、題詞とともに録されたと考える。
 麻続王は、自分の子どもに、天子だけが被ることの許される「玉藻ぎょくそう」=タマモを遊びで貸してあげた。おそらく麻続王は、子どもにねだられて、余った玉の飾りを使って子ども用の小さな冕冠を製作し、被せてあげたのであろう。貸子いらごは利子のことで、利子は古語でカガという。カガフル(被)ものが「かがふり(爵)」である所以である。
 実際に被ったのは「海鼠」ならぬ子どもである。罪の重さは被った者がより大である。形式が問題だからである。けれども、きちんと返している。子ども用に作った小さな冕冠とは、冕冠の利子分である。所詮は遊び、元本も利子分もきちんと返したのだから良いだろうと主張したのは、久努摩呂らであったろう。高金利で貸し付けて「嶋之速贄」を貪ろうとする政策のほうがよほど宜しくないのではないか。そういった政権批判の思いが諷刺としてはじめから万23番歌にあり、万葉集の編者も、採録するに当たってその意を込めたと考えられる。筆者は、万葉集の当初の編纂過程に地下出版の傾向を見て取る。
 借金の返済金が、租税に上乗せされる+α の+α 分となり、それは確実に手にできる「速贄」(=新米)であろうと考える神経(無神経)とは、天皇が神の側へ回っていることを表す古代天皇制の確かな証拠である(注16)。役人の狡猾さは、実は平凡な人が仕事熱心になることで生まれる。良心が欠落していて自らの論理の矛盾に気づくことがない。そして天皇は、もはや神なのだから人の心は持ち合わせる必要さえない。天武天皇(大海人皇子)には人の心が若干残っていたから、当摩麻呂と久努摩呂の2人の諫言が耳に痛くて、会いたくないと「勅」していた。それが可能なのは、天皇の恣意が罷り通るほど絶対化されていたからである。
 初期万葉の歌とは、政権の座に就いたものを中心と考え、その磁場が強い核心部分ほど身勝手なプロパガンダを表明している。万葉集に載る「玉藻の歌」は、言論の自由などとうてい保障されない時代、子どものいたずらも冗談も通じない気難しい世相のなかで、何とか事の真相を後世に伝えようとした苦心の記録である。飛鳥時代、政治的に相容れない行動をとった皇族には、政治的な敗北と同等の過酷な環境が待ち構えていた。それは、そのまま文芸的敗北ともいえ、敗者が言葉にした、ないし、したかったことは、お決まりの辞世の歌か、挽歌か、よほどの難訓のワザが施された歌にしか残されていない。万葉集の最初の編者は、標目、題詞、歌だけをシンプルに記すことで、時代の空気を伝えることに成功している。無文字文化と文字文化との間のクレバスに、巧みに橋を架け渡したのであった。

(注)
(注1)ヤマトコトバのコタフは、コト(言・事)+アフ(合)の約とされている。古典基礎語辞典に、「『日本書紀』の中では、「答」「対」「応」「報」「和」の五つの漢字をコタヘ、コタフと訓んでいる。「答」「対」は日常生活から公事に至るさまざまの事柄・出来事・心情などの問いかけに応じてする説明・回答を意味する。特に「対」は問者と向きあった形で問いただされたことに答えることもいう。「報」は戦況報告や騒乱の状況を告げる場合もみられる。「応」は反響する、反応する、手ごたえを感じる意で、山彦の声にも使っている。「和」の字のコタフは、唱和することの意。……「和」の字のコタフとは、事が合いすべて丸くおさまるということを意味する。」(495頁。この項、西郷喜久子)と記されている。この日本書紀の使い分けは、万葉集の題詞や左注の使い方に通じるものがあると思われる。ヤマトコトバのコタフの多義性に、漢字のニュアンスを合わせる形で用いている。「和歌」とある場合、先に歌われたものが主、後から唱和されたものが従の印象が生じていることに適っている。それは、歌が「和」されて歌われ、唱和されて歌どうしが和合している意と解される。(注5)参照。
(注2)小島1964.に、「会稽郡(浙江省)白水郷(地方)の漁民達が有名であり、やがてその漁業を生業とする者の代名として「白水郎」の名をもつてするやうになつたと思はれる。上代人がこの文字を使用し始めたのは、渡唐南路に当つて活躍した「白水郎」を実地に見聞した結果かと思はれる。従つてこのアマの文字表現「白水郎」は、必ずしも文献にのみよつたものとは断定できない。つまりこれは耳より聞く口頭語を背景としたとみる方が可能性が大である。萬葉文字表現の背後には、一語一語にその由来する複雑な経路をもつもののあることは、これによつてその一端が知られる。……「白水郎」の如き例は、恐らく中国文献を経ない例の一つかとも思はれ、萬葉集文字表記の複雑性を示すものと云へるであらう。」(855頁、漢字の旧字体は改めた)とある。文献を経ないで「白水郎」という字を書いている点について、筆者には完全に腑に落ちる説明とは言えないが、現在までのところ、これに代わる有力な説を見出せていない。そしてその物言いはとても慎重である。
(注3)流刑地については、他に常陸風土記にも別の伝承が残る。
(注4)山崎1986.に、「麻續王に関する二首の唱和の歌は、口から口へと歌い継がれることによって練り上げられたに違いない、そういう表現のまるみと磨き上げがなされているように思うのである。それはしかし、もともと一人の即興詩人によって詠じられたものであったはずであるが、それが民衆の前で演じ歌われているうちに、個としての感情の表現から、いわば抽象的人間の情感へと昇華されて行ったのであろう。しかもそこでは、一般に動作的イメージを喚起する表現を伴ったようである。そのことこそ初期万葉の中に見られる古代歌謡的性格と解されるのである。」(16頁)とある。筆者は、万23番歌について、即興詩人などといった洒落た存在ではなく、洒落は洒落でもきつい洒落を言う「時の人」の、世相諷刺の題材にされた要素が強いと考えるが、口承の歌である点については意見を共にする。

(注6)万葉集に、「応歌」に類した「応詔歌」などや、「答歌」に類した「答御歌」などがある。それぞれの特徴について検討すべき課題は多い。促されて応じたり、問われて答えたりしたことを意味する用字ではないかと推測する。仮にそうであるとすると、それらはコタフルことが予定されていた歌ということになる。一方、俎上の「和歌」は、影山2011.の指摘どおり、自然発生的に唱和して和合したという意味合いを帯びていると考えられる。
(注7)拙稿「留京歌(万40~44)について」参照。
(注8)「打麻乎」をウチソヲと訓むべきか、ウツソヲと訓むべきか、どちらでも「歌の解釈に直接影響を与えるほどではない。」(村田2004.282頁)とする説がある。ヤマトコトバが文字を持たなかった時代に、言葉は音声言語としてのみ存在した。現代人の頭で解釈することにおいて差がなかろうとも、飛鳥時代の言葉としては、必ず一つの音で歌われた。二つの理由による。第一に、「」という名詞、すなわち、体言に、動詞が掛かっているので基本的に連体形であろうと思われる。小田2015.334頁、「終止形・連用形による連体修飾」の項に、「終止形が直接名詞に続くことがある」例として、「射ゆししを」(紀歌謡117)、「ゆ竹の」(万420)、「流る水沫みなわ」(万1382・4106)、「流る辟田さきたの」(万4156)、「田に立ち疲る君」(万1285)、「新室を踏み鎮む児し」(万2352)、「連用形が直接名詞に続くことがある」例として、「恋忘れ貝」(万3711)、「植ゑ小水葱こなぎ」(万3415)の例を載せている。「打麻乎」をウチソヲと訓むとする考えは、連用形が直接名詞に続くことの一例と扱われなければならない。しかし、小田氏のあげる例に限ればどちらも東歌である。文法的に破格と推される。連用形が直接名詞に続く他の例があるか、指摘を仰ぎたい。
 第二の理由として、万23・24番歌は、題詞にあるとおり、「和歌」として綴られている。影山2011.の「即和歌」の検討に、「鸚鵡返し」的な性格があるとの指摘があった。この万23・24番歌についても、鸚鵡返し的に同じ言葉、同じ音をもって返しているところに、「歌」としての特徴が見出されるものと考えられる。万24番歌の歌い出しが、ウツセミノとあるのは、万23番歌がウツソヲとあったから、そのウツの音を捉え返して「和歌」を歌ったものととるのが妥当であろう。今日の人にとって何となく心地よいという理由でウチソヲと訓んでいるにすぎず、そう訓まれるべき根拠は見当たらない。以上から、「打麻乎」はウツソヲと訓む。元暦校本萬葉集古河家旧蔵本の左側墨書傍訓、西本願寺本右側不思議な色傍訓にウツアサヲともある。他にウテルヲヲとする伝本もある。「麻続王」をミノオホキミと訓むなら、ウツヲヲかもしれない。いずれにせよ、「打」の訓は、ウツでなければならない。
「ウツアサヲ」(東京国立博物館研究情報アーカイブズ
(注9)「天武天皇」は漢風諡号である。生前の名前は、オホアマさんであった。
(注10)後漢書・輿服志に、「冕服広七寸、長尺二寸、前円後方、朱緑裏、衣上、前垂四寸、後垂三寸、係白玉珠、為十二施、以其綬采色組纓」、「爵弁一名冕、広八寸、長尺二寸、如爵形前小後大、繪其上爵頭色」などとある。なお、山東省沂南県の画像石、尭舜禅譲図に刻されていても、尭舜のころに冕冠があったわけではない。秦始皇帝が冕冠を被っている像が見られるが、時代考証的にどうなのか不明である。筆者がここに展開している天武朝冕冠起源説も時代考証にまつわる問題であるため記しておく。
(注11)沈・王1995.に、「[歴代帝王図巻の]画中で表現された服装は、隋・唐時代の画家が、ただ漢代の輿服志の三礼六冕の旧説および晋・南北朝時代の絵画や彫刻中の冕服を踏襲して描いた皇帝の冕服と侍臣の朝服の形式であり、漢や魏の本来の服装とは符合していない。しかし、この種の冕服形式および服飾の文様は後世に影響を及ぼし、封建社会の晩期においてもなお役立ち、宋(および遼・金)元・明の約1000年にわたって踏襲されたのであった。」(215頁)とある。
「玉藻」のついた冕冠図(3:沂南漢代画像石墓の冕冠、4;司馬金龍墓出土の漆画屏風に描かれた楚王の冕冠、5;集安高句麗壁画の仙人が戴く冕冠(沈・王1995.216頁、王亜容挿図)
 似た形状に、孝明天皇の礼冠があるが、旒は周囲にめぐらせてある。
孝明天皇の冕冠(Barakishidan「Benkan emperor komei.jpg」Wikimedia Commons、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Benkan_emperor_komei.jpg)
 旒に用いたのではないかとされるものが、正倉院に残っている。
左:礼服御冠残欠(正倉院北倉157、真珠・瑠璃玉垂飾、宮内庁HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020681&index=2をトリミング)、右:冠架(正倉院北倉157、赤漆八角小櫃付属、宮内庁HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010564&index=0をトリミング)
 米田1998.によれば、この礼服御冠残欠は、聖武天皇・光明皇后が、天平勝宝四年(752)四月九日、東大寺大仏開眼会において身に着けたものという。続日本紀、同日条に、「盧舎那大仏のみかた成りて、始めて開眼す。是の日、東大寺に行幸みゆきしたまふ。天皇、みづから文武の百官を率ゐて、設斎大会したまふ。其の儀、もは元日ぐゑんにちに同じ。」とあって、儀場の雰囲気(装束や施設、音楽や舞)が同様であったとされている。「元日朝賀の儀とは、元日に天皇が大極殿において群臣から賀を受ける儀式である。当日大極殿前庭に礼服を着た群臣らの居並ぶ中、天皇は冕服べんぷくを着して大極殿中央に設けられた高御座たかみくらに上り、群臣の再拝を受け、ついで前年に起こった祥瑞しょうずいの奏上を、さらに群臣の代表者が賀詞を奏上するのを聞かれ、新年の宣命せんみょうを宣下する。ここで群臣らは称唯しょうい再拝し、舞踏再拝する。この時、武官は立って旗を振り、万歳を唱える。かくして儀式は終了し、天皇は退出される。」(30頁)とある。
(注12)左注、天武紀四年条とも、「三位麻續王」と記されている。「續」字は「績」字の通用である。中国でもわずかにそのような例がある。「續」字は、今日、「続」字をもって常用としている。むことは、麻の繊維をとり出して撚ったり結んだりして継いでいくことだから、糸として続(續)くことになる。意味的な連関がある。また、「売(賣)」は常訓として、ウルと訓む。ウムとウルで語幹を共にする。と同時に、麻続王一家は連座させられている。芋蔓式に罪に問われた。績んだ麻は芋蔓のようである。また、ヲミノオホキミは三位であるはずが、降下させられて四位になるほどの罪を犯したという意味にもとれる。どういう罪かといえば、冠にまつわり天皇の位を冒するものであった。よって、「續」なる「四」の字が混入した字、「賣」の字が入っている字が好まれているようである。紀や初期万葉における異体字には、筆記者の熟慮の跡が見て取れると感じられることがある。異体字研究に、一字=一音=一義の中国に倣い、一字=一訓=一義のヤマトカンジを創作したふしがあると付言しておく。
(注13)「婦女の馬に乗ること男夫の如きは、其れ是の日に起れり。」との記事は、注目に値する。女性が乗馬する風がこの日からというのではなく、男性のような乗り方、すなわち、跨って乗るのがこの日からとするものかもしれないからである。それまでは横座りであったかとも考えられるのである。古墳から出土する埴輪の横座り用の鞍は、実際にあったのかもしれない。
(注14)志摩国が伊勢国から分立したのは、「……及び伊賀いが伊勢いせ志摩しまのくに国造くにのみやつこども冠位かうぶりを賜ひ……」(持統紀六年三月)とあるところから七世紀後半頃かとされている。記紀の説話上で問題なのは、「嶋の速贄」なる語句と、「モズの早贄」という常套句との関係である。また、「百舌鳥耳原もずのみみはら」(仁徳紀六十七年十月)という言葉も検討に値しよう。
(注15)公出挙の場合、aを貸し付けられると、一年後に完済するための返済額は計算上3/2×a(=1.5a)である。これは借金の返済だけであり、公租公課は別であったと思われる。養老令・雑令に、「凡そ稲粟たうぞくを以て出挙すいこせらば、ほしきままわたくしけいに依れ。官、理することず。仍りて一年を以てさだむること為よ。一倍にすぐすこと得じ。其れ官は半倍はんべせよ。並に旧本くほんに因りて、更にさしめ、及び利を廻らして本と為ること得ず。若し家資けし尽きなば、亦上の条に准へよ。」、同・賦役令に、「凡そ調物でふもち及び地租ぢそ雑税ざふぜいは、皆明らかに、いだすべき物の数を写して、を坊里に立てて、衆庶しゆしよをして同じく知らしめよ。」の「雑税」の個所、義解に、「謂、出挙稲及義倉等、是也」とあり、地租とは別に出挙稲という借金の返済があった。ただし、地租負担は3%程度と軽かったそうである。結局、公出挙をa受けて、班田の収量をbとすると、1.5a+0.03bを税として納めることとされていた。一粒万倍には今日でもならず、300倍程度であろうか。仮に飛鳥時代の標準的な収量が1粒50倍であったとして、まるごと種籾を公出挙で借り受けていると、10000粒獲れても200粒借りているから300粒(公出挙分)+300粒(地租分)で計600粒納める計算になる。手取りは9400粒である。政府の側からすると、豊作不作の別なく基本料のように毎年入ってくるのが公出挙の返済分ということになる。200粒借りて、不作の年で5000粒しか獲れなくても、公出挙分は変わらず300粒、地租分は150粒、計450粒納めることになる。手取りは4550粒である。出挙の重税感は否めないであろう。豊作の年には翌年の種籾を確保して出挙で借りないようにしておかないと、不作で堪らない年が来ることになる。
 以上は取らぬ狸の皮算用にすぎない。とはいえ、近世に稲を作付せずに畑にしてしまったり、現代に減反補助金を当てにしながらの三ちゃん農家が増えてしまったり、後継者不足で自家作以外は放棄されてしまうなど農政が難しいのは、取らぬ狸の皮算用がある程度利いてしまうせいであろう。
(注16)藤田2012.参照。なお、「玉藻ぎょくそう」のついた冕冠を天武天皇が被ったとして、それをタマモと呼んだとは限らないではないか、という設題に対しては、非常に高い精度をもってタマモという訓をあてたであろうと考えている。政治史において、純粋な意味での天皇制は歴史上二回しかなかったとされる。近代天皇制と古代天皇制である。いずれも科学技術や文化芸術を先進的な外国に負いながらも、精神的支柱を自らの内に求めようとするため、近代においては敵性語である英語を使わずに不思議な言い換えが行われた。古代においても然りであろう。事は精神論である。ともに先進的な外国文化に憧れて実用としながら、外国語は使わないという矛盾した行いをしている。言葉を拠りどころとすることこそ、民族という幻想を抱かせるのに最も適した方法といえる。藤田2012.のいう天皇制の真髄は、言語学的にも確かで、ヤマトコトバが天皇制成立の基礎であった。ただし、麻続王の「玉藻」のような語は、ほぼヤマトコトバで成り立つ万葉集において例外的な言葉といえる。歪んだ国粋主義を諷刺した歌が万23番歌である。タマモという言葉を使うこと自体が、語用論的にシニカルである。他のいわゆる訓読語(ケダシ(蓋)、イマダ(未)、ホリス(欲)といった語)は、古墳時代後期から飛鳥時代前期に作られたと思われる新語ではあるが外来語ではない。economy を「経済」、battery を「電池」と言って日本語化したことの古代版かとも見紛うが、近代には主に名詞が造語されている。両者の共通点、相違点について検討すべき課題は多く、とても興味深いものがあるが、本稿の主旨からは離れるので問題提起に止めておく。

(引用・参考文献)
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釋注一』集英社、1995年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
影山2011. 影山尚之「額田王三輪山歌と井戸王即和歌」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学』塙書房、昭和39年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
沈・王1995. 沈従文・王㐨編著、古田真一・栗城延江訳『増補版 中国古代の服飾研究』京都書院、1995年。
内藤2012. 内藤聡子「三河湾の『玉藻』の歌」印南敏秀編『里海の自然と生活Ⅱ─三河湾の海里山─』みずのわ出版、2012年。
藤田2012. 藤田省三『天皇制国家の支配原理』みすず書房、2012年。
増田1995. 増田美子『古代服飾の研究─縄文から奈良時代─』源流社、1995年。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
山崎1986. 山崎良幸『和歌の表現─表現学大系各論篇第一巻─』教育出版センター、1986年。
米田1998. 米田雄介『正倉院宝物の歴史と保存』吉川弘文館、平成10年。

※本稿は、2016年2月稿、2018年1月稿について、2024年6月に誤りを正しつつ整理したものである。

枕詞「あぢさはふ」について

2024年05月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 枕詞「あぢさはふ」は「目」や「夜(昼)」にかかる枕詞である。万葉集では五首に見られる。原文の用字はすべて「味澤相」である。諸例をあげる。

 …… 敷栲しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向みけむかふ 城上きのへの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ○○○○○ 目言めことも絶えぬ しかれかも〈一に云ふ、そこをしも〉 あやに悲しみ ぬえどりの 片恋づま〈一に云ふ、しつつ〉 朝鳥あさとりの〈一に云ふ、朝霧あさぎりの〉 通はす君が ……〔……敷妙之袖携鏡成雖見不猒三五月之益目頬染所念之君与時々幸而遊賜之御食向木〓(瓦偏に缶)之宮乎常宮跡定賜味澤相目辞毛絶奴然有鴨〈一云所己乎之毛〉綾尓憐宿兄鳥之片戀嬬〈一云為乍〉朝鳥〈一云朝霧〉徃来為君之……〕(万196)
 あぢさはふ○○○○○ いもが目かれて 敷栲しきたへの 枕もまかず 桜皮かには巻き 作れる船に 真楫まかぢ貫き が漕ぎ来れば 淡路の 野島のしまも過ぎ ……〔味澤相妹目不數見而敷細乃枕毛不巻櫻皮纒作流舟二真梶貫吾榜来者淡路乃野嶋毛過……〕(万942)
 朝戸あさとを 早くな開けそ あぢさはふ○○○○○ 目がる君が 今夜来ませる〔旦戸乎速莫開味澤相目之乏流君今夜来座有〕(万2555)
 あぢさはふ○○○○○ 目は飽かざらね たづさはり ことはなくも 苦しくありけり〔味澤相目者非不飽携不問事毛苦勞有来〕(万2934)
 …… 黄泉よみさかひに つたの おのが向き向き 天雲あまくもの 別れし行けば 闇夜やみよなす 思ひまとはひ 射ゆ猪鹿ししの 心を痛み 葦垣あしかきの 思ひ乱れて 春鳥はるとりの のみ泣きつつ あぢさはふ○○○○○ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ〔……黄泉乃界丹蔓都多乃各々向々天雲乃別石徃者闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思乱而春鳥能啼耳鳴乍味澤相宵晝不知蜻蜒火之心所燎管悲悽別焉〕(万1804)

 「あぢさはふ」は、多く「目」に掛かっている。万942番歌の場合も「妹が目」の「目」に掛かっている。例外は万1804番歌の「夜(昼)」に掛かる例である。
 鳥のアヂ、アヂガモは、今日、トモエガモと呼ばれる小型のカモの仲間のことをいい、アヂ(味鳧)+サハ(多)+フ(経)の意で、味鳧が夜昼となく群れ飛ぶところから、ムレの約音メにも冠するとする説(冠辞考)、アヂ(味鳧)+サハ(サフの未然形)+フ(継続の助動詞)の意で、味鳧を捕る網を昼夜張っておくところから網の目および「夜昼」にかかるとする説(井手至)が主な説である。
トモエガモ剥製(東京大学総合研究博物館研究部蔵、インターメディアテク展示品)
 井手氏が狩猟方法を視野に入れて検討している点は注目すべきである。なお、網の目から「目」に掛かるというのは一面で、味鳧が網の目がよく見えずに網にかかってしまうこと、つまり、味鳧の目と網の目が合うことの謂いとして「目」を導いているようである。すなわち、アジ(味鳧)+サヘ(障、遮)+アフ(合)の約として「あぢさはふ」という語が造られているとも考えられる。このとき、サヘには助詞のサヘも含意していると考えられる。味鳧でさえ遮られて合うことになるのは、メ(目)だというのである。味鳧は群れを成して騒がしく鳴き、動き回る。群れがざわざわと動くところに統率のとれた集団行動的な秩序は見られず、それぞれが勝手に動いているように見える。雁のように∧型に雁行するのであれば互いにぶつからない理由もわかるが、スクランブル交差点で一斉に歩き始めても接触せずに横断しきるように、味鳧はランダムに動いているようでいてしかもぶつかる気配がない。目がいいからだと思われるそんな味鳧が、皮肉なことにぶつかるものが仕掛けられた網である。この網の様態がどのようなものか、注意が必要である(注1)

 万2555番歌については、四句目の「目之乏流君」の訓が定まっていない。佐佐木1999.によれば、少なくとも「目欲る君が」ではなく「目欲る君が」であるべきで、さらに、「目のかるる君」と訓み、五句目は「今夜来ませり」と訓むのが良いとしている(477~486頁)。カルは「離(放)る」、つまり、離れる、の意である。筆者は、類似の考えをしつつも次のように訓むことが正しいと考える。

 朝戸あさとを 早くな開けそ あぢさはふ 目のあるる君 今夜来ませる〔旦戸乎速莫開味澤相目之乏流君今夜来座有〕(万2555)

