古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

天寿国繍帳の銘文を内部から読む 其の三

2017年10月12日 | 天寿国繍帳銘
(注)
(注1)鎌倉時代に、中宮寺の尼僧、信如が、同寺の復興にあたって、寺の本願と伝えられる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の忌日を知りたくなった。夢のお告げに繍帳の銘文に記されていると教えられ、法隆寺綱封蔵の泥棒騒ぎのおかげで調査ができ明らかとなった。繍帳はすでに劣化が始まっていたが、当時の専門家が銘文を解読した。それが、上宮聖徳法王帝説に記され、他に、宮内庁書陵部蔵の中宮寺尼信如祈請等事(定円の解読)、西尾市立図書館内岩瀬文庫蔵の松下見林本天寿国曼荼羅銘文(平野神社兼輔の解読)などがあって、それらの異同を校訂した飯田2000.の水を漏らさぬ考究の結果、全400字が復原されている。
 建治元年(1275)には補修されて新繍のものも作られ、弘安元年(1278)に中宮寺で供養が行われた。現在見られる繍帳のうち、汚い部分のほうが鎌倉時代の後補部分であるとされている。「原本の下地裂(したじぎれ)は、紫地平絹(むらさきじへいけん)に紫地羅(むらさきじら)(羅はもじり組織の織物)を重ねた部分と、白地羅(しろじら)の部分からなる。」(『日本美術全集』、267頁。この項、三田寛之)。建治の新繍の生地は紫綾、部分的に白平絹と異なり、繍糸の撚り方も異なっていると研究されている。江戸時代、安永年間(1772~1782)頃に、残片を集めて縦二尺九寸(約87cm)×横二尺七寸(約81cm)の軸装となり、大正時代に現在の額装にされたという。また、沢田2010.に、「もと法隆寺にあった『天寿国繡帳』の残欠をはじめ、法隆寺系の幡や「法隆寺」、「鵤(いかるが)寺波羅門(ばらもん)」……などの墨書銘が記された作品など、法隆寺の列品に含まれている裂の一部が混入されているのです。正倉院から刊行された図書にも図版とともに掲載されています。」(20頁)とあり、注に、『正倉院の宝物一〇』、『正倉院の宝物六』を掲げ、「これらの図書に掲載されている作品以外にもまだあるものと推測されます。」(31頁)との見解を示す。(沢田2015.参照。70頁に刺繍についての若干のコメントも載せる。)きっとそうであろうが、こと天寿国繍帳の“銘文”に関しては、上宮聖徳法王帝説等以上のものはないであろう。
(注2)日本書紀に、「帷」とあるのは、寝屋を囲むパーテーションの意、ないし、葬儀の際の幔幕の意で用いられている。「帷幕(おほとの)」(景行紀四年二月)、「帷内(ねどころ)」(仁徳紀十六年七月)、「帷幕(きぬまく)」(継体紀九年四月)、「帷帳(かたびらかきしろ)」(孝徳紀大化二年三月)とある。孝徳紀の例について、大系本日本書紀に、「棺をおおうためのものか。」((四)279頁)、新編全集本日本書紀にも、「棺を蔽うとばり。」(③150頁)とある。しかし、少し前に、「夫(そ)れ葬(はぶり)は蔵(かく)すなり。人の見ること得ざらむことを欲す。」という中国の故事を載せる。葬儀を行っている様を傍観されないように、今日、事件現場でブルーシートをめぐらせて見えないようにするようなことが推奨されたようである。天寿国を図にした「繡帷二張」は、太子の葬儀に用いられたものではないから、前者の、寝屋を囲むものとして用いられたと考えられる。継体紀の記事は、半島情勢の話なので、キヌマクなる訓が付けられているが、意は同じである。寝込みを襲われて這う這うの体で逃げ出したという記述である。
帷に囲われて眠る(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起、明治時代(19世紀)、原本は明応6年(1497)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055244をトリミング)
 橘大女郎の依頼、要請を受けて、推古天皇配下の采女たちが制作したと明記されている。その「帷」は橘大女郎に下賜されて、彼女の寝屋を仕切るよう、几帳などに掛けられて用いられたのであろう。そのような図例は、石山寺縁起絵巻に見られる。第三段の詞書に、「伝(めのとの)大納言道綱の母〈陸奥守藤原倫寧朝臣女〉、法興院(ほこいん)の禅閤(ぜんこう)かれがれにならせ給し比(ころ)、七月十日あまりの程にや、当寺に詣でて、よもすがらこの事を祈申けるが、しばしうちまどろみたる夢に、寺務とおぼしき僧、銚子に水をいれて、右の膝にかくるとみて、ふとうちおどろきぬ。仏の御しるへとたのもしくおほえけるに、……」とある。夢見の場面が、眠っている人とその夢とが同じ空間に描かれている。西郷2012.に、「昔の人たちは、夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。蜻蛉日記の作者は石山寺に詣でてある夢を見たとき、「仏のみせ給ふにこそはあらめと思ふに……」と記しているが、昔の人にとっては、夢はこうして神や仏という他者が人間に見させるものであった。夢が神的なものとして信じられるのはこのためで、だからそれは「夢の告げ」であり「夢のさとし」でありえた。「夢の教」という言葉も、すでに記紀に何度か用いられている。」(16~17頁)とある。
 夢が神仏からのメッセージとして訪れると信じられていた時、石山寺縁起絵巻は、一般に、絵巻の描き方の特徴とされる異時同図法ではなく、夢と現実との“夢現同図法”によって描いた。これは、本稿で疑問とした<図>と<地>の混淆状態、溶融状態である。(注19)に、「世界」を「発見」するための絵本の見開き1ページと考えた点である。frame の溶解を意図的に引き起こしている、ないしは、絵本の見開き1ページには、最初から frame といったコマはないと言える。そもそも non-frame に作りたいとき、「繍帷」という形式は卓抜であり、撚り糸をもって刺繍することは、ヨリテユク「天寿国」の表現にはもってこいであったろう。「視」えないという橘大女郎に、審らかに「観」る道具として作られた。そして、彼女は寝る前と起き抜けとに観て、しばらくして、夢にまで見ることができた。微睡(まどろ)むことがあれば、夢うつつに「天寿国」が観想できる。当たり前である。半分起きていて実見しているのであるが、半分眠っているのであるから夢に見た。夢に見たほうこそが大事で、それが神仏からのメッセージとして“本当のこと”と受け止めることができた。神仏とは、最近仏さまになった太子のことに他ならない。夢現同図がここにかなった。悟ることができた。なぜ繍帷が「二張」なのか。それは、密教の両界曼荼羅が、座る人の左右に掲げて宇宙を感得するのと同様に、橘大女郎が、寝屋のなかで、寝返りをうっても、左右のどちらにも「帷」があるから、いつでも見えるように設置させるためである。
 繍帳はしばらく使われた後、彼女のノイローゼは治癒して用は足したので、住んでいる斑鳩宮から、お隣の斑鳩寺(法隆寺)へ奉納された。そのような次第であると考える。その際、焼失前の寺側が、救世観音像とどのように関連づけられたかなど、法隆寺等に記録が残っているなら別であるが、詮索できるものではない。
(注3)マンガとは何かについては、なかなか難しい問題である。棚田2014.では、「読者の想像/創造によって、コマの間が埋められている=繋がれている……この〈繋ぐ〉ということにマンガの本質を見る……。つまり、マンガの基本はコマであって、その中に何が描かれているかはまずは問題外だということである。」(118頁)とする。ところが、新聞のオピニオン欄などに、風刺漫画として、1コマ(コマは記されずに周囲は論説に埋め尽くされている)が描かれている。中田2014.に、「「どのようなものがマンガなのか」ということについては、だれもが秘かに自信をもっている。……自分にとってのマンガらしさというものは、しばしば個人の確信の次元にあって、議論をしてたしかめたいような事柄だとは思われない。しかし反対に、「マンガ表現とはどのようなものか」ということになると、われわれは一気に自信がなくなってしまう。」(185頁)とあり、「現在のわれわれは、マンガ的表現と言えばまずコマの連続性にもとづく表象を自然に想像してしまう……。しかし、フィギュラシオン・ナラティヴの作品、とりわけアダミの絵画などを見ていると、マンガ表現には連続性や運動を表象するだけではなく、カリカチュアや文体の権能と、造型言語のもつ叙情性や寓意性といった力が、たしかに備わっていたのを思いだすようだ(たとえば、われわれは panpanya のマンガの一コマを見るだけで、登場人物が世界に畏れをいだいていることを了解するが、それはキャラと背景の絵の文体にそれぞれ籠められている、叙情性を感得するからだろう)。」(214頁)と論じている。
(注4)「公」の字体については、以下に垣間見た。
王勃集巻二十九(紙本墨書、中国、唐時代、7~8世紀、東博展示品)
何紹基筆「臨張遷碑・石門頌冊」(中国、清時代・同治元年(1862年)、東博展示品)
三体石経残石(魏・正始年間(240~248)、『中国書道全集 第二巻 魏・晋・南北朝』平凡社、1986年、図版10)
 筆者には、天寿国繍帳の「公」の字、「‥」の下に「△」の形の例を、天寿国繍帳以外に見つけることができない。
(注5)絵巻物は、一般に「異時同図」ということばで解説されることが多い。この解説概念も厄介な問題をはらんでいる。千野2010.は、「絵画を見ることは、世界を見ることである。」(225頁)と断言する。そして、「日本の絵画は、多くの場合、異時同図的に描かれていると考えてよい。それはつまり、過去、現在、未来と移り動いていく時間のなかにあって、現在という単一の視点からではなく、過去も未来も含めた複数の視点から、画中の情景が捉えられているということである。また、仮りに同じ時点であっても、上下、左右、遠近、と、さまざまな位置から捉えられた情景が、やはり一画面のなかに複合的に描かれていることが多い。……要するに、視点の位置は自由自在であり、しかも基本的に複数の視点から眺められた情景を一画面のうちにまとめた作品が、日本絵画史の主流を占めているということである。」(226頁)とされる。すなわち、日本の絵画というものとして、多くの絵巻物、屏風絵、玉虫厨子の捨身飼虎図などが射程におさめられている。
 野田2014.に、「『異時同図』はどうやら、……複数の時間と同じ画面のうちにおさめるだけでなく、さまざまな空間をひとつの図に(いわば『異空間同図』として)とらえたり、時間も空間もどちらも異なるものをひとつの図に(いわば『異次元同図』として)とらえたりする、きわめて広範で曖昧な概念として使用されてきたようなのだ。」(112頁)とある。また、加藤2011.は、「「異時同図」ないしは、「連続的物語叙述」をめぐる研究が面白いのは、それが言語テクストと視覚表現という二つの異なったメディアが巧みに組み合われながら紡ぎだされてくるものだからである。その意味でも、いまのわたしたちにとってさらに必要になるのは、「日本(東洋)」と「西洋」あるいは「芸術」と「視覚文化」という枠組みを越えること、そして、そのような一般化を経たうえで個別事例に接近して分析を行うことなるのではないだろうか?」(26頁)と展望を語る。
 これらは、「異時同図」概念の曖昧さをうまく活用して、日本絵画を“読む”行いであると筆者は考える。その射程のなかに、天寿国繍帳は含まれていないように思われる。銘文中に、「看」、「観」とあって、それがそのまま「図像」中に記されるとなると、「天寿国繍帳とは何か」に迫ることは、“絵画を読む”行為では果しえない。画中画ならぬ画外画をどこかで析出してみなければならない。そのためには、銘文を“読む”行為しか残されていない。本稿は、そこを突破口として、天寿国繍帳とは何かに迫る。
(注6)筆者とは違う考え方もある。例えば、日野2017.に、「天寿国繡帳にみられる亀甲文とその背上文字のデザインとの関係において把握しようとすれば、そこには霊亀長寿の理想を説く神仙思想がつよく影響している事実が窺われ、天寿国という理想世界の図相の由来を物語る文字を象徴的に表現するのにふさわしいものとして着想された趣意が理解できるであろう。」(178頁)とある。お葬式ばかりという次第を書いても、霊亀長寿の神仙思想へと転化されてしまう。
(注7)「世間虚仮 唯仏是真」を音読みしたに違いないことを窺わせる語が記されている。「玩味」である。橘大女郎が口のなかで言葉を弄んでいる。何と言っているのか自身よくわからないけれど、響きを頼りに味を確かめている。「世間虚仮 唯仏是真」なるガムを噛んでいると思えばよい。ここを訓読みすると、「玩味」という語が生きて来ない。訓読みとは、ヤマトコトバそのままである。ヤマトコトバは分かり切っているから、口のなかで玩具にして味わうことはできない。即座に腑に落ちてしまう。胃袋へ直行である。仏典に典拠があるならそのままにない限りあり得ない。
 真流1981.に、「……「世間虚仮 唯仏是真」の句は『勝鬘経義疏』一巻の,更に言えばその顚倒真実章の要約に外ならない.『勝鬘経』を典據とするものであることが明らかとなった以上,他に「出典」を求める必要のないものであり,否,そうすることは誤りであると言ってもよいであろう.諸種の史料に伝えられる此の経の講讃のこともここに想い合せられる.天寿国繡帳亀甲文において橘妃によって伝えられたこの一句を妃はある時その講筵に列して聴聞したのかもしれない.あるいは太子に侍した日々の折りふしに胸底にしみいった親しい言葉ば[ママ]であったかもしれない.そして太子の死に直面して,生死無常の嵐の中で太子を追慕する時,太子の天上からの呼び声として妃の耳によみがえり,鳴り響いたであろう.そしてそれは永遠の太子自身であった。」(274頁)とある。「世間虚仮 唯仏是真」の句はそういった背景があったかもしれない。ただし、天寿国繍帳に描かれている「天寿国」の「図像」は、橘大女郎自身が作ったものではない。推古天皇の勅命のもと、「諸采女等」や「東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利」、あるいは「椋部秦久麻」が作ったのであり、どのような理解にあったか知れたものではない。互いに打ち合わせなどしていないと考えられる。患者はそれどころではない状態だから、急ぎ制作されたものである。適当に考えておかないといけないことを強調しておきたい。
(注8)飯田2000.のほか、思想大系本聖徳太子集には、年月日や干支の表記では音読みを、他の多くは訓読みを重視された読み方が行われ、東野2013.にはより音読みを採り入れた訓読文が提示されている。
(注9)義江2000.に、「『天寿国繡帳銘』の系譜を「A娶B生C」の基本要素に着目して分析することにより、双方的に対称的に広がる複数の祖から発して親子関係の連鎖をたどりつつ自己へと収斂する、典型的両属系譜の一事例を検出することができた。」(79頁)とある。出自論や父系制、系譜意識について述べられている。他方、北2017.に、「まさに「自分を娶った太子のこと」と「自己の出自の神聖さ」、さらに「間人母王の出自」という三点をアピールした文章だといえるのである。」(585頁)とある。そして、「このような仰々しい系譜、銘文全体の半分以上を占める長大な系譜が、なぜ聖徳太子の死を機に作られた繡帳の如き物に克明に書き込まれる必要があったか、―このことを説明しなければ問題は解決したことにはならない。」(585~586頁)と続けている。「如き物」であることを忘れて、この“過去帳”に重みを持たそうとしている。
(注10)赤尾2003.に、「[天寿国とされる]この『華厳経』は六世紀の写本ではなく、二十世紀初頭に造られた偽写本と判定すべきという結論に至り、延昌二年(五一三)の書写奥書も基本的には北魏の延昌年間の本奥書と考えられるのである。また「西方天寿国」……と読まれてきた奥書に関しては、『摩訶般若波羅蜜優婆提舎』(大谷探検隊将来、京都国立博物館所蔵)に見られる「无」の字すがた……―これが五世紀の写本という時代差はあるにしても―を見ると、先の奥書を読む場合にも「西方天寿国」ではなく、「西方无寿国」と読むべきであろう。そして、これらはいずれも二十世紀初頭に書写された偽写本と考えざるを得ない状況なのである。」(44~46頁)とある。
(注11)拙稿「多武峰の観(たかどの)とは何か=両槻宮&天宮考」で述べたように、斉明紀の「天宮」はアマツミヤばかりでなく、テムノミヤと言っていた可能性が高い。そこがタムノミネだからであり、とても近い訛った音構成である。タムノミネのタム(訛)という語を含んだ地名だから、それを意識して洒落てみている。言葉が自己言及的に用いられている。
(注12)大橋1995.に、「蓮華の中でもっとも注目すべきは、光焔を発する蓮華化生図であろう。前者は天寿国への往生人が生を受けようとしている直前の姿の蓮華で、後者は往生人が今まさに蓮華の中から天寿国へ生れようとしている場面である。経典によると化生とは四生(化生・胎生・卵生・湿生)の一つで、浄土における生命現象であって、無から忽然と生れる超自然的な出生と考えられていた。……私はこの蓮華化生図こそ、天寿国が無量寿仏の無量寿国であることを強く示唆するもっとも重要の図像であると考えている。」(136頁)とある。無量寿国であるなら、なぜ「天寿国」と言い換えたのか理解できず、その点を考察された論考も管見にして見られない。むしろ、蓮華化生の考えを方便として、橘大女郎の言う「生於天寿国之中」の「中」を示そうとしただけなのではないか。行政単位としてのクニ(国)の国府、国衙は、クニの境界ではなく、テムジクニ(天竺国)の中にある。ヨリテユク(従遊)とは連なって逝ったこと、ハス(蓮)の音のレン(連)と同じで、ハスの様子が、周辺の葉、花などが根(レンコン)を通じて続いて行って池の中から花茎を伸ばすことをもって似つかわしいと感じたからデザイン化したのではないか。インドは暑い国で、ハスの咲く日本の夏季が一年中続く国だと知られていたに相違あるまい。
(注13)上宮王家で数カ月中に亡くなっているのは、「母王」こと穴穂部間人皇女、膳夫人(干食王后、膳菩岐々美郎女)、「大王」こと太子の3人である。膳夫人は、病の床についた太子の看病にあたったものの、看病疲れから太子の亡くなる前日に亡くなっている。続けざまに亡くなっているという橘大女郎の言い分からすると、むしろ膳夫人を当てる方がふさわしい。「法隆寺金堂釈迦三尊の銘文が、母王・太子・膳妃を「三王」とまで言うのとは大いに異なっている。……当然そこには制作主体の相違が反映しており、釈迦三尊は膳氏の強い影響下に造像が行われ、天寿国繡帳は橘大女郎の一族の存在を背景に制作されたことが考えられよう。」(東野2017.、13頁)といった意見や、橘大女郎が膳妃に嫉妬していたための言動であろうという臆説まで生じている。北康2017.に、「太子と共に仲睦まじく死んでいった膳妃に対する橘妃のさびしい嫉妬から作られたのが、この天寿国繍帳なのではないかと考えられてくる。」(591頁)、「天寿国繡帳は太子の葬送に際して作られた葬具の帷帳であり、そこに記された銘文の文脈や系譜には、太子と共に没した膳妃に対する橘妃の強い対抗感情が表出している。」(593頁)などとある。石井2016.でも、亀の上の銘の名前の配置を検討された三田2008.の釈迦三尊像的な塩梅を考慮に入れ、「干食王后に対する、皇女としての強烈な自己主張と見るべきでしょう。」(221頁)とある。
 天寿国繍帳の制作主体は、銘文を読む限り推古天皇である。週刊誌ネタのように、太子の本妻は自分であると主張したのだという勘繰りも、繍帳を作らせたのが橘大女郎ではなく推古天皇であることを説明できない。推古天皇が膳妃をいなかったことにする理由が解かれない。正妻であったことを太子が亡くなってから推古天皇に訴える理由としては、相続財産の問題があるかもしれない。しかし、銘文に記されている内容、橘大女郎の主張の主旨は、母王と太子の住む天寿国を見たいということである。嫉妬や財産目当てから、天寿国なる訳の分からぬテーマを持ち出し、事もあろうに天皇にぶつけるとは思われない。園遊会に招かれて、突拍子もない意見を開陳したのではない。自分から小墾田宮を訪れ、恐る恐る庭の遠いところから、奥の宮殿の御簾の向こうの天皇に申し上げている。話を聞いて診察すれば、橘大女郎は精神を病んでいると扱うしかない。財産は後見人が管理することにし、お大事にして頂こう。
 天寿国繍帳は物証である。推古天皇が橘大女郎の言い分をきちんと聞いて、その言葉を捉え返して天寿国繍帳を作らせている。天皇は社会秩序を安定させる方へ舵を切る。ゴシップ騒ぎに後追い的に加担したりはしない。憔悴しきった橘大女郎が、錯乱し、太子の亡くなる前日に枕を並べていた膳夫人の亡骸を、殯中で葬らずにいた母王、穴穂部間人皇女だと思いこんでしまったに過ぎない。統合失調症状態である。上宮王家の家来も、橘大女郎の狂気を悟り、近づけないようにしていて、詳細を伝えなかったのかもしれない。推古天皇もさぞかし心配したことであろう。
(注14)そのようなジョークの例は、東森2015.に、興味深い例がいくつも記載されている。
(注15)釈日本紀に、「書字不美読。其由如何。答、師説、昔新羅所上之表。其言詞太不敬、仍怒擲地面踏。自其後訓云文美(ふみ)也。今案、蒼頡見鳥踏地面往之跡文字。不美云、訓依此而起歟」とある。
(注16)渡来人が登場している点は、繍帳銘の音仮名などから理解される。西崎2006.に、「繍帳銘文所用の字音仮名、助辞「之」の不読にするという訓法の若干の考察から見られる「勘点文」について整理しておく。①『繍帳銘』に所用される字音仮名については、古代朝鮮固有名(人名・地名)等に用いられた音仮名に一致するものが多いという事実は、『繍帳銘』の書記・加点に関わった人物として朝鮮半島からの渡来人が想定される。②推古遺文にしか見られない古韓音が多く所用されている点も左証となる。③「弥」字が「ミ甲」「メ甲」に両用されている点は古代朝鮮音との関係が想定される。この点も左証となる。④文末助辞「之」を不読とする訓法も朝鮮漢文の影響によるものと考えられるが、この点も左証となる。」(56頁)とある。
(注17)山田1935.のタイトルにもなっている「よりて」という語は、「接続副詞の如き形式に用ゐること少からず。これは「よる」といふ動詞に複語尾「て」のつける語なること勿論にして、かくの如く固形的に、しかも、接続副詞の如くに頻繁に用ゐらるるに至れるものはこれ亦漢籍の訓読により馴致せられしものなるべきなり。……即ちその漢文の訓読には、恐らくははじめより簡便を尚びて「よりて」とよみ来りしものなること殆ど疑ふべからざるなり。……これ実に漢文訓読の為に新に按出せられし一種の語遣にしてそれが、普通文に用ゐらるるに至りしものといはざるべからざるなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586(115~118/200)、漢字の旧字体は改めた。)と説明されている。
 とても便利だから使おうよということで、早い段階からヤマトコトバに侵入していたものと思われる。本稿で「従」字をヨリテと訓じた。推古朝の訓点例は知られないが、参考となる用例をあげる。

