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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

お練り供養と当麻曼荼羅 其の二

2021年05月19日 | 上古・中古・中世・近世
(承前)
(注)
(注1)頭全体に大きなお面をすっぽりかぶった劇について、我々は真剣に取り扱ってこなかった。仮面一般のこととしてはこれまでにもいくつか論じられている。
 和辻2007.に、「[伎楽面の]顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面に自然のままの人に顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。」(263頁)とある。筆者は、今日、ゆるキャラと呼ばれる被り物をしたご当地キャラクターに、和辻氏のペルソナ論とは別の意味合いを見る。ゆるキャラはイリュージョンであって、生身の人間と比較する対象に当たらない。観光の思い出に一緒に写真を撮れば、我々がどんなにいい笑顔をしても、おちゃめなピースサインを出しても、ゆるキャラが主役のスナップ写真でありつづける。我々は、まるで、行道の菩薩面を被った人を介添えする舎人の立場に立たされているようである。つまり、人は、伎楽面や能面、行道面、その他の被り物に、顔面の延長とは言えないものを感じている。化粧やプリクラの自動補正機能は、人間の顔面の延長である。したがって、オフ会やお見合いで、ふだんの顔やすっぴんの顔を見た時、落差を感じて当惑させられることがある。けれども、伎楽面などを被ることは、仮面が仮面であると予め納得の上のことである。儀式や演劇の舞台において、他界を含めた世界秩序が確認されているわけで、終わったからといって混乱することはない。化粧とコスプレは意味するところの次元が違うという見解は正しいのであろう。
 木村2000.に、「牧畜民であろうが、農耕民であろうが、超越的存在を意識する。しかし、その超越的存在に近づくに際して、農耕民は仮面を用いる。仮面は……中間的な存在であるから、ある意味では類概念だといえよう。つまり農耕民は仮面という類概念を媒介するのに対して、牧畜民はそういう中間項なしに、いきなり超越的存在に向かう。……農耕民にせよ、牧畜民にせよ、あるいは狩猟民にせよ、人間の集団が他界観をもつ、つまり死生観をもつことは、ある意味でかなり人類のユニヴァーサルな文化と考えていいが、その場合に、ユニヴァースな因子の一環として必ず出てくるのは、そういう超越的存在とどうやって行き来するかという問題である。その際に、農耕民は仮面を用い、遊牧民は現実の家畜を用いるわけである。したがって、私のいう類概念というのは、一種の媒介項であって、ある意味で役ないし役割の概念と考えられる。」(30頁)とある。美術評論の域を突き出た鋭い見解である。
 民族学の立場からは、吉田2009.に、次のようにある。

 地域や民族、さらには時代を問わず、世界の仮面に共通する特徴としてまずあげられるのが、ほかでもない、それが、人びとにとっての「外」の世界、言い換えれば人間の知識や力の及ばない世界、つまり「異界」の存在を目に見える形に仕立て上げたものだという点なのである。……アフリカやメラネシアにおける葬儀や成人儀礼に登場する死者の霊や精霊、動物を表す仮面だけではない。ヨーロッパでいえば、ギリシアのディオニソスの祭典に用いられた仮面から、現代のカーニヴァルや越年際に登場する異形の仮面や魔女の仮面に至るまで、また、日本でいえば、能・狂言や民俗行事のなかで用いられる神がみの仮面から、現代の月光仮面や仮面ライダー、ウルトラマンに至るまで、仮面は常に、世界の変わり目や時間の変わり目において、「異界」から一時的にやって来て、人とまじわって去っていく存在を可視化するために用いられてきた。そこにあるのは、「異界」を、「村」と区別される「森」に設定するか、「町」と区別される「山」に設定するか、「地球」と区別される「月」に設定するか、あるいは「銀河系」と区別される「別の星雲」に設定するかの違いだけである。確かに、入手できる知識の増大とともに、人間の知識の及ばぬ領域=「異界」は、村や町をとりまく森や山から、月へ、そして宇宙の果てへと、どんどん遠くへ退いていく。しかし、世界を改変するものとしての「異界」の力に対する人々の憧憬、「異界」からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。(131~132頁)

 お練り供養で菩薩面を被って練り歩くとは、「浄土(あの世)」から「娑婆(この世)」へ来て再び「浄土」へ還る、異界からの来訪者を演じることである。異界に近しい適役は、生産年齢から外れたお年寄りか幼子である。附随する形で、各地で稚児行列も行われる。神に近しい存在と認められる。お練り供養の場合も、あの世という異界に近しい存在だから、年長者に委ねられて然るべきである。木村氏の指摘するように、仮面が超越的存在の類概念であること、吉田氏の指摘するように、異界の力を形にしたものであると捉えると、菩薩面を被ることとは、仏教的な世界観のなかで超人的存在を演じること、それはまさしく菩薩になるということである。
 和辻氏の議論を引く坂部2009.に、「〈ペルソナ〉としての〈わたし〉は、〈わたし〉─〈他者〉、〈主語〉─〈述語〉の分離的統一という構造、〈他者〉という述語による限定ないし刻印という、〈仮面〉の構造を、その根本において、もっている。このことは、精神分裂症を典型とするいわゆる人格の解体という現象において、いわば裏側から照し出すという形で、一層あきらかにたしかめられることになるだろう。」(91頁)とあるが、仮面という語の譬えられ方を考慮したうえで、慎重に検討されなければなるまい。コミュニケーション事典に、「現代人は様々な日常生活の状況に応じて〈仮面=人格〉を使い分けるという比喩的な意味で〈仮面〉ということばがよく用いられる.この〈人格〉の語源ペルソナも,エトルリア地方の死者にかぶせるマスクの呼名に由来するといわれる.しかし,具体的なものとして,儀礼や祭りに用いられる仮面の特徴は,日常生活とは異質な状況の中に〈出現〉してくる点にある.」(140頁、この項、渡辺公三)とある。譬えとしての「仮面」という用語を宛がう際、語が独り歩きしないように見極めなければならない。
 幸いなことに、社会学においては、アーヴィング・ゴッフマンが役割と自己像とについて興味深い検討を加えている。そこでは、「自己」という概念の上位概念に「個人」という語を当てている。ゴッフマン1985.に、「個人は、それぞれ一つ以上のシステムまたはパターンに関与させられており、したがって、一つ以上の役割を演じているというのが、役割分析の基本的仮定になっている。それぞれ個人は、いくつかの自己を持つことになり、それらの自己がどのように関係しあっているかという興味ある問題が生じてくる。役割についての伝統的なパースペクティブによれば、人間のモデルは、意味的な関連を互いに持たない、いくつかの役割からなる持ち株会社 holding company のようなものである。そして、われわれの新しいパースペクティブにおける関心事は、個人がこの持ち株会社をどのように経営していくかということを見い出すことである。」(91頁)とある。お練り供養において、菩薩の面を被って行道することは、菩薩という役割を担うこと、すなわち、その人が菩薩という会社を買収して子会社化することである。さて、この菩薩株式会社は、経営実態のない、それこそ仮面カンパニーである。富を産まない。役に立たない役である。そんな会社を傘下に置いて何が面白いのかと考えるのは、おそらく青二才の着想である。すなわち、逆に、生産性が高くてROEの高い会社、すばらしい役割を担っていると思っていた自己たちは、実のところ、あの世へは持って行かれないことに気づかされる。何を齷齪しているのか、不思議な悟りに導かれる。そのとき、いわば、人生の修練が起こる。人生というものを練り上げる。そのネリにもってこいの役割が、菩薩株式会社のCEOを兼務して橋を練り歩くことなのであろう。練れた人になるには、むろん、他の役割(自己)をきちんと果たしていなければならないし、一緒に歩く「舎人(とねり)」を買って出てもらえるだけの人望も必要である。
 人間が仮面(マスク)をつけて演じることの意味は逆説的である。仮面は、素顔との関係で短絡的に想定されるほど簡単なものではない。むしろ、逆に、お祭りで仮面をつけて演ずることによって、自己(セルフ)とは、実は世を忍ぶ仮の姿にすぎないのだという真実を、身をもって実感することができる。自己というものを相対化するテクニックの一つになり得るのである。日常の陥穽に重く埋没してのっぴきらならないと感じて心理的に落ち込んでしまわずに、多様に生まれ変わることは可能でありながら、“今”を選んで生きているのだと再確認できる絶好のチャンスである。すると、お練り供養でお面を被って練り歩くこととは、この世とあの世という宗教的な意味合いばかりか、自己と他者という社会的な意味合いをもっても、その境界を溶解させてしまう契機と位置付けられる。お練り供養に参加すれば、極楽往生が約束される、という平板な議論はもはや正解とは言えない。すでに極楽往生できてしまったと錯覚される点、何のことはないのだと思えてしまう点が重要なのではないか。張子の虎のような菩薩の種明かしが悟られるのである。自己=菩薩である。そして、そのお祭りの行われるれんぞ、お練り供養の日が、耕作のために水田にべったりとへばりつけられ始める前日であることの意味は深い。セルフをセルフケアし、予防注射の効果を継続させてセルフをセルフコントロールするには、一年のうちで最もかなった日である。れんぞに行かなければ、地道にしんどい田仕事に耐えられなくなり、収穫までこぎつけることができなくてトラレヌゾどころか、発狂してトラのように叫びお隣さんへ襲いかかるような転落人生が待っているのであった。お隣さんとしても困るので、レンゾには皆して当麻寺へ詣でようと誘いあったことであろう。
(注2)美術史的解説としては、大西2007.、金2015.参照。製作者の意図が必ずしも観覧者の受け取り方に一致しないことはよくあることであろう。本稿は、当麻曼荼羅とお練り供養がともに当麻寺に由縁としている謎について検討を加えるものである。
(注3)その昔、人々が綴織当麻曼荼羅を拝観したとき、それは図像としてとても大きなスクリーンに包まれるような思いがしたのではないか。阿弥陀浄土の世界のなかに入った感覚を懐いたかと感じられる。絵本について解説する志村2004.に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。」(40頁)、「絵本の世界像は、「地」に属する「図」をもつ「地」表現、つまりストーリーには直接絡まず「地」世界に属する活気ある事象をもつ「地」表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が「地」に属する「図」の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者自身の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。」(57頁)と究明されている。
 この議論はそのまま、綴織当麻曼荼羅にも当てはまることであろう。綴織当麻曼荼羅は、絵本の特定の見開き1ページである。「こんな世界」とは阿弥陀浄土である。大きすぎるほど大きくて、そのにぎやかなパーティのなかに入りこんでしまう。お練り供養を伴えば、パーティ感はさらに高まる。きれいごとで言えば、聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽のまんまである。俗にいえば、舎人にエスコートされて、かしずかれてお酒を注いでもらっているほどにおもてなし感を味わえる。あの世の顕在化が起こっている。それに対して、当麻曼荼羅縁起のようなスクロールしてみる絵巻物は、絵本の見開き1ページのようなダイレクトさ、明解さがない。浄土が観想できるのであれば、後講釈のストーリーなど必要ないと思われる。綴織当麻曼荼羅の周囲に配されるコママンガ部も、人々が見たとして思うのは、それで、結局のところ、阿弥陀浄土とはどんなところなの? という問いに尽きるであろう。それが中心に大画面を成して織り成されている。視線が絵すごろくを進んで行って、あがりのところが中央の浄土パノラマである。
 この世からあの世への引っ越し、橋渡りを確かならしめて描く山越阿弥陀仏図や二十五菩薩来迎図は、布教をねらうための方便として作られた講釈がましい図像である。なぜなら、その図のなかに、観る者は立ち入ることができないからである。引っ越しのキャンペーンは、引っ越しをする人、臨終間際の人や病気がちの人には効いても、どんなに死亡率が高い時代であったとしても、その予定がない人には他人事であったろう。その点、綴織当麻曼荼羅は、お練り供養という行事とも重ねあわせて見るとすれば、あの世とは「こんな世界」で、いつ行っても構わないパラダイスだと思うことができる。譬えるなら、住む家はそのままに旅行(travel)に行く感覚である。今日、旅行を誘う観光地のポスターが、ただ美しくて魅力的に写されているのに似ている。ストーリーを含む図と含まない図とは異質である。志村氏の指摘する「図」(figure)と「地」(ground)の用語に従って誤解を恐れずに言うなら、当麻曼荼羅縁起や各種来迎図には「図」と「地」があるが、綴織当麻曼荼羅やそれを縮小コピーした当麻曼荼羅図は、近づいて見て周囲のコママンガ部が視界から外れれば、「地」しかない。実際に当麻曼荼羅図を見ると、コママンガ部は地味で縁模様のように背景へと消えていく。藤田美術館蔵当麻曼荼羅(鎌倉時代、13~14世紀)を見ると、「根本曼荼羅(394.8×396.9cm)の4分の1より少し小さい縮尺本であるが、原本の図様をよく伝える。金泥塗に裁金(きりかね)を重ねる諸尊がきらびやかである。」(サントリー美術館「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(2015年)解説ボード)とおりである。真正面から見るより、下の方から見上げ拝むほうが、光線の具合で照り輝いてわかりやすくなっている。殿上に三尊のほか、三十三の菩薩が体をくねらせている。お顔とはだけた上半身は黄金色である。こんなに座れるかと思えるほどラッシュアワー並みの混雑である。長い髪を首の脇から後ろへ垂らし、宝冠を被っている。遠近法などはないから、殿上の菩薩ばかりクローズアップされて目に入ってくる。これぞ極楽浄土、スーパービュー極楽浄土である。
 人によって受け取り方は違い、好き嫌いの問題もあろう。あるいは、図像における源信派と証空派にわかれるものと言えるかもしれない。そして、当麻のれんぞ、当麻のお練り供養に参加する人たちにとっては、練り歩くこと自体がストーリーであって、それが「図」に当たり、自らが主役である。説明調の来迎図など見せられるよりも、極楽往生が叶うと信じることができたに違いあるまい。図様の作り手と見る側とが互いに交渉し合って、豊かな世界像が成立していると言える。
(注4)厩牧令の義解に、「謂。脳者、馬脳也。胆者、牛胆也。」と注されている。馬の胆嚢を取ることはないが、牛の脳を取ることは十分に考えられる。永瀬1992.に、鹿皮の脳漿鞣し技術が詳しく紹介されている。牛脳を用いるとし、さらには脊髄のほうが不純物が少なくて上等であったともしている(118頁)。
(注5)応神紀に「麋鹿」(応神紀十三年三月)とある。ほかに、「是の野に麋鹿甚だ多し。気(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。臨(いでま)して狩りたまへ。」(景行紀四十七年是歳)とある。和名抄に、「麋 四声字苑に云はく、麋〈音は眉、漢語抄に於保之可(おほしか)と云ふ〉は、鹿に似て大きく、毛斑ならず、冬至を以て角を解く者也といふ。」、新撰字鏡に、「麞 諸羊反、平、久自加(くじか)、又於保自加(おほじか)」とある。このオホジカが現在の何に同定されるか筆者は知らない。箋注倭名抄は、漢籍に当たっているばかりである。和名抄の、毛に斑点がないという記述はわからなくさせるとともにわかるようにもさせている。列島には現在、大きな鹿としては、北海道にエゾシカがいる。ホンシュウジカよりも体が大きいから、第一候補として挙げられる。体の大きさは、ベルクマンの法則により北へ行って寒くなるほど大きくなる。ただ、エゾシカも夏毛には鹿の子模様がある。とはいえ、アイヌの人たち、古墳時代や飛鳥時代の蝦夷(えみし)は、エゾシカの毛皮を使う際、目的は防寒用である。すると、毛の量の豊富な冬毛を好んだであろう。それをヤマトへの貢物にもしていたとすると、ヤマトの人は、エゾシカには斑紋はないと錯覚させるに十分であったろう。そして、和名抄に、冬至に角を解くとあるのは、春に自然と脱落することではなく、ヤマトでの“常識”、五月五日に袋角を薬猟して、同時に鹿の子模様の毛皮を鞣して手に入れる方法をとらず、蝦夷が冬場に肉や毛皮を目当てに狩ることを指しているものである可能性がある。角は別に骨角器として利用されたのではないか。特殊品としてトロフィーを製作し、それがヤマトにもたらされたということかもしれない。
織田東禹「コロポックルの村」(部分)(水彩・額装、明治40年(1907)、東博展示品)
 第二候補に、トナカイが挙げられる。トナカイは斑点が明らかではなく、しかも、オスの場合には角が冬に入ると落ちてしまう。クリスマスに角を生やしてサンタクロースを導いているのはメスである。シカの仲間でメスに角が生える珍しい例である。シベリアからサハリン北部、カムチャッカ半島に生息しており、アイヌの人たちは毛皮を活用してトナカイと呼んでいるから、それがヤマトへもたらされていたことがあった可能性がある。
村上貞助筆・北夷分界余話、文化7年(1810)、国立公文書館展示品)
 第三候補として、大陸のシカがもたらされた可能性もある。もともと、ニホンジカは、大陸から列島へ人為的に連れて来られたという説がある。大陸のシカが、本邦にふつうに見られるシカよりも大きいのかどうか、これまた不勉強でわからない。また、シフゾウかもしれない。
シフゾウ(Tim Felce (Airwolfhound) “Pere David Deer” at Woburn Deer Park, Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/P%C3%A8re_David%27s_deer)
 いま、人の頭が「麋鹿」の頭部で作ったマスク(トロフィーのようにしたもの)に入るかどうか、被れるかどうかを問題にしている。応神紀に記される日向の諸県君牛が被ったそれは、記述に「唯以角鹿皮、為衣服耳。」と明記されているから、木製や乾漆製の動物仮面ではなく、実際のシカの頭部付きの毛皮であったに違いない。正倉院などにその類のものは何ら見られないが、皮革製品はとても残りにくい。しかるに、諸県君牛は日向からの再訪途中で播磨まで来た時、淡路島で狩りをしていた天皇に見つけられている。宮崎県のほうにエゾシカやトナカイはいない。キュウシュウジカはホンシュウジカよりも少し小さい。古墳時代から飛鳥時代にどうであったかについては動物考古学の問題となる。筆者は、彼がそれ以前に宮仕えしていた時の賜物として、エゾシカかトナカイかシフゾウの全身毛皮かトロフィーを頂戴していたのであろうと推測する。大事な賜物だから、髪長媛を献上するに際しても被ってきたという話ではないか。ホンシュウジカ、キュウシュウジカのなかでも大きなシカのことを「麋鹿」と呼んでいる可能性がないわけではないが、景行紀の記事も、駿河でその地の賊が日本武尊を欺くために語られた事柄である。「気は朝霧の如く、足は茂林の如し。」などという形容が使われている。形容が過剰である。雄略前紀の、「鹿」狩りに連れ出して暗殺する際の誘い文句にも、「其の戴(ささ)げたる角、枯樹(かれき)の末(えだ)に類(に)たり。其の聚(つど)へたる脚、弱木株(しもとはら)の如し。呼吸(いぶ)く気息(いき)、朝霧に似れり。」とある。生きている姿を見たことがない大きなシカを「麋鹿」という言葉で表わしていると知られよう。以上から、「麋鹿」はエゾシカ、トナカイ、シフゾウなどである蓋然性が高いといえる。そして、「麋鹿」の頭部だけの剥製を目にしたヤマトの人は、慣れ親しんでいるホンシュウジカに当てはめて考えたとき、不自然に頭の大きなもの、すなわち、ネコ型にして大きな頭を持つ、トラについて伝え聞くことによく似ていると感じられたのではないか。
だだおしの赤鬼(あべのハルカス美術館「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」展館外展示品)
 人は、人や擬人化可能性のある相手の特徴を顔に負っている。仮面の役目を強調するためには、頭部をすっぽり被うべく比重を大きくし、印象強くアピールする。神に近しい童子・童女の体型の化け物となる。頭にすっぽりと被る伎楽面の場合、5頭身になり動きも少なくなる。演技という面で制約が課されるが、存在自体が十分に演技である。それを目にしたヤマトの人たちにとって、伎楽の呉女や崑崙、酔胡従などは、いわゆるきもかわの唐様かぶれである。かぶっているからかぶれている。乾漆製のものなど漆にもかぶれている。だから頭部が腫れている。張りぼてである。言葉の上では理の当然の現象が起こっている。ゆるキャラは動きも緩く、子供っぽく感じられ、わざとらしい。伎楽では、聞き慣れない音楽に囃したてられ、ばかばかしいドラマが演じられる。見物客は、あれは異国のもの、ひょっとすると異界のもの、大げさで虎みたいなものと思ったであろう。騙されたと思ってお芝居を見ていればいい。それぐらいの適当さ、鷹揚さをもって受け取られたのであろう。お練り供養も騙されたようなものであるが、浄土教の思想や中将姫の物語など、いろいろな“心”まで複合させ、演技する人々の“心”のお芝居として永続したと考えられる。
(注6)白川1995.に、「四段。ねばり強さを与えるために、強い力を加えてきたえること。「ねやす」ともいう。糸・布・土・金属などの類に対して、加工するときにも用いる。またそのように、ものを強く握ることをいう。「ねり」はその名詞形。「ねりぎぬ」「ねりかね」はその加工したもの。「とねる」「くねる」「ひねる」はのちの派生語である。「ねらふ」は「ねる(徐歩)」の再活用形。気づかれないように、注意深く目的物をうかがうことをいう。」(594頁)とある。
(注7)tatemeoyaji2011様「20130302 浜松市動物園・アムールトラのミーの常同行動」https://www.youtube.com/watch?v=FFzJOrZNyag参照。
(注8)古代エジプトでは、紀元前2000年頃には、チターやライオンを狩猟や戦争に使うために飼っており、古代のインドでもライオンやヒョウ、トラ、ゾウが飼われていたとされている。Baratay and Hardouin-Fugier 2000.に、‘In the fourteenth century BC, the emperors of China collected animals from various regions and gathered them together in their palaces. In the ninth century BC, Emperor Wen-Wang established a park of 375 hectares ― called the Garden of Intelligence since it was thought of as a divine creation ― for hunting and fishing.’(17p)とある。Emperor Wen-Wangは、周の文王のことかと思われる。
 トラとはどのような動物であるかについて、ヤマトの人は朝鮮半島へ古墳時代にたびたび行っており、それで知ったと考える説も立てられよう。そこに、朝鮮語のタイラ→トラ説も立脚点を置くことができる。ウマがマ(馬)に頭音ウを冠して言いやすくした外来語であるとの考えにも近いものである。しかし、新しいヤマトコトバ、いわゆる和訓は、聞いた人がその“新語”を納得しなければならない。無文字社会ゆえの“頓智”があって分かり合えなければ、音声だけによる言葉は流通し得ない。外来語を記号変換のように利用できるのは、文字に慣れ親しんだ頭脳には容易でも、列島的範囲で決してピジン・クレオール的な環境下にはなかった人たちには難しいものと思われる。万葉語に「双六(すぐろく)」、「過所(くわそ)」といった漢語が見られ、朝鮮語であると確かにわかる語としては、紀に、「王(コニキシ)」、「王子(セシム)」、「太子(コヨシム)」ほか、官位に関する語が多くあるばかりである。それらは、特殊なればこそ面白がられて使われた例外である。
(注9)出口・竹之内・奥村・小澤2006.、出口2006.、竹之内・奥村・福永・向久保・実森・ジョンソン・本出2015.参照。
(注10)拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。江戸時代のお練り供養で介添え人がついているさまは、歌川芳豊・大念佛煉供養(花暦浪花自慢のうち)に描かれている(大阪eコレクション「錦絵に見る大阪の風景」の「大念仏煉供養」http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000007-00010229参照。)。
(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注12)『特別展 極楽へのいざない─練り供養をめぐる美術─』に載る菩薩面は、木造のものばかりである。お練り供養に用いられたお面は、時代的に言って乾漆のものはなかったと推測される。仏像の脱乾漆像も、八世紀までに限られる。筆者が乾漆技法にこだわるのは、ネルという語の二義性を統合的に把握する試みからである。副島氏の夾紵の解説に、中国で、「仏像を奉じて練り歩くための行道像」とあった。お練り供養の菩薩面のプロトタイプは、本邦では乾漆の伎楽面に求められるのではないかと推論している。伎楽面では、頭にすっぽりと被るタイプのお面に、法隆寺献納宝物の楠製は2㎏と重い。桐を使って軽くなるように工夫したもののほか、乾漆製によるものが正倉院や法隆寺に伝わっている。美術・工芸的研究は正倉院にて行われている。山崎・岡田2014.、山片2014.参照。実用・観念的研究は、“科学”ではないので進展に乏しい。
 乾漆像作成段階で、麻布製の漆塗りした張りぼてを一度切り離し、再び接合する際にペースト状の木屎漆は用いられる。当初、粘着力の強い麦漆で何層にも塗り貼りを繰り返していったん形が出来上がる。そのときの漆は接着剤とコーティング剤の機能を果している。原型であった塑土を掻き出したのち、新たに心木を入れて固定し、開口部を縫い閉じて木屎漆を塗る。それを“共練濃・共練粉(トネリコ)”とも呼べる「練物」を使って接合する。仕上げに必要なコーキング剤としての役割までプラスされている。ネリという言葉の素材が用いられることに、仏教に曰く因縁のある作業であるように感じられる。さらには、浄土教の練る行為とのつながりも見て取れる。それは、毛皮の仕上げの過程が、ヘラ(後に剪)を使ってタンパク質、膠質、脂質をきれいにこそぎ落とす作業が、鞣すという言葉で表されることと相同している。乾漆(夾紵)の技法も、漆を、ヘラや刷毛を使ってなめるように施したに違いあるまい。ねばねば感から、古語にナムという感覚であったであろう。
(注13)紙漉きにおいて、ネリという粘剤は重要とされる。増田2010.に、「粘剤の役割として、簀の水漏れ時間をコントロールすること、繊維同士の凝集を防いで分散を促し地合を良好にすることの、2点が指摘されているが、実験の結果からは、繊維層の簀上への定着にも大きな効果があることが確認できた。」(95頁)とある。紙を乾かす時に板に貼りつけ、剥がす時にも、ネリがあるのとないのとでは違いがあるのであろう。増田氏は、「漉桁の操作に関しては、東洋の手漉き紙では、簀の上を紙料水位が流れることにおいて共通しており、東洋に広く見られる技術的特徴と言える。しかし、漉桁枠を置いて、比較的長い時間紙料水を留め置いて揺動を繰り返して紙料水の流動を促し、良好な繊維配向を得ることについては、東洋の中でも日本に特徴的に見られる操作である。……現代の手漉き技術が奈良時代から連綿と続く技術であること、また日本の手漉き紙の特徴は、紙漉きの中でも特異的な、上枠にため込んだ紙料水を積極的に揺動させるところに、あると言えるのではなかろうか。そうであれば、この和紙の技術を揺動法即ち「揺り漉き」と呼ぶことを提唱したい。」(93頁)としている。
kougeihinjp様「漉く-越前和紙2/2」(https://www.youtube.com/watch?v=-f4ID_7NM1Uをトリミング)
 古代の紙漉きの技術について、溜漉きか流漉きかといった議論が行われている。言葉の感覚からすると、揺動させることで粘剤のネリがなくてもうまい具合に紙が漉ける技術は、熟練の技によるものであると想定することができる。つまり、漉桁枠の上手な動かし方は、練れた技術でネリである。漉桁枠を揺り動かすとき、簀上の繊維を確認するために顔を左右に面練るのは、溜漉きの技法かと思われる。紙漉きの漉枠の動きとトラのなわばり巡回活動、踊念仏のそれは、相似するということである。そして、熟練せずとも上手に紙漉きができる添加粘剤が見つかって、同じくネリと呼ばれ出したということであろう。同じことなのだから、同じ言葉で表す。言=事であるとする言霊信仰に適っている。なにしろ、ネリなる語は、ネル(練・錬)の連用形として成立していると考えられる。科学的に証明することはできないが、語学的には正しいと考える。推古紀に、紙と墨の伝来記事がある。

