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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「醜(しこ)の御楯(みたて)」考(万4373)

2025年08月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集
アメブロにて掲載

醜(しこ)の醜草(しこぐさ)─離絶数年を経て大伴大嬢に贈る歌─

2025年07月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集
引越し先に掲載。

高橋虫麻呂の富士山の歌

2025年07月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 高橋虫麻呂には富士山を詠んだ歌がある。

  尽山じのやまを詠む歌一首〈あはせて短歌〉〔詠不盡山歌一首〈并短歌〉〕
 なまよみの 甲斐かひの国 うち寄する 駿するの国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽のたかは 天雲あまくもも いきはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もちち 降る雪を 火もちちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも います神かも 石花の海と 名づけてあるも その山の つつめる海そ 不尽ふじかはと 人の渡るも その山の 水のたぎちそ もとの 大和やまとの国の しづめとも います神かも 宝とも 成れる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れどかぬかも〔奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國与己知其智乃國之三中従出立有不盡能高嶺者天雲毛伊去波伐加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知霊母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曽不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當焉日本之山跡國乃鎮十方座祇可聞寳十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞〕(万319)
  反歌〔反謌〕
 不尽のに 降り置く雪は 六月みなつきの 十五日もちゆれば その降りけり〔不盡嶺尓零置雪者六月十五日消者其夜布里家利〕(万320)
 布士ふじを 高みかしこみ 天雲も い行きはばかり たなびくものを〔布士能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽斤田菜引物緒〕(万321)
  右の一首は、高橋たかはしのむらじむし麻呂まろの歌の中に出づ。たぐひちてここす。〔右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此〕

 山部赤人の不尽山の歌では、フジという言葉をフ(斑、縞)+ジ(~のような)の意と解して、その横縞に冠雪した様子を示しているとおもしろがって歌にしていた(注1)
 高橋虫麻呂の歌でもその意を引き継いで始めている。ヨコシマであり続けなければならない。
 反歌二首では素直に受け取れる。
 夏六月、ミナツキはミナ(蜷)のようであるはずで、黒い姿の巻貝が尖がり頭をしているように頭から白いものが取れなければならない。だから、ミナツキの最高潮であるモチ(望)の日にはその日の昼間だけそうなると言っている。とはいえ標高が高いから、夜の訪れとともにまた雪が降って再び横縞柄に戻るとしておどけている。ヨコシマという語には二義あり、横に縞になっていることと正常でないこと、漢字では「邪」と書かれることとをいう。フジという山は、その両義を兼ね備えていると詠んでいるのである。
 そのように雪が絶えず降るのも、雨雲が、フジの嶺のあまりにも高いことを恐れ多いと思い、そこから去り行くことを憚って、たなびいているからなのだなあ、と変な辻褄合わせをしている。
 長歌では、赤人が駿河にある富士山のことを詠んでいたのとは異なり、虫麻呂は甲斐と駿河の間にあって、あちこちの国の真ん中にあるものとして富士山を詠もうとしている。赤人は誰もが覚えている神話的逸話から説き起こしていた。一方、虫麻呂は地誌的要素を主に独自の解釈から解き明かそうとしている。この両者の違いを際立たせて捉えるか、共通点をこそ見るべきか議論されてきた。しかるに事の本質は、歌がジョークとして楽しめるよう模索された点にある。
 富士山の特徴として、とても高くて雪が絶えず降って横縞模様になっていることに加え、噴火している実態についても触れる歌となっている。その際、ヨコシマなのだから、そのありさまはよこしまなもの、あまのじゃくなものであるというのである。最初に鳥を素材にしている。「飛ぶ鳥も 飛びものぼらず」という。鳥は高すぎて頂上まで行けないのは当然であるが、その時、「飛ぶ鳥」を主語に据えている。「飛ぶ鳥」は「飛ぶ」能力があってそれが運命であるはずなのに、飛んでいるのにのぼっていかないことになっている。飛んでいたらふつうはのぼっていくはずが、フジの高嶺の邪な渦に巻き込まれ、あまのじゃくなことに陥っている。
 噴火していることについても、「燃ゆる火を 雪もちち」でありつつ、「降る雪を 火もちちつつ」であるという。どっちつかずのあまのじゃく状態に陥っているのは、邪な性格の影響から逃れられ得ないからである。
 そうなると、そこに神がいましたとしても、どう言葉で表現し、どう名づけて定めたらいいかわからない。これはとても不思議なことである(注2)。「くすしくも います神かも」について、言葉の表面上から、不思議な神が鎮座していると受け取ることは文脈を無視した見方である。山に座す神は、例えば三輪山には大物主神が、葛城山には一言主神が座すと言い当てることができたが、富士山の場合、名づけようがないことになっている。むろん、名がないのは、ヤマトの人にとって遠いところの馴染みの薄い山のこととて、神話を創作していなかったからに他ならないのだが、それをとぼけて歌に歌い込んでいるわけである。
 「くすし」は、人知を超えていて不思議であるという意味である。その「くすし」さは、周辺の地名からも明らかであると主張している。すなわち、富士山を包むように取り囲んでいる富士五湖が、当時は一部つながっていて「石花の海と 名づけてある」(注3)のだったが、「石花」とはカメノテのことである。和名抄に、「尨蹄子 崔禹食経に云はく、尨蹄子〈〉は貌、犬の蹄に似て石に付き生える者なりといふ。兼名苑注に云はく、石花〈或に華に作る〉は二三月して皆、紫の花をばし石に付きて生ゆ、故に以て名くといふ。」とある。海岸に棲息する節足動物、甲殻類に属する。潮が満ちると亀が手を出すように肢を出す。亀は祥瑞として神亀と見られることがあった。くすしさの現れであると虫麻呂は戯言をほざいている。
 「不尽ふじかはと 人の渡る」というのも、富士山が横縞であるなら、そこから流れ出る「不尽ふじかは」も river 本来の流れ、縦に流れる「川」の形状をとらず、「三」のように波打つこととなっていて、だから人は渡れるのだとし、流れていることよりも逆巻いて波立つこと、「たぎち」して現れていると変な解釈を披露している。
富士川の流れと船の進み

(以下略)

全文は引越し先ameblo記事「ヤマトコトバ学会」に掲載。

「男じもの」について

2025年07月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
引越し先のamebloにて掲載。
ヤマトコトバ学会ホームページにも掲載。

景行記の「恒令経長服、亦勿婚而惚也。」について

2025年07月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
景行記の「恒令経長服、亦勿婚而惚也。」について(アメブロ引越し)

黒木歌群─大伴家持と紀女郎の相聞歌─

2025年07月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
引越し先のameblo記事「黒木歌群─大伴家持と紀女郎の相聞歌─」https://ameblo.jp/katodesuryoheidesu/entry-12902360956.html

聖武天皇の節度使に酒を賜う御歌─「たむだく」の語義をめぐって─

2025年06月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻六に、聖武天皇が派遣する節度使に向けて作ったとされる歌が載る。

  天皇すめらみことみき節度使せつどしまへつきみたちに賜ふ御歌おほみうた一首〈あはせて短歌〉〔天皇賜酒節度使卿等御謌一首〈并短哥〉〕
 す国の とほ朝廷みかどに 汝等いましらが かくまかりなば たひらけく われは遊ばむ 手抱たむだきて 我はいまさむ 天皇すめらわれ うづ御手みてもち かきでそ ねぎたまふ うち撫でそ ねぎたまふ かへりむ日 相飲まむそ このとよ御酒みきは(万973)〔食国遠乃御朝庭尓汝等之如是退去者平久吾者将遊手抱而我者将御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曽祢宜賜打撫曽祢宜賜将還来日相飲酒曽此豊御酒者〕
  反歌一首〔反謌一首〕
 大夫ますらをの くといふ道そ おほろかに 思ひて行くな 大夫のとも〔大夫之去跡云道曽凡可尓念而行勿大夫之伴〕(万974)
  右の御歌おほみうたは、或に云ふ、太上天皇おほきすめらみことの御製なりといふ。〔右御謌者或云太上天皇御製也〕

 新大系文庫本の訳を掲げる。

  聖武天皇が酒を節度使の卿たちに下賜なさった時の御歌一首と短歌
治めたもう国の遠くの朝廷に、そなたたちが節度使としてこうして赴いたら、心安らかに私は遊ぼう。のんびり腕を組んで私はいらっしゃろう。天皇である私は高貴な御手をもって、卿等の髪を撫でて労をおねぎらいになる。頭を撫でて労をおねぎらいになる。そなたたちが帰って来た日にはともに酌み交わす酒であるぞ、この美酒は。(万973)
ますらおの行くという道だぞ。いい加減に思って行くな。ますらおたちよ。(万974)
  右の御歌は、或る本には「太上天皇(元正天皇)の御歌だ」と言う。(177~179頁)

 左注により、太上天皇(元正天皇)の作かもしれないと指摘されている。「右御歌」の「右」が万973・974番歌の両方を指すのか、万974番の反歌だけを指すのか不明であるが、左注が特に断っていないから両方ともを指すものと考えるのが妥当であろう。長歌では自敬表現が目立ち、「す国」、「我はいまさむ」、「うづ御手みて」、「ねぎたまふ」とある。そのため、天皇が自ら作ったのではなく、中務省あたりで起草されたのではないかとの憶測も呼んでいる(注1)。起草者が天皇に対して敬意を表した反映と考えられるというが、そのような発想はどうなのだろうか。歌は宣命ではない。左注に元正太上天皇の御製かもしれないと言っているのなら、彼女が聖武天皇に代わって作ったと考えるのが第一なのではないか。聖武天皇が歌うべき歌を、元正太上天皇が代わりに歌っているとするのである(注2)
 これまで問題点としてとりあげられて検討され、解決に至ったと思われている言葉に「手抱たむだきて」がある。「「手抱きて」は腕を組んで何もしないこと。漢語「拱手」の和訳か。無為にして天下を治める聖天子のあり方。「手抱き(手拱)て事なき御代と」(四二五四)。「大王拱手して須()たば、天下徧(あまね)く随ひて伏せむ」(戦国策・秦第一)。」(新大系文庫本179頁)と概説されている。
 漢語「拱手」は、中国において聖帝が立つと、放っておいてもうまく治まるというときに用いられるから、その和訓語としてタムダクという言葉が作られ、同じ文脈でここでも使われているというのである。尚書・周書・武成に「信ヲあつくシ義ヲ明ニシ徳ヲたつとビ功ヲすすムレバ垂拱シテ天下治マル」とあり、蔡注に「衣ヲレ手ヲむだキテ天下おのづカラ治マル」と見えるのを契沖(注3)が採って以来、そう受け取るものと信じられてきた。近年でも菊地2024.はこの説を推し進め、「「垂拱而天下治」の儒教倫理は朝廷において広く共有される事柄であったと考えられる。」(107頁)と述べている(注4)
 この言説には不備がある。「惇信明義、崇功、垂拱而天下治。」は前から読んでいく。結果的に為政者は何もしなくてもうまく治まるものだと言っている。今歌いかけている相手、派遣する節度使だけが言うことをよく聞いて役務をかなえたからといって、他の官吏のなかに信義に悖り、不徳で、論功行賞に偏りがあったら天皇は「垂拱」などしていられない。そもそも、わが国は、「大王拱手以須、天下遍随而伏、伯王之名可成也。」という事態を文化的に負っていない。中国とヤマトを一緒くたにするとは思われないのである。役人が下ごしらえした草案歌だとし、漢籍由来の語が堂々と幅を利かせているということはあり得ない。聞いた人がわからないことを言っても仕方がないからである。歌を聞いているのは節度使に任命された卿の四人(注5)ばかりでなく、そのまわりに控えている下級の人々も含まれている。題詞に「節度使卿」と明記されている。酒を賜う時に家来を大勢引き連れて来て皆で楽しめるようにすることは、卿も天皇もそのつもりでいたに違いあるまい。上の者ばかりで贅沢していたら誰もついて来ないだろうし、節度使にも付いて行かないだろう。中国と同じように天皇が「拱手」するだけで天下が治まるように勤めてくれよと、宴会参加者全員に説いて伝えることは難しいのである。居合わせている節度使卿の家来、役所勤めの警備員やケータリング係などは酒宴にばかり関心がある。相手に通じないことを歌にして大きな声をあげることは、ない。
 すなわち、歌を聞いた人が皆、なるほどそのとおりだと納得するものでなければならないのである。事情は題詞にあるとおり、節度使に任命して派遣するに当たっての前祝いである。節度使はこのとき初めて定められたとされているが、そのような事態としてはヤマトの逸話で誰もが知っている。ヤマトタケルの派遣のことである(注6)。有名な話だからそれを念頭に歌が作られて人々に受け入れられたに違いあるまい。反歌にくり返されている言葉からして検証される。「大夫ますらを」である。ヤマトタケルは「大夫ますらを」と呼ぶに最適の人物像をしている(注7)
 つまり、中国の「大王拱手……」を典故として語られたものではなく、ヤマトタケルの話をもとにして構成されたものがこの二首である。「節度使」のことをヤマトタケルになぞらえ、「聖武天皇」のことを景行天皇になぞらえている。
 長歌に「ねぐ」という言葉が登場している。景行記にもネグという言葉が出てくる(注8)。ヤマトタケルが若かりし頃、小碓命をうすのみことと呼ばれており、兄に大碓命おほうすのみことがいた。景行天皇は、兄のほうが朝食会、夕食会に出て来ないのをいぶかしがり、小碓命をうすのみことに出て来させるよう取り計らわせた。その時、ネグ、心が安らぐように拝み倒せと命じたのであったが、彼は、ネグを別の意にとり、手足をもぎとって殺処分してしまった。新撰字鏡に、「麻採 祢具ねぐ」とあり、麻の種子を採るために枝をもぎ取るように四肢を分けてしまった(注9)小碓命をうすのみことの荒ぶる心を天皇は恐れ、全国を掃討するように西に東に向かわせている。彼は後にヤマトタケルと呼ばれ、その派遣は節度使と同じことだというわけである。
 長歌のなかに「たひらけく われは遊ばむ 手抱たむだきて 我はいまさむ〔平久吾者将遊手抱而我者将御在〕」とある。
 後者の「いまさむ」が自称敬語だから、前者の「将遊」もそのように訓むべきだろう。すなわち、「たひらけく われは遊ばさむ〔平久吾者将遊〕」と訓むのである。「遊ばす」は「する」の尊敬語で、「なさる」の意である。具体的に何かをする、ないし、演奏をしたり狩りをしたり神遊びしたりするということではなく、何をするのでも「たひらけく」、穏やかに無事安泰に行うことができるということを一般論として述べているものと思われる。ただし、歌の根底にはヤマトタケルの逸話がからんでいる。その文脈に沿って考えれば思い浮かぶ一節がある。景行天皇は彼に「東方ひむかしのかた十二道とをあまりふたつのみちあらぶる神とまつろはぬ人等ひとどもとをことやはたひらげよ」(景行記)と言って東方征伐に向かわせていた。ヤマトタケルが「たひらげ」るから天皇は「たひらけく」いられるということであろう。それが第一の要点である。そして、オホウスノミコトが出席していなかった「大御食おほみけ」についても、無事に行われて天皇は御馳走を平らげることができる。それが第二の要点である。歌が歌われている時点で、節度使等に「賜酒」て大御食おほみけを開催しているのだから、大御食を「遊ばす」ことを暗示して述べていて、人々に受け入られやすかったと考えられる。
 「手抱たむだく」が和訳語かどうかはさておき、意味としては手を出さないでいること、手を拱いていることである。ヤマトタケル(ヲウスノミコ)はオホウスノミコトをネグした。つまり、手をもぎ取ってしまったのであった。そんな「たけあらこころおそりて」、節度使的な任務がふさわしいと考え、各地の征伐のために派遣したのであった。ヤマトタケルは大夫ますらをである。身近に置いていたら手がもぎ取られてしまう。ちょっとでも手を出したら掴まれてネグされるから「手抱たむだきて」、天皇は手を自分の体に巻きつけてじっとしていると洒落を言っているのである。長歌と反歌の結びつきがわかるように試訳しておく。

 治めたもう国の遠くの朝廷に、そなたたちが節度使としてヤマトタケルのように赴いたら、心安らかに我は大御食おほみけあそばすことぞ。腕組みしたまま手つかずに我は御座すことぞ。景行天皇に当たる我は高貴なる御手で、卿等の髪を撫でてネグなさり、頭を撫でてネグなさる。そなたたちが帰って来た暁には、再びともに酌み交わす酒であるぞ、この美酒は。無事に帰って来いよ。(万973)
 ヤマトタケルに代表される大夫ますらおの行くという道であるぞ。お前たちは大夫なのだ。敵がたくさんいるから気持ちを引き締めて行けよ、大夫たちよ。(万974)