 予悪夫涕之無一レ従也。 予(われ)夫(そ)の涕(なみだ)の従る無きを悪(にく)む。(礼記・檀弓上)
 金剛般若経一切諸佛之所従生。 金剛般若経は一切諸佛の従りて生れたまふ所なり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝)
 是吾剣之所従墜。 是、吾が剣の従りて墜ちし所なり。(呂氏春秋・察今)
 見漁人、乃大驚、問従来。 漁人(ぎょじん)を見て、乃ち大いに驚き、従りて来たる所を問ふ。(陶潜・桃花源記)
 所由入者隘、所従帰者迂、彼寡可以撃吾之衆者、為囲地。 由(よ)りて入る所の者隘(せま)く、従りて帰る所の者迂(う)にして、彼れ寡(か)にして以て吾の衆を撃つ可き者を、囲地(ゐち)と為す。(孫氏・九地)
 無以聴其説、則所従来者遠而貴之耳。 以て其の説を聴くこと無ければ、則ち従りて来たる所の者遠くして之れを貴ぶのみ。(淮南子・修務訓)
 従此観之、齊楚之事、豈不哀哉。 此れに従りて之れを観れば、齊楚の事、豈(あに)哀しからずや。(文選・上林賦)
 業不縁生、不非縁。 業は縁に従りても生ぜず、非縁に従りても生ぜず。(中観論・観業品)
 我等所従来 五百万億国 我等が従り来る所は 五百万億国なり(妙法蓮華経・化城喩品)
(注18)原文に、「我大王與母王如期従遊」とあり、どのようなところかはさておいてもあの世へ行っている。そして、「我大王応生於天寿国之中」と言い、「彼国之形眼所叵看」と言っている。そして、「欲大王住生之状」と言っている。「住生」を「往生」と通用すると捉える説もあるが、「往生之状」とは、阿弥陀如来に導かれる場面が連想される。彼女の訴えは、「我大王與母王」がすでに辿りついて生活している「天寿国」の「国之形」を「視」ようとしたが見えないから、よりどころとなる「図像」が欲しいと言っている。「住生」は「往生」ではなく、スマヒである。
 相撲の四つ相撲と糸との言語的関連について推論する。ヨ(四、ヨは乙類)は、古典基礎語辞典に、「数詞。ヤ(八)と母音交替による倍数関係をなす語。無限を意味するイヨ(弥)と同根。「四方(よも)」で、天下至る所、一点を中心として広がりのある世界を表しえたように、ヨ(四)は元来、無限の数量・程度を意味したものと思われる。」(1287頁、この項、筒井ゆみ子)とある。そして、イヤ(弥・最・益)の項には、「イヤはイヨの母音交替形(iya ― iyö)。上代から確例のある語で、もともとは事柄や状態が無限であることを表し、数詞のヤ(八)にも通じる。転じて、物事の状態が、以前よりも、しだいにはなはだしくなるさまや、程度の激しさが増すのを表す。」(155頁、この項、我妻多賀子)とある。これらの語と直接の関係はないかもしれないが、相撲の四つに組むことが、力が強ければ強いほど引きつけあって very な感覚を表している。これは、古語に、イト(甚・最)な状態にある。また、「頂点や極限を意味するイタ(甚)の母音交替形。上代から一字一音の例があり、中古・中世の和文体の作品で非常に多く使われたが、和歌や漢文訓読文ではほとんど用いられない。程度のはなはだしいさまについていい、非常にの意を表す場合が最も多く、用例の八割以上を占める。そのほか、程度の高さに対する詠嘆、強調の気持ちを表して、ほんとうにの意。さらに下に打消の語を伴うと、たいしての意でも用いられた。上代には、イトのトに、甲類の仮名が使われているものと、乙類の仮名が使われているものと二種出てくるが、意味上の明確な差は認められない。用例数からいうと、乙類の仮名で書かれたものが多い。」(132~133頁、この項、我妻多賀子)とある。糸の製作過程の大変さを思えば、以上のヨ(四)、イヤ(弥)、イト(甚)は、撚って作った糸と関連があるのではないかと、飛鳥時代の人には思い及んだのではないかと推測される。なお、「糸(いと)」=LH、「甚(いと)」=HLとアクセントに違いがあり、同系の語とは考えられない。それでも、推古天皇は、橘大女郎のことに心が痛み、イトホシク(愛)てイトフ(厭)気持ちになって、イトマナク(暇無)イトナム(営)ことにより仕上がった作品、それが天寿国繍帳ではなかったかと思われるのである。互いの言葉の相関関係については、さらなる検討が必要である。
(注19)絵本なる概念については、天才的な研究が行われている。上にあげた(注3)や(注5)の議論の地平からは到達しえない水準である。志村2004.に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。」(40頁)というところから解き起こしている。そして、「絵本の世界像は、『地』に属する『図』をもつ『地』表現、つまりストーリーには直接絡まず『地』世界に属する活気ある事象をもつ『地』表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が『地』に属する『図』の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者独自の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。」(57頁)と究明している。
 志村2004.の解明によって、天寿国繍帳とは、絵本の特定の見開き1ページであり、推古天皇側の創造性と橘大女郎の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、天寿国という世界像が生成されるという営みが絶えず行われ続けているものであったとわかる。繍帳はアート作品として下手である。下手だから、天寿国なる世界像をありありと想い浮かばせる営みが行えると言ってよい。上手いということは、作家の側が全体から細部まで決めてしまうということであり、ひとたび読者側が違和感を覚えたら、世界像を結うことはなくなる。相互の営みが繰り広げられることが、「こんな世界」=「天寿国」を想い起させる契機なのである。イトナミ(営)とは、イト(暇)+ナシ(無)→イトナシを動詞化した言葉である。休む暇なく続けて仕事をすること、大規模造営工事を行うこと、また、葬儀を執り行うことである。橘大女郎は、葬儀続きで疲れて精神を病んでいるが、その精神は、天寿国を大工事で造り上げようと自ら求めていた。休ませた方がいいこともあるが、思い詰めているのだから話を流れに従って進めた。絲の撚り合いというほどに営むしか他に手はなかった。絲という語のトの甲乙は決め難いとされているが、ここに営(いとな、トは甲類)むことが行われていることから、甲類である可能性が高い。そして、糸という、ヤマトコトバのうちでも基本語彙に入るはずの語の秘密(筆者は語源を探究するという立場に立たない)も隠されているのではないだろうか。
(注20)天皇号については、ここに「天皇」とあるから推古朝からあったのであるとか、そうではないとか、議論されてきた。筆者は、いわゆる「天皇号」とは何か、可解していない。この漢字表記は、ヤマトコトバでスメラミコトと訓ずる。上代において、それがすべてであったろうと考える。
(注21)三田2008.に、「現存する外区図像は少なくとも『弥勒大成仏経』によって解釈することが可能である。だが、現存断片があまりに少ないこともあり、同経への比定を確信することはできない。しかし、『法華経』や浄土三部経など有力な仏典中に対応し得る記述が見られないことは注目すべきで、その分『弥勒大成仏経』が典拠である可能性は期待される。」(272~273頁)とある。「天寿国」という文言ではなく、図像から典拠を求めようとしている。筆者には、図像並びに文字の下描きをした「東漢末賢(やまとのあやのめけ)、高麗加西溢(こまのかせい)、又、漢奴加己利(あやのぬかこり)」という人にどれほど仏教の知識があったのかわからない。そもそも推古天皇の指示は、橘大女郎の言い出しているテムジクニ(天寿国)なるものを、いいように再現する試みであったのではないか。適当に考えておくことが望ましい。
(注22)松浦2006.に、「繡仏である天寿国繡帳は太子薨去の六二二年二月二十二日から一年以内には完成されていたはずである。」(同14頁)、「聖徳太子の浄土往生のさまを刺繡した帷であるから、当然その帷を垂らした御帳内には聖徳太子の御影が祀られたはずである。また天寿国繡帳は鎌倉時代まで法隆寺に伝来したものであるから、これは法隆寺に祀られた聖徳太子の御影に相当する仏像を荘厳するための「繡帳二張」であったと考えるべきであろう。その聖徳太子の御影に相当する仏像とは、『法隆寺東院資材帳』に「上宮王等身観世音菩薩木像」とある夢殿本尊の救世観音像……に他ならないと考えられる。」(15頁)とある。
 筆者は、天寿国繍帳のようなアニメキャラに作られた「繡仏」があるのか知らない。橘大女郎の容体は悪いのである。一刻を争って作られたに違いないと考える。また、北2017.にいう「葬具の帷帳」でもないであろう。銘文にそのようにないからである。
太子と妃の遺骸を科長の墓へ埋葬する場面(聖徳太子絵伝、絹本着色、南北朝時代、14世紀、個人蔵、東博展示品)
(注23)「公主」という語について議論されている。語についての議題には2通りある。一つは、「公主」と同類の、「天皇」、「崩」などに対してである。第二は、「弥己等」という言い方である。前者は、漢語を問題にしている。表意文字の表記を問題にしている。「天皇」号はいつからあるのか、安易な問題設定がされて議論が盛んである。天皇の意味で仮に記せば、上代の字音に「弖牟和有(てむわう)」なる語を問うことはない。本邦において「天皇」と書いてある例を探し、なかなか見つからなくて天寿国繍帳銘に目につくと、天寿国繍帳は後の時代に作られたと推論されてしまう。短絡的な臆断が罷り通ってしまう。漢字の字面を問題にしているだけである。
 後者の「弥己等(みこと)」号(?)は、それとは問題の性質が異なる。ヤマトコトバの発声音を俎上に載せている。前者は、漢語の字面を問題にしている。聴覚と視覚は別次元である。繍帳銘に「天皇」とあるのが、筆者には「号」なるものであるとは理解できない。スメラミコトというヤマトコトバに漢字を当てた、その当て方の一種であろう。今日いわゆる天皇号がいつ始まったか、筆者は知らない。スメラミコトという語は、紀や万葉集の標目に記されているから、それなりに古くからあった。それは、あくまでも、スメラミコトというヤマトコトバであって、字面が問題になるものではない。字面を問題にすると取り決めたとき、万葉集の原文を“読む”ことはできない。「籠毛與美籠母乳……」(万1)の字面が問題となり得るのは、歌の内容が下ネタの可能性があるかも知れないという点に過ぎない。
 「公主」という「号」について、そのように記された例が本邦に乏しい。乏しいから、繍帳は遅れて成立したものであるとの主張が見られる。他に、百済の例があるともされている。ところが、唐代初期に成った芸文類聚に、「公主」の項が立てられ、たくさんの用例が載っている。漢籍のアンチョコに項として載っていくほど近寄りやすい漢語である。意味は、天子の娘のことを指す。ヤマトにおいて、天子とは、アメノコ、つまり、スメラミコト(天皇)のこと、その娘は、ヒメミコ(皇女)のことである。ならば、ヒメミコのことを、「公主」と書いて何ら間違いではない。律令や令義解に定めがあったとして、推古朝のことであるならそもそも時代的に無関係である。書いてはいけないと禁じられていたということがなければ、どう書いても構わない。文科省の常用漢字表などと違う書き方でガス工事店の手書きの領収書に「煙凸代」とあったとき、誰しも「煙突代」のことと認める。上代、ヤマトコトバに漢字を当てた。「公主」をコウシュと読んだのではなく、ヒメミコに「公主」という字を当てた。
 繍帳銘に、「宮治天下天皇名」とある。漢字の意味をとりながら表記されている。表意文字である。それぞれ、「宮」(みや、palace)、「治」(をさむ、reign)、「天下」(あめのした、country)、「天皇」(すめらみこと、emperor)、「名」(な、name)の意味である。それぞれのヤマトコトバの意味を表して、漢字に記している。ヤマトコトバで考えている。「治天下」という表記が漢籍に見られ、それがヤマトコトバにしてみてヤマトコトバに適うならそれを採り入れる。採り入れ方はヤマトコトバが基準である。自己中心的である。自分の国にいて、よその国の書き方に準じなければならないと拘束される筋合いはない。条約でもなければ植民地化されているわけでもない。ヤマトの人の間で互いに通じればいい。「天下」という概念は、神代紀第五段本文に、「天上(あめ)」と対比で「天下(あめのした)」、神代紀第五段一書第六に、「高天原(たかまのはら)」、「滄海原(あをうなはら)の潮(しほ)の八百重(やほへ)」との兼ね合いで位相、範疇を決められていく。アメノシタとは、概ね、大地、地上のことを意味するツチの概念を膨らませた地上全体、そこから派生して、国事、国政のことを指すようになっていっている。字で表した時、見た目が和製漢語の状態になっているに過ぎない。ヤマトコトバが母語である。
 「大王」、「公主」、「天皇」、……といった言葉は、オホキミ、ヒメミコ、スメラミコト、……を表記したものである。表記法について、一般の人に及ぶ規制は知られない。義務教育などない。「「天皇」号」について推古朝にあったかなかったかという議論は、銘文を“読まない”姿勢と裏腹の関係にある。キティちゃんのマンガの吹き出しか、絵本のデザインのような剽軽なカーテンの柄として書いてある言葉が、「号」に当たるような事柄の次元のこととして書かれてあるのだろうか。それは、「吉多斯比弥乃弥己等」、「乎阿尼乃弥己等」にミコト(命)とあったり、「吉多斯比弥乃弥己等」を「太后」と書き表わすことが、太子の伝説化以降のことではないかとの考えにも当てはまる。そういう議論をして欲しいと、繍帳銘400字を捻り出した人は望み、練り上げたものだろうか。“読む”ということは、捻り出し、練り上げた人の心を読むという作業である。漢籍という膨大な文例集によりながら、字を当てているに過ぎない。珍しい書き方だからと見た目で判断することはできない。
 日本書紀には早くから古訓が付されている。漢語で書いたものをヤマトコトバで言い換えたとか、無理やりに訳したと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀の編纂を命じた天武朝は、国粋主義まっただ中にある。国粋主義にあるから、自国の歴史書の編纂に目覚めている。そこで、ヤマトコトバでヤマトの歴史を記すに当たって、あくまでも表記において、漢字、漢語、漢文を用いた。固有の文字を持たないから仕方がない。それが原則である。紀の古訓とされるものは、もともと日本書紀を記すに当たってヤマトコトバで考えていた内容について、再現させてかなり正確なものといえる。小学館の新編全集本日本書紀に、漢籍からのまるごと引用部分とされている文章について、音読みするという暴挙が行われている。古訓は無視されている。母国の歴史は、母語で考えて書こうとする。ちょうどいい文案が見られたから、文例集のように引用している。字面をパクったに過ぎない。ヤマトコトバの読み方、訓読みが行われず、音読みが行われたとする解釈は、事の本質をはき違えている。
 それに遡る推古朝に天寿国繍帳が作られたとするなら、漢字、漢語、漢文で書いてあるからといって、漢語で読んでいてはお話にならない。逆に言うと、漢語でしか読めないなら、推古朝に書かれた銘文ではないと証明できることになる。つまり、“読む”ことで、制作年代はわかる。万葉集のように、ヤマトコトバばかりなのか、続日本紀や律令のように、漢語を音読みしなければ通じないか、確かめれば知れる。漢文訓読に由来する助辞の「所」字をトコロと読むとしか考えられないのであれば、それは奈良時代後期以降のことであると認められる。その点については、拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」で詳述した。銘文を内部から“読む”ことが求められている。
 石井2016.では、当然の疑問が呈されている。