 十八年春三月、高麗の王(きし)、僧(ほふし)曇徴(どむてう)・法定(ほふぢゃう)を貢上(たてまつ)る。曇徴は五経を知れり。且(また)能く彩色(しみのもののいろ)及び紙墨(かみすみ)を作り、并せて碾磑(みづうす)造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始るか。(推古紀十八年三月)

 このときの技術がどのようなものであったかはわからない。墨を固めて形にするのに、共練濃=トネリコを使ったとすると、紙の粘剤にもトネリコを使ったかもしれないが、不明である。「并造碾磑」の碾磑が、水車による臼のことで、叩き潰すのに使われた可能性は残る。あるいは、むしろ、熟練の練れた技術を互換していしまう材料のことをトネリコと呼んで、タモという木から採れるので樹種の名もトネリコというようになったのかもしれない。

 「紙漉録」(大関増業編・止戈枢要(文化11年~文政5年))に、紙作りにおいて「ねり」を活用することが記されている。「又ねりといふもの布袋入、図のごとく船の片隅入置、折々志ぼり出しかき廻し、更に是に加減有事也。右ねりハ山より持来り上皮を削取、真ンの木と皮との間に白キ所有。其真白処を削取、袋ニ入、甚宜し也。木の肌山卯の木に類し卯の木に非ず。又作りねりと云あり。是ハ畑彼岸の比蒔置、其秋彼岸のごろ出来、もの也。花ハ夏中さくもの也。楮を入かき廻しねり袋の躰。」(寿岳2008.付録25頁)とある。
 トロロアオイの根によって作られるネリは、「作りねり」といい、山で採ってきた樹液由来のものは、「ねり」である。熟練者がその技量を以て首尾よく巧みにしなやかに作り上げること、それがネル(練)ことで、技術的に未熟な者でも、漉くときに入れると即席的に上手に漉ける魔法の粘剤、アンチョコ的な材料を、ネリと呼んでいたようである。

(引用・参考文献)
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※本稿は、2015年9月稿を2021年5月に加筆、改稿したものである。

お練り供養と当麻曼荼羅 其の一

2021年05月19日 | 上古・中古・中世・近世
 当麻寺は不思議な寺院である。伝来する仏像、遺物から七世紀後半に創始すると考えられている。塑造弥勒仏坐像を安置する金堂ならびに講堂が南面して建つ。その南に二つの塔があり、その間に門がありそうなもののその形跡はないという。向こう側は小高い山である。塔の相輪は八輪である。伽藍の東側の仁王門から入り、金堂などを通過して西進した先に現在の本堂、曼荼羅堂が建ち、綴織当麻曼荼羅を本尊とする。狭い伽藍に弥勒と阿弥陀の信仰が併存している。綴織当麻曼荼羅の発願者として中将姫伝説が伝わっているが、その実在は信じられていない。春には来迎絵、いわゆるお練り供養の行事が執り行われる。ここを発祥地としてお練り供養をする寺院が全国的に広がりはするが、その数は散見される程度である。
 本稿では、とりたてて宗教・宗派について検討することはない。用いられている言葉について理解を深め、当麻曼荼羅とは何か、お練り供養とは何か、その両者の関係性について一つの仮説を導き出すことを展望とする。

お練り供養についての現状認識と疑問

 お練り供養(迎講(むかえこう)、来迎会、迎接会(ごうしょうえ))がいつ頃から行われていたかについて、確かなところはわからない。文献としては、栄花物語(1024~1028頃)・巻第十五・うたがひに、「六波羅蜜寺、雲林院(うりむゐん)の菩提講などの折節の迎講などにもおぼし急がせ給ふ。」、大日本国法華経験記(1040~1044頃)・巻下・八三に、「弥陀迎接の相を構へて、極楽荘厳の儀を顕すせり。〈世に迎講と云ふ、〉」などとある。そして、古事談(1212~1215頃)・巻三・二七に、「迎講は、恵心僧都の始め給ふ事也、三寸の小仏を脇足(けふそく)の上に立てて、脇足の足に緒を付けて、引き寄せ引き寄せして啼泣(ていきふ)し給ひけり。寛印供奉それを見て智発して、丹後の迎講をば始め行ふ。云々」とある。これら文献と、仮面の残存物などから、発起人として源信の名が取り沙汰されている。關2013年a.は、「「迎講むかえこう」とは、後世「来迎会」「ねり供養」などと呼ばれる行事のもととなった野外・仮面・宗教劇で、恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が始めた。……この[極楽往生の]一連の描写を脚本として演じたものが迎講であり、絵画化すると〝阿弥陀聖衆来迎図〟となる。迎講は、命が尽きてから極楽浄土で目が開くまでの不安に満ちた旅、この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅の予行演習として、ベストセラー作家源信が考案したと考えられる。」(134頁)と断定している。源信という仏教パフォーマンスのプロデューサーによって、お練り供養という行事が新規に作り出されたとするのである。さらに、關2013b.に次のようにある。

 [岡山県牛窓の]弘法寺の行事は、先に見た木版画などに「踟供養ねりくよう」と書かれていることから、この名称が使われている。おもしろいのは、地元の方々が、この難しい「踟」の字を普通に誰でも読めると思っておられることで、行事の時期には「踟供養」と書いたのぼりがそこここに立つ。私が知る限り、現在もこの字を使っている所はほかに無い。しかし、一般によく目にする「練供養」は実は当て字(同音の漢字を借りた仮借)で、「踟供養」か「邌供養」が正しいのである。「踟」は、〝たちもとほる〟〝ためらう〟、「邌」は〝おもむろ〟〝ゆっくり〟という意味なので、迎講のゆっくり歩くという行為を的確に表している。當麻寺の行事をはじめ、歴史的にはこのどちらかが使われていた。弘法寺の行事は、[彦根のひこにゃんやディズニーランドのミッキーのような一種の着ぐるみで]阿弥陀像が出御されるという点でも、伝統的に忠実だが、名称の点でも伝統を守っているのである。(97頁)
 大和では、この時期に、[當麻寺のほか]矢田寺や久米寺でも同様の行事が行われ、それらも「れんぞ」と呼ばれている。さらに、この時期に神社で行われる行事もれんぞと呼ばれており、れんぞは、春の野に出てお弁当を食べる農家の休日、と理解されていた。つまり、このような骨休めの時期に合わせて、人々を阿弥陀浄土へいざなう行事が定着したと考えられる。れんぞの語源は、折口信夫説の「練道」ではなく、「連座」説を支持したい。(90~91頁)
 源信は、……阿弥陀仏の一行があの世からこの世へ死者を迎えに来る「来迎」の有様を戸外で演じ、「往生」のためのよすがにしようとした。それが、「迎講むかえこう」である。ちなみに、同じテーマを絵画化したものが「阿弥陀聖衆しょうじゅ来迎図」、通称「来迎図」である。(92頁)
 源信が始めた頃の来迎劇は、主役の阿弥陀仏も、脇役の聖衆(観音菩薩や勢至菩薩をはじめとするもろもろの菩薩や比丘のこと。後世は二十五菩薩と呼ぶことが多い)も面をかぶり、仲間同士で演じ合うような小規模のものだったが、次第に専門の楽人が加わって楽器を演奏するなど、規模が拡大した。開催目的が、自分たちが往生を確信するためのイメージトレーニング、いわば臨終の予行演習から、布教へと変化し、娯楽性も加味されたのである。(92頁)
 面を付けて橋の上を歩くのは危ない上に、菩薩に扮装した人の中には、「お迎え」を願って参加された高齢者もおられ、みな介添え人に手を引かれている。(102頁)
(お練り供養、当麻寺、1990年代)
 筆者の疑問は言葉にある。ネリクヨウ、レンゾといった言葉は、どこからか、誰からか言われ出し、続いている。源信一人が創作して広めようとしたとすると、宣伝効果を考え、キャッチフレーズは端的に一言でまとめられたはずである。「迎講」と呼んだのか、「来迎会」と呼んだのか、「迎接会」と呼んだのか、それを民衆に理解させるために「お練り供養」と訳したのか不明である。お祭りのタイトル名があやふやということにはならないであろう。当初は仲間同士で行う小規模なものであったとあるが、何によっているのか不明である。また、誰がどのように大規模化させたのか、どのような史料があるのか不明である。
 他の文献では、今昔物語集(平安末期頃)・巻第十五、丹後国迎講を始めし聖人、往生せる語(こと)第廿三に、「[丹後の国の聖人、大江清定と云ふ其の国の]守(かみ)に値(あひ)て云はく、『此の国に迎講と云ふ事をなむ始めむと思ひ給ふるを、己が力一つにては難叶(かなへがた)くなむ侍る。然れば、此の事、力を令加(くはへしめ)給ひなむや』と。」、また、拾遺往生伝(1111頃)・巻下・二六、永観伝にも、「これより先、中山の吉田寺において、迎接(がうせふ)の講を修せり。その菩薩の装束廿具、羅縠(らこく)錦綺を裁(た)ちて、丹青朱紫を施せり。これ乃ち、四方に馳せ求めて、年ごとに営み設けたるものなり。」とあり、とても準備が大変なことを物語っている。フェスティバル実行委員会をたち上げて、首尾よく手配を重ねないと、なかなか滞りなくはできない大行事である。源信というお坊さんが考えて実施した、と一括りで語ることは難しい。古事談の記事は鵜呑みにすることはできない。
 ネリクヨウの漢字について、踟供養、練供養のいずれが適正な文字であるかと発想し、踟は、踟躕、たちもとほることを表すからそれが正しいという考えは、逆言すれば、迎講のゆっくり歩くという行為をしか名称が表現しておらず、他の含みを残さない物言いに陥る。地域差、時代差はあれ、それらの文字をいずれも使っていたのが史実である。そして、漢字を体系的に読めるわけではない一般民衆のことを考えれば、ネリクヨウという音こそが注目すべき課題であろう。
 レンゾという言葉に至っては、民俗宗教との習合や、民衆の知恵のもつれのようなことがあったと想定しなければ、およそ現れない言葉であろう。レンゾという風習にかぶさる形でお練り供養は行われたか、あるいは、人々がお練り供養をレンゾと言い当てたその呼称であるとして考察する必要がある。語源説は反証が不可能なため、何を言っても許されるが、「連座」とは同席に連なり座ることも指すものの、令義解・獄令・公坐相連条に、「凡そ公坐相連(くざさうれん)。〈謂はく、律に依る。同司、公坐を犯す者は、即ち四等連坐に為(つく)れといふ。〉」とある。皆で休めば怖くないという屁理屈をもって春の休日の名に選んだと考えるのはあまりにセンスが悪い。日本民俗大辞典には次のように解説されている。