 アルは「離(散)る」、はなれるの意で、「あら」の動詞形を表していると考える。味鳧を捕獲するために張ってある網の網目はこまかいものではなく、網の目としてはゆるく大きく粗略に感じられるものである。飛んできた味鳧はそこに身体の一部が引っ掛かって身動きが取れなくなる。蚊が入らないようにした網戸ほど目が詰んでいたら、味鳧はぶつかりはするが羽が引っ掛かることはなく、びっくりするだけで反対側に逃げて行ってしまう。一方、大きな網目の鳥網の場合、味鳧の頸が通ったり広げた翼が引っ掛かってもがくことになる。そんな隙間だらけの網のほうが鳥を捕まえるのに適している。つまり、そのことを恋愛に喩えて、殿方を捕まえるのにも入りやすく出にくい方法をとることが肝要である。よそ見をする浮気性な男性でも一晩を共にし、明るくなる前には帰れないようにしてしまえば、噂が立って他の女のところへは行きづらくなるだろう。そういう罠に嵌めようというのである。
 すなわち、味鳧を粗々な網で捕まえようとすることと、目移りする浮気性の君というのとが掛かるように構成されている。技巧的な修辞のために枕詞「あぢさはふ」が用いられている。一般に言われるように、ただ「目」を導くためにだけに用いられているのではない。
 その点は次の歌にも該当する。
 あぢさはふ 目は飽かざらね たづさはり ことはなくも 苦しくありけり〔味澤相目者非不飽携不問事毛苦勞有来〕(万2934)

 この歌は、見るということで満足しないわけではないが、手を取り合って言葉を交わさないのは苦しいものだ、という意であるとされている。感染症対策のためにアクリル板越しに見つめ合うことはできても、ディスタンスを保って非接触で飛沫が飛ばないように発声しないこととするのは誤解である。通常、手を取り言葉を交わすときに見つめ合わないことは考えにくい。となると、上二句「あぢさはふ目は飽かざらね」で言っているのは、職場で仕事をしている最中に視線が合うことはあり、相手の表情や機嫌の変化などに気づくものの、多忙など事情により、二人だけのデートを楽しむことがなくなっているときのようなことと感じられる。ここでいう「目」は至近距離で見つめ合う「目」ではなく、ある程度距離の離れてしか見ることのない「目」である。このような「目」は、味鳧を捕まえるための網にある「目」が粗々なものであることとよく通じ合う関係にあり、そのための修辞にこの枕詞が用いられていると言える。

 あぢさはふ いもが目かれて 敷栲しきたへの 枕もまかず 桜皮かには巻き 作れる船に 真楫まかぢ貫き が漕ぎ来れば 淡路の 野島のしまも過ぎ ……〔味澤相妹目不數見而敷細乃枕毛不巻櫻皮纒作流舟二真梶貫吾榜来者淡路乃野嶋毛過……〕(万942)

 この歌は、山部赤人の羇旅の歌である。船で瀬戸内海を航行して進んでいる。そのはじめに「あぢさはふ妹が目かれて〔味澤相妹目不數見而〕」とある。「あぢさはふ」はメ(目)にかかる枕詞であり、ここでは「妹が」が挿入されている。原文の「不數見」はしばしばは見ないの意だから、「かれ」(離・放)と訓むとされている。上に見た万2555番歌同様、ここも「あれ」(離・散)と訓むべきであろう。そうすれば、味鳧用の網の目の粗々なことと妹の目から遠ざかっていることが掛かっていることになる。そして、「あれ」は「れ」とも同音で、波風が激しくなることに通じる。船路に就いていることを表す言葉としてふさわしい(注2)
 味鳧は群れをなす。それを「あぢむら」(万3991)と言っている。群れてできた集住の地をムラ(村)と言い、そのムラ(村)のことはアレとも言う。「石村いはれ」(万282)というのは、イハ(石)+アレ(村)の約である。すなわち、味鳧はヤマトコトバのネットワークのなかで、アレという言葉と緊密な関係にあると認識されていたと理解される。この点からも、「あぢさはふ」にまつわって「不數見」とあれば、「あれ」と訓むべきである。

 …… 御食向みけむかふ 城上きのへの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ 目言めことも絶えぬ しかれかも〈一に云ふ、そこをしも〉 ……〔……御食向木〓(瓦偏に缶)之宮乎常宮跡定賜味澤相目辞毛絶奴然有鴨〈一云所己乎之毛〉……〕(万196)

 この歌は柿本人麻呂の明日香皇女挽歌である(注3)。「あぢさはふ」が果たしている役割は、次のメ(目)の導く枕詞にとどまらない。味鳧にはアヂムラの語がついてまわるように、寄り集まって鳴き声を上げてうるさい性質がある。だから、通例のように「あぢさはふ」がメ(目)に掛かるばかりか、その後の「こと」にも関係しているように立ち回っている。味鳧は一斉に鳥網にかかって捕まえられ、一帯から鳴き声は絶えてしまった。明日香皇女の姿も声もなくなってしまい、世界はとても寂しく荒廃している。「れたる都 見れば悲しも」(万33)とあるように、荒れすたれているからアレに関係する「あぢさはふ」という言葉を使っている。
 このように、「あぢさはふ」は、ただ後続の言葉を導く枕詞である以上の機能を果たす修辞語であると考えられる。ところで、「あぢさはふ」には、メ(目)以外の語、「夜昼」にかかる例がある。

 …… 黄泉よみさかひに つたの おのが向き向き 天雲あまくもの 別れし行けば 闇夜やみよなす 思ひまとはひ 射ゆ猪鹿ししの 心を痛み 葦垣あしかきの 思ひ乱れて 春鳥はるとりの のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ〔……黄泉乃界丹蔓都多乃各々向々天雲乃別石徃者闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思乱而春鳥能啼耳鳴乍味澤相宵晝不知蜻蜒火之心所燎管悲悽別焉〕(万1804)

 この歌の「あぢさはふ」の後は、元暦校本、藍紙本に「宵晝不知」とあり、「夜昼知らず」と訓まれている。しかし、他の伝本、元暦校本赭書を含め諸本に「宵晝不云」とある(注4)。この校異についてあらかじめ正しておく必要がある。上に見たように、「あぢさはふ」はただ後続の語を導く、いわゆる枕詞だけにとどまらない修辞語と考えられるからである。
 「夜昼」という語は、万葉集では当該1804番歌を含めて6例確認されている。

 常世とこよにと が行かなくに 小金門をかなとに ものがなしらに 思へりし 吾が児の刀自とじを ぬばたまの 夜昼といはず〔夜晝跡不言〕 思ふにし 吾が身はせぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 古郷ふるさとに この月ごろも 有りかつましじ(万723)
 ますらをの うつごころも あれは無し 夜昼といはず〔宵晝不云〕 恋ひし渡れば(万2376)
 思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜昼といはず〔夜晝不云〕 が恋ひ渡る(万2569或本)
 夜昼と いふわき知らず〔夜晝云別不知〕 が恋ふる 心はけだし いめに見えきや(万716)
 が恋は 夜昼かず〔宵晝不別〕 百重ももへなす こころし思へば いたもすべなし(万2902)
 父母が しのまにまに 箸向かふ おとみことは 朝露の やすきいのち 神のむた 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家無みや また還りぬ 遠つ国 黄泉よみさかひに つたの おのが向き向き 天雲の 別れし行けば 闇夜やみよなす 思ひ迷rt>まとはひ 射ゆ猪鹿ししの 心を痛み 葦垣あしかきの 思ひ乱れて 春鳥はるとりの のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず〔宵晝不知〕 かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ(万1804)

 「夜昼といはず」、「夜昼といふわき知らず」、「夜昼かず」とある。当該歌のように「夜昼」の「別」を示さずにいきなり「夜昼知らず」というのは例外的な用法と考えるべきであろう。当該歌の性格は、阿蘇2009.に、「枕詞が多過ぎて、しかも肉親の弟を亡くした悲しみと必然的な結びつきもないような枕詞を無造作に用いており、感情の素直な表出をかえって妨げている感がある」(269頁)とあるのが正当な評価である。枕詞を駆使しすぎるほど駆使していると、互いの表現から新しい表現を溶接することも現れてくる。すなわち、多すぎる枕詞の側から見れば、「宵晝不知」をもって正しいこととなる。
 「あぢさはふ」という枕詞がメ(目)を導くことを当然視するなら、そのメ(目)を「夜昼」のことに拡張させて夜と昼の境目のことを考えていると推測される。万1804番歌では、「夜昼」+否定形の慣用表現をもじる形で「夜昼知らず」と言っている。つまり、夜と昼の境目がわからなくなったことを言おうとしている。だから「あぢさはふ」を枕詞に持ってくることにかなう。「あぢさはふ」こと、味鳧がその飛翔の障害となって引っ掛かり、捕まってしまうことは、鳥網の目が粗々に作られてそれとわからないように作られているためである。それほどまで夜と昼との境目がはっきりしなくなるほどに心をたぎらせて別れを嘆くことだ、と歌っている。「黄泉の界に 延ふ蔦」とすでに出ているように、境目の曖昧化がモチーフである。「夜昼知らず」につづいて「かぎろひの」とあるのも、単にその後ろの「心」にかかる枕詞であるばかりでなく、ゆらゆらと揺らめく陽光は夜から昼への移り変わるとき、それが夜の時間か昼の時間か区別しきれない境の時間帯だからである。自然な流れとなって言葉が続いている。「夜昼といはず」では、夜だ、昼だ、と言うことはなく、という意味で、境界のことに頓着しておらず、かえって機微を伝えないこととなる(注5)

(注)
(注1)井手2009.参照。
 専論として「あぢさはふ」という語を検討したものとしては井手氏以外に見られない。枕詞の掛かり方についての諸説もまとめられている。そして、枕詞の背景、成立の基盤を解き明かそうと、「つのさはふ」という似た言葉ともども探っている。そして、「味」と呼ばれていた味鳧の羅猟法から「あぢさはふ」という言葉が造られたのであろうと推測し、「目」が羅眼、網の目のことを指しているという重要な指摘も行っている。前現代(前近代的に現代において廃れる以前)に行われていた羅猟法、鳥網によって捕獲する方法を引いて論拠を明らかにすることも怠っていない。出色の論考である。
 ただし、鳥網の網の目のあり方、理解の仕方において、井手氏は誤解している。井手氏は羅網の網の目を細かいものと考えている。

(1)巴鴨を羅障によって捕獲するものであること
(2)羅網が夜間もしくは昼夜を問わず張られていること
(3)その猟法が人々の耳目に達する仕掛けであったこと

の三項をほぼ満足せしめ……枕詞「あぢさはふ」から推定される上代の巴鴨猟におおむね該当する猟法の存在が確認されたことは、翻って「あぢ障はふ──網目」「あぢ障はふ──よる(宵昼といはず)」と表現された上代における巴鴨の羅猟の存在の蓋然性を高め、「あぢさはふ」という枕詞を鴨の羅猟と関係づけて解明することが決して無稽な空論ではないことを証するものであると思うのである。(282頁)

 井手氏もあげている図絵を示す。
左:張切羅(農商務省・狩猟図説、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/993625をトリミング)、右:「上州霞網鳧」(一勇斎国芳画・山海めでたい図会・よい夢でも見たい、ボストン美術館https://collections.mfa.org/download/217315をトリミング)
 狩猟図説の図に網にかかっている鳥とほうほうのていで逃げていく鳥とが描かれている。逃げていく鳥の後ろには取れてしまった羽根が数枚ずつ描かれている。一度網に突っ込み、からくも絡まることなく逃れたところを示している。つまり、網に体の一部、特に頸が網に入って抜けなくなるような場合には絡んで捕まるが、翼部分が網に当たるなどしたら羽根は多少失っても戻って逃げ飛ぶことができたことを表している。漁業で言えば刺網漁の原理と同じである。獲物の方から網に刺さり絡まっているのを網ごと引き上げ、魚を一つ一つ網から外して果実とする。対象となる魚類が逃げられないようにそれよりも細かな網をめぐらし、まるごと掬いあげる曳網漁やまき網漁、敷網漁などとは網の目の意図が異なっている。
 すなわち、味鳧猟のやり方として、網によって行く手をさえぎって一網打尽に巻き込んで捕らえるのではなく、獲物が網に絡まることをもって捕獲するのである。罠や罠に準ずる方法、あたり一帯を罠化するものではないということである。図には、籠を持って引っ掛かっている鳥を捕りに行く人の姿が確認される。
 網目が細かすぎると鳥は網に引っ掛からない。狩猟図説の解説では、あみは一寸三分目、二寸目、三寸目ばかり(約4~9㎝)にキ(ヒ)たるものを使っているとしている。ヤマトコトバにおいても、枕詞「あぢさはふ」が「目」に掛かる、その掛かり方が井手氏の考えは違っている。掛かる言葉だけに、網へのかかり方は正確を期さねばならない。網目は味鳧の頸や脚が入るほどに粗い。だからこそ、それが網だと気づかず突入してしまう。よく見えていないのではないかと思えるほどである。結果、味鳧の目が大雑把、粗々だと思うに至っている。粗い目には粗い網目を、という(言語学的)結論に到達している。したがって、「あぢさはふ」が「目」に掛かる枕詞としてばかりでなく、言葉の続き方として「あれ」という語へと連なっていて正しい用法だと当時の人たちは思ったのであろう。用例のように「あぢさはふ」という言葉が、前後に群として用いられている所以である。味鳧は群れなす性質があるだけに前後まで気を配られた使用となっている。
 なお味鳧、すなわちトモエガモは美味なようである。「手賀沼では明治中葉頃まで、何万という大群が押し寄せたという。「それ味鴨(方言)だ!」 鴨網はそっちのけにし、味網を出した。」(堀内1984.431頁)と記されている。
(注2)遠称の代名詞にカレ(彼)があり、それは「れ」とよく対応しているが、音転したアレ(彼)も同じ意を表している。このようにパラレルな対応を示していることは、意味的なつながりではなく単なる音転によるものと考えられるが、上代の基本的に無文字文化のなかにあっては、口頭言語として口に出し、声として聞いた人にとっては重要なことであったと思われる。今日、さまざまな駄洒落が流布して実際の言語活動となっていることから顧みても、疎慮してはならないであろう。言語とは使用されるものであり、その実態を措いて言葉や歌謡、文学の研究などあり得ない。
(注3)拙稿「「明日香皇女挽歌」について─特異な表記から歌の本質を探って─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/254e3749a17832176d6c239f871fd5e0など参照。
(注4)木下2000.は古い写本のほう(宵晝不知)が誤りであるとしている。「宵晝不知」であれば「夜昼の別もなく」(大系本)、「夜昼のわかちも知らぬばかりに」(注釈)となるが、「しかし、「夜昼知らず」のままで果たしてそのような解釈ができるものだろうか。店員急募の広告なら「男女不問」と書くこともあるかも知れないが、それでは舌足らずで、正しくは「男女の別は問わず」と言うべきではないか。」(木下323頁)とし、集中に「夜昼といはず」の例が多いからそちらが正しいとしている。
(注5)「夜昼」ではなく「昼夜」という転倒した言い方が行われていなかった理由も垣間見られよう。通い婚を前提とした造語なのに、歌謡に関して間抜けな言い方が行われることはない。

(引用・参考文献)
阿蘇2009. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第5巻』笠間書院、2009年。
金田1983. 金田禎之『日本漁具・漁法図説 改訂版』成山堂書店、昭和58年。
木下2000. 木下正俊『万葉集論考』臨川書店、2000年。
狩猟図説 農商務省編『狩猟図説』東京博文館、明治25年。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/993625
堀内1984. 堀内讃位『写真記録 日本伝統狩猟法』出版科学総合研究所、昭和59年。

古(いにしへ)と昔(むかし)、上代語の語意について

2024年05月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 イニシヘ(古)とムカシ(昔)という語については、上代においてどのような過去の概念として捉えられていたのだろうか。現在までにまったく正反対の二つの見解が示されており、意外にも定まっているわけではないようである(注1)
 一つは西郷信綱氏の考えで、もう一つは大野晋氏の考えである。先に西郷氏の見解を見ていく。西郷氏は万葉集の歌を例にとっている。

 むかしこそ 難波田舎なにはゐなかと 言はれけめ 今はみやこき みやこびにけり〔昔者社難波居中跡所言奚米今者京引都備仁鶏里〕(万312)
 昔見し きさがはを 今見れば いよよさやけく なりにけるかも〔昔見之象乃小河乎今見者弥清成尓来鴨〕(万316)
 常磐ときはなす いはは今も ありけれど 住みける人そ つねなかりける〔常磐成石室者今毛安里家礼騰住家類人曽常無里家留〕(万308)
 いは屋戸やどに 立てる松の木 を見れば 昔の人を あひ見るごとし〔石室戸尓立在松樹汝乎見者昔人乎相見如之〕(万309)

 最後の二首は、紀伊国の三穂の石室を見て作る歌三首中のもので連作だが、これらを読んで分るのは、「今」と「昔」との間には断絶があり、「昔」なるものが「今」から、「今」とは異なる時期として対象化されていることである。ムカシという語じしん、ムカフ(向)に由来しており、一つのかなたなる、向う側の時期を指し示しているといっていい。その点ムカシはイニシヘ=往ニシヘ(古)とは、含意するところをおのずと異にする。(西郷2011.111~112頁)

 さらに、次の歌を例示している。

 楽浪ささなみの 志賀しが大曲おほわだ よどむとも 昔の人に またも逢はめやも〔左散難弥乃志我能大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛〕(万31、柿本人麻呂)
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの ふるき都を 見れば悲しき〔古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸〕(万32、高市古人、または黒人)

 同じく近江荒都に臨んだ時の作でありながら、ここにはムカシとイニシヘの相違が奇しくも示されている。第一首が、志賀の大わだはこのように淀んでいても、「昔の人」にはもう逢えないといっているのにたいし、第二首は自分を「古の人」なのだろうかと歌っている。作者の名の古人にかけてこう歌ったのかも知れぬが、「昔の人」と「古の人」とはやはり等価ではなく、少くとも「いにしへびとにまたも逢はめやも」、あるいは「昔の人に我あれや」とはいえなかったはずである。(同112頁)

 万32番歌の一・二句は、古訓に「古人ふるひとに われあるらめや〔古人尓和礼有哉〕」と訓んでおり、意が通じ、その訓みが正しい。歌意は、私は「古人」という名を負っていて(注2)、きっとそれを体現するように歳をとった古い人間であるからか、古い都を見ると悲しい、という意味である。フルという音が連ならなければ、この歌を聞いただけで直ちに納得することはできない(注3)
 歌の訓みが誤っているのに言葉の意味を理解しようとすると誤解しか生まない。
 もう一つの大野氏の見解を見ていく。

 いにしへ イニシエ【古】《イニ(往)シ(回想の助動詞キの連体形)ヘ(方)の意。過ぎ去って遠くへ消え入ってしまったことが確実だと思われるあたり、の意。奈良・平安時代には、主として、遠くて自分が実地に知らない遙かな過去、忘れられた過去などの意に多く使われたが、鎌倉時代以後、ムカシがこの意味に広まって来て、イニシヘは古語的・文語的になり、あまり使われなくなった。→むかし・むかしへ》➀過ぎ去ってしまった遠い過去。……②(近い過去だが)過ぎて行って取り返し得ない過去。……➂古式。……(岩波古語辞典124頁)(注4)

 それぞれ例として次の万葉歌をあげている。②は挽歌で、悲しみを誇張するための用法と考えられる。

 ①とりが鳴く 吾妻あづまの国に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言ひる …… とほに ありける事を 昨日きのふしも 見けむがごとも 思ほゆるかも〔鷄鳴吾妻乃國尓古昔尓有家留事登至今不絶言来……遠代尓有家類事乎昨日霜将見我其登毛所念可聞〕(万1807)
 ②いにしへに いもとわが見し ぬばたまの黒牛潟くろうしかたを 見ればさぶしも〔古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下〕(万1798)
 ➂いにしへの 倭文しつ機帯はたおびを 結びたれ たれといふ人も 君にはまさじ〔去家之倭文旗帯乎結垂孰云人毛君者不益〕(万2628)

 万葉集では「いにしへの」人とは、はるかに離れた存在である伝説上の人物を指し、またそれが遠い中国のことである例もあり、まったく漠としか想像できない過去の人のことも言っている。

 いにしへの大き聖(万339)…魏の徐邈じょばく
 いにしへの七のさかしき人ども(万340)…竹林の七賢
 いにしへやな打つ人(万387)…拓枝伝の味稲うましね
 いにしへの賢しき人(万3791)…孝子伝の原穀(原谷)
 いにしへのますらをとこ(万1801)…葦屋のうなひ処女をとめを争った男
 いにしへ小竹田しのだをとこ(万1802)…同
 いにしへに ありけむ人も 吾がごとか 妹に恋ひつつ 宿ねかてずけむ(万497)
 今のみの 行事わざにはあらず いにしへの 人ぞまさりて にさへ泣きし(万498)
 妹が紐 結八河内ゆふやかふちを いにしへの 皆人見きと ここを誰れ知る(万1115)
 いにしへに ありけむ人も 吾がごとか 三輪の桧原ひはらに 挿頭かざし折りけむ(万1118)
 いにしへに ありけむ人の 求めつつ きぬに摺りけむ 真野の榛原はりはら(万1166)
 いにしへの 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(万1725)
 いにしへの 人の植ゑけむ 杉がに 霞たなびく 春はぬらし(万1814)

 こう見てくると、イニシヘ(古)とムカシ(昔)という語の概念の違いは、大野晋氏の考え方が概ね正しいと理解される。
 なお一例、問題となりそうな歌に万2614番歌がある。

 眉根まよね掻き したいふかしみ 思へるに いにしへびとを 相見つるかも〔眉根搔下言借見思有尓去家人乎相見鶴鴨〕
  或る本の歌に曰ふ、眉根掻き たれをか見むと 思ひつつ 長く恋ひし いもに逢へるかも〔或本哥曰眉根搔誰乎香将見跡思乍氣長戀之妹尓相鴨〕
  一書の歌に曰ふ、眉根掻き 下いふかしみ おもへりし 妹が姿すがたを 今日へふ見つるかも〔一書歌曰眉根搔下伊布可之美念有之妹之容儀乎今日見都流香裳〕(万2614)

 別伝を二首もつこの歌は、昔なじみの人という意味で「いにしへびと」と訓み、家から去っていった夫のことを言うとされている。ただ、中古・中世に例がなく、不審とする向きもある。孤例ということになると、原文の「去家人」は「にし家人いへびと」と訓む可能性も探られるべきであろう。「家人いへびと」は、召し使いの下男や下女のことばかりでなく、夫・妻のことも指して使われている。家を出ていった妻、未練の残る妻に逢ったという意になる。次の例は遣新羅使の歌で、家に残してきた妻のことを指している。

 家人いへびとは 帰りはやと 伊波比いはひしま いはひ待つらむ 旅行くわれを〔伊敞妣等波可敞里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和礼乎〕(万3636)

 「にし家人いへびと」という場合の「にし」に「へ(ヘは甲類)」がついた形が「いにしへ」である。この「へ」は、「辺」字で表されるように、オキ(沖)、オク(奥)の対義語である。古典基礎語辞典では、ヘについて詳しく考察している。

 上代の例を見ると、「山辺やまへ」「野辺のへ」「海辺うみへ」「川辺かはへ」「谷辺たにへ」「浜辺はまへ」「島辺しまへ」「磯辺いそへ」「岡辺をかへ」など、「へ」は大きな自然の地形や地勢などを表す言葉に下接して使うことが多い。これらの例によると、「へ」は単にものの端や縁へりの意を表すものではなく、それらの土地と他の土地との境界線、という意味が含まれているように思われる。……格助詞の「へ」が上代には、遠く離れた…の方向を意味するのは、「へ」に中心から外れた境界線の意味があったからであろう。なお、時についていう「春へ」「夕へ」などは、元来は他の時間帯との境界に近い時を表していたと思われるが、「古いにしへ」「昔へ」のように漠然と遠く隔たった方向を示すものもある。ただし、「へ」の時間的用法は限られている。(1067~1068頁、この項、白井清子)