(注)
(注1)今日も引かれる代表的な考え方として武田1956.がある。「かような臣下を奨励される性質の歌には、型があつて、時に臨んで下されたものであり、巻の十九にも遣唐使に酒肴を賜わる歌(四二六四)があつて、後半は同一の詞章から成つている。数代の天皇に同型の御歌があり、それでここにも作者の別伝を存するに至つたのであろう。真実の作者は、宣命と同じく中務省あたりで起草したであろう。なお巻の十九は、助詞などを小字で書き、いわゆる宣命書せんみようがきになっているが、それが原形であつたと考えられ、この歌ももとは宣命書きになつていたのであろうと推測される。」(115頁、漢字の旧字体は改めた)としている。踏襲している奥村2001.も、「聖武の歌が、重要な政策の実行にあたって臣下に親しく天皇の意向、言わば内意を伝える点で、宣命と並ぶ効果を期待されている」(39頁)という。 養老公式令に歌の型は載せておらず、無用の憶測である。
(注2)万8番歌、額田王の熟田津の歌の左注のなかにも、「即此歌者天皇御製焉」とあり、斉明天皇の歌であるとする別伝を伝えている。その場合、額田王が斉明天皇に代わって、その歌いたいところ、人々に発表したいことを声に出して歌っているために別伝が記されている。当該歌の場合、「賜酒節度使卿等御歌」とする主役が天皇なのか太上天皇なのかといえば、執政者は天皇だから天皇であり、歌の実作者としては太上天皇であったと見るのが穏当ではないか。聖武天皇は32歳、伯母に当たる元正太上天皇は53歳である。昔話により親しんでいた世代のほうが作歌しやすかったであろう。
 なお、この代作とする考えは、万973番歌に見られる自敬表現との関係からいくつかの立場が析出され、それぞれに論じられてきた。西田1995.に研究史が概説されており、西田氏自身は「「天皇語」としての「自敬表現」の確立」(152頁)期に当たるものと当て推量している。筆者は、少なくとも当該歌に関して自称敬語を使う自敬表現は、往年の帝やヒーローとの関係から作られたものと捉えている。景行天皇やヤマトタケルにあやかりながら今ここにいる自分(聖武天皇)と節度使卿のことを言おうとしているのだから、敬語表現を自らに適用するにかなっている。猪股2016.は、古事記歌謡における人称転換と自称敬語とのかかわりを見ている。自敬表現が確立しているから行われているのだとする演繹的発想ではなく、それぞれの歌に即して一つずつ解釈していくことが求められるだろう。
 残念ながら現状では、影山2009.に、「節度使発遣という重大な場面に際して……[万973番歌]は必ず天皇自身が直々にうたわなければならない歌であった。天皇が自ら一人ひとりの節度使に対して労いのことばをかけ、勇気づけて送り出すところに一首の目的がある。それゆえ一首には「天皇御製歌」としての特別な装いが凝らされる必要があり、その要請から自敬表現を頻用するこのような文体が選択されたと見るべきである。」(199~200頁)とあるように大仰な言述が行われ、誤解されたままである。 節度使卿は酒食のために集まっているのであって、労ってもらいたくて参内しているわけではない。
(注3)契沖・萬葉代匠記初稿本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979063/1/118)参照。
(注4)「天命を受けた聖君に仕える廷臣は賢臣としてともに天命を果たすべき存在であり、そこに賢臣の適切な任用が求められ、結果、無為の「手抱きて」という理想的なあり方が将来されることになる。そうした賢臣は、聖武天皇御製歌の反歌においては「ますらを」の語で示され、規範としての「ますらを」像はすぐれた律令官人としてとらえられる。」(菊地2024.113~114頁) と、天動説のような予定調和が語られている。懐風藻の漢詩のうち、紀古麻呂、藤原総前の作に「垂拱すゐきよう」という熟語が用いられており、意味も尚書の例と同じであるが、文選の使用例を引いてきて形にしているだけで言葉に習熟しているとは言えない。元明天皇の和銅元年七月詔にも「垂拱」はみえるが、衣を垂れ手をこまねくことをタムダクと訓んだ形跡はない。儒教倫理が官人層に浸透していたとの仮定は非常に怪しいものである。聖武天皇は仏教思想に近づこうとしていたのではないか。
(注5)続紀に、「○丁亥。……正三位藤原朝臣房前を東海・東山二道節度使と。従三位多治比真人県守を山陰道節度使と為。従三位藤原朝臣宇合を西海道節度使と為。道別に判官四人、主典四人、医師一人、陰陽師一人。」(天平四年(732)八月)とある。
(注6)ヤマトタケルはクマソタケル、イヅモタケルを征服して帰還後、さらに東方十二道の平定に派遣されている。同様の事績としては、崇神紀十年条に載る四道将軍の派遣があり、崇神記にも諸道への派遣の記事があるものの、逸話として展開しておらず、人々の興味を引いていたとは考えにくい。よく知られている話こそ歌の素材のために典故とするに値する。
(注7)拙稿「 舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合い─「ますらを」考─」参照。
(注8)該当記事は次のとおりである。

 天皇すめらみこと小碓命をうすのみことのりたまはく、「何とかもなむちが兄の朝夕あさゆふ大御食おほみけに参ゐ出で来ぬ。もはら汝、ねぎ教へ覚せ」泥疑の二字は音を以ゐよ。下此に效へ。如此かく詔ひてより以後のち、五日に至るまで、猶参ゐ出でず。爾くして、天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何とかも汝の兄の久しく参ゐ出でぬ。若し未だをしへず有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしき。又、詔はく、「如何にかねぎつる」とのりたまふに、答へて白さく、「朝署あさけかはやに入りし時に、待ち捕へひだきて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とまをしき。(景行記)

(注9)拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/42b91b8f45b343169823f78564c19e54参照。

(引用・参考文献)
猪股2016. 猪股ときわ『異類に成る─歌・舞・遊びの古事記─』森話社、2016年。
奥村2001. 奥村和美「家持歌と宣命」『萬葉』第176号、2001年2月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2001
影山2009. 影山尚之『萬葉和歌の表現空間』塙書房、2009年。
菊地2024. 菊地義裕「聖武朝の思想と表現─万葉歌の「たむだく」に注目して─」『文学・語学』第241号、令和6年8月。
武田1956. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈 六』角川書店、昭和31年。
西田1995. 西田直敏『「自敬表現」の歴史的研究』和泉書院、1995年。
吉井1984. 吉井巖『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。

万葉集の「ますらをと 思へる吾や」について

2025年04月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集のなかで「大夫ますらをと おもへるわれ」の形をとる歌は次の五例である。

  大夫ますらをと 思へるわれを かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ〔大夫跡念流吾乎如此許三礼二見津礼片念男責〕(万719、大伴家持)
 大夫ますらをと 思へるわれや 水茎みづくきの 水城みづきうへに なみたのごはむ〔大夫跡念在吾哉水莖之水城之上尓泣将拭〕(万968、大伴旅人)
 大夫ますらをと 思へるわれを かくばかり 恋せしむるは しくはありけり〔大夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在来〕(万2584)
 …… とほつ神 わご大君の 行幸いでましの 山越す風の 独りる わが衣手ころもでに 朝夕あさよひに 返らひぬれば 大夫ますらをと 思へるわれも 草枕 旅にしあれば 思ひる たづきを知らに 網の浦の 海処女あまをとめらが 焼く塩の 思ひそ焼くる わが下心〔……遠神吾大王乃行幸能山越風乃獨居吾衣手尓朝夕尓還比奴礼婆大夫登念有我母草枕客尓之有者思遣鶴寸乎白土網能浦之海處女等之焼塩乃念曽所焼吾下情〕(万5、軍王)
 …… 大船の わたりの山の 黄葉もみちばの 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上やがみの〈一に云ふ、室上山むろかみやま〉山の 雲間より 渡らふ月の しけども かくろひ来れば 天伝あまつたふ 入日さしぬれ 大夫ますらをと 思へるわれも しきたへの ころもの袖は 通りて濡れぬ〔……大舟之渡乃山之黄葉乃散之乱尓妹袖清尓毛不見嬬隠有屋上乃〈一云室上山〉山乃自雲間渡相月乃雖惜隠比来者天傳入日刺奴礼大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴〕(万135、柿本人麻呂)

 よく似た形として次のような歌もある。

 天地あめつちに すこし至らぬ 大夫ますらをと 思ひしわれや 雄心をごころもなき〔天地尓小不至大夫跡思之吾耶雄心毛無寸〕(万2875)
 大夫ますらをと 思へるものを 大刀佩たちはきて かにはの田居たゐに せりそ摘みける〔麻須良乎等於毛敞流母能乎多知波吉弖可尓波乃多為尓世理曽都美家流〕(万4456、葛城王)

 万5・135番歌の長歌は、「大夫ますらをと おもへるわれ」の形である。万719・968・2584番歌の短歌の場合、「大夫ますらをと おもへるわれ」、「大夫ますらをと おもへるわれ」の二通りの例がある。「乎」は「を」、「哉」は「や」と訓んでいる。だが、木下1978.は、助字「乎」が本来代表的な疑問辞であったことから、万719番歌の「乎」を「や」と訓むことを提唱している(注1)。そうなると、万2584番歌の「乎」も「や」と訓んだほうが統一感が出る。なにしろ、万968番歌では「念在吾」とあって「思へる吾」としか訓めないからである(注2)
 「乎」を「を」と訓んだ時の解釈と「や」と訓んだ時の解釈は、現状では次のようになっている。

  大夫ますらをと おもへるわれ かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ(万719)
 「ますらおと 思っているわたしだが これほどに 疲れに疲れて 片思いをすることか」(古典全集本372頁)
  大夫ますらをと おもへるわれ かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ(万719)
 「ますらおと 自負しているわたしが こんなにも やつれにやつれて 片思いをすることか」(新編全集本①353頁)

 「みつれにみつれ」は「みつれてもあるか〔三礼而毛有香〕」(万1967)の例から推して、疲れ果てる、やつれる、の意の「みつる」(下二段)という動詞を想定している。そして、「や」と訓んだ時、その「や」は疑問の意に解している。
 「みつる」という語の意、ならびに「や」を疑問の意とする捉え方に筆者は肯ぜない。

 かぐはしき 花橘はなたちばなを 玉にき 送らむいもは みつれてもあるか〔香細寸花橘乎玉貫将送妹者三礼而毛有香〕(万1967)

 かぐわしい橘を薬玉に貫き通して送りたいと思う彼女は、恋にやつれていることだろうか、の意とされている。橘の薬玉を送ることで、恋の病の薬となればいいということなのかもしれない。贈り物をされたら、本当に愛されているのか不安視していた彼女の気持ちはパッと晴れるだろうというわけである。しかし、そう取った場合、この歌は、「かぐはしき 花橘を 玉に貫き 送らむ」と「妹は みつれてもあるか」に分れるような、句の途中での切れ方をしていることになる。その意味合いなら、四・五句目は「みつるる妹に 今し送らむ」などとしたほうが表現として順序正しいのではないか。
 同様に、万719番歌でも、片思いをして食べられなくなって体がやつれてくるということの謂いかもしれないものの、述べ方として因果関係が順序立っていない。「みつれにみつるる○○片思」というかかり方になっていないのである。
 筆者は、「みつる」という動詞は、現代語の「もつれる」に近い言葉で、糸を作るのに撚り合わせる際、大掛かりにすることをいうのではないかと考える(注3)。もつれるように糸を撚り合わせるのは右巻きなら右巻きに片側からたくさんの繊維を撚って行ったためにだぶついていて、太くはなっているが、見た目としてはピンと張っていない様子を指しているものと思われる。
 万1967番歌は、花橘をもつれるほどに太い糸で玉に貫いて贈り物にしようとしている相手の女性は、どうなのだろう、どうなのだろうと心がもつれているだろうから、と言い合わせたところに妙がある歌なのだろう。そう言い合わせているから、恋の病の薬として効果があるものと歌えるのである。
 万719番歌では、「や」と訓んだ時の意は反語であると考える。

  大夫ますらをと 思へるわれや かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ(万719)

 「ますらを」だと思っている私だからか、いやいやそういうことではなくとも、これほどに心がもつれにもつれるように片撚り偏って安定しない心理状態になって片思いをしますよ、あなたが素敵だから、という意味である。
 この歌は、「大伴宿祢家持贈娘子歌七首」のうちの一首である。家持が実際に娘子との間で恋仲になっていたかどうかはわからないし、この際どうでもいいことで、歌として表現が秀逸であるかが問題である。歌として上手ければ万葉集に採るし、そうでなければ採られなかっただろう。
 別稿(注4)で述べたように、「ますらを」という言葉の背景には、言い伝えに伝わり誰もが通念として持っているヤマトタケルの性格があった。剛強、雄大、聡明でありつつ、嘆いたり、(片)恋をしたりしながら諸国を征服して回った人のことである。「ますらを」という言葉は、剛健さの側面と嘆き恋する側面の両方を併せ持つもので、その間に矛盾や対立を認めていない。万719番歌の作者、大伴家持は、大伴氏の族長として自らをヤマトタケルに擬して捉え、諸国の国司や山陰道巡察使、陸奥按察使鎮守将軍などを歴任しており、各地方をヤマト朝廷の従うところとすることに誉れを持っていたようである。
 万719番歌の場合、「娘子」は宮廷に仕える若い女性であったと思われるが、そういう相手を想定して歌を試作してみたら七首できあがったからと万葉集に収載している。ヤマトタケルは、オトタチバナヒメが走水で人柱となって自分の行く手を助けたことを忘れずに思い続け、東国から帰還するときにアヅマハヤと嘆いたと伝えられている。相手が死んでしまっても思い続けているということは、「片思」以外の何ものでもない。歌の設定では「娘子」は生きている。ヤマトタケルの生まれ変わりと思っている私であるからか、いやいやそうでなくてもあなたに対して片思いをするよ、と歌っているのである。
 作者不詳の万2584番歌も、「念有吾乎」を「思へる吾」と訓む説が優勢である。

 大夫ますらをと 思へるわれ かくばかり 恋せしむるは しくはありけり〔大夫登念有吾乎如是許令恋波小可者在来〕(万2584)

 「ますらを」を立派な男子の意ととり、立派な男子たるもの恋に溺れることなどないはずを、そうさせているのはけしからん、と解されている。これでは歌に面白みが感じられない。ここも「思へる我」と訓むのが妥当であり、「や」は疑問ではなく反語である。

 大夫ますらをと 思へる吾 かくばかり 恋せしむるは しくはありけり(万2584)

 「ますらを」はヤマトタケルの性格によって表されている。「ますらを」と思っている私のこととてこれほどまで恋しくさせるのか、いやいやそうではなくて「ますらを」とは無関係に恋しくさせているのは、悪いことだと気づいた、という意である。「ますらを」ならば甘んじて受けるべき恋の辛さかと思ったら、彼女は八方美人で「ますらを」以外の誰であれその気にさせて辛くさせる結婚詐欺師だと気がついた、という歌である。

 大夫ますらをと 思へるあれや 水茎みづくきの 水城みづきうへに 涙のごはむ(万968)
 「ますらおと 思うわたしが (水茎の)水城みづきの上で 涙をくことか」(新編全集本②133頁)

 「や」を疑問ととっている点が誤りである。この歌は大宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられ、都へ向かう時の送別歌に和した歌である。娘子(遊行女婦、字は児島)の歌の後に左注があり、事情を伝えている。

  冬十二月、大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみみやこに上りし時、娘子をとめの作る歌二首〔冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作謌二首〕
 おほならば かもかもむを かしこみと 振りたき袖を 忍びてあるかも〔凡有者左毛右毛将為乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞〕(万965)
 大和道やまとぢは 雲がくりたり しかれども あが振る袖を 無礼なめしとふな〔倭道者雲隠有雖然余振袖乎無礼登母布奈〕(万966)
  右は、大宰帥大伴卿の大納言を兼ねけて、みやこに向ひて上道みちだちす。此の日、馬を水城みづきとどめて、府家ふけを顧み望む。時に、まへつきみを送る府吏ふりの中に、遊行女婦うかれめ有り。其のあざな児島こじまと曰ふそ。ここ娘子をとめ、此の別るることの易きを傷み、の会ふことの難きを嘆き、なみたのごひて、自ら袖を振る歌をうたへり。〔右大宰帥大伴卿兼任大納言向京上道此日馬駐水城顧望府家于時送卿府吏之中有遊行女婦其字曰兒嶋也於是娘子傷此易別嘆彼難會拭涕自吟振袖之歌〕
  大納言大伴卿のこたふる歌二首〔大納言大伴卿和歌二首〕
 大和道の 吉備きびの児島を 過ぎて行かば 筑紫つくしの児島 思ほえむかも〔日本道乃吉備乃児嶋乎過而行者筑紫乃子嶋所念香裳〕(万967)
 大夫ますらをと 思へるわれや 水茎みづくきの 水城みづきうへに 涙のごはむ〔大夫跡念在吾哉水茎之水城之上尓泣将拭〕(万968)

 大伴旅人の「和歌」である。自分から積極的に歌いかけたのではなく、遊行女婦うかれめ児島こじまの歌を受けて歌っており、万968番歌の歌う様子も左注を受けているとわかる。伏線の回収が行われていると考えるべきところである。別れを嘆きながら涙を拭って歌っているのは娘子、遊行女婦の児島であって旅人ではなく、その娘子が歌っているのは大宰府政庁であって水城の上ではない。大伴旅人は涙を流しているわけではないのだが、それは流した涙を拭ったからだと戯れ答えているのである。「水茎みづくきの 水城みづき」と殊更に「水」を強調している。「水城みづき」はミ(水、ミは甲類)+ヅキ(尽、キは乙類)、つまり、涙の水が涸れたと洒落ているわけである。
 一首の大意は、ヤマトタケルのような「ますらを」と思っている私だからか、いやいやそういうことではなく、(水茎の)水城の上なのだから、涙の水が尽きてしまうように涙を拭いますよ、というものである。「ますらを」ならば嘆き悲しむことがあるのは当然なのだが、この時嘆いているのは遊行女婦の児島の方である。お株を奪われた格好の大伴旅人は、わざわざ「ますらを」と言い立てて諧謔の歌を詠んでいる。「ますらを」だから涙を流すなんてみっともないことはしないと捉えるのは本末転倒で、歌の前提が崩れてしまう。
 最後に、長歌の二例に見られる「大夫ますらをと 思へるわれも」について一言しておく。歌の作者は軍王と人麻呂である。歌われているのは旅の道中である。ただ、ヤマトタケルの征旅とは異なり、ただ都へ還るための道程のようである。だから、自らを「ますらを」と呼べるかどうかは疑問視されることなのである。そこで、不確定を表す助詞「も」を付けている。「ますらを」というヤマトコトバがヤマトタケルの逸話に基づいて造られていたことについて、当時の人々に十分浸透していたとわかる事例である。