 奈良盆地を中心にして行われる春先の農休みのこと。れんどとも呼ぶ。地域によって日が異なるが、大体三月から五月にかけての特定の一日を休みとする。たいてい、その地域の寺社の祭礼に合わせてれんぞの日が決まっている。たとえば法隆寺れんぞは三月二十二日、おおやまとれんぞは四月一日、神武さんれんぞは四月三日、三輪れんぞは四月九日、お大師さんれんぞは四月二十一日、矢田れんぞは四月二十三・二十四日、八十八夜れんぞは五月二日、久米れんぞは五月八日、当麻れんぞは五月十四日である。これらはすべて寺社の祭礼の日に因んで広域にわたり、農休みとしている。特に当麻れんぞは、当麻寺にて二十五菩薩が極楽堂から娑婆堂へ行列する来迎練供養らいごうねりくようと呼ばれる行事がある。れんぞということばは、一説にはこの練供養のなまったものではないかといわれる。このれんぞの日、親戚に御馳走したり、餅や団子をこしらえて持って行ったりする。また、嫁入りした者は、夫や子供を連れて里帰りもする。また、この日の餅を「れんぞの苦餅にがもち」とも呼び、これからいよいよ水田の苦労が待ち受けているためにこう呼ぶ。水田の耕作が始まろうとする一つの節目で、このようにれんぞということばで明確に水田耕作の開始を意識する地方も珍しい。(814頁、この項、浦西勉。)

当麻曼荼羅についての検討

 当麻寺に関しては、当麻曼荼羅がとみに特徴的である。本尊の当麻曼荼羅(浄土変相図・観経曼荼羅)は綴織りに織られている。中国唐時代、八世紀の伝来品である可能性が濃厚とされる。尾形2013.に、「當麻曼荼羅が綴織りであることを追確認し、織組織を二十倍のマイクロスコープで観察調査して、正倉院裂と比較することによって、中国中原の優れた技術で作られた渡来品であると判断した。この、絹糸遣いが優れている絵画のように精緻な大型の綴織りは、八世紀の末頃に中国で製作され日本へ将来されたと考えられる。」(244頁)とある。浄土教自体は、中国では晋代に、廬山の慧遠(334~416)による白蓮社に多数の信奉者を得ている。仏典では、無量寿経・阿弥陀如来四十八願、来迎引接願、観無量寿経・阿弥陀如来十六願に、九品来迎が記される。浄土教の考えを図解した綴織当麻曼荼羅将来以降、当麻寺に、今日見られるようなお練り供養が行われるようになったとされている。ただし、いわゆる「お迎え」というものについて、信仰心や真偽を問うこととは無関係に、単にお祭り好きがお祭というだけで参加するという側面も強いと考えられる。この世からあの世への“引っ越し”(橋渡り)に関心を集約させられるほど、浄土教的な考えが一般に根づいていた、換言すれば、民衆の大多数が浄土思想に洗脳されていたとは考えにくい。皆がどっぷり浸っていたのなら、逆に布教目的の来迎図は要らないことになる。
 むろん、浄土教の思想、「厭離穢土、欣求浄土」の考えは流行っていたと認められる。おそらく、法華経も華厳経も流行っていたのであろう。そうなると、流行り廃りの問題であるとも思われる。死ぬのが嫌であるとか、怖いとか、地獄へ行くのは勘弁してほしいというのは肌感覚としてよくわかるが、病気や怪我、災害が今日とは比べ物にならないほど日常茶飯事であった時代にあって、極楽へ行きたいとは願っても、それは行ければいいのであって、その途中の“引っ越し”(渡り方)に焦点が絞られる点が腑に落ちない。「この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅」とは、死出の旅路、冥途の旅(last journey)のことであろう。ヤマトコトバのタビ(旅・羈旅)の原義は、それを含むものではない。last journey が練り歩くような鈍行である点も疑問である。今日のお盆行事に、馬に乗ってはやく訪れ、牛に乗ってゆっくり帰るといった程度のことであろうか。
 我が国に伝来した仏教においても、阿弥陀仏による西方(さいほう)極楽浄土以外に、弥勒菩薩による兜率天(とそつてん)浄土、釈迦による霊山(りょうぜん)浄土、維摩居士による妙喜(みょうぎ)浄土、観音による補陀落浄土などといろいろである。なぜ極楽浄土がもてはやされたかについては、多くの議論が行われている。それらの観念を受け入れて信じたかどうかについて、何を以て信じていたことの証左とするのかは実は確かではない。奈良時代以降に発願した写経は多く残り、それによって功徳を積むことになったとの見解もかなり正しいのであろう。しかし、字の書けない庶民レベルでどうであったか、知る由のないことである。
 もともとの民俗宗教で他界観に近い形のものほど、民衆にはわかりやすくて受け入れやすかったと推測されるが、それがはたして「常世国(とこよのくに)」と呼ばれるものであったのか、また、常世国とはどのようなものか、それもまた不明瞭である。記では、「少名毘古那神は、常世国に度(わた)りき。」(記上)、「御毛沼命(みけぬのみこと)は、浪の穂を跳(ふ)みて常世国に渡り坐し、」(記上)、「名は多遅摩毛理(たぢまもり)を以て、常世国に遣して、ときじくのかくの木実(このみ)を求めしめき。」(垂仁記)などとある。「常世」としては、「常世の長鳴鳥(ながなきどり)」(記上)、「常世の思金神(おもひかねのかみ)」(記上)などともある。また、皇極紀三年七月条には、アゲハの幼虫を「常世の神」と崇めた似非宗教の逸話が載る。万葉集では、万650番歌の「大伴宿禰三依の離(さか)りてまた逢ふを歓ぶ歌一首」に、「常世国」、万1740・1741番歌の「水江(みづのえ)の浦島の子を詠める一首併せて短歌」に、「常世」、「常世辺(とこよへ)」とある。それらが、今日一般にいわれる“あの世”のことなのか、よくわからない。時間はかかっているが、還ってきてしまっているからである。

 田道間守(たぢまもり)、是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰(まを)さく、「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかくに)に往(まか)る。万里(とほ)く浪を蹈(ほ)みて、遥(はるか)に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。是の常世国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以て、往来(ゆきかよ)ふ間に、自づかに十年に経(な)りぬ。豈期(おも)ひきや、独り峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)本土(もとのくに)に向(まうでこ)むといふことを。然るに、聖帝(ひじりのみかど)の神霊(みたまのふゆ)に頼りて、僅(わづか)に還り来(まうく)ること得たり。……」とまをす。(垂仁紀九十九年明年三月)

 多遅摩毛理(田道間守)の「往来」とは、journey ではなく、travel なのであろうか。これを脚本とした橋渡り行事は、管見にして不明である。行って還ってくる逸話には、お練り供養と共通点があるような気がしないでもない。
 五来2010.では、「迎講というのは、はじめは生きた人の長寿と健康と安楽死と、そして死後の往生を願うものであった。これが浄土教の浸透とともに死者の往生だけになり、近世・近代にはショー化してしまった。……大和の人々が「当麻のレンゾ」に物に憑かれたように集まっていくのも、この古い迎講の擬死再生に結縁して現世の幸福や来世の安楽をねがった、祖先以来の心意伝承にうながされたものと私は見ている。」(150頁)、五来2008.では、「従来、恵心僧都が始めたとか、丹後天橋立の普甲寺の僧がはじめたとか、二河白道が元であるとかいわれたこの儀礼も、その源は日本固有宗教の山岳信仰にある。たまたま当麻寺には当麻曼荼羅があったためにこれが浄土教化して、迎講の形をとったのである。しかしその宗教意識はあくまでも擬死再生で、いまも厄年のものが菩薩の衣装と面をつけて橋がかり往来すれば、厄が落ちるという滅罪信仰がある。これが平安時代には曼陀羅道にはいって蓮座に乗って坐り、光背を立ててもらえば、「往生した」という擬死儀礼を表現したとおもわれる。これを平安時代と推定できるのは、発見された多数の蓮座と光背が、平安中期または末期の様式をもっているからにほかならない。しかしここで光背が擬往生者の背に立てられたのは、むしろ山岳信仰で教理化された即身成仏の表現ではなかったかともおもわれる。」(67~68頁)としている。さらに、五来2013.には次のようなまとめがある。

 当麻寺には白鳳の仏像、天平の建築や曼荼羅があるのに、藤原時代の文献にあらわれない不思議な寺である。藤原時代に入れば外護者の当麻氏はおとろえたが、それに代る支持者がなければ、鎌倉時代まで存続することはできなかったであろうし、いわんや現在われわれがこの寺や曼荼羅を見ることはなかったであろう。その支持者はおそらく記録をのこさぬ聖(ひじり)や庶民であったらしく、その信仰の遺品とおぼしきいものが曼荼羅堂の屋根裏にのこっていた。それらは、平安中期と推定される立像用船型挙身光背六十面と、坐像用挙身光背十面と台座三十台ほどであった。これらには枘穴(ほぞあな)がないので仏像の光背や台座でないことはあきらかである。文字がついてないから、その形態や類似の儀礼から類推するほかはないが、これを当麻寺の迎講(むかえこう)と関連づけるならば、往生者または成仏者がこの上に坐る儀礼があったことを想定される。……平安中期の光背と台座は、橋掛りをわたって曼荼羅堂へ入った信者が、蓮台座に坐り、光背を立てられて往生者となる儀礼にもちいられたものであろうと思われる。これは逆修(ぎゃくしゅ)という儀礼に相当するもので、生きているあいだに一旦死んだことにして葬式供養をおこない、それから再生すれば、一切の罪穢は消滅して、健康で長生きするばかりでなく、死ねば往生疑いなしという信仰であった。私はこれを擬死再生(ぎしさいせい)儀礼と名づけているが、迎講では彼岸に極楽浄土がなければならないので、曼荼羅堂や阿弥陀堂がこれにあてられたのである。(43~44頁)

 この議論について、「常世国」との関係から魅力を感じるものの、その信憑性は定かでない。お練り供養の行列がもともと、本堂、娑婆堂のどちらを出発点にしてどちらを折り返し点にしていたのか、記録にわからない。
 いずれにせよ、諸々総合して考えると、源信一人の手によってお練り供養が創作されて人々の間に定着していったとする言説はやはり怪しいと言える。人々の価値観、世界観が一世代の間にドラスティックに変わる現代とは違い、また、カルト宗教でもなさそうなので、かりそめにも他界観を含んだ宗教劇がすぐに馴染んでいくとは考えにくい。生真面目な考察は何でもありの当麻寺にはそぐわないように思われる。お練り供養のような劇場参加型の村祭りを企画したら、面白いから来年もまたやろうということになった、という程度の自然発生的な経緯を含めて考えるべき事柄ではないか。何かしら人々に“受ける”ドラマと思われたから、お金を払ってまで演じたいと感じられたのであろうし、しらけることもなく連綿と続けられてきたのであろう。宗教哲学を大上段に振りかざして国分寺・国分尼寺跡が各国に残った、というのと異なり、なぜか列島のなかに点々と残っているばかりの不思議なお祭りである。人々に何が受けたのかが、探求されてしかるべき要点である。おもしろいと思われるに最大の特徴は、頭にすっぽりとお面を被ることにあるのだろう(注1)

当麻曼荼羅図をめぐって─ナムとしての理解へ

 当麻寺に関しては、宗派が真言宗と浄土宗の並立になっていることや、開山が聖徳太子の異母弟の麻呂古王と伝えられている点、金堂にはみごとな弥勒仏坐像が安置され、奈良時代建立の東塔、奈良~平安時代建立の西塔がそびえるなど、整理のつかない点が多い。本尊の綴織当麻曼荼羅は、観無量寿経を絵解きした変相図であるとされている(注2)。中央に阿弥陀浄土図、左端に韋提希婦人(いだいけぶにん)が釈迦に極楽浄土を願う物語(序分義)、右端に極楽浄土を阿弥陀如来を観想するための十三の方法(定善義)、下端に生前の行いによって分かれる九品九生の極楽浄土(散善義)ならびに縁起文が描かれている。唐代の善導(613~681)の著した観無量寿経疏の考えと一致するとされている。周囲にめぐらされたコママンガがそれを示している。主眼は絵解きにあるのではなく、阿弥陀浄土を観想するための曼荼羅である。すなわち、実際に死んでいく際に「お迎え」が来るところを表した阿弥陀来迎図、山越阿弥陀図、二十五菩薩来迎図などとは絵のモチーフが異なる。来迎引接の劇的な瞬間を描いて強くアピールするものではないのである。お面をかぶって行列して行うパフォーマンスと、直接にはつながらない曼荼羅ということになる。
 日本美術全集の解説文に、「日本では浄土教の広がりとともに、観経変の中でも九品往生の説話が大きく取り上げられて来迎図(らいごうず)として発展したが、やがて鎌倉時代に入り、浄土宗西山派の証空(しょうくう)(1177~1247)などがこの当麻曼陀羅の存在を大きく取り上げて宣揚し、図像解説書や『当麻曼陀羅縁起』なども作られて、再び大いに流布転写されるようになった。」(221頁、この項、百橋明穂)と指摘されている。縮刷版が出回った。お練り供養を跡づける来迎図と、当麻曼荼羅図とは、歴史的に見ても図像として別の流れである。来迎の考えに縛られることなく当麻曼荼羅は拝まれていたに違いあるまい(注3)。そこへにわかに迎講が行われることとなった。そう考えると、レンゾという言葉は蓮華座をいう「蓮座」説もありうることになるが、筆者の関心の中心は漢字音にではなく、ヤマトコトバの音にある。
当麻曼荼羅図と、その向かって左側の「樹下会」部分(鎌倉時代、14世紀、東博展示品、人見楽子氏寄贈)
 この当麻曼荼羅図をよくよくみると、とても四角い。周囲はコマ漫画である。人見楽子氏寄贈東博本(列品番号A-1141)の場合は、さらにその外側に結縁者の記名欄もあるが、右側途中で終っている。中央の一全体図は、智光曼荼羅や清海曼荼羅と呼ばれる浄土変相図の類種ではあるが、中央の阿弥陀三尊像の、まわりに控えている三十四菩薩像の描かれ方が気になる。たくさんの菩薩が描かれていてとても賑やかである。菩薩たちの姿は、三尊同様、お顔やはだけた上半身は黄金色に塗られている。綴織当麻曼荼羅の金糸使いを、金泥を使って模写したところが当麻曼荼羅図の新しさなのであろう。頭髪や着衣、輪郭、背景はそれに対比して暗色に描かれており、全体的にみると縦縞模様になっている。菩薩たち一躰一躰は顔を右に左に向け、また、上体までも傾けくねらせており、互いに話をしている様が動的に描かれている。倶会楽を表しているのであろう。その結果、三尊の周りを黄と黒の縦縞模様の頭を振り振りしているトラが周回しているように見えてくる。ヘレン・バンナーマンの『ちびくろサンボ』では、トラが椰子の木の周りを回ってバターができたという話になっている。
 当麻曼荼羅は、極楽浄土を観想するためにある。観想することで、極楽往生のよすがになると考えられている。さらに簡便にした浄土教の思想、信仰は、南無阿弥陀仏という六字名号(ろくじのみょうごう)を心に思い、口で唱えることである。念仏を行えば極楽往生できるとされている。「南無(なむ)」とは、それにつづける対象に、心から帰依して身も心もおすがりすること、帰命(きみょう)することである。霊異記・上・第三十に、「観音の名号と称礼して曰く、『南无(なむ)、銅銭万貫、白米万石、好き女(をみな)多(あまた)、徳施せよ』といふ。」とある。今日でも、お仏壇の前でナームーと手を合わせてお参りしている。この南無習慣こそ、一般民衆を含めた多くの人々にとって、日本浄土教の真髄ではないかと筆者は考える。すべてはナムの話なのではないか。
 ナムという語は、上代に、並(竝)の意と、嘗(舐)の意とがあった。並(竝)の用例は、万葉集に、「舟並(なめ)て」(万36)、「馬並て」(万239)、記に、「たたなめて」(記14歌謡)といった例が見られる。嘗(舐)の用例は、推古紀に「塩酢の味(あぢはひ)、口に在れども嘗めず。」(推古紀二十九年二月)などとある。当麻曼荼羅の菩薩たちは並んでいるし、宴会を催していて飲み食いしているようでもある。どうやら、ナムとは、酔っ払っているように頭を左右に揺らすトラ、それは、ネコの小さな体に大きな頭のついた動物についてよく表している言葉のようである。酒を嘗めるように呑み、肴を舌なめずりする。
ネコの水飲み(99girsl様「猫が水を飲む時の様子がよくわかる動画」https://www.youtube.com/watch?v=elEtwpWMNkIをトリミング)
 そしてまた、ナムという語は、皮をなめす(鞣・滑)という意味にも使われたのではないか。鞣し革の技法は、現在では薬品処理にて行われているが、のび2009.によると、「獣皮加工の要点は(イ)腐敗防止 (ロ)柔軟化 (ハ)収縮変形防止にある。化学的には皮蛋白(コラーゲン蛋白質組織)の安定化、すなわち①膠質の除去、②脱脂にあった。しかしながら……前近代日本の皮革業は、今日でいう語の正確な意味での鞣しは部分的にしか成立せず、専ら獣皮組成を物理的に加工(叩く・擦る・揉むの繰り返し)することをもって鞣しと呼んできた(「皮革業」『部落史用語辞典』)。これらをも鞣しと呼んでいいとすれば中世皮革の鞣し技術の一般的到達点は……板目皮[生皮(きがわ)]作りであったということができるのである。」(56頁)。「現在の視点をもって生皮と鞣革を峻別しておかなければならない。広義の鞣しを段階を追って示せば①腐敗防止 ②不可逆性(革が皮に戻らない) ③軟化処理 ④鞣製の四つがある。現実には毛皮と脱毛皮、染色工程なども不可欠なものとして加わるので、種々の組み合わせが起きるが、原理としては右の四段階を考えることができる。「生皮干皮」は①②段階を経たものと位置づけられる。またそれで当時の牛馬皮需要の要求に応えられるものであった」(273頁)とある。鎧に大量に使用される小札作りには、生皮を藍染め・燻し・漆塗りした。色付けのための二次加工が、結果的に皮の鞣し工程に含まれてしまうことになっていたとされている。
 仁賢紀、養老令や延喜式には次のようにある。

 六年の秋九月の己酉の朔の壬子に、日鷹吉士(ひたかのきし)を遣して、高麗(こま)に使して巧手者(てひと)を召さしめたまふ。……是歳、日鷹吉士、高麗より還りて、工匠(てひと)須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)等を献る。今、倭国の山辺郡の額田邑(ぬかたのむら)の熟皮高麗(かはをしのこま・にひりのこま)は、是れ其の後なり。(仁賢紀六年条)
 凡そ官の馬牛死なば、各皮、脳(なづき)、角、胆(い)を収(と)れ。若し牛黄得ば、別(こと)に進(たてまつ)れ。(養老令・厩牧令)
 牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛を除(おろ)すに一人、膚肉(たなしし)を除すに一人、水に浸し潤し釈(くた)すに一人、曝(ほ)し涼(さら)し踏み柔(やわら)ぐるに四人。皺文(ひきはだ)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、樫の皮を採るに一人、麹・塩を合せ和(か)ちて染め造るに四人。鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍(たなしし)を除し、浸し釈すに一人、削り曝し、脳(なずき)を和(か)ちて搓(たも)み乾かすに一人半。皂(くり)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟(くすぶ)るに一人、染め造るに二人。(延喜式・内蔵寮式)
 韉(したぐら)裏馬革〈表皮に准へ寮に在る者を用ゐよ〉。馬皮を熟す油〈枚別一合三尺、主殿寮に請へ〉。(同・左右馬式)
 革を作る料、油一合、塩三合、糟三升。(同・内匠寮式)