 「昔へ」は古今集の例で、「いにしへ」から派生させた語であろう。「いにしへ」がイニ(往)+シ(回想の助動詞キの連体形)+ヘであるとき、境界線の意味を含んでいるなら、境界まで往ってそこへとどまっていると考えることは、それが時間的用法である点からしてなかなか含蓄がある造語法と考えられる。過去へ向かってどんどん遡って進んで行って際限がないとき、それはまったく知らない太古の世界、天地未分のときのこと、どうなっていたかなど誰にもわからない。そこに至る手前にある境界線のところのことをイニ(往)+シ(回想の助動詞キの連体形)+ヘというのであれば、今と同じく天地の分れた世界が広がっている。だが、なにせ現在のこの位置からはとても離れたことなので、話には聞いてはいるが到底確かめようもないこと、先生に聞いてもそうらしいとしか知らないと答えられてしまうことなのである。無責任なことを言うのにもってこいの冠辞になり得る。他方、「昔」の場合は、先生(師)に聞いたらそのとおりだと自信をもって答えてくることである。先生というのは理屈をつける人間で、地口的理屈、駄洒落による解決(注5)がつけばそれでいいという人間のことである。

 いにしへよ しのひにければ 霍公鳥ほととぎす 鳴く声聞きて こひしきものを〔伊尓之敞欲之怒比尓家礼婆保等登伎須奈久許恵伎吉弖古非之吉物乃乎〕(万4119)
 むかしより 言ひけることの 韓国からくにの からくも此処ここに 別れするかも〔牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久尓能可良久毛己許尓和可礼須留可聞〕(万3695)

 以上から、上代におけるイニシヘ(古)とムカシ(昔)という語の概念は、大野晋説が正しいことが検証された。

(注)
(注1)多田2024.は、「ムカシとは、現在とは断絶された過去を意味する。現在にまでつながると意識されるイニシへとは区別される。この理解は、西郷信綱……の所説に拠っており、まったく正反対の理解に立つ大野晋氏の説……は、成り立たないと考える。」(9頁)とし、「昔者むかし娘子をとめありけり。あざなさくらとなむいひける〔昔者有娘子、字曰櫻兒也〕」(万3786題詞)と訓む実験的な試みをしている。万葉集巻十六の題詞、左注に現れる「昔(者)有〔人物〕。……也」の「ムカシとは、物語的な伝誦内容の提示で、聞き手(読み手)の眼前に引き出された過去の時空を意味する。」(同頁)としている。現在とは断絶された過去のことを現在によみがえらせて巻十六の物語的な題詞(左注)を伴う歌はできていると見、後の歌物語の始発的形態であるかのように捉えている。
 一般には、「昔者むかし娘子をとめありき。あざなさくらふ。」(万3786題詞)と訓まれている。この訓みに問題はなく、万葉集は歌集であって物語文学ではない。中古に「昔、男有りけり。」という場合でさえ、そこに現れる「昔」は現在と断絶されているとは考えにくいことは、「昔、神有りけり。」とは言いそうにないことからも確かであろう。「此の剣はむかし素戔鳴尊のみもとに在り。〔此剣昔在素戔鳴尊許。〕」(神代紀第八段一書第三)、「是の矢は、むかし我が天稚彦あめわかひこに賜ひし矢なり。〔是矢則昔我賜天稚彦之矢也。〕」という場合、以前の所有者はスサノヲであった、以前私がアメワカヒコに与えた矢だと、同一の剣や矢について語っており連続性を保っている。多田氏の見解、物語的な題詞(左注)の捉え方には無理がある。
(注2)西郷氏も、「作者の名にかけてこう歌ったのかも知れぬ」(同117頁)と気にはかけている。
(注3)この歌は近江宮を回顧した歌であり、そこは天智天皇(中大兄)が都したところである。蘇我入鹿斬殺時、同じく「古人」という名を持っていた古人大兄皇子は中大兄に関して言葉を残している。「古人大兄、見てわたくしの宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人からひと鞍作臣くらつくりおみ[蘇我入鹿]を殺しつ。韓の政に因りてつみせらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、かどして出でづ。」(皇極紀四年六月八日)。当時の人たちが共有している意味の積み重ねのなかで歌われた歌である。拙稿「近江荒都歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/371240f8c832f38960716305b86a7a42参照。
(注4)古典基礎語辞典に、「遥か遠くに過ぎ去っていて、伝承などで自分がその時点のことを聞いていても確かめることのできない過去をいう。」(137頁、この項、白井清子)と明確化されている。
(注5)今日的な評価からすれば低いものとなるが、上代の人にとっては高い評価を受けていたと思われる。当時用いられていた言語、ヤマトコトバは、きわめて論理学的に使用されていたからである。科学的検証ばかりでなく、文字に頼る典拠調べも知らなかった時代、唯一確からしいと判断することができる論拠は、それがどういう言葉(音)であるかにかかっていた。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第3巻 記紀神話・古代研究Ⅲ 古代論集』平凡社、2011年。(『神話と国家─古代論集─』平凡社、1977年。)
多田2024. 多田一臣「巻十六 いま何が問題か」『上代文学』第132号、2024年3月。

※本稿の脱稿後、2024年6月に田口尚幸氏の以下の論文を目にした。参照されたい。
「上代におけるイニシヘ/ムカシの使い分け─イニシヘ断絶/ムカシ連続説の妥当性および『伊勢物語』への流れ─」『国語国文学報』第73集、2015年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリ
http://hdl.handle.net/10424/5817
「上代におけるイニシヘ/ムカシの使い分け(続)─『常陸国風土記』にイニシヘ断絶/ムカシ連続説を適用することの妥当性─」『愛知教育大学研究報告(人文・社会科学)』第65輯、2016年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10424/6485
「上代におけるイニシヘ/ムカシの使い分け(続々) ―『日本書紀』にイニシヘ断絶/ムカシ連続説を適用することの妥当性―」『国語国文学報』第74集、2016年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリ
http://hdl.handle.net/10424/6555
「イニシヘ断絶/ムカシ連続説でわかること─『日本書紀』『万葉集』『常陸国風土記』『伊勢物語』を例にして─」『国語国文学報』第75集、2017年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリ
http://hdl.handle.net/10424/7007
「イニシヘ断絶/ムカシ連続説でわかること(続)─上代から中古の『土佐日記』『古今集』『後撰集』『伊勢物語』『竹取物語』への継承─」『国語国文学報』第78集、2020年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10424/00008810

近江荒都歌について

2024年05月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集
「近江荒都歌」?

 万葉集の研究者によって「近江荒都歌」と呼ばれる歌は、万葉集巻一の29~31番歌、柿本人麻呂の初出の歌である。壬申の乱後に廃墟と化した近江大津宮を悼んで詠んだ歌であると考えられている。自然との対比によって旧都への悲しみの情が際立てられているとし、表現が繰り返され、反復されることによって強調され、深化して行っているとされている。さらに、反歌二首では擬人法が用いられ、前半に自然、後半に人事が語られている。逆説の助詞「ど」「とも」が有効に活用されているという。全体として、「挽歌」的と捉える向き(注1)と、歴史叙述として時間を主題化した歌であるとする向き(注2)と、廃墟詠として漢詩の影響を見る向き(注3)などがある。
 「挽歌」と捉えることには難がある。万葉集の部立ぶだてとして、巻二の「挽歌」に類別されず、巻一の「雑歌」に入っている。歴史叙述と捉えることも難しい。天皇の所在地を示す「宮」の歌を詠んだ歌が、「藤原宮御宇天皇代」という標目のもと、行幸時の歌を含めて万28~44番歌に羅列されていて、そのなかに登場した歌が万29〜31番歌である。一つの歌のなかに昔日のことを思うことがあっても、ただちに歴史「叙述」であるなどと言うことはできない。歌の調子には叙事詩の片鱗すら見えない(注4)。漢詩の影響があると決めることは、反証不可能な点で学問的ではない。山上憶良には万葉集の「序」に漢詩文を見ることができても、人麻呂にはその欠片もなく、彼の作った漢詩が懐風藻に載っているわけでもない。
 現代の人が万葉歌の解釈を再解釈していかなる象牙の塔を建てようが、上代の人の考えとは無縁のことである。万葉集のこの部分を撰録した人は、「宮」の歌のアンソロジーを「雑歌」の部類において編纂しようとしていた。どういう意図かはともかく、そこから離れてはならない。すなわち、「近江荒都歌」として柿本人麻呂の万29~31番歌ばかりを抽出するのは、撰者の目指したものと異なるのである。万葉集研究の本来の課題は、高市古人(高市黒人)の万32・33番歌までを含めて、近江大津宮を藤原京時代にどのように捉えていたかについて考えることであろう。歌の表現方法がどうであったかということは、後から振り返ってみて受け取れるというに過ぎない。そもそものはじめに、その歌を歌わんとしたきっかけ、主旨、本意、目的がどうであったかについて考えなければ、万葉集の歌を理解したことにはならない。
 そこで、一人歩きしてしまった「近江荒都歌」という眼鏡を外し、高市古人の歌まで含める形で、藤原京時代における近江京認識の歌(以下、「近江京認識歌」と仮称する)として捉え直すことにする。参考のため新大系文庫本の訓みと訳を引く(76〜81頁)。

  近江あふみ荒都くわうとよきりし時に、柿本かきのもとの朝臣あそみ人麻呂ひとまろの作りし歌
  〔近江の荒れた都に立ち寄った時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌〕
 玉だすき 畝傍うねびの山の 橿原かしはらの ひじりの御代みよ或いは云ふ、「宮ゆ」 れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに あめの下 知らしめししを 或いは云ふ、「めしける」 そらにみつ 大和やまとを置きて あをによし 奈良山を越え 或いは云ふ、「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」 いかさまに 思ほしめせか 或いは云ふ、「思ほしけめか」 あまざかる ひなにはあれど いはばしる 近江あふみの国の 楽浪ささなみの 大津おほつの宮に あめの下 知らしめしけむ 天皇すめろきの  神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁くひたる かすみち 春日はるひれる 或いは云ふ、「霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる」 ももしきの 大宮所おほみやところ 見れば悲しも 或いは云ふ、「見ればさぶしも」(万29)
 〔(玉だすき)畝傍の山の、橿原の聖なる神武天皇の御代から〈或る本には「宮から」と言う〉、お生まれになった歴代の天皇が、(つがの木の)次々に続いて、天下を治められたのに〈或る本には「治めて来られた」と言う〉、(天にみつ)大和を捨てて、(あをによし)奈良山を越え〈或る本には「(そらみつ)大和を捨て、(あをによし)奈良山を越えて」と言う〉どのようにお考えになったものか〈或る本には「お考えになられたのだろうか」と言う〉、(あまざかる)辺鄙な田舎ではあるが、(いはばしる)近江の国の、楽浪(なみささの大津の都で、天下をお治めになった、あの天智天皇の旧都はここだと聞くけれど、宮殿はここだと言うけれど、春の草がびっしり生えている、霞が立って春の日が霞んでいる〈或る本には「霞が立って春の日が霞んでいるせいか、夏草が茂っているからだろうか」と言う〉、(ももしきの)この都の跡を見ると悲しい或る本〈或る本には「見ると心がふさぎこんでしまう」と言う〉。〕
 楽浪ささなみの 志賀しが唐崎からさき さきくあれど 大宮人おほみやひとの 船待ちかねつ(万30)
 〔楽浪の志賀の唐崎は、今も無事で変わらぬが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている。〕
 楽浪ささなみの 志賀の 一に云ふ、「比良ひらの」大わだ よどむとも 昔の人に またもはめやも 一に云ふ、「逢はむと思へや」(万31)
 〔楽浪の志賀の〈一本に「比良の」と言う〉入り江は、今このように淀んでいても、昔の人にまた逢えるだろうか〈一本に「逢うだろうとも思えない」と言う〉。〕
  高市古人たけちのふるひとの、近江あふみ旧堵きうと感傷かんしやうして作りし歌 しよいはく、「高市連たけちのむらじ黒人くろひとなり」といふ
  〔高市の古人が近江旧都の荒れた築地の塀を見て悲しんで作った歌 或る書に、高市連黒人と言う〕
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの 古きみやこを 見れば悲しき(万32)
 〔私は古(しへいにの人なのだろうか。楽浪の古い都の跡を見ると悲しい。〕
 楽浪ささなみの 国つ御神みかみの うらさびて 荒れたるみやこ 見れば悲しも(万33)
 〔楽浪の土地の神様の威勢が衰えて、すっかり荒れてしまった古い都を見ると悲しい。〕(注5)

 「近江京認識歌」について、これまでの「近江荒都歌」の捉え方、壬申の乱によって廃墟と化したことを悲しむ歌であるという見方を踏襲できるだろうか。人麻呂作歌に限ったところで、筆者は否定的に考える。万29番の長歌の中で、「いかさまに思ほしめせか」と歌っているのは、どのようにお思いになって都を近江へ遷都されたのだろうか、という意味である(注6)
 自問することから歌い出されている。そして、その問いに自答する形でだらだらと字句が並んでいる。ぐだぐだの字句に足元をすくわれずに全体を俯瞰すれば、藤原京時代、近江京のことをどのように認識していたかが語られている。どうしてあんな辺鄙なところへ都を移す必要があったのか、いま打ち捨てられて草ぼうぼうに荒れているではないか、と言うに尽きている。
 近江遷都は天智天皇の治世のことである。何を思ってのことかと問われているのだから、その時のこと、天智六年(655年)のことを言っているのであって、天武元年(660年)の壬申の乱とは無関係である(注7)

ささなみ(楽浪)

 「いかさまに思ほしめせか」の問いについて、答えは与えられないままに歌が終わっていると考えられてきた。しかし、「近江京認識歌」には五首すべてに特徴的な字句、キーワードが含まれている。「ささなみの」である。柿本人麻呂にも高市古人にも共通の認識があった。そこが「ささなみ」の地であったから、そんな辺鄙なところへ都を遷したのだと考えていたと理解される。
 「ささなみ」は今の滋賀県南部、琵琶湖の西南岸を広く指す地名であるとされている。そう考えられて構わないのであるが、「近江京認識歌」の地名表現は冗長に過ぎる。

 近江の国の ささなみの 大津の宮(万29)
 ささなみの 志賀の唐崎(万30)
 ささなみの 志賀の〈一に云はく、比良の〉大わだ(万31)
 ささなみの 古き京(万32)
 ささなみの 国つ御神(万33)

 単に地名を表すのであるなら、万29~31番歌において、「ささなみの」という語は無くても通じる。日本書紀では、「五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥に、近江国に幸して、志賀にしますこと三歳みとせ、是を高穴穂宮たかあなほのみやまをす。」(景行紀五十八年二月)とあり、「ささなみの」と冠されていない。定型的な枕詞ではないとすると、逆に「近江の国の」(万29)、「志賀の」(万30・31)はなくても構わないように思われる。「志賀」は、二十巻本和名抄に、近江国の郡名として「滋賀〈志賀〉」と見え、ほかに、栗本、甲賀、野洲、蒲生かまふ、神﨑、愛智えち、犬上、坂田、浅井、伊賀いがこ、高島の諸郡が記されている。滋賀郡内の郷名としては、古市ふるち、真野、大友、錦部にしこりと記されている。今の滋賀県南部の琵琶湖の西南岸を広く指す地名が「志賀」のようである。どうして「ささなみの」と言いたがるのか、それが謎を解くヒントである。柿本人麻呂が「過近江荒都時」に感を覚えて歌いたかった点は、「ささなみ」であったろう。荒れ果てた近江の旧都を歌い、長歌の最終的結論として「見れば悲しも 或いは云ふ、「見ればさぶしも」」と言っている。
 ヨーロッパの石造建築物と違い、利用されなくなったからといって廃墟となって目にするわけではない。建材は多く新都へと運ばれて再利用された。「近江荒都」の光景は草がぼうぼうに生い茂っているばかりである。それを見て悲しい、寂しいと言っている。壬申の乱で焼失した建物が仮にあったとしても、柿本人麻呂は焼け焦げた残骸を見ているわけではない。草ぼうぼうの所など田舎へ行けばいくらでもある。たまたまそこが一昔前に都であったというだけである。人麻呂の耽る感傷の表現は、枕詞を多用しながらぐだぐだと歌っているだけである。言葉に新鮮味はなく、歌いたいことは「ささなみの」の一語に尽きるようである。「ささなみの」という言葉を歌いたいから歌を作っている。基本はそこにある。端的には、それ以外の言葉は歌い回すために並べられているに過ぎない(注8)
 「いかさまに思しめせか」という問いの答えが「ささなみ」ということである。何がどうしてなんだろうかというのは、大和地方、今の奈良盆地に都があったのに、近江国へ遷都した理由を問うているのである。その間の事情は、歴史的に東アジア世界の外交情勢による。滅亡した百済の再興を目指すために朝鮮半島に出兵し、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、敗戦国として要求を受け入れざるを得なかった。白村江の戦いの後、朝鮮半島では唐と新羅が反目して対立する構図となっていた。百済の旧地を領有していた唐は、それまでは連合していた新羅から攻撃を受け、物資の補給路は黄海を跨がなければならず窮地に立たされている。ヤマトは唐側につき、百済の鎮将劉仁願の顧問団に従うことになっていた。ヤマトは百済との同盟関係から、唐との同盟関係へと舵を切り、一貫して新羅に対抗したのである。唐の顧問団からの指導によって、太宰府付近には水城みづきが築造され、各地に山城や烽火台も設営されている。さらに、都を大和の地から近江へ遷している。遷都にどのような理由や意味があったのか、歴史学に議論されている(注9)が、十分に理解されているとは言えない。
 万葉集では額田王の歌に近江遷都の歌(万17~19)がある。天智称制時代、667年に遷都する際に歌われた。宮廷内にも反対意見があったため、それを宥めるためにも歌が歌われたのだろう。柿本人麻呂や高市古人の歌は、持統朝の694年以降に作られたと考えられる。673年に飛鳥浄御原宮で天武天皇は即位し、694年に持統天皇は藤原宮に遷都している。「近江京認識歌」の一つ前が持統天皇の御製歌で、その前にある標目に「藤原宮御宇天皇代〈高天原廣野姫天皇元年丁亥、十一年譲‐位軽太子、尊号曰太上天皇〉 」とある。標目に従って時代を推定することは適切であろう。近江京が捨てられてから20年の歳月が経過している。20年経てば朽ちるものは朽ちていた。都があったとは思われない荒れ方であり、廃墟景を詠じたものではない。すなわち、柿本人麻呂や高市古人の言わんとしていることは、額田王が訴えていたことと同じである。途中、壬申の乱という内乱があり、天皇も変わってはいるが、天皇制という体制が変わったわけではなくヤマト朝廷は継続している。近江大津宮への遷都は、ヤマトの人々にとって、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで行われたものであると思われていた。その理由は何であったのかを、今さらながら歌にしている。その答えが「ささなみ」である。
 ササナミの表記に、「楽浪」(万29・30・32・33)と記されている。ササを「楽」と記すのは、神楽で「ささ」と囃すことによるとも、神楽の採り物に笹葉を用いたからとも、楽器のささらによるとも考えられている。これらの説は、ササを「楽」と記す説としては正しいが、「ささなみ」と記すときに「楽浪」とする点に答えておらず、今日まで検討されたことがない。「ささなみ」の表記は次のとおりである。

 楽浪(万29・30・32・33・218・305(注10)・1715・3240)
 神楽浪(万154・206・1253)
 神楽声浪(万1398)
 左散難弥(万31)
 佐左浪(万1170)
 左佐浪(万1170)
 狭狭浪(神功紀元年三月)
 筱浪(天武紀元年七月)
 沙沙那美(仲哀記)
 佐々那美(応神記、記42)

 「楽浪」とは、前漢の武帝時代に版図が朝鮮半島に及んだとき、そこに置かれた郡の名である。漢書・地理誌に、「楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ。(楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。)」と見えるのが、中国の正史における本邦の初見である。白村江の戦い前後においても、中華帝国は版図を朝鮮半島に広げている。ヤマトの人たちにとっては、旧百済の地を支配した唐の出先機関は、往年の楽浪郡に当たるものと考えたのであろう。その唐に付き従うのであれば、都は「ささなみ」の地、今の滋賀県南部に移さざるを得ないと感じられたものと思われる。ヤマトの人にしか通じないなぞなぞなのであるが、当時、ヤマトの人の使っていたヤマトコトバは、文字ならびに文字文化を学び始めた段階にあった。初めて接する漢字表現に、思考が絡みとらわれていたと考えられる。そう分かるのは、柿本人麻呂自身が、「いかさまに思ほしめせか」と表現しているからである。推測したことは、漢字文化圏に中華帝国の楽浪郡の人達に従うために、ヤマトの楽浪郡に都をおけば良いということである。合理性から言えば論外の論理展開である(注11)が、絡め取られているから仕方がない。政権のトップにいた天智天皇等がそう考えて決め、なぞなぞ的論理からは正しいと認めざるを得なかったから皆従ったということであろう。

題詞の「過」

 今、柿本人麻呂は近江大津宮の旧跡地を訪れている。題詞に「過」という言葉で状況が語られている。この語をどう訓むかについては、実は未だ決定できていない。「ぐ」と訓む説と「よきる」と訓む説が並立している。「よぎる」という言葉は上代では清音であった。対象が場所である場合の例をあげる。

スグ
 ①ある場所やそこが視界に入る付近、ある道筋を通ってその先へ行ってその場所から離れていく。通過する。通って去る。
 いすかみ 布留ふるを過ぎて 薦枕こもまくら 高橋過ぎ ……(武烈前紀、紀94)
 新治にひはり 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる(景行記、記25)
 …… あをによし 奈良を過ぎ 小楯をだて やまとを過ぎ ……(仁徳記、記58)
 因りて曰はく、「これよりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其のみつゑを投げたまふ。(神代紀第五段一書第六)
 青駒の 足掻あがきを速み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける(万136)
 霍公鳥ほととぎす まづ鳴く朝明あさけ いかにせば かど過ぎじ 語り継ぐまで(万4463)
 珠藻刈る 敏馬みぬめを過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近づきぬ(万250)
 玉藻刈る 乎等女をとめを過ぎて 夏草の 野島が崎に いほりわれは(万3606)(注12)
 (②時間、③衰退、④程度、⑤消去、……) 
ヨキル
 ①前を通り過ぎる。通過する。
 よきりおはしけるよし、ただ今なむ人申すに、驚きながら、……(源氏物語・若紫)
 騎をつらねて相よきる。(猿投本文選正安四年点、左傍訓にスク、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10481687_po_ART0004667295.pdf?contentNo=1&alternativeNo=19)
 ②途中で立ち寄る。通りすがりに訪問する。
 餘は第二十六の客旧相ひよきるの章の説に同じ。(南海寄帰内法伝巻第二、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967414/22)
 死して地獄に過りて、果を楽受せず。(菩薩善戒経・九)
 閻羅の界において三塗の極苦には、復よきらじ。(西大寺本金光明最勝王経平安初期点、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585/85)
 漸く次ぎに城邑聚落に遊行すとして、空沢の中の深く険しき処によきりぬ。(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585/96)
 戊午に、道をよきりて伊勢神宮いせのかむのみやを拝む。(景行紀四十年是歳)
 是の時に、征新羅将軍吉備臣尾代、きて吉備国に至りて家によきりたり。(雄略紀二十三年八月)
 毛野臣の傔人ともなるひと河内馬飼首御狩にあひよきれり。御狩、ひとかどに入り隠れて、ものこふ者のぐるを待ちて、……(継体紀二十三年四月)
 第六度にいたりて日本によきりたまへり。(唐大和上東征伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190773/65)
 呂禄、酈寄を信じ、時にともに出でて游獦し、其の姑呂媭によきる。(史記呂太后本紀、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3439455/27)
 又、旅に盩厔に次し韓士別業によきる詩に云はく、(文鏡秘府論・地、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231578/44?ln=ja)