(注)
(注1)他に例がないから「乎」は「を」と必ず訓むべきとする見解もあるが、「乎」を必ず「を」と訓むのか疑わしい例もある。「狂言たはことか 人の言ひつる 逆言およづれ 人の告げつる〔枉言哉人之云都流逆言乎人之告都流〕」(万4214)。
(注2)類歌の万2875番歌で、「思ひしわれ〔思之吾耶〕」となっていることも傍証となる。
(注3)中西1978.に、「みつる・みだる・もつる、皆同語か(ミはともに甲類)。」(336頁)とある。
(注4)拙稿「舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合い─「ますらを」考─」。

(引用・参考文献)
木下1978. 木下正俊「「斯くや嘆かむ」という語法」五味智英・小島憲之編『万葉集研究 第七集』塙書房、昭和53年。
木下1983. 木下正俊『万葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
古典全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集2 萬葉集一』小学館、昭和46年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6・7 萬葉集①・②』小学館、1994・1995年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1987年。

舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合い─「ますらを」考─

2025年04月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻二、相聞の歌に舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合いが載る。新大系文庫本の訳(135頁)を添える。

  舎人とねりの皇子みこの御歌一首
 ますらをや 片恋かたこひせむと なげけども しこのますらを なほ恋ひにけり〔大夫哉片戀将為跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里〕(万117)
 ますらおたる者が片恋などしていいのかと嘆いてはみるが、見苦しいこのますらおめは、いっそう恋しくなってしまった。
  舎人とねりの娘子をとめこたたてまつる歌一首
 嘆きつつ ますらをのこの 恋ふれこそ 髪結かみゆひの ちてぬれけれ〔歎管大夫之戀礼許曽吾髪結乃漬而奴礼計礼〕(万118)
 嘆き嘆いて、ますらおのあなたが恋い慕うからこそ、私の結った髪が濡れてほどけたのですね。

 この歌の題詞には「贈」という言葉がなく、宴席で不特定多数を相手に独詠したものと考えられている。誰が和してもいい歌だったが、居合わせた舎人娘子が仮想の恋の歌のなかで恋人に立候補して和したものと解されている。
 そのようなあやふやな設定の歌が、宴会の座興として歌われ、戯れられていたのだろうか。「ますらを」の片恋の歌が唐突に歌われたとすると、周囲の人は皇子が何を突然思いついて声を張り上げているのか怪訝に思うのではないか。よく知恵をめぐらせて考えてみて、舎人皇子がそのような歌に詠む必然性が感じ取れなければ、突拍子な話に人々は付き合うことはできないだろう。それでもここでは和す人がいて、二首をもってその場の雰囲気を知らせている。違和感なく座興が盛り上がっている。
 伊藤1995.は、「万葉びとにとって、「恋」は「嘆き」であった。相手を思うて「嘆く」ことは「恋ふる」ことであった。……その中にあって、皇子の「ますらをや片恋せむと嘆けども」はきわめて風変わりだ。「片恋」をすることが「嘆き」であるのが一般であるのに、ここでは「片恋などするものかと嘆くけれどもやっぱり恋してしまう」といい、「恋ふ」と「嘆く」とを別扱いにし対立させている。」(294頁)と疑問点をあげている(注1)
 「ますらを」という語については議論が重ねられてきた(注2)。時代別国語大辞典では「尊敬に値する立派な男子。勇敢で堂々たる男子。……特に武人をいうこともある。」(677頁)とし、用字に「大夫」とある例は「大丈夫」の意で用いられた表記であろうとしている。人麻呂歌集で「健男」「建男」と記されて、剛強の男を意味していたものが、人麻呂作歌以降「大夫」と記されるようになって、官僚としての立派な男子を表す言葉へと抽象化していったとする見方もある(注3)
 「ますらを」という言葉の使用例としては、その半数が恋に陥って弱音を吐くシーンに用いられている。青木2009.は、「「ますらを」であるべき男心が弱くも恋のため失われてしまったことを示すものが、万葉集中六十六例ほどある「ますらを」の歌の中で、約半数を占める。……「ますらを」は剛強であり、雄大であり、のみならず聡明であるべきなのに、女性化してしまうことを歌っている。」(34頁)と指摘している。「女性化」という言葉は、おそらく「めめしい」という言葉と同様の意なのだろう(注4)。また、遠藤1970.は、「ますらを」という言葉は、中央貴族、官人が使うものがもっぱらで農民層についての例がなく、例外的に次の三通りの例が見られるとしている。

(イ)福麻呂が足柄坂における死人に対して。(巻九・一八〇〇)
(ロ)福麻呂・虫麻呂が菟原処女に求婚した男達を処女の口を通して語らせている。(巻九・一八〇一、一八〇九)
(ハ)家持が防人に対して。(巻二十・四三三一、四三三二、四三九八)(167頁)
 
 こういった状況から、「ますらを」という言葉は変容を遂げていった語で、稲岡1985.の言うように、万葉の「ますらを」の語意を一義に規定するのは難しいと考えられている。稲岡氏は主に時代の流れにおける社会的変動から来る変化を想定してのことである。
 しかし、「ますらを」という語の出自について、我々が気づいていないだけなのではないか。筆者は、当時の人たちの間で共通の理解があったと考える。「ますらを」を「健男」(万2354・2376)や「建男」(万2386)と記したことがあり、その用字が景行記に見られることはすでに指摘されている(注5)
 景行記で「健男」と書いているのが誰のことを言っているかといえば、主役のヤマトタケルのことである。ということは、ヤマトタケルの事跡と「ますらを」という言葉の間には強い結びつきがあったと考えられるのである。ヤマトタケルは剛強、雄大、聡明であったが、それだけでなく、熊曽、出雲と征討して来たのに、さらに軍衆も与えられずに東征を命じられるのは自分に死ねと言っているのかと泣き言を言ってみたり、随伴していたオトタチバナヒメが走水の海で人柱となって行路の助けとなったことについて東国から帰還する時まで思い続けていて、足柄の坂を登ってアヅマハヤと嘆いていた。この話は人口に膾炙していたものと推測される。ヤマトタケルの二面的な性格をもって「ますらを」という言葉が作り上げられ、人々に理解されていたとするなら、剛強、雄大、聡明である「ますらを」が、(片)恋をし、嘆くことも「ますらを」の一面であり、そこに矛盾や対立は感じられていなかったと推定、確定される。
 遠藤氏が例外的と見ている上の三通りについても、(イ)の足柄坂の行人とは、東国から帰還する際に通った場所柄、ヤマトタケルの姿を投影しての形容であり、(ハ)の防人は外征に赴いたヤマトタケルのことを念頭に述べていると知れる。(ロ)については、菟原処女のことは歌中に「うなひ処女」とあり、ウナヒはウナヰと同じで垂髪のことを言っているから、入水したオトタチバナヒメの結髪が濡れてほどけたことを見立てた言い回しと思われる。
 すなわち、「ますらを」なのに○○○恋をする、というように「ますらを」と「(片)恋」を対立させて考えることは誤りなのである。ヤマトタケルっぽい性格、「ますらを」だからこそ恋をして、片恋をして、嘆く、それが当然のことなのである。
 そう捉えられた時、舎人皇子と舎人娘子の歌のやりとりは、ヤマトタケルとオトタチバナヒメの逸話をなぞらえたもので、宴席の場で逸話を再現させた歌であると理解される。参集していた人々はそれを聞いてよく腑に落ちた。皇子の名が「舎人」とあるのはヤマトタケルに擬しようとする時に、完璧に天皇の命に応じる人としてあるのにふさわしい名であって、他の誰でも同じ内容を歌えるものではない(注6)。応えた舎人娘子にしても同様で、彼女はヤマトタケルの后たるオトタチバナヒメの役に扮している。トネリ(舎人)という同じ名をもって、一緒に行動している人と見なされるのにかなっている。オトタチバナヒメは、人柱となって海に沈み、七日後に櫛が海辺に流れ着いている。その櫛をもってヤマトタケルは御陵を作って納めた。櫛は髪が海水に濡れたため、結っていたのがほどけたから体から離れて流れ着いたのだった。舎人皇子と舎人娘子は、歌によって即興の寸劇を披露していたのである。

  舎人皇子の御歌一首
 ますらをや 片恋かたこひせむと なげくとも しこのますらを なほ恋ひにけり〔大夫哉片戀将為跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里〕(万117)
 「ますらをや」、ヤマトタケルのように片恋に終わり嘆くことになるとわかっていても、頑固にこびりついた「ますらを」らしく、やはり恋することになったのであった。
  舎人娘子の和へ奉れる歌一首
 嘆きつつ ますらをのこの 恋ふれこそ 髪結かみゆひの ちてぬれけれ〔歎管大夫之戀礼許曽吾髪結乃漬而奴礼計礼〕(万118)
 嘆き嘆きして、「ますら」なる男が恋してくださればこそ、私の結った髪は、オトタチバナヒメ同様、濡れてほどけたものでした。

 万117番歌の「嘆友」は「嘆くとも」と、不確実な仮定条件を示す。既に嘆くことは決定づけられていても、そこから逃れられないことを言いたいのである。初句の「ますらをや」は、ヤマトタケルの嘆き節、「あづまはや」を捩っている。原文の「鬼」字は「醜」の省字とされ、「しこ」は頑強なさまを表す。「ますらを」性が頑固にこびりついているさまを「しこのますらを」と言っている。「しこ」について、ののしっている言葉とする説が通行しているが誤りである。

(注)
(注1)伊藤氏は、「ますらを」はめめしい恋などしないということで収拾を図ろうとしている。この考え方は広くとられている。筆者は誤りであると考え論じた。
(注2)研究史については遠藤1970.や稲岡1985.参照。
(注3)稲岡1997.440頁。
(注4)万葉集のなかで、「ますらを」という言葉の使用例の約三分の一を占める大伴家持のそれからは、「ますらを」は天皇の命を体して忠誠を励むものという意識が見て取れ、特に彼は「ますらをの心」という言い方をしており、「必ず大君の命令による平定を意味する辺境赴任の中に示されなければならないものであった……。そしてそれは家持の自意識に内在するばかりでなく、現実に対応する天皇への忠誠を誓う規範的態度として強調しているものと見なければならないであろう。」(吉村2011.108頁)と、もう少しのところまで来ている指摘もある。
(注5)稲岡1985.222頁。

 しかくして、其の熊曽建くまそたけるまをさく、「まことしかあらむ。西の方に、われ二人をきて、たけこはき人無し。然れども、大倭国おほやまとのくにに、吾二人に益して、建きいましけり。是も以て、吾、御名みなたてまつらむ。今より以後のちは、倭建御子やまとたけるのみこふべし」とまをす。(爾其熊曽建白信然也於西方除吾二人無建強人然於大倭國益吾二人而建男○○者坐祁理是以吾獻御名自今以後應稱倭建御子)(景行記)

(注6)同時代に「たけるの皇子みこ」という皇族がいたなら、その人の歌うところとなっていただろう。

(引用・参考文献)
青木2009. 青木生子『青木生子著作集 補巻一 萬葉にみる女・男』おうふう、平成21年。
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注 一』集英社、1995年。
稲岡1985. 稲岡耕二『万葉集の作品と方法』岩波書店、1985年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
遠藤1970. 遠藤宏「万葉集作者未詳歌と「ますらを」意識」万葉七曜会編『論集上代文学 第一冊』笠間書院、昭和45年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
吉村2011. 吉村誠「家持「ますらをの心」考」針原孝之編『古代文学の創造と継承』新典社、平成23年。

長田王の水島の歌

2025年04月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
  長田をさだのおほきみ(注1)つくつかはさえて水島みづしまに渡りし時の歌二首〔長田王被遣筑紫渡水嶋之時歌二首〕
 聞くがごと まことたふとく くすしくも かむさびるか これの水島〔如聞真貴久奇母神左備居賀許礼能水嶋〕(万245)
 葦北あしきたの 野坂の浦ゆ ふなして 水島に行かむ 波立つなゆめ〔葦北乃野坂乃浦従船出為而水嶋尓将去浪立莫勤〕(万246)
  いしかはの大夫まへつきみこたへたる歌一首〈名もらせり〉〔石川大夫和謌一首〈名闕〉〕
 おきつ波 なみ立つとも わが背子せこが ふねの泊り 波立ためやも〔奥浪邊波雖立和我世故我三船乃登麻里瀾立目八方〕(万247)
  右は、今かむがふるに従四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中に大弐にけらゆ。又正五位下石川朝臣吉美侯きみこ、神亀年中にせうに任けらゆ。両人のいづれ此の歌を作れるかを知らず。〔右今案従四位下石川宮麿朝臣慶雲年中任大貳又正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任小貳不知兩人誰作此歌焉〕

 「水島」に対して「貴く」「奇しく」「神さび居る」と述べつつ具体的な描写はないため、景行紀に記載の巡行を思い浮かべて言っているものとする解説書が多い。記録として景行紀十二年の熊襲遠征後の十八年の帰還時に肥後の水島に立ち寄った記事があるから、それを思い浮かべて長田王は歌詠しているというのである(注2)

 壬申に、海路うみつちより葦北あしきたしまに泊りて進食みをす。時に、山部やまべの阿弭古あびこおや小左をひだりを召して、さむき水をたてまつらしむ。是の時にあたりて、嶋の中に水無し。所為せむすべ知らず。則ちあふぎて天神地祗あまつかみくにつかみみまうす。たちまち寒泉しみづきしほとりより涌き出づ。乃ち酌みて献る。故、其の嶋を号けて水嶋と曰ふ。(景行紀十八年四月)

 しかし、この考え方には無理がある。そういう事情があるのなら万葉集は題詞や左注に触れていておかしくないが、何ら示唆するところもない。題詞に「長田王、被筑紫水嶋之時歌二首」と規定するだけで歌を掲げ、誰しもがわかることとして放置されている。景行紀の水嶋命名譚が長田王の歌詠時において広範に通じる伝承であったとは思われない。日本書紀のダイジェスト版的な様相を呈する古事記には見られず、地名譚の域を出ていない点からもついで記事が常識的知識となっていたとは想定できない。歌われた歌を耳にして、ああ、景行天皇時代のことを言っているのだな、と気づく人は少ないだろうし、二首目や石川大夫が和した歌のなかで波立つことをモチーフに選んで歌い合って喜ぶ理由を説明することもできない。景行紀記事に海路のことは触れられず、また、長田王が不遜を顧みずに景行天皇の後を襲って航行しているとなぞらえる必然性も見出せない。
 つまり、これらの歌は、景行天皇時代のこととされる事跡とは無関係で、それ以外のことで「水島」に対し「貴く」「奇しく」「神さび居る」と形容し讃嘆していると考えるべきなのである。誰もが共感できるものでなければ声をあげて歌にすることはないから、一句目で作者の長田王が「聞く」ようにであるとともに、歌を耳にする周囲に集まっている人々も「聞く」ように「水島」のことをまったくもって「貴く」「奇しく」「神さび居る」であると形容している。皆さん、そういうことですよね、と同調を求めて歌って認識を分かち合っている。声をあげるやたちまちに人々の間に共通の認識が生まれ、石川大夫の「和謌」も惹起している。そのような状況を引き起こす題材は、端的な事柄、ミヅシマ(水島)という名の他にない。
 ミヅシマという言葉は不思議である。シマ(島)という語は通常まわりが水で囲まれている地面のことをいう。ところがミヅシマ(水島)というからには、まわりが水で囲まれながらもその中にあるシマ(島)部分もミヅ(水)でできていることを表している。環礁のような状態のところを言っている。サンゴ礁が環状に形成されて中に潟湖がある場合、それはミヅシマ(水島)と呼ぶにふさわしいだろう。しかし、環礁は日本にはなく、人々の周知するものではない。
 では、長田王や周囲にいた人々は何をミヅシマ(水島)に見立てたのだろうか。卑近に見られる外が水、中も水という地形に、畦に区切られた田がある。記紀の説話(神話)の形でも残されているから人々の観念の上に宿っていたことは確かである。スサノヲがアマテラスに対して仕掛けた悪戯の一つである。結果、アマテラスは天のいはに籠ってしまったという有名な件に見える。

 ……天照大御神の営田つくりたのあを離ち、其の溝を埋み、亦其の、大嘗おほにへこしす殿にくそまり散らしき。(記上)