 小林1962.や前沢1976.、永瀬1992.、松井2003.に、脳漿鞣しの技術が行われていたことが述べられている(注4)。油鞣しもあったことが延喜式記事からわかる。何の油かは未詳である。
 筆者は、今、大きな頭をした虎の毛皮の鞣しについて考えている。脳漿鞣しが行われて脳が鞣しに使われた。そのことから推測すれば、頭骨ともども取られて空洞になった毛皮、虎のトロフィーができている。

頭の大きな被り物

 飛鳥時代のヤマトの人たちは、毛皮、皮革を利用している。応神紀に、鹿子水門(かこのみなと)の地名譚と日向(ひむか)の諸県君牛(もろがたのきみうし)の女(むすめ)髪長媛(かみながひめ)貢上譚との合体説話が割注形式で記されている。

 時に天皇、淡路島に幸して、遊猟(かり)したまふ。是に、天皇、西(にしのかた)を望(みそなは)すに、数十(とをあまり)の麋鹿(おほしか)、海に浮きて来たれり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其(かれ)、何(いか)なる麋鹿ぞ。巨海(おおうみ)に泛びて多(さは)に来る」とのたまふ。爰(ここ)に、左右共に視(み)て奇(あやし)びて、則り使を遣して察(み)しむ。使者(つかひ)至りて見るに、皆人なり。唯だ角著(つ)ける鹿(か)の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰く、「誰人(たれ)ぞ」といふ。対へて曰(まを)さく、「諸県君牛、是れ年耆(お)いて、致仕(まかりさ)ると雖も、朝(みかど)を忘るること得ず。故、己が女、髪長媛を以て貢上(たてまつ)る」とまをす。(応神紀十三年三月)

 この記事を素直に読めば、角のついた鹿の頭部を含めた毛皮を被り着ていたということになる。地球は丸いから、岸から少しばかり離れると、海に少しばかり浮かぶ船の姿は見えなくなり、船上の麋鹿の上体の姿だけしか見えず、泳いでいるように見えたとして何ら不思議なことはない。動物の毛皮を剥いで、腐敗防止や軟化処理する鞣し技法が古くから行われていた。そして、諸県君牛という人は、「牛」は地方長官の「大人(うし)」の意であろうが、牛が麋鹿に代わることの面白さを逸話に含ませている。麋鹿とあるのは、第一に、ヤクシカのような小型の鹿の頭部では人は頭に被れないからであろうし、第二に、頭が体に比して大きかったことを示唆するものでもあろう。被り物の様子を指しているらしい。つまり、被り物のご当地キャラクターのようなものになっている。体に比して頭が大きくなっている(注5)
 ヤマトの人は、牛馬鹿などの死体から毛皮、皮革を作り出して利用している。人間は同じ動物の仲間と思いつつ、家畜として使役する。かわいそうな気持ちがあるから、六道に畜生道は下位に位置づけられている。ナームーという気持ちになる。言葉として適っている。ただ、鞣しに関しては、特殊技能集団の民俗語であるし、皮肉なことに、仏教の殺生の戒律との関係から、タブー視されたり、その職業が視される傾向があり、文献にほとんど見られない。新撰字鏡に、「啜 士悦反、入、又市𦭁反、去。嚼也、奈牟(なむ)、又阿支比利比(あきひりひ)」とある。
 皮を鞣すことは、別の語で、ネル(練・錬・煉)ともいう。このネルという語は、①絹・木・皮・金属をしなやかになめらかに使い勝手の良いようにすることと、②練り歩く意味とが兼ねて用いられている。鍛錬と徐歩との関係を一つの語に含めて了解する背景は、管見ながら、これまでのところ指摘されているようには見えない(注6)
 筆者は、トラ(虎)をもって、鍛錬と徐歩との通義を理解する。トラという動物は、本性としてなわばりを確かなものとするために、あの縦縞模様(動物学的には横縞)を揺らしながら、同じ道を行ったり来たりする(注7)。檻に入れられると狭いために他にはけ口がなく、常同行動と呼ばれる行動になる。ヤマトの人たちは、中国や朝鮮半島の人たちからトラの様子を聞き知っていたのであろうが、彼らのトラ観は、トラを檻に入れて観察したところによる点も大きかったと思われる(注8)。論語・季氏に、「虎兕(こぢ)柙(かふ)より出で(虎兕出於柙)」とあり、白川1985.に、「饕餮は虎を文様化した、左右の展開図である。……金文の図象に虎形を用いるものがあるのは、古く虎の飼養に関与した部族がいたのであろう。」(275頁)とある。万葉集には、「…… 韓国(からくに)の 虎といふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……」(万3885)、また、紫式部日記に、「宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀(みはかし)小少将の君、虎の頭(かしら)宮の内侍とりて、御さきにまゐる。」とあって、産湯に浸かる時の無病息災のおまじないに、虎の頭の毛皮か張りぼてのようなものを使っている。
饕餮文甗(青銅、中国、西周時代、前11~10世紀、東博展示品、坂本キク氏寄贈)
 トラはネコの仲間であるが、頭と体の比率がネコよりも大きく感じられる。右に左に頭を振りながら、すなわち、オモネリ(阿、面+練)ながら往還する。縞模様の付き方が顔の部分と胴体とでは異なるので、お面を被っているように感じられる。お練り供養で二十五菩薩が、橋の上を獣道のごとく往還するのと対照される光景である。天武紀朱鳥元年四月条に、新羅からの調に、「虎豹皮(とらなかつかみのかは)」が入っている。輸入されて珍重されていた。トラの毛皮は見事なデザインである。敷物として、また、馬具の障泥(あおり)にもよく用いられた。行きつ戻りつするところから、きちんと帰って来られるようにとのお呪いの意味もあったのではなかろうか。続日本紀に、「文武(ぶんぶ)百寮(ひゃくれう)六位已下、虎・豹・羆の皮と金・銀とを用ゐて、鞍の具、并せて横刀の帯の端に飾ることを禁(いさ)む。」(霊亀元年(715)九月己卯朔日)とある。正倉院には、熊の毛皮で作られた障泥や、海豹(アザラシ)とされていたがそうではなくてネコ科のトラやヒョウではないかとの意見のある毛皮を使った韉などが残る(注9)
戟に逃げ惑う虎(画像石、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
虎の毛皮(犬追物図屏風、桃山時代、17世紀、東博展示品)
村上貞助筆、東韃地方紀行から「舩廬中置酒」(文化8年(1811)、国立公文書館蔵展示品。左上のクマ毛皮上の人物が間宮林蔵。ほか華人(?)はトラの毛皮に座る。)

トラという言葉

 虎(とら、トは甲類)というヤマトコトバは、トラという生物を実見しないままに名づけられている。毛皮の輸入品を目にし、どういう生き物であるか、その大きさ、鳴き声、生態を話に聞き、虎(コ)と伝えられたにも関わらず、ヤマトの人は、トラと命名している。語源をめぐっては苦しい解釈が行われている。吉田2001.に、「トラ(虎)は、朝鮮から中国周辺部にかけての大陸語で、それが日本に伝わり、古くいわれたタイラを和語で解釈するようになった。すなわち、獲物に忍び寄ってぱっと捕らえる猛獣をトラ(取ら)だと考えたのは、猫をトラといったり、蠅取りグモをトラといったりする地方があることからも類推できるという。朝鮮語起源の語に日本的解釈を施した二重構造の語源説を認めざるをえないであろう。」(173~174頁)とある。tiger → タイラ → トラ & 取ら、という説らしい。
 筆者は、トラ(虎)という語は、トネリ(舎人)同様、いわゆる和訓であると考える(注10)。名の由来としては、蕩(とら)かせるものとしてトラと名づけられたのであろう。トラク・トラカス(蕩)には、①ばらばらになること、金属などを高熱によって溶解すること、②惑わされて本心を失わせたり、心をやわらげてうっとりさせたり、舌に甘く感じておいしいときの形容にいう、の二義が挙げられている。ネル(練・錬・煉)に見た二義の兼ね合わせとよく対照している。新撰字鏡に、「仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留(わかる)、又止良久(とらく)」とあり、神武紀には意味深長な例が載る。

 初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月)

 トラ(虎)は、銅鑼(どら)のように驚くほど大きな声を発し、凶暴に襲い掛かってくるが、ふだんは行ったり来たりを繰り返している。そして、ネコ型ロボット以上に頭が大きくて、左右に阿っている。酔っぱらいのことをトラと称するのは、通説にいう動物の名から取られた語ではない。酔っぱらいの左右に頭を揺らし倒しながら大声をあげてみたり、喧嘩っぱやくなったりすること、それは蕩(とら)けている状態である。酔っぱらいをトラという語に譬えたのが先で、それを後からよく似ていると伝えられたので動物のコ(虎)に当ててみたということであろう。左右にかしげている当麻曼荼羅の菩薩たちの描かれ方とは、大宴会の席の酔っぱらいとも、虎の皮毛の縦縞斑模様とも同じである。菩薩の肌の黄金色と、それ以外の暗黒色との縦縞が阿っている。そして、口のなかで味わうときに舌を使ってぐるぐるっと回す仕草をするのは、ナム(嘗・舐)でも、ナメス(鞣・滑)でも、トラカス(蕩)でもある。今日でも、とろけるマグロの大トロを、なめるようにして食べ、左手には酒杯を抱きながら、俗人は同じ口で、ナム(南無)と唱えて極楽往生を願っている。ナムの音は、嘗めるような口使い、舌使いで発せられる。お練り供養で菩薩のお面を着けるなり被るなりすると、頭の大きさが身体に比べて一回り大きくなる。気持ちまで大きくなってネコがトラになるわけである。そして、連なって、ナム(竝・並)ことになっている。すなわち、ナム(竝・並・嘗・舐・鞣・滑・南無)という語も、二義を兼ね合わせて成立している。食レポの起源は、お練り供養(迎講・来迎会・迎接会)にある。
 源氏物語・鈴虫に、「うしろの方に法花のまだらかけ奉りて」とあるマダラは曼荼羅の音便脱落である。法華曼荼羅は、霊山で法華経を説く会座を図示した図で仏菩薩が蓮華の開いた形に配されている。曼荼羅は斑(まだら)模様と見立てられているのであろう。推古紀二十年是歳条に、「斑白(まだら)」、「斑皮(まだら)」、「白斑(しろまだら)」とある。虎の毛皮は縦縞斑模様としてとても素敵である。和名抄に、「斑瓜 兼名苑に云はく、虎蹯、一名、貍首〈末太良宇利(まだらうり)〉は、黄斑文瓜也といふ。」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗名は字の如し、本朝式に斑の読みは万太(図書寮本名義抄により「不」字を「太」の誤りと見る通説に従う)良万久(まだらまく)〉は帷幔也といふ。」などとある。幔については、運動会や卒業式で用いられる紅白幕や、歌舞伎の定式幕のように、縦のストライプが続くものをいう。斑瓜という語は、新来のスイカに取って代わられてほとんど見られなくなっている。ほかには、地層や貝殻文、マダラカマドウマ、アサギマダラに垣間見られるものの、今日でも規制線に用いられるほどインパクトのある黄色と黒色の縞々は、虎柄を措いてほかにない。筆者は、両界曼荼羅図ほかにではなく、当麻曼荼羅図に黄色い菩薩の並み座る、あるいは来迎図に並み進む様子にこそ、マダラのマダラたる本質として虎の縦縞斑柄、虎斑(とらふ)を見出す。「とらふ(捕・捉)」である。本邦において、儀軌を離れて曼荼羅という言葉が多様に用いられた理由の一端は、マダラという音による連想にあるのであろう。
 お練り供養を行う日を、奈良盆地にレンゾといった。「久米レンゾ」(久米寺)、「釜の口レンゾ」(長岳寺)、「松尾レンゾ」(松尾寺)、「多レンゾ」(多神社)などが知られている。ラ行始まりの言葉が飛鳥時代に遡るとは通常説明しづらく、「練道」説、「連座」説、また、「蓮座」説があげられる。しかしながら、なお、頭音の脱落形かもしれない点を指摘しておきたい。漢語ではなく、ヤマトコトバに起源する可能性である。お練り供養は春の農休み一般を包含するものではないが、お練り供養から言葉が生れたと仮定するならば、怠け者の節供働きを戒めるところから生れたのかもしれない。すなわち、きちんと休まなければ、稔りの秋になっても穫るものもトラレヌゾと言って、トラを略してレヌゾとなり、レンゾに音便化した。掛詞の戒め語とする戯れである。稲架の様子は、遠目に見れば、トラ(虎)の縦縞模様に見える。大切なもののことをいう虎の子、すなわち、舎利(米粒を含んだ籾)を懐いている。筆者は、稲架はトネリコとの関係から、須賀の宮に垣根、釘貫と同様と見、仏教に伝え聞く欄楯の譬えではないかと提起している(注11)。その際、回廊化して櫺(連子)窓をもつようになったことも指摘した。レンジとレンゾは音がよく似ている。
稲架(キヌヒカリ、生田緑地。左へ進むトラに見える。)
アムールトラ(シズカ号、多摩動物公園)
旧山田寺回廊復元連子窓の様子(飛鳥資料館)
 我々はここに至って、重大な事実に気づかされる。当麻寺にはレンゾはあるが、レンジ窓がないのである。古代の大寺院、飛鳥寺、山田寺、斑鳩寺、また、白鳳期の東大寺、各地の国分寺に見られる回廊を持たない。金堂、講堂、二つの塔、鐘楼、山門を抱えながら、それを取り囲むべき回廊がない。山懐に抱かれるばかりである。これこそ、実は、当麻寺の最大の不思議さなのかもしれない。「伽藍(てら)」(孝徳紀大化五年三月・白雉元年二月)になっていないということである。その代わりと言っては何であるが、レンゾが行われることになって近在の人々は参集している。すなわち、レンゾが行われ始めたのは、語学的には、曼荼羅堂が建てられて当麻曼荼羅が祀られる以前からのことであったと考えられるのである。和名抄に、「櫺子 四声字苑に云はく、櫺子〈郎丁反、字は亦、櫺に作る。礼迩之(れにし)〉は窓の櫺子也といふ。考声切韻に云はく、欄檻及び窓の間子也といふ。」とある。虎の練り歩きのようなお祭りを行うのは、伽藍を囲まれずに囚われていなくてもそこがテラ(寺)であり、トラの養生地であると確かめることでもあった。
 当麻寺のお練り供養が春の水田稲作農耕の始まりの前日に行われるのは、秋の豊作、稲架の並んだ姿を二十五菩薩の連なりのうちに思い描いたということなのではないか。農作業の終わった翌日に実見できるものである。米粒を嘗めること、つまり、新嘗祭の予祝として、レンゾは存在したということになる。米は蒸して食べられていたのか、炊いて食べられていたのか意見が分かれているが、ジャポニカ種の粘り気のあるものの話で、バターの話に似てねばねばしていて、ナム(嘗)と表現されて然るべきものと感じられたようである。仏教の浄土信仰のパフォーマンス、お練り供養とは、欄楯、稲架ともに、内に舎利を秘めたものである。民俗の観念、知恵との合作であったらしい。状況から言っても、ひとり源信に負うものではなかった。当麻寺のそれに中将姫が出てきたり、弘法寺の迎講に阿弥陀仏像本体が動いたり、バリエーションに富むのは、それぞれの地方のそれぞれの人びとが、それなりの信仰、伝承、アイデアをもって適宜臨んできたことを示すものである。
 なお、奈良盆地の西の山に当たる信貴山の張子の虎については、その縁起が著名である。聖徳太子の毘沙門天の話である。時代的にすべて飛鳥時代に遡るもので、お練り供養とは別の思考、観念の産物によって虎が登場していると考えるのが穏当である。それでも、張子である点に関しては、共通点を見出すことができる。お面を被って歩くと介添え役「と練り」歩く結果となる(注10)。それとともに、そのお面は、軽量化が図られなければならない。自然と、張子、張りぼてが求められることになる(注12)。仏像の制作技法として、奈良時代を盛期として乾漆像が多く採用された。日本美術史事典の「乾漆」の項に、中国での乾漆技法、夾紵(きょうちょ)についての解説に、「夾紵像は石、塑、金属像と比べて軽量であり、そのわりに耐久性に富む。漢代以来の伝統的な夾紵技法が、仏像を奉じて練り歩くための行道像や皇帝の偉業を記念する等身像の製作に用いられたことは、目的にかなった合理的な技術の採用であり、これらに夾紵像発生の一因が求められよう」(216頁、この項、副島弘道。)とある。そして、日本の乾漆仏像の技法として、「この[法華堂金剛力士の乾漆像製作途中、その張子像の]表面を漆に細かい植物繊維(杉の葉をついた抹香かともいうが不明。現在ではヒノキの挽き粉を用いる)を混ぜてペースト状にした木屍冠に木屎漆(こくそうるし)を用いて塑形する。」(217頁)としている。
 ペースト状の木屎漆とは、ヤマトコトバで表現するなら、練られた漆ということになる。ねりかね、ねりぎぬ、などと同じである。新撰字鏡に、「錬 力見反、練字同、又鐗二字同。▲(金偏に㔫の下に日)也。冶金也。䤻也。祢利加祢(ねりかね)」、和名抄に、「練 蒋詞切韻に云はく、練〈郎旬反、祢利岐沼(ねりきぬ)〉は熟絹也といふ」とある。乾漆の仏像、伎楽面の充填材料に用いられている黒褐色の何かを混ぜた漆については、「これとよく似た性質をもつ充塡材料としては、東寺兜跋毘沙門天像、同観智院五大虚空蔵菩薩像、清涼寺釈迦如来像その他の中国から舶来されたの木彫像に多く用いられている「練物(ねりもの)」の例がある。……法隆寺伎楽面の製作年代が大陸からの影響力の強い時期であったことを考えると、それに用いられた漆地粉が、日本製の「練物」として新たに造り出された可能性も、一概には否定はできない。」(中里1994.256頁)とのことである。ネリモノといっても蒲鉾の類ではないが、よく似た感触があるから同じ言葉に収められている。言葉とは、そういうものである。
 他にも、紙を丈夫にするサイズ剤として、和紙には、ねりが加えられた。広辞苑に、「ねり【粘剤】和紙の流し漉くきのため、紙料に混ぜる植物粘液。繊維を均等に分散して漂浮させ、美しく強い紙を造るのに有効に作用する。粘液を抽出する植物は主としてトロロアオイとノリウツギ。」(2179頁)とある。このネリという粘剤の利用について、また、古代の紙漉き技術一般については、さまざまな議論がある(注13)
 いずれの場合も、特殊、魔法的なネリを加えることにより、材料は、人々の利用にとってしっくりきてすばらしいものに仕上がっている。つまり、仏像や浄土思想、行道面、お練り供養なども、よく練られた、巧みに構成された、うまくできたモノであり、コトであったことを語っている。現実の虎を知らないで済んでいる限りにおいて、それはまた、実際の死というものを誰も知ることができない限りにおいて、恐いぞと脅されて怯えてはいるものの、その正体たるや張子や正体をなくした酔っぱらいであって、まあ、そういうことならいいじゃないか、といった頓智話であると締めくくることができる。春のれんぞであの世の舎利を演技したり見物したりし、秋の稲架でこの世の舎利に出会える。それもこれも一緒に練り歩いてくれる舎人や、トネリコの木が畦道に側立っているおかげである。ゆたかな人生とは、ひょっとして、神仏よりもトネリに感謝しなければならないものかもしれない。張子や稲を干すように、気持ちも軽く生きて行くことを諭されているように感じられる。
(つづく)