 スグは、「空間的には、止まるべきところ、立ち寄るべきところに、止まらず、立ち寄らず、先に進む意。」(古典基礎語辞典637頁、この項、須山名保子。)、「ある一点をはさんで、その一方の側から他の側へ移動する意を示す。……通過する。寄らずに通りすぎる。移動の意が強い場合と、そこに留まらない意が強い場合がある。」(時代別国語大辞典384頁)と解説されている(注13)
 これらの例から考えてみても、万29番歌の前に記されている題詞の「過」は、ヨキルの②の用例と捉えるのがふさわしいであろう(注14)。柿本人麻呂は、所用があってどこか東海道へ赴く際、途中で近江大津京に立ち寄った。そこで歌を詠んだ。一人で出かけたわけではなく、ある程度の人数の人とともに出掛け、せっかくだから寄って行こうと訪れて、都の面影がなくなっていたことに感慨を覚える人たちを前に歌を歌ったということであろう。歌うには手控えがあって、どう歌おうか草稿段階のものも残されていた。それを都へ持ち帰ったために、異伝も伝わっているのではないか。
 都があったとは思われない荒れた情景を前にして思うことは皆同じで、どうしてまたこんなところに遷都したものかねぇ、というものだったのだろう。それは、天智天皇が遷都しようとしていた時の状況と変わるものではない。まったくもって、「いかさまに思ほしめせか」としか言いようがない。その答えはわかっている。当時の国際的な緊張情勢から遷都は行われたのであり、いまさら歴史を塗り替えることはできないし、目の前の光景は元の木阿弥の草ぼうぼうである。単に都のことを歌っているばかりで、壬申の乱の兵どもが夢の跡を見ているのではない。言葉の羅列が長々と続くため、今日の人には挽歌的に聞こえたり、歴史叙述的に聞こえるかもしれないが、それは今日の人々の受け取り方にかかるばかりである。万葉集巻一のこれらの部分を録した編纂者にとって、およそ考え容れないことであった。
 「楽」浪といかにも楽しそうな字面をしているが、そこで開かれていた宴も歌舞音曲も、ヤマト朝廷の人々にとっては心から楽しむには落ち着かない時代であったと、20年以上前のことを振り返ってみて言えるのである。二つの反歌に「大宮人」、つまり、宮廷の人たちが船遊びをしたように歌われているが、あまり楽しいものではなかったということである。なぜなら、白村江の戦いでは船戦において敗れたのである。白村江の想定外の干満差になすすべを知らず、惨敗を喫している(注15)
左:銭塘江の海嘯(CCTV Video News Agency様「Largest Qiantang River Tidal Bores in Ten Years」をトリミング)、右:ささなみの比良岳(西田繁造編『日本名勝旧蹟産業写真集 近畿地方之部』富田屋書店、大正7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967085/18)
 「ささなみ」程度の穏やかな波のところで静かにしていなさいという神のお告げであったと納得して、内海である琵琶湖、「淡海」国に遷都したとも言えそうである。「近江京認識歌」は、当時の人々の認識に合致する歌を歌ったものである。認知的不協和を生まずに聞き入れられている。

古人ふるひとに われ有るらめや(万32)

  高市古人たけちのふるひとの、近江あふみ旧堵きうと感傷かんしやうして作りし歌 しよいはく、「高市連たけちのむらじ黒人くろひとなり」といふ
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの 古きみやこを 見れば悲しき(万32)

 今日行われている上のような訓読は、とても不思議なものである。原文は次のようにある。
 古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸
 西本願寺本、寛永版本に、「古人尓ふるひとに 和礼有哉われあるらめや 樂浪乃ささなみの 故京乎ふるきみやこを 見者悲寸みれはかなしき」(国文学資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200000985/22?ln=ja)とあり、意味が通じている。歌の作者に「高市古人」、あるいは「高市連黒人」であろうと注されている。歌意は、私は「古人」という名を負っていて、きっとそれを体現するように歳をとった古い人間であるからか、古い都を見ると悲しい、という意味である。フルという音が連ならなければ、この歌を聞いただけで直ちに納得することはできない。「ふるひと」は、第一に古老のことである。昔のことを知らない人には、大津京の存在すら不明である。廃墟の姿が焼けた柱や礎石に見えるのではなく、草ぼうぼうなばかりだからである。
 第二に、古人大兄皇子のことが思い浮かぶ。舒明天皇の子で、中大兄(天智天皇)の異母兄弟に当たる。大化改新時の逸話が語り継がれている。宮殿上で皇極天皇の次に席していた。その時、前庭で蘇我入鹿暗殺事件が起こっている。天皇は中大兄に何事かと問うて問答をしたのち、「天皇、即ちちて殿のうちに入りたまふ。」こととなり、一方、「古人大兄、見てわたくしの宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人からひと鞍作臣くらつくりおみ[蘇我入鹿]を殺しつ。韓の政に因りてつみせらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、かどして出でづ。」(皇極紀四年六月八日)ことになっている。彼は中大兄(天智天皇)のことを、「韓人」と定義している(注16)。その後、十四日には、天皇位に就くように軽皇子(孝徳天皇)から薦められたが固辞し、出家して吉野山に入った。同年九月十二日には謀反人として殺されている。
 今思い返してみれば、「古人」皇子が言っていたように、確かに先帝、天智天皇(中大兄)はカラヒトであった。カラ(唐)の政に従って「楽浪」の地に遷都するようなかぶれたことをしていたものだ、という意味にとることができる。私は「古人」だからだろうか、「楽浪」が「韓政からのまつりごと」に因るところで、ラクラウ(楽浪)に合わせてササナミ(楽浪)の地が求められていたことが今よくわかる、まったく悲しいことよ、と歌っているわけである。
 「いにしへのひと」という訓はいただけない。「にし」という語は、我々生きている人にとってたどり着くことのできないほど太古のことを表すからである。古典基礎語辞典に、「遥か遠くに過ぎ去っていて、伝承などで自分がその時点のことを聞いていても確かめることのできない過去をいう。」(137頁、この項、白井清子)とある。万葉集では「いにしへのひと」ははるかに離れた存在として伝説上の人物を指し、またそれが中国のことである例もあり、また、まったく漠としか想像できない昔人のことを言っている。

 いにしへの大き聖(万339)…魏の徐邈じょばく
 古の七のさかしき人ども(万340)…竹林の七賢
 古にやな打つ人(万387)…拓枝伝の味稲うましね
 古の賢しき人(万3791)…孝子伝の原穀(原谷)
 古のますらをとこ(万1801)…葦屋のうなひ処女をとめを争った男
 古の小竹田しのだをとこ(万1802)…同
 古に ありけむ人も 吾がごとか 妹に恋ひつつ 宿ねかてずけむ(万497)
 今のみの 行事わざにはあらず 古の 人ぞまさりて にさへ泣きし(万498)
 妹が紐 結八河内ゆふやかふちを 古の 皆人見きと ここを誰れ知る(万1115)
 古に ありけむ人も 吾がごとか 三輪の桧原ひはらに 挿頭かざし折りけむ(万1118)
 古に ありけむ人の 求めつつ きぬに摺りけむ 真野の榛原はりはら(万1166)
 古の 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(万1725)
 古の 人の植ゑけむ 杉がに 霞たなびく 春はぬらし(万1814)(注17)

おわりに

 以上見てきたように、「過近江荒都時、柿本朝臣人麻呂作歌」、「高市古人感‐傷近江舊堵作歌」の五首の歌は「近江京認識歌」であった。 藤原京に遷都後の持統朝において、20年以上前に置かれていた近江京のことを人々がどのように思っていたか、その共有している認識について、旧都の地を訪れて歌に表したものなのである。柿本人麻呂が近江京が荒れた姿をしているのを見て、他の人にない表現方法をとって独創的な歌にしたという考え方は、 その基盤の据え方からしてあやしい。歌は誰かに聞かれなければ歌ではなかった。誰かが聞いた時、聞いた人に共感されなければ歌として創立しえない。筆記されて伝えられてはいるが、個人的な作詞練習ではなく、書いたものを誰かに見せて見た人が楽しんだというものでもない。歌われた瞬間、即座にそうだそうだと認められなければ、それは相手にされていないということであり、歌として不成立である。コミュニケーションが成り立っていなかったら、万葉集に採録されるはずがない。権威に基づく資格ということではなく、最初から意味を持たないということである。すなわち、万葉集の、少なくともこの部分以前にある歌は、政治的合理性を歌った歌であると考えられるのである。どのようにお思いになってこの辺鄙な近江の地に都を遷されたのか、それは「ささなみ」が「楽浪」郡を示唆するからだった、そうだそうだ、そういうことだった、と聞いている人を巻き込み、その場にいる人々皆が皆ヤマトコトバのなかで腑に落ちた。なぞなぞの答えが解けたのである。その次第を歌にしたものが「近江京認識歌」なのである。

(注)
(注1)挽歌と捉えるのに好都合な歌として、巻第九の「挽歌」の部立の冒頭歌に、「宇治若郎子うぢのわきいらつこ宮所みやどころの歌一首」「妹らがり 今木いまきの嶺に 茂り立つ 嬬松つままつの木は 古人ふるひと見けむ」(万1795)がある。ただし、宇治若郎子はダシに使われて二重重ねになっているばかりで、「今木」に「今来いまき」ばかりでなく、「今城いまき(キは乙類)」、奥つの城のことを懸けているところがこの歌の眼目である。
(注2)例えば、神野志1992.。
(注3)辰巳1995.。
(注4)青木1998.参照。
(注5)原文は以下のとおりである。

  過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世従〈或云自宮〉阿礼座師神之盡樛木乃弥継嗣尓天下所知食之乎〈或云食来〉天尓満倭乎置而青丹吉平山乎超〈或云虚見倭乎置青丹吉平山超而〉何方御念食可〈或云所念計米可〉天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮尓天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流〈或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留〉百磯城之大宮處見者悲毛〈或云見者左夫思母〉
 樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之舩麻知兼津
 左散難弥乃志我能〈一云比良乃〉大和太与杼六友昔人二亦母相目八毛〈一云将會跡母戸八〉
  高市古人感傷近江舊堵作歌〈或書云高市連黑人〉
 古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸
 樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛

(注6)木下1962.に、「大雑把に言へば、……イカニはドノヤウニ ‘how’ であり、……ナニ以下はドウシテ、ナゼ ‘why’ の区別がある。」(3頁、漢字の旧字体は改めた)に従うなら、「いかさまに思ほしめせか」は、‘What did he think?’ であろう。嫌味な言い方として、How do you think?(自分で考えればわかるでしょう?)という言い方もあり、そう受け取ることもできないことではない。言葉が持つ両義性の領域に入る。契沖・万葉集代匠記にも、「いかさまにおぼしめしてかといふによりて見れば、此帝の都を遷し給ふ事を少し謗れるか、民のねがはざること題の 下に引ける天智紀の如し、摠じて都を遷す事は古より民の嫌へる事なり、史記殷本紀曰、……、況や上に引ける孝徳紀にいへる如く、豊碕ノ宮をば嫌ひ給ひて、倭京にかへらせ給ふべき由、奏請したまひながら、御みづからは又あらぬ方へ都を移させ給ふ、不審の事なり、又按ずるに、第二第十三に も、いかさまに思し食てかといへるは、たゞ御心のはかりがたきを云へり、殊に今の帝は大織冠と共に謀て蘇我ノ入鹿を誅し給ひ、凡中興の主にてましませば、七廟の中にも太祖に配して永く御国忌を行はる、智證の授决集にも見えたり、然ればたゞ御心のはかりがたき故にも侍らんか、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936702/47~48、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注7)「近江荒都歌」なる誤った枠組みが与えられて、その表現が挽歌的であるとしたり、天智天皇と天武天皇とを天秤にかけて、時の持統天皇に歌いかけた離れ技であると誤解されるに及んでいる。寺川2003.に、持統天皇の思いを「忖度し」(24頁)ているとある。
(注8)柿本人麻呂は長歌を“得意”としたが、彼は門付け歌人に過ぎなかったから、聞いてもらいたくてワーワー騒いでいるのである。今日から考えて表現がうまいかどうかという点は、その後に来る活動(meta-poetry)であり、当時の人たちにどのように評価されたか不明である。経歴等も史書に一切記載がない。
(注9)諸説ある。白村江の敗戦によって防衛力を強化するため、戦勝国である唐の要求による、交通上の要衝で高句麗との連絡や蝦夷を意識した、渡来人が多く居住していて生産力が高かった、旧勢力の本拠地飛鳥から離れようとした、飛鳥の地における再開発の頭打ちとなって生産力が低下したため、近江にも大王家の基盤を求めたため、秦の始皇帝の真似をして水徳を主張して水の都を建設した、などといった説があり、それらの複合したものであるとも唱えられている。「遷都理由に断案だんあんはない」(森2002.83頁)のが現状である。
(注10)万305番歌は「近江京認識歌」の一員である。「楽浪」が意識的に用字されている。

  高市連黒人の近江旧都の歌一首
 かくゆゑに 見じと云ふものを 楽浪ささなみの ふるき都を 見せつつもとな〔如是故尓不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名〕(万305)
  右の歌は或る本に少弁の作なりと曰ふ。未だ此の少弁なる者は審らかならず。

(注11)口承文化から文字文化への移行の段階において、なぞなぞ段階があったということはこれまで論じられたことはない。けれども、我々は容易にその事実について気づくことができる。幼少期の子どもは、口承文化から文字文化へ移行していっている。その間、文字を習い始める過程において、小学校低学年を中心に、特異な傾向としてなぞなぞが興味津々に楽しまれている。同じ現象が飛鳥時代の人々に起きていたと考える。ヤマトコトバと訓義を表す漢字との、絡み合いを楽しむやりとりが行われていたと推測される。
 コナトン2011.の「社会の記憶」に関する次の論考のうち、「経済化 economisation」は「省力化」のこと、「懐疑論 scepticism」は「ほんまかいな?」のことであると捉えてかまわないであろう。そして、コミュニティの記憶の構成要素として、「記念式典」と「身体」とを社会の記憶の特質として検討を進めている。万葉集の「雑歌」とは何かと問われれば、「記念式典」に当たって口承の伝達の役割を果たすものであったと定めることができると考える。
 「社会の記憶に対する文書化ライティング影響インパクトはしばしば論じられ、それが非常に大きかったことは明らかである……。口承文化から文字文化への移行は、具体化の実践から表記の実践への移行を意味する。文書化の影響は、表記によって伝えられる物語はすべて変更できないほど確立される事実、その構成過程が閉鎖的である事実から来るものである。スタンダード版や正典はこの典型である。この不変性こそが変革イノベーションを促すバネとなる。文化の記憶が「生の」語りではなく、その表記の再生産によって伝達されるようになると、即興はますます困難になり、変革は制度化される。音声表記は経済化と懐疑論という二つの過程を促進することによって文化的変革をはかる。ここでの経済化とは、コミュニティの記憶が韻律という形式への依存から解放されることである……。懐疑論とは、コミュニティの記憶の内容が系統的システマティックな批評の対象になることである……。」(134頁。わかりにくいので原文を付す。The impact of writing on social memory is much written about and evidently vast. The transition from an oral culture to a literate culture is a transition from incorporating practices to inscribing practices. The impact of writing depends upon the fact that any account which is transmitted by means of inscriptions is unalterably fixed, the process of its composition being definitively closed. The standard edition and the canonic work are the emblems of this condition. This fixity is the spring that releases innovation. When the memories of a culture begin to be transmitted mainly by the reproduction of their inscriptions rather than by 'live' tellings, improvisation becomes increasingly difficult and innovation is institutionalised. Phonetic writing generates cultural innovation by promoting two processes: economisation and scepticism. Economisation: because the form of communal memory is freed from its dependence on rhythm. Scepticism: because the content of communal memory is subjected to systematic criticism. pp.75-76. ともに(注)部分は割愛した)。
 また、「文化の継承において、その構成に不自然や矛盾と感じることがあっても、それを明らかに口にすることははばかられる。……その矛盾が文化への永続的な影響を生むとは考えにくい。懐疑論は個別に働くものであり、文化として蓄積するものではないからだ。」(135頁)ともある。「「ささなみ」=「楽浪」=「楽浪郡」」? という「懐疑論」は、日本書紀のような正史文書にはばかられ、口承文化のなかに残滓をとどめている所以である。
(注12)万250・3606番歌は、野島崎近辺のことを歌っている。前者は海路を、後者は陸路を進んでいる。ここは万3606番歌の仮名表記からスグと訓む。万250番歌において、船はどんどん進んで行くなか歌を詠んでいる。船は野島崎に近づきはするが上陸することはないだろう。岩礁が危険だからである。
 「右三首過鞆浦日作歌」(万448左注)とあって「鞆浦」に寄港しており、スグと訓むべきと考えられる。ヨキルと訓むことに抵抗があるのは、「天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首」(万446題詞)中の歌であり、「右二首、過敏馬埼日作謌」(万450左注)ともあって、通過地点であると考えたほうが無難だからである。船に乗っている人の中で一番偉い客であったとしても、ちょっと物見遊山に進路を変更してくれ、上陸させてくれと、船長に言えるものではない。
(注13)西大寺本金光明最勝王経と景行紀四十年是歳条の例は、①②のいずれにも解釈可能であり、辞書に①ととる説と②ととる説がある。スグに、停止しない意があると考えると、伊勢神宮の前を通り過ぎつつ拝むというのは、鳥居から中に入らないで拝むという忙しい現代人の参拝方法になる。
 なお、伊藤1983.に、万29番歌の題詞の「過」は、「集中の他の題詞や左注の「過」の字を検討するに、やはり「立ち寄り(見)つつ通過する」意に解するのが穏当だと思う。」(131頁)とある。それに従う注釈書も多く見られるが、語義を理解しているように見受けられない。ヨキルという語はもとからあるヤマトコトバである。「「く」の再活用語であろう。「避道よきぢ」「曲道よきぢ」という語もある。……道の途中で立寄る。また途中で通り過ぎることをいう。「く」の関係からいえば、目的のところに直行せずに、何らかの理由でわき道する意である。」(白川1995.784頁)。
(注14)万葉集の題詞に、「過」という字は全部で14例あるが、通過(万794、万942、万1800、万3638、万4159)、経過(万886、万3967)、超過(すぐれる、まさる)(万802、万3973)の意味が多く、寄り道して立ち寄る意味のヨキルの例としてあげられるのは、最大限次のものであろうか。

 過勝鹿真間娘子墓時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉〈東俗語云、可豆思賀能麻末能弖胡〉(万431題詞)
 過敏馬浦時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉(万946題詞)
 過敏馬浦作謌一首〈并短哥〉(万1065題詞)
 過葦屋處女墓時作謌一首〈并短謌〉(万1801題詞)

 第二・三例の「敏馬浦みねめのうら」の歌は、散歩に出かけて行って海人の様子を見ている風情がある。第四例は、巻九の「挽謌」のなかにあり、ひとつ前の「過足柄坂死人作歌一首」(万1800題詞)と似たような意味合いなっているが、この場合、「足柄坂」を通過することは当初から旅程の中に入っており、通っていたらたまたま「見死人」ことになったので歌を作ったという意味であろう。一方、「葦屋處女墓」の歌は、そのあたりを通過して長歌と短歌二首を作ったというのではなく、第一例と同じく、お墓があるからお参りしようと出掛けた時に歌を作ったという意味であろう。「葦屋處女墓」を「過」ぎてから先どこへ行こうというものでもないので、ヨキルと訓むのが正しいと考える。
 なお、辰巳1987.に、「人麻呂以後に墓下の作や景勝地での作に「過」を用いるのも、……中国詩の「過」の文学的形態に含まれる作品であることは確かであろう。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3132454/50)とある。題詞と歌との関係は見なければならないが、題詞と中国詩との関係を見なければならないとは筆者は考えない。中国ではそう書いているから、それに倣ってお題を書いておけば良かろう程度のことであると考える。
(注15)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f0d6d7b1f0d734bc459b39e8358d80fc/?img=d61dbb74aa694aebf334b6ffa3c3c319など参照。
 第二反歌に、詠作者の人麻呂ら一行が船に乗って行こうとしているとする説(江富2016.13頁)があるが、趣味が悪いと思われる。竹生・西2006.は疑問を呈するが、「大わだ淀むとも」とは白村江河口の潮流のことを暗示した表現であり、流れが止まっていたらあれほどみじめ敗戦にはならなかったと「修辞的仮定」(大系本萬葉集333頁)により言い表している。日本書紀などにどこにもそのように記されてはいないが、誰しもが言い「淀む」ことであったに違いあるまい。
(注16)拙稿「乙巳の変の三者問答について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/350dc1604d89890309cb462f0216631cなど参照。
(注17)他に、今日「いにしへびと」と訓んでいる例が一つある。

 眉根まよね掻き 下いふかしみ 思へるに 古人いにしへびとを 相見つるかも〔眉根掻 下言借見思有尓去家人乎相見鶴鴨〕(万2614)
  或る本の歌に曰ふ、眉根掻き 誰をか見むと 思ひつつ 長く恋ひし 妹に逢へるかも〔或本哥曰眉根掻誰乎香将見跡思乍氣長戀之妹尓相鴨〕
  一書の歌に曰ふ、眉根掻き 下いふかしみ おもへりし 妹が容儀すがたを 今日見つるかも〔一書歌曰眉根掻下伊布可之美念有之妹之容儀乎今日見都流香裳〕(万2614)

 この歌は、昔なじみの人という意味で「いにしへびと」と訓み、家から去っていった夫のことを言うとされているが、中古・中世に例がなく、不審とする向きもある。他に用例がないのであれば、「にし家人いへびと」と訓むことも気にならない字余りなので可能である。「家人いへびと」は、召し使いの下男や下女のことばかりでなく、夫・妻のことも指して使われている。

 家人は 帰り早来はやこと 伊波比島いはひしま いはひ待つらむ 旅行くわれを〔伊敝妣等波可敝里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和礼乎〕(万3636)

(引用・参考文献)
青木1998. 青木生子「柿本人麻呂の歌の原点─「いかさまに思ほしめせか」をめぐって」『青木生子著作集 第4巻─萬葉挽歌論─』平成10年。
伊藤1983. 伊藤博『萬葉集全注 巻第一』有斐閣、昭和58年。
江富2016. 江富範子「楽浪の歌─近江荒都歌第二反歌をめぐって─」『国語国文』第85巻第7号(983号)、臨川書店、平成28年7月。
木下1962. 木下正俊「『なに』と『いかに』と」『萬葉』第44号、昭和37年7月。萬葉学会HP http://manyoug.jp/memoir
神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
コナトン2011. ポール・コナトン著、芦刈美紀子訳『社会はいかに記憶するか─個人と社会の関係─』新曜社、2011年。(Connerton, Paul. 1989. How Societies Remember, Cambridge University Press, England.)
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。 
竹生・西2006. 竹生政資・西晃央「びわ湖の環流と柿本人麻呂の近江荒都歌」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第11巻第1号、2006年9月。佐賀大学機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1730/00018447/
辰巳1995. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3132454
寺尾2017. 寺尾登志子「人麻呂の近江荒都歌をめぐって─作者の創意と時代背景─」『専修大学人文科学研究所月報』第283号、2017年5月。専修大学学術機関リポジトリhttp://doi.org/10.34360/00007029
寺川2003. 寺川眞知夫「近江荒都歌─その表現の背景─」『万葉古代学研究年報』第一号、奈良県立万葉文化館、2003年3月。奈良県立万葉文化館http://www.manyo.jp/ancient/report/
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
森2003. 森公章「倭国から日本へ」森公章編『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、2003年。
渡瀬2003. 渡瀬昌忠『渡瀬昌忠著作集 第七巻』おうふう、2003年。

(English Summary)
Manyoshu vol.1 has three poems written by KAKINOMOTO no Hitomaro, written by visiting the desolate old capital of Omi. The research of them has focused only on the expression method of KAKINOMOTO no Hitomaro. But considering the appearance of selecting and arranging the Manyoshu, it must be understood that it is a series of the capital of Omi poems including two poems of TAKECHI no Huruhito. In this paper, we will examine that these poems speak of a common sense of how the Yamato court people perceived the former Omi-Kyo during the Fujiwara-Kyo era. The keyword to clarify is the place name "Sasanami", that means ripples, in all poems. It is written as "楽浪" in kanji and it also means Lelang Commandery in China. So, it can be understood that the capital was relocated following the tense international circumstances in East Asia at that time. It was shocking for ancient Japanese people that The Yamato Kingdom, the nation, was defeated by big waves in the Battle of Baekgang.