 水田稲作農耕では水を貯えるように「あ」(畦畔)を造る。小区画水田や条里制のものが知られるが、周囲が水路に囲まれた輪中や中洲での営田つくりたのような典型的なミヅシマ(水島)地形も現れる。低湿地で営田するために土木工事であ・あぜ(畔)を築き、ようやく洲(州)が堅固なものになっている。スサノヲはそれを「根之ねのかたくに」と呼び「ははが国」のこととしている。モグラの様子から造形されたスサノヲ(注3)が、「海原を知」ることなく住みつこうとしている場所である。スサノヲがアマテラスに悪戯をして「あを離ち」していることは、農家の人が日常的に悩まされたことであった。だから説話が現実感をもち、人々の間に流布している。
 畦が壊れることなく水路側、田側のいずれにも水があるミズシマ(水島)状態が保たれれば、たくさんの収穫がもたらされてとても喜ばしい。だが、いったん畦が壊れたら、水田は一気に流されて跡かたなく川と同化してしまうだろう。そうなったら、そこはもはやミヅシマ(水島)とは呼ばれない。筑紫に「水島」という地名があるなら、そこは長期にわたってミヅシマ状態を保っている場所であるのだろう。畦が堅固なゆえであり、水路に当てられてある畦は堤、土手ほどに強固に作られていると思われるのである。造成して最初に生えてくるのはツクシ(土筆)だから、「つく」という設定は意味あるものである。うまく言い当てていてすばらしいとしか言いようがない。ツクシ(土筆)状の建物には仏塔が思い浮かぶ。仏舎利を納めるものだが、そこに拓かれている田からも確かな収量が得られ、すなわち、銀舎利の米が獲れるのであってたふだけに「たふとく」ある(注4)。言葉が何もかも的確に配置されている。そのことに珍しさが感じられて「奇しく」ある。由来も辿れないほど古くから地名となって続いているから「神さび居る」(注5)ほどである。そういうわけでいたく讃嘆していて、ねえねえ皆さん、言葉はうまくできていておもしろいですね、と同調を求めている、それが歌意である。
 長田王の二首目と石川大夫の和歌では波立つことが詠まれている。長田王が波立たないことを願っているのは、彼が水島へ行ったときに波が立ってしまい辿り着けないことのないようにと言いつつ、また、波が立って「あを離ち」したりしないこともともに願っているのだろう。畦が壊れた途端、「水島」はミヅシマではなくなってしまうからと諧謔に歌っているわけである。力づくで強引に水島へ到着したとしても、畦(土手)を壊してしまったらもはや「水島」ではなくなる。名づけに対して冒涜になるようなことはしたくないものである。言葉を大切にする気持ちがなかったら、言葉を操ることで楽しむ歌というものなど歌いはしない。
 石川大夫は、長田王に向けて波は立ちませんよと応じている。たとえ「沖つ波 辺波立つとも」、つまり、波は立つかもしれないのだが、そんなことはお構いなしの言い分である。焦点は、「わが背子が 御船の泊り 波立ためやも」にある。「わが背子」は長田王のことである。ヲサダと呼ばれるからには、田を治めることの上手な人であると名に負う存在である。田をよく治めるとは畦の管理をきちんとしているということである。水路を船で進んでミヅシマ(水島)と呼べる田へと到着した時に接岸しても、ヲサダさんなのだからよく田を治めて畦を壊すことなどなく、田の水が流れ出して波立つことなどないでしょう、と戯れて返しているのである。
 万葉集の歌は言葉遊びであることが多い。言葉遊びをするほどに言葉を上手に使うことができていた。声を出して周囲の人たちに聞いてもらうために歌われた歌は、言葉以外に依って立つところはない。ここでも長田王は特定の誰かを相手に歌詠みしたのではなく、石川大夫という人も歌を耳にして当意即妙に和える歌を思いついたために返しているにすぎない。「石川」という名を負っていて(注6)川の性質を心得ていたからうまく言い当てた返しをしている。いずれも何かを伝えるために意図をもって拵えているのではなく、言葉(音)に敏感に反応して歌を作って楽しんでいる。言葉だけが頼りであった時代に、言葉だけを頼りにして言葉遊びをし、個々の言葉が宿すそれぞれの言葉のおもしろさに魅入っている。当時の言語活動の特徴をあげるなら、頓智、なぞなぞが繁栄していたということになり、万葉時代の人たちの言葉の使い方は今日のものとは異なっていて、つまりは思考法として異なっていたということができる。

(注)
(注1)「長田王」は史書に二人見える。➀和銅四年(711)四月以降、位階の記事が散見され、天平六年(734)二月に歌垣の頭、天平九年(737)六月に卒とある。➁日本三代実録の貞観元年(859)十月条、広井女王薨伝に長田王を曽祖父とするとあり、天平七年(735)四月、天平十二年(740)同十一月に位階の記事がある。歌詠は➀の人物と考えられている。ただし、その読み方はナガタノオホキミ、ヲサダノオホキミの二説がある。➁の人物は長皇ながのみの子と思われるためかナガタと訓みたがる向きもある(山田1932.366頁)が、問われるべきは➀の人物である。万葉歌人には「をさ」と書く姓があるがナガタは知られず、古写本にもヲサタノオホキミとあり、ヲサダと訓むのが正しいと思われる。この歌群の石川大夫の言い分からヲサダが正しいことは証明される。
(注2)景行紀の事跡によるものではないとする見解として、例えば、武田1957.43頁では、自然の神秘に感動した心をよく描くものとしている。なお、土佐2020.は、景行天皇が熊襲を平定した事績をもって珍しい話だと見ているが、歌のなかでそのことは一切語られていない。ライブでこの歌を聞いた人たちが語られていないことを察知していたとは根拠がないから推測すらできないし、語られていないことを憶測しても証明も反証も得られない。
(注3)拙稿「神代紀第七段一書第二の白和幣(しろにきて)・青和幣(あをにきて)について 」参照。
(注4)土筆を仏塔と見立てていることに関しては、拙稿「柿本人麻呂「日並皇子挽歌」の修辞法「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」について」参照。
(注5)「神さび」の義については、拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注6)イシカハ(石川)はミヅシマ(水島)同様、自己矛盾を含んだような言葉である。カハ(川)はミヅ(水)が流れるべきところ、イシ(石)が流れているらしい。そんなイシカハ(石川)の最大のメリットは、どんなに雨が降らなかろうが枯渇することがない点である。水無し川に石が山積している光景は、イシカハという言葉の矛盾に反し珍しいものではない。自らの名を常日頃から意識していて、長田王がミヅシマ(水島)という語に対して抱いた論理学的疑問にこたえるのに適任者であったということである。その時、イシカハという姓だけが求められ、名は不要だから「名闕」のままである。

(引用・参照文献)
武田1957. 武田祐吉『増訂 万葉集全註釈 第四(本文篇 第二)』角川書店、昭和32年。
土佐2020. 土佐秀里「長田王「筑紫水島歌群」の地政学─景行天皇熊襲平定伝承の再生─」『國學院大學紀要』第58巻、令和2年2月。國學院大學学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.57529/00000852
山田1932. 山田孝雄『万葉集講義 巻第一』宝文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1214385
※万葉集の通釈書については引用文献に限って記した。

※本稿は2025年3月に発表したものである。

大伴坂上郎女の献天皇歌(万925・926)について

2025年04月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 ここにあげる歌は、大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめが聖武天皇に献上した二首である。

  天皇すめらみことたてまつる歌二首 大伴坂上郎女の春日の里にして作るぞ〔獻天皇歌二首大伴坂上郎女在春日里作也
 にほ鳥の かづ池水いけみづ 心あらば 君にが恋ふる 心示さね〔二寶鳥乃潜池水情有者君尓吾戀情示左祢〕(万725)
 よそて 恋ひつつあらずは 君がいへの 池に住むとふ 鴨にあらましを〔外居而戀乍不有者君之家乃池尓住云鴨二有益雄〕(万726)

 今日までのところ溜飲を下げるような解釈は見出されておらず、歌意がわからないとする注釈書も多い。大伴坂上郎女が天皇と懇意にしており、恋愛感情をそのまま歌にしたとは彼女の閲歴からして考えられないし、それがどのような経緯で披露されたのかも判然としない。カイツブリのことをいう「にほ鳥」や「鴨」という鳥を登場させていることも、番いでよく見かけられるから仲良しなのを表そうとしていると説かれることがある(注1)ものの印象論の域を出るものではない。形式的に相聞の歌として作られているが、歌い回しがうまく、天皇の意にかなうと思われたから献上したと考えるのが妥当だろう。言葉づかいが機知に富んでいて興味深く、天皇の気持ちに沿っていて、お聞かせするに耐え得ると思って歌っている(注2)
 歌は修辞法にあふれている。万725番歌では池の水に心があるなら(注3)、自分の気持ちを代弁して示しておくれ、と言っている。万726番歌では、人間が鴨に成り代わることを譬えに使っており、どちらも表現の飛躍が激しい。いきなりそのような現実離れした譬えを持ち出されても、直ちに何のことだか理解するのは難しい。それなのに郎女は自信をもって天皇に献歌している。天皇ならすぐにわかるだろうと踏んでのことだろう。
 万726番歌の「〜ズハ」の形をとる使い方は長く誤解されているが、AハBの構文の一類型である(注4)。すなわち、「外に居て恋ひつつあらず」ハ「(鴨にあらせば)君が家の池に住むといふ鴨にあらまし」ヲ、という形の論理文を構成している。
 別のところにいてあなたのことを恋し続けないということは、もし仮に私が鴨であるとしたら、あなたの家の池に住んでいるという鴨でありたいというのと同じことだなあ、という意味である。庭の池に鴨をペットとして飼育していたことがなかったとは断言できないが、アヒルやガチョウではないから、怪我でもしたのか飛べなくなった鴨が渡りの季節を過ぎても居続けているということだろう。当然、一羽でいる。そんな取り残されて動けない鴨になりたいわけはない。A、Bともに裏返し、Aでない状態とBでない状態とを希求していることを言おうとしている。つまりは、遠距離恋愛を断念しないという言い分を述べていることになる。
 「つつ」という言葉は二つ性を表す。後半部で「池(ケは乙類)」🚣‍♂️と「け(ケは乙類)」🏃🏻‍♀️(注5)とに示されている。「行け(ケは乙類)」は「行く」の已然形で、すでに行ってしまったこと、ここでの比喩は渡り鳥の群れが渡ってしまっていることを指している。それとは対照的に「池」に残されている鳥がいる。変な話だなあ、ということで「に住むといふ」ともったいぶった言い方をしている。そして、人と鳥(鴨)との二つ性を明示するために、「住む」ところは「家」のはずだからわざわざ「家」という言葉を持ち出し、「家」と「池」とが存在していることをも指し示すようにしている。
 ここに言う「家」は、春日の里(注6)にある天皇の離宮(高円離宮、春日離宮)を言っているものであろう(注7)。つまり、郎女は離宮の近くへ来ていて、そこで歌を作っている。離宮の存在を意識したから天皇への献上歌を作るに及んでいる。この点はこれまで指摘されてこなかったが、この歌群を考える上で重要なことである。歌を生む基盤、設定だからである。
 二首とも池が詠み込まれている。万725番歌は彼女が目にしている池、万726番歌は離宮内にあって今目にしているのとは別の、ふだん見ることのできない池である(注8)。ただし、そのどちらも春日の里にある池である。すなわち、最初の歌で天皇に問題を出し、続く歌でよりわかりやすくするヒントを与えている。
 「池(ケは乙類)」と「け(ケは乙類)」とが掛詞として暗示されている。郎女が春日の里で池のことばかり訴えているのは、天皇に「け(ケは乙類)」のこと、離宮へおいでになってお寛ぎあそばれてはいかがですかと進上しているのである。毒に(も薬にも)ならない内容をヤマトコトバのテクニックを弄して歌に作っている。「大伴坂上郎女、在春日里作也」と脚注があるから、春日の里で歌を作り、おそらくは後日、平城宮内で開かれた宴席に参内した折に披露したものだろう。彼女は春日の里へ先んじてすでに「け(ケは乙類)」してきたのである。そして、天皇が離宮へ赴くとなれば、それは行幸みゆき(御幸、ミは甲類)である。ミ(水、ミは甲類)+ユキ(行)と同音である。池水のことを盛んに論っていたのは行幸のことを言いたかったからである。天皇にとって、恋仲でもない大伴坂上郎女から相聞の歌を贈られ、その内容も何を捏ねくっているのか池水がどうしたという突飛なことを言っているのだから、ああ、これは歌の言い回しでよく行われているなぞなぞなのだな、と気づいたに違いない。そして、離宮内の池にひょっとしたらかも🦆がいるかも○○? と誘いをかけられ、思わず笑い、乗せられて、その後、離宮へ赴くことがあったのではないか(注9)

 にほ鳥の かづ池水いけみづ 心あらば 君にが恋ふる 心示さね(万725)
 にお鳥が潜る池水、そのイケミヅが心を持っているなら、私が春日の里にすでに「け」てしまっていて明媚な風光を「見つ(ミは甲類)」、見てしまっているこの気持ちを水面に表して君に示そうておくれなさい。とても気分がいいですよ。

 よそて 恋ひつつあらずは 君がいへの 池に住むとふ 鴨にあらましを(万726)
 離れていて恋しく思わないということは、もし私が鴨であるなら君の離宮内の池に住むという鴨になりたいというのと同じことで、渡りを忘れて取り残された鴨がいるかもしれないと思うと、そんな孤独は嫌だなあと思えてきます。たえず近くにいて熱々の仲なのが良くて、離宮内の池に取り残された鴨なんかになりたくないわ。

(注)
(注1)東1994.は、中国文学においては苑池で催された宴の詩に水禽を詠み込むことがあり、関係があると指摘しているらしいのであるが、証明になっていない。また、「にほ鳥」は深く潜るから、秘めた恋心の象徴としているとする見解もあるものの、「かづ」いているのは「池水いけみづ」である。
(注2)土屋1976.は、聖武天皇御製の歌を賜っていたからそれに返報したものとする説を唱えている。青木1997.では、大伴氏のいえ刀自とじとして宮廷への接近を願ったものとの説を唱えている。
(注3)当時、心字池といったものがあったわけではない。また、池の中心付近のことを池の心というからそれによる作とする見方もあるが、その時、「心あらば」と仮定することはない。中心のない池はない。さらに、「池心」と称する漢語から、池にも思う心があるとした表現によるとの説もあるが、漢文を訓読しながら漢語にはない意味を生み出したことになる。万葉集とその同時代に他に見られない奇想天外な新語はあり得ないだろう。難しい言葉を言っても聞いた人に通じなければ言葉として成り立たない。
(注4)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7d5cf1b67913a2b256382737e8b8d4b3参照。
(注5)イク(行、往)はユク(行、往)に比べて新しく、俗な形かと思われており、万葉集歌では字余りの句に現れている。この駄洒落では彼女の立場としてイクと俗っぽく言って謙譲し、天皇のミユキ(行幸)という敬語表現との違いを適切に表している。
(注6)春日の里は平城京の東、現在の奈良市白毫町付近のことであるとされる。岸1966.。
(注7)万725・726番歌にそれぞれ「池」が出てきている。伊藤1975.は、平城宮内裏に西池と称する池があり、そこに違いないという。詩や歌の宴が催された文雅の場で、坂上郎女も参加することがあったか、ないしはその様子を洩れ聞いていたから歌ができているとする。しかし、そうなると題詞下の脚注にある断り書きは、ただそこで作ったというだけになり、用を足していないことになる。一方、中西1996.は、坂上郎女は宮中に奉仕した命婦で、何らかの事情で春日の里に里居していたことを言うための注で、命婦だったから天皇と歌の交渉ができたのだと主張している。「よそて」という歌詞を説明するものであるとするのだが、そうなると「春日」を省いた「大伴坂上郎女在里作也」で十分ということになる。歌では水鳥のいる「池」が殊更に詠まれている。職掌上、池と関係が見えない命婦を問題にしても始まらない。
(注8)岸本由豆流・万葉集攷証は、「禁中をさして家などはいふべからず。されば、思ふに、この二首の歌は、天皇まだ皇太子におはしましゝほどに奉るにもあるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970579/1/139)とする。木下1983.は「離宮ならばイヘといってよいのではなかろうか。」(364頁)としている。実質的に離宮のことを言っていることになっている。
(注9)これまでこの歌はわからなかった。何がわからなかったか。駄洒落によるなぞなぞの歌だった点である。万葉集の研究者は万葉集の歌を学問の対象としている。言葉遊びにすぎないとわかったら熱意も冷めてしまうだろう。しかし、歌は歌い手と聞き手のあいだで言葉が保たれることで成り立っている。理解されない言葉で歌が作られることはない。歌の聞き手とは、歌を贈られた当事者のみならず、周囲で耳をそばだてている有象無象も含まれている。オーディエンスのいない舞台はむなしい。知恵さえ働けば誰でもわかる言葉が使われる。地口、頓智の言葉遊びは、言語活動の豊潤さを物語る。当時の言語水準は、文字に頼るのではなく口頭の音声によって高められていたのであり、その沃野を今日、テキストデータとして辿ることができる。現代とは異なる文化を垣間見ることのできる希少なチャネルなのである。

(引用・参考文献)
青木1997. 青木生子『青木生子著作集 第5巻 萬葉の抒情』おうふう、平成9年。
伊藤1975. 伊藤博『萬葉集の歌人と作品 下 古代和歌史論4』塙書房、昭和50年。
岸1966. 岸俊男『日本古代政治史研究』塙書房、昭和41年。
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
庄司1999. 庄司恵「大伴坂上郎女における献天皇歌表現について」三重大学日本語学文学会編『三重大学日本語学文学』第10号、三重大学日本語日本文学研究室、1999年6月。三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクションhttp://hdl.handle.net/10076/6547
土屋1976. 土屋文明『万葉集私注 二(巻第三・巻第四) 新訂版』筑摩書房、昭和51年。
中西1996. 中西進『中西進 万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。
東1994. 東茂美『大伴坂上郎女』笠間書院、1994年。
※注釈書に関しては行論上重要なもののみ記した。