力士像のはじまりをめぐって

2020年11月14日 | 上古・中古・中世・近世
 ヤマトに自然発生した相撲(すまひ)の強力者(ちからびと)は、仏教の中国化した金剛力士を観念の上で受容する際に基盤となっていると考えられる(注1)。大陸の思想において、力士には辟邪の気持ちが込められている。金剛力士は、相撲を取るほどに強い門衛の人として捉えられたのである。本邦の金剛力士像としては、法隆寺中門金剛力士像や長谷寺法華説相図が古い。それ以前のものとして参照される像としては、埴輪の力士像があげられる。厳密にいえば、それはチカラビト像である。ここではまず、造形のうえで特徴的な酒巻14号墳出土の力士埴輪について検討する。着衣の上から褌をつけている。さらに褌に鈴をつけ、突起のある履(くつ)をはき、頭部表現にも特徴がある。
左:力士埴輪(埼玉県行田市酒巻14号墳出土、古墳時代、行田市郷土博物館蔵、行田市教育委員会https://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/sakamaki14goufunsyutudohaniwa.html)、右:金剛力士(銅板法華説相図、奈良県長谷寺蔵、飛鳥時代、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/長谷寺銅板法華説相図(部分))
 行田市郷土博物館2015.に、力士埴輪について一般的な見解が述べられている。そのなかで、着衣の上から褌をつけた特異な力士像である酒巻14号墳出土の力士埴輪について、高句麗の古墳壁画に見られる力士像との関係を指摘する。装飾品や衣服、履などに、ルーツが感じられるという。さらに、髪型にも共通性が見て取れるのではないかとする。高句麗の通溝(洞溝)四神塚の羨道東壁の力士像の頭部は、髷を結っており、その髻(もとどり)を結紐で結んで後方へリボンのようにたなびかせている。酒巻14号墳の力士埴輪や、和名埴輪窯跡出土の力士埴輪頭部には、笄帽の表現や上げみずらとともに側頭部に剥落痕があって、リボンが付いていたのではないかと推測されている。結果、「「何かをしている」表現ではなく、「その場にある」ことに意味があると考えられ、「相撲」ではなく「力士」として僻邪を担っていたのだと考えられるだろう。」(43頁、この項、浅見貴子)としている。
力士像(通溝四神塚羨道東壁、中国輯安、6世紀、http://blog.daum.net/ppbird/15553539)
 相撲ではなく力士、何かをしているのではなくその場にいることに重きを置いたとしても、いつでも格闘としての相撲を取れることが力士の条件である。日頃から稽古に精進していなければならない。それは当たり前のことだから、「相撲」と「力士」とを事立てて区別することに積極的な意味はない。日々の稽古の積み重ねが本場所にあらわれる。
 視野を広げて考えてみる。力士形態の文化的伝播、享受の過程においては、仏教の金剛力士が中国の北魏時代に異民族的な形相で出現している。中国に古くからある邪悪なものを避ける思想と融合する形で、仏教の執金剛神が門番として2神に分かれ、金剛力士として造形化されるに至ったとされる。八木2004.は、金剛力士像の異形的な顔つきの発生について、「直接的な祖形を西方に求めることはできない。……これらの像形式は、中国における独自の展開(漢民族化)により生まれたと考えられる。」(9頁)とする。「漢民族化」によって、漢民族とは異なる顔つきを指向されたのが、門神としての金剛力士像であった。一般の人々にとって、異形の様相は恐れを惹起させる。恐いから近寄らないようにする。それは、守ってもらう館内の人にとっても当初は同じであったが、そんな恐ろしい存在を味方につければ、とても力強いこととなる。悪霊を味方につければ、他の悪霊の攻撃から守られることになると考えたのである。
金剛力士像(龍門石窟賓陽中洞左壁、中国、北魏時代、「aquacompass 7」https://aquacompass7.wordpress.com/2014/01/23/go-around-the-world-of-buddha-statues-9-the-statues-of-korea-and-japan/%EF%BC%95%E9%BE%8D%E9%96%80%E7%9F%B3%E7%AA%9F%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB/)
 龍門石窟の金剛力士像に見るとおり、その顔つきは異形の面持ちである。高句麗の古墳壁画に見られる角抵図などにも、一方は高句麗人、他方は鼻の高い西域の人を表すとする見解も見られるが、北魏に勃興した金剛力士像の、顔全体に広がる異人的ないかつさは見られない。さらに世界に目を広げれば、メソポタミアにいかつい顔をした像が見られる。パズズ像である。
パズズ像(アッシリア、前1000年紀、ルーブル美術館蔵、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/パズズ)
 古代メソポタミアの代表的な悪霊で、目を見開き、獣のように口を開けた恐ろしい顔つきをしている。逆にパズズを所有すれば、その他の悪霊の災いから身を守れると信じられていたとされている。パズズと仁王とは時代的にかけ離れており、文化的な伝播と捉えることには無理があるが、同じく辟邪の考え方に当たる。強面のいかつい顔立ちにすることは、人類に共通する観念ではないかと考えられる。構造主義的に考えれば、自然とそうなるということである。
 このように比較図像学を繰り広げれば、通溝四神塚の力士像は、相撲取としての力士像というよりも、金剛力士に近い造形のように感じられる。むろん、仏教絵画そのものとしてあるのではない。1人単独で走っている。それでも、右手に槍か鉾のものを持ち、左手には鉄槌形の武器か博山炉か舎利容器のようなものを握っている。相撲を取ることよりも警備員としての役目を担っているものではないかと推測される。
 酒巻14号墳出土の褌に鈴をつけた着衣の力士像も、いまこれから相撲を取るというために控えている力士ではなく、力の強い悪者がいつ現れても対抗できるように、24時間体制で警備している守衛ではないかと思われる。取っ組み合えば必ず鈴が鳴り、周囲に危険を知らせることができる。畑の獣除けや、建物の機械警備、あるいはJアラートのように働く装置として機能している。突起の付いた履は、踏まれたとしても相手の足の裏に刺さり、ダメージを与えて先へ進めなくする。完全武装した兵士との違いは、敵に対して囮となるところである。下手に武器を持っていれば、隙をつかれて奪われた場合、かえって攻撃されることになる。そんな役割を門番として担っていたのは、古代に隼人たちである。

 是を以て、火酢芹命(ほのすせりのみこと)の苗裔(のち)、諸の隼人等(はやとたち)、今に至るまで天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠ゆる狗(いぬ)して奉事(つかへまつ)る者なり。(神代紀第十段一書第二)
 大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)を丹比高鷲原陵(たぢひのたかわしのはらのみさざき)に葬(はぶ)りまつる。時に、隼人(はやひと)、昼夜、陵の側(ほとり)に哀号(おら)ぶ。食(くらひもの)を与(たま)へども喫(くら)はず。七日にして死む。有司(つかさ)、墓を陵の北(きたのかた)に造りて、礼(ことわり)を以て葬(かく)す。(清寧紀元年十月)
 三輪君逆(みわのきみさかふ)、隼人をして殯(もがり)の庭に相距(ふせ)かしむ。(敏達十四年八月)
 是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝廷(みかど)に相撲(すまひと)る。大隅の隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)
 群官初めて入るとき、隼人声を発し、立ち定まらば乃ち止めよ。楯の前に進みて、手を拍ち歌儛せよ。(延喜式・践祚大嘗祭式)

 神代紀の記述に、イヌ(狗)と形容されている。軍隊でなく警察としての機能とは、警備してイヌのように吠えて威嚇しつづければ、何だ何だと野次馬が集まってきて、闖入者は身柄を拘束されることとなる。警報装置が作動することこそ、警備の一番の決め手である。すると、警備員として雇うべき人材は、力持ちの相撲取であることもさることながら、別に凶暴なドーベルマンでなくてもかまわず、よく吠えて異常を知らせる役割を持っていればいいとわかる。隼人の人たちは、ヤマトの人よりも小柄であったことが知られている。そんな隼人に相撲を取らせるのは、子供相撲、ないしは相撲節に際しての前相撲のようなものではないかと感じられる。本来的に、異常を知らせるセンサーとしてイヌを飼っている。ペットの犬に服を着せていることも最近では目にするようになっている。そのようなことに思いを巡らせれば、酒巻14号墳の力士埴輪に、着衣の上に褌を着て鈴をつけた像が作られていることへの違和感は薄らぐ。
 現今の日本の警備員が、体格的にさほど優れない点や、わずか数名でワゴン車の現金輸送を行っていることに、外国人から疑問視されることがある。本邦の治安がいいから可能なのであるが、隼人による警備の歴史的伝統を引き継いでいるのかもしれない。力士埴輪は、古墳時代、実際に豪族の居館を守ったものを造形化したのではなく、古墳というお墓を守る形にしたものにすぎない。とはいえ、日本書紀の記事に記されているとおり、犬のように吠えることで守護、守衛の役割を十分に担っていた形跡も見られる。広く認められた意見ではないが、盾持人埴輪とは、隼人が盾をもって守る姿が写し取られて造形されているのではないか。中世の十字軍の騎士と違い、左手に盾、右手に剣ではなく、盾で防御するばかりである。デモ隊と対峙する前線の機動隊員のように、専守防衛である。盾と完全に一体化した人物像が盾持人埴輪である。文字通り、人間の楯と言って間違いでない。笑っているような顔に見えるものもあるが、入って来ないで下さいよと笑ってごまかしているところなのかもしれず、横広がりの口はイヌのようでもある。盾を持たされているだけで、あとは声をあげて助けを呼ぶしかない。盾は基本的に防御具であり、攻撃具ではない。
左:盾持人埴輪(埼玉県本庄市前の山古墳出土、古墳時代、6世紀、本庄市ホームページhttp://www.city.honjo.lg.jp/kanko_bunkazai/bunkazai/1405402694640.html)、中:盾持人埴輪(茅原大墓古墳出土、古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)、桜井市埋蔵文化財センター展示品)、右:埴輪 犬(群馬県伊勢崎市境上武士出土、古墳時代、6世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010502をトリミング)
 隼人がどれほどヤマトの人に異形の顔つきと思われたか、記録されていない。南九州の交通の便の悪いところへ行くと、縄文顔と呼ばれる濃い顔の人たちが多い。西郷隆盛の顔を代表と考えればいい(注2)。その異形の顔つきをさらに目立たせるために、隼人は顔に入れ墨したり色を塗ったりしていたようである。歌舞伎の隈取の元祖といって間違いではないであろう。金剛力士の見得を切った姿と源が同じである。
 番犬として隼人が飼われていたのである。護衛として働いている。それが在所から遠く離れたところの場合、ヤマトコトバには「守部(もりべ)」として記される。守部は、山や野、田畑、陵墓などを守る人のことである。山守、津守、防人(さきもり)など、特定の名称を持つこともある。居宅を守る人の意には使われない。

 大君の 境(さか)ひたまふと 山守居(す)ゑ 守(も)るといふ山に 入らずは止(や)まじ(万950)
 住吉(すみのゑ)の 津守網引(あびき)の 浮子(うけ)の緒の 浮かれか去(い)なむ 恋ひつつあらずは(万2646)
 防人に 立ちし朝明(あさけ)の 金戸出(かなとで)に 手放(たばな)れ惜しみ 泣きし子らばも(万3569)
 …… あしひきの 彼面此面(をてもこのも)に 鳥網(ちなみ)張り 守部をすゑて ……(万4011)
 泉守道者(よもつちもりひと)(神代紀第五段一書第十)

 盾持人埴輪は、人物埴輪のなかでももっとも早く現れたとされている。盾持人埴輪の特徴としては、大型であること、耳が横に張り出すなど強調されていること、顔に入れ墨を示す線刻や赤く彩色されていること、容貌が怪異であること、頭部の表現が個性的であること、石を植えつけて歯を表現していることなどがあり、その置かれたところも前方後円墳の前方部前面に単独で配置されることがあった。墓の守部として据えられている。顔については仮面を装着しているとの見解もある。塩谷2014.は、「中国の葬送儀礼や神仙界に登場する辟邪の方相氏を原型としている……。その後展開する人物および形象埴輪群は、おのずと他界の情景を演出したものと考えられ、被葬者への奉仕の具象化を中心に古墳における神仙界の拡充・整備を図ったものと推測される。」(184頁)とする。辟邪の発想は等しくとも、本邦で方相氏ばかり先行して取り入れたとする見解は当たらないであろう。なぜなら、ヤマトの人にとって、何だかわからないからである。中国の方相氏の古い図像に、盾が前面に押しだされているものはない(注3)。盾持人埴輪の顔に入れ墨や彩色が見えるのは、人の最大の注目点、顔について、顔を有することを否定しているという一点につきる。盾持人は人としての人格を認められておらず、船や馬、水鳥を象った埴輪と同時期に出現している。意味もなく笑わされるのが、あるいは引きつった笑い顔をするのが、自由意思を持たない守部の隼人、番犬の様なのである(注4)
狛犬(鎌倉市鶴岡八幡宮)
 ここまで、本邦における埴輪以降の力士的造形の本質は、彫像の金剛力士にまで下って再現すると想定してきた。ただし、その間に1つだけ特異な力士像が見られる(注5)。天寿国繍帳のなかに、金剛力士ではないかと思われる像が刺繍されている。一般には「鬼形」と称されるものである。綾地に刺繍されていて退色の進んだ部分のため、鎌倉時代に復元、新調された部分とされている。眉は盛り上がり、頬骨は出っ張り、顎は張っている。髪は引き詰めて髷に結っている。裸の上半身は筋骨隆々である。右手は鉾状のものを持ち、左手は指を広げて張っている。腰蓑のようなミニスカートを着けていて、胡座をかくように座っている。天衣のようなものが背後になびいている。
天寿国繍帳の鬼形(中宮寺ホームページhttp://www.chuguji.jp/oldest-embroidery/からトリミングと塗りつぶし)
 胡座をかいて座っている金剛力士像は、管見にして知らない。だからといって、これが金剛力士を意識したものでないかといえば、かなりの確度で意識していると考える。高瀬2003.に、頭頂から一条に伸びる部分を見て、牢度跋提といわれるものかとする説がある。天寿国繍帳全体を、観弥勒菩薩上生兜率天経の示す世界を示したものとする考えへと敷衍する。けれども、異人的な顔つきを強調する図像は、金剛力士として伝わるものが一般的である。
 仁王に表される力士が天寿国を守っているとすると、それは、「据ゑ」ているものと思われたと筆者は考える。「据う」とは、物や人、生き物をふさわしい場所に安定的に配置させることをいう。根を下ろさせるようにしっかりとそこへ植え付けるように置くこと、場所を決めてとどまらせて居させること、ある位置や役職につかせて安定させることをいい、人や生き物については、姿勢的には座らせることに当たる。すなわち、金剛力士が守部として据えられているとするなら、ヤマトコトバの語義説明として、立った姿勢で見得を切るように造形するのではなく、座らせて守らせたいと感じられるのである。
 筆者は、上代の人々が、無文字文化の下での言霊信仰に浸ったヤマトコトバ第一主義者であり、原理主義的ヤマトコトバ信奉者であったと考えている。筆者は、天寿国とは、太子と母王とがテムジクニ(天竺に)生まれ変わることと思って止まない橘大女郎の錯乱妄想であり、それを慰撫するために作られた刺繍製の帳、病室のカーテンと見ている(注6)。テムジクニ(天寿国)なる国は、在所から遠いところである。そこを守る警備員は、守部と考えられたに違いない。守部は据えられるべき存在である。長期にわたることもあり、座って居ることがヤマトコトバの理に適っている。銘文に、天寿国繍帳は、采女たちが作ったと記されている。ヤマトに暮らしながら空想の産物として「天寿国」は描写されている。橘大女郎という世俗の人が思い描く仏教世界とは、すなわち、天竺国(インド)のことであると認識としており、それは采女の思い描くものと似たり寄ったりであったろう。学問を積んだわけではなくて、聖徳太子の妻であったにすぎず、知識的には采女と同程度である。そんな人のために帳を作るには、仏教の教学とは程遠いものこそふさわしい。そうして結実した絵本の1ページ(両サイドに掛けられたから2ページ)として、天寿国繍帳はあったと考えられる。天寿国の守部として、仁王さんのような力士が図中に据えられている。その人に“わかる”ことだけが、その人にとって真実なのだから、精神を病んでいる橘大女郎へのお見舞いには、仏教世界を教え込ませる難解な曼荼羅ではなく、大丈夫だよと安心させる伝手としてのみ機能していたに違いない。繍帳の銘文に記されるように、「住生之状」を見たいと言って作られた代物である。スマヒ(住生、相撲)の様を表す力士に、座っている金剛力士を登場させたと考える。
 以上、上代の人が力士に何を期待し、どのようなものと思っていたか検討した。