※本稿は、2021年4月稿を2024年5月に部分的に訂正し、ルビ形式にしたものである。

高橋虫麻呂の龍田山の歌

2024年05月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 一

 万葉集の歌のなかには、いまだに訓みの定まらない歌がある。訓みが定まらなければ、歌全体の完全な理解には至らない。巻九の高橋虫麻呂歌中から出たとされる龍田山歌群もその一例である。

  春三月にもろもろの卿大夫まへつきみたちの、難波なにはくだときうた二首 あはせて短歌〔春三月諸卿大夫等下難波時謌二首并短哥
 白雲しらくもの 龍田たつたの山の たぎの 小桉をぐらみねに 咲きををる 桜の花は 山高み 風しまねば 春雨はるさめの ぎてし降れば は 散り過ぎにけり 下枝しづえに 残れる花は 須臾しましくは 散りなみだれそ 草枕 旅行く君が かへり来るまで〔白雲之龍田山之瀧上之小桉嶺尓開乎為流櫻花者山高風之不息者春雨之継而零者最末枝者落過去祁利下枝尓遺有花者須臾者落莫乱草枕客去君之及還来〕(万1747)
  反歌〔反謌〕
 きは 七日なぬかは過ぎじ 龍田彦たつたひこ ゆめこの花を 風にな散らし〔吾去者七日者不過龍田彦勤此花乎風尓莫落〕(万1748)
 白雲の 龍田の山を 夕暮ゆうぐれに うち越え行けば たぎの 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲きぎぬべし 彼方此方こちごちの 花の盛りに 雖不見左右 君がみゆきは 今にしあるべし〔白雲乃立田山乎夕晩尓打越去者瀧上之櫻花者開有者落過祁里含有者可開継許知期智乃花之盛尓雖不見左右君之三行者今西應有〕(万1749)
  反歌〔反謌〕
 いとまあらば なづさひ渡り むかの 桜の花も 折らましものを〔暇有者魚津柴比渡向峯之櫻花毛折末思物緒〕(万1750)

 訓みが定まらないのは万1749番歌の「雖不見左右」の句である。紀州本等には「雖不見左」ともある。「左右」はマデと訓まれることが多く、五音に収まりきらなくなるために「雖不見左」をとって「ミサレトモ」(紀州本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1143069/1/25)、「さずとも」(多田2009b.382頁)、あるいは「在」の誤りかとされて「あらずとも」(佐佐木信綱・新訓万葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1258483/1/182)、「あらねども」(大系本391頁)、「見えねども」(中西1978.268頁)などと訓まれている(注1)
西本願寺本万葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242438/1/20~21をトリミング合成)
 「雖不見」の例は万610番歌にもあるが、異訓が多い。

 近有者雖不見在乎弥遠君之伊座者有不勝自(万610)

 近くあれば 見ねどもあるを いやとほに 君がいまさば ありかつましじ(新大系文庫本(一)380頁)
 近くあれば 見ねどもあるを いや遠く 君がいまさば 有りかつましじ(伊藤2009.306頁)
 近くあらば 見ずともあらむを いや遠く 君がいまさば ありかつましじ(中西1978.309頁)
 近くあれば 見ずともありしを いや遠に 君がいまさば ありかつましじ(大系本277頁)
 近くあらば 見ずともあるを いや遠く 君がいまさば ありかつましじ(多田2009a.88頁)

 いま問題にしたいのは「雖見」の部分である。ミネドモ説、ミズトモ説に分れている。ドモとトモの違いは、逆接の確定条件か、逆接の仮定条件か、すなわち、事実逢っていないけれども、と、仮に逢わないことになっても、の違いである。「雖」字は万葉集中で、ド、トモ、ドモ、イヘドと訓まれているからいずれにも訓まれ得る(注2)。誤謬を生む曖昧な表記である
 一方、万1749番歌の「雖不見左右」という表記は、正確を期すための綴り方のように見受けられる。訓みを限定するための書き添えとして、「左右」と書いたとする見方である。万葉集中で「左右」はマデに当てることが非常に多い。「左右手まで」(万1189)という例もあり、左右両方の手のことを言うから片手に対してマテ(真手)、よってマデ(迄)に使われている。それ以外に、「左右」をカモカクモ(万399)、カニモカクニモ(万629・3836)、カモカモ(万965・1343)と訓む例があり、万1749番歌の試訓にも見られていた。「左右」はどちらにとってみても、の意味を表したものであろう。すなわち、AでもBでもどちらでも、ということである。条件A、条件Bの二つが与えられた時、どちらもふたつともに適うという意にほかならない。つまり、「左右」の意は、助詞トモの義を表している。「雖見左右」とあれば、「雖」字はドモやトではなく、トモと訓むべきことを「左右」の字が指示している。「左右」の用字は、意味を限定するための添え字的な役割を果たしているようである。
 そのように考えれば、これまで行われた訓のなかで、「さずとも」とする訓み方が最も妥当であるといえる。「…… ふふめるは 咲き継ぎぬべし 彼方此方こちごちの 花の盛りに さずとも 君がみゆきは 今にしあるべし」によって言わんとしているのは、蕾のものは咲き継いでいってあちらこちらに花の盛りなるところができるだろうが、それをご覧にならないままであっても、わが君様が難波へ向かって進み行くことはまさに今であるべきです、という意になる(注3)。花見に興じる(注4)ことなく目的地へ向かうことの是なることを陳述している。
 「みゆき〔三行〕」とあるのは、花見に行くことを言っているのではなく、題詞にあるように「下難波」ことを指している。「みゆき」は偉い人のお出ましであり、それに随行しているのが高橋虫麻呂である。龍田山中にあっても、「みゆき」が目指しているのはただただ難波である。作者高橋虫麻呂の仕えていた関係から、藤原宇合の一行を「みゆき」と見る説も多いが、万葉集で「みゆき」といえば天皇の「行幸みゆき」のことである。天皇の難波行幸があり、少し遅れて難波へ向かった「諸卿大夫等」がいて、それに虫麻呂は付き従ったものと考えられる。遣唐使船が中国へ向かった際にも、船団すべてが同時に行動しているのではなく、先に着く船もあれば遅れる船もあり、難破して到着しない船もある。それらすべてを第○次遣唐使と呼んでいる。同様に、天皇の難波行幸に従っているなかで、天皇の一行から遅れてしまった「諸卿大夫等」の一団があった。あまり遅れてはならないから急いでいるものと思われる。
 だから、道行きの急ぐことに関して、反歌に「いとまあらば ……」という承け方をし、時間があれば向こう側の山の高いところに咲いている桜の枝を(私が)折って来ましょうものを、時間がないのでできません、と言っている。
 その点は歌群の最初、万1747番以降通底している。桜の花が散っているところもあり、咲いているところもあり、帰ってくるまで散らないでいておくれと願い事をしている。万1748番歌に「きは 七日なぬかは過ぎじ」と心づもりの予定を述べて、桜の花を散らせることになるであろう風、その風を司るとされる龍田の神(注5)のことを「龍田彦」と呼び、散らさないでほしいと呼びかけ訴えている。

 二

 筆者の捉え方はすでに述べたところであるが、今日の研究事情では、万1747番歌に「君」とあり、万1748番歌に「吾」とあって、一組の長短歌中に矛盾を含むのではないかと疑問視されている。そのため、長歌は見送りの者の歌、反歌は旅行く者の歌であると解されることもあった(注6)。それに対して、長歌は下僚たる自分を表面に現さず、反歌では自分も含めて一行の意で述べているとする見方もある(注7)。さらには、「旅行く君」、「吾が行く」と対照的に表現する理由は不明であり、万1749・1750番歌、さらには復路にあたる万1751・1752番歌まで絡めて解されるべきとする意見まである(注8)
 この点を精査することは歌の理解に実はとても重要である。筆者は、長歌の「君」を天皇のことと考えている。反歌の「吾」が属する「諸卿大夫等」の一団は、難波へ向かって遅れを挽回すべく急いで旅している。万1749番歌に「君がみゆき」とあるのに「今にしあるべし・・」と「吾」から命令するかのように言っている。下僚の「吾」が「君」に対してそのようなことを言えるものか。唯一考えられるのは、一緒にいる「諸卿大夫」のことを「君」と言うのではなく、先に行ってしまってここにはいない天皇のことを「君」と呼んでいる場合である。天皇は龍田山中の花には目もくれず、難波へと進んでしまって「諸卿大夫等」は遅れをとっている。
 その遅れた責任は「諸卿大夫」にあるといった批判を下僚の分際の虫麻呂が呟くことはない。題詞には「諸卿大夫等」とあり、「等」に含まれるであろう虫麻呂も一蓮托生である。「諸卿大夫等」の総意として歌い、そのとおりだ、うまく言ってくれたと皆に認められたのがこれらの歌群であろう。
 では、なぜ「君」と「吾」とが入り混じる歌い方をしているのか。それは、「君」と「吾」とで決定的な違うところがあるからである。交通手段が違う。「君」は馬に乗っているが、「吾」は徒歩である。どちらが速いか。馬である。どちらが楽か。馬である。万1748番歌において、とんぼ返りで七日以上かからずに帰ってくると決意表明して有意味なのは、徒歩での弾丸ツアーが催行されている「吾」しかいない。だから歌に歌い、同行している騎乗の「諸卿大夫」からおもしろがられ、歌として完成しているのである(注9)
 状況を整理してみよう。道行きの途上で龍田山に通りかかり、桜の花が咲いたところはすでに散ってしまっており、まだ咲いていないところはもう少しすれば咲くだろうといった景色である。だからといって、止まっていようなどと悠長なことは考えていてはいけない。天皇のもとへ、とにかく難波へ向けて急ぎ進まなければならない。しかるに、主旨をそのまま歌にしたとしても、気が焦るばかりでストレスしか感じられない。少しも楽しくないはずなのに歌われていて、「諸卿大夫等」一行の間でおもしろがられている。何がおもしろいのか。それは、語呂合わせがいくつも生まれるからである。
 「諸卿大夫」が騎乗するためには馬の背に「鞍」を置く。歌は声に出して歌われたものだから、クラという音が重要である。だから、「小桉(をくら・・)の嶺」、「桜(さくら・・)」、さらには「夕暮(ゆふぐれ・・)」といった語が使われている。暗くなったからクレという。すなわち、この歌群はクラの歌の集まりである。
 桜という花は、後の時代のように特に愛でられた対象ではなかった。古代にあっては、そもそも実用を旨としていたから、桜といえば樹皮が重宝されてそこに関心が向いている。曲物の綴じ皮として利用されていた。人々の認識の核はそこにあった。そして、上代の人の語感では、サクラはサル(猿)+クラ(鞍)の約、サルノコシカケのことをイメージしていた。曲物の綴じ皮用に樹皮を剥げば樹勢は衰え、キノコが生えやすくなる。木の子の意である。桜(櫻)という字が木の嬰児という形になっている点も合点がいく。乗馬用の鞍はヒトノコシカケなわけだが、それに引っ張られる形でサクラの話になっている(注10)
 桜がサル(猿)+クラ(鞍)の約であるという認識のもとでは、桜の花が咲いたり散ったりしながら旅行く人の人目に立つというのは、猿が人を導いているように見てとれたことを意味する。龍田山に猿がいたかどうかは問題ではない。猿がいると見立てられるということである。上代の人にとって、旅行く人に対して果たす猿の役割はサルタヒコ(猿田毘古神、猨田彦神)のそれである。導きの神である。

 しかくして、日子番能邇々芸命ひこほのににぎのみこと天降あまくだらむとする時に、あめ八衢やちまたて、かみ高天原たかあまのはらてらし、しも葦原あしはらの中国なかつくにを光す神、ここに有り。……かれ、問ひ賜ふ時に答へてまをさく、「やつかれは国つ神、名は猿田毘古神さるたびこのかみぞ。出で所以ゆゑは、あまかみ御子みこ天降あまくだすと聞くが故、御前みさきに仕へ奉らむとして参ゐ向へて侍り」とまをす。(記上)

 ここかしこで道案内してくれているのだから、それに従って先へと進むのがよい。今は桜の花を見ようと立ち止まっていてはならない。帰って来た時に見ればよい。だからそれまで散らないでほしいと願っている。その願う相手の神さまは、道行きの神の猨田彦ではなく、その場所に在する龍田彦である。龍田彦という呼び方が一般化していたとは思われず、猿田彦から連想してこの時に作られた呼称であろう。龍田神は風の神として祭られていたから、うまく言い当てたことになっている。
 神は遍在する。導きの神である猿田彦は難波への道の難所である龍田の山のあちこちにいて、時に桜の花として見え隠れしている。それに従っていけば山を越えて行くことができる。反対に、従わなければ道に迷い、進むことができなくなる。どうなるか。足取りは覚束なくなって、「たづたづし」く、「たぎたぎし」くなる。

 「たづたづし」
 夕闇ゆふやみは みちたづたづし 月待ちて ませ背子せこ そのにも見む(万709)
 夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに さをさしのぼれ(万4062)
 「たぎたぎし」
 ……が心、つねそらよりかけかむとおもふ。しかれども、今吾が足、歩まずてたぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。かれ其地そこなづけて当芸たぎと謂ふ。(景行記)

 山越えの「龍田たつた」の山は、その名の示すとおり、ともすればタヅタヅシくなりそうな場所である。桜の花などに気を取られて行きつ戻りつすれば絶対にタヅタヅシくなる。たどたどしくて進もうにも進めない。特に山中の急流である「たぎ」の上の桜の花に注意が行くようにしている。そんなものを見ていたらいつ花が散るかと気が散って危険である。確実にタギタギシくなる。道が凸凹したり足を患って利かなくなって進もうにも進めない。そういったことがないように、今はひたすら先へ進むのがよいというのであった。

 三

 歌の作者の高橋虫麻呂について、歌人としていかに評価するかは、(評価することが何かしら有効なことであるか否かは問わず、)歌が訓めた後にはじめて行うことができる。そしてまた、以上のように、言葉遊びに興じるのをモットーとして歌われていたと知れば、現代的な意味合いでの文学的な評価など無意味なことと悟られよう。外部の情報から「諸卿大夫」が具体的に誰のことを指すのかを詮索し、「君がみゆき」とは藤原宇合のお出ましのことではないか、天皇行幸に先立って下準備に行っているものか、などと曲解を弄することなど、(現代の視点からはあるのかもしれないが、)とんだ心得違いである。歌が声でしかなかった時代に、その場限りの声がその場限りに共有されただけである。万葉集に書き記すにあたり、ただそれだけのことがわかるよう、必要十分な事情説明のみ題詞に与えられている。今この万葉集の歌を目にすることができて、我々は無文字時代の人々の思惟について多くのことを知り得るわけだが、それは現代人の思惟とは似ても似つかない。現代の研究者が勝手に作り上げた作品論、歌人論の理念型など、旅の道すがら「たづたづし」や「たぎたぎし」の言語ゲームに興じている人たちには関係のないことである。

(注)
(注1)「左右」のままに訓むとして、「ミズトヘド カニカクニ」(賀茂真淵・万葉集考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1913072/1/257)、「ミズトイヘド カニカクニ」(橘千蔭・万葉集略解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2576192/1/28)、「ミザレドモ カニカクニ」(武田1956.347頁)、「メサズトモ カニモカクニモ」(塙書房本万葉集219頁)など、破格ながら一句設ける説もある。
(注2)「雖」字一般の訓みについては稿を改めて論じたい。
(注3)稲岡2002.は、原文を「雖不見左」として「さずとも」と訓み、「あちらこちらのすべての花の盛りをごらんにはなれずとも、我が君のおでましには、今がちょうど良い時でしょう。」(434~435頁)と解している。「さず」に可能の否定の意はない。一方、同様に「さずとも」と訓んだ多田2009b.は、「あちこちの花の盛りにご覧にならなくても、あなたのご旅行はまさに今でこそあるべきだ。」(382頁)と解している。
 また、「さずとも かにもかくにも」と訓んだ一派は、「つぼんでいるのは 続けて咲きそうである あちらこちらの 花の盛りに ご覧になれなくても とにかく あなたのお出ましの時期は この今でございましょう」(全集本413頁)、「蕾のままのはすぐに続いて咲くでしょう。あちらの花もこちらの花も一度に咲き揃ったさまを御覧になるわけにはいかないにしても、ともかくご主人様がたのお出ましには、今がいちばん結構な時期でございます。」(古典集成本405頁)、「つぼみでいたのは続けて咲くことでしょう。あちらこちらの花の盛りにはご覧になれなくても、何はともあれ、あなたのお出ましになる時はまさに今なのです。」(新大系文庫本(三)65頁)と解している。
 坂本1993.は、メサズトモの訓では、「みゆき」は行われている最中のこととて、共に桜を見ている人々に対してご覧になれなくても、というのは理屈に合わないとしている。注意深く歌の言葉を聞けば、咲いたものはすでに散り過ぎてしまっていて、蕾のものはこれから咲き継いでくるであろう、と言っている。その咲き継いだら見事に盛りになるであろうと予想される候補地はいくつもあるけれど、盛りになるのを待たずに今は「みゆき」の途に就くべき時なのだ、と主張している。
(注4)古代に花見、それも桜の花見、さらにはヤマザクラの花見が行われることが常であったとは知られていない。ましてや目的外の花見、山中の峠越えの難所での旅行団による花見が行われていたとは知られていない。高橋虫麻呂は諧謔の精神を持ち合わせていたようである。
(注5)「夏四月の戊戌の朔にして辛丑に、龍田たつたの風神かぜのかみ広瀬ひろせの大忌神おほいみのかみを祭る。」(天武紀五年四月)とあるのが記録の最初である。
(注6)全集本は長歌に対する反歌を「贈答歌に似せたものか。」(413頁)としている。
(注7)鴻巣盛広・万葉集全釈 第三冊。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1259696/1/63~64
(注8)瀧口2014.。
(注9)無文字時代に口頭で歌われた歌が成立する瞬間は、歌を聞いた人が、そうだそうだと賛同し、記憶した時である。歌は、歌い手と聞き手の双方が互いに持ち合った時にはじめて焦点を結ぶ。
(注10)拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9213fa3866aceeafc581a5e09e326ab0参照。

(引用・参考文献)
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集二 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
小田2015. 小田芳寿「諸卿大夫等の難波に下る時の歌─「散り過ぎにけり」を手がかりに─」『京都語文』第22号、2015年11月。佛教大学論文目録リポジトリhttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG002200008468
古典集成本 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
坂本1993. 坂本信幸「花之盛尓雖不見左右─万葉集巻九・一七四九番の訓詁─」『ことばとことのは』第十集、和泉書院、平成5年12月。
新谷2001. 新谷秀夫「虫麻呂の難波に下る時の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻』和泉書院、2001年。
新大系文庫本(一) 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新大系文庫本(三) 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集3 萬葉集二』小学館、昭和47年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
瀧口2014. 瀧口翠「高橋虫麻呂の龍田の歌」『上代文学』第112号、2014年4月。上代文学会http://jodaibungakukai.org/02_contents.html
武田1956. 武田祐吉『増訂 万葉集全註釈 七』角川書店、昭和31年。
竹本2020. 竹本晃「高橋虫麻呂の桜花の歌の創作」『大阪大谷大学歴史文化研究』第20号、2020年3月。大阪大谷大学機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1200/00000359/
多田2009a. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1978年。
塙書房本万葉集 佐竹昭広・ 木下正俊・ 小島憲之『補訂版 万葉集 本文篇』塙書房、平成10年。

※本稿の初稿は、2023年2月に別のところで発表した。

あしひきの 山桜戸を 開け置きて(万2617)

2024年05月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 次の一首は、万葉集巻十一、「正述心緒」の歌の一首である。

 あしひきの 山桜戸を け置きて が待つ君を たれとどむる〔足日木能山桜戸乎開置而吾待君乎誰留流〕(万2617)

 三句目「開置而」には、アケオキテ以外にヒラキオキテと訓む可能性も指摘されている。現代語で、開けっ放しにしておくというのと、開いたままにしておくというのとの違いである。ニュアンスの違いは語の本義のうちに理解される。アクは「開」のほか「明」とも字が当てられる。ヨアケ(夜明け)とはいうが、ヨヒラキ(夜開き)とは言わない。明るくなるからアケである。戸を開けておくと薄暗い部屋の中にまで日の光が差し込んでくる。開いたままにしておいたとしても明るくはなるが、そのことを言うのにふさわしい言い方は、アケである。
 歌の作者は、さかんに戸を open にしておいて、いつでも welcome であることを示している。にもかかわらず、他の誰かが引き留めてか恋しい彼は訪れないと嘆いている。もちろん、戸を open にしていても、本人が不在では仕方がない。在宅であることがわかるように open にしているのである。
 その場合、この戸は、門の戸ではなく、家屋の戸であるほうが似つかわしい。土塀や生垣に囲われた家の門の戸を開けておいて中の様子が窺い知れるとする間接的な表現ではなく、相手に強くアピールするためのもの言いであったと考えられるからである。実際にそうであったかではなく、そのつもりで開けておいているのですよ、と相手に歌を贈ることをしている。「歌」というコミュニケーション手法ならではのことである。家屋の戸が開いていれば、昼間は日の光が差して姿が確認できるし、夜間には火の光が外に出て影が動くのがわかる。ほら、私は在宅しています、来てください、と訴えている。
 そういうことを言いたいのだとすれば(注1)、中が丸見えであることを含んだ言い方、アケオキテがふさわしいと判断される。そしてまた、「山桜戸」なるものの実態も理解される。
 万葉集中にある他の「山桜」二例は、「山桜花」の例である。桜の花、また、花びらの数の多さを特徴として見ている。第一例は日数の多さに譬え、第二例はたくさんあるのに反して一目さえ見ていないことを歌っている(注2)

 あしひきの 山桜花やまさくらばな ならべて かく咲きたらば いと恋ひめやも(万1425、山部赤人)
 あしひきの 山桜花 一目ひとめだに 君とし見てば あれ恋ひめやも(万3970、大伴家持)
株立ちになるヤマザクラ
 「山桜戸」についても、それは数の多さを示すための言い方であると悟ることができる。なぜなら、ヤマザクラは株立ちして生えることがあるからである。「戸」の素材が桜から取った板であるかどうか(注3)というよりも、家にあるたくさんの「戸」、四方八方についている「戸」を開けて待っていて、どの方向から見ても在宅であることがわかるようにしていることを言っている。そのように言いたいから「山桜戸」なる言葉を創作して使っている。歌のなかでの言葉づかいが巧みな、手の込んだ修辞をほどこした歌ということになる。
 これまでの鑑賞に、「待つ愛人の来ないのを、恨む心持である」(土屋1977.166頁)、「来ぬ男を遠廻しに恨む、女の歌」(古典集成本萬葉集239頁)、「男を待つ閨怨の歌」(新大系本萬葉集67頁)、「板戸を開けてまんじりともせず待つ妻の心にふと湧く不安」(阿蘇2010.374頁)、「嫉妬とはいへ、柔らかみのあるものとなっている」(窪田1966.146頁)とあるような捉え方は、みな中途半端なものである。歌の聞きどころは待っている女の感情にあるのではなく、ヤマトコトバの選択にある。武田1956.に、「アシヒキノ山桜戸のような美しい語を使つたのが特色である。」(63頁)とあるのはどこまで意を理解しているか不明ながら適評である。