万葉集のホホガシハの歌

2025年04月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集には朴の木を詠んだ歌が二首ある。葉が大きくて柏と同様に飲食の器(注1)に用いられ、ホホガシハと呼ばれていた。講師かうじほふし恵行ゑぎやうと大伴家持が歌のやりとりをしている。

  ぢ折れる保宝葉ほほがしはを見たる歌二首〔見攀折保寶葉歌二首〕
 背子せこが ささげて持てる ほほがしは あたかも似るか 青ききぬがさ〔吾勢故我捧而持流保寶我之婆安多可毛似加青蓋〕(万4204)
  講師かうじほふし恵行ゑぎやう〔講師僧恵行〕
 皇神祖すめろきの とほ御代御代みよみよは いき折り 飲みきといふそ このほほがしは〔皇神祖之遠御代三世波射布折酒飲等伊布曽此保寶我之波〕(万4205)
  かみ大伴宿禰家持〔守大伴宿祢家持〕
左:朴の木、右:青き蓋(高松塚古墳東壁 男子群像 復原図)(田村唯史「高松塚古墳の壁画の復原」『阡陵 関西大学博物館彙報』No.57、関西大学博物館、平成20年9月、7頁。関西大学博物館ホームページhttps://www.kansai-u.ac.jp/Museum/list/senryo.php)
 万4204番歌の四句目、「あたかも似るか」のアタカモという語は漢文訓読語であろうという(注2)。そして、結句の「青ききぬがさ」も漢語「青蓋」によって使われているとし、後期万葉の漢籍受容の一面を示すものと考察されている。
 この議論には平明さに欠ける点がある。アヲキキヌガサは、アヲシという形容詞とキヌガサという名詞から成っている。アヲシもキヌガサもヤマトコトバである。キヌガサについては、物として舶来したものかも知れないが、もとからあったであろう頭に被るカサという語を使って表した言葉であるだろう(注3)
 一方、「青蓋セイガイ」なる言葉は漢語である。王が乗る車は青い蓋をつけた青蓋車セイガイシヤと規定されていた(注4)。だから、大伴家持はそれを受けて「皇神祖すめろき」の話へと展開して歌を詠んでいるものと思われる。よって漢文訓読語と言うに値する。それはそれで良いようだが、車のことはどこへ行ってしまったのだろうか。万4204番歌は、一見、朴の木の枝の葉のつき方が青いきぬがさに似ているということを歌っているだけのようである。講師という存在については、大宝二年(702)にはじめて置かれた国師と同じことかとする説が通行している。奈良時代に、諸国に分置して、その国の寺院・僧尼の監督や経典の講説、国家の祈祷などにあずかった僧侶の職名を国師と言い、それが平安時代初期、延暦十四年(795)に講師と改称されたから先んじた言い方ではないかと推量されているのである(注5)。しかし、特段に歌の左注で講師と呼んでいるからには、講釈を垂れる先生をそう呼んでいたと考えるのが妥当なのではないか。肩書を明かす理由は他にあるまい。
 ほふを説くからほふしなのであるが、通常その法とは仏法のことである。ところが、歌では中国の礼法として位置づけられる青蓋車が持ち出されているように思われる。当時の僧侶には学問僧がいて、彼らは文字を読んで漢文化を理解した。その意味をヤマトの人に教え説いた人のこととして「講師」という言い方で表しているのではないか。その時、ただ説明しただけでは人々の理解は得られなかっただろう。よその国の事情など自分ごとに感じられはしない。そこで、人々が納得する形で知恵を働かせて伝えようとしたものと考えられる。キリスト教のマリア様をマリア観音として広めることができるようにしたような工夫である。漢文化とヤマトコトバの間が予定調和の形になっていれば、最もうまく伝わったに違いない。
 すなわち、アヲキキヌガサという少し珍しい言葉を使うのに、アタカ(モ)といういわゆる和訓までも創案した人ではないかと思うのである。漢籍を読んでみなければわからないことをこの歌で歌っているのではなく、当時すでに実際にアヲキキヌガサが使用されており、誰もがそれを目にしていたから歌のなかでホホガシハを譬えるのに持ち出している。そして、まさによく似ているという意味を表すためにアタカモニルカという言葉を作り、使うことを提唱しているのだろうと考える。当意即妙に家持が返していることからみても、一人で悦に入った言い回しで講釈して得意になっているのではない。歌は公に歌われるものであったから、ここでは家持が返したばかりか周囲にいる人も内容をよく理解できていたことを示している。

 おみむらじをして、しるしを持ちて、みこ青蓋車みくるまもちて、宮中みやのうちに迎へ入れまつらしむ。(清寧紀三年正月)
 釈迦仏しやかほとけ金銅像かねのみかた一躯ひとはしら幡蓋はたきぬがさ若干そこら経論きやうろん若干巻そこらのまきを献る。(欽明紀十三年十月)
 夏五月の庚午の朔に、空中おほぞらのなかにしてたつに乗れる者有り。かたち唐人もろこしびとれり。青油笠あをきあぶらぎぬのかさを着て、葛城嶺かづらきのたけより馳せて、胆駒山いこまのやまに隠れぬ。(斉明紀元年正月)

 清寧紀の「青蓋車」は車を手配した際の筆記として漢籍から探されたものであろう。欽明紀の「幡蓋」はバンと呼ばれる旗と天蓋を指す。斉明紀の「青油笠」は、通説では油を塗った絹製の合羽のようなものとされており、青蓋などとは無関係と思われている。ただ、そうとも言い切れない点については後述する。
 次にアタカモという言葉について考える。現状では「恰」という漢字を訓読する時に生まれたもので、また、アタカモニルカにちょうど当てはまると思われる「恰似」という字面が漢籍中、特に白話において見られるから、それをもって証明とするとされている(注6)
 それはそのとおりなのかもしれないが、肝心の点が考察されていない。どうして恵行という人が率先してアタカモという言葉を作り出し、ヤマトの人たちもやがてそれを使い、習いとしていったのか。「恰似カフジ」という漢語にヤマトコトバを当てた、だから漢文訓読語であるのだと言い切れるものではない。アタカモ(ニルカ)の文献初例はこの万葉歌の原文「安多可毛似加」であり、集中に他の例はない。アタカモの例としては遊仙窟の「心肝、あたかも摧けなむとす。」と見え、アタカモニルの熟語記載例は霊異記・上十八に「門在客人、恰似死郎。」が初出の例である。
 我々が考えなければならないのは、アタカモという語の生成論である。アタカの「アタは動詞アタリ(当)のアタと同根。カは接尾語」(岩波古語辞典31頁)という。他の漢文訓読語とされる語でも言葉の謂れは考えられている。例えば、「けだし」という語があるが、「きちんと四角である意のケダ(角)の副詞化。」(岩波古語辞典459頁)と出所が検討されている。
 アタカモという語について、霊異記の例には「安太加太毛」(興福寺本)とあり、石山寺本金剛般若集験記の「宛」に「ア太カ太毛」とあるという指摘が時代別国語大辞典にすでに述べられている。アタカモという語はアタカタモという形をとることがあったようである。
 アタカタモという語の意はつかみやすい。鋳型にあてて作ったときの瓜二つの様子を表す言葉と考えられる。この体で行けば、次の例はアタカモ(アタカタモ)と訓まれていておかしくない。

 かれ味耜高彦根神あぢすきたかひこねのかみ、天に登りて喪をとぶらひて大きにみねす。時に、此の神の形貎かたち、自づからに天稚彦あめわかひこ恰然ひとしくれり。〔故味耜高彦根神登天弔喪大臨焉。時此神形貎、自与天稚彦恰然相似。〕(神代紀第九段一書第一)

 味耜高彦根神と天稚彦とは形貌がそっくりだった、となれば、共通の範、鋳型により作ったと思われるからアタカタモと言って良いはずであるが、古訓には見られない。そこにはアタカモ~ニルともない。熱田本には「正ニタリ」とある。ということは、むしろ語誌として、アタカモという語の理解を促進するためにアタカタモという語が方便的に利用されたのではないかと憶測できることになる。だからといって岩波古語辞典のように、当たるからアタカ(モ)といい、まさしく、さながら、の意が浮かび上がるとするのは短絡的な気がする。同様の意味を表すのに「こそに」という言葉もある。「恰」からアフ、「宛」からアツという訓みの音が導かれてアタカという語を形成したとすることは不可能ではないが、ケダシ(蓋)に見られるような清明さが感じられない。
 アタカモの初例である万葉集で、アタカモニルカの形をとっている。今日的語感であるが、アタカモ〜ノ如し、という言い方は理解できるものの、アタカモ似ルカ〜(ニ)、と倒置された言い方は少しまどろっこしく感じられる。手折った朴の枝に葉がついている様子を青色のきぬがさに譬えているのだが、副詞の「あたかも」が動詞の「似る」に直結している。そして、助詞「か」が付随している。多くの注釈書では詠嘆(慨嘆)の助詞とする。「か」本来の疑問の意味をやわらげれば詠嘆ということになるからである。そこで、まさしく似ることよ、の意と認められている。
 助詞の「か」が詠嘆の様相を示す際、受ける文に「も」のような不確実性を表す言葉が来ることが多い。

 苦しくも 降り来る雨か(万265)
 心無き 雨にもあるか(万3122)

 「も」によって不確実なことをあげておいて「か」と疑問をほどこしているから、〜だなあ、〜ことよ、といった意味合いになる。つまり、「も」と「か」が呼応して詠嘆を表しているのである。苦しく降ってくる雨だなあ、心無い雨であることよ、の意である。
 だから、万4204番歌「ほほがしは あたかも似るか 青ききぬがさ」は、朴の木の枝葉はまさしく似ていることよ、青いきぬがさに、という意になる。
 朴の木の枝についている葉の様子は青いきぬがさにまさしく似ていることだなあ、と表している。朴の木の葉のつき具合と青いきぬがさの広がり具合とが同じようだと言おうとしている。
 きぬがさの構造を見れば、軸から骨を出して枝分かれさせているところに技術的な見事さを認められる。古代には開閉はできなかったようであるが、それでも精緻な細工である。それをヤマトコトバで表す際にアタカモという言葉を考えたとするなら、アタカモのアタは、あたのことだろうと推測される。説文に、「咫 中婦人の手の長さ八寸、之れを咫と謂ふ。周尺なり」とある。女性が親指と中指を広げた時の長さを指している。親指と中指を広げる時、指はL字形、矩形になる。すなわち、そこに曲尺の機能を見ることになる。きぬがさは曲尺で正確に採寸し、角度をきちんと合わせて作り上げられた。その結果、きれいに大きく広がっている。
木製キヌガサ(腕木部分、南郷遺跡群、古墳時代、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
左:蓋の骨組み復元図(浅岡1990.206頁)、中:正倉院伝世天蓋(梅原1964.4頁)、右:漢代の軺車(木製明器、長沙伍家嶺203号墓、林1976.図版132~132頁)
 この伝で考えれば、アタカとはアタ(咫)+カ(処)という語構成ということになる。アタカタモも、アタ(咫)+カタ(型)+モ(助詞)、つまり、衣服を仕立てるときの型紙をイメージした言葉であると推量できる。そしてまた、きぬがさが広がっているからくりは骨を集中させる部分にある(注7)。同様の構造は車に見られる。車の場合、車軸にシャーシ()が集まっている。そのハブ部分、を集める装置のことをこしきと呼んでいた。それがこしきと同音であるのは、その円形構造物の一定角度ごとに穴が空いている様子を見て同等と捉えられたからである。こしきは蒸し器である。竈の到来によって多く用いられるようになった。それまで食べ物はもっぱら煮る調理をして食べられていたが、蒸す調理法が伝えられたのである。煮る調理では100℃までしか上がらなかった温度が、蒸す場合にはそれ以上の高温を得ることができて料理に革命をもたらした(注8)。とても熱いから、アタなのである。ここに、アタカモなる言葉の生まれが仄かに見える。誰もが知っていてふだん使いにしているヤマトコトバのなかに割り込んで、新たな言葉が仲間入りする瞬間である。甑で蒸してシューシュー蒸気を発している。そんなに熱くして何を作りたいのか。蒸米である。蒸米を作って酒の原料とした。こしきがあるから酒が飲めるということである。同音のこしきのような様子をしたホホガシハを酒器にして飲むのである。至極尤もなことであり、和訓誕生の肝と言える。
 ホホガシハは植物学的にはモクレン科に属する。カシハの類と考えられていた理由は、大伴家持の歌にあるとおり、葉が大きくて食膳の器に利用されることがあったからである。今でも朴葉焼きという郷土料理が岐阜県の飛騨地方を中心に残されている。食事に関係するから甑の話になっており、特に酒を汲んだことを家持は歌にしている。恵行よ、あなたの言わんとしていることはわかっているぞ、というのが家持の応歌であった。葉のつき方が車のようになっている点は、古くから人々に注意されていたものと思われる。「あふぎの骨は朴。色は赤き。紫。緑。」(枕草子・267段)とあるように、類推思考をして丸く広げるもののために丸く広がる葉の朴の木が材に求められていたようである(注9)。もちろん、朴の木が加工しやすく、家具、建具、工芸品に重宝されていたことは前提である。ただし、恵行は、新語のアタカモをコシキ(轂・甑)のことだけから導き出したとは考えられない。なぜなら、彼は講師僧だからである。もっともらしい理屈、屁理屈をさらに重ね合わせて新語の正当性を主張しているものと思われる。
 車と関連する仏教の話としては、火車のことが思いつく。猛火の燃えている車のことで、罪人を地獄で責めたり、罪人を地獄に迎えるのに用いられる。コシキがアタ(熱)なのは当然のことなのである。
 言っているのはホホのことである。ホホときぬがさとの関係について、今日の我々は視覚的に知ることができる。彦火々出見尊絵巻である。彦火々出見尊ひこほほでみのみことが帰るときの情景が描かれており、図像では従者が花唐草の青いきぬがさを捧げ持ってホホデミを覆っている。異国風のいでたちである。
「みこのはりかへしに、あにのみこのもとへゆくところ」(彦火々出見尊絵巻、古田2011.31頁) 
 むろん、この図像は後代に空想されて描かれたもので、記紀の話と絵巻の詞書、展開には違いがある。それでも何かの因縁をもって青いきぬがさが描かれているとも取ることはできる。ホホデミの名にホホとあるのは、出生時、産屋に火が放たれたことによるともされている(注10)。だからアタ(熱)なのである。ホホデミ(ホヲリ)は、「一尋ひとひろわに」(記)(「大鰐わに」(神代紀一書第一)、「一尋ひとひろ鰐魚わに」(一書第三・第四))にまたがって帰還したことになっている。一尋わにを御すところ、従者が蓋を差しかけていたのだろうと推定される。斉明紀の「青油笠」記事が、竜に乗る姿であったのと発想を同じくしている。「貌似唐人。着青油笠、……」という表現は、唐人のイメージそのままに、油を塗った青蓋を伴った車が空中を飛んでいくようだと言っていると考えられるのである(注11)
 恵行は、万4204番歌において、中国では皇子が王になると青蓋車に乗ることを賜与すると規定があるから、青ききぬがさを捧げて持っているのは「吾が背子」と呼ぶべき相手であるとしている。中国では封建制のもとで各国に王が置かれた。ヤマトに対応させて考えるなら、越中守である大伴家持をそれに相当すると考えて「吾が背子」と言っていると捉えることができる(注12)。万4205番歌の左注に「越中」と断られているのはその所為だろう。家持の応歌では、恵行の歌の基底をそのまま捉え返している。封建の王のような国司であるのは、大伴氏の遠い祖先が天皇から分かれ出て諸侯として封じられたということに当たるのだろう。そのような大昔のことに思いを馳せて、「皇神祖すめろきの とほ御代御代みよみよ」と歌い出している。そして、その昔は木の葉を上手に使って器にして酒を飲んだということだとホホガシハの話に回収している。そのような言い方が天皇制に対して不敬に当たるかどうかは、実際に取り締まられてみなければわからない。少なくとも、越中国で歌にしている限りにおいては咎められることはなかったと思われる。地方官に対して僧侶がジョークの歌を歌いかけただけのことである。
 これら、がんじがらめの分厚い意味的重複をもって、新しい言葉、アタカモという言葉が世に送り出されている。これを漢文訓読語であると簡単に説明して終わりとするほど、ヤマトコトバは気ままなものではなかった。双六すぐろくのように恰似カフジという言葉が広まったのではない。ヤマトコトバの顔をした新しい言葉を拵えたからと言っても、あまねく人々に受け入れられるものでなければ言葉にならない。歌の言葉として使われているということは、言葉を耳にして意味がよくわかるものであったということである。上に見た意味の重なり合いはまるで枕詞のそれのようである。人々がどこからその言葉を捉えてみてもなるほどそのとおりだと思えるように持って行っている。ヤマトコトバの論理学、こじつけ回りの屁理屈が展開されることで、はじめて新しい言葉の析出が見られるのである。