 [後代の]偽作であるとすると不思議なのは、紙に書いたり金属板に彫ったりすれば簡単なのに、広げれば縦二メートル、横四メートルになる帳(とばり)を二つも作り、薄地の布の上に色彩豊かな絵柄を刺繍で描き、また多くの亀を刺繡してその背中に銘文を四文字ずつ縫い取りするような面倒なことをする必要がなぜあったのか、という点です。また、奈良時代の高度な工芸品とは比べようもない素朴な絵柄と刺繍技法、銘文の内容も、その古さを示しています。中世には山ほどある太子関連の偽文書のように、聖徳太子との関係を強調して寺の権威を高めたり、聖徳太子によって田を施入されたなどとして寺の権利を主張したり、太子の超人さを強調した文物を作って参詣客を集めたりするなら分かりますが、天寿国繍帳銘はそうした偽文献とは性格が全く異なっているのです。……前半の系図の[ママ]この[下絵を描いた者と監督者の名の]末尾の部分を合わせると、全体の六十一・五パーセントとなります。いったい何のための銘文なのでしょう。……そもそも、この銘文は、太子を尊崇して書かれたものでしょうか。素直に見る限り、前半は、太子と橘大郎女とが、欽明天皇と蘇我稲目の両方の血を引くことを強調した系譜です。肝心な真ん中の部分では、まず母王が十二月二十一日に亡くなったと述べ、その母王と約束したように太子も翌年の二月二十二日に後を追ってしまわれたので悲しくて仕方ない、となっています。確かに十二月二十一日と二月二十二日となれば、約束したかのようにと言えるかもしれませんが、もっと近い人物がいます。釈迦三尊像銘によれば、上宮法皇が正月廿二日に病で倒れ、干食王后が看病したものの自らも病んで並んで床についてしまい、王后は二月廿一日に亡くなり、翌日、法皇も亡くなられた、とありました。こちらこそ、あらかじめの約束通り、最愛の妃が亡くなると太子もすぐ後を追ったように見えます。(215~220頁)

 今日、躍起になって議論されている研究者の言を捨て去り、虚心坦懐に考えてみれば、至極当たり前の疑問であると言える。およそ学術に携わる方々は、主張有りきの議論からは立ち返る必要があろう。
(注24)鷹の調教の仕方において、『放鷹』(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512、204/398))に、「渡り」と「振替」の説明として次のように記されている。

 渡(ワタ)り 渡りとは、餌を適当の大きさに切り、地上に落し、其の処に鷹を放ち、餌合子又は、丸鳩にて手元に呼び寄するなり。最初は、丸鳩にて呼び、鷹の様子に依り、餌合子にて呼ぶ。初め鷹には大緒を附し、馴るゝに従ひ、距離を延ばし、水縄又は忍縄を鷹に附して行ふ。之れを、呼渡(オキワタ)りと云ふ。尚馴るゝに従ひ、木の枝に肉を置き、其場所に鷹を止まらせ、丸鳩又は餌合子にて手元に呼ぶ。之れを、渡(ワタ)りと云ふ。
 振替(フリカヘ) 丸鳩に、忍縄を附し、五六間離れたる処にて他の者に之れを投げしめ、鷹を放ちて之れを掴ます。又離れたる処より餌合子にて呼ばせ、鷹先方に到らば更に当方より餌合子にて呼び戻す。終に鷹に、水縄・忍縄等を附せずして行ふ事を得るに至る。之れを振替仕込と云ふ。(356頁。漢字旧字体は改めた。)

(注25)ワタル(渡る)という語について、古典基礎語辞典に、「風・雲・霧などがひと所に起こって徐々に広がり、やがては一面を埋め尽くす動きをいうのが原義。他の動詞と複合した「咲き渡る」「荒れ渡る」などの形で使われることが多い。」(1337頁、この項、須山名保子)とあるが、複合動詞の意が原義であるとは考えにくい。白川1995.に、「水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。「わた」はおそらく海(わた)。「わたす」「わたる」は、海を渡ることが原義であろう。それよりして広く他に及ぶすことをいい、「かけわたす」「みわたす」のように補助動詞として用いる。」(805頁)とあるのが穏当であろう。古典基礎語辞典の指摘に、他動詞ワタス(渡す)には、「時間的範囲を示す用法はない。」(1334頁)と鋭い。タイムトラベルの発想がなかったらしいことが窺える。五十六億七千万年後へと「渡す」という考えはなかったということである。
 渡り鳥という響きには、①季節によって日本へ集団で訪れる鳥(カモやツル、ハクチョウなど)、②外国から珍しいものとしては舶来した鳥(クジャクやオウム、インコなど)の2つのイメージが浮かぶ。百済のクチ、こと、日本にもいるタカが、鷹狩用に飼われた状態で舶来したことをも、「候鳥」=渡り鳥という概念は示している。訓練も“渡り”、その技術も“渡り”職人が伝えた。ひょっとすると、古墳時代後期から飛鳥時代にかけては、新技術を伝える渡来人のことを、“渡り”人などと通称していたのではなかろうか。
(注26)ハナシ(話・咄・噺・譚)という言葉は、自動詞ハナル(放・離)―他動詞ハナス(放・離)の関係のうち、他動詞ハナスの連用形から起こった言葉である点は、趣き深いものがある。ハナシとは、音声自らが離れていっているのではなく、放たれて飛んで行っているものである。話をするのは、人間である。口をついて出てきただけでも言葉となっていれば意味があるものと考えられる。それは当人が意識している、いないに関わらないとされる。「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」(神武紀十年九月)という「少女(をとめ)」、「童女(わらはめ)」の「歌」にしても、武埴安彦(たけはにやすびこ)とその妻吾田媛(あたひめ)の謀反の兆候であったことになっている。人間が人間であるからには、口から発せられる言葉には意味がある、ないしは、あるものと考えるのが人間の思考である。「誣妄(たはごと)・妖偽(およづれごと)を禁(いさ)ひ断(や)む。」(天智紀九年正月)などとあるのは、騙って詐欺や洗脳するのはいけませんよ、ということであろう。不良の意味で非行という言葉を使うが、精神鑑定によって判断能力を欠いている場合は「非行」という言葉は正しかろうが、夜中の暴走族などは「不良」であろう。言葉として聞こえるものは、良かれ悪しかれ人間の行為である。言い換えれば、狂人はもはや人間ではないものとされる。言語がコードとなってコミュニケーションが成り立ち、人間社会は存立する。
 三保2016.は、万葉集の定訓「手放(たばな)れ」(万4011)に異議を唱えられている。「《手放》は、西園寺入道前太政大臣公経『鷹百首』に、「一よりに手はなしぬれは追さまに鶉むれ立小田のかりつめ」(七一番)と見え、西園寺公経の『鷹百首謌』(後掲、小林祥次郎氏翻字[筆者未見])には「一よりとは。(中略)荒鷹を合事也。大鷹はへ緒などもさゝざる間たばなすを大事とよくなつくる也。合始をいへり。つねにも手よりはなすをいへども、たばなしと云ははじめて合すると心得べし。(後略)」との注釈がある。臂の鷹を放す意である。右[岩波書店古典文学]『大系』[万4011番歌](その他)は「手放(たばな)れ」と補読するが、「手(た)はなし」(他動詞形)と読むのが穏当だろう。」(1901~1902頁)とある。

 …… 鷹はしも 数多あれども 矢形尾の 我が大黒に〔大黒は蒼鷹の名也〕白塗の 鈴取り付けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも[手放毛] をちもかやすき これをおきて またはあり難し さならへる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて 笑まひつつ 渡る間に 狂(たぶ)れたる 醜つ翁の 言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を 鳥狩(とがり)すと 名のみを告りて 三島野を 背向(そがひ)に見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去(い)にきと 帰り来て 咳(しはぶ)れ告ぐれ 招(を)く由(よし)の そこに無ければ ……(万4011)

 万4011番歌は、狩りを好んだ大伴家持の歌である。三保2016.の指摘は当を得ている。鷹狩で、鷹匠は鷹を自在に操る。操る主体が鷹匠であり、鷹が勝手に手から離れていったのでは、おそらく鷹は野生に帰っていくであろう。自動詞のはずがない。そして、鷹の鷹たる特徴とは、その嘴である。「山辺之大鶙(やまのべのおほたか)」(垂仁記)の登場する説話の概略は、物を言わない御子、誉津別王のことを案じていたところ、鳥が鳴くのを聞いてモグモグ言ったので、その鳥を捕まえて連れて来ればまた物を言うのではないかと考え、探しに出掛けさせたという話である。記紀により説話の展開は少し異なるが、記では山辺之大鶙という人物が、「和那美之水門」に網を張って捕まえたという話になっている。鳥を捕まえる方法として、「大鶙」=オオタカという人が、罠、網を使っている。鷹狩はまだ行われていなかったことの証左であろう。
 木村2011.に、「「手放(たはな)す」という鷹詞は、獲物のゆく方へ鷹を手放す、という意味である。その早い用例は、南北朝時代の宗良(むねよし)親王の『宗良千首』の中の一首、
 あふことも又やなからむかり人のたはなす鷹の心しらねば(『宗良千首』・七三二・「寄鷹恋」)
である。これは『万葉集』巻十七の大伴家持の長歌、……[万4011番歌]の中の「手放(たばな)れ」を踏まえて詠まれた歌であろう。」(171~172頁)とある。せっかく問題の本質に気づかれておりながら、万葉集の訓の方を疑うことはされていない。同書では、鷹の飼育・調養において、鷹を架(ほこ)につなぐこともした(新修鷹経・中・「繫(つな)グ鷹ヲ法」)ことが、「契ても心ゆるさじ箸鷹のほこのきづなの絶んと思へば(『後京極殿鷹三百首』・恋部)という歌では架に鷹を結びつける「絆(きづな)」に、恋人同士の絆の意を掛けている。」(175頁)と解説されている。同じ鷹三百首・恋部には、「契のみ朽せぬためしあればこそとしとしかけて鷹わたるらめ」ともある。鷹が野生へと帰ってしまわずに人から人へと“渡る”ことを詠っている。“渡り鳥”と観念されていたことの傍証である。ただ、他の作者の鷹百首和歌の類に、「渡る」の用例の乏しいことは気がかりではある。
(注27)日本三代実録、光孝天皇の仁和元年十二月条に、「七日丁巳。天皇幸神泉苑。放鷹隼。拂水禽。」とある。ミヅノトトリを「水の鳥取」に当て得る例はこの例に限られる。天皇の遊獵記事の場所は、ほとんど「野」である。野行幸ばかりである。江戸時代も将軍家の「御鷹野」が定められている。鷹狩が素晴らしいことをもって、「瑞の鳥取」と捉えたものとするのがぴったりである。
(注28)儀鳳暦が何であるとか、「癸酉」をクヰイウなどと読んだり、「日入」を日暮れ時のことであるといった知識積み上げ式の解釈は、すべてナンセンスである。文献の書き方に、今日の人たちとは異なる書き方が行われた可能性を排除し、杜撰な“読み”が行われ、銘文の成立時期をめぐって議論されてしまう事態が起こっている。歴史学の議論が、meta-history、原典の後に来るものとなってしまっている。端的に言えば、それは“読まない”姿勢である。銘文自体を、銘文の内部へ踏み込んで、書いた人の意図を汲まなければならない。最初から“読む”気がないのでは、アナホベノハシヒトさんも、トヨトミミノオホキミさんも、タチバナノイラツメさんも、トヨミケカシキヤヒメノミコトさんも、いないことにしようと思えばいないことになる。哲学の存在論の話ではない。議論している人の心(頭)の中にはじめからいないということに他ならない。
 書いた人は知恵が優っている。上代の人のものの考え方は、今日の人のそれとは多分に異なる。上代のテキストを“読む”姿勢をとる場合、なぞなぞ解読の考え方を習得する必要があるであろう。養老律令が制定され、続日本紀に日記風に歴史が記される頃から、母語である日本語に、漢語を用いた言い方が日常的に採り入れられるようになっていた。それまで文字を意識することが後回しであったヤマトコトバは、あたかも文字を前提にするように衣替えをして行った。平仮名の成立、定着化によって、位相を異にするヤマトコトバ文学、女流文学が起こり、不思議な展開が繰り広げられてはいるが、上代の記紀万葉における言葉の捉え方は、無文字を前提に、音としてしかない言葉を繰り広げること、すなわち、ハナシ(話・咄・噺・譚)ばかりである。話半分で聞かなければ、頓狂な議論を構築しかねないことになる。
 トヨミケカシキヤヒメという名について、研究者によってよく分からない議論が行われている。亡くなった後の諡か、生前からの尊号か、に二分している。トヨミケカシキヤヒメという名を現代語訳すると、キッチンガール、台所姉ちゃん、お勝手女、などであろう。トヨ(豊)+ミケ(御食)+カシキヤ(炊屋)+ヒメ(姫)である。最初のトヨは尊称かもしれないが、全体が「尊号」であるというには当たりにくく思われる。「諡」というにはやけに身近でフレンドリーな名前である。すなわち、名とは何か。呼ばれるものに過ぎない。
 東野2004.に、「内題の称号が諡であることは、「気長足姫尊」(神功皇后)について、この称が追尊の号であることを書紀自身が明記していることから明らかである。」(151頁)とある。神功皇后の諡の記事は次のとおりである。

 是の日に、皇太后(おほきさき)を追ひ尊(たふと)びて、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と曰(まを)す。(神功紀六十九年十月)

 この記事を読み、紀の巻や章立てのタイトルにあたる「内題」と同じだから、紀の内題はすべて諡なのだとすることはできない。何年何月何日に、○○と言った、という記事は、その日の出来事を記している。歴史書だからである。法令集、判例集ではない。日本書紀の書き方について、日本書紀自身がすべてに及ぶように記す仕方は、次のようにある。

 至りて貴(たふと)きをば尊(そん)と曰ふ。自(これより)余(あまり)をば命(めい)と曰ふ。並(ならび)に美挙等(みこと)と訓(い)ふ。下(しも)皆(みな)此れに效(なら)へ。(神代紀第一段本文)

 「尊」という称号について、日本書紀全巻で最初の字に注されている。念が入っていて、「下皆效此」と定めている。神功皇后の巻は、日本書紀巻第九である。「追ひ尊」ぶことについても、もし、それぞれの天皇で行われていったとしたら、それぞれの天皇について、「是の日に」という記述が行われないと、つまり、儀式が行われたと記さないと歴史書としては芳しくない。神功紀にしか見られない一例から、紀のすべてに敷衍できるものではない。東野2004.も指摘する推古天皇の「幼」名記事は、次のとおりである。

 幼くましまししときに額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と曰す。(推古紀即位前紀)

 幼い時、ヌカタベノヒメミコと呼ばれていた。この記事を全面的に信用すると、長じてからはヌカタベノヒメミコとは別の呼び名があったかもしれない気になる。しかし、ヌカタベノヒメミコと呼ばれなくなったとは記されていないから、そう呼ばれなくなったかどうかはわからない。しかし、残念ながら、他にそれらしい名は記されていない。そして、生前、トヨミケカシキヤヒメと呼ばれることはなかった、あるいは、禁止されていた、という文章はどこにもない。生前からの尊号を諡にしてはならないとする規定もない。不吉だからやめるようにとの慣わしも知られない。では、トヨミケカシキヤヒメ(The キッチンガール)という名とはなにか。それは、名前である。呼ばれるものである。The キッチンガールをもって、尊号とする考え方について、筆者には研究者の議論の前提するところの意味がわからない。訳がわからない。紀の内題に何が書いてあるか。名前が書いてある。それだけではないか。「天皇」“号”が特別視されたり、諡“号”が格式付けられたりするためには、文字表記が前提となる。漢字に囚われることがなければ、成立しない概念である。
(注29)「読む」ということは、「訓読する」、「訳す」ということと同じことではない。意味内容を深く理解しなければならない。そのためには留学も必要である。飛鳥時代へ行ってみる必要がある。古事記の真似をして落とし噺をひとつ書いてみると良い。漢語を使わずにヤマトコトバだけで文章を作ることは至難の業である。さらには、和習万葉仮名混交文など書いていたらばかばかしくなって投げ出したくなるであろう。

(引用・参考文献)
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天寿国繍帳の銘文を内部から読む 其の二

2017年10月10日 | 天寿国繍帳銘
(承前)
「遊」=ユク

 そして、「遊」はユクと訓む。紀では、「遊行」に多く敬語のイデマスを当てるなか、

 天孫(あめみま)の前(みさき)に立ちて、遊行(ゆ)き降来(くだ)り、……(神代紀第九段一書第四)

とある。白川1995.に、「ゆく〔行・去・往(徃)〕 四段。目的のところに向かって進行する。歳月などが過ぎゆくことをもいう。持続的に経過してゆく意。死ぬことをいうことがある。」(776頁)とある。万葉仮名で、「遊」はユと呉音に従って訓む。意味として、動詞ユクに限りなく近い。中村2001.は、「ゆ(遊)」の項目を立てて、「①存在する。いる。「倶遊」(ともにいる。)……②…している。住に同じ。Ⓟ viharati ……〔サンスクリット語やパーリ語には、英語の…ing に相当する現在進行形がないから、ⓅⓈ carati ⓅⓈ viharati などをもって現在進行形を示す。したがって、漢訳の「遊」はほぼ現在進行形を意味する。〕③へめぐること。旅をして進んで行くこと。Ⓢ vicarati ……Ⓢ prayāṇa ……④一時、くつろいでとどまること。ⓅⓈ viharati ……〔現代のサンスクリット語およびヒンディー語では、子供たちが遊ぶ遊園地やレジャー・センターのことを vihāra-kendra という。〕」(1682頁)と解説する。今日でも、遊行(ゆぎょう)、遊戯(ゆげ)、遊楽(ゆらく)という呉音読みが残っている。音訓が絲のように撚り合わさってユと読む。
 橘大女郎は、太子が母王に従って絲を縒り合せるようにして「ゆ(遊・行・往・逝)」くところを、「天寿国」であると言い出している。持続的、継続的に、…ing として「ゆ」くところ、という意味である。これは、浄土と呼んでいいかもしれないには違いないし、56億7千万年滞在しているのかもしれないけれど、どうも、飛鳥時代の信仰形態の問題以前の問題ではなかろうか。与件として既存の信仰形態を信じるという話ではなさそうである。彼女にとっての念仏(?)・題目(?)は、「世間虚仮 唯仏是真」だけである。浄土について体系化された理念には関知していない。そんな人が、「天寿国」という自己矛盾した形容の架空世界を勝手に思念して、その画像を観想したいから作って欲しいなどと途方もないことを、それを事もあろうに天皇に言ってきた。立場をわきまえぬ直訴であることが、「白『畏天皇前曰敬之雖恐懐心難止……』」ときちんと記されている。信仰とは別次元の話である。橘大女郎の錯乱、乱心、狂気の様子である。推古天皇は、橘大女郎の「天寿国」空想(幻想、妄想)に付き合ってあげたに過ぎない。
 聖徳太子という人は、とてもユーモアのある人であったのであろう。仏教のお話をお話として推古天皇に講義してみることができる人であった。

 秋七月に、天皇、皇太子(ひつぎのみこ)に請(ま)せて、勝鬘経(しょうまんぎゃう)を講(と)かしめたまふ。三日に説き竟(を)へつ。(推古紀十四年七月)
 是歳、皇太子、亦法華経(ほふくゑきゃう)を岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田(た)百町(ももところ)を皇太子に施(おく)りたまふ。因りて斑鳩寺に納(い)れたまふ。(推古紀十四年是歳)