(注)
(注1)本稿で参照した設楽2011.は、「[塩谷説で条件としてあげている3点のうち]①の戟あるいは戈をもつ盾持人埴輪は2~3例にとどまり,②の仮面をつけたような顔の表現は仮面上に突起した例が見つかっておらず」(132頁)としながら、③の頭部のつくりの多様性に盾持人埴輪は方相氏を起源としているとする意見に賛同している。とても学問的態度とは言えない。「方相氏の画像は北魏の時代の金剛力士像とみ間違えられることもあるとされ……[上田1988.374頁],その姿態の表現は漢代にさかのぼる。力士やそれが演じる相撲も,辟邪の役割を伴って古墳時代の初期に大陸から将来されたのだろう。」(133頁)とある。チカラビトやスマヒはヤマトコトバとしてあった。訓読語とは思われない。古墳時代になってはじめて取っ組み合う競技が行われたとする考え方は、子どもが誰からも教えられなくとも自然と取っ組み合いの競技として sumo-wrestling をしていることへの洞察を欠いている。拙稿「相撲と力士」参照。
(注2)ただし、彼の身長はとても高かった。
(注3)周礼・夏官司馬には、「方相氏。掌蒙熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隷而時難、以索室敺疫。大喪、先匶、及墓、入壙、以戈撃四隅、歐方良。」とある。方相氏的思想が持ち込まれて古墳にいるとするなら、四つ目に作られたり、誰かを引き連れていたりしなければならないと考えられる。図像だけ持ち込まれたとするなら、漢代以降の磚画などには見られない、盾持人埴輪のトレードマークの盾がどこから生じたのか説明されなければならない。
獣首人身怪獣(磚、中国鎮江市畜牧場出土、東晋隆安二年(398年)、網干善教「キトラ古墳壁画十二支像の持物について」『関西大学博物館紀要』第11号、2005年3月、関西大学学術リポジトリhttp://hdl.handle.net/10112/3322(11/16))
(注4)狛犬像に、頭に角のように尖ったものもよく見られる。盾持人埴輪に歯を植えつけている点は、犬以外に何を表したいのか、芸術家のご意見を拝聴したい。上田、前掲書に、藤ノ木古墳出土の鞍金具後輪の海部に、方相氏が文様として描かれているとする。あるいは鬼神像かもしれないが、他に象や鳳凰、小さな鬼面も彫りだされていて、パルメット文も鮮やかである。その彫金が何を表しているかについては措くとして、いずれ鞍の後輪のデザインである。対して、盾持人埴輪は、埴輪のデザインであるが、埴輪をデザインしたものではなく、何かを埴輪デザインしたものである。後輪デザインしたものとの違いを無視して、図像の近親性を見出して両者を同等に扱うことはできない。一昔前の著作を繙くと、水野1971.に、「楯を持つ武人の一群─門(かど)部」(260頁)とある。武人とは言えないが、門部なる概念で捉えている点は十分に評価されて然るべきである。
(注5)藤ノ木古墳出土の鞍金具後輪海部の、あるいは方相氏とされる彫金は、それが何であるかを理解されないまま文様として描いているものではないか。方相氏は、本邦で、追儺の儀式に鬼役で追われる存在に回る。パズズで見た流れとは逆に、邪なるもの(穢れたもの)として辟される存在へと転じている。このことは、周礼にある方相氏の概念が、定着していなかったことを予感させる。「方相氏(ハウサウシ)」を訓読みした例があるのか、管見にして不明である。鬼の名前でそう呼ばれていただけで、そのオニという語も、「隠(オン)」に読み癖のついたものと考えられている。無文字の古墳時代に人々に了解されるためには、言葉としてヤマトコトバになければ、概念として抱くことは不可能であると考える。
(注6)拙稿「天寿国繍帳銘を銘文の内部から読む」参照。

(引用・参考文献)
上田1988. 上田早苗「方相氏の諸相」『橿原考古学研究所論考 第十集』吉川弘文館、昭和63年。
行田市郷土博物館2015. 行田市郷土博物館編『相撲─いにしえの力士の姿─』同発行、平成27年。
塩谷2014. 塩谷修『前方後円墳の築造と儀礼』同成社、2014年。
設楽2011. 設楽博己「盾持人埴輪の遡源」川西宏幸編『東国の地域考古学』六一書房、2011年。
高瀬2003. 高瀬多聞「天寿国繡帳小考」林雅彦編『生と死の図像学─アジアにおける生と死のコスモロジー─』至文堂、平成15年。
水野1971. 水野正好「埴輪芸能論」『古代の日本2 風土と生活』角川書店、昭和46年。
八木2004. 八木春生『中国仏教美術と漢民族化─北魏時代後期を中心として─』法蔵館、2004年。

※本稿は、2017年9月稿を、2020年11月に整理したものである。

稲荷信仰と狐

2020年03月23日 | 上古・中古・中世・近世
稲荷社のはじまり

 稲荷信仰は、伏見稲荷神社に始まるとされる。文献に見える起源は次の記事にある。

 風土記に曰はく、伊奈利いなりふは、秦中家忌寸はたのなかつへのいみきとほおや伊侶具いろぐ秦公はたのきみ稲粱いねを積みて富みゆたけし。乃ち、もちゐちていくはと為ししかば、白き鳥と化成りて飛びかけりて山のみねり、伊禰奈利いねなりひき。遂にやしろの名としき。其の苗裔すゑに至り、先のあやまちいて、やしろの木をねこじて、家にゑてみ祭りき。今、其の木を殖ゑてきばさきはひ、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。(山城風土記逸文)

 この記事は、伊禰奈利の社の木を自分の家に植えて祈り祭ったら、福が来たという話である。今日、伏見稲荷では、その木のこととして験の杉が配られている。狐を稲荷の神の使いとするのは、一般に、御食津神みけつかみ三狐神みけつかみと付会した俗信からとされている(注1)。そして、キツネの古形としてケツネという語を想定し、五来1985.は、「ケ(食)ツ(の)ネ(根元霊)」(11頁)に由来するという。
左:しるしの杉のお守り、右:キタキツネ標本(よこはま動物園ズーラシア展示品)
 また、大森2011.は、ケツネのケは、もののけのケでもあり、狐憑きとの関連を指摘する。狐は悪さをする悪霊・悪神であり、巫覡がそれを鎮める呪術を行ったという。狐をケツネと言う例は、関西地方の方言や物類称呼、本朝食鑑などにある。いずれの場合も、ケは乙類との想定である。
 しかし、問題はそれほど単純ではなさそうである。五来2010.の引く伴信友は、次のようにも記している。「ある人この下書[『験の杉』]を見て云、伊奈利ノ神は神世にはきこえ給はず、いとはるか後の世の、大同の頃に顕はれて祭られたまへる故事をおもふに、伊呂具ノ公がしかじかの事によりて、怪み恐懼オソりて祭れるが始にて、後々然ばかり狐に因ありてきこえたまひ、社地の狐のスミカの如くなるを思ふにも、誠は狐ならむも測りがたし、いかにといふに、答けらく、其はいかにも測りがたきことなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991313/217~218)。
 言葉の遍歴として、ケツネ→キツネとあったかどうか、証左がない。本草和名に、「狐陰茎 和名岐都禰きつね」、和名抄に、「狐 考声切韵に云はく、狐〈音は故、岐豆祢きつね〉は獣の名にして射干なり。関中に呼びて野干と為す語の訛れるなりといふ。孫愐に云はく、狐は能く妖怪と為りて百歳に至りて女と化為る者なりといふ。」、名義抄には、「狐 音胡、キツネ、ヒトリ、野干也、クツネ、和去」とある。説文には、「狐 䄏獣也。鬼の乗る所なり。三徳有り。其の色中和、小前大後、死するに則ち丘に首むかふ。犬に从ひ、瓜声」とある。万葉集には、狐の登場する歌が一首のみ見られる。

  長忌寸意吉麿ながのいみきおきまろの歌八首
 さし鍋に 湯かせ子ども 櫟津いちひつの 檜橋ひばしよりむ 狐にむさむ(万3824)
  右の一首は伝へて云はく、「一時あるときもろもろつどひて宴飲うたげしき。時に夜漏三更さよなかにして、狐の声聞ゆ。すなはち衆諸もろひと興麿おきまろを誘ひて曰はく、『この饌具せんぐ雑器ざふき、狐の声、河、橋等の物にけて、ただ歌を作れ』といひき。すなはち声にこたへて此の歌を作りき」といふ。

 「狐の声」が「む(コは乙類)」と表されているとして有名な歌である。狐はコンコンと鳴くというのが上代からの通念であった。この歌に「狐」とあるのは、キツネ(キは甲類)と訓むべきとされる。日本書紀には次のような例がある。

 ……大きなる星、ひむかしより西に流る。便ち音有りていかづちに似たり。時の人曰はく、「流星ながれぼしの音なり」といふ。亦は曰はく、「地雷つちのいかづちなり」といふ。是に、僧旻僧そうみんほふしが曰はく、「流星に非ず。是天狗あまつきつねなり。其の吠ゆる声いかづちに似たらくのみ」といふ。(舒明紀九年二月)
 石見国いはみのくにまをさく、「白狐しろきつね見ゆ」とまをす。(斉明紀三年是歳)
 是歳ことし出雲国造いづものくにのみやつこ 名をもらせり。おほせて、神の宮を修厳つくりよそはしむ。きつね於友郡おうのこほり役丁えのよほろれるかづらすゑちてぬ。又、いぬ死人まかれるひと手臂ただむき言屋社いふやのやしろに噛ひ置けり。言屋、此には伊浮瑘いふやと云ふ。天子みかどかむあがりまさむきざしなり。(斉明紀五年是歳)

 伴信友が「大同の頃」としており、平安時代にケツネと訓んだ例が記述されて残っていれば五来氏らの説も通用するかもしれないが、今のところ見られない。上代から中古にかけての狐の用例としては、日本霊異記・上巻、「狐をとして子を生ましむる縁 第二」がある。

 昔、欽明きむめい天皇 是は磯城嶋しきしま金刺かなさしの宮に国しし天皇、天国押開広庭命あめくにおしはらきひろにはのみことぞ。御世みよに、三野国みののくに大野郡おほのこほりの人、とすべきをみなもとめて路を乗りて行きき。時に曠野ひろのの中にうるはしきをみな遇へり。其の女、をとこなつき、壮めかりうつ。言はく、「いづくに行く稚嬢をみなぞ」といふ。をみな答ふらく、「能きえにを覓めむとして行く女なり」といふ。壮も亦語りて言はく、「我が妻と成らむや」といふ。女、「ゆるさむ」と答へ言ひて、即ち家に交通とつぎて相住みき。
 比頃このころ懐任はらみてひとりの男子を生みき。時に其の家の犬、十二月十五日に子を生みき。の犬の子、つね家室いへのとじに向かひて、期尅いのごにらはにか嘷吠ゆ。家室おびおそりて、家長いへぎみに告げて言はく、「此の犬を打ち殺せ」といふ。然雖しかれどもうれへ告げて猶し殺さず。二月三月の頃に、設けし年米をきし時に、其の家室、稲舂女いなつきめに間食を充てむとして碓屋からうすやに入る。即ち彼の犬の子、家室をはむとして追ひて吠ゆ。即ち驚きぢ恐り、野干やかにと成りてまがきの上に登りて居り。家長見て言はく、「汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は忘れじ。つねに来りて相寐よ」といふ。そゑをふとことおぼえてきたり寐き。故に、名づけて岐都禰きつねふ。時に彼の妻、くれなゐ襴染すそぞめ 今の桃花つきの裳を云ふ。を著て窈窕び、裳襴もすそを引きつつく。夫、にしかほを視て、恋ひて歌ひて曰はく、
 恋は皆 我がうへに落ちぬ たまかぎる はろかに見えて 去にし子ゆゑに
といふ。故に其の相生ましめし子の名を岐都禰きつねなづく。亦、其の子の姓をあたへおほす。是の人強き力あまた有り、走ることのきこと鳥の飛ぶが如し。三野国の狐の直等あたへら根本もと是れなり。

 つねに来て寝よというところからキツネと呼んだという馬鹿馬鹿しいお笑いの一席になっている。ツネにキてだからキツネ、キてネるからキツネである。無文字文化のなかでの言葉には、今日の人には洒落やなぞなぞのように聞こえる事柄が多い。日本霊異記は、基本的に仏教説話集である。この話の主題は、狐をキツネと訓む、ないし、動物のキツネをキツネと呼ぶようになった由来を説くものではないであろう。一般的に狐(野干)のことはキツネと呼ばれていたから、こじつけのような話が作られている。確かなのは、ケツネとは呼ばれていなかったこと、ないしは、少なくとも一般的ではなかった点である。
 万3824番歌で、狐の鳴き声をコム(「来む(コは乙類)」)と洒落ていた。左注に、「狐の声」と明記され、鳴き声を詠みこんでいることは確かである。「即応声作此歌也」とまで念を押されている。キツネの特徴とは、第一に、コンコンと鳴くことである。それは、音韻的には上代に、コムコム(コは乙類)と聞いたということである。非常に伝統的な鳴き声の擬音語である。同音のコムには、「む(コは乙類)」がある。

米を籠める米俵

 稲荷信仰において、狐は神のお使いとされる。俗説から狐の好物として、油揚げをお供えしている。キツネの語源説に、キ(黄)+ツ(助辞)+ネ(愛称)の意かとするものがある。その説は、油揚げの色の類推までもはらんでいる。きつねうどん、けつねうろんとは、油揚げの載っているうどんのことである。また、油揚げを醤油と砂糖で甘辛く煮て、真ん中に包丁目を入れて袋状にし、すし飯を包みこんだものを稲荷寿司と呼ぶ。けれども、うどんの場合、稲荷うどんとは言わない。狐と油揚げの関係についての発想の端緒は、稲荷寿司のほうにあったらしい。油揚げの材料となる豆腐の伝来については、平安後期の記録に豆腐の語が見られるかとされるものの、一般には、鎌倉から室町期に禅僧が伝えたと解されている。それを油で揚げるとなると、禅林料理にあったかもしれないものの、南蛮料理を知るに及んで作られるようになったと考えるのが妥当であろう。
左:関東の稲荷寿司、右:関西の稲荷寿司
 岡田2003.によれば、きつねうどんは、「1893年(明治26)に、大阪の松葉屋で、うどんに油揚げを2枚のせた、コンコンさんと呼ぶ種物を創作する.」(126頁)ことに端を発するかに記述されている。稲荷寿司の方は、喜田川季荘・守貞漫稿に、「又、天保末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸・干瓢等を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。日夜売之ども夜を専として、行燈に華表を描き、号て稲荷鮨、或は篠田鮨と云。ともに狐に因ある名にて、野干は油揚を好む者故に名とす。最も賤価鮨也。尾の名古屋等従来有之、江戸も天保前より店売には有之歟。蓋両国等の田舎人のみを専らとす鮨店に従来有之歟也。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053410/109)、漢字の旧字体は改め、句読点を補った)とある。
 稲荷寿司という名称は、色が狐色になっているだけでなく、稲荷信仰のイナリを稲荷という字で表したところに発端があると知れる。「稲荷」の意味するところは、稲を租として都へ荷物に運ぶために、俵を編んでなかに裹んで入れていたということである。俵のなかに米が入っている様は、稲荷寿司に譬えられよう。「米(コ・メは乙類)」を「籠め(コ・メは乙類)」てある。狐の鳴き声と同じコムコムである。したがって、稲荷寿司という命名は、富士山型の稲荷寿司の多い関西地方ではなく、俵型のそれを食する江戸を源とすると考えられる。
 米俵の意の俵の字は、中国では、分かち与える、散らす、の義である。集韻に、「俵㧼 分与也、或に手に从ふ」とある。本邦でのみ、タワラと訓んで入れ物、および入れ物の単位としている。この義に転用された理由については、筆者の臆説として、イネの茎葉部分の藁と、実の部分の籾とを分けたところにあるからかとも思うが、はっきりしない。日本国語大辞典に、「歴史的かなづかいは、通常「たはら」とするが確かな根拠はない。「たわら」とする説もある」(1180頁)とある。藁で編んであるのだから、タ+ワラではないかと考えるのは、正否は別として素朴な推論ではないか。「俵 彼廟切 チル、タハラ」(高山寺本名義抄(三宝類字集)(鎌倉初期書写加点))、「俵 タハラ」(伊呂波字類抄(鎌倉期))、「俵 タワラ、ヘウ普𩜙」(法華経単字(院政期か))とある。類義語に、秉があり、和名抄に、「秉 薩珣に曰はく、秉〈音は丙、訓は以奈太波利いなたはり、毛詩に見ゆ〉は禾束也といふ。四声字苑に云はく、穧〈在詣反、今案ふるに田野人、稲の穧を捒りて云ふは是なり〉は刈り把る数也といふ。」とある。刈り取って稲架で干すのに束にしたものを秉、タハリとすると、籾状にして袋に入れてまとめたものは俵、タハラと呼んだと整理されよう。その確証は、稲荷という字面にある。荷という字は、担う荷物の意味の他に、蓮などとも書く植物のハスを表す。イネもハスも水の溜まった田で栽培される。ハスはレンコン収穫、また、仏花のためである。稲田と荷田が続いていれば、田が原のように広がっているということになる。タハラである(注2)
 俵は、薦を筒状に巻いて縫い合わせて胴にし、その両端に桟俵を被せて藁縄で縛って袋状にした入れものである。俵の両端に被せる桟俵は、直径30cmほどの円形の蓋である。サンダラボッチ、タワラッパワシ、タラバス、サンバイシ、バセなど、多様な民俗語が残っている(注3)。米、麦、芋、柏(槲)や炭などを入れて貯蔵、運搬する用途に用いられた。穀類などは稲藁、炭俵は葦や茅を使って作られた。製作には薦けたとつつろを用い、夜なべ仕事で薦編みされた。飾り物として米俵状の苞を作って小正月の供物とすることもよく見られる。道祖神に供物を載せる台としたり、疱瘡送りや流し雛の船に用いられることもある。そのため、藁座の意味を持っていると考えられている。なお、発祥時の俵には桟俵がなく、巨大な藁苞であったようである。
 俵の字は、文献では、播磨風土記・揖保郡条に、「御橋山みはしやま 大汝命おほなむちのみこと、俵を積みて橋を立てましき。山の石、橋に似たり。故、御橋山と号く。」、延喜式・雑式に、「凡そ公私運米五斗を俵と、仍て三俵を用て駄と。」とある。木簡や正倉院文書には、ものの単位としてその袋詰めを数えるため、助数詞として用いられている。正倉院文書の細字注から、俵物は「つつむ」と表現したらしいことが知られている。
左:鍵を銜えるお狐様(伏見稲荷大社)、右:米俵の納められた倉(信貴山縁起絵巻・山崎長者巻、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/信貴山縁起)
 籾を入れた俵は大切に倉にしまわれた。信貴山縁起絵巻の山崎長者巻では、倉に鍵をかけてしまわれていた米俵が、自然に出てきて飛んで行ってしまう光景が描かれている。伏見稲荷大社の狐像に、稲穂を銜えたものと相対して、鍵を銜えたものがある理由もそこにある。富の拠りどころとして崇められるお狐様は、米俵というものを文字通り鍵として捉えられていた。つまり、稲荷信仰において、動物のキツネを崇拝するに至った理由は、イナリ神を「稲荷」と記したことを契機として、コムコムという鳴き声に掛けた米+籠の俵によっているのである。
 この「稲荷」という表記の初見は、類聚国史34・天皇不豫(淳和天皇)の天長四年(827)正月辛巳(19日)条 に、「詔曰。天皇詔旨。稲荷神前申給閉止佐久。頃間御体不愈大坐須尓占求留尓。稲荷神社樹伐礼留罪祟太利止。然此樹。先朝御願寺塔木牟我尓止之天。東寺所伐奈利。今成祟利止。畏天奈毛内舎人従七位下大中臣雄良差使。礼代従五位下冠授奉治奉。実御心尓志。御病不過時日除愈給。縦御心尓波不在止毛。威神護助給波牟天之。御躬万利牟止。所念食奉憑流止申給天皇詔旨申給波久止申」とある箇所に求められている。伴信友の言っていた「大同」(806~810)の頃にほど近い時期に当たる。おそらく、伝承のとおり、その頃にイナリを稲荷と書き記す「発明」をしたのを契機として、イナリ信仰に狐が神の使いとして定着したということであろう。延喜式・神名帳にも、「稲荷神社三座並名神大。月次新甞」とある。
 山城風土記逸文に、「伊禰奈利」とあるイネナリが音転してイナリと訛った。そのイナリという音に、「稲荷」という字を当てた。イナリをイナ(稲)+ニ(荷)と表すのはおかしいと思われるかもしれないが、もともとのイネナリは稲のたわわに稔ることを表している。稲穂が頭を垂れている様が思い浮かぶ。まっすぐに上を向いて葉茎が伸びていたものが、秋になって稲穂を筆頭に斜めに傾いてくるのである。斜めのことはハスという(注4)。ハスに構えるといったり、筋交いのことをハスカイなどという。そうなって初めてイネナリになる。イネは、ハスに稔ったらはじめて荷物になるように俵にすることができるのである。外側は藁、内側は籾である。上にあげた播磨風土記・揖保郡条に、「御橋山 大汝命、俵を積みて橋を立てましき。山の石、橋に似たり。故、御橋山と号く。」とあったのは、米俵とは稲の荷だから、斜めのハスカイ状に積まれていって、斜めに架け渡すはしご階段のことをいう橋になったと言っているわけである。ハス、ハシの音と意味との連動性から地名譚が作られている。
 また、植物のハスを表す漢字としては、蓮は実、藕は根、荷は葉を表す。ハスの葉は食器として、また、飯や味噌を包んで保存するために用いられた。万葉集にも歌があり(注5)、ハスの葉が実用されていたことがわかる。つまり、荷という字は、ハスの葉の意味においても、食糧保存容器であり、俵の義を示しているのである。