(注)
(注1)それ以外に何を言いたいというのだろう。
(注2)日本における桜鑑賞の文化史は、花を選びながらサトザクラを作っていたわけではないため上代に遡ることはできない。万葉集では、名がサクラということが優先されて、名に負う存在として「咲く」、そして、「散る」という言葉を導くために活用されている。樹種としてのサクラは今日いうところのヤマザクラが主であったろう。株立ちする傾向があれば、花は数多く咲いていると見立てることにつなげることができる。「暗茂くれしげに」(万257・260)、「くれごもり」(万1047)を導いているところからも株立ちの特徴を捉えていることは窺い知ることができる。株立ちが好まれたと思われるのは、多くの桜皮が採れ、曲げ物の綴じ皮などに多用されたし、炭に焼くにも適度な太さの材が得られるからである。実用をもって言葉が選ばれている。花見が観光と密接につながっていることからわかるように、桜の花を愛でる対象として捉えるようになったのは人類史においてごく最近のことである。
ヤマザクラ樹皮
(注3)土屋1977.に、「ヤマサクラドは、或はヤマカニハドで、桜皮を以て、蝶番風に綴ぢ付けた戸であるかも知れない。」(166~167頁、漢字の旧字体は改めた)と穿った見方もある。この説の弱点は、蝶番の素材にヤマザクラの樹皮を使っていることをことさらに歌に歌う理由が見られないところである。

(引用・参考文献)
影山2023. 影山尚之「山桜戸を開けて待つ」『武庫川国文』第94号、令和5年3月。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 九』角川書店、昭和31年。
古典集成本萬葉集 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集 三』新潮社、1976年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系 萬葉集 三』岩波書店、2002年。
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第六巻』笠間書院、2010年。
窪田1966. 窪田空穂『窪田空穂全集 第17巻 万葉集評釈Ⅴ』角川書店、昭和41年。
土屋1977. 土屋文明『万葉集私注 第六巻 新訂版』筑摩書房、昭和52年。

タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について

2024年05月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 垂仁天皇の晩年に、多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の登岐士玖能迦玖能ときじくのかくの木実このみ(非時香菓)探索の話が載っている。話の次第は次のようなものである。長寿を願う垂仁天皇は、時じくのかくの木の実を手に入れようと考えた。そこで、三宅連等みやけのむらじらの祖先にあたる多遅摩毛理に、常世国とこよのくにへ行って探して来るよう命じた。多遅摩毛理は何年もかけて常世国にたどり着き、入手してようやく持ち帰った。しかし、帰還した時、すでに垂仁天皇は崩御していた。多遅摩毛理はひどく悲しみ、持ち帰った時じくのかくの木の実を飾り立てたもの八個を二つに分け、半分の四個を皇后に献上し、残りの半分の四個を天皇の御陵の地に置き、泣き叫んで死んでしまったというのである。

 又、天皇すめらみこと三宅連みやけのむらじ等がおや、名は多遅摩毛理たぢまもりを以て常世国とこよのくにつかはして、ときじくのかくの木実このみを求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、縵八縵かげやかげ矛八矛ほこやほこち来る間に、天皇、既にかむあがりましぬ。しかくして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后おほきさきたてまつり、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵みさざきの戸に献り置きて、其の木実をささげて、さけおらびてまをさく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちてのぼりて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今のたちばなぞ。(垂仁記)
 九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守たぢまもりみことおほせて、常世国につかはして、非時ときじく香菓かくのみを求めしむ。香菓,、此には箇倶能未かくのみと云ふ。今、たちばなと謂ふは是なり。……
 明年くるつとしの春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国よりかへりいたれり。則ちもてまうでいたる物は、非時の香菓、八竿八縵やほこやかげなり。田道間守、是にいさ悲歎なげきてまをさく、「おほみこと天朝みかどうけたまはり、遠くより絶域はるかなるくにまかる。万里浪とほくなみみて、はるか弱水よわのみづわたる。是の常世国は、神仙ひじり秘区かくれたるくにただひといたらむ所に非ず。是を以て、往来ゆきかよあひだに、おのづからに十年ととせりぬ。あにおもひきや、ひとりたかなみを凌ぎて、また本土もとのくにまうでこむといふことを。然るに、聖帝ひじりのみかど神霊みたまのふゆりて、わづかかへまうくること得たり。今、天皇既にかむあがりましぬ。復命かへりごとまをすこと得ず。やつかれけりといふとも、亦、何のしるしかあらむ」とまをす。乃ち天皇のみさざきまゐりて、おらきて自らまかれり。群臣まへつきみ聞きて皆なみたを流す。田道間守は、是、三宅連みやけのむらじ始祖はじめのおやなり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)

 この話が何の話なのかについては、食物史にお菓子の始まりを述べたものであるとする考え(注1)がある一方、神話学に常世国との関連で考えようとする潮流があり、また、歴史学に三宅連の始祖譚としての重要性を指摘する向きもある(注2)。国文学(上代文学)はタヂマモリとタチバナモリとの類音性を指摘したり、新羅国王の末裔である点を重要視している(注3)。新編全集本古事記は、「多遅摩毛理は新羅国王の子孫であり、天皇に対する忠誠心が渡来人にも及んでいることを語る話になっている。」(211頁)という。筆者は、ヤマトコトバを入念に探究し、記紀万葉を読解する立場に立つ。話として自己完結していなければ伝承されているはずはないと考えている。
 最初に登場人物を確認しておこう。三宅みやけ連等の祖先筋に当たるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)である。紀の表記に田道間守とある点から義を考えるなら、田んぼの畦道を守る存在であろうことが見てとれる。朝廷の直轄領である屯倉みやけが置かれたのは、土着勢力がもともと拓いていたところよりも新田開発されたところである。自然のままに水稲栽培に適した水深の浅いところではなく、それまでは水が溜まることがなかったり、水が深いところを田となるように整備したところ、すなわち、畦を整えることではじめてできた田である。ミヤケを名乗る人物の祖先がタヂマモリである所以である。
 田んぼの畦道を守り整える道具は鍬である。土を盛り塗って守っている。アゼ(畦、畔)のことはアと言った。須佐之男のいたずらに「田のあをはなち〔離田之阿〕」(記上)とある。アという言葉には、畦以外に足のことも指した。「ゆひ〔阿由比〕」(記81)、「よひ〔阿庸比〕」(紀106)とある。どうして畦と足とが同じヤマトコトバ(音)で成っていて違和しないのか。それは、ともにクハ(鍬)に関係する語だからである。鍬によって作られるのが畦である。鍬の形は柄に直角的に角度をつけて刃となる面がついている。その様子は、足の脛に対して靴に入る足の甲、足のひらのつき方と同じである。
機械化された畦作り
 白川1995.に、「くはたつ〔企・翹〕 下二段。「くは」は鍬。足でいえばかかとから爪先までの部分が、鍬の平らかな刃の部分にあたるので、鍬腹くわはらという。かかとから先をまた「くは」といい、「くはゆぎ(曲肘)」「くびす(跟)」などの語がある。遠くを望み見るとき、そこを立てるのが「くはたつ」で、かかとをあげ、背のびしてみることをいう。「くはたつ」は、仏典の訓読語にみえるほかには、用例は殆どない。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。〔華厳音義私記〕「翹 音は交、訓は久波多川くはたつ」、〔名義抄〕に「肢・竚・尅・翹・企 クハタツ」、〔字鏡抄〕には企・の二字のみ録する。」(301頁)とある。語史的には、身体用語としてクハという語があり、後に農具として現れたものがその形になぞらえられてクハと呼ばれるようになったと考えられている。
 このことからすると、タヂマモリという人物名は、畦を作っては崩れていないかいつも見守り修繕する人を表していると考えられつつ、足が巧みに働くこと、また、遠くへ行くにはまず先を見渡さなければならないが、そのために企てて背伸びをするのにもってこいであることを示している。名に負う人物として遠い世界へ赴くことが求められているといえる。当然ながら遠路を行くには時間がかかる。その時間という概念をクローズアップさせてみたとき、時間とは無関係なほどに常に畦道を守る人のことが思い起こされている。あるのが当たり前と思われ、時間の概念から解放されているかに見えて、その実、たゆまぬ努力をもってメンテナンスが行われている。見た目が変わらないことを生業の目的とするのがタヂマモリという農道整備者である。だから、天皇としてみれば、その治世、天皇の御代の常にあらむと願うことがあるなら、タヂマモリにかなえてもらおうということになる。そして、ヨ(代、世)の常にあるとされている常世国へと足の達者なタヂマモリを派遣して、それをかなえそうな象徴的なお土産を持ち帰るように指示している(注4)
 それが登岐士玖能迦玖能ときじくのかくの木実このみ(非時香菓)である(注5)。農道整備に使う鍬は、地面を浅く掘り起こし混ぜ返すのに便利な道具である。表面付近に根の張った雑草を根切りしながら土を耕すことができる。草は腐って作物の肥料となる。また、人肥を下肥にするため、農地に混ぜ込むのにも鍬は用いられる。すなわち、鍬はこえと深い関係にある。足を意味するクハも、足を上げることを蹴鞠にコエ(蹴、コユの連用形)といい(注6)、遠く山越え谷越えて移動するのに役立つ。コエ(肥)をコエ(超)て臭いのきつく凌駕するもの、それもアシ(足)なるアシ(悪)きものではなく、良きもので常に覆いつくすようなものが求められることになる。それが、カクなるもの、香しいものである。
 そんな木の実(香菓)があったら持ち帰るようにと言っている。ここで、トキジクノカクノコノミとは何か、という問題に向き合わねばならない。「其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)から、これはミカンの類の橘の実のことであると考えられることが多い(注7)。ただし、お菓子の歴史を研究する側からは、「非時香菓」(紀)と書き示されているからには、日持ちする菓子のことではないかという意見が根強く、お菓子の起源譚であるとされている。持続性、永遠性を求めているのだから、生の菓子に当たるフルーツではなくて、加工された干菓子ではないかというのである。
 「橘」とあるからヤマトタチバナ(ニッポンタチバナ)のことを指すとする見方があるが、ヤマトタチバナは古くから自生しており遠く求める必要はない。柑橘類の総称であろうとする説もあるが、ならばどのような品種か見分けられなければならず、また、長く枝に成っていることを「縵四縵・矛四矛」、「八竿八縵」と受け取るように読むのは少し苦しいように感じられる。葉があるのが縵で、葉をもぎ取ったのが矛や竿とするとして、どうしてそのような小細工で分け隔てをするのか、何か説明されるなり自明でなければならないはずであるものの、理解への糸口はこれまでのところ見出されていない。
 なにより、記紀の言い方は念を押したような形をとっており尋常ではない。

 其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。(記)
 天皇命田道間守、遣常世国、令非時香菓香菓、此云箇俱能未。今謂橘是也。(紀)

 平たく尋常な言い回しから見てみる。「今謂」とする叙述としては他に、記に一例、紀に八例見える。

 故、其の所謂いはゆ黄泉比良よもつひらさかは、今、出雲国の伊賦夜いふやさかと謂ふ。(故、其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲国之伊賦夜坂也)(記上)
 因りて、なづけて浪速国なにはのくにとす。亦、浪花なみはなと曰ふ。今、難波なにはと謂ふはよこなまれるなり。 訛、此には与許奈磨盧よこなまると云ふ。(因以、名為浪速国。亦曰浪花。今謂難波訛也。訛、此云与許奈磨盧。)(神武前紀戊午年二月)
 かれ時人ときのひと、改めて其の河を号けて挑河いどみがはと曰ふ。今、泉河いづみかはと謂ふは訛れるなり。(故時人改号其河挑河。今謂泉河訛也。)(崇神紀十年九月)
 はかまよりくそおちし処を屎褌くそばかまと曰ふ。今、樟葉くすばと謂ふは訛れるなり。(褌屎処曰屎褌。今謂樟葉訛也。)(崇神紀十年九月)
 故、其のところを号けて墮国おちくにと謂ふ。今、弟国と謂ふは訛れるなり。(故号其地墮国。今謂弟国訛也。)(垂仁紀十五年八月)
 故、時人、其のうきを忘れし処を号けて浮羽うきはと曰ふ。今、いくはと謂ふは、訛れるなり。(故時人号其忘盞処浮羽。今謂的者訛也。)(景行紀十八年八月)
 故、時人、五十迹手とて本土もとつくにを号けて伊蘇国いそのくにと曰ふ。今、伊覩いとと謂ふは訛れるなり。(故時人号五十迹手之本土伊蘇国、今謂伊覩者訛也。)(仲哀紀八年正月)
 故、時人、其の処を号けて、梅豆めづ羅国らのくにと曰ふ。今、松浦まつらと謂ふは訛れるなり。(故時人号其処梅豆羅国、今謂松浦訛焉。)(神功前紀仲哀九年四月)
 鳥、此の田を以て、天皇の為に金剛寺こむがうじを作る。是、今、南淵みなぶち坂田さかたの尼寺あまでらと謂ふ。(鳥以此田、為天皇金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺一。)(推古紀十四年五月)

 紀の地名譚の七例は「訛」字が続いており、音の変化を「謂」で表している。推古紀の例は寺の名称変更を示している。それらから推して考えると、記上の例も、坂の名を今はそう呼んでいると言っているだけである。
 対して、尋常ではない言いっぷりを見てみる。垂仁記の「是今……也。」とする叙述は、他に記に一例、紀に一例見える。

 此の、やま多豆たづと云ふは、是、今の造木みやつこぎぞ。(此、云山多豆者、是、今造木者也。)(允恭記)
 酒君こたへて言さく、「此の鳥のたぐひさはに百済に在り。ならし得てば能く人に従ふ。亦、く飛びてもろもろの鳥をる。百済のひと、此の鳥を号けて倶知くちと曰ふ」とまをす。是、今時いまたかなり。(酒君対言、此鳥之類、多在百済。得馴而能従人。亦捷飛之掠諸鳥。百済俗号此鳥俱知是、今時鷹也。)(仁徳紀四十三年九月)

 允恭記の例の「山たづ」、「造木みやつこぎ」とも今日に伝わる名称ではなく、ニワトコのことであるとされている。勢い込んで「是今……者也。」と口にしているところから、太安万侶が書いた「今」時点で通称とされていたのではなく、聞く相手に対し、言っていることの頓智を悟れ、と促しているように思われる。みやつこと呼ばれる地方の有力者でありながら中央の被支配者層が、木を使って木に似せたものを造った、それが「造木」である。ニワトコは材質が柔らかく、削り掛けと呼ばれる飾り物の材料に使われた。消費経済に慣れてしまった方には、おもちゃのお金のことを考えれば良いであろう。お金でおもちゃのお金(ミヤツコガネ?)を買うのである。
左:削り掛け(川崎市立日本民家園展示品)、右:削り掛け図(喜田川季荘編・守貞漫稿巻26、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592412/29をトリミング)
 また、仁徳紀の例は、百済ではたくさんいて、馴らして狩りに使うものでクチと呼ばれている、という言に関して、これは今のたかのことである、と注している。この場合、 hawk が新しく種として百済からもたらされたということではない。これまで本邦でも棲息していたものの、飼い馴らし調教して狩りに使うことはしていなかったが、今日ではよく利用されるようになっていて、今言う鷹のことを指しているのだ、と説明を施している(注8)。「造木」、「鷹」とも、種の同定をしているのではなく、人間にとってその動植物はどのような役目を果たしているかという点を考え落ちに語っている。すなわち、改められた概念を呈示している。そのことを謂わんがために、「是今……也。」という念を押す言い方が行われている。
概念の転覆(「ひまわり」の概念はプランター内に覆されている)
 垂仁記同様、垂仁紀の例でも、最後に「是也。」と強調して終わっている。名称、呼称に変化があったということよりも、以前はその言葉の範疇に収められておらず、新たに認識されてその言葉の概念に組み込まれるようになったと含み伝えるために記されている。田道間守が常世国から持ち帰ったというのはそのとおりだろうから、自生していたヤマトタチバナのことをそのまま言っているのではない。「橘」を柑橘類の総称であると捉えるにしても、それまでの「橘」概念を覆す柑橘類としての「非時香菓」が将来したと考えなければならない。「非時香菓」の出現によって「橘」概念が拡張されている。起爆的に従来の「橘」概念が壊され、新しい「橘」概念が築きあげられたということである。
 その可能性の第一は、お菓子の到来である。いわゆる「唐果からくだもの」である。大陸から到来した「果物」であり、「木実」に当てがわれている。和名抄に、「果蓏 唐韻に云はく、説文に木の上にあるを果〈古火反、字は亦、菓に作る。日本紀私記に古能美このみと云ひ、俗に久多毛乃くだものと云ふ〉と曰ひ、地の上にあるを蓏〈力果反、久佐久太毛能くさくだもの〉と曰ふといふ。張晏に曰はく、核有るを菓と曰ひ、核無きを蓏〈核は果蓏具に見ゆ〉と曰ふといふ。応劭に曰はく、木の実を菓と曰ひ、草の実を蓏と曰ふといふ。」とある。「唐果」とは、フルーツに似せて作った加工食品、お菓子のことである。加工されて木の実に似せられたお菓子のことをどのような観念のもとに理解すればよいか。李が伝わった時、ももに似ているのでスモモと呼ぶことにしたことがあったようである。フルーツなのだからそれで構わない。今回、なんだこれは? はたして木の実と言えるのか? という代物が伝わっている。允恭記の「造木」と同様の言語活用法が試されている。
 和名抄に従うかぎり、木実このみは、木の上に成っていて「果」または「菓」の字で表され、俗にクダモノと呼ばれているものということになる。一般的に言う橘の実がそのまま食用とされることはないが、近縁種のミカン類は食用となっている。和名抄に、「柑子 馬琬食経に柑子〈上の音は甘、加無之かむじ〉と云ふ。」とある。また、橘の実の皮は調味料とされている。和名抄に、「橘皮 本草注に云はく、橘皮は一名に甘皮といふ〈太知波奈乃加波たちばなのかは)、一に岐賀波きがはと云ふ〉。」とある。香り高く、甘味を含んだ風味をつけるために、料理に刻みあえている。
 すると、ニワトコの枝を使って「木」を造ったように、橘の皮を用いながら「菓蓏このみ・くだもの」を造作したものが、トキジクノカクノコノミであると言えるのではないか。そして、カクと冠されるのは、かくからなのか、かくからなのか、その両方からなのかということになるだろう。今日、柚子などの皮が香りづけに用いられているとおり、乾燥保存されて常時用いられていた(注9)。時季に応じることなく、旬にこだわることのなく造作される果物という意味で、トキジクノカクノコノミと言っている。
 和名抄に、「結果 楊氏漢語抄に結果〈形は結ぶ緒の如し、此の間に、亦、之れ有り。今案ふるに、加久乃阿和かくのあわとかむがふ。〉と云ふ。」(注10)とあるのがそれである。結びつけるような形状にして、揚げ句の果てに成ったもの、油で揚げたお菓子のようである。油で揚げれば泡立ち、その泡のしずくのような不思議な形をしたものができている。三次元的に複雑な形状をしていて泡立つようでありつつ、今にも崩壊して泡の如く消えて行ってもおかしくないものである。ぐるぐるっと巻き結んで拵えているところは、自然界ではなかなか見られそうにない。いかにも人工的なお菓子は、逆の意味で「非時」性があり、なるほどトキジクノカクノコノミとは人間の強欲の末にたどり着いた「結果」なのであると悟ることができる。不老不死というあり得ないことを考えることは、あり得ないものをないものねだりすることであり、世界が反転するほどに訳がわからなくなっている。
左:「かくなわ」(奈良女子大学大学院人間文化研究科「奈良の都で食された菓子」http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/kodai_kashi/nara_kashi.html)、右:「かくのあわ」の失敗例(厨事類記の記事など無視し、豚カツに使った薄力粉の残りに溶き卵と蜂蜜を入れ、象ろうとしたが麺状に保てなかった。ただし、味はクロワッサンにも似ておいしかった)
 そのような意味合いを含めて、「たちばな」という言葉で言いくるめようとしている。そこに第二の可能性が見てとれる。それ自体が果物を求めるものではない樹木の存在、からたちである。いつのことかは不明ながら古い時代に列島に持ち込まれている。

 からたちと うばら刈りけ 倉建てむ くそ遠くれ 櫛造る刀自とじ(万3832)

 名称は、カラ(唐)のタチバナ(橘)の意である。そして、「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話はよく知られている。「橘は淮南に生ずれば則ち橘と為るも、淮北に生ずれば則ち枳と為ると。葉は徒に相似るも其の実の味同じからず。然る所以の者は何ぞや、水土異なればなり。(橘生淮南則為橘、生于淮北則為枳。葉徒相似、其實味不同。所以然者何、水土異也。)」(晏子春秋・内篇・雑下)、「江南に橘有り、斉王、人をして之れを取らしめて、之れを江北に樹うるに、生じて橘と為らずして、乃ち枳と為る。然る所以は何ぞ。其の土地之れをして然らしむるなり。(江南有橘、斉王使人取之、而樹之於江北、生不為橘、乃為枳。所以然者何。其土地使之然也。)」(説苑・奉使)とある。端的に言えば、所変われば品変わる、の意である。橘と枳とには互換性があり、枳が本邦に入ってきたとき、それをカラ(唐)のタチバナ(橘)であると認め、「橘」概念が拡張された。
 こうして、お菓子のことをカラクダモノと言って木の実の範疇に入れることは、からたちたちばなの範疇に入れるのとパラレルなことになっている。タヂマモリがトキジクノカクノコノミを飾り捧げる方法は、「縵八縵・矛八矛」(記)、「八竿八縵」(紀)であった。葉がついたものは「鰻」、ついていないものは「矛」や「竿」と解されている。通説では、ミカンの実に葉をつけておくかつけておかないかの差のように考えられているが、そうではなく、カラタチの樹全体に、葉がついているか葉が落ちてしまっているかを指している。柑橘類のなかでも特異な存在として、カラタチには葉を落とす習性がある。葉が完全に落ちていても茎部分に葉緑体があるので生きている。「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話も生き生きとしたものになっている。
 カラタチは刺が出ていて生垣に利用されている。泥棒を含めた獣除けのために果樹園の周囲にめぐらされた。水田に米が稔るのは、田に水がたまる仕掛けに拠っていて、その田の周りは畦がめぐらされていて稔りを守っていたのと同じである。タヂマモリはその名がゆえに耕作地の周りを守る仕事に徹していた。果樹園に果物が実らない最大の理由は鳥獣による被害である。それを防ぐには畦同様の仕掛けが必要となる。葉が茂って「鰻」があれば果樹園の中を見えなくし、葉がなくても刺や枝が入り組んでいれば「矛」や「竿」の役目を果たす。侵入できない通せん棒、鉄条網、警備具と化している。とげとげしている様は、まるで七支刀のような矛である(注11)。カラタチが生垣になっていれば、果物をよく実らせ、香り高く熟するまで枝につけておけて、美味なるものを収穫することができる。それこそカクノコノミであり、カラタチは果物そのものと等価なのである(注12)。タヂマモリは、常世国で自らが派遣された理由を理解するのに時間を要したようであるが、ヤマトコトバの論理学において、その名を負わなければ果樹園守の任は果たせなかったのであった。結果、カラタチは樹種的には柑橘類であり、フルーツの「橘」概念を刷新させている。「是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)と記されたのは、頓智力の高い考え落ちであった。
左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀復元品(鋳造、平成18年復元プロジェクトチーム制作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
 記に、「爾、多遅摩毛理、分縵四縵・矛四矛、献于大后、以縵四縵・矛四矛、献-置天皇之御陵戸而、……」とあるのは、「縵八縵・矛八矛」を半分ずつに分配したということである。荻生徂徠・南留別志に、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり。むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなり」(国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100173233/54?ln=ja)とある。すなわち、「や(八)」としてではなく、「よ(四)」としている。「や」は「よ」の母音交替形でその倍数である。どちらも「弥」字で表すように、極めて数が多いことをいうが、垂仁天皇が当初求めた目的は、御代の常にあらんことであった。程度の甚だしいことを表す副詞に用いられている。