 天皇はお話として勝鬘経や法華経のことを聞いてみて、よくわかった、ということであろう。仮に、信仰するというレベルでも、この、わかった、のラインで止まるに違いない。そうでないと、現実に生きて行けなくなる。全人民が補陀落渡海を実行したらどうなるか。橘大女郎の場合、真に受けてしまった。フィクションをフィクションとして捉えられなくなった時、その精神はピンチである。孫娘にそういうのが一人いる。孫娘まで「従遊」するようなこと、つまり、後追い自殺された日には堪ったものではない。すぐに何とかしたい。しかし、天皇という職務、それはすなわち、その立場という形式を保つということに他ならないのであるが、それと相容れない。宮を離れて相談に乗ったり、あるいは傾聴したり、ないしは対話したり、さらには添寝するわけには行かない。
 どうしたらよいか。「勅諸采女等、造繡帷二張」である。公式に「繍帷造司」を設けたのではない。采女等に直に「勅」して内々に事を進めた。養老令・後宮職員令に定めのある「縫司(ぬひとのつかさ)」を使ったのではない。精神疾患に対する偏見のようなことは昔からあったであろうから、内々にしか進められないとも思われるし、緊急事態に行政が役に立たないのは昔からのことであろう。下絵にしても、官吏である「画工司(ゑたくみのつかさ)」(養老職員令)に属するような先生は使えない。「画工白加」(ゑかきびゃくか)(崇峻紀元年是歳)、「黄書画師(きふみのゑかき)・山背画師(やましろのゑかき)」(推古紀十二年九月是月)といったプロではなくて、アマチュアながら絵が上手いと聞こえる下々の者を呼んできたに違いあるまい。なにしろ、彼らが絵も字も描くわけではない。刺繍をするのである。その下書きだけである。刺繍もお針子のプロ、「衣縫(きぬぬひ)」(応神紀四十一年二月是月)、「衣縫部(きぬぬひべ)」(雄略紀十四年三月)や「衣縫造(きぬぬひのみやつこ)」(崇峻紀元年是歳)などではなくて、アマチュアの「采女」なのである。材料は適当に見繕って役所の蔵から調達してよいと免許を持たせた。「椋部秦久麻」なる人、あとはよろしく、とのことである。いやに人選が早い。あっという間に進んでいる。事が事だけに急を要している。その事柄について、きわめて正確に記されているのが、天寿国繍帳の銘文である。
 結果、できあがった「繍帷二張」を橘大女郎が観て、彼女は、おそらく、いやきっと、気持ちが落ち着き、快方へと向かったものと思われる。使用目的を果たした。そして、法隆寺の蔵に繍帳はしまわれて、長く日の目を見ることはなかった。なにしろ超マンガのB級品である。むしろ、絵本の見開き1ページといったほうが適切かもしれない(注19)

橘大女郎の病

 以下、ベイトソンのダブル・バインド理論について、矢野1996.に倣いながら解説し、橘大女郎の“カルテ”を見ていく。
 パラドックスとは、単なる矛盾をいうのではなく、自己言及性と悪循環を含んだ3つの要素から成り立つものである。「行為(言明)」がその「行為(言明)」自身に適用された時、自身を否定してしまい、「行為(言明)」の「意図」の達成を拒んでしまうという自己言及性のある矛盾がパラドックスである。橘大女郎は、「我大王(聖徳太子)」が言っていた「世間虚仮 唯仏是真」に毒されている。太子は亡くなってしまった。まさに「世間虚仮」である。そして、太子は、「唯仏是真」であるところの「仏」になってしまった。すると、「世間(=世界)」を反転させないと訳が分からないことになった。頭蓋骨のなかで、まず口で「世間虚仮 唯仏是真」と唱えながら反転させてみた。「天寿国」なる国を反転世界として仮構したのである。当然、頭蓋骨のなかにある目にも見えて良いはずである。しかし、目には浮かんで来ない。太子の仰っていたことは絶対であるから、見えないはずがないのにできない。「世間虚仮 唯仏是真」という言明を、「世間虚仮 唯仏是真」という言明自身に及ばせてしまったがために、「世間虚仮 唯仏是真」という言明が意図せざる結果に陥ったのである。これは、パラドックスである。ベイトソンのいうダブル・バインドもパラドックスの一形態である。
 ベイトソンのダブル・バインド理論とは、「①非対称の人間関係の場において、②一定のメッセージが与えられ、③しかもそのメッセージを否定するメタ・メッセージが同時に与えられ、④そして犠牲者がその場を逃れることができない状況をダブル・バインド状況といい、⑤それが反復されると弱者の側に分裂病[統合失調症]を生むというものである。」(43頁)。聖徳太子と橘大女郎との間柄は、夫婦である以上に、師と弟子のような関係にあったのであろう。そういった一定の相補的、非対称的、支配被支配的な関係性のなかで、繰り返し「世間虚仮 唯仏是真」と言われ続けて刷り込まれてしまい、しかも太子が亡くなるというあり得ないようなメタ・メッセージが科されてしまった。同じ穴のムジナである膳妃まで太子と共に亡くなってしまって慰め合うこともできず、斑鳩宮から逃れることもできない。完全にダブル・バインド状況に置かれている。この事態は、統合失調症に侵される瀬戸際にあるといえる。訳が分からなくなって、事もあろうか、祖母である推古天皇に啓上に及んだのであった。
 ベイトソンのいう学習の類型において、「学習Ⅱ[習慣形成、性格形成のように、コンテクスト自体が変更されるシステム、選択肢集合自体が変更されていくプロセス]以前の状態から学習Ⅲ[習慣化した前提を問い質し、解釈図式の変革を迫るもの。換言すれば、それまでの自己の行為(言明)のコンテクストのそのまたコンテクストを眼中に収めながら行為(言明)するすべを習得すること。自己システム全体が組み替えられること]への移行は、自己システム全体の変容をもたらす。この時、システムを閉じた個人と捉えてはいけない。」(41頁)と説かれている。これは重要なことである。橘大女郎も、自己システム全体の変容が、偉大なる推古お婆ちゃん帝との、繍帳を介した関係のなかにおいて起こったと思われる。
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  学習の システムの   行為論的に見た  認識理論的に見た  具体例
  類 型 論理階型    論理階型     論理階型
  ────────────────────────────────────
  学習Ⅲ 自己システ 選択可能な選択肢集合 コンテクストのコ 覚醒・回心 
      ムの組み替 群がなすシステムその ンテクスト(関係
      え     ものが修正される変化 パターン)の変化

  学習Ⅱ 自己・習慣 選択肢集合自体が変更 コンテクストの変 習慣形成
      ・性格の形 されていくプロセスの 化
      成     名
  学習Ⅰ 行為の変化 同一選択肢集合内で選 メッセージの選択 古典的条件
            択されるプロセスの名          づけ
  ────────────────────────────────────
  ▶生物による学習Ⅳの可能性はベイトソンによって否定されている.ただ,個体
  発生上の変化を変化させる系統発生上の変化(進化プロセス)は,学習Ⅳに踏み
  込んでおり,これをエコシステムの変化として捉えることができるかもしれな
  い.しかし,そうすると自己言及のパラドックス問題に逢着することになる.(37頁)

 続けると、「コミュニケーション・システムとしての人間が、本質的に、関係に自己言及するコミュニケーション・システムとして存立していると考えるとき、これまでの学習と呼ばれているものは、すべてコミュニケーション・システムの自己変容として捉えることができる。一般には覚醒を、個人の内面に生じる劇的事態と捉える思考に慣らされているが、私たち[矢野先生や亀山佳明先生ら]は、コミュニケーション論に基づき、コンテクストとメッセージとのパラドックスによってもたらされる関係のダイナミックな自己変容としてそれをみることを主張する。関係が人間の最深部の無意識のレベルで、人間の世界にたいする構えを規定しているとき、関係そのものを意識的努力によって変容させることは、原理的に不可能だと言ってよい。このことが、覚醒と呼ばれる事態がまれにしか生起しない理由を示している。」(41頁)とある。確かに、橘大女郎は、自分の力だけでは、世界にたいする構えを変容させることはできなかった。そして、太子の言葉である「世間虚仮 唯仏是真」について、自分と同程度、ないしそれ以上に理解のある人物が誰かいないか探してみた。一人いた。推古天皇である。太子の仏教講筵を聞いて、感激して、「播磨国水田百町施于皇太子」していた。しかし、いくらなんでも「畏」れ多い。他にいないか。いない。仕方がない。「雖恐」だけれどかかづらわりあいたい。
 さらに続けると、「ところで、関係の自己言及による矛盾によって、関係の自己変容をもたらすものに対話がある。ソクラテスが、非連続的な覚醒をもたらす優れた対話者であることはよく知られている。そして、彼の対話の特徴として、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーがあることもよく知られている。これらの特徴は、すべてコミュニケーションの論理階型の混乱と秩序化に関係しており、このような対話の在り方にこそ、関係を変容させ、覚醒をもたらすソクラテス的対話の秘密があると考えられる。」(42頁)とある。推古天皇は聞いて弱った。「悽然」としてしまった。「世間虚仮 唯仏是真」って、マジで言っているわ。「皇太子亦講法華経於岡本宮」のとき、あの子、いくつだったっけ? しょうがないわねぇ。
 私、「天皇」(注20)やっているの。立場上、対話はできないのよ。公に役人を使うこともできないわ。でも、何とかしなくちゃ。急ぐわね。彼女は、「天寿国」に「大王住生之状」を「観」るためのよすがとして、「図像」があると助かると言っていた。そしたら、彼女がそれを見て覚醒、つまり、世界にたいする解釈図式において、自己変容を起こさせるようなものを作ってあげたらいいのね。

 銅(あかがね)・繍(ぬひもの)の丈六(ぢゃうろく)の仏像(ほとけのみかた)、並に造りまつり竟りぬ。(推古紀十四年四月)

 えーっと、仏像なんか作ったってダメよ、いわゆる繍仏も全然ダメ。荘厳なのはダメ。彼女の言っているテムジクニって何だかよくわからないけれど(注21)、まあ、深くは考えないで、テムジクニ全体がすごくハッピーな感じに「観」えるような「図像」にしたらいいってことよ。刺繍は刺繍でもきりりっとしたのは作っちゃダメよ。仏さまがおひとりさまなんて暗くなっちゃう。ちょうどいいわ、あなたたち采女だったら、刺繍下手だからかしこまらなくて。それにあなたたちに頼むなら、大ごとにもならないし。いちばん肝心なことは、彼女が笑うこと。前の素敵な笑顔にもどすこと。袋小路から抜け出させるの。「従遊」なんて言ってたけれど、ただの「遊」でいいのよ。遊戯(ゆげ)よ。テムジクニは遊園地に描くの。味のあるマンガを描く人知らない? 適当に探してきて。ね、わかった、采女たち。超特急で作ってね。頼んだわよ。
 仕事を振られた采女らも、最初は戸惑ったことだろう。あるいは、尼さんなんかに聞いたかもしれない。

 ……又、汝(い)[鞍作鳥]が姨(をば)嶋女(しまめ)、初めて出家(いへで)して、諸の尼の導者(みちびき)として、釈教(ほとけのみのり)を脩行(おこな)はしむ。(推古紀十四年五月)

 作り手にとっての最大の謎は、「世間虚仮 唯仏是真」であったろう。その内容もさることながら、その形式においてもである。橘大女郎は、采女同様に字が読めないはずである。読む必要性がないから、読みたいと思うことすらない。けれど、「世間虚仮 唯仏是真」と、お経を読むように読んでいたらしい。どこでそんな文字を覚えたのであろうか。文字を学ぶ初学書は、論語か千字文である。

 故、命(みこと)を受けて貢上(たてまつ)りし人の名は、和邇吉師(わにきし)、即ち、論語(ろにご)十巻(とまき)・千字文(せにじもに)一巻(ひとまき)幷(あは)せて十一巻を、是の人に付けて即ち貢進(たてまつ)りき。(応神記)

 そうか、四文字ずつ、千字文に違いない。ならば、「天寿国」の「図像」にも四文字ずつ、事の次第をつぶさに記してなかにぶち込んで書いてしまったらいい。亀甲文のなかに亀を描いた図柄が有りなのだから、何だって有りにしてしまおう。橘大女郎が文字を読めないときは、読めなくても、彼女が懐く「天寿国」っぽいし、読めたとしたら、もう笑うしかないじゃないか。<図>に<地>が紛れ込んでいる。橘大女郎の今、現在進行形が、「天寿国」の「図像」のなかに書いてあるのだもの。現在進行形、-ing とは、それこそ太子がよく仰っておられた「遊(ゆ)」ということだろう。彼女に足りないのは、「遊」そのものなのだと天皇も仰っていた。「天寿国」ワンダーランド。そう、「世間虚仮 唯仏是真」をまるごと「虚仮」にしよう。メッセージのメタ・メッセージ化、メタ・メッセージのメタ・メタ・メッセージ化。きっと悟ってくれるさ、反転の反転で。
 すなわち、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーの豊富な天寿国繍帳を観ることによって、橘大女郎は、世界(世間)とのコミュニケーションの論理階型の混乱状態を再秩序化したのであった。「遊び[=ユ]は日常のコミュニケーションを切断し、解釈枠組みの改変を改変し、不断に意味を生みだし、生に輝きをもたらす。」(122頁)ことに成功した。これは実はたいへんなことで、推古天皇は、天寿国繍帳を介してではあるが、橘大女郎と「関係が対称のときには、パラドックスは真性のダブル・バインド状況とはならない。遊び[(パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファー)]は対称のコミュニケーション・システムのなかで、パラドックスを乗り超える快楽といえる。」(103頁)ことをやってのけた。立場上不可能であるのに、無礼講状況を、寝屋の帳用のカーテン(注22)制作によって成し遂げたのであった。凄い人物であったとわかる。
 以上、橘大女郎の精神状態、解釈の<図>と<地>の混乱について、そのまま捉え返された<図>と<地>の区別なき図像に表わされた銘文のフレーム分析を行った。銘文の大枠はこのようなものであった。

「十二月廿一癸酉日入」への疑問

 次に、「孔部間人母王」(穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ))の忌日はいつか、銘文中に「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩」とあることの意味について考察する。干支表記個所である。「歳在辛巳」とは推古29年のことである。金沢2001.によれば、当時用いられていた元嘉暦では「十二月廿一癸酉」は間違っており、甲戌のはずであるとされる。12月20日が癸酉、21日が甲戌に当たる。そして、後に採用された儀鳳暦においても『日本書紀暦日原典』では同じことになっている。けれども、儀鳳暦の補正値について、複雑な定朔法をマイクロソフト・エクセルのワークシートを使って計算し直してみたところ、推古29年12月朔の干支は一日ずれあがり、21日の干支は「癸酉」になるという。よって、元嘉暦ではなく儀鳳暦が使われた持統朝以降に天寿国繍帳の銘文は記された可能性が高いという。これには批判もあり、野見山2011.に、須賀隆氏からの教授として、推古29年12月21日が「癸酉」になることから証明できるのは、進朔を行わない定朔の暦法が用いられたことだけであり、暦相互変換プログラム when では、儀鳳暦やその次の大桁暦によって計算された場合も干支は癸酉になるという。
 話がややこしくなっている。銘文を“読まない”姿勢から起こって、変なところへ関心が向かっている。原文は、違う意味で思った以上に奇妙である。日付の書き方である。亡くなったのは2人ということで銘文の話は進んでいた。2つの日付の記述を比較すると、

 歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩
 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩

となっている。年月日時間を干支で表したいのか、数字で表したいのか、記述者の意図を量りかねる。下の行は、その次の年の明けて2月22日、十干十二支で表すと甲戌(きのえいぬ)の夜半、太子は崩御された、とシンプルである。しかし、上の行は、歳が辛巳(かのとみ)に在る年の12月21、干支で表すと癸酉(みづのととり)の「日入」に孔部間人母王は崩御されたとある。この部分、上宮聖徳法王帝説に、

 歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入孔部間人母王崩

となっている。数字で月日を書く時、通例、「○月○日」と書く。法王帝説を記した人の気持ちは理解できる。けれども、勘点文などから、繍帳銘文は、「○月○癸酉日入」が正しいとされる。干支の後に「日」字が離れ、それが「日入」という熟語として解釈されている。岩波書店の思想大系本では、「十二月廿一(じふにぐわちノにじふいち)ノ癸酉(くゐいう)ノ日入(ひぐれ)に」と訓んでいる。東野2013.には、「斉明五年(六五九)七月紀に引く伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこしょ)に「十五日日入之時」と見える。」(61頁)とある。けれども、伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこがふみ)は、「十五日(とをかあまりいつかのひ)の日入(とり)の時に」という表し方をしている。「日」字が重なっている。なぜ繍帳銘に「十二月廿一癸酉日入」と「日」字をケチって干支を加えた書き方がされているのか、了解されるに至っていない。疑問さえ提起されていないように見受けられる。干支との間の齟齬にばかり目が行って、「不審」という言葉で議論されている。そもそも、繍帳銘の「日入」を日没時間帯と決めてかかっていいのか疑問である。記述の要諦が不明である。以下、筆者の考えを述べる。
 元嘉暦であれ儀鳳暦であれ、同21日は癸酉の次、甲戌(きのえいぬ)である。“読む”姿勢を持てば、つまり、“書く”立場の気持ちを汲めば、実にあやしい書き方が施されていると知れる。月日の数字の後に「日」字を挟まない書き方は尋常ではない。銘文を記した人との知恵比べである。実際に孔部間人母王が亡くなられたのは、推古29年12月21日のことであろう。時間帯は未明で、死亡診断書としては、それはほとんど前日の12月20日に算入しても構わないということが、「十二月廿一癸酉日入」という書き方から見て取れる。
 なぜ死亡診断書が改竄されなければならないのか。干支を「癸酉」にしたいからである。それは、鎌倉時代に、信如という尼が中宮寺を再考しようとした時、太子の御母堂、穴穂部間人皇女の忌日を知りたがって天寿国繍帳を探したという事柄とリンクしている。聖徳太子の「母王」の名は、「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」(用明紀元年正月、推古紀元年四月)、「埿部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)」(欽明紀二年三月)、「間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)」(欽明記)と記される。アナホベノハシヒトという人の表記は、銘文中で、「孔部間人公主」とある(注23)
 銘文の他の登場人物のうち、「尾治王(おはりのみこ)」の「治」字は表意文字で記されているが、その他は、例えば、「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと)」のように、だらだらと一字一音の仮名書きで記されている。だらだら書きが蔓延している中、「孔部間人」と表意文字で記しているのは、名が、事柄内容を表意しているということであろう。名とは何か。呼ばれるものである。名づけられた綽名と言っても過言ではない。