(注)
(注1)「天皇すめらみこと豊明とよのあかりきこす日に、髪長かみなが比売ひめおほ御酒みきかしはらしめて、其の太子ひつぎのみこに賜ふ。」(応神記)とある。
(注2)小島1964.に、「[あたかも似るか]の句法は漢籍に甚だ例が多い──その一例、初唐駱賓王、餞李八騎曹序「山芳襲吹、坐疑蘭室之中、水樹含春、宛似○○楓江之上」──。 この「宛似」(恰似など)が歌の中に挿入されて「あたかも似る」の表現となつたのである。」(953頁)とあり、山﨑2024.は追認し例を重ねている。
(注3)頭に直接つける「笠」も、柄を伸ばして高く掲げる「傘」も、ヤマトコトバではカサと呼んでいる。技術的に言って、笠が先にあって傘が後から到来したとも考えられるが、かといって笠がヤマトでオリジナルに考案されたものであったとも言えず、さらにはカサという言葉は笠や傘の訓読語として成り立っているとも言えない。
(注4)「青蓋車 緑車  皇太子・皇子皆安車、朱班輪、青蓋、金華蚤、黒𣝛文、画轓、文輈、金塗五末。皇子為王、錫以之、故曰王青蓋車。皇孫緑車以従。皆左右騑、駕三。公・列侯安車、朱班輪、倚鹿較、伏熊軾、皁繒蓋、黒轓、右騑。」(後漢書・輿服志上)とある。
(注5)川崎2012.は別の考えを採っている。「[それ]とは異なり、法会の際の経典の講義の役をになう僧である」(353頁)とし、文書に残る恵行という人物には東大寺僧、唐招提寺僧があり、万4204番歌の作者との関連を考察している。それらとは別人である可能性も残される。
(注6)山崎氏は盛唐期の詩の例に飽き足らず、白話に「恰似」とする例が中国であったことを敦煌変文に探っている。もし仮にそれが伝えられて恵行が知っていたとしても、あくまでも大陸の話を伝え聞いているに過ぎない。家持と二人の間だけ通じていれば良いと思われるかもしれないが、歌は忍者の使う暗号文ではなくて誰が聞いてもわかる言葉でできていただろう。もとからヤマトにあった話のなかで血肉化されなければ、アタカモという新語も市民権を得るには至らない。万葉集では一例しかなくても、後に命脈を保ってふだん使いされた言葉である。
(注7)浅岡氏は「鏡板」と呼んでいる。
(注8)肉や魚などを焼く調理温度は100℃を超えることができたが、主食の米など穀物類をそのまま焼いても食べることはできない。
(注9)枕草子は、骨が朴製の扇は素敵だと主張する。その時、張る紙の色は赤、紫、緑、という順であげている。いろいろな色をあげているのは、色は二の次であるという言い方とも、最終的に緑、つまり、朴の木の葉の様子を再現させるものだと洒落を言っているとも解されよう。
(注10)出生の件は次の通り。

 かれ、其の火の盛りにゆる時にれませる子の名は、火照命ほでりのみこと、次に生れませる子の名は、火須勢理命ほすせりのみこと、次に生れませる子の御名みなは、火遠理命ほをりのみこと、亦の名は天津日高日子穂穂手見命あまつひこひこほほでみのみこと。(記上)
 則ち火をけて室を焼く。始めて起るけぶりすゑよりり出づるみこを、火闌降命ほのすそりのみことなづく。隼人はやひと始祖はじめのおやなり。火闌降、此には褒能須素里ほのすそりと云ふ。次にほとほりりてしますときに、り出づるみこを、彦火火出見尊ひこほほでみのみことと号く。次に生り出づる児を、火明命ほあかりのみことと号く。尾張連をはりむらじの始祖なり。(神代紀第九段本文)
 ……、則ち其の室の中に入りて、火をけて室をく。時に、ほのほ初め起る時に共に生むみこを、火酢芹命ほのすせりのみことと号く。次に火のさかりなる時に生む児を、火明命ほのあかりのみこと号く。次に生む児を、彦火火出見尊ひこほほでみのみことまをす。亦のみな火折尊ほのをりのみこと。(神代紀第九段一書第二)
 ……、初め火燄ほのほあかる時に生めるみこ火明命ほのあかりのみこと。次に火炎ほむら盛なる時に生める児、火進命ほのすすみのみこと。又曰はく、火酢芹命ほのすせりのみこと。次に火炎る時に生める児、火折彦火火出見尊ほのをりひこほほでみのみこと。(神代紀第九段一書第三)
 則ち火をけて室をく。其の火の初めあかる時に、たけびてづるみこ、自らなのりたまはく、「われは是天神あまつかみみこ、名は火明命ほのあかりのみこと。吾がかぞ何処いづこにかします」とのたまふ。次に火盛なる時に、躡み誥びて出づる児、亦言りたまはく、「吾は是天神の子、名は火進命ほのすすみのみこと。吾が父といろね、何処にか在します」とのたまふ。次に火炎ほのほしめる時に、躡み誥びて出づる児、亦言りたまはく、「吾は是天神の子、名は火折尊ほのをりのみこと。吾が父と兄たち、何処にか在します」とのたまふ。次に火熱ほとほりる時に、躡み誥びて出づる児、亦言りたまはく、「吾は是天神の子、名は彦火火出見尊ひこほほでみのみこと。吾が父と兄等、何処にか在します」とのたまふ。(神代紀第九段一書第五)

(注11)通典・礼二十四・五輅に「緑油蓋」との規定が見える。
(注12)伊藤1998.は、「あまりに高く持ち上げられたので、家持はいささか照れくさかったのであろう。」(172頁)とし、万4206番歌のように答えているとしている。

(引用・参考文献)
浅岡1990. 浅岡俊夫「きぬがさの検討─出土木製笠骨をとおして─」『今里幾次先生古稀記念 播磨考古学論叢』今里幾次先生古稀記念論文集刊行会、1990年。
浅岡1997. 浅岡俊夫「多枝付木製品考─蓋骨の再検討─」『立命館大学考古学論集Ⅰ』立命館大学考古学論集刊行会、1997年12月。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 十』集英社、1998年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
梅原1964. 梅原末治「飛鳥時代天蓋軸木の一遺例」『大和文化研究』第8巻第2号、昭和38年2月。
川崎2012. 川崎晃『古代学論究─古代日本の漢字文化と仏教─』慶應義塾大学出版会、2012年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和39年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
林1976. 林巳奈夫『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、昭和51年。
古田2011. 古田雅憲「「彦火々出見尊絵巻」図像私註(四)─幼児・低学年児童の古典学習材として再構成するために─」『人間科学論集』第6巻第2号、2011年2月。西南学院大学機関リポジトリhttp://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/489
山﨑2024. 山﨑福之『万葉集漢語考証論─訓読・漢語表現・本文批判─』塙書房、2024年。
※万葉集の通釈書については引用文献に限って記した。

「頂(いなだき)に きすめる玉は 二つ無し」(万412)について

2025年03月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻三・譬喩歌に載る次の歌では、キスムという珍しい語が用いられている。

  市原王いちはらのみこの歌一首〔市原王歌一首〕
 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに〔伊奈太吉尓伎須賣流玉者無二此方此方毛君之随意〕(万412)(注1)

 「きすむ」という語は万葉集でこの一例、他に播磨風土記に類例がある。

伎須美野きすみの 右、伎須美野となづくるは、品太ほむたの天皇すめらみことみよ大伴連おほとものむらじ等、此処ここを請ひし時、国造くにのみやつこくろわけして、地状くにのかたちを問ひたまふ。の時、こたへてまをさく、「へるきぬひつの底にきすめるが如し」とまをす。故、伎須美野と曰ふ。〔伎須美野 右号伎須美野者、品太天皇之世、大伴連等請此処之時、喚国造黒田別、而問地状。爾時対曰、縫衣如蔵櫃底。故曰伎須美野〕(播磨風土記・賀毛郡)

 これらをもって「きすむ」という語は、大切な品をしまう、隠しておく、の意であると考えられている(注2)
 播磨風土記の例を、櫃の底の方に一張羅の服をしまっておいたという意と捉えたのである。
 しかし、「縫衣」を「櫃底」にキスムことが、箪笥の奥の一番下に札束をしまっておくように蔵することだというのはおかしい。反物屋を営んでいるわけではない家では、ストッカーである「櫃」には、上から下まで「縫衣」を入れておくはずである。縫っていない衣はすぐには着れない。縫っていない衣の下に、櫃の底に、すぐ着れる「縫衣」を入れておくという状況は、設定としてかなり特殊なこととしてしかあり得ない。物色する相手をたぶらかすための工夫ということになる。
 万葉集巻三・譬喩歌に載る次の歌では、キスムという珍しい語が用いられている。
  市原王いちはらのみこの歌一首〔市原王歌一首〕
 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに〔伊奈太吉尓伎須賣流玉者無二此方此方毛君之随意〕(万412)(注1)
 「きすむ」という語は万葉集でこの一例、他に播磨風土記に類例がある。
伎須美野きすみの 右、伎須美野となづくるは、品太ほむたの天皇すめらみことみよ大伴連おほとものむらじ等、此処ここを請ひし時、国造くにのみやつこくろわけして、地状くにのかたちを問ひたまふ。の時、こたへてまをさく、「へるきぬひつの底にきすめるが如し」とまをす。故、伎須美野と曰ふ。(伎須美野 右号伎須美野者、品太天皇之世、大伴連等請此処之時、喚国造黒田別、而問地状。爾時対曰、縫衣如蔵櫃底。故曰伎須美野)(播磨風土記・賀毛郡)
 これらをもって「きすむ」という語は、大切な品をしまう、隠しておく、の意であると考えられている(注2)
 播磨風土記の例を、櫃の底の方に一張羅の服をしまっておいたという意と捉えたのである。
 しかし、「縫衣」を「櫃底」にキスムことが、箪笥の奥の一番下に札束をしまっておくように蔵することだというのはおかしい。反物屋を営んでいるわけではない家では、ストッカーである「櫃」には、上から下まで「縫衣」を入れておくはずである。縫っていない衣はすぐには着れない。縫っていない衣の下に、櫃の底にすぐ着れる「縫衣」を入れておくという状況は、設定としてかなり特殊なこととしてしかあり得ない。物色する相手をたぶらかすための工夫ということになる。
 「縫衣」を「櫃底」の位置に置いている。そして、それが何かある事情、それも卑近な光景として知られているありさまとして述べている。そうでなければコミュニケーションとして成り立たない。
 そのような状況設定について考えると、「櫃」は服をしまうストッカー以外の目的で使われているものになる。当時の櫃には正倉院の財宝がおさめられているような四角いもの以外にも、米櫃や飯櫃のようなものがある。
 櫃の底に縫った衣を入れておくことは、ご飯のお櫃の中に下敷いて蒸れを取る役割をする場合がある。
 だが、そのことをキスムという語が表しているとは思われない。
 他の可能性を考えてみれば、キ(酒、キは甲類)+スム(澄)、つまり、酒を濾している様子が思い浮かぶ。濁り酒を縫った衣、つまり、あるいは袋状の布を櫃の底とし、そこへ流し込んで濾過して清酒にする。じっくりと滲み出させるのである。
 結桶・結樽は中世になって登場する。古代には丸い櫃が使われ、大きなものでも曲げ物で作られていた。今日でも目にする絹篩のように、縁が曲げ物の輪になっていて、底を縫った衣で作った道具が使われていたのだろう。
 正倉院文書に「清酒」、「清」とあり、平城宮跡出土木簡に「清酒」、また、伝飛鳥板蓋宮跡出土の木簡に「須弥酒」の名をみる。関根1969.に、「文書例で滓、濁と対比しているのは、清酒が濁り気のない酒であったからだろう。……酒滓をみるから、当然酒と滓との分離が行なわれていたのであり、恐らく上澄みか、布様のもので(濾カ)過したものかであったろう。延喜造酒司式造酒雑器中に 「篩料絹五尺」、「篩料薄絁五尺」、「糟垂袋三百廿条〈二百四十条酒料、度別六十条、八十条酢料、度別廿条、竝以商布一段八条、一年四換〉」と、酒を瀘過したと思われる裂類がみえ、奈良時代にもかような用具で濾して清酒を得たに相違ない。」(266頁)とある。スミサケと呼ばれていたと思われる。
 播磨風土記のキスミ野のありさまは、周囲が山に囲まれた野であり、そこへ濁った水が流れ込むが、出てくる水は澄んでいたということのようである。「縫衣如蔵櫃底」は、「縫衣如櫃底」ではなく、「縫衣如蔵櫃底」、つまり、「へるきぬきすみ櫃底ひつぞこの如し」と訓み、縁を立てた円盤状の形、オオオニバスの葉のような形に仕立てたことを言っているものと思われる。「蔵」字を酒を濾す意と考えて支障がないのは、酒滓(酒糟、酒粕)をすくい集めるからである。「蔵」字はツムとも訓み、アツム(集)と類語であると考えられている。「玉藻刈りめ〔玉藻苅蔵〕」(万360)とある。
 この意であると仮定すると、万葉集の市原王の歌も趣向が変わってくる。
 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに(万412)
 「いなだき」はイタダキの音転とされている。頭頂部の髪のまとめ方、ここではいわゆる「束髪於額ひさごはな」のことを言っているものと考えられる(注3)
 是の時に、厩戸皇うまやとのみ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。(崇峻前紀)
 ひさごの花のように髪をひと束ねに結い上げた形である。ひさご、つまり、瓢箪の花のような形にまとめている。花が終わると膨らんできて瓢箪になるところを頭蓋骨部と譬えている。瓢箪は容器として用いられ、種、水、そして、酒を入れておいた。酒は須恵器の瓶、壺に入れて保存貯蔵され、持ち運んで行って飲むときには瓢箪に小分けされた。大陸から伝わっていた古代の瓢箪は、今日よく知られているような腰のくびれたものではなく、丸かった。つまり、「いなだきにきすめる玉」とは、清酒を入れた瓢箪を一つ、私はお持ちしました、ということである。
 その証拠に、この歌の作者は市原王である。イチハラノミコというのだから、マーケットに関わりがある歌を歌って聞く人を楽しませているものと推測される。市場では商品の売り買いをする。瓢箪、つまり、ウリ(瓜)の一種に入れて売るものと言えば澄んだ酒である。当時の瓢箪の栽培法は定かではないが、棚作りせずとも畑で地面の上で実るから、ハラ(原)の産物である。ミコという呼び名は、特徴的な髪型をしていたウマヤトノミコ(厩戸皇子)を連想させる。年齢的にそういう髪型をしていたようである。そんな「束髪於額ひさごはな」のくっついている瓢箪の入れ物は二つとない。その清酒すみさけをどうするか、あるいは飲んで酔っ払ってしまった私をどうするか、あなた様にすべてお任せします、と洒落を言っているのであった。
玉三つ(ユウガオ(ウリ科)、11月、実が熟し溶けた様子)

(注)
(注1)「頭の上に結んだ髻(もとどり)の中に大切にしまった玉は二つとないものです。どのようにもあなたの思し召しのままに。」(新大系文庫本291頁)と現代語訳されている。仏典では、王が結髪の中に秘蔵する宝玉を髻中けいちゅうの明珠というとし、それに基づいた歌ということになっている。愛娘を髻中の珠に譬え、信頼する若者に託したのがこの歌の趣旨であるとしている(古典集成本、西宮1984.、伊藤1996.、阿蘇2006.、多田2009.も同様)。参照歌として次の歌があげられている。
 あも刀自とじも 玉にもがもや いただきて みづらの中に あへかまくも(万4377)
 新室にひむろの 壁草刈りに いましたまはね 草のごと 寄りあふ娘子をとめは 君がまにまに(万2351)
 第一例では、母君も玉であってほしい、もしそうであったなら、みづらの中に巻き込めてしまうものを、と仮定して歌っている。設定が説明されているから譬えられているとわかる。一方、万412番歌ではその説明はなく、当たり前のこととして髻中けいちゅうの明珠に譬えられているのだとされている。作者の市原王が仏典・漢籍に精通していたからそう歌われたのだとする考えであるが、聞く側は初耳の話である。一人よがりのモノローグになり、コミュニケーションは成立しない。そもそも愛娘を大切にして隠しているのに、婿殿がすでに決まっているというのは矛盾している。
 「此方此方毛」は、コナタカナタモと訓むべきとする説(例えば、澤瀉1958.487頁)もあり、あなたのお心のまにまに何方へなりと従いましょう、の意であると解している。西宮1984.は、コナタ・カナタという語は当時存在しなかったという。
(注2)キスムを独立語と認め、「キスムはヲサむる事なり」(井上通泰・萬葉集新考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909/1/260)とするのが現在の潮流である。「キスメルは、来住也」(仙覚・萬葉集註釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970584/1/79)、「きすめるは令著なり」(契沖・万葉代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/381)、「伎は久々里の約にて紋なり、須売流はスヘルるなり」(賀茂真淵・万葉考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1913084/1/163)、「伎は笠ヲキルなどのキルに同じ。……スメルは統にて、」(橘千蔭・万葉集略解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1019539/1/30、本居宣長説所引)、播磨風土記のキスミは「櫃底」で万412番歌のキスメルは「著澄める」とする説(土屋1976.183頁)も唱えられてきた。また、山﨑2024.は、キスムという語の用例が少ないことを指摘し、慎重な取扱いが求められるとして判断を保留している。菅家文草269「寄白菊四十韻」の「紫襲衣蔵筺 香浮酒満罇」を例にあげ、それらを全体的に考察する必要性を説いているが、播磨風土記の「縫衣」と同等に扱うことは的外れのように思われる。
(注3)井上通泰・萬葉集新考は、「箭蔵頭髻」(景行紀四十年)や「各以儲弦于髪中」(神功紀元年三月)、「乃斮-取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪」(崇峻前紀)について、「皆髻珠とは目的を異にせり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909/1/260)としている。「髻珠」という考え方のほうが異例であり、疑われなければならない。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 二』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
井上1928. 井上通泰『萬葉集新考 第一』国民図書、昭和3年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
古典集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 万葉集一〈新装版〉』新潮社、平成27年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解 1』筑摩書房、2009年。
土屋1976. 土屋文明『萬葉集私注 二(新訂版)』筑摩書房、昭和51年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
山﨑2024. 山﨑福之「「蔵」とヲサム・ツム・カクル・コモル」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。

「始馭天下之天皇」(神武紀)はハツクニシラススメラミコトか?