 …… 堅く取らせ した堅く や堅く取らせ 秀鱒ほだり取らす子(記102)
 霞立つ 長き春日を 挿頭かざせれど いや懐かしき 梅の花かも(万846)
 夕凪に 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに 吾妹子わざもこに ……(万3243)
 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)

 つまり、(ヨは乙類)(世、齢)の長かりしことを願っていたのであって、同音の乙類のヨ(四)こそふさわしい数であった。それなのに、いやますますの意味でヤ(ハ)ピース(piece)持ち帰って来てしまった。多いほどいいだろうと考えていたから、光陰の如しというようにヤが飛ぶように時間がかかり、天皇はすでにこの世を去ってしまっていた。必要にして十分なピース数はヨ(四)であった。だから、大后に四ピースを献上し、残りの四ピースを陵墓へと持って行った。間に合わなかった責任は自分にあると思って後悔し、泣き叫んで死んでしまったという話で終わっている。「常世」なのだからトコ(床)+ヨ(四)、つまり、四角形の牀、胡床のことだとまで頓智が利かなかったのは、タヂマモリをしていながらまだ田が条里制以前のことで、四角四辺がヒントなのだと気づかなかったということである。
 以上、タヂマモリの非時香果についての説話を解き明かし、不明部分を一掃した。説話のすべては、ヤマトコトバの言語ゲームの粋の賜物であった。

(注)
(注1)「菓子の文化史」参照。
(注2)中村2015.は、「こうした[田道間守がお菓子の神さまとして祭られるにいたる]後世の伝説の進化は、ある種、物語としての宿命なので是非はないが、本来の田道間守と非時香菓の物語は、どういう意図をもって記述されたのかを探る必要はあろう。」(188頁)といい、垂仁陵を青々と飾るために橘の木が選ばれて、三宅氏の陵墓管掌の役割を確かならしめるためにこの話は創作されたのであろうとしている。
(注3)西郷2005.は、タヂマモリの話の意味合いは、《帰化族》の宮廷への忠誠譚であるとし、また、三宅ミヤケ連の祖のことから、武蔵国橘樹タチバナ郡に橘樹郷と御宅ミヤケ郷とが並んで見えることが、屯倉ミヤケ(宮廷領)とタチバナとの因縁を想わせるという(355~356頁)。
(注4)「土産みやげ」という言葉の出所は未詳であり、いつからある言葉かも定かでない。そのミヤゲ(土産)とミヤケ(屯倉、三宅、ケは乙類)が関係する語なのかも不明ではある。
(注5)「時じ」については、➀絶え間なく〜する、いつでも〜だ、②その時ではない、時節はずれだ、の二つの意味があると考えられている。用例を見ると、いずれかの意味にとれば理解されることが多いため、当初から二つの意味があったように思われている。そして、この「時じくのかくの木実」の場合、➀と②の両方を含んだ重層的な意味合いを表していると指摘されている(佐佐木2007.)。しかし、「時じ」という言葉の原義は、時間という概念から離れることであると捉えたほうがわかりやすい。だからこそ、タヂマモリとは何か、という哲学的な問い掛けが主題を構成するのにふさわしいのである。
 トキ(時)という言葉は、古典基礎語辞典で、「古くは、今あると思ったことが過去となり、やがて来るであろう未来が現前しているというように、次々と移り変わるものとしてトキを意識している。」(827頁、この項、白井清子)と解説されている。それに否定の形容詞を作る接尾語がついているのだから、「時じ」の意味の原型(prototype)は、移り変わりの適時感が失われている点にこそあるだろう。すなわち、動画の停止ボタンがうまく働かないことを表している。ジャストタイムに停止しないことも、ボタン自体が利かないことも、同じく「時じ」という一語に当たる。
(注6)蹴鞠の足の使い方は独特である。渡辺2000.に、「蹴鞠では鞠を蹴上げる足は何故か右足に限られていた。箸を右手で扱うのが正しい作法であるという観念と共通の文化風土の産物であろう。したがって、一人で続けて鞠を蹴上げる場合、サッカーのリフティングのように歩行と同じリズムで、左・右、左・右と交互に蹴ることはできない。蹴鞠の術語ではフットワークを足踏と言う。連続的に鞠を蹴上げる場合の足踏の要領は次のとおりだった。まず、右足で鞠を蹴上げた後、右足を着地する、次に左足を(挙げて)着地し、しかる後に、右足を挙げて鞠を蹴る。つまり、ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)→ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)、………、という、日常的な歩行とは異なるリズムの繰り返しになった。これを三拍子と呼んだ。」(9頁)とわかりやすく説明されている。足を意識して動かしている。その際、足首を伸ばすことなく鍬同様にL字形に保った動きを繰り返している。
「蹴」(左:農具の鍬で土、右:身体のクハで鞠)(左:広益国産考、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018394/170?ln=jaをトリミング、右:ウィキペディア「蹴鞠」、radBeattie様、談山神社の蹴鞠祭、https://ja.wikipedia.org/wiki/蹴鞠)
 蹴るの古語は、古くクウ(下二段活用)という言い方があり、「蹴散くゑはららかす」(神代紀第六段本文)という例がある。名義抄には、「蹴 化ル、クユ、コユ」とあり、コユは「越ゆ」と同根とされている。蹴る動作と踏む動作がセットになっている。鍬が土を掘り蹴上げるばかりでなく、反対面を使って泥土を押し撫でつけて畦を作ることができるようになっているのと同じことである。
(注7)練り切りの和菓子について、以下のようなものは「みかん」、「かえで」以外に名づけられようがない。
みかんともみじ(練り切り、snapdish様https://snapdish.co/d/yTD1na(2024年5月2日閲覧))
(注8)鷹狩り用の鷹が、空間的に“渡り”鳥であるばかりか時間的にも“渡り”鳥であるように、巧みなレトリック表現としてある点については、拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/41dd83e8fc7373229a8677f48d3202a2参照。
(注9)七味唐辛子にはミカンの皮が入っている。人見必大・本朝食鑑の「蕎麦」の項に、「別に蘿蔔汁・花鰹・山葵・橘皮・番椒・紫苔・焼味噌・梅干等の物を用ゐて、蕎切及び汁に和して食す。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569413/1/57)と見える。
(注10)和名抄に菓子類と思われる食べ物が記載されている。食べ物のうち菓子に分類されるものは、その嗜好性によるのであろうが、どこまでを嗜好品としてデザートやおやつに食べるかは判断がつきにくい。太田2005.の挙げるものについて、以下に京本の順にて記す。

餅腅 楊氏漢語抄に云はく、裹む餅の中に鵝鴨等の子、并びに雑菜を納れ煮合せてけだに截るものは、一名に餅腅〈玉篇に腅は達監反、肴なり〉といふ。
糉〈角黍、粽なり〉 風土記に云はく、糉〈作弄反、字は亦、粽に作る、知末岐ちまき〉は菰の葉を以て米を裹み、灰汁を以て之れを煮て爛熟せ令め、五月五日に之れをふといふ。
餻 考声切韻に云はく、餻〈古労反、字は亦、𩝝に作る、久佐毛知比くさもちひ〉は米屑を蒸して之れをつくるといふ。文徳実録に云はく、嘉祥三年の訛言に、今玆ことし三日に餻を造るべからず、母子無きを以てなりと曰ふといふ。
餢飳 蒋魴切韻に云はく、餢飳〈部斗ぶとの二音、亦、䴺𪌘に作る、布止ぶと、俗に伏兎と云ふ〉は油煎餅の名なりといふ。
糫餅 文選に云はく、膏糫は粔籹といふ〈糫の音は還、粔籹は下文に見ゆ〉。楊氏漢語抄に糫餅〈形は藤葛の如き者なり、万加利まがり〉と云ふ。
結果 楊氏漢語抄に結果〈形は緒を結ぶ如し、此の間に、亦、之れ有り、今案ふるに加久乃阿和かくのあわ〉と云ふ。
捻頭 楊氏漢語抄に捻頭〈無岐加太むぎかた、捻の音は奴協反、一に麦子と云ふ〉と云ふ。
索餅 釈名に云はく、蝎餅、䯝餅、金餅、索餅〈無岐奈波むぎなは、大膳式に手束索餅は多都賀たつかと云ふ〉は皆、形に随ひて之れを名くといふ。
粉熟 弁色立成に粉粥〈米粥を以て之れを為る、今案ふるに粉粥は即ち粉熟なり〉と云ふ。
餛飩 四声字苑に云はく、餛飩〈渾屯の二音、上の字は亦、餫に作る、唐韻に見ゆ〉は、餅を肉としてきざみて麺とし之れを裹み煮るといふ。
餺飥〈衦字付〉 楊氏漢語抄に云はく、餺飥〈博託の二音、字は亦、𪍡𪌂に作る、玉篇に見ゆ〉は衦麺、方に切る名なりといふ。四声字苑に云はく、衦〈古旱反、上声の重〉は摩りぶるための衣なりといふ。
煎餅 楊氏漢語抄に云はく、煎餅〈此の間に字の如しと云ふ〉は油を以て熬る小麦の麺の名なりといふ。
餲餅 四声字苑に云はく、餲〈音は蝎と同じ、俗に餲餬と云ふ。今案ふるに餬は食に寄するなり、餅の名とるは未だ詳かならず〉は餅の名、麺を煎りて蝎虫の形に作るなりといふ。
黏臍 弁色立成に黏臍〈油餅の名なり、黏り作り人の膍臍に似せるなり、上の音は女廉反、下の音は斉〉と云ふ。
饆饠 唐韻に云はく、饆饠〈畢羅の二音、字は亦、〓〔麥偏に必〕𪎆に作る。俗に比知良ひちらと云ふ〉は餌の名なりといふ。
䭔子 唐韻に云はく、䭔〈都回反、又、音は堆と同じ、此の間に音は都以之ついし〉は䭔子なりといふ。
歓喜団 楊氏漢語抄に歓喜団と云ふ。〈しなじなの甘物を以て之れをつくる。或説に一名を団喜と云ふ。今案ふるに俗説に梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、䭔子、団喜は之れを八種の唐菓子と謂ふ。其の見ゆる有るは、すでに上文に挙ぐ〉

(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21dc1a26b1fff042b89ad2c33aea8dce参照。
(注12)カラタチ自体の実のことなどどうでもいいことにされている点が、なるほどと理解に至る考え落ちになっている。頓智にすぐれたおもしろい話として際立つ構成である。このように頭を捻るおもしろ味があるからこそ、本説話は伝承されて来ていたと考えられる。話を伝えることが生きる知恵に直結している。カラタチは、名を捨てて実(果樹園のなかの果樹の実)を取ったことになっている。

(引用・参考文献)
太田2005. 太田泰弘「唐菓子の系譜─日本の菓子と中国の菓子─」『和菓子』第12号、虎屋文庫、平成17年3月。
「菓子の文化史」 「菓子の文化史」(平成22年度)『文化史総合演習成果報告』奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程)国際社会文化学専攻、2011年3月。奈良女子大学HP http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/index.html(2024年5月2日閲覧)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む─声から文字ヘ─』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
中村2015. 中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」『言語と文化』第27号、文教大学、2015年3月。文教大学学術リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1351/00003022/(2024年5月2日閲覧)
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、大学出版部協会、2000年10月。大学出版部協会https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/web47.shtml(2024年5月2日閲覧)

※本稿は、2020年7月19日稿、2023年4月20日稿を経て、2024年5月2日に図像も含めて手を入れたものである。

古事記の天之日矛の説話について─牛耕を中心に─

2024年05月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 応神記に、天之日矛の説話が載る。前半は新羅での奇譚話、後半はヤマトに至ってからの系譜となっている。ここではその前半部を考察対象とする。

 又、昔、新羅しらき国主こにきしの子有りけり。名は天之日矛あめのひほこと謂ふ。是の人ゐ渡り来つ。参ゐ渡り来つる所以ゆゑは、新羅の国にあるぬま有り。名は阿具奴摩あぐぬまと謂ふ。阿よりしもつかた四字、こゑを以う。此の沼のほとりに、あるいやしきをみな昼寝ひるねす。ここに日の耀かかやくことぬじごとく、其の陰上ほとを指す。またある賤しきをとこ有り。其のさましと思ひて、つねに其の女人をみなわざうかがふ。かれ、是の女人をみな、其の昼寝せし時より妊身はらみて、袁玉をたまを生む。しかくして、其の伺へる賤しき夫、其の玉を乞ひ取り、つねつつみて腰にく。
 此の人、田を山谷やまたにつくれり。故、耕人たがへすひとども飲食を、一つの牛におほせて、山谷のうちに入るに、其の国主の子、天之日矛に遇逢ふ。爾くして、其の人に問ひて曰はく、「何ぞ飲食を牛に負せて山谷に入る。汝は必ずや是の牛を飲食」といひて、即ち其の人を捕へて獄囚ひとやに入れむとす。其の人答へて曰はく、「われ牛をとするには非ず。ただ田人たがへすひとを送るのみ」といふ。然れどもなほゆるさず。爾くして、其の腰の玉を解きて、其の国主の子にまひなふ。故、其の賤しき夫を赦し、其の玉をて、床のに置けば、即ち美麗うるはしき嬢子をとめる。仍りてまぐはひして嫡妻むかひめ。爾くして、其の嬢子、常に種々くさぐさ珍味ためつものけて恒に其の夫に。故、其の国主の子、心おごりて妻をるに、其の女人をみな言はく、「およるべきをみなに非ず。吾がおやの国にかむ」といひて、即ちひそかに小船をぶねに乗りて、逃遁わたり来て、難波なにはに留まりき。此は難波の比売碁曽ひめごそやしろ阿加流比売神あかるひめのかみと謂ふぞ。(注1)

 いま、応神記の天之日矛の説話の前半を読んでみた。太字部分は後述する。「又昔」で始まる一ストーリーである。その前には、「海人あまなれや、おのが物からねなく」の諺話があり、その後には「秋山之あきやまの下氷壮夫したひをとこ春山之はるやまの霞壮夫かすみをとこ」の説話が控えている。応神天皇の御代に、ああいう話もあった、そういう話もあった、こういう話もあった、というとりあげ方である。一話完結の話が三話続けられている。テーマパークでそれぞれのエリアごとに世界が完結しているように、それぞれの話だけで理解し切れる内容になっているものと考えられる。一つの話でわかり切るためには、話を外側から概観し、分析して済むものではなく、話の内側に入り込んでなるほどと得心が行く解釈でなければならない。それは、話が無文字時代に作られたと想定されるからなおのことである。口頭で伝えられただけでまったくその通りだ、話に一点の曇りもない、と納得されなければ、次の人、次の世代へと伝承されることは難しいからである。話に誤謬な点がないことが肝要である。
 実際の史実を物語っているかどうかは関係がない。一つの「話」として、その話の枠組みが作られていて、その枠組みのなかで話が自己完結しているかどうかということである。例えば、夫婦の間である話が行われたとすると、その話が円滑に成立するには、それまで営々と築き上げられてきた二人の関係性とその記憶が前提となり、当該の話は成立する。「今日、給食の時間にいじわるされたのよ」と言ったとき、二人の間には六年以上前のとある日の夜に仲良し行為が行なわれ、その結果新しい命が芽生えて、その娘なら娘がゆっくり成長して、小学校に入学してあるクラスに入り、その学校には給食があって、といった延々と続く経緯を共有していることを前提に話がなされている。天之日矛の話を唐突に聞かされて、聞く側にきちんと聞き取るだけのキャパシティーがある。聞き手は、難波にあるとされる比売碁曽の社の郷土保存会の人たちではない。皆、天之日矛の話など初耳の人たちである。それなのに聞いただけで理解して、腑に落ち、他の人に伝えていくだけの力量、自信までも体得している。
 そこにはある仕掛けがひそんでいる。我々現代人の感覚では、先に前提となる枠組みが定まってあるものとして内容を吟味していく。上の例でいえば、夫婦間の関係の記憶がそれに当たる。それに対して、無文字時代の人にとっては、話に出てくる言葉が話の枠組みまでも決めていくものと考えられていた。今では少しトリッキーに聞こえるかもしれないが、文字時代ではなく、情報化社会でもないのだから、言葉が自己言及しながら話を構成していくことは、方法論的にたくましい言葉の利用法であったといえる。それがゆえに、ヤマトコトバに言霊ことだま信仰があったとされている。言霊信仰とは、言葉に霊力があったということではなく、ことことであると厳密化して使うことで、言葉に力があるように思われたということである。



 天之日矛の話は何の話か。例えば、朝鮮半島との人的交流の歴史について、外側から史料を宛がうのではわからない。あくまでもテキストの内側から、ヤマトコトバで何と話していたのか、きちんと検証することによってのみ、話の枠組みも再構成され、それを前提に内容にも理解が向かう。したがって、稗田阿礼の声を太安万侶が書記したことの逆ベクトルをもって、ヤマトコトバの再現に臨むことが求められる。訓読文の確認こそが議論の焦点になる。
 新羅の国主の子、天之日矛が来朝したことの次第が述べられている。その理由について荒唐無稽な話が展開されている。新羅にアグヌマという沼があって、そのほとりで身分の賤しい女が昼寝していたら虹のように日が耀いていて陰部を照らしていた。同じく賤しい男が見ていて不思議に思い、その女の様子を窺っていたら、女は昼寝している最中に妊娠したようで玉を産んだ。賤しい男はその玉を欲しがって取ってしまい、いつも包んで腰につけていた。男は山の谷間に田を拓いた開拓者だった。そして、耕作に当たる人たちのために、飲食物を牛の背に乗せて運んでいた。そのとき、国主の子である天之日矛に遭遇した。天之日矛は、「どうしてお前は食べ物飲み物を牛に背負わせて山谷に入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食べるつもりだろう」と言いがかりをつけ、その男を捕まえて牢屋に入れようとした。男は答えて、「自分は牛を殺そうなどとはしていません。ただ耕作に当たる人たちに食べ物を持って行っているだけです」と言った。それでも許さなかったので、男は腰につけていた例の玉を天之日矛に提供し、許してもらった。天之日矛はその玉を持ち帰り、寝床のそばに置いていたら美女に変わった。そこで結婚して妻の一人に加えた。彼女は、いつもいろいろな珍しい食べ物を用意して、国王の子である天之日矛に食べさせていた。意のままになることで慢心した国王の子は、妻をののしることがあった。すると彼女は、「そもそも私はあなたの妻になる程度の女じゃないわ。お里に帰らせていただきます。」と言って、ひそかに小さな船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。
 この話の後段には、天之日矛も後を追って海を渡るが、難波に来ようとしたら渡の神がさえぎって入れず、但馬国で船を泊め、そこで現地の女性と結婚して子をなし、それから代々、誰々という人がいると系譜として紹介されている。そして、天之日矛が持って来た物が挙げられている。この後段については、事実的に解釈することで済まされるのであろう。しかし、前段の荒唐無稽な話については、その荒唐無稽さを解き明かさなければ理解したことにはならない。稗田阿礼、太安万侶は、この話のなぞなぞを理解していたから伝えているものと考えられる。
 玉を産む奇譚と、牛にまつわる話、代償に払った玉が美女に変身したこと、彼女が海を渡って来朝したことが述べられている。話の流れは支離滅裂とさえいえる。玉に関する奇譚はいかにも奇譚であるから置かれているのだろうと想像される(注2)が、途中の牛の話は何のことか意味不明である。そのうえ、どうして牛に食べ物を乗せて運んでいたら牛を食べるのだろうと咎められることになるのか。それらについて、これまで訳がわからないままになっている(注3)。上代には訳がわかっていたはずである。本稿ではその点にスポットを当て検討する。



 日本書紀では垂仁紀に分注形式で同様の記述がある。

 一に云はく、初め都怒我阿羅斯等つぬがあらしと、国にはべりし時に、黄牛あめうじ田器たうつはものおほせて田舎ゐなか将往く。黄牛たちまちせぬ。則ちあとままぐに、あとある郡家すきの中にとどまれり。時に、ひとり老夫をきな有りて曰はく、「いましの求むる牛は、此の郡家の中に入れり。然るに郡公すぐり曰はく、『牛のおほせたる物にりておしはかれば、必ず殺しくらはむとまうけたるなり。し其のぬし覓ぎ至らば、物を以ちてつぐのはまくのみ』といひて、即ち殺しみてき。若し『牛のあたひ何物なにを得むとおもふ』と問はば、財物たからをな望みそ。『便たより郡内すきいはひまつる神を得むと欲ふ』としか云へ」といふ。しばらくありて郡公すぐり等到りてはく、「牛の直は何物を得むと欲ふ」ととふ。こたふること老父おきなをしへの如くにす。其の祭れる神は、これ白き石ぞ。乃ち白き石を以て牛の直にてつ。因りてて来てねやの中に置く。其の神石いし美麗かほよ童女をとめりぬ。是に、阿羅斯等、大きに歓びてまぐはひせむと欲ふ。然るに阿羅斯等、他処あたしところきしに、童女、忽に失せぬ。阿羅斯等、大きに驚きて、おのに問ひて曰はく、「童女、何処いづちにかにし」といふ。対へて曰はく、「東方ひむかしにき」といふ。則ちもとめてぐ。つひに遠く海に浮びて、日本国やまとのくにに入りぬ。げる童女は、難波にいたりて、比売語曽社ひめごそのやしろの神とる。また豊国とよくに国前郡みちのくちのくにに至りて、また比売語曽社の神と為る。ならび二処ふたところいはひまつられたまふといふ。(垂仁紀二年是歳)(注4)

 記では「飲食」、紀では「田器たうつはもの」を牛に乗せている。どちらも牛を殺して食べようとしている証拠と捉えられている。
牛に牽かせる唐耒(左:室町時代、月次風俗図屏風、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0020882をトリミング、右:昭和時代,、全国水土里ネット─新・田舎人フォーラム─HPの水土里デジタルアーカイブスhttp://www.inakajin.or.jp/jigyou/tabid/264/Default.aspx?itemid=411&dispmid=601)
 タウツハモノは、田を耕す農具のことである。黄牛に背負わせているところから、牛を農耕に利用したことが想起される。牛にひかせる唐耒からすきの類であろうと直感される。それをわざわざ「田器」としている。タウツハモノは、タ(田)+ウツ(打)+ハ(刃、歯)+モノ(物)と聞こえ、先端に鉄の刃がついたすきのことを指しているとわかる。犂を牛が背負っていて、どうしてそれが牛を食べることを表しているのか。次のような用例がある。

 子麻呂等、水を以て送飯いひすき、恐りて反吐たまひつ。(子麻呂等、以水送飯、恐而反吐。)(皇極紀四年六月)
 食 スク、クフ、メス/シキ、曽力(法華経単字)
スク、呑也(色葉字類抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186813/113をトリミング)

 食べ物を水で流し込むすすり食いのような食べ方である。皇極紀の例は、寛平・延喜年間の岩崎本写本に依っている。この訓の正しさは、その場面が蘇我入鹿暗殺事件の三韓進調儀式においてのことに示されている。儀式の際に宮殿内で下士官が腹ごしらえをしているのは一見不自然であるが、給禄のひとつに食べ物が振舞われたと解釈されよう。三韓からの貢納品を食べるために、朝鮮半島式の食べ方を真似して反吐している。
 「き(キは甲類)」と「すき(キは甲類)」は同音である。舞台は新羅国の「一郡家」である。従来の訓では、「郡家」をムラ、「郡公」をムラノツカサと訓んでいるが、古代朝鮮語に村のことはスキ(キは甲類)、村主のことはスグリである。