「孔部間人」の意味

 アナホベノハシヒトさんは、アナホベノハシヒトというからには、穴に穂が入っていて端っこにいる人というイメージが浮かぶ。穴に穂を入れて端っこに人がいる様子とは、鳥を捕まえるために罠を張って待っている人というニュアンスがある。それは古代、鳥取部(ととりべ)、鳥飼部(とりかひべ)と呼ばれた職掌の人たちがしていた。穴を掘ってそこへ餌を置いてよび込み、蓋して出られなくして捕まえる方法は、小鳥に対しては行われない。地面を掘る必要はない。本職が小鳥を捕まえる場合、霞網などで一網打尽、大量捕獲が可能である。今日では鳥獣保護法でやかましい。雁や白鳥は大きくて力が強く、水辺の穴などに餌を置いて誘い込み、編み籠で蓋して捕まえる。
 銘文ではわざわざ、「孔部(あなほべ)」と表記を断っている。「部」とは部曲(かきべ)のことであろう。穴穂天皇(安康天皇)が皇太子時代に設けられた部であるらしい。それが穴穂部間人皇女とどのように関わるか、今となっては実証不可能である。それよりも、ここに、「孔部」と記されてあることに注意を向けたい。説文に、「孔 通る也。乙に从ひ子に从ふ。乙は子を請ひし候鳥也。乙至りて子を得、之れを嘉美する也。古人、名は嘉、字は子孔」とある。「候鳥」とは渡り鳥のことである。気候に合わせて見られる。ここで、ハクチョウ(白鳥=鵠(くぐひ))やガン(雁(かり))、ツバメ(燕)を思い浮かべても、孔(あな)に当たるような頓智は冴えてこない。ヤマトの人が漢字を目にして、その字の解説である説文の文を“悟る”ことを推し進めたなら、あな(孔)が開いて通っていて、しかも渡り鳥になるような事柄が、「孔」という字に必要十分な条件としてあげられていると考えたに相違ない。上代の人たちは知恵が豊かである。そのとき、打ってつけの鳥がいる。タカ(鷹)である。
 タカは、鷹狩に利用される。嘴が鋭い。穴を開け穿ち、刳り抜くのにもってこいの鋭利な鉤状をしている。実際、獲物の胸に孔を開け、真っ先に心臓を食べるという。タカは渡り鳥ではないと思われるかもしれないが、“渡り”鳥である。鷹狩に使われるタカは、調教されて、放たれても人のところへ帰るように訓練されている。それを鷹匠用語で、「渡り」と呼ぶ(注24)。自然界のタカは渡り鳥ではないが、鷹狩用のタカは、渡り鳥、候鳥である。
「鷹を馴らす図」(『放鷹』、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512(226/398)。
よこはま動物園ズーラシア・バードショー(人から人へ“渡り”ます。選ばれればキャッチもできます。)
 本邦で鷹狩が始まったことを記す記事は、仁徳天皇時代のこととして描かれている。

 四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰(まを)さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾(かつ)て是の鳥の類を得ず。故、奇(あやし)びて献る」とまをす。天皇、[百済の王(こきし)の族(やから)、]酒君(さけのきみ)を召して、鳥に示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴(なら)し得てば能く人に従ふ。亦、捷(と)く飛びて諸の鳥を掠(と)る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)と曰ふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む。幾時(いくばく)もあらずして馴(なつ)くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(あしを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もづの)に幸(いでま)して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)、多(さは)に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽ち数十(あまた)の雉を獲つ。是の月に、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号(なづ)けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月)

 この記事を読んで、本邦にそれまでタカがいなかった、百済にはいたから連れて来られたことを示すと捉えるのは、国語能力に欠けた人である。記事には、本邦で今まで網にタカの類がかかったことはないと記されている。渡来人に聞いたところ、人に馴れさせて狩りに使うのを、百済ではクチと言っているという話である。割注に、「是今時鷹也」とあるのは、「今時」、鷹であると言っており、では、往時、何と言っていたかは記していない。クチは百済語である。倭で外来語のクチを採用したわけではなく、タカと言っている。空間的に“渡り”鳥なばかりか、時間的にも“渡り”鳥である。巧みなレトリック表現として“渡り鳥”であることを示唆してくれている。ヤマトコトバのワタル(渡)のワタは海(わた)と関係するようである(注25)
 自然科学による種の同定など古代の人は関知しない。飼い慣らして人間の役に立てる存在になった時、hawk という野生動物がタカとしてありありと人の前に現れる。言葉として立ち上がる。大陸の北方地域には、鷹狩に役立ちやすいタカが棲息していたらしく、中華帝国にも伝えられている。鷹狩用の鷹がその技術とともに伝えられ、すなわち、鷹を捕まえるところから養い育て馴れさせ思いどおりに操れるようにすることができるようになった。それを紀の記事はきちんと伝えてくれている。「是鳥之類」と書いてある。鷹狩に使うのは、オオタカ、ハヤブサ、クマタカ、ハイタカなど、「類」の鳥であって1種ではない。鷹狩に使う鳥を、タカと通称することが言葉の使い方として便利なのである。隼狩という語を造っても混乱が生じるだけである。垂仁記に次のようにある。

 故、今高く往く鵠(くぐひ)の音(こゑ)を聞きて、始めて阿芸登比(あぎとひ)為(し)き。爾に山辺之大鶙(やまのへのおほたか)〈此れは人の名ぞ〉を遣して其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦、稲羽国(いなばのくに)に追ひ越えて、即ち、旦波国(たにはのくに)・多遅麻国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到りて、乃ち三野国(みののくに)に越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に到りて、和那美(わなみ)の水門(みなと)にして網を張り、其の鳥を取りて持ち上り献りき。故、其の水門を号けて和那美(わなみ)の水門と謂ふ。(垂仁記)

 「山辺之大鶙」という人名があるから、タカがいたことは間違いない。「和奈美」という地名は、ワナ(罠)+アミ(網)を示している。ハクチョウを捕まえるのに、颯爽とした鷹狩ではなく、鈍くさい罠・網猟が行われている。仁徳紀と併せて考えれば、本邦の自然界にタカはいたが、鷹狩は行われておらず、仁徳朝になって鷹狩技術が伝えられ、人々の意識の上にタカという語がクローズアップされたということであろう。
 鷹狩をする場合、タカを捕まえてから飼い慣らして狩りに使うまでには、かなりの忍耐と努力が必要である。鵜飼に使うウ以上に大変かもしれない。最終的に縄の繋ぎを取り、放ってしまわなければ狩りに用いることはできない。そのとき、野生に帰ってしまわれてはすべての努力は水泡に帰す。捕獲後の扱いは、革製の足皮をつけて拘束し、真っ暗なところで空腹にさせ、人の手から鳩の肉をもらうことから始める。爪も嘴も小刀を使って削り揃える。新修鷹経中に、「攻(ヲサムル)觜法」、「攻(ヲサムル)爪法」(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535853、26~27/39)参照)などが記されている。人に危害を加えさせないこともあるが、鋭利すぎる嘴を失えば、調教の時も、実際の鷹狩の時も、肉を食べるのに時間がかかるため、訓練に役立ち、狩猟時にも獲物の損傷が少ない。鷹狩で大きなハクチョウを捕まえた時、鷹が食べるのに手間取っている間に人が近づき、代わりに持参した鳩肉を与えれば、鷹はおとなしくそれを食べてくれる。
 つまり、嘴は、離されているのである(注26)。仁徳紀に鷹の百済語クチが紹介されているのは、洒落を言いたかったのであろう。タカは嘴が特徴的で、それは、言葉を話させるための仕掛けとしても見極められていた。漢字においては鳥は嘴、人は吻であるが、ヤマトコトバにはどちらもクチバシである。鳥のよく響く甲高い鳴き声を、鳥の言葉として認識していた。だから、言語障害の御子の逸話に、オホタカなる名の人が登場している。嘴という器官の持つ意義を見抜き、言葉として成立させている。口は、物を食べることと、言葉を喋ることの両用の役目を果たす。それを得意ならしめているのが嘴である。そして言葉を喋る意において、クチバシは口走ることと緊密な関係にあろう。古辞書にクチバシに関する語は、新撰字鏡に、「觜 之髄反、上、喙也、鳥口也、久知波志(くちばし)」、「誆 九王反、禱也、𧥶也、久知波志留(くちはしる)、又太波己止(たはこと)、又久留比天毛乃云(くるひてもの云)」、和名抄・羽族部・鳥体に、「觜〈喙附〉 説文に云はく、觜〈音斯、久知波之(くちばし)〉は鳥の喙也、喙〈音衛、久知佐岐良(くちさきら)、文選序、鷹の礪の曰ひ也〉は鳥の口也といふ。」、形体部・鼻口類に、「脣吻 説文に、脣吻〈上音旬、久知比留(くちびる)、下音粉、久知佐岐良(くちさきら)〉と云ふ。」ともあり、新訳華厳経音義私記に、「吻 無粉反、脣の両角の頭辺を謂ふ也。口左岐良(くちさきら)」、名義抄には、「呴吽𤘘 クチサキラ」、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、コトハル、ウツ、カタラフ、ハチ、ウレフ、マコト、合會善言ヽ調ヽ」とある。つまり、クチバシのクチバシたるものの本質までを決定的に表わすのが、鷹の嘴である。鷹狩のために飼い慣らされた鷹の嘴は、爪觜小刀によって丸く鈍く整えられている。離されているのである。ハナシという言葉は、話であり、離(放)しである。口から意図的に放って離れさせるものが、クチサキラから放すサキラ、つまり、ハナシ(話)である。
 以上の考察から、「孔部間人」と用字において表意的に断っているアナホベノハシヒトという言葉は、鷹の嘴に負っている優れた職掌であることを意味しているとわかる。よくお喋りをする明るい方で、人と人とをつなぐ“渡り鳥”的役割を果たす存在だったのであろう。そして、人と人との間を渡る渡り鳥が、鷹狩のために調教された鷹である。鳥を捕まえて献上するのは、「鳥取部(ととりべ)」、「鳥飼部(とりかひべ)」と呼ばれた職掌の人たちである。

 是に天皇、其の御子[本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)]に因りて、鳥取部・鳥甘部(とりかひべ)・品遅部(ほむぢべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めき。(垂仁記)
 十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙(ゆかはたな)、鵠(くぐひ)を献る。誉津別命(ほむつわけのみこと)、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞(たまひもの)す。則ち姓を賜ひて鳥取造(ととりのみやつこ)と曰ふ。因りて亦、鳥取部・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年十一月)
鷹狩図(彩絵磚、甘粛省嘉峪関四号墓、中国、魏晋時代、中国美術全集編輯委員会編『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』文物出版社、1985年、34頁「縦鷹獵兎」)
鷹狩埴輪(群馬県太田市オクマン山古墳出土、6世紀末、新田荘歴史博物館蔵、太田市HP(http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/otabunka26.html))
 なかでも優秀な人たち、それが「鷹甘部(たかかひべ)」(仁徳紀四十三年九月)、後の鷹匠である。養老令・職員令、兵部省のなかに、「主鷹司(しゆゐようし) 正一人。〈掌らむこと、鷹犬調習(でうじふ)せむ事。〉令史一人。使部六人。直丁一人。鷹戸(たかかひへ)。」、官員令別記に、「鷹養(たかかひ)戸、十七戸。倭・河内・津。右経年毎丁役。為品部、免調役。」とある。そんじょそこいらの鳥取部ではない。網や罠のような陳腐な道具で大した鳥も貢げない人たちとは違う。大きなハクチョウも捕まえて来る、珍しい、有り難い鳥取部である。
 ハクチョウはなかなか捕まえられない。本牟智和気御子(誉津別命)の話に、「今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿藝登比(あぎとひ)為き。爾くして、山辺之大鶙(やまのへのおほたか)を遣して、其の鳥を取らしめき。」(垂仁記)、「時に鳴鵠(くぐひ)有りて、大虚(おほぞら)を度(とびわた)る。皇子仰ぎて鵠を観(みそなは)して曰はく、『是何物ぞ』となたまふ。」(垂仁紀二十三年十月)にあるクグヒ(鵠・鳴鵠)とは、ハクチョウのことである。言葉の話せない御子が、言葉を話せるようになるきっかけを与えるなど、瑞祥中の瑞祥である。そのような鳥を格好よく捕まえる人たちのことを古語で表すなら、「瑞(みづ)の鳥取(ととり)」ということになる(注27)。ミヅノトトリとは、癸酉(みづのととり)に同じ音である。つまり、アナホベノハシヒトさんの忌日は、癸酉の日であって欲しいわけである。それこそ、名を以て体を成すこと、言葉が事柄と同じことになる。言霊信仰の下にある人には、そうであって欲しかった。ところが、「孔部間人公主」という「母王」は、亡くなった日が、少しだけ次の甲戌の日にずれ込んでしまった。1~2時間(?)ぐらいと短いから、まあ、そこは大目に見て、癸酉の日に算入してしまって良いではないか。そのほうが、わかりやすく、覚えやすいし、記念日として供養したくなるじゃないか、亡き人も喜ぶんじゃないか、という発想である。結果、「十二月廿一癸酉日入」なる不思議な表記をもって記されている。
 「日入」を古訓に、トリノトキと訓んでいる。酉の刻の意である。酉の刻は午後6時頃、夕暮れ、日の入り時である。すると、上のずれ込み説は当たらないのではないか、算入の意で他に書いた例があるか、とのご指摘もあろうと思う。筆者は、ここにも、銘文を記した人の知恵を見て取る。「日入」と書くと、トリノトキと訓まれるであろうと知っている。それでいい。なおのこと、トリのことが思い浮かぶ。鳥取部のなかでも優秀な鷹飼部のことを思い起こさせる仕掛けになる。銘文の作成者の頭では、孔部間人という人の名は、鷹を使って鳥を捕まえる人のことを表わしているということがすべての先に立っている。それが、アナホベノハシヒトという言葉の、言動一致事項だからである。言霊信仰に従った明晰な表記と言えよう(注28)
 ミヅノトトリを、「瑞の鳥取」と「癸酉」との駄洒落をもって記した。この念の入れようは、銘文において重要な要素、小咄のオチ(サゲ)だからである。ここで笑えない人は、“話(噺・譚・咄)”の通じない人である。そして、ハナシとは、無文字文化の糧のような存在である。しかも、この部分の重要性は、自己言及的にそれを語っている点にある。名義抄に、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、……」とあった。話とは、サキラである。クチサキラから上手に話されることである。才気の現れた弁舌である。そういう重要な事柄であると、自ずからきちんと自己言及的に記そうと努めている。すなわち、繍帳の銘文は、無文字文化華やかなりし頃に製作されたことが窺える。文字文化の始まった藤原京以降に下るものでは決してない。古今集でも語呂合わせは多いと思われるかもしれないが、万葉集とは桁が違う。干支との語呂合わせに興じた例があるのだろうか。甲子大黒(きのえねだいこく)、丙午の女、庚申信仰の庚待(かのえまち)といった干支にまつわる言い方はあるが、言葉の洒落、○○と掛けまして☓☓と解く、そのこころは、△△という謎掛けの言語遊戯と関係があるのかわからない。ミヅノトトリの洒落、語呂合わせは、文字文化の時代にはなかなか思い着きにくい発想であろう。
 奈良時代に、文字文化の時代の始まっていたことを表す詔が残る。元明天皇代、「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。」(続紀、和銅六年五月)(713年)とある。いわゆる好字令である。言葉において聴覚を重視する思考が、視覚を重視する思考へと転換していたこと、ないしは、その途上にあることを意味している。両者は文化が違うという言い方がふさわしい。天寿国繍帳の銘文の成立時期は、無文字文化の時代である。大宝律令の制定(701年)や、好字令の詔よりもだいぶ以前である。頭の使い方が違うと見て取れる。次の日だけどミヅノトトリに入れてしまおうよ、ということを考えもし、それを「日入」などと表記してうまいことやってしまうことは、律令官僚から始まって現代の学者に至るまで、住む世界が違うように思われる。町に哲学者あり、の発想である。キティちゃんのようなパッチワークのカーテンを有り難がっていてはいけない。法隆寺の資材帳に繍帳のことが載っていなかったのは、橘大女郎ひとりのために作られた、趣味の民芸品風のものであったからに相違ない。病んでいる人のために急いで作ったから刺繍が塗絵風の直線使いであるし、絹糸なのに風合いを損ねてしまう撚糸を使ったのは、彼女がヨリテユクと言っていたからに他ならない。法隆寺は格式が高まって南都七大寺に数えられてしまう大寺院である。仏像を荘厳するための品にして、このような幼稚なものが飾られていたと想定すること自体、美術史的観点からしても違うのではないか。

その他の付訓

 さて、推古天皇の台詞は、二度手間のような重なった言い方になっている。「天皇聞之悽然告曰有一我子所啓誠以為然」とある。発語部分を括弧に入れて返り点を施して示すと、

 天皇聞之、悽然告曰、「有一我子、所啓誠、以為然。」

ということになる。「之」は、橘大女郎の言ってきたことである。橘大女郎の言ってきたこととは、言ってきた言葉と言ってきた内容と言ってきた態度と言ってきた状況をすべて含んでいる。はるばる斑鳩から飛鳥まで歩いてきた(?)ことや、朝から門を叩いて聞いて欲しいと嘆願してきた(?)こと、やつれた顔をしていた(?)こと、声が上ずっていた(?)こと、着物は着の身着のままの風情であった(?)こと、鬼気迫る一点凝視の視線(?)や、言葉がまわりくどい言い方になっていたこと(?)など、状況の設定を含んでいると考えられる。今日の選挙でも、言っている内容が同じでも、演説がうまければ、顔が好かれれば、声がかすれて聞き取りにくければそれだけ頑張っているのだと捉えられ、当選することがある。そういったことをすべて含んで「聞之」と記されている。
 「以為」は、オモフ(思・念)の意で、オモフ、オモミル、オモヘラクなどと訓まれる。紀の例をみると、

 刀子(かたな)は献らじと以為(おも)ひて、……。(垂仁紀八十八年七月)
 弟媛、以為(おもひみ)るに、夫婦の道は古も今も達(かよ)へる則(のり)なり。(景行紀四年二月)
 以為(おもほさく)、祟る所の神を知りて、財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。(神功前紀仲哀九年二月)
 天下(あめのした)の万民(おほみたから)と雖も、皆宜しと以為(おも)へり。(允恭即位前紀)

などとある。「然」については、白川1995.に、「しかり〔然・爾〕 「しか、あり」の約。「しか」「しかく」が「さ」に対してかたい語感をもつものであるように、「しかり」にも訓読語のかたさがある。」(381頁)、古典基礎語辞典に、「さ・り 【然り】……副詞のサ(然)に、動詞アリ(有り、ラ変)が付いたサアリが約(つづ)まったもの。上に述べたことを受けて、そうである、そのとおりであると納得をしたり、承認したりするときに用いる。」(573頁、この項、我妻多賀子)とある。上に述べたことを受ける漢文訓読系の語として活躍している。白川1995.は、「〔神代記上[第八段一書第六]〕「唯然(しかり)」、〔神代紀下[第十段一書第一]〕「然歟(しかるか)」などがみえるが、みな応答の語である。」(381頁)と指摘する。ほかにも例がある。

 大己貴神(おほあなむちのかみ)の曰はく、「唯然(しか)り。廼(すなは)ち知りぬ、汝(いまし)は是吾が幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり。……」とのたまふ。(神代紀第八段一書第六)
 時に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、其の矢を見(みそなは)して曰はく、「是の矢は、昔我が天稚彦(あめわかひこ)に賜ひし矢なり。血、其の矢に染(ぬ)れたり。蓋し国神(くにつかみ)と相戦ひて然(しか)るか」とのたまふ。(神代紀第九段本文)
 「天孫(あめみま)、豈(も)し故郷(もとのくに)に還らむと欲(おもほ)すか」とまをす。対へて曰はく、「然(しか)り」とのたまふ。(神代紀第十段一書第一)
 [神武]天皇……「今我(やつかれ)は是日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向ひて虜(あた)を征つは、此天道(あめのみち)に逆(さか)れり。……」とのたまふ。僉(みな)曰(まを)さく、「然り」とまをす。(神武前紀戊午年四月)