2025年02月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古代において、ハツクニシラススメラミコトは二人いたとされている。神武天皇(神日本磐余彦天皇、神倭伊波礼毘古命)と崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇、御真木入日子印恵命)(注1)である。神武紀の古訓にある「始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと(注2)は「はじめて天下あめのしたをさめたまひし天皇すめらみこと」と訓むのが本来の姿であろうと指摘されている。ハツクニシラスノスメラミコトという訓みは、二次的な理由から起こったとも考えられる。記に、該当する命名由来譚が載らず、紀の本文を読む限り「天下」はアメノシタとばかり訓まれている。
 本稿では、神武紀の訓みにおいて、「始馭天下之天皇」を何と訓んだらいいのかについて、筆録者の視点、工夫を顧慮しながら検証を試みる。同じ名前の人が二人いるのは矛盾であるとの現代人の先入観を排除し、最終的に上代の人のものの考え方に辿り着くべく、結論を先に提示せずに回りくどい議論を行っている。その回りくどさは実は記述自体にもともと内包されていると言えるものだから、回りくどさまでも正しく理解することが求められると考える。
神武天皇(大蘇芳年・大日本名将鑑、東京都立図書館デジタルアーカイブhttps://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00009550)
 神武紀元年条の原文には次のようにある。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年。尊正妃為皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大来目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖気。倒語之用、始起乎茲。(神武紀元年正月)

 これをいかに訓むか、特に、「故」以降の、「古語称之曰」がどこまでを指すのか、定まっているわけではない。

 ゆゑ古語ふることほめまうしてまうさく、「うね橿原かしはらに、宮柱みやはしら底磐したついはふとしきたて、高天原たかまのはら搏風ちぎたかりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことを、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまうす」。(大系本日本書紀240頁、兼右本に準ずる)
 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天たかまはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみこと」とまをし、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす。(新編全集本日本書紀233頁)

 「故」で始まる文章である。前の文章を理由としてそういうことにした、と叙述している構文ととれる。前にある文章で、天皇は橿原宮に即位して皇后を立て、皇子が生まれたと言っている。だからそれゆえ、古語で称えて次のように言った、と捉えられている。古語とあるのは、慣用的な表現が古くから行われていたことを物語っている。よく似た表現は、記に二例見える。

 「……おれ、大国主神おほくにぬしのかみり、また宇都志うつし国玉神くにたまのかみと為りて、其のむすめ須勢理毘売すせりびめ適妻むかひめて、宇迦能うかのやま山本やまもとに、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷椽ひぎたかしりてれ。是のやつこや」といひき。(記上)
 「……ただやつかれ住所すみかのみは、あまかみ御子みこ天津あまつ日継ひつぎ知らすとだるあめ御巣みすごとくして、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷木ひぎたかしりておさたまはば、僕はももらず八十やそ坰手くまでかくりてはべらむ。……」と如此かくまをして、……。(記上)

 第一例は、大穴牟遅神おほあなむぢのかみ黄泉よもつひら坂から逃げ帰り脱出したときに、須佐之男大神すさのをのおほかみから投げかけられている。葦原中国に建てた建物の、千木ちぎをあたかも高天原に届くがごとく高く突き立てよ、と言っている。第二例は、大国主神の国譲りの記事であり、やはり葦原中国の安住する立派な建物を作ってくれたらそこに隠居しようと言っている。どちらも建物は葦原中国にある。ただし、これらは会話文中の言葉であり、負けを認めたときの捨て台詞として用いられている。この点は注意が必要である。
千木のある家形埴輪(高槻市立今城塚古代歴史館展示品)
 建物の建て方として同じような記述である。それになぞらえて語られているから、「古語称之曰」と表現されているのだろう。場所は、葦原中国の畝傍の橿原である。そこに立派な宮殿を造営して即位した。実際にどのようなものが造られたか記述はなく、しかも会話文の中に出てくる言葉である。実状としては、「規-摹大壮」、「披払山林、経-営宮室」、「可治之」との注意があり、「命有司、経-始帝宅」、「即-帝-位於橿原宮」と抽象的に説明されているだけである。

 ……のりごとを下してのたまはく、「……誠に帝都みやこひらひろめて、大壮おほとのはかつくるべし。しかるを……。巣に棲み穴に住みて、習俗しわざこれ常となりたり。……。且当まさやまはやしひらき払ひ、宮室おほみや経営をさめつくりて、つつしみて宝位たかみくらのぞみて、元元おほみたからしづむべし。……。しかうして後に、六合くにのうちを兼ねて都を開き、八紘あめのしたおほひていへにせむこと、亦からずや。れば、畝傍山うねびやま 畝傍山、此には宇禰縻夜摩うねびやまと云ふ。東南たつみのすみの橿原のところは、けだし国の墺区もなかのくしらか。みやこつくるべし」とのたまふ。是の月に、即ち有司つかさみことおほせて、帝宅みやこつくはじむ。(神武前紀己未年三月)

 だから、古語を用いて称賛しているように呼んでいることになっている。ここまでを考えるなら、「古語称之曰」がかかるのは、大系本、新編全集本とも違い、「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」までと考えられる。そういうふうに「古語」を使って言っておいて、そして、「而始馭天下之天皇」のを、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とした(注3)。そういう見方が妥当だろう。建物を建てたことが求められるのは、「天下あめのした」を統治していることを既成事実化したいからとみられる(注4)
 「古語称之曰」が後にくる「而始馭天下之天皇」という語までかかると考えるには、神武紀以前からそのような言い方があることが条件となる。「天下あめのした」の用法としては三貴子の分治の話などがある。

 すでにして、伊弉諾尊いざなきのみことみはしらみこ勅任ことよさしてのたまはく、「天照大神あまてらすおほみかみは、高天原たかまのはらしらすべし。月読尊つくよみのみことは、以て滄海原あをうなはらしほ八百重やほへを治すべし。素戔嗚尊すさのをのみことは、以て天下あめのしたを治すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第六)
 一書あるふみはく、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原たかまのはらしらすべし。月夜見尊つくよみのみことは、日にならべてあめの事を知らすべし。素戔嗚尊は、蒼海之原あをうなはらを御すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第十一)
 此の時に、いざなきのみことおほきに歓喜よろこびてのりたまはく、「あれは子をみ生みて、生みへにみはしらたふとき子を得つ」とのりたまひて、即ち其の御頸珠みくびたまの玉の、もゆらに取りゆらかして、天照大御神あまてらすおほみかみたまひて、詔はく、「みことは、高天原を知らせ」とことして賜ふぞ。かれ、其の御頸珠の名は、御倉みくら板挙之たなのかみと謂ふ。次に月読命に詔はく、「汝が命は、夜之よるの食国をすくにを知らせ」と事依すぞ。次に建速須佐之男命たけすさのをのみことに詔はく、「汝が命は、海原うなはらを知らせ」と事依すぞ。(記上)

 「天下あめのした」などを「治」、「御」、「知」するように書いてある。「馭」も同義である(注5)。神代紀第五段一書第六「治天下」と同じ意味で、神武紀元年の「馭天下」もあると考えられる。天皇は天照大神の末裔ではあるが、天孫降臨以降、高天原ではなくて地上を治めることになっている。そして、「天下あめのした」を治めることを始めた天皇について、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とすると言っていると考えられる。
 
 神代紀において「天下」は上述の例を含めて六例ある。すべてアメノシタと訓んでいる。

 われすで大八洲国おほやしまのくに及び山川やまかは草木くさきめり。いかに天下あめのした主者きみたるものを生まざらむ。(吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。)(神代紀第五段本文)
 是の時に、素戔嗚尊、とし已にいたり。また八握やつか鬚髯ひげ生ひたり。然れども天下あめのしたしらさずして、常にいさ恚恨ふつくむ。(是時素戔嗚尊、年已長矣。復生八握鬚髯、雖然不治天下、常以啼泣恚恨。)(神代紀第五段一書第六)
 大己貴命おほあなむちのみことと、少彦名命すくなびこなのみことと、力をあはせ心をひとつにして、天下あめのした経営つくる。(夫大己貴命与少彦名命、戮力一心、経営天下。)(神代紀第八段一書第六)
 今此の国ををさむるは、ただわれ一身ひとりのみなり。其れ吾と共に天下あめのしたを理むべきものけだし有りや。(今理此国、唯吾一身而巳。其可与吾共理天下者、蓋有之乎。)(神代紀第八段一書第六)
 次に狭野尊さののみこと。亦は神日本磐余彦尊かむやまといはれびこのみことまをす。狭野と所称まをすは、これみとしわかくまします時のみななり。後に天下あめのしたはらたひらげて、八洲やしま奄有しろしめす。故、また号をくはへて、神日本磐余彦尊とまをす。(次狭野尊。亦号神日本磐余彦尊。所称狭野者、是年少時之号也。後撥平天下奄有八洲。故復加号曰神日本磐余彦尊。)(神代紀第十一段一書第一)

 以上のことから、問題の部分は次のように訓むのが正統的かと思われる。途中にある「而」字の前で区切った。(後述のとおり、この訓みは正されるべきである。)

 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」とまをす。しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。(故、古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇号曰、神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 すでに述べたとおり、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」なる言い方は、「古語」において、負けを認めたときの捨て台詞であり、此畜生こんちくしょう的な意味合いを帯びたものである点は留意されなければならない。すなわち、「称之曰」として何ら橿原宮を賛美するものでないのである。不思議に思われるかもしれないが、天皇の名の話の後に続く文を見れば疑念は氷解する。

 はじめて、天皇すめらみこと天基あまつひつぎ草創はじめたまふ日に、大伴氏おほとものうぢ遠祖とほつおや道臣命みちのおみのみこと大来目おほくめひきゐて、しのびみこと奉承けて、諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひはらとらかせり。倒語の用ゐらるるは、始めてここおこれり。(神武紀元年正月)

 即位式典の日に、「奉-承密策、能以諷歌倒語、掃-蕩妖気。」なる不可思議なことが行われている。「倒語之用、始起乎茲。」と、最初の出来事だと言っている。少しもハッピーな雰囲気ではない。内々でしか通じない暗号文を交わし、意味が表に立たないような歌を歌ったり、意味が反対になる言葉を発している。単純、単細胞な輩には通じないような言葉の使い方、修辞法における高等テクニックを用いることで、事態が悪い方へ傾かないように努めている。言葉の意味を反対にして使ったのはこのときが最初であるとしている。
 すなわち、負け惜しみの捨て台詞で此畜生的な文言、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」を使っているのは、虚仮威しのためのものなのである。実際の宮殿は大したことない建物なのであるが、財政的にも軍事的にも、敵方やそうなる可能性のある相手に対し、強いと受け取られるべく画策している。嘘称え、フェイクプレイズ(fake praise)である。なぜか。東征の途中、兄猾えうかし弟猾おとうかし兄磯城えしき弟磯城おとしき長髄彦ながすねびこなど、ずるがしこい奴らと戦ってきた。そして、相手以上にずるがしこくたちまわって勝ってきたのであった。情報戦を制するものが実戦を制する。だから、勝って兜の緒を締めるように、残党として必ずいるであろう周囲の仮想敵に対して油断しないようにしている。相手をだますような情報を流しているのであり、時にはそれ以前に味方からだまして難を逃れようとしている。本当は大したことはないのであるがすごいものであるように、また、内心はもう少し立派なものを建てる余裕が欲しいのであるが、そのことも了解している人の間でなら通じるように、古くからの形容表現としての「古語」を用いている。「諷歌倒語」の精神とは、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに伝えるレトリックを用いることである。それによって、賊勢を排除しながら自らの党派の結束力、求心力を高めている。「妖気」を掃って溶かしている。
 ものすごい宮室が建てられているわけではない。都としても立派とは言えない。人がたくさん集まっているとまでは言えない。しかし、それがばれると、周囲に潜在する敵から攻撃を受ける。そうならないために、「古語」を使って「称」した。と同時に、天皇の名前も相手を怖がらせるようにしておいた。「しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。」(注6)と訓むと仮定できる。人はあまりいないけれど、あたかも大勢いるようにアピールするには、天皇の名を大仰にして脅かしておけばよい。「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」である。「始馭天下」すことをしたから、こと(葉)としてもそれに合わせて「号曰」したということである。それは、ひるがえって、「号曰」したから「馭天下」できているともいえるのである。それが、言霊信仰の本質(注7)、言=事であることによる既成事実化である。
 「神日本磐余彦火火出見天皇」は「かむ」と付いていて神々しい。「日本やまと」とついていてヤマト地域の首長らしい。「磐余いはれ」と付いているのには、その謂われ譚におぼしく、たくさんの人、特に軍勢が集まっていることを言っている。強そうに聞こえるではないか(注8)

 また兄磯城えしきいくさ有りて、磐余邑いはれのむらいはめり。磯、此にはと云ふ。賊虜あたる所は、皆これ要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 我が皇師みいくさあたを破るにいたりて、大軍いくさびとどもつどひて其の地にいはめり。因りて改めてなづけて磐余いはれとす。(神武前紀己未年二月)
 是の時に、磯城しき八十やそ梟帥たける彼処そこ屯聚いはたり。屯聚居、此には怡波瀰萎いはみゐと云ふ。……故、なづけて磐余邑いはれのむらと曰ふ。(神武前紀己未年二月)

 「磐余」の謂われ譚が述べられている。ということは、それも冒頭から検討している「古語」に当たるのではないか。そう言われてみればそういうことになる、ということである。無意識化下に沈静していた言葉の内実を呼び起こしているから、それは深層の「古語」ということになる。すると、「古語称之曰」は、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」までかかる可能性が出てきており、改めて考え直さなければならない。追究してみると、途中の「而始馭天下之天皇」も「古語」となるはずである。ここに、ハツクニシラススメラミコトという紀の傍訓の正しさが再発見される。
 ハツクニは初国の意と考えられる。

 「くもつ出雲の国は、狭布さの稚国わかくになるかも。初国はつくにさく作らせり。かれつくはな」(出雲風土記・意宇郡)(注9)

 「初国はつくに」の確例である。ヤマト朝廷の中央の人々にこの話が知られていたか不明ながら、「初国」という使い方があったことは想定される。「初国」は大系本風土記に「初めに作った国。」(100頁)、岩波古語辞典に「はじめて作った国。」(1069頁)と説明されている。
 そして、とても興味深いことに、神武天皇の幼名は、「狭野尊さののみこと(最初のノは甲類)」であった。「狭布さの(ノは甲類)」に同じである。すなわち、ヤマトの国の首長として君臨することになった神武天皇の版図は、後に大和国と呼ばれる一行政単位に当たるところ、それもその中心部分にすぎない。出雲風土記では、機織りした布地は狭いものだから、それを縫い合わせて服を作ろうということを比喩にしていて、いわゆる国引き伝承を伝えている。国引きの結果、島根半島は固まったというのである。同様に、狭野尊が統治した場所は、とても狭い範囲であったことを物語っている。幼名が「狭野尊」であり、長じて「神日本磐余彦尊」という名が「加」わっただけで、変わったわけではない。
 以上のことから、「故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」は、大系本日本書紀の括弧の取り方が正しかったことが理解された。ただし、大系本日本書紀の補注にある解説は当たらない。

 
植村清二[『神武天皇─日本の建国─』]のいうように、元来、大和朝廷が成立して、かなり時代が降れば、その建設者・始祖という観念が生ずるのは自然であり、ハツクニシラススメラミコトとは、単にそうした観念を示す呼称に過ぎず、かかる具体的な物語の持主である[神武・崇神]両天皇に、共に与えられたもので、ある個人の特定の呼称が他の個人に移されたものではなく、またこの呼称の成立もさほど古いものではないと見るのがよいか。孝徳[紀大化]三年四月条に「始治国皇祖(はつくにしらししすめみおや)」とあるのを参照。(405頁)