 是を以て、百済王くだらのこにきし父子かぞこと荒田別・木羅斤資等、共に意流おるすきに会ふ。今、州流須祇つるすきと云ふ。(神功紀四十九年三月)
 大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさぶね一百七十艘をて、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。(天智紀二年八月)
 身狭村主青むさのすぐりあを(雄略紀二年十月是月)
 鞍部村主司馬達等くらつくりのすぐりしまのたちと(敏達紀十三年是歳)
 大友村主高聰おほとものすぐりかうそう(推古紀十年十月)
 磐城村主殷いはきのすぐりおほ(天智紀三年十二月是月)
 桑原村主訶都くははらのすぐりかつ(天武紀朱鳥元年四月)
 上村主百済うへのすぐりくだら(持統紀五年四月)

 したがって、犂を負った牛は、「郡家すき」では「き」の対象であるととらえられたという話になっている。わざわざ朝鮮語の言い方をするほど念の入った洒落になっている。それをヤマトの人たちが納得するのは、タ(田)+ウツ(打)もの、地面に打ちこむものは、「くひ(ヒは甲類)」であり、「ひ(ヒは甲類)」と同音になっているからである。日朝両語において、パラレルに洒落が成り立っている(注5)



 他方、どちらが先かはわからないが、そのアレンジ形と思われるものが記の「飲食」である。この語には、クラヒモノ、ヲシモノといった訓が試みられてきた(注6)。筆者は、紀の用例から考えて、スキモノという訓がふさわしいと考える。クラヒモノ、ヲシモノという言葉を表す場合には、太安万侶は「食物」と書けば良かったであろうが、ここでは「飲食」と書いている。飲み食べるような動作は、「く」行為であり、その対象は、スキモノであろう。牛の背に荷物を乗せるには、荷鞍を据えてその上に荷物を載せる。居木部分が面状の板になっている人の乗る鞍とは異なり、横木で前輪と後輪を繋ぐだけではあるが、鞍であることには違いない。唐耒を牽くためにも同様に、横木で前枠、後枠を構成した背鞍(小鞍)を置く。そこから綱を唐耒につないで牽いている。すなわち、牛に何かを載せることは、カラスキ(唐犂)を載せる場合も、スキモノ(喰物)を載せる場合も、同様にヤマトコトバのスキという言葉に直結している。だから、天之日矛は、すすり飲んで食べるようなことを考えているに違いないとして罪に問うている。言いがかりであるとばかり見られているが、文化的なギャップも見逃せないところである。
中国の首引き法による唐耒使用図(楼璹原画、狩野永納摸・耕織図、延宝4年(1676)跋、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286759/12をトリミング)
 唐耒の牽引法が本邦と新羅とでは異なっていた。河野1994.によれば、「背鞍を使う胴引き法や首引き・胴引き法は、日本以外のアジア諸国には見られないものであって、それは古く日本人の考案・開発したもの」(230頁)なのである。アジアの牛・水牛の牽引法について、河野氏の分類がわかりやすい。
 
「首引き・胴引き法」は、首木と背中の鞍を併用して引くもので、胸繫を欠く場合も多いとされ、「胴引き法」は、首木を使わず背中の鞍のみで引くもので、胸繫は併用するのが普通であるとする(226~229頁)。
二頭引き首引き法(文化遺産の世界様https://www.facebook.com/bunkaisan/videos/1495227250564190/?redirect=false)
一頭引き首引き法(江健昌様金門舊金城黄牛犂田.MOVhttps://www.youtube.com/watch?v=CDBCYD1RSr4)
一頭引き首引き・胴引き法(畜産zoo鑑様http://zookan.lin.gr.jp/kototen/nikuusi/n421.htm。先述の二例も同様の方法による。)
一頭引き胴引き法(gontaanimalhospital様牛馬耕(田起こし編・保存用)https://www.youtube.com/watch?v=ZOqf10DflDE)
 つまり、新羅の国主の子、天之日矛にとって、牛に鞍を載せて何かを背負わせることなど見たことがなかった。ヤマトから半島へ来ていた人のやり方は奇異に映った。垂仁紀の「田器」を載せて行くことは、ヤマトの胴引き法をするつもりでいたこと、応神記の「飲食」を載せて行くことも、着いた山谷の間の田では、やはり鞍を活用して胴引き法でくつもりなのであった。そんな文化的な違いについて語るために、説話において日朝の言葉の意味を取り違えながらごちゃごちゃ言っている。高等テクニックの洒落が上手に散りばめられている。
 皇極紀四年六月条の用字に、応神記の天之日矛説話の牛問答を解く大きなヒントが顕れている。「飯」とある。賤夫の抗弁に、「吾非牛、唯送田人之食耳。」とある。「送」は「送」でもオクルのであって、「田人之食」を「おくる」のみである。「牛」を「く」のではない。「牛」を「く」気などさらさらないと言っている。
 設定からして穿っている。「山谷之間」に「営田」して、そこで働く「耕人等」の「飲食」を送り届けようというのである。「耕人」は、タヒト、タカヘスヒトと訓まれてきた。抗弁の言葉に「田人」とあるから、それはタヒトと訓み、「耕人」はタカヘスヒトと訓むのが良い。田は、毎春、表土を返して柔らかくし、そのあとに水を張りつつ馬鍬などで土塊を砕いて表面を平らに均して田植えをする。「営田」して「耕人」とある場合、タ(田)+カヘス(返)+ヒト(人)の意のタカヘスヒトと訓まれなければならない。天之日矛は牛の背に鞍を置いて農耕に使うなどという天地のひっくり返るようなやり方に驚かされている。その文脈を理解できるように、当初から話の設定が組み立てられていたわけである。言葉だけで話が枠組まれつつ成立して行っている。



 そもそも、「牛」を食べることはそんなに悪いことなのか。仏教の影響から殺生が嫌われていた反映であると考えるのは賢しらごとである。殺牛祭儀との関わりを説いてみたところで、支配層から咎め立てされる筋合いのことではない。そういうことではなく、「うし」は「大人うし」と同音で、領有・支配する人の総称で、支配者層一般のことを指すことによるのだろう。

 大人うし、何ぞうれへますことはなはだしき。(履中前紀)
 今、群臣まへつきみたちうしはかる。(用明紀二年四月)

 天之日矛の話では、「一賤夫」が「其国王之子」を飲み込んで食べてしまうことを暗示しているとして、逮捕して獄に入れようとしていた。そういう背景が組み込まれている。国主の子としては、国が乗っ取られるのではないかと心配して拘禁しようと考えたということになる(注7)。それはそれで一理ある言い分ということになる。
 そして、代償として「一賤女」が生んだ「袁玉」を提出している。それは、「日の耀くことぬじの如く」したことに由来している。虹の古訓はヌジである。

 乃ち河上かはのほとりぬじの見ゆることをろちの如くして、四五丈よつゑいつつゑばかりなり。(雄略紀三年四月)
 伊香保ろの 八尺やさか堰塞ゐでに 立つぬじ〔努自〕の あらはろまでも さをさ寝てば(万3414)

 ヌジ(虹)はヌシ(主)のもとに差し出せば良いという発想である。アグヌマ(阿具奴摩)とあったのは、「山谷之間」に「営田」した際に、水利上、上流域の水を貯めるべく、堰を設けていたことを示しているのであろう。上流域の田をアゲタ(「高田」)(記上、神代紀)という。アグ(上)+ヌマ(沼)の意である。
 また、「一賤女」が生んだ「玉」については、「赤玉」と意改した鼇頭古事記に従う傾向にあるが、赤色の琥珀のようなものではない。原文は「袁玉」であり、ヲタマと訓むべきである。ヲ(緒)+タマ(玉)と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、ヤマトの話に不思議な妊娠譚として知られる三輪山伝説の「閇蘇へそ紡麻うみを」(崇神記)のことである。麻を紡んで一条に巻きこんだもので、臍のように作られている。糸を引っ張り出しても転がっていかないようになっている。本当なら妊娠するはずはないのにヘソの話になっているのは、「閇蘇へそ」のことだからという洒落である。いま、新羅の話に援用されている。だからこそ、日新の文化的対立が極められている。そして、そのとき、「赤玉」ではなく「袁玉をたま」が正しいのは、「虹」のように陰部を照射してできたとも記されているからである。何色の「閇蘇へそ」かといえば、虹を七色と捉えるならば七色の糸を巻きこんだものであったろう。「比売碁曽ひめごそ」と同音の記述である肥前風土記・基肄郡・姫社郷ひめごそのさと(注8)では織女神として祀られている。機織りと関係する玉は「閇蘇へそ」である。それが証拠に、カラフルな糸で織られた最上級の織物のことはにしきという。天之日矛は新羅のこにきしの子であった。
 以上、応神記にある天之日矛説話の文脈の frame analysis (注9)を行った。話を読みながらその話を編成する枠組みまでも把握することに努めた。記紀の説話に frame analysis 的解釈が効果的なのは、それらが無文字によって成立したものだからである。記述という手段を介さずに想起しつつ記憶するには、使われている言葉の音以外に頼るものがない。そんな時代の人々に共有されるためには、必然的に、言葉で言葉を語る自己循環的な戦略が求められた。音が空中を飛んでいるその瞬間に、相手がなるほどと納得して記憶が定着しなければならないからである。話が起こされるに当たり、従前の話とは別の話が流れるように起こりながらもそれが一個の話として枠組まれなければ、話は話として成り立たない。話という<図>が、<地>から区別されて立ち上がるためには額縁が必要である。その額縁について話すのと同時並行的に話の内容を作り上げていくことが、上代説話に特徴的な、ミラクルとも言える言語活動である。記紀説話が何を言っているのかわからないからといって、その外部から、史実や遺物などから解釈しようとすることは、額縁を軽視していて<図>を見誤ることになる。記紀説話を「読む」ためには、その内部から話の額縁を定位しつつ話の内実を探る以外に方法はない。記紀の説話を考えた上代の人たちは、そうやって話を拵えていたのだから、その順序をたどり直せば、そもそもの上代人のものの考え方に近づくことができる。それは記紀万葉を対象化して研究することを超えて、臨場して現場検証をすることになる。記紀万葉に生きた人々は、我々とはものの考え方が異なると知ることができて、はじめて「読む」価値のあるものだとの認識に到達する。異世界、異次元のこととして理解され、ようやく本来の姿が日の目を見ることになる。これまでの漫然とした記紀万葉研究は無意味であったと気づかされ、土台から覆されることになるだろう(注10)

(注)
(注1)以下に、真福寺本を底本に校訂したテキストを示す。
又昔有新羅國主之子名謂天之日矛是人參渡来也所以參渡来者新羅國有一沼名謂阿具奴摩自阿下四字以音此沼之𨖂一賤女晝寢於是日耀如虹指其隂上亦有一賤夫思異其状恒伺其女人之行故是女人自其晝寢時妊身生𡊮玉尒其所伺賤夫乞取其玉恒褁著腰此人營田於山谷之間故耕人等之飲食負一牛而入山谷之中遇逢其國主之子天之日矛尒問其人曰何汝飲食負牛入山谷汝必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛唯送田人之食耳然猶不赦尒解其腰之玉幣其國主之子故赦其賤夫将来其玉置於床𨖂即化𫟈麗孃子仍婚為嫡妻尒其孃子常設種々之珎味恒食其夫故其國主之子心奢詈妻其女人言凢吾者非應為汝妻之女将行吾祖之國即竊乗小船逃遁度来留于難波此者㘴難波之比賣碁曾社謂阿加流比賣神者也
 多くは現行本と同じ校訂となっている。ただし、「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」の2つの「飲」字は、真福寺本どおりにした。兼永筆本の字について、本居宣長・古事記伝は「殺」の異体字であると認め、以降みな従っている。しかし、「殺」字の異体字、俗字の類に、「煞」、「𢦳」、「」(欧陽詢・史事帖、日本書紀(例えば、書陵部本日本書紀https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(32/36))とあるものの、似て非なる字である。兼永筆本は、「飲」字の欠けを見たように思われる。
「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」(左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、右:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/66をトリミング)
 また、「妊身生袁玉」の「袁玉」は、鼇頭古事記に従い諸本に「赤玉」とするが、「袁玉」で正しいものとした。
「妊身生袁玉」(左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、中:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/65をトリミング、右:延佳神主校正・鼈頭古事記、新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100181864/viewer/127をトリミング)
(注2)神話学では、日光感精説話と卵生説話の合体したものであると目されている。中国の史書や仏典や朝鮮半島の思想的な背景をもって天之日矛伝承は育まれて成立し、文章化されて一史料として古事記に収められたと考えられている。それらの議論の根拠は薄弱なものであり、ただ話が似ているからというに過ぎない。だから何なのか、どうして古事記にこのような話が載せられているのか、という本質的な問いに答えずして覆い隠すばかりである。昨今は、古事記の字面の書き方のお手本に何を使ったかという、いわゆる出典論(「手紙の書き方」という文献と字面が似ていることを辿っても生産的ではない)に注意が向けられている。三品1971.、福島1988.、王2011.、大村2013.による。
(注3)文献資料から、牛を殺して捧げものとする信仰には、雨乞いを中心とした農耕儀礼に関わるものや漢神を祀って祟りを祓うものがあったことが知られている。「[大旱ニ対シテ]村々の祝部はふりべ所教をしへままに、或いは牛馬を殺して、もろもろの社の神をいのる。」(皇極紀元年七月)、「あるいは、昔在むかし神代に、大地主神おほなぬしのかみ、田をつくる日、牛のししを以て田人たひとに食はしむ。時に、御歳神みとしのかみの子、其の田に至りてあへつはきて還り、かたちを以てかぞまをす。御歳神、怒りを発して、おほねむしを以て其の田に放つ。苗の葉たちまちに枯れせて篠竹しのれり。是に、大地主神、片巫かたかうなぎ志止々鳥しとととり〉・肱巫ひぢかむなぎ〈今の竈輪かまわまた米占よねうらなり。〉をして其のよしを占ひ求めしむるに、「御歳神たたりを為す。白猪・白馬・白鶏しろかけを献りて、其の怒りを解くべし」とまをす。教へに依りてみ奉る。御歳神答へて曰はく、「まことに吾がこころぞ。麻柄あさがらを以てかせひに作りて之を桛ひ、乃ち其の葉を以て之を掃ひ、天押草あめのおしくさを以て之を押し、烏扇からすあふぎを以て之を扇ぐべし。若し此の如くして出で去らずは、牛の宍を以て溝の口に置きて、男茎形をはせがたを作りて之に加へ、〈是、其の心をまじなふ所以なり。〉薏子つすだま蜀椒なるはじかみ呉桃くるみの葉、また塩を以て其のあかち置くべし〈薏玉は都須玉つすだまといふなり。〉」とのりたまふ。仍りて其の教へに従ひしかば、苗の葉また茂り、年穀たなつもの豊稔ゆたかなり。是、今の神祇官、白猪・白馬・白鶏を以て、御歳神を祭る縁なり。」(古語拾遺・御歳神)といった例が引かれる。殺牛祭祀があったとされるのであるが、天之日矛が祭祀を咎めていると読み取ることはできない。本邦では一般に、神へのお供え物として捧げたものは、お祭りが終わったら下げてきて皆で食べていた。その点を含めて整理した論考はいまだなく、理解は深まっていない。牛に荷を載せて運ぶ姿を見せた途端、牛を食べるのではないかと疑われた日には、農耕、土木、運輸などの肉体労働者はとてもじゃないがやっていられない。天之日矛の言いがかりについて、それが何故行われて然りとされたのか正されなければならず、論点をすり替えていては何もわからない。佐伯1970.、門田2011.、村上2013.、烏谷2019.等参照。そもそも記紀説話の問題点はそのあたりの理屈にあるのではなく、言葉のなぞなぞにある。一回性の語りのなかで本質が直観させられなければ、話は伝わるものではあり得ないからである。
(注4)以下に、原文を示す。訓読においては、筆者の考えにより、古訓に見られないものも施してある。
一云初都怒我阿羅斯等有國之時黄牛負田器将往田舎黄牛忽失則尋迹覓之跡留一郡家中時有一老夫曰汝所求牛者入於此郡家中然郡公䓁曰由牛所負物而推之必設殺食若其主覓至則以物償耳即殺食也若問牛直欲得何物莫望財物便欲得郡内祭神云尒俄而郡公䓁到之曰牛直欲得何物對如老父之教其所祭神是白石也乃以白石授牛直因以将来置于寝中其神石化𫟈麗童女於是阿羅斯䓁大歡之欲合然阿羅斯䓁去他𠁅之間童女忽失也阿羅斯等大驚之問己婦曰童女何𠁅去矣對曰向東方則尋追求遂遠浮海以入日本國所求童女者詣于難波為比賣語曽社神且至豊國々前郡復為比賣語曽社神並二𠁅見祭焉。
(注5)上代語に「く」、「ふ」と言葉にカテゴライズされている。あるいは、本邦において、食事はふつうならば「ふ」ものであり、朝鮮半島に「く」のが習慣的であると把握されていたかもしれない。これは、米飯を主とした食べ物に、いかなる調理法で、いかなる食事法で摂っていたかという問題と絡んでくるとも考えられるが、議論が散乱してしまうのでここではこれ以上は深入りせず、ひとまずは、朝鮮半島からの貢ぎ物には乾物系の品が多かったからと理解しておきたい。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「○飲食は、久良比母能クラヒモノと訓べし、【飲字にカヽハるべからず、又飲物ノミモノを兼てもくらひものと云べし、土左日記に、おのれし酒をくらひつればなどもあり、】次に食とあるも同じ、書紀神武巻に、盛クラヒモノ、宣化巻に、クラヒモノ天下之本也、天武巻に、以タダビト供養クラヒモノ之など、皆然訓り、【神代巻又持統巻などには、飲食を、ヲシモノ○○○○と訓たれど、はよろしきほどの人に云言と聞ゆ、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/302、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注7)佐伯1970.256頁に、延暦期に殺牛祭祀が強く禁じられていた理由に、時の桓武天皇が丑歳であったことと関係するとしている。人々が牛を殺して漢神をまつり、怨霊をなぐさめ、その祟りを国家の支配者たる桓武天皇に向けられることは断じてあってはならないと感じたであろうからとしている。同じ構造が、ヤマトコトバのうし大人うしの間にあったと天之日矛が一人考えていたのであろうと考える。桓武天皇は神経質である一方、天之日矛の話は頓智話である。
(注8)「其の夜、いめに、臥機 久都毗枳くつびきと謂ふ。と絡垜 多々利たたりと謂ふ。と、儛ひ遊び出で来て、珂是古かぜこし驚かすと見き。ここに亦、女神ひめがみなることを識りき。即ち社を立てて祭りき。それより已来このかた、路行く人殺害ころされず。因りて姫社ひめごそと曰ひ、今は郷の名と為せり。」(肥前風土記・基肄郡)
(注9)社会学者のゴフマンによる。議論は、現実自体を問うのではなく、どのような状況下で経験や世界はリアルとなるのか、その現実感について問うことから始まる。

思うに、状況がどのようなものか毎回毎回定まるのは、それが個々の出来事、少なくとも社会的な出来事をまとめて体系化する原理・原則に依って立っているからであるし、そんな原理・原則に自ら自身が与っていることに依って立っているからである。すなわち、フレームという言葉を使って進んでゆけば、私にも見極め可能な初歩的な細事に落とし込めるのである。フレームがどう決まるかこそが、私の議論の要である。「フレーム分析」という言い回しをスローガンにして研究の初めの一歩を踏み出せば、経験がいかに体系化されているのかを知ることにつながるのだ。(I assume that definitions of a situation are built up in accordance with principles of organization which govern events―at least social ones―and our subjective involvement in them; frame is the word I use to refer to such of these basic elements as I am able to identify. That is my definition of frame. My phrase “frame analysis” is a slogan to refer to the examination in these terms of the organization of experience.(Goffman, 1974. 10-11pp.))

 言語学者のフィルモアのフレーム意味論では、フレームは経験的知識であり、テキストに接するとき、私たちは心の中にフレームを想起したり、喚起させられたりしているとする。

解釈する人の心の中で、言葉の形や文法構造、言葉遊びが慣習となっていればそれがフレームの指標として働き、自然とこれはそういうフレームなのだと「喚び起こされる」ことになるし、他方、よく定まらない場合でも、解釈する人がテキストの筋が通るように当てがってゆくにしたがって、全体に行きわたる解釈のフレームを「想い起こす」ものである。(On the one hand, we have cases in which the lexical and grammatical material observable in the text‘evokes’the relevant frames in the mind of the interpreter by virtue of the fact that these lexical forms or these grammatical structures or categories exist as indices of these frames; on the other hand, we have cases in which the interpreter assigns coherence to a text by‘invoking’a particular interpretive frame.(Fillmore, 1982. 124p.))


(注10)応神記に天之日矛説話は所載されている。都怒我阿羅斯等の記事は垂仁紀に所載されている。応神天皇は、中国の史書に倭の五王の讃に当たるかとする説がある。それによるならば五世紀前半である。一方、本邦において、牛耕で唐耒が用いられ始めたとされている時期は、それよりもずっと遅れて七世紀かとさえ言われている。遺物として唐耒が出土しないからであり、農耕には牛よりも馬がよく使われたとも考えられている。そもそも小鞍を載せるようになったのは、馬の鞍に由来すると考えられている。ただし、牛の骨の出土例からすると馬と同じぐらいには渡って来ているとも言う。考えなければならないのは牛馬の絶対数である。乗馬のための威信財として馬が盛んに飼育され、そのうちの駄馬は農耕に回されたとすると、馬に馬鍬を牽かせるという本邦に特殊な方法も理解できる。数が少ない牛による唐耒の活用法については、馬に倣って独自に開発したと仮定するなら、韓半島に見られない牽引法による牛の一頭引き胴引き法が行なわれ、それが珍しがられたということもあり得ることであろう。河野1994.に、「馬が馬鍬で代掻き作業をするときの在来の牽引法は、田鞍や代鞍と呼ぶ背中の鞍による胴引き法であった。」(229頁)とある。理屈としてはそのように解釈可能であるが、時代考証的にはさらに検討が必要である。後考を俟ちたい。
 なお、蔚山地域では、倭人が鉄鉱石の採取活動に関わっていた痕跡があるとされている。

(引用・参考文献)
王2011. 王小林『日本古代文献の漢籍受容に関する研究』和泉書院、2011年。
大村2013. 大村明広「『古事記』天之日矛渡来条に見られる日光感精譚について─出典論を中心に─」『上智大学国文学論集』46、平成25年1月。上智大学学術機関リポジトリhttp://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000033255
烏谷2019. 烏谷知子「天之日矛伝承の考察」『学苑』939号、2019年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1203/00006342/
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
Goffman, 1974. Erving Goffman, Frame Analysis : An essay on the Organization of Experience, Harper & Row, New York, 1974.
佐伯1970. 佐伯有清『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、昭和45年。
Fillmore, 1982.   Charles J. Fillmore, Frame Semantics. In The Linguistic Society of Korea (ed.) Linguistics in the Morning Calm, Hanshin Publishing, Seoul, 111-137pp, 1982.
福島1988. 福島秋穂『記紀神話伝説の研究』六興出版、1988年。
三品1971. 『三品彰英論文集 三巻 神話と文化史』平凡社、昭和46年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。
門田2011. 門田誠一「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜─新羅と日本古代の事例の位置づけ─」『佛教大学歴史学部論集』創刊号、2011年3月。佛教大学論文目録リポジトリhttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_RO000100004710(『東アジア古代金石文研究』法藏館、2016年。)

※本稿は、2020年2月稿の誤りを2024年5月に正し、ルビ形式にしたものである。