 同じく応答の言葉に、「諾(う)」、「諾(うべ)なり」といった言葉がある。両者の違いは、ウ・ウベナリが、イナ(否)の対義語であり、英語の yes に当たるのに対し、「然(しか)り」という言葉は、強く言う場合は that’s right、弱く言う場合は that’s so に当たるということであろう。すなわち、橘大女郎のものの考え方として、PならばQ、QならばR、であるならば、PならばRであるという論理演算としては正しいと推古天皇は判断している。そうだねえ、そうだねえ、である。けれども、そもそもの提題のPに勘違いがある。大変な境遇にあって、そう考えるのは仕方がないと思うけれど、私までその考え方に没入する形で賛同することはできない。世界がひっくり返ってしまう。言っていることに虚言妄語はない(「所啓誠」)し、そういう論理展開をしたらそういう結論になるのは尤もだとも思う(「以為然」)と言っている。推古天皇は、「有一我子」と言いかけながら、孫の橘大女郎の誕生から生い立ち、聖徳太子に嫁いだ時のことなどが、走馬灯のように頭を駆け巡っていたことだろう。そして、ヒトリノワガコアリ、マヲセルハマコトニシテ、オモヘラクシカナリと、30字ほどの文言をゆっくりと喋ったように感じられる。感慨を「告曰」していて、繍帳制作を「勅」している。別言になっている。
 以上、天寿国(てむじくに)繍帳の銘文を“読む”こと、すなわち、銘文の内部から、いつ、何のために、繍帳は作られたのかについて論じた。繍帳は、橘大女郎の精神的な危機を救うために、その訴えの言葉をそのままにまるごと受け止めて推古天皇が作らせた、とても心温まるものであった。長々と論じているが、なぞなぞの種明かし、駄洒落の解説に過ぎない。けれども、それは、銘文を“読む”ことそのものである。無文字文化の本質に迫るものであると考える(注29)
(つづく)

天寿国繍帳の銘文を内部から読む 其の一

2017年10月07日 | 天寿国繍帳銘
(サマリー)
 天寿国繍帳の銘文は、飛鳥時代、ヤマトコトバによって記されたもっとも古い文献記録の一つである。事は、聖徳太子の死去に伴い、夫人の橘大女郎がノイローゼに罹って、推古女帝に嘆願したことに始まる。太子が行ったと妄想する「天寿国」はテムジクニ(「天竺」に)と訛った語、「母王」と糸を撚るように相次いで亡くなっていることから、それを捉え返して撚り糸を使って刺繍を施した。干支の「癸酉(みづのととり)」の日に「孔部間人公主」が亡くなったとする伝は、彼女の「孔」性、すなわち、人の間を渡り歩いてお喋りして人と人とをつなぐようなお人柄を表す瑞鳥取(みづのととり)、鷹狩に使う鷹のことを表している。ダブル・バインド状況に陥った患者の意見を尊重しながら、よく眠れるようにとハッピーな図柄の帳を下賜したのであった。

天寿国繍帳とは

 天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、別名、天寿国曼荼羅(てんじゅこくまんだら)とも呼ばれ、現在、残存物の多くを中宮寺が所蔵している。飛鳥時代の染織工芸品、とりわけ刺繍が施された品である。銘文によれば、聖徳太子の死を悼んでその妃、橘大女郎(たちばなのいらつめ)が推古天皇に訴え出て作ってもらったという。飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されている。現存する天寿国繍帳には、4か所に亀が描かれ、それぞれの甲羅に四字ずつの漢字が刺繍で表されている。残片一点にも亀形があって、文字数は合計20字確認されるそうである。法隆寺資材帳に、天武天皇施入の「繡帳弐張〈具帯廿二条 鈴百九十三〉」とあるのがそれに当たるとも考えられている。その後、文永十一年(1274)に、比丘尼の信如が法隆寺の綱封蔵でこの繍帳を発見し、とても傷んでおりながらも四字ずつの銘文が解読され、上宮聖徳法王帝説に写されており、そこから、今日、亀が100匹縫われていて、計400字書かれていたと推測されている(注1)
 天寿国繍帳ならびにその銘文の特徴をあげる。第一に、繍帳は「繡帷」とあり、刺繍の緞帳であって、カーテンか、タペストリーか、そういった類のものである。用途については、寝るときに枕辺を隠す帳とされたと考えられる(注2)。今日見られる繍帳は、上中下×左右の計6区画に分かれている。図柄としては、男女の像、水波、蓮華、鳳凰、飛雲、月象、如来像、鐘楼、仏殿、二階建ての高殿、そして字の刻まれた亀が確認される。それを絵として見たとき上手いかというと、いわゆる“へたうま”である。塗り絵のつぎはぎの6コママンガのようなものである。大橋1995.に、「天寿国繡帳に刺繍されていた天寿国図を当麻曼荼羅に代表されるような画面の中央に阿弥陀如来が坐し、そのまわりを大勢の菩薩が取り囲むパースペクティブな画法で描いた浄土図ではなく、天寿国を構成する各種図像だけが横長の大画面の上に点々と、つまり部分繡いとして刺繡され、いうなれば背景のない、三次元的な空間表現のない画面であったと想定した。」(137頁)とある。「装飾的で平面的な天寿国図」(同頁)という言い方は、俗に言うマンガ(注3)である。なお、後代には、曼荼羅に絵すごろくのような品が数多く存在している。それらとの大きな相違は、後述のとおり、絵に額縁がない点である。コマのないマンガという複雑なものである。
 第二に、銘文が繍帳本体の図のなかに登場してしまっている。同じく上宮聖徳法王帝説に記載のある法隆寺金堂薬師如来像光背銘、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘は、光背に文字が刻まれている。仏像のお顔やお体に銘の文字が刻まれて、見る人に浮き出ているわけではない。当たり前である。
台座の下辺に銘文が横倒しになってめぐる例(観音菩薩立像、飛鳥時代、7世紀「辛亥年」、東博展示品、e国宝(http://www.emuseum.jp/detail/100739/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=12&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=2&owner=1&pos=41&num=2)参照。)
縁の裏方に銘文がめぐる例(青銅金鼓、金「崇慶二年」銘、高麗時代、康宗二年(1213)、東博展示品。銘文中に、「聖壽天長國」とあるそうである。)
 一例を挙げる。入れ墨のある顔を見るのは、心中容易ではない。

 爾に、大久米命(おほくめのみこと)、天皇の命(みこと)を以て、其の伊須気余理比売(いすけよりひめ)に詔(の)りたまひし時、其の大久米命の黥(さ)ける利目(とめ)を見て、奇(あや)しと思ひて歌曰(うた)ひて、
 あめ鶺鴒(つつ) 千鳥(ちどり)真鵐(ましとと) など黥ける利目(記17)
爾くして、大久米命の答へて歌曰ひて、
 媛女(をとめ)に 直(ただ)に逢はむと 我が裂ける利目(記18)
故、其の孃子(をとめ)の白ししく、「仕へ奉らむ」とまをす。(神武記)

 ほかにも、「詔して曰はく、「……死(ころすつみ)を免(ゆる)して墨(ひたひきざむつみ)に科(おほ)す」とのたまひ、即日(そのひ)に黥(めさききざ)む。」(履中紀元年四月)、「天皇瞋(いか)りて、面(おもて)を黥(きざ)みて鳥養部(とりかひべ)としたまふ。……「……今天皇、一(ひとつ)の鳥の故に由りて、人の面を黥む。太(はなは)だ道理(ことわり)無し。悪行(あ)しくまします主(きみ)なり」といふ。」(雄略紀十一年十月)、「面黥(さ)ける老人(おきな)」(安康記)などとある。神武記の例は、どうして目に入れ墨を入れているのか、「黥(さ)け」ているのかについて、君のことをしっかり見ようと目を見開いているから「裂け」ている、と洒落たので、お仕えしましょうという運びとなった、という話である。
 言葉の洒落なら話として成立する。雄略紀の話も、実は「罪(つみ、ミは甲類)」と「積(聚積)(つみ、ミは甲類)」の洒落として話が成立している可能性が高い。しかし、実際に目にするのは、罪科にされるほどに痛々しいものである。
「部間人公」『国宝 天寿国繡帳』、4頁)
ニホンイシガメ(上野動物園展示。クサガメは江戸後期に半島から移入された可能性が高いとされる。)
 繍帳銘は、繍帳の図の中の亀の甲に銘が見えてしまっている。字の並びは和同開珎などコインの字の並び順と天寿国繍帳の字の並び順は異なると指摘されている。マンガのようなものであると言ったが、字もマンガのようである。「公」という字はなかなか見ない書体である。メールに使えそうなほどとぼけている(注4)。通常、マンガにある吹き出しは登場人物の発話や想いを記す。天寿国繍帳では、あくまでも銘が記されている。奇異なことである。美術品に限られることではないが、<図>と<地>の問題で生じている。額縁たる枠組みの外にあるべき<地>が<図>に混入している。混在している。これでは何が何だかわからないことになる。絵巻物であれば、詞書があって絵が描かれる(注5)。分けられている。掛け軸では、絵の少し離れたところに画賛は書かれる。屏風絵や曼荼羅に地名や仏菩薩等の名が記されることはあるが、制作の次第が絵のなかにバラバラと書かれることはあり得ない。ふつうのマンガでもその一コマに、場面の設定が文字によって記されることはあるが、それでも絵とは分けられている。擬音語が絵にかぶさる形で書かれることはあるが、そのコマのなかで発生している音を表している。<図>と<地>が混ざることはない。
 字をデザイン化して<図>にしたことは、本阿弥光悦の得意としたことである。葦手といった字(?)以下、いろいろ例が挙げられようが、それらデザインに登場する文字は、アートの作品と同じ次元にある。作品を「作品」として括弧で括ってからその外側から由来次第を説明する「銘」文をぶちこんだものではない。天寿国繍帳の<図>と<地>の混在とは、枠組み(frame)の溶解を示しているのではないか。確かに、<地>にあるべき銘の字は、亀の甲羅のなかに閉じられていると捉えることも不可能ではない。しかし、亀甲文の図柄に閉じられているのではなく、明らかに具体動物としての亀に見える。百歩譲って亀はマークなのだとして、他にどのような例があるのか、管見にして乏しい例しか思い浮かばない。筆者の気づいた範囲では、古代の鉄剣銘、稲荷山古墳出土金象嵌銘がある。利器として実用するのではなく、威信財であると解釈されている。すごいだろう、と見せびらかすためである。もはや「剣」ではない。直江兼続の兜の「愛」の文字については、筆者は、敵方がひるむようにわざと解釈のフレームを崩してみせたものと考える。実戦において敵方に通じたかどうかはわからないが、少なくとも配下の兵士としては、勘弁してくれよ、といったすごいもの、もはや兜ではないものに転じていたであろう。家康を激怒させたという書状を読めば、そういうことを狙う人であったろうと推察がつく。他に扇面法華経といった例がある。経文の上にかぶさるように下絵が描かれており、さらに扇の要へ向かうにしたがって文字が小さくなっていく。読経目的で作られたものではないのであろう。
 また、天寿国繍帳の場合、以下に示す通り、銘文自体が会話文の問答を含むような変てこな内容であり、それを鑑賞者に見せる形で<図>に提示している。とても不可解である。この超マンガ現象は、解かれなければならない大問題である。さらに、その銘がどうして亀の甲羅に文字が描かれているのかについても、納得のいく解答が得られなければならない。小杉1988.に、「日本における亀文には、文字を負う亀と長寿の筆頭としての亀との二つがある……。……文字を負う亀……は中国で古くから亀が文字と関係づけられていたことと、天を支えたり山を負うたりするとされていたことなどから導かれた。」(123頁)とあって、「天寿国曼荼羅の銘文を負う亀」が図に掲示されている。天寿国繍帳は、ヤマトにおいて制作された。朝鮮半島からの渡来人は関与しているが、亀はあまりにコミカルに描かれている。中国の文化をそのまま引く胡乱な説明は、亀が登場する説明にはなり得ても、めでたいのかどうかわからないような内容の銘文を甲羅に乗(載)せる理由にはなっていない(注6)
甲骨文字(東洋文庫ミュージアム展示品)
 この入り組んだ構造をしている天寿国繍帳銘を“読む”ということは、銘文を、頭を捻って作り上げた人の、頭の捻り具合を追体験することである。なぞっていたのでは駄目である。繍帳は、アニメのような図柄で、しかも約2m☓4mの大画面が2面、そこに亀の背に4文字ずつ漢字が乗って飛んでいたとされている。それが天寿国繍帳銘である。キティちゃんがコスプレして世界を経巡っているような図柄のカーテンである。亀が薄絹地の上に碁石を並べたように配置されていたとも指摘されている。飛んでいる亀の背にへたくそな字が4字ずつあしらわれている。
 銘文全体を考えたとき、仮にそれが上代の、飛鳥時代前期、推古朝に書かれた文であるなら、訓読みをもって読まれなければあり得ないと筆者は考える。音読みで意味がわかるとは、漢字を知っていることが前提になるからである。中国人や渡来系の人が作成した文章を訳しているというのでは、主人公ともいえる「多至波奈大女郎(橘大女郎)」がバイリンガルか何かの設定になり、文章の大枠が崩れてしまう。会話文中に広く巷間には知られていない、音読みされる漢語が登場することは、制作年代がいつのものでもあり得ない。作家かコピーライターの端くれが、台詞部分に聞いただけでは意味の通じない発語を挿入していた日には、デザイナーの側としては、台本がひどすぎるよ、わからないから作らないよ、ということになる。デザイナーは字が読めないからいいのだ、という議論も可能ではあるが、今日、学界において、そのようなことまで周到に検討されているようには思われない。銘文を“読む”ということは、銘文を自分が“書く”つもりになって接しなければならない。
 筆者の訓読による理解では、この銘文は、銘文にあるとおり、橘大女郎が、「孔部間人」という「母王」と、聖徳太子という「我大王」とが相次いで亡くなってしまい、ノイローゼになって、2人してヨリユク(「従遊」)、つまり、糸を撚るようにして逝ってしまったと思った「天寿国」を見たいけれど見えないから、頼りにすべき「図像」が欲しいと、公務に忙しい推古天皇に嘆願してきたため、心配した天皇が「諸采女等」に命じて、患者さんの言葉どおりに糸に撚りをかけて、絹糸の撚糸を使って刺繍させたものである。大丈夫か? 橘大女郎、である。第一に、太子が講義で発していたことかよく分からない「世間虚仮 唯仏是真」なるお経の文句のようなものを唱えている。ここは訓読みすべきところではない。お経は漢語(呉音)棒読みである。聞いていてよくわからない。わからないから奥が深くて意味があるように感じられる。お寺で訳したものを唱えることがたまにあるが、筆者はげんなりさせられる。「世間虚仮 唯仏是真」はお経のようでありながら、出典が明らかではない。出典が確かではないお経のようなものとは何であろうか。どういう念仏であろうか。きっと、彼女の記憶の混乱、妄想による文句であろう(注7)
 第二に、太子はおそらく、彼女を安心させるためのたとえ話として、「天寿国」なることを語ったのであろう。それを彼女は錯乱して、真に受けてしまって本当のことだと勘違いをしている。「天寿国」とは何かについて、今日の研究者は程度の差こそあれ、当時の思想としてあったかのように解釈されている。しかし、中世の浄土思想のように、上代に天寿国思想は広まっていたとは認めがたい。浄土という考え方は種々あったかもしれないが、天寿国繍帳の銘文以外に「天寿国」という言葉がなかったら、それも銘文のなかの発語部分、台詞にしか登場していないとなると、台詞を吐いた橘大郎女の頭の中にしか「天寿国」なるものはなかったと考えるべきである。相手は精神を病んでいる。つまり、この繍帳は、“荘厳”する作品ではない。

繍帳銘復原文と読み下し文

 銘文の会話文は、とてもおめでたいとは定めがたい内容である。それが載っている。なぜ繍帳に載せられているのかについては、解釈のフレーム自体と関係する可能性がある。すなわち、橘大女郎の主張を推古天皇が捉え返して、あなたがそう言うならそうするわ、ということである。「図像」なら、他に絵画でも織物でも構わないのに、あえて「繡帷」という形式にこだわったのではないか、と考えられるのである。いちばん希望に沿えて適切なのが、繍帳という形式であったということである。そこまで解析されたとき、この天寿国繍帳銘は“読めた”ということになるのであろう。
 さて、飯田2000.、420~421頁)により、銘文の復原文を示す。亀の甲に四字ずつに記されたから四字ずつに区切っている。なぜ四字ずつなのか、これも検討課題である。文章の続きと関係なく四字ずつに区切ることになってしまっている。

 斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 (1)
 比里爾波 乃彌己等 娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女 (2)
 名吉多斯 比彌乃彌 己等為大 后生名多 至波奈等 (3)
 已比乃彌 己等妹名 等已彌居 加斯支移 比彌乃彌 (4)
 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 彌己等為 后生名孔 (5)
 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 (6)
 等多麻斯 支乃彌己 等娶庶妹 名等已彌 居加斯支 (7)
 移比彌乃 彌己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名 (8)
 尾治王多 至波奈等 已比乃彌 己等娶庶 妹名孔部 (9)
 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治 天下生名 等已刀彌 (10)
 彌乃彌己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 (11)
 為后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 (12)
 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩 于時多至 (13)
 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰敬 之雖恐懐 (14)
 心難止使 我大王與 母王如期 従遊痛酷 无比我大 (15)
 王所告世 間虚假唯 佛是真玩 味其法謂 我大王応 (16)
 生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看 悕因図像 (17)
 欲観大王 住生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子 (18)
 所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繡帷二張 畫者東漢 (19)
 末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻 (20)

 次に、新字体に改めた筆者による書き下し文を示す。段落分けも適宜行う。読む際に留意した点は、地の文と会話文との区別である。絵画的に<図>と<地>の混同が見られる厄介な代物である。文章的においては、<図>と<地>をはっきりさせておかなければならない。会話文は、14行目の「畏天」から18行目の「之状」までと、同「有一」から19行目の「為然」までである。あくまでも会話文であるから、上代の話し言葉としてふさわしい読み方をしなければならない。すなわち、意味が通じれば良いというレベルではなく、発話された発声音の再現が試みられなければならない。他の読み方は許されないという意味である(注8)