種籾俵、イナル

 俵は、実用の当初の目的として運搬用であったか定かではない。特に米俵の場合、貯蔵用、種籾保管のために用いられた可能性が高い。刈り取り前に品種別に抜穂したり、刈り取った後に良い穂の束を選び、それを扱箸で脱穀(脱粒)し、篩や箕で選別し、ふさわしいもののみを種子籾とした。さらにそれをよく乾燥させてすぐには発芽しないようにしたのち、俵に入れて保存した。自家食用のものは、刈り取ったままニオとして積んでおき、食べる時ごとに脱穀していったものと考えられている。しかし、種籾俵は、囲炉裏の上や土間の天井に枠を組んで置いたり、種籾倉や納屋の天井に大切に貯えられた。鼠の害から防ぐため、梁から太縄で吊るして保存されることもあった。早川1973.に、「また家敷の近くの畑や田の畔等に、四本柱を立て、屋根を葺いた櫓様のものを造って、それに貯える土地もある。これはもっぱら鼠害を防ぐと言って、脚部に杉の枯葉などを絡みつかせたものもある。名称は判らぬが、古風な種子貯蔵法と見られる(石見、長門等に見る。左図参照)」(501頁)とある。

 倉の米俵は富に違いない。農本主義でその富を生み出す生産の三要素は、自然(田と水と日光など)、資本(金ではなく籾)、労働力(農民たる「百姓おほみたから」)である。資本の籾を鼠から守る重要な役割を、杉の葉が担っている。よって、伏見稲荷大社では、しるしの杉を大切なものとしてきている。山城風土記逸文に、「抜社之木 殖家祷祭之」とある。何の木か記されないが、スギの木であると信じられている。所以について他の説は行われておらず、米倉の守りとしての杉の葉に由来するものと認められている。「今殖其木 蘇者得福 殖其木 枯者不福」とあって、「さきはひ」という語が用いられている。富はその時、当該年の収穫である。種籾を守れば翌年、その翌年へと続く収穫の連続、すなわち、福をもたらすということである。サキハヒとは、幸が這うようにのびてゆくことである。
 種籾と俵との関係については、根木2005.に、種籾の保存上の、温度、湿度管理についてさまざまな条件が検討されている。しかし、イネは他のイネ科植物同様、なかなかに丈夫な発芽力を持っており、実用性からは種籾俵で保管する特段の意義は見出せない。むしろ、翌年の農作開始時、苗代に種子籾を蒔く過程での発芽促進のひと手間に関わるものであろう。すなわち、種籾を水に浸して発芽を促す際、俵ごと木の棒などで重しとして押さえ、種子浸けしたのである。ばらばらなままの種籾を苗代に蒔くと浮いてしまい定着せず、発芽までに時間もかかり、鳥についばまれる危険性も高い。そこで、春の彼岸の頃に種籾俵ごと川や池に水没させ、20日ほど浸してから取り上げて俵を開き、莚に種子籾を広げておく。すると、2~3日して籾の割れ目から芽が出てくる。この若干発芽した種籾を苗代に蒔き、苗として成長させた後に田に植えた。
 種籾を鼠の害から防ぐために用いられた方法としては、しるしの杉へと発展したと思われる杉の葉を使う以外に、梁から吊るして保存される場合があった。この、梁から吊るされる俵と似た情景が、産屋の習俗に残っていた。瀬川1980.には、「滋賀県高島郡西庄村(現、マキノ町)では、「コヤドは七十五日藁の枕」「コヤドの藁を、毎日一把ずつ捨てて、しまいになるともとの身体になる」などというが、昔の出産は座り産で天井から吊した力綱にすがるか、枕上に高く積んだ米俵または藁枕によりかかって産むのであった。横臥すると難産になると信じられていたのである。」(82頁)とある。また、大藤1967.にも、「母屋の棟の下で産をする場合は、どの部屋を使うかは土地によってかならずしも同じではないが、大体はふだんの寝室であるナンド、またはヘヤとかヒヤ、ネマ、チョウダ(岐阜県吉城郡坂下村)とよんでいるところを使うのが普通になっている。……「三州奥郡産育風俗図絵」によれば、この地方では、……図に見るような天井から下がる力綱をとることも、産婦がよりかかって休息するわらを入れた俵も[以前はあったが、今では]用いられなくなった」(27~28頁)とある。
左:吊るされた米俵(21 21 DESIGN SIGHT「コメ展」パネル展示)、中:吊るされた種もみ(福井市おさごえ民家園・旧城地家住宅展示品)、右:産屋の図(松下石人「三州奥郡産育風俗図絵」、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456703/14)
 種籾俵が納屋に吊るされる様と、妊婦が産屋で力綱にぶら下が様の類似性は、ともに新しい命を誕生させることを連想させるものである。命の誕生が、今日と比較にならぬほど難しい状況にあった前近代にあっては、文字通りすがる思いでの習俗になっていたと推測される。そして、このタハラ(俵)をめぐる風習は、ハラ(腹)と関係があると思われたのであろう。赤子が無事に産まれるには、経験豊かな産婆が欠かせない存在であった。産婆は、コズヱババと呼ばれるように、子をこの世に据える存在であり、命を生かすかどうかを決める婦、命婦みょうぶであって、老女をいう専女たうめでもあった。だからこそ、伏見稲荷の命婦社に狐は祀られ、倭姫命世記や御鎮座伝記に、その神は「専女」でもあると記されるのである(注6)
 イナリ信仰の源泉となるイナリという語の動詞形について検討する。記に、次のようにある。

 其地そこより幸行でまして、忍坂おさか大室おほむろに到りましし時、ふる土雲八十建つちぐもやそたける、其の室に在りて待ちいなる。かれしかくして天つ神の御子のみこと以て、あへを八十建に賜ひき。是に、八十建に宛てて、八十膳夫やそかしはてまうけて、人ごとたちけて、其の膳夫等にをしへて曰ひしく、「歌ふを聞かば、一時共もろともに斬れ」といひき。故、其の土雲を打たむことをあかせる歌に曰はく、
 忍坂おさかの 大室屋おほむろやに 人さはに 来入きいり 人多に 入り居りとも みつみつし 久米くめの子が 頭槌くぶつつい 石槌い持ち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子らが 頭槌い 石槌い持ち 今撃たばよろし(記10)
といふ。如此かく歌ひて、刀を抜きて一時もろともに打ち殺しき。(神武記)

 この「待伊那留。此三字以音。」のイナルについて、他に用例がなく、今のところ、唸ることと関係があろうかとしか説かれていない。土雲八十建の正体もわからず、不詳とされている。ただ、久米歌として知られる記10番歌謡に、「人さはに り 人多に 入り居りとも」とある。これは、室のなかに入って座って待機している様子を示している。また、賊には尾があると記されている。それをイヌのことと仮定してみると、イヌにお座りをさせた形、しゃがんだ様子を表していると受け取れる。そして、食べ物を与えている。イヌは鼻をクンクンと鳴らせながら、お座りしてじっとこらえて待っている。つまり、イナルという語は、イヌ(犬)+ナル(鳴・成・如)の約で、後足を畳みつつ前足は立てて三つ指をつくようにしていながら、k音を発してしきりに鳴くことをいうものと推測される。それは、同じイヌ科のキツネがしばしばとる、しゃがんだ姿勢でコンコンと鳴くことによく似ている。室にたくさんいてみな尻を地につけていたとあるのは、キツネの巣とされる狐穴のことが念頭にあったに違いない。
左:「イナル」(?)、右:王子稲荷の狐穴(落語「王子の狐」にも登場)
 神武記にある枕詞ミツミツシは、クメ(久米)に掛かる。この言葉の連関には、比比丘女ひふくめとも呼ばれる遊戯、子とろ子とろをもじっている。産婆の「専女たうめ」ともかかわりがある。子とろ子とろは東アジアでは鶏と深く関わった遊戯で、水稲稲作の流入と相俟っていると指摘されている(注7)。神武記に見られる土雲八十建の話は、ふだんから自然界と積極的に密接に関わっていたからこそモチーフとされ、創作されたものと捉えられる。室にイナルところのイヌ科の動物、イヌ、ないし、キツネといった多産の獣に対して、ミツミツシ=クメノコなる子連れのニワトリが取って代わるという主題が通底している。産屋に俵が付きまとっていたことも相同である。現在でも安産祈願に訪れる水天宮では、犬の置物が配られている。
 イナルという語が上のように把握されるとすれば、イネナリ社がイナリ社へと訛った段階からして、後足を畳みつつ前足を立ててしゃがみ座りするキツネのことが連想されていたことになる。文献上、稲荷信仰は中古に始まると認められるものの、イナリを稲荷と記して俵のことを想起させ、コムコム(米籠)と鳴くことを掛け合わせて狐を神のお使いとしたことの発端としては、上代の観念体系、すなわち、ヤマトコトバからして条件が整っていたと見定められる。舒明紀に、「天狗」と書いてアマツキツネと訓む箇所があった。雷のゴロゴロとキツネのコムコムの音が似ていたこと、狗の字にある句に「曲也」(説文)の意味があり、後足を畳むことがイヌにもキツネにも見られる特徴によったものであろう。民俗学では、狐と田の神との関連性が指摘されて通説化している(注8)。筆者はここに異論を唱えたが、諸説への反論は本稿の主旨から大きく離れる。
 以上、コムコムと鳴く神使いの狐が活躍する理由は、その昔のコムコムの俵との洒落に確かなものとなったものであると述べた。

初午

 稲荷社へ初詣に参拝する日として、古くから初午の日が好まれている。その理由については、五来2010.に、「これを要するに、稲荷神は稲荷山の山神で麓の民の耕作をまもり、稲や穀物の根元をつかさどると信じられた。その化身動物は狐であったが、これを麓の田や畑にむかえるには馬や絵馬をもってした。その時期が旧二月の耕作初めだったので、馬にちなんだ旧二月の午の日、すなわち初午が縁日になったのである。」(38頁)とある。民俗学に、田の神は馬に乗るのだとの解釈が通行している。しかし、身近な例として、お盆にご先祖様は胡瓜の馬に乗って来て、茄子の牛に乗って帰るとされている。さらに、伏見稲荷の場合、古くは山の頂に社は建っていた。枕草子に、「稲荷に思ひおこしてまうでたるに、中の御社のほど、わりなうくるしきを、念じのぼるに、いささか苦しげもなく、おくれて来とみゆる者どもの、ただいきに先に立ちてまうづる、いとめでたし。二月午の日の暁にいそぎしかど、坂のなからばかりあゆみしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、など、かからでよき日もあらむものを、何しに詣でつらむとまで、涙もおちてやすみこうずるに、四十余ばかりなる女の、壺装束などにはあらで、ただひきはこえたるが、『まろは七度詣でし侍るぞ。三度は詣でぬ。いま四度はことにもあらず。まだ未に下向しぬべし』と、道にあひたる人にうちいひて下りいきしこそ、ただなる所には目にもとまるまじきに、これが身にただいまならばやとおぼえしか。」(158段「うらやましげなる物」)とある。
 稲荷社ばかり初午詣を偏重する理由は、田の神や絵馬以外に求めなければならない。本稿で、イナリ信仰は、「稲荷」という字を宛がう発明をもってコムコムと鳴く狐と確かに深くまつるように進展していったと考えてきた。枕草子の例は、山の頂の稲荷社へ歩いて詣でるのがたいへんであるとの言い分である。稲荷社には馬に乗って行きたいとの願望もあるかと思われる。万葉集に頻出する「社」の字はコソと訓む。係助詞の意である。つまり、「稲荷社」という字面は、山頂に祀られる稲荷の方こそ来て欲しいという意味に受け取れる。そして、本稿では、稲荷を米俵のことと見ている。稲を荷物とした俵を馬が運ぶ様子は、石山寺縁起絵巻などにしばしば描かれている。租として都に運ばれた初荷の新米ほど、美味なるものはなかったに違いない。だから皆が希求した。食べればわかる、ウマシ(旨・甘・美)である。よって、稲荷社への参詣には初午の日が選ばれた。稲荷社とは、コメメたる俵こそメ(コ・メはいずれの場合も乙類)という洒落である。俵はタハラ(田原)だから、山の頂のような急峻な場所ではなく、平らな行きやすいところとのニュアンスすら感じられ、稲荷社のある稲荷山という語は、自己矛盾したおもしろい語であると思われたのであろう。その矛盾を解決してくれるキーワードがウマ(馬・旨・美)であった。
馬借(石山寺縁起絵巻模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)
 人は言葉によって考える。大多数の人がそうだね、そのとおりだね、と納得できることでなければ、長い年月、時代を越えて人々に受け入れられ続けるはずはない。そのもとが無文字時代、あるいは、無文字生活が一般的であった時代ならばなおさらである。諳んじられないことは考えられず、広まることはない。言葉は音声言語でしかなかった。考えるとは、頓智を働かすことであった(注9)

(注)
(注1)五来2010.では、伴信友の『験の杉』において、狐と稲荷の関係は密教の陀祇尼天(荼吉尼天)によるとしている説を批判している。狐の古語はケツネであり、ケは朝餉などのケ、ネは根で、食の根源を示すものであるからという。

 それ[伴信友『験の杉』であげた重要な史料]は鎌倉時代以前にできた神道五部書の『倭姫命世記やまとひめのみことせいき』と『天照坐あまてらします伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(略称『御鎮座伝記』)で、前者に、
  御倉神みくらのかみ専女たうめ也。保食うけもち神是也。
とある専女は狐のことで、これが保食神、すなわち宇迦之魂神である稲荷神とおなじだという。また後者に、
  御倉神三座。素戔嗚尊子すさのおのみこと宇賀之御魂うがのみたま神。亦名専女たうめ。三狐神。
とある三狐神はミケツ神とよみ、「御饌津みけつ神」とおなじであろう。伴信友翁はここで割注をくわえて、
  今山城葛野かどの郡松室の西の路傍に狐斎ケツネサイといへる小社あり、狐字を書てケツネとよめり。山城わたりの里人の中、また京人にも、賤しきものゝ中には、狐をケツネともいへり。他国にもしかふ処ありとぞ。
と重要な発言をしている。これで真宗徒の密書や陀祇尼天を引かないでも、稲荷は狐神であるということはもう一歩で結論づけられたものをと、私はたいそう惜しいとおもう。(28頁)

 曼荼羅に描かれて伝わっているダーキニー像と、我が国の中世以降に描かれた狐に載った陀祇尼天(荼吉尼天、荼枳尼天、拏吉尼天)像とはずいぶんと印象が異なる。
荼吉尼天像(絹本着色、室町時代、16世紀、東博展示品)
 古今著聞集・265「知足院忠実大権房をして咤祇尼の法を行はしむる事并びに福天神の事」に、狐の登場する話が載り、弘法大師行状絵詞に、稲を荷う老翁と大師との逸話が描かれるが、由来とするには十分ではないようである。
 弘法大師行状絵詞・巻八・第三段、詞書に、「同[弘仁]十四年正月十九日、大師、恩詔を受け、東寺を賜はりて、永く真言の道場と為し給へり。其の年四月十三日、彼の紀州の化人、稲を荷ひ椙を持ちて、両婦を伴ひ二子を率ゐて、東寺の南門に来り、望み給ひしに、大師、逢ひ奉りて悦びを成し、誠を抽んでゝ、神徳を崇め、法味をすすめ給ひし時、道俗、是を敬ひて、瑚璉これんを供へ、簠簋ほきを献じ奉れり。其の後、暫く八条二階の柴守が宅に宿し給ふに、大師、其の間、帝都の巽に当たりて杣山を点じ、利生の勝地を定めて、一七ヶ日夜の間、法によりてぞ鎮壇し給ひける。今の稲荷の社、是なり。彼の八条の二階堂は、今の御旅所なり。大師、神輿を作り、額を書かせ給ひて参らせられしかば、今に、祭礼の時、是を出し奉るとなむ」とある。
 狐の由来とする説には他の考え方もある。中村2009.に、「狐が稲荷神の使いとして見られるようになった理由にはいくつかある。ひとつは、狐の持っている尻尾の形態が稲穂に似ているという連想から来たという説がある。かつては日本中に狐は生息していたが、人家の付近にもよく出没し、人間にとってもなじみ深い動物だった。狐の甲高い鳴き声、鋭い眼光、素早い動作など、人々はその姿や習性を不思議に思い、狐を神の使いではないかと考えるようになった。……さらに、狐は農耕にとって害獣となる野ネズミや野ウサギを退治したり、小動物を追って水田の近くによく現れることから、農耕神の使いと考えられるようになったともいわれている。……問題は、そうして何世代にもわたって受け継がれてきたであろう「イナリ・イメージ」がわれわれの意識の深層にも蓄積されており、深層心理の次元ではなかば独立した意志を持った「意識場*3」になりうるということである。それがイナリの神と交感するとき、ご神徳、ご神威しんいとなって信仰者に体験されるのである。」、「*3 「意識場」とは人間を含む生命体の想念が作り出す集合的な意識をさす概念であり、精神と物質の連関作用を引き起こすと考えられている。」(58~59頁)とする。この考え方は奇異に感じられる。江戸期以降、農耕を知らない都市の商人に信仰されていることまで、往年の刷り込みによるとでもいうのであろうか。
(注2)鳥獣人物戯画・甲巻に、尾に狐火をつけ、ハスの葉を的にして弓を射る場面がある。そのモチーフは、山城風土記逸文と稲荷の字義によっている可能性がある。秦伊侶具の的の話と、狐、ハスの葉とが登場している。偶然の一致であろうか。後考を俟つ。
鳥獣人物戯画・甲巻(ウィキペディア「カエルとウサギの弓矢の稽古の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥獣人物戯画をトリミング)
(注3)桟俵作りから身を起こす話が落語の「鼠穴」にある。
(注4)古く文献上の用例は見られないが、近世において柳多留に見えるように、俗語としてあり得た可能性を示す語である。
(注5)ひさかたの 雨も降らぬか 蓮荷はちすばに たまれる水の 玉に似たる見む(万3837)
    右の歌一首は、伝へて云はく、「右兵衛うひやうゑなるもの有り。〈姓名未だ詳らかならず。〉多く歌を作る芸を能くす。時に、府家ふか酒食しゆしを備えけ、つかさ官人みやひと饗宴あへす。是に饌食せんしは、盛るに皆荷葉はちすばを用ちてす。諸人もろひとたけなはにして、歌舞かぶ駱駅らくえきせり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく、『その荷葉にけて歌を作れ』といへれば、登時すなはち声にこたへての歌を作りき」といふ。
(注6)産婆と専女については、拙稿「ヤタガラスについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/54f3ec65ce7132af6c41aa9e5ad9db32ほか参照。
(注7)この点については、拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9e373aa9a09a27ff911394b6ad7d2077において考証し、比比丘女ひふくめとも呼ばれる遊戯、子とろ子とろとの関係を見た。その際、産婆の「専女たうめ」との関係や、寒川2003.に引くEberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden, 1968.の説に、東アジアでは鶏と深く関わった遊戯であって、水稲稲作の流入と相俟っているとの指摘についてもふれた。
(注8)民俗学では、狐と田の神との関連性が指摘されて通説化している。柳田1999.、坪井1999.など参照。筆者はここに異論を唱えたが、諸説への反論は本稿の主旨から大きく離れる。
(注9)デリダ1972.に、「われわれはただ記号のうちでのみ思惟するのだ。(We think only in signs.)このことは、……まさに記号の要請が記号の権利という絶対性の中に認められるそのときに、記号の概念を破壊してしまう。超越論的な<意味されるもの>の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際限化(illimitation)であって、……世界における戯れのあらゆる形態を理解せんとする前に、まず考えねばならぬのは世界の〔という〕戯れである。」(103~104頁)とある。なお、デリダは、戦略的に「エクリチュール(écriture)」という語を使っている。記紀万葉に残されている無文字時代にあった上代人の言語活動の爛熟ぶりからは、西洋思想はなんとも迂遠な議論を行っていることよと哀れに思われてしまうものあろう。