 後代の人たちが「初国」の小ささを顕彰する理由は思いつかない。風土記は日本書紀と同じ頃に成ったと考えられている。
 また、神武と崇神を別けようとするあまり、不思議な解釈を試みることもいただけない。新編全集本日本書紀は、「初めて(最初に)国を治められた天皇。ハツ+国知ラスの形で、「馭」は「御」に同じく、使いこなす、おさめる意。崇神天皇もハツクニシラス天皇と呼ばれるが、崇神記に「所初国之…」、崇神紀には「御肇国天皇」……とあるように、ハツクニ+知ラスの語形ゆえ、国の初めを治めたということで、必ずしも初代を意味しない。その点に差異がある。」(233頁)(注10)とし、新釈全訳日本書紀は、「始めて天下を治めた天皇。国の中心に都を置き、正妃を立て帝位に就いたことをもっていう。神武紀冒頭の「恢弘大業、光宅天下」せんとしたことがいまここに実現され、東征の完了となる。」(339頁)、「[神武の]「始馭天下之天皇」が初めて天下を治めた天皇の意であるのに対し、[崇神の]「御肇国天皇」は祭祀・税制が確立しかたちをととのえた国家を治めた天皇の意。」(401頁)としている。ハツクニは「初国」であり、初めに作った国であることに変わらない。それを治めたのである。「初雁はつかり」、「初垂はつたり」、「初子はつね」、「初花はつはな」、「初春はつはる」、「初穂はつほ」といった例しか見られない中、副詞のように考えた「ハツ+国知ラス」の形を認めることには無理がある。
 「称之曰」については、紀にある他の三例ですべてコトアゲシテと訓んでいる。「故古語称之曰、……」の場合もそう訓まれるべきであろう(注11)。以下に示す紀の例では「うけひ」に対照する箇所に用いられており、言葉を発することでそのようになることを期待して大声をあげたものと考えられている。万葉集の例は、無理やり大声を上げて唱えることを言っている。

 則ちことあげしてのたまはく、「正哉まさかわれちぬ」とのたまふ。かれりてなづけて、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことまをす。(神代紀第六段一書第三)
 すでにして其の用ゐるべきものを定む。乃ちことあげしてのたまはく、「杉及び櫲樟くす、此のふたつは、以て浮宝うくたからとすべし。ひのきは以て瑞宮みつのみやつくにすべし。まきは以て顕見蒼生うつしきあをひとくさ奥津棄戸おきつすたへさむそなへにすべし。くらうべき八十木種やそこだね、皆能くほどこう」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 しかうして後に、いろは吾田鹿葦津姫あたかしつひめ火燼ほたくひの中より出来でて、きてことあげしてはく、「が生めるみこ及び妾が身、おのづからに火のわざはひへども、少しもそこなふ所無し。天孫あめみまあにみそなはしつや」といふ。(神代紀第九段一書第五)
 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国は かむながら 言挙ことあげせぬ国 しかれども 言挙ことあげがする 言幸ことさきく 真幸まさきせと つつみなく さきいまさば 荒磯波ありそなみ ありても見むと 百重波ももへなみ 千重ちへなみしきに 言挙すわれは 言挙すわれは(万3253)
 りし 雨は降りぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ(万4124)

 したがって、課題の文章は次のように訓むべきことが結論される。

 かれ古語ふることことあげしてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことなづけてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす」とまをす。(故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 この訓みに対する傍証として、祝詞の形式、「まをたまはく……たまへと称辞たたへごとまつらくとまをす」があげられる。すなわち、この箇所は、神武元年正月一日の賀で寿いだ物言いなのである。祝詞風に朗誦することほどふさわしいものはない。無文字時代のヤマトコトバ文化圏にはことことであるとする言霊信仰が行きわたっており、括弧内の言葉を言うことで、言葉=事柄たらしめんと定義している。だから、「~とまをす」と言っているのである。
 「古語」を使いながら祝詞のようにコトアゲして、どこから攻撃を受けるかわからない状況のなかで、何とか好ましい方向へと導こうと知恵を絞っている様子がうまく活写されている。そもそも、ヤマトという国は、原則、武力で制圧して成った国ではない。「こと和平やは」(景行記)した末に統合を勝ち取っている。言葉の力によって従わせたということであるが、ヤマトコトバの巧みな使い方をもってヤマトコトバ語族を平定したということであろう。各地に住まう人々が一つにまとまっている状態を何と言うか。クニである。クニがハッと現れ出た最初の瞬間、それがハツクニである(注12)
 神武天皇時代、苦労した東征が終わり、凶賊を誅滅して都を置くまでに安定を勝ち取ったとき、クニなるものがハッと現れている(注13)。崇神天皇時代、長引いた疫病がようやく鎮まり、四道将軍が遣わされて天下太平となり、租税徴収が可能となったとき、クニなるものがハッと現れている。天皇が領有するから初めて一つにまとまってクニとなるという洒落を掛けている。そんな御代の天皇のことを、ハツクニシラススメラミコトと呼んだ、つまりは名をもって体となしているのであった(注14)。忠実にことことであるようにめぐらされ使われている。ヤマトコトバの真髄の表れと言える(注15)

(注)
(注1)崇神紀に、「始めて人民を校へて、更調役を科す。此を男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て、天神地祇、 共に和享にこみて、風雨時にしたがひ、百穀もものたなつものて成りぬ。いへいへひとびと足りて、天下あめのした大きにたひらかなり。故、ほめまをして御肇国天皇とまをす。」(十二年九月)とあり、崇神記に、「爾くして、天下あめのしたおほきにたひらぎ、人民おほみたから富み栄えき。是に、初めてをとこ弓端ゆはず調つきをみな手末たなすゑの調を貢らしめき。故、其の御世みよたたへて、初国はつくに知らす御真木天皇みまきのすめらみことと謂ふぞ。」(崇神記)に対応するから「御肇国天皇」をハツクニシラススメラミコトと訓んでいる。
(注2)紀の古訓にハツクニシラススメラミコトとあり、日本書紀私記甲本にハツクニシロシメスタカラノ爪ヘラノミコト(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100247543/14?ln=ja)ともあることなどによっている。矢嶋1989.は「タカラ」は「スメラ」の誤写と推定している。
(注3)神代紀第十一段一書第一にある「復加号曰神日本磐余彦尊。」記事は、「後撥平天下奄有八洲。」の「故」であるとしている。広いところを治めることになったのだから、「狭野尊」という名に「加」えて「号」したといっている。これを昔、そう言われたからというので神武紀の記述の「古語称之曰」と絡めて考えるのは適当ではない。新たな名前が「加」えているだけだからである。幼少時の「狭野尊」という呼び名が抹消されたわけではない。
(注4)文脈上の読解が問題であって、実際にいかなる版図まで統治しているのかという史学についてはかかわらない。
(注5)紀の文中に、「馭」字が音仮名以外で用いられている例は、次のとおりである。「治」、「御」、「知」と同義である。「馭大亀」は、馬を御す、制御するに同じである。

 故、其の父母かぞいろはみことのりしてのたまはく、「仮使たとひいまし此の国をらば、必ずそこなやぶる所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国ねのくにしらすべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
 来到いたりて即ち顕国玉うつしくにたま女子むすめ下照姫したでるひめ 亦の名は高姫たかひめ、亦の名は稚国玉わかくにたまりて、因りて留住とどまりて曰はく、「われ亦、葦原中国をらむとおもふ」といひて、遂に復命かへりことまをさず。(神代紀第九段本文)
 いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀にりて、女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、海をてらして来到きたる。(神代記第十段一書第三)
 則ち田村皇子を召して謂りて曰はく、「天位たかみくらに昇りて鴻基あまつひつぎをさととのへ、万機よろづのまつりごとしらして黎元おほみたから亭育やしなふことは、本よりたやすく言ふものに非ず。恒に重みする所なり。故、いまし慎みてあきらかにせよ。かるがるしく言ふべからず」とのたまふ。(推古紀三十六年三月)

(注6)ホホデミについては、拙稿「二人の彦火火出見について」参照。
(注7)拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1f84d8258d12f94ccbfa54b1183b530参照。
(注8)神代紀第十一段一書第一に、「後撥-平天下-有八洲。」したから、それ「故」に、「復加号曰神日本磐余彦尊。」とあった。「神」や「日本」と冠することに不思議はないが、「磐余」が付く点は謂われは、その語自体に秘められていると考えて然りである。
(注9)りごととして語られている。なお、沖森・佐藤・矢嶋2016.は、「くも出雲国いづものくには、ぬのつもれるくにるかも。初国はつくにちひさくつくれり。かれつくはむ」(101頁)と訓んでいる。
(注10)矢嶋1989.は、「天下」はクニとは訓めないとし、語構成が「始馭天下之天皇」(神武紀)と「御肇国天皇」(崇神紀)とでは異なるから、「始馭天下之天皇」はハジメテアメノシタシラシシ(シラシメシシ、[ヲ]サメタマヒシ)スメラミコトと訓むべきとしている。筆者の当初案において採ったが、「はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみこと」を「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」と名づけたというのは、命名法としておかしなところがある。名前は、何かに由来して名づけられるものだろう。この例で言えば、「はじめびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」などとなければ何を言っているのかわからない。
(注11)紀では、「称之曰」はコトアゲシテイハク、コトアゲシテノタマハクが通例である。祝詞の「称辞」はタタヘゴトと訓まれるが、実際には当初、貧相な建物しか建てられていないのだから、「称」を賞讃の意味をもってタタヘテと訓むのは皮肉になってしまい不適切である。言葉を躍らせてそうなるようにと強弁している。
(注12)ハツ(初)という語が擬態語に由来するであろう点については、拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/417311a243b4108b1fc20b9eed9c8db1参照。
(注13)矢嶋1989.は、「天下」という字面はクニとは訓み難いとしている。しかし、逆に、「国家」と書いてアメノシタと訓む例は見える(憲法十七条の四)。「天神地祇」でアマツカミクニツカミとなり、クニとは「地」のこと、「地」は「天」の「下」にあるものとの認識は間違ってはいないだろう。そして、「始治国はつくにしらしし皇祖すめみおや」(孝徳紀大化三年四月)と訓まれ、慣わされている。ハツクニシラスというひとまとまりの言葉が通行していたと考えられる。
 神代紀、記上の三貴士分治の記事で、「国」という字は「根国ねのくに」(神代紀第五段本文、同一書第一)、「夜之食国よるのをすくに」(記上)と使われている。記では、スサノヲが成人してもなお啼きわめき、命じられた「夜之食国よるのをすくに」を治めずに「ははが国の根之ねの堅州国かたすくに」へ行きたいと言ったので、イザナキは大いに怒り、「此の国」に住んでいてはいけないと追い払っている。「国」字はこのように使われていた。神武天皇が治めるところは天上の高天原でも根国ねのくに夜之食国よるのをすくにでもない。話が現実的になって急に注目を浴びている地上世界に関して、ある部分を区切って統治することを言おうとしている。オホアナムチとスクナビコナがつくった天下あめのしたについてばかりが問われる御代になったということである。統治することはシル(知、領)でその尊敬語がシラスであって、その対象として地上世界があげられている。もはや「根国ねのくに」や「夜之食国よるのをすくに」は問題とされない。新しくカテゴライズされた言葉、クニが出現したのである。意訳して記した形が「始馭天下之天皇」である。古事記本文冒頭の「天地初発」と同様の状況、「ハッ(💡)クニ」であると認められる。(注12)の参照論文に詳述している。
(注14)倉野1978.は本居宣長説に即しつつ、神武紀にいうハツクニシラススメラミコトは人皇第一代の意、崇神記にいうハツクニシラススメラミコトは人の国家の開始を物語るものとしている。そのような講釈調の言葉づかいが上代に行われていたとは考えられない。聞いた相手が直観的にわかるものでなければ話にならない。書記としても、当時のリテラシーとして、「始馭天下之天皇」と書いてあってハッ(💡)と気づかないとは思っていなかったから、訓注など付けずにそう記したものと考える。
(注15)語構成の違いは表記法の問題である。音声言語として爛熟したヤマトコトバの後に位置づけられる。言葉を交わすだけで互いに通じて社会が成り立っていたのだから、書き方の工夫はヤマトコトバ研究において二の次のことである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
沖森・佐藤・矢嶋2016. 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』山川出版社、2016年。
倉野1978. 倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』三省堂、昭和53年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2024. 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(「『日本書紀』β群の編述順序─神武紀・景行紀の比較から─」『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年11月、國學院大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.57529/00000609)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本風土記 秋本吉郎校注『風土記』岩波書店、1958年。
谷口2006. 谷口雅博「神武天皇と崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)」『国文学 解釈と教材の研究』第51巻1号、平成18年1月。
矢嶋1989. 矢嶋泉「ハツクニシラススメラミコト」『青山語文』19号、平成元年3月。

※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。

二人の彦火火出見について

2025年02月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、彦火火出見ひこほほでみという名がつけられている。山幸こと彦火火出見尊ひこほほでみのみことと神武天皇のただのみな彦火火出見ひこほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみことが降臨し、鹿葦津姫かしつひめ木花之開耶姫このはなのさくやひめ)と結婚、火闌降命ほのすそりのみこと、彦火火出見尊、火明命ほのあかりのみことが生まれたという彦火火出見と、その子、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあへずのみことの子である神武天皇として知られる彦火火出見である。
 この点については従前より議論されている。

 神武天皇をここ[第二の一書]に神日本磐余彦火火出見尊という。第三の一書も同じであり、さかのぼって第八段の第六の一書……に神日本磐余彦火火出見天皇といい、くだって神武紀でもそのはじめに、諱は彦火火出見、同元年正月条……には神日本磐余彦火火出見天皇とある。神武天皇をまた彦火火出見尊という理由について、記伝は簡単に、彦火火出見尊の名は「天津日嗣に由ある稲穂を以て、美称奉れる御号なる故に、又伝賜へりしなり」とし、通釈も、ただ彦火火出見尊とだけ書いたのでは祖父の彦火火出見尊とまがうので、神日本磐余彦の六字を加えて区別したという。これらは神武天皇と瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊はもとより別人だが、ともに彦火火出見尊といったと頭からきめてかかった上での解釈である。しかし津田左右吉[『日本古典の研究』]は、神代史の元の形では、瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征の主人公とされていたが、後になって物語の筋が改作され、彦火火出見尊に海幸山幸の話が付会されたり……、豊玉姫や玉依姫の話が加わったり、鸕鷀草葺不合尊が作られたりした。また他方では東征の主人公としてあらたにイワレビコが現われたのだとする。その際、元の話が全く捨てられなかったために神日本磐余彦火火出見尊(天皇)という名が記録されたり、神武の諱は彦火火出見であるという記載が生じたのだという。(大系本日本書紀197頁)
 神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
 神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)

 「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは、考え方として疑問である。中臣なかとみの烏賊津使主いかつのおみという人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭はたびの皇女ひめみこは、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
 神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「神日本磐余彦天皇かむやまといはれびこのすめらみことただのみなは彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら、二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
 神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項が見出されたようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截に見出すことはできない。違う視点が必要である。
 山幸こと彦火火出見尊と神武天皇のただのみなの彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)

 時に彦火火出見尊ひこほほでみのみことたまとを受けて、本宮もとつみやに帰りでます。ある海神わたつみをしへまにまに、先づ其の鉤を以てこのかみに与へたまふ。兄いかりて受けず。故、おとのみこと潮溢瓊しほみちのたまいだせば、潮大きにちて、兄みづか没溺おぼほる。因りてひてまをさく、「われまさいましみことつかへまつりて奴僕やつこらむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。おとのみこと潮涸瓊しほひのたまを出せば、潮おのづからにて、このかみ還りて平復たひらぎぬ。すでにして、兄、さきことを改めて曰はく、「吾はこれいましみことの兄なり。如何いかにぞ人の兄としておととに事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山たかやまげ登る。則ち潮、亦、山をる。兄、高樹たかきのぼる。則ち潮、亦、る。兄、既に窮途せまりて、去る所無し。乃ち伏罪したがひてまをさく、「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、つねいましみこと俳人わざひとらむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。ふ、かなしびたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからにぬ。(神代紀第十段一書第二)
 是夜こよひみみづかうけひてみねませり。みいめ天神あまつかみしてをしへまつりてのたまはく、「天香山あまのかぐやまやしろの中のはにを取りて、香山、此には介遇夜摩かぐやまと云ふ。天平瓮あまのひらか八十枚やそちを造り、平瓮、此には毗邏介ひらかと云ふ。あはせて厳瓮いつへを造りて天神あまつやしろ地祇くにつやしろゐやまひ祭れ。厳瓮、此には怡途背いつへと云ふ。亦、厳呪詛いつのかしりをせよ。如此かくのごとくせば、あたおのづからにしたがひなむ」とのたまふ。厳呪詛、此には怡途能伽辞離いつのかしりと云ふ。天皇すめらみことつつしみて夢のをしへうけたまはりたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
 是に、天皇すめらみことにへさよろこびたまひて、乃ち此のはにつちを以て、八十やそ平瓮ひらか天手抉あまのたくじり八十枚やそち 手抉、此には多衢餌離たくじりと云ふ。厳瓮いつへ造作つくりて、丹生にふ川上かはかみのぼりて、天神あまつかみ地祇くにつかみいはひまつりたまふ。則ち菟田うだがは朝原あさはらにして、たとへば水沫みなはの如くして、かしけること有り。(神武前紀戊午年九月)

 ふつう、神に祈りを捧げることは、自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「とごふ」や「かしる」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
 神に祈る際、我々は柏手かしわでを打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手はくしゅのことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。
 同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に、朴木ほおのきがある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐ほほかしはのきと云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波ほほのかは〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
左:カシワ(ズーラシア)、右:落葉しないで越冬するカシワ(民家)
左:ホオノキ、右:朴落葉
 以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。よって、両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなったことだろう。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶にあたる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草あをひとくさ」(記上)、「名をもらせり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
 近世の国学者と近代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。

(注)
(注1)古事記には、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は、実は古代には見られない。ただ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。

(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。

※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。