 〈筆者の訓読文〉
 斯帰斯麻宮(しきしまのみや(磯城嶋宮))に天下(あめのした)治(し)らしめしし天皇(すめらみこと)、名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと(天国排開広庭尊)=欽明天皇)、巷奇大臣(そがのおほおみ(蘇我大臣))、名は伊奈米足尼(いなめのすくね(稲目宿禰))が女(むすめ)、名は吉多斯比彌乃彌己等(きたしひめのみこと(堅塩媛命))を娶(ま)きて大后(おほきさき)と為(し)たまひ、名は多至波奈等已比乃彌己等(たちばなとよひのみこと(橘豊日尊)=用明天皇)、妹(いも)、名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等(とよみけかしきやひめのみこと(豊御食炊屋姫尊)=推古天皇)を生(う)みたまふ。復(また)、大后が弟(いろど)、名は乎阿尼乃彌己等(をあねのみこと(小姉命))を娶きて后と為たまひ、名は孔部間人公主(あなほべはしひとのひめみこ(穴穂部間人皇女))を生みたまふ。斯帰斯麻天皇(しきしまのすめらみこと(磯城嶋天皇))が子(みこ)、名は蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと(渟中倉太珠敷尊)=敏達天皇)、庶妹(ままいも)、名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等を娶きて大后と為たまひ、乎沙多宮(をさたのみや(訳語田宮))に坐(いま)して天下治らしめし、名は尾治王(をはりのみこ(尾張皇子))を生みたまふ。多至波奈等已比乃彌己等、庶妹、名は孔部間人公主を娶きて大后と為たまひ、瀆邊宮(いけのへのみや(池辺宮))に坐して天下治らしめし、名は等已刀彌彌乃彌己等(とよとみみのみこと(豊聰耳皇子)=聖徳太子)を生みたまふ。尾治大王(をはりのみこ(尾張皇子))が女、名は多至波奈大女郎(たちばなのおほいらつめ(橘大女郎))を娶きて后と為たまふ。
 歳(ほし)辛巳(かのとみ)に在(やど)りし十二月(しはす)の廿一(はつかあまりつきたち)の癸酉(みずのととり)の日入、孔部間人母王(あなほべのはしひとのははのみこ)崩(かむあが)りましぬ。明年(くつるとし)二月(きさらぎ)の廿二日(はつかあまりふつかのひ)の甲戌(きのえいぬ)の夜半(よなか)、太子(ひつぎのみこ)崩りましぬ。
 時に多至波奈大女郎、悲哀(かなし)び嘆息(なげ)きて白(まを)さく、「畏(かしこ)き天皇(すめらみこと)が前(みまへ)に曰(い)ひて啓(まを)すは恐(かしこ)しと雖(いへど)も、懐(おも)ふ心止(や)み難し。我が大王(おほきみ)と母王(ははのみこ)と期(ちきり)しが如(ごと)く従(よ)りて遊(ゆ)く。痛く酷(から)きこと比(たぐひ)无(な)し。我が大王、告(の)りたまへらく、『世間虚仮(せーけんこーけー)、唯仏是真(ゆいぶつぜーしん)』とのりたまふ。其の法(のり)を玩味(あぢは)ふに、我が大王は天寿国(てむじくに)の中(なか)に生(あ)れたまふべしと謂(おも)ふ。而(しか)れども彼(そ)の国の形、眼所(めど)に看(み)叵(がた)し。悕(ねが)はくは図像(みかた)に因りて大王が住生(すま)ひし状(さま)を観(み)まく欲(ほ)し」とまをす。
 天皇、之れを聞こしめして悽然(いた)みたまひて告曰(のりたまは)く、「一(ひとり)の我が子有り。啓(まを)せるは誠にして、以為(おも)へらく然(しか)なり」とのりたまふ。
 勅(みことのり)して諸の釆女(うねめ)等に繍帷(ぬひもののかたびら)二張(ふたはり)を造らしめたまふ。画(えが)ける者は東漢末賢(やまとのあやのめけ)、高麗加西溢(こまのかせい)、又、漢奴加己利(あやのぬかこり)、令者(つかさひと)は椋部秦久麻(くらひとべのはたのくま)なり。

 先に系譜、経緯が書いてある。そして、第三段落からが本題である。橘大女郎と豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)とのやりとりである。橘大女郎が言っていることは、まず、
 天皇に申し上げるには畏れ多いことですが、気持ちを抑えることができないので申し上げます。
と断っている。その上で、
 夫の聖徳太子が母君の後を追うように、まるで約束を交わしていたかのように、あの世へ逝ってしまい、辛くて仕方がありません。主人からはつねづね「世間虚仮 唯仏是真」と告げられておりました。その教えを口のなかで噛みしめていると、主人はいま「天寿国」に生きていると思います。ですけれども、その国は私の目には浮かんで来ません。できましたら、図像に頼りまして主人が生きているところを観たいと思っています。
 推古天皇はこれを聞いてびっくりして、ごちた。
 一人ね、うちのところの若い娘のことなんだけど、心配だわ。啓上してくる心は誠実で、言っていることはその通りなのだけど。
ということで、いろいろ思案した挙句に、詔勅! 大勢の采女らに刺繍の緞帳を造らせた。下絵制作は誰々、材料調達は誰々。
 この文章をよく読むと、推古天皇は、「天皇聞之、悽然告曰『有一我子、所啓誠、以-為然』」→「勅」という流れになっている。天皇は、「悽然」としている。聖徳太子が亡くなったことそのことについて「悽然」としているのではない。自分ん家の孫娘の橘大女郎の気持ち(精神状態)に「悽然」としているのである。橘大女郎が、畏れ多くも天皇たるこの私に直訴してきた。別に裏があってやっていることではなく、「誠」実そのものである。それも、言っていることは、「然」り尤もなことである。
 推古天皇の言葉のなかの、「所啓誠以為然」は、「所啓誠、以-為然」で、「啓(まを)せるは誠にして、以為(おも)へらく然(しか)なり」と訓読されるべきであろう。玉篇逸文に、「然らずは許さずなり。然りは猶ほ必ずのごとし。亦、是の如し也(不然不許然猶必亦如是也)」とある。

 子曰く、然り、是の言有る也。堅きを曰はずや、磨すれども磷(うす)ろがず。白きを曰はずや、涅(でっ)すれども緇(し)せずと。(子曰、然、有是言也。不堅乎、磨而不磷。不白乎、涅而不緇。)」(論語・陽貨)

孔子の言いたいことは、確かになるほどそういったこともある。けれど、もう少し柔軟に考えてみてはどうだろうか、という意味で使われている。推古天皇の言もそういうニュアンスで用いられている。
 天皇という立場にあると、奏上された時、その奏上された言葉について、まず、本当かどうか、本心かどうか、見定めなくてはならない。それ以前の問題として、奏上の機会を与えるかどうかといったこともあるが、ここでは省く。聞くに当たり、中立性、公正性が問われる。詐欺、奸計、阿世、讒言などを見極めるために、奏上された言葉の背景、前提、状況、奏上した人物などをよくよく吟味しなければならない。このとき、橘大女郎の「所啓」、すなわち、啓上してきたその心根は、「誠」実そのものであると判断した。悪い企みがあるわけではない。真心なのである。そこで、第二段階として、言っている内容について考えてみた。「以-為然」、思うに、確かになるほどそういうことになるね、である。命題の三段論法において、「ソクラテスは人間である」、「人間は死ぬ」、ならば、「ソクラテスは死ぬ」ということの、ナラバ、が、シカリ、である。橘大女郎は、「太子は天寿国にいらっしゃるはずである」、「その国を看たいが看えてこない」、ならば、「天寿国の図像(模倣品)があればそれによって今の太子のお姿を観ることができるのではないか」、これは、シカリ、である。
 そんな橘大女郎の啓上を聞いたら、気丈な推古天皇とて、「悽然」となるであろう。日本書紀には、

 故、時に復(また)太(はなは)だ息(なげ)きます。豊玉姫(とよたまびめ)、聞きて、其の父(かぞ)に謂(かた)りて曰く、「天孫(あめみま)悽然(いた)みて数(しばしば)歎(なげ)きたまふ。蓋し土(もとつくに)を懐(おも)ひたまふ憂(うれへ)ありてか」といふ。(神代紀第十段本文)

とある。傍訓にイタミテとある。天寿国繍帳銘同様、会話文中にある。「悽然」の語はイタミテと訓むべきで、孫娘が痛々しく感じられるのである。橘大女郎は聖徳太子の言いつけを守っている。守り抜いている。洗脳されていると言っていい。太子は生前、「世間虚仮 唯仏是真」と言っていた。これは仏教の哲学らしい。もちろん、太子は譬喩、方便として語っていたのであろう。お話(噺・咄・譚)である。これをまともに聞いてしまった。逐語的にである。その結果、どういう考えに陥ったか。太子は亡くなった。天国へ行っている。仏の国である。仏の国で永遠に生きている。死んでいる人が天に登って寿(いのちながし)の国=「天寿国」に生きている。そういうことを考え出してしまった。考え方がそっちへ行ってしまった。パラドックスに陥ったのである。グレゴリー・ベイトソンのいう、ダブル・バインド(二重拘束)な状態について考察することで明らかになる。後述する。精神的に危険極まりないところへ行ってしまっている。
 天寿国繍帳銘の前半は、長たらしい縁故関係で費やされている。なぜこんなに綿密に記されているのかについて、橘大女郎の血筋の正統性を明かすためであるといった考え方も呈されている(注9)。筆者は、人は生れてきたらやがて死ぬものであること、遺伝子の乗り物にすぎないことは免れようがないことを説いているものと考える。近親者の死に打ちのめされている人に対しては、何もしてあげられないのが現実である。打ちのめされている橘大女郎には、解説の代わりに次の詩を一篇を贈りたい。

  喪のある景色  山之口貘
 うしろを振りむくと/親である/親のうしろがその親である/その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに/親の親の親ばつかりが/むかしの奥へとつづいてゐる/まへを見ると/まへは子である/子のまへはその子である/その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに/子の子の子の子の子ばつかりが/空の彼方へ消えいるやうに/未来の涯へとつづいてゐる/こんな景色のなかに/神のバトンが落ちてゐる/血にそまつた地球が落ちてゐる

「天寿国」=テムジクニ

 「天寿国」的な考え方について、飛鳥時代にそのような考え方があったのか議論されている。太子にそういう信仰があったかどうかも突き詰められている。亡くなった人が再度生きるところとして考えられるのは、「世間虚仮 唯仏是真」などとあるから仏教の教えであって浄土ということになり、阿弥陀仏による西方(さいほう)極楽浄土、弥勒菩薩による兜率天(とそつてん)浄土、釈迦による霊山(りょうぜん)浄土、維摩居士による妙喜(みょうぎ)浄土など、諸説検討、主張されてきた。飛鳥時代に、どのような浄土観があったかについても、考究されている。ただ、「天寿国」という言葉が仏典に見当たらない(注10)。しかるに、それ以前の段階で、この繍帳以外に、「天寿国」という言葉が仏典以外にさえ見当たらない。「聖壽天長國」銘の金鼓は高麗のものである。
 従来の議論は、出発するところの着眼点を履き違えている。天寿国繍帳の「天寿国」という言葉は、この銘文の文章で、橘大女郎によって語られている。「[我=橘大女郎]玩-味其法[=世間虚仮 唯仏是真]、謂我大王応於天寿国之中」とあり、「謂」の主語は橘大女郎である。彼女は、「我大王所『世間虚仮 唯仏是真』」とあるように、太子が「告」されていたのを聞いていただけで、仏典を研究していたわけではない。おそらく、彼女は、識字能力をほとんど持ち合わせていなかったであろう。よって、「其法」を「玩味」しているのである。目で字を追っているのではない。「世間虚仮 唯仏是真」と口で何度も唱えて、口のなかでどういうことなのか味わっている。そういう体感をしている。「玩」という言葉の記される所以である。
 では、天寿国への往生(?)とは、橘大女郎の頭のなかでどのようなことと想定されたか。それが問題となる。銘文に明記されている。「使我大王与母王期。従遊……」とある。「使」という字は、セシムと訓んで、使役を表している。主語は略されているが、仮想語として「天」であることに違いあるまい。天は、聖徳太子をして母王に与えさせしめた。太子のことは、古代朝鮮語でセシムである。「百済の太子(こにせしむ)」(継体紀七年八月)、「[百済の]弟王子(おとせしむ)」(皇極紀元年二月)などとある。天に前に登った「母王」が寂しそうだから、「我大王」を「与」えさせしむこととなったのである。その様子は、「如期」とある。「期」はチキリである。時期を約する意である。名義抄に、「期」の訓にチキルとある。一般にチギリと濁音で訓まれているが、清濁両用あったらしい。説文に、「期 会ふ也。月に从ひ其声。」とあって、約束の時期を言っている。会う約束をしていたかのように天に召されてしまった。
 「天寿国」とは何かについての諸説のうち、大野1996.に、「天寿国」=天竺説が紹介されている。『仮名源流考』に、「或はこは浄土にあらで、天竺国の事なりといふ説あり。……天竺国説は、繍帳の図中、日月鬼畜などありて、天国浄土のさまにあらざると、天寿と天竺と今の字音の似通ひたるなどより、思ひ寄れるものなるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087728、43~44/168)、漢字の旧字体は改めた。)とあり、大野1996.も、「六朝時代における天寿と天竺は同じ字音であって、天寿国も本来はインドを指す呼称であったと推測される。」(76頁)とする。後漢書・西域伝に、「天竺国一名身毒。在月氏之東南数千里。」とある。銘文のこの部分、橘大女郎の口から「天寿国」という言葉が持ち出されている。「我が大王は天寿国の中に生れたまふべしと謂ふ」。アガオホキミハ天寿国ノウチニアレタマフベシトオモフ、と仮に喋ったとしてみよう。「天寿国」と当てられた元の言葉(発声音)は、可能性として、テンジュコク、テンズコク、テムスクニなどいろいろである。そのような国を想像しているのは、今、彼女1人である。インドのことを表すテンジク(天竺、身毒)については、ヤマトコトバ調に訛ったとしてテムジクぐらいになり得る(注11)。太子が生前、彼女に、仏教はテムジクが発祥の地なのだよと語っていたとして、それをそのまま言葉として発したとしたら、母王と太子が逝った先を赴任先の1つのクニ(国)、播磨国、出雲国、尾張国のような行政単位のように思って、テムジクに行った、から、テムジクニ行った、テムジクニの中に生まれた、という助詞接着化による語展開の可能性を見て取れる。
 「天寿国」を浄土の一類型と考えるこれまでの説は、銘文に成り立ちにくい文章となっている。「天寿国中」に「生」ずるとはどういうことであろうか。極楽西方浄土、兜率天浄土など、どんな形であれ、それを「天寿国」という言い方で言っているとするなら、「中」に生まれるという意味合いがつかみにくい。繍帳に、卵生、胎生、湿生、化生の四生の変化を表わす図像が見られるともされている(注12)。その場合、無→有だから、「中」に「生」まれると言えないことはないが、図にあるなら「蓮華中」に生まれると記されてしかるべきである。むしろ、ヤマトコトバの奈良盆地風に、クンナカとでも言えるような表記が行われている点に注目したい。コク(国)ではなく、クニ(国)である。テンジュコクではなく、テムジクニと彼女が言ったのであれば、それを表記するに、天寿国という字をあてがうであろう。彼女の錯乱ぶりをうまく表している。太子は仏の世界、インドへ、つまり、テムジク(天竺)生まれ変わると言っていた。それをテムジク(天寿国)の中へ生まれ変わるものと思っている。
 橘大女郎がテムジクニと言ったとすると、ヤマトコトバ的にはそもそもが訛っているように聞こえる語である。外来語に特有の、ン音の撥音便を嫌ってム音へと転訛している。「玩味」と断っていることからも推測される。口腔を言葉がめぐっている。玩味ついでに口をついて言葉が出てきた。クチサキラ(吻、嘴)的な語である。名義抄に、「話」字に「サキラ」という訓がある。源氏物語・鈴虫に、「たゞいまの世に、才もすぐれ、ゆたけきさきらをいとゞ心していひつゞけたる、いと尊ければ、皆人しほたれ給ふ。」という用例がある。彼女のお話、テムジクニ物語である。“天寿クニ繍張”の研究と呼ばれることを期待したい。流暢に話したことを表すのであろう。例えば、バイオリン、バラエティと平べったく言うのではなく、ヴァイオリン、ヴァラエティとネイティヴ流に喋ったということである。発音ばかり先んじた言葉、意味の付いて来ない言葉であることを確かに示している。
 第三に、事もあろうに、天皇の立場にある推古天皇に直訴している。誰か友だちはいないのか、カウンセラーはいないのか。わざわざ斑鳩から飛鳥まで歩いてきて、警護の者に何とかお目通りを言ってきた。これでは斑鳩宮は、太子を看病して疲れて亡くなった膳夫人(膳大刀自(かしはでのおほとじ)、膳菩岐々美郎女)も含め、さらにもう1人死者が出ることになる。橘大女郎が「従遊」と言っていたのに似つかわしく続けざまに亡くなっているのは、実は膳夫人と太子なのであるが、それすらわからなくなっている(注13)。とても危険である。自死者など出たら堪らない。若い人が先へ逝くのはもう勘弁してほしい。仏教の盛んな、その象徴のような斑鳩の里が、文字通り葬式仏教になってしまう。政治面においても、推古朝は仏教推進的に動いてきた。困ったものである。
 そして第四に、橘大女郎の言っていることは、論理的に破綻しているものではなく、「然り」なのではあるが、ラージミステイクに陥っている。論理階梯が混乱している。どんなに説いても諭しても、通じることはないと直感させられる。彼女は、太子の言っていた論理の枠組みを見極められず、単語の切れ目もわからずに、太子の言葉を単線にしか理解できなくなっている。例えば、女「痛っ、何でぶつのよ」、男「棒で」、などといった噛み合わない言い合いがある。こういった会話に笑いが起こるのであれば、それは論理階梯を混ぜこぜにしていることを認めながらの“大人の”ジョークで済まされるが、真顔の場合、お付き合いは止めた方がよい(注14)。それでも、橘大女郎には、一筋の救われる道は見えていたと思う。彼女は、天皇への直訴について、やたらとかしこまっている。「畏」、「恐」。かしこまる相手であるし、かしこまる内容である。そう気づくだけの賢さが残っていたからカシコシと言い、賢いからそういう病に陥るともいえる。「懐(おも)ふ心止(や)み難し」、オモフココロヤミガタシとは、病(やみ)堅(かた)し、すなわち、変な考えを起こす病がひつこく付きまとっているということ、心の風邪をこじらせていることを含意して捉え返されている。
 「繍帳」は刺繍のトバリのこと、寝る時に枕元にかけ立てて熟睡できるようにした仕切りのカーテンのことである。精神を病んでいる人は、①夜よく眠ること、②それにより十分に休養すること、③ふつうにご飯を食べること、④適度な運動をすること、⑤その結果、規則正しい生活を送って生活リズムを取り戻し、ホメオスタシスによって治癒していくのが最善の方法である。夜に亡くなることが続いて、生活リズムも乱れていたのであろう。まずは睡眠薬代わりにトバリが必要である。彼女の願いを最大限聞いてあげよう。「天寿国」とは何かよく分からないが、太子が言っていたらしいことを彼女が真に受けているらしいから、太子はとてもハッピーところへ行ったのだと思わせるようにして、安心して暮らせるようにさせたい。うつらうつら微睡んでいる時に、ハッピーな「天寿国」が見えれば、不安に駆られることなく眠れるだろう。寝返りを打って悪夢に怯えて目が開いても、やはりハッピーな「天寿国」が見えるよう、左右に計二張必要である。緊急事態である。さあ、采女たち、急いで頂戴。
 亀の上に字が乗っている。彼女が字を読めたとは思われない。けれども、それが文字であるということはわかるであろう。なぜ、亀の上なのか。「亀」も「噛め」もカメ(メは乙類)だからである。話すのが苦手な人は、よく噛んでしまう。そこで、カンペを用意する。笏がカンペであったことはよく知られる。笏は音コツが骨に通じるのでシャクに改めたとされている。亀の甲羅は背であれ、腹であれ、骨のように感じられる。象形文字の漢字が、亀甲獣骨に書かれた文字であったことはよく知られる。卜と文字(ふみ)、すなわち、漢字とは、切っても切れない性格のものである。つまり、亀の上に何らかの記号が記されているとわかりさえすれば、上代の人にはそれは文字であるということ確かに理解された。已に噛んでしまっている已然形である。亀に文字を書くことは、万葉集に実例が見られる。

 …… 我が国は 常世に成らむ 図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の河に ……(万50)

 「亀」の負っている「図」のことをフミと読んでいる。釈日本紀のフミについての「師説」は、それなりの意味を持つものであろう(注15)。むろん、殷においても亀は「図」を負っていたのではなく、懐いていたのだから傍証に過ぎない。ヤマトコトバにおいて、亀と文字との関係を考えなければならない。すると、亀の背の文様を文字に近しいものと捉えたという解釈が可能である。現代の若者が、漢字バラバラクイズが得意なように、文字は角ばった“形”に過ぎない。そのような解釈なくして、「公」の字を顔文字化してしまう発想は理解できない。「画者、東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利」とあるのは、文字と絵とをともに担ったことを表す表記であろう(注16)
 病室のカーテンのデザインとして文字を表すにはそれで良い。もちろん、作る側は適当に字を並べておけばいいかというとそうはいかない。なぜなら、言霊信仰の下にある人たちである。“嘘”、“偽り”、“いいかげん”なことを書(ふみ)にし、それを誰かが読んだとき、言葉に出した時、それはそのまま事柄となる。現実になる。言=事が言霊信仰である。そういう恐れは排除しなければならない。“正しいこと”、“確かなこと”、“真(まこと)”を書く。彼女が訴えてきたことをそのままに書き、その訴えをそのままに捉え返して糸を撚って刺繍にした次第を書く。現実(事)を言(こと)として表している。それが銘文であり、「図像」はそれが彼女の頭の中にだけ存在することを入れ籠構造として表している。
 筆者は、この自己言及的な言葉の表現に、銘文の制作は上代にあったと考える。文字文化にどっぷり浸かった後代の人たちに、このような入れ籠構造の文章を捻る理由は見当たらない。依って立つものが文字表記として既存する。漢詩漢文を作ってみればいい。アンチョコを参考にすれば、どんどん書けるではないか。五線譜にオタマジャクシを“作曲”と称して書く時、何長短調か何分の何拍子か、門外漢にはわからない。ところが、それと冒頭部が同じ楽譜、ト音記号の右に♯や♭がいくつついているか、何分の何と書いてあるか、その点が同じ楽譜を探して来てパクり写せば、それはそれで“編曲”になる。音楽の時間の答案として、高得点が期待できる。それが文字文化、記号表記文化というものである。
 他方、無文字文化のなかにいた人たちは、文章を作るに当たって、言葉が言葉だけで自らが自らを定義するように考えを巡らす作業を行う。言葉が音としてしか存在しない。それが当たり前で日常であれば、言葉が言葉自体で説明責任を果たすようにしなければならない。なぜなら、聞いた相手がわからないからである。聞いて考えを廻らせた挙句になるほどと納得がいくことが、言葉としてふさわしいことになる。筆者はこれを“なぞなぞ”と言い、古語に、「無端事(あとなしごと)」(天武紀朱鳥元年正月)と呼んでいる。端が無いとは、ユヱ(由縁・所以)が知られないものである。何かほかに依って立つ根拠があるわけではない。根拠がない事柄なのに、確かであると了解されるのは、言葉が当該の言葉自体で自らを説明しているからである。自己言及である。詳しくは論理哲学を当たられたい。奇しくも精神を病んだ橘大女郎とのやりとりが、飛鳥時代のヤマトコトバの本性をさらけ出すこととなっている。

「従」=ヨリテ(ヨは乙類)

 「従遊」は、ヨリテユクと訓む。「従」の字は、万葉集に助詞のヨリ(ヨは乙類)に当てる例が多数存在する。空間的、時間的に、動作の起点を表す。「従」と「自」は通用字である(注17)。筆者は、ここに使われるヨリの語に、糸を「撚(搓)る(ヨは乙類)」こととの掛詞を見出す。糸を何本かねじり合わせて1本にすることである。「母王」という糸と「我大王」という糸とを撚り合わせて、絲ができあがっている。絲にする道具は、ツミ・ツムと呼ばれる紡錘である。回転軸と回転を推進させる車を伴った道具で、撚り合わせて巻きつけることができる。和名抄に、「鍋 紡績附 字書に云はく、鍋〈音戈、字亦楇に作る。漢語抄に都美(つみ)と云ふ〉は紡車の絲也といふ。唐韻に云はく、紡〈芳両反、豆无久(つむぐ)〉は績ぐ也といふ。蒋魴切韻に云はく、績〈則歴反、宇无(うむ)〉は績む苧の名也といふ。」とある。
錘の利用(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起、明治時代(19世紀)、原本は明応6年(1497)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055245をトリミング)
 一般に、「絹は、複数の繭から糸を引き揃えるだけでよく、特殊な織物を除いて撚りをかける必要がない。実際に、古墳時代の絹織物の繊維は引き揃えただけで撚りはかかっていない(沢田[2005.、48~53頁]……)。また、正倉院に伝わる『調絁』の絹繊維にも撚りはかかっていないことが確認できる(尾形[1999.1~30頁]……)。」(東村2011.、22頁)とある。絹糸の場合、カイコはさなぎを作るために一筋の糸を吐いて繭を作っている。そのため、繭を煮て、糸口を見つけさえすれば、するすると細くて長い1本の糸が引き出されることになる。それをそのまま糸として、撚りをかけないで布に織ることが可能で、染織した糸の光沢を表し色彩的に美しく仕上げるためには、そのまま使うほうがきれいである。蚕から採れる超長繊維で均質なものは、植物繊維からはなかなか取り出しにくい。おそらく、絹の利用は、麻や苧などを使っていた時代よりも遅れて大陸から伝来した技法であろう。
 橘大女郎は、チキリ(期)のようにヨリテユクことを太子の落命に見た。チキリ(榺)とは、機織りの機の経巻具のことである。和名抄に、「榺 四声字苑に云はく、榺〈音勝負の勝、楊氏漢語抄に知岐利(ちきり)と云ふ〉は織機の経(たていと)を巻きし木也といふ。」とある。どのような絵柄に織り上げるかを計算の上、予め兼ねて経糸をかけておくものである。既に決めてしまうわけである。したがって、約束されていることが、期・契(ちきり)という言葉になっている。絹織物のために、糸を撚らないとなると、彼女の言い分は機織物に作ることでは解決されない。
 錘(つみ)を使って2本の糸を撚ってゆくことによって、絲ができあがる。新撰字鏡に、「線搓 〈上在泉反、下仕可反、紡ぐ糸也。伊阿波須(いあはす)又、糸豆毛久(つもぐ)〉」とあり、和名抄に、「絲 文字集略に云はく、絲〈音司、伊度(いと)〉は蚕の吐くを取る也といふ。説文に云はく、線〈思翦反、字亦綫に作る。訓与縷(よる)、以度須知(いとすぢ)と曰ふ〉は絲の鏤也といふ。」などとある。橘大女郎の要請に応えるようにするには、何か撚った絲を使わなければならない。彼女の言い分に合致する「図像」形式は、撚糸を使った刺繍しか考えられない。澤田2006.に、「旧繡帳の図様は、強いZ撚り(左撚り)……の多彩な刺繡糸を用い、返し縫(ぬい)……の技法により、輪郭線で図様を縁取って内部を緻密に繡い表している。一見すると、撚り糸を単に並列したようで平面的で変化に乏しいが、力強さが感じられる。このため、全体に固い印象を受け、絹本来の柔らかな風合いに欠けるが、この強い撚りと緻密さが、現在もなお良好な状態を保っている理由といえる。」(17頁)とある。采女たちは、糸を撚って絲にし、針をあっちへ行(ゆ)きこっちへ行きする返し縫いをした。下地は榺を使って織られた羅や平絹らしい。確かに刺繍に没頭するのは、「遊」びである。同じ言葉でも世界の捉え方は変えることができる。これが、言霊信仰のなかにある無文字社会の知恵である。
 錘(つみ)は、「抓(摘)み(ミは甲類)」と関連がある語であろうから、ミは甲類と思われる。桑の一種のヤマグワのことを柘(つみ)という。ミの甲乙は知られないが、蚕関連であるから、やはり甲類であるように感じられる。そして、罪(つみ、ミは甲類)とも洒落ていて、罪を得て亡くなってしまったのではないか、と橘大女郎は暗鬼にかられている。「母王」の子(こ、コは甲類)が聖徳太子であり、蚕(こ、コは甲類)は、柘を食べた罪から錘に撚り合わされて絲のようによじれあって逝ってしまったというのである。罪人は手足を縛って拘束するが、それもヨルという。太子の法華義疏に、「有る人其の手足を縛(よ)りたり。」(長保点)とある。物の怪に憑りつかれるのもヨルという。憑依して一体化することがヨルである。すなわち、撚(縒)(よる)と寄(依・縁・因)(よる、ヨは乙類)とは同根の言葉ということになる。そういう主張をしてきた橘大女郎の思い描く「天寿国」を示してあげる「図像」には、撚り絲をもってつくる繍帳がふさわしいことになる。
 筆者は、これまで、狂気に近づいていた橘大女郎の申し立てに対して、推古天皇が内々に緊急に対応して作成したのが、「繡帷子二張」であると述べてきた。彼女の言い分を、天皇はそのままに捉え返して、しかし、言葉の意味合いの含みを使いながら、「大丈夫だよ、安心してね」というメッセージ(メタ・メッセージ)を伝えようとしていたと解釈してきた。ずっと時代が下るまで撚りをかけないのがふつうであった絹において、絹本来の光沢を失いながらもわざわざ撚りをかけて糸として、それを刺繡糸として用いていた。橘大女郎がヨリテユクと言ってきたから、ヨリテユク作業を施した撚り糸による刺繍を施して返したというわけである。その結果、飛鳥時代の色彩が鮮やかに残っている。
 糸という語については、「見るべき語源説がない。」(吉田1996.、29頁)、「細い繊維をのばして撚(よ)りをかけ、織布などの材料としたもの。古くは麻などの繊維性の植物を用いた。仮名書きの例がとぼしくて、かつ甲乙の両系があり、トの甲乙を定めがたい。……絲は二本あわせた撚(よ)り糸である。「いと」の語源は知られないが、わが国では麻などが古いものであるから、麻(そ)と関係があるかも知れない。」(白川1995.、121頁)などと、かなり不明な語である。古いイトという語は、他の植物繊維を使って作られた、縄や紐よりも比較相対的に細いもので、衣類などの織物に使うことが可能なものを指す言葉であったのであろう。そのための技法が、ヨル(撚・縒・搓)であり、撚ることによって繊維として確かなものになったのであろう。絹以前の植物繊維は、撚らなければ糸(絲)にならない。名詞つながりでの推測が通行しているが、撚ることの不思議について検討が必要ではないか。
 それは、天寿国繍帳銘にある橘大女郎の言葉の中に、ヨリテユクとあることと関連する。ヨリテユクを受けて、采女の刺繍糸は、絹でありながら撚りがかけられていた。古典基礎語辞典の「よ・る【縒る・搓る・撚る】」の解説に、「ヨルは、糸または糸状のもの何本かを、ねじって互いに巻きつかせて一本にする意。用例は上代からあり、歌に多いが、大半が「糸」と併用されている。」(1307頁)、「語釈」の「他動ラ四」に、「①糸などの長細いもの何本かをねじり合わせて一本にする。>「紫の糸をそわが縒(よ)るあしひきの山橘を貫(ぬ)かむと思ひて」〈万葉一三四〇〉。……②縛る。くくる。>「毘婆沙に云はく、有る人、其の手足を縛〔より〕たり」〈法華義疏四・長保四年点〉③ねじり曲げる。>……「Yori, u, otta ヨリ、ル、ッタ(縒り、る、った)。糸をつむぐ。または、撚る。Xeuo yoru(背を縒る)。荷物の重さがひどくかかる場合などに、馬が身をよじる」〈日葡〉」(1307頁、この項、我妻多賀子)とある。
 橘大女郎よ、太子も母王も、確かに相次いで亡くなったから糸を撚るように思えるかもしれないけれど、罪のために手足を縛られているのではないのだよ、立派に生きた人ではないか、ましてやあなたが自責の念に駆られることなどはないのだよ、と言いたくて、強いZ撚り(左撚り)の多彩な刺繡糸を用いて繡い表しているのであろう。糸に撚りを強くかけること、それをきれいに染めること、図様の内部をくまなく埋め尽くすこと、それはまさに、この世で計り知れないほどのことを成し遂げて天寿を全うした太子と母王とを顕彰することになり、「天寿国」を示すのにふさわしい方法であると納得されたのであろう。一点の曇りもないとはこのことである。それは、神仏のとがめだてであるかも知れないという橘大女郎の疑念を払拭するものでもある。すなわち、「祟 タタルナリ、神禍」(新撰字鏡)という語と捉えるのは彼女の勘違いであり、絡垜(たたり)という糸撚りの道具のことなのだよ、とも言い換えている。橘大女郎の大切な人を失って辛い思いをしている人には、罪ではなく柘(つみ)、祟りではなく絡垜(たたり)、つまり、ヨリテユクようなことは糸のことなのだと、彼女の思い詰めている「世間」をこそ「虚仮」にしなさいと推古天皇はお諭しになったように感じ取れる。あるいは、ちょっと気晴らしに、糸を績んでみたりしたらどうだい、といったアドバイスであったかもしれない。糸を撚るのは、他ごとを考えずに集中しなければならず、脳の異なる部位を使うことになって気分が転換し、精神的に健康になれると思われる。
 また、古典基礎語辞典の「よ・る【寄る・依る・因る】」の「解説」には、「対象にぴたりとつくのではなく、自然に近づいていく意を表す。相手に心ひかれて訪ねる、ものにもたれかかる、神仏や物怪(もののけ)などが乗り移る、などにもいう。組んで土俵際まで押し進む動きにもいうのは、相手に全身でぐいぐい近づいていく意からであろう。複数のものがひとところに集まることにもいい、年老いることを「年寄り」というのは、多くの年がその人に重なったさまをいうことによる。また、心理的に相手に心ひかれていくこと、味方をすることなどにもいう。」(1306頁、この項、依田瑞穂)とある。
 筆者は、相撲の例について、上のヨル(撚・縒・搓)との関連性を指摘せずにはいられない。相撲の場合、四つに組んで互いに回しを引きながら、なぜか片方の力士が土俵際まで進むことができる。組んでいるという点が大事である。それぞれの力士には、右四つ得意、左四つ得意と形があり、その形になると力を発揮する。巻きかえられない限り、その四つの形は続く。巻きかえの巻きとは、ネジの巻き、朝顔の蔓の巻きなどと同じことであり、それは、糸の撚りにいう、Z撚り、S撚りと同じことである。例えば、右四つの形の力士の場合、右下手、左上手が十分で、左からの投げの力が強いから、相手の腰の動きが制約を受ける。相四つであれば、互いにその方向で力を発揮しあい、喧嘩四つの場合、どのように組むか前捌きに勝敗の分かれ目があることが多い。いずれにせよ、相撲で組んでがっぷり四つになることは、繊維を撚ることで2本がその撚りが解消する方向へ力が加わって反対方向へ絡みあい、絲となっていることと相同なのである。
 古語のスマヒ(相撲・捔力)という語は、スマフ(争ふ・拒ふ)という動詞の連用形名詞とされる。古典基礎語辞典の「すま・ふ」の語の「解説」に、「相手の働きかけに強く抵抗・拒否する。」(658頁、この項、白井清子)とある。あらがい、嫌がり、断ろうとすることをいう。相撲という競技の四つ相撲をみると、相手の力に対して、互いにあらがい、嫌がり、断ろうとしながらそれができない働き合いであると知れる。自縄自縛な状態である。まさに、撚られて作られた糸と同じような様相になっている。糸の撚りには、とても根気のいる仕事である。また、その絡繰りを言葉で説明するのに難しいものがある。
左:苧引き法で得たカラムシ繊維を干す、右:砧法によってカラムシ繊維を取り出す(東京都埋蔵文化財センター「古代の糸作り教室」)
 カラムシの苧引(おひ)き、ならびに、砧に打つことをはじめて、片撚りを絡み合わせた両撚(もよ)り法へと導く。わかりやすくするため、以下、ビニールテープで手順を簡略に示す。①繊維を取り出す。②半分に折り曲げる。③折り曲げたところを左手指で摘み、右手で2本の繊維をそれぞれ同時にねじって撚っていく。④撚りをかけていくと左手指で摘まんでいたところに撚る力が伝わってきて、2本の糸が絡んでくる。これは、撚られた繊維がもとへ戻ろうとする回転力が、右手で続けている撚りとは反対回転方向へかかるためである。⑤それをひたすら均質、均等に続けて行っていくと、両撚りの絲が自然と完成する。
①市販のビニールテープ
②二つ折り
③撚りはじめ
④撚りを以て撚られる
⑤絲になりだす
 天然繊維の場合、太さが2本で違ったり、撚りのかけかた、回転数が同じでないと、1本にもう1本がただ縺れて絡んでいるに過ぎない状態となり、切れたり、ゆるんだりする。また、左手で2本の絡みを調節しようとしても、糸の製法とは別のことをやっており無意味である。それらは見た目は糸のように作られていても、実際のところ糸として機能しない。弱く、脆く、美しくない。手先の器用な人は、一定のリズムで2本とも右手の親指と人差指で撚りをかけ、左手は繊維の戻ろうとする感触を確かめながら手繰るだけで糸は絲となる。長さが足りなくなったら、つなぐ繊維を接ぎ絡ませながら撚りをひたすら進めていく。この繰り返しである。1度撚られた糸は、1本ずつの撚りの力とそれが戻ろうとする力による絡み合いの撚りの力によって着実に揺るがないものになっている。
 1本ずつの撚りの回転方向と、その戻ろうとする力による2本の絡み撚りとが逆方向になることによって、実用に適う安定した絲が構成される。ツム(錘)などと呼ばれた紡錘車(spindle)を用いたとしても同様で、2本の繊維が絡み合ってほつれずに丈夫になっている状態が保てるのは、糸の撚りのおかげである。このように絲が組んでほぐれないのは、相撲取りががっぷり四つに組んでほぐれないのと同じことに当たると考えられたであろう。すなわち、相手の働きかけに強く抵抗しようにも、互いに同じ働きかけをし合っているのだから、のっぴきならない関係性に陥っている。互いにがっぷり四つに組んで腰の引けた状態だと、なかなか勝負がつかないことが多かった(逸ノ城v.s.照ノ富士、2015年初場所(daihorin01様「2015年初場所14日目 照ノ富士vs逸ノ城」(https://www.youtube.com/watch?v=0raOwJWirho)参照)。撚りの力のために絡まり合いが続くといった絲の特性と似通っている。
仏伝「相撲・象の放擲」(パキスタン・ガンダーラ、片岩、クシャーン朝、2~3世紀、東博展示品)
 相撲(すまふ)と同音の語に、住(すまふ)がある。橘大女郎が、天寿国で「大王[=聖徳太子]が住生(すま)ひし状(さま)」と言っていた。だから、糸と糸とが互いに撚りをかけ合って絲として機能するに至っていることを表してあげなければならないと、推古天皇や采女等は考えて、せっせと作業に取り組んだのであろう。スマフ(住)という語は、スミ(住)+アヒ(合)の約とされる。ずっと住み続ける、一緒に生活する、の義がある。その場所との一体性、あるいは、互いの関係の連帯性の感じられる言葉である。ふらふらと幽霊になってさまよったりはせず、気持ちのよい生活を送られておられるに相違ないと信じさせるには、相撲でがっぷり四つに組んでいるような撚糸を以てその図像を表すことが求められていた(注18)。ないし、そのように推古天皇側はしかと受け取った、ということであろう。飛鳥時代の人たちの、言葉における感性の鋭さ、言葉を大切にする心性が顧みられる。
(つづく)