(引用・参考文献)
大藤1967. 大藤ゆき『児やらい─そのけがれと神秘─』岩崎美術社、1967年。
大森2011. 大森惠子『稲荷信仰の世界─稲荷祭と神仏習合─』慶友社、2011年。
岡田2003. 岡田哲編『たべもの起源事典』東京堂出版、2003年。
五来1985. 五来重「総論─稲荷の現象学と分類学─」同監修『稲荷信仰の研究』山陽新聞社、1985年。
五来2010. 五来重『宗教歳時記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成22年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
瀬川1980. 瀬川清子『女の民俗誌』東京書籍、昭和55年。
坪井1999. 坪井洋文「神使としての狐」山折哲雄編『稲荷信仰事典』戎光祥出版、1999年。
デリダ1972. ジャック・デリダ、足立和浩訳『根源の彼方に─グラマトロジーについて(上)─』現代思潮新社、1972年。
中村2009. 中村雅彦「キツネが神使となった理由」中村陽監修『稲荷大神─お稲荷さんの起源と信仰のすべて─』戎光祥出版、平成21年。
日本国語大辞典 『日本国語大辞典第二版 第八巻』小学館、2001年。
根木2005. 根木修「水稲耕作における種籾貯蔵の意義」『龍谷大学考古学論集Ⅰ』同刊行会発行、2005年。
早川1973. 早川孝太郎「稲作の習俗」宮本常一・宮田登編『早川孝太郎全集 第七巻─農経営と技術─』未来社、1973年。
柳田1999. 柳田国男「狐塚の話」『月曜通信』(『柳田國男全集20』筑摩書房、1999年所収。)

※本稿は、2014年6月稿を改めた2019年9月稿を2020年3月に整理し、2024年4月にルビ形式にしたものである。

水天宮の犬の置物

2018年10月21日 | 上古・中古・中世・近世
水天宮の犬の置物(トリップアドバイザー提供)

水天宮の張り子の犬の置物は、安産のお守りとして親しまれている。
頭に籠をかぶっている。
なぜだろうか?
人に聞いてみました。

A氏の説:竹冠に犬と書くと「笑」という字に見えるでしょう。
B氏の説:籠には魔除けの力があると信じられてきたからです。

私にはどちらの説も隔靴掻痒で、納得が行きませんでした。そこで、もう一人、聞いてみることにしました。ただ、このご老人は狷介な方で、問うとは問い尋ねることなのか、などとのっけから仕掛けられて疲れます。「C氏の説」は自ずと問答形式となります。

私:どうして安産のお守りに、犬が籠をかぶっているのですか?
C氏:お前の家の犬はどうなっている?
私:犬は飼っていません。
C氏:バカか。一般論を聞いとるんだ。
私:籠などかぶっていません。
C氏:本当にバカか。散歩はどうしてるんだ。
私:リードでつないで行っています。
C氏:だからだ。
私:えっ?
C氏:そんな置物を配れるか?
私:えっ?
C氏:縁起でもないだろ。
私:えっ?
C氏:本当にバカなのか。犬は多産で安産だ。ぴょこぴょこ出てくる。出て来た時、へその緒が赤ちゃんの首に巻きついてたらどうするんだ。
私:あっ、まずいですね。
C氏:だから、犬の置物に首輪がない。
私:では、籠は?
C氏:しつこい奴だな。カゴ、カゴって。どうしてカゴって濁るんだ。
私:濁るもなにもカゴでしょう。
C氏:お前は本当に言葉の研究をしているのか?
私:はぁ。
C氏:上代には、コって澄んでいたんじゃないのか?
私:あっ、はい。コは甲類です。
C氏:ほらほら、また変なこと言い出したぞ。コ(籠)だからコ(子)だとか言いたいのか。
私:えへへ。
C氏:江戸時代に通じるか。
私:江戸時代なんですか?
C氏:おいおい学者か? 堕落したいんなら帰れや。
私:いえいえ。
C氏:籠はカコだ。
私:カコって過去ですか?
C氏:何だって? 新しい命が生まれようというのにお寺へ行ってどうする。お前、片足突っ込んどるのか?
私:えへへ。
C氏:水天宮で配っているのは本当は何だ。
私:本当って言いますと?
C氏:お値段の張るやつだ。
私:腹帯です。
C氏:その代わりだ。
私:えっ?
C氏:間抜けな奴だな。腹帯はベルトだ。ベルトを止めるのが鉸具(かこ)だ。バックルって言わなきゃわからないのか。
私:なるへそ。
C氏:何がなるへそだ。何を見に博物館へ行ってるんだ。
私:すいません。
C氏:籠は鉸具(かこ)だ。だから頭にかぶってる。
私:腹にはつけないんですか?
C氏:どうやって腹に籠をつけるんだ。お前は物事の本末を知らんのか。カコカンドリ。カコが頭に来るだろう。
私:鹿島・香取神宮が出てくるんですか?
C氏:お前は大丈夫か? 水天宮とは商売がたきだろうが。
私:はい。
C氏:カコカンドリって言えば水手(かこ)と舵取(かじとり)のことだ。それになぞって茨城の神社が言ってるだけだ。船の前からどういう配置だ。オールを漕ぐ水手(かこ)が前、舵取(かじとり)は後ろ。だから頭にカコが来るんだ。
私:犬の尻尾は舵ですか。
C氏:犬が西向きゃ尾は東!
私:はぁ。
C氏:頭に舵の船があったら、どうなる?
私:進めません。
C氏:違う。
私:うーん?
C氏:流れるだろ。
私:は、はい。
C氏:縁起でもないじゃないか。
私:あっ、なるほど。
C氏:物事の本末が大事ぐらい心得とけ。お前は逆子で生まれて来たのか?
私:さあ、どうだか。
C氏:これだから若い者は駄目だ。
私:若くもありませんが。
C氏:なおさら駄目だ。
私:恐縮です。

C氏の説(まとめ):多産で安産な性質の犬の形のうえに、臍帯巻絡と流産と逆子のないことを祈り込めたものでしょう。

聞いただけのことはあった。感服した。お産の実情をなにしろよく物語っている。かつては経験豊かなお産婆さんに頼んだものであるが、3つの困難な事態に遭うとお産婆さんも顔を曇らせたに違いない。では、どうしたらいいのか。祈るしかない。だから、張り子の犬のお守りをありがたいものと感じていただいて来ていた。神職の言葉に、「“祈り”は真剣に生きようとするところに初めて生まれる」(岡本健治)とある。生きるとは祈ることであった時代のお守り、それが、水天宮の籠をかぶった張り子の犬の置物である。
緑釉犬(中国、後漢時代、2~3世紀、武吉道一氏寄贈、東博展示品。首環と胴環に子安貝模様、墓を守る番犬とも被葬者を冥界へ導くともいう。)
金銅製帯金具残片(奈良県橿原市川西町新沢千塚126号墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)

ガラパゴス的に進化した水との戦い

2017年11月15日 | 上古・中古・中世・近世
 水漏れを防ぐことは、堤防や地下道に限らず、生活に欠かせない技術です。防水技術は近年とても進歩して、少し前の時代の苦労が忘れられているようです。屋根がどうして三角なのか? それは、デザインの問題以前に、雨露を防ぎたいからです。軒を出さないと、壁にしている土や板が雨に濡れて早く劣化してしまいます。
民家の屋根(日本民家園)
 水漏れが命取りになるのは船です。和船の技術では、木をあわせて作るようになってから、接合部に槇肌などをパッキンにするようになりました。同じころ、中国では、石膏・麻・桐油等を練り合わせた充填材を詰めていたそうです。今日、木をあわせて船を作ることは行われなくなりました。船大工さんは、FRP(ガラス繊維強化プラスチック)船を作ることばかりでなく、マンションの防水工事などに転職されていると伺ったことがあります。FRP船は丈夫で壊れないため、かえって今では不法投棄が問題になっているようです。
 それはさて、その和船の作り方を応用して、江戸の町の上水道は作られました。ヒューム管や鉛管、塩ビパイプ以前、我が国の水道技術はオリジナルの、いわゆるガラパゴス的進化を遂げていたようです。
舟釘の打ち方(神奈川大学展示ホール展示品)
上水木樋接合材(舟釘と槇肌、東京都水道歴史館展示品)
上水木樋遺構(小伝馬町牢屋敷内、十思スクエア展示)
上水木樋(江戸城本丸掛部分、日比谷図書文化館展示品)
 だからどうということはないのですが、英語にライバル(rival)という語は、川(river)を語源とし、水争いをする者のことを言ったようです。この列島のように、どちらかといえば過剰なことの多い水を取りあうことはあまりなかったでしょうから、そういうふうには言葉は作られなかったということがわかります。

犬の遠吠え

2017年09月15日 | 上古・中古・中世・近世
 人間の言葉に、擬態語、擬音語、擬声語と呼ばれる分野がある。オノマトペとして一括されることもある。
 人が人の声を写すことは、それほど難しくないかもしれないが、動物の鳴き声を言葉に写すことは、文化的な恣意性をかなり有していると思われる。ニワトリの鳴き声が、現在の日本人は「コケコッコー」と表現することが多いが、江戸時代では「トウテンコウ(東天紅)」と表していた。英語では「クックドゥードゥルドゥー(Cock-a-doodle-doo)」、フランスでは「ココリコ(cocorico)」、ドイツでは「キケリキー(kickeriki)」、イタリアでは「キッキリキー(chicchirichí)」、中国では「コッコッ(咯咯)」や「オーオーオー(喔喔喔)」等と表している。全然違うではないかと思うが、音韻体系の枠組みに囚われているからそう思うだけで、先入観を持って聞けばそう聞こえる。ここでは、イヌの鳴き声について、古く日本でどのように表していたか考える。
 イヌについて、現在の日本人は、「ワンワン」と鳴くものだと疑わないが、英語に「バウワウ(bow-wow)」と似て非なる音に写している。歴史的な文献に、イヌの鳴き声、吠え声を文字表記した例として、ギャウ、ヒヨというものがある。

 ……此ノ鬼ノ頭(カシラ)ノ方(カタ)ヲハタト蹴(クヱ)タリケレバ、頭ノ方ノ黒キ物ヲ蹴抜キツ。其ノ時ニ見レバ、白キ狗(イヌ)ノ行ト哭(ナキ)テ立リ。(今昔物語・巻第二十八・第二十九、平安時代後期)
 また、清範律師(せいはんりし)の、犬のために法事(ほふじ)しける人の講師(こうじ)に請(しやう)ぜられていくを、清照法橋(せいせうほつけう)、同じほどの説法者(せほふざ)なれば、いかがすると聞きに、頭(かしら)つつみて誰ともなくて聴聞(ちやうもん)しければ、「ただ今や、過去聖霊(くわこしやうりやう)は蓮台の上にてひよと吠(ほ)え給ふらむ」と宣(のたま)ひければ、「さればよ。異人(ことひと)、かく思ひよりなましや。なほ、斯様(かやう)の魂(たましひ)あることは、すぐれたる御房(ごばう)ぞかし」とこそほめ給ひけれ。誠に承(うけたまは)りしに、をかしうこそ候(さぶら)ひしか。これはまた、聴聞衆(ちやうもんしゆう)ども、さざと笑ひてまかりにき。いと軽々(きやうきやう)なる往生人(わうじやうにん)なりや。また、無下(むげ)のよしなしごとに侍れど、人のかどかどしく、魂あることの興(きよう)ありて、優(いう)におぼえ侍りしかばなり。(大鏡・道長・雑々物語、平安時代後期)
 吽〈牛喉反、ホユル、クム〉声(ムモ)也 咩〈羊、ヒツシ、ヌイ〉声也 吠〈犬之音也、ヘイ、ヒヨ〉(悉曇要集記、1075年)

 第一例については、「行」はギャン、またはキャンに当たるとされている。松尾2007.は、「ギャン」に近い音を表すために濁点を強調しようとして、わざわざ漢字表記した可能性があることを、他の例から推し量り指摘している。蹴られてギャンだかグウだかなんだか唸ったうめき声であるといえる。
 第二・三例については、山口2002.に詳しい。これらの例と、時代の下る狂言記(1660年)の「びよびよ」、近松門左衛門・用明天王職人鑑(1705年)の「別府(べう)」という表記から、昔の犬の声を、濁点をつけた「びよ」「びょう」と写していたと推定している。そして、それにつらなる「べうべう」といった書記は、単なる犬の吠え声ではなく、遠吠えの声であると考えている。さらに、犬の吠え声が、「びよ」「びょう」から「わん」へと変化していった点について、「環境の変化による犬の鳴き声自体の方に、質的変化があったと考えても不自然ではありません。」とし、「江戸時代以前では、……野犬が横行し、捨て子を襲って食べたり、人間の死肉を食べたりしています。だいたい昔の大は、放し飼いでした。……放し飼いの犬はすぐに野犬になります。平安末期の『今昔物語集』にも、夜の間に女が野犬に食い殺された話が出て来ます。……総じて江戸時代以後の落ちついた環境で飼われる犬よりも、野性味をおびていたことだけは確かです。そうした時の犬の声は、闘争的で濁ってドスの効いた吠え声であったと想像されます。「わん」と写すより、「びよ」「びょう」と濁音で写すのがより適切と思われるような声であったのではないでしょうか。「びよ」「びょう」から「わん」への言葉の推移は、犬自体の吠え声の変化を写し出していると、私は推測しています。」(134~135頁)としている。
 筆者は、この説に異を唱えたい。大鏡や悉曇要集記に見られる「ひよ」という形は、犬の遠吠えの声であると考える。11世紀の「ひよ」と江戸時代の「びよびよ」「べう」「びょう」とを一括りにしてはいけない。「びよびよ」「べう」「びょう」が遠吠えの声を写したものなのかについても確信が持てない。
 イヌの声については、平岩1991.に、次のように整理している。

 犬の声の種類
 私は、犬の声は、だいたい次の六種に分けるのが、一番わかり易いと思う。これは昭和七年(一九三二年)以来、私のいつも慣用してきた分類である。
(1)吠(ほ)え声 (ワンワン)家畜となってから発達した特有の犬の声で、これが警戒の時、用いられることは誰でもよく知っているが、嬉しい時も同様である。声の調子と全身の表現で簡単に区別できる。
(2)鼻 声 (クンクンまたはヒンヒン)どちらも何か訴(うった)える声で、外出、空腹、退屈などすべてこれだから、その時の状態で判断するほかはない。クンクンよりヒンヒンの方が意味が強い。
(3)喉(のど) 声 (アーアー)機嫌のよい時の声。たとえは草地などにころがっていて出す……。
(4)唸(うな)り声 (ウーッ)威嚇の声で、これには必ず、鼻の上に皺(しわ)をよせ、上唇を引きあげて牙をあらわすという特別の顔がつきものである。その目的は、大きな牙を見せて相手をおどす点にあるのだが、鼻の上に皺をよせなければ、唇が上にあがらず、唇を上にあげなければ、牙(きば)が出ないのである。また、この唸り声をたてる時は、たいてい肢(あし)を強く踏みはり、背中の毛を逆立てて、できるだけ自分の体を大きく見せようとする。
(5)高鳴(たかな)き (キャンキャン)痛みをあらわす悲鳴。
(6)遠吠え (オーオー)遠くにいる友を呼ぶ声。これを聞いたものも、同じように遠吠えでそれに応答するのが普通で、静かな夜などに、付近の犬が皆いっしょに遠吠えをするのは、一般の方もご存じの通り。そしてハーモニカやサイレンのような遠吠えによく似た音を聞いても、犬はやはり、それに誘われて遠吠えをする。もともと遠吠えは、野生の時代に、狼と同様獲物を追う時、仲間を呼び集めた声なのだが、家犬となった現在でも、この本能はすぐ呼び覚まされるとみえる……。(115頁)

 残念ながら、「ひよ」も「びよびよ」「べう」「びょう」も出て来ない。イヌの遠吠えは、動物園に聞くことのできるオオカミの遠吠えに近いものと推測される(注1)。イヌにとって、吠える目的のようなものが、遠吠えと近吠え(?)では違う。これはきちんと区別して考えなければならない(注2)。イヌやオオカミの身になって考えることが必要である。「ひよ」は人間が活写したものに過ぎないが、古く、人は、動物との距離が今とは比べ物にならないほど近かった。一般論であるが、昔の人と今の人よりも、昔の人とイヌの方が気持ちは近いのではないか。昨今のペット溺愛は、イヌがヒト化していて(あるいはヒトがイヌ化していて)事情が異なる。
黒い犬の遠吠え(?)(板橋貫雄模、春日権現験記第八軸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287493?tocOpened=1(7/20)をトリミング。黒い犬は遠吠えをし、家の内にいる白い犬は吐瀉物を食べている。つながれない家犬だが、野犬化しそうに見えない。)
「柴犬タローの遠吠え」(毎日のんびーブログhttp://mainichi-38.net/?p=5185)
 大鏡の文脈は、清範律師という人を引き付ける説教をするお坊さんがいて、犬の法事の依頼があったときのお話である。当日、この世を去った犬の聖霊は、いまごろ極楽浄土の蓮台の上で、「ひよ」と吠えていらっしゃることでしょうとお話をされた。聴衆は愉快に笑って、才気ある説教ぶりがなおのこと有名になったという。清範律師の講話のうまさを述べ伝える話の要に、犬の吠え声の「ひよ」が出てくる。犬は死んであの世へ旅立ち、向こうで蓮台の上に座って「ひよ」とお吠えになっているであろうというのである。お犬様に転じている。「お犬」という言葉は、三峯神社で神の使いとされるオオカミ(大神)のことである。大神のことと直接の関係はないであろうが、ついこの間まで家のあたりで飼われていた犬が、亡くなって成仏して聖霊として蓮台に鎮座ましましているように語っている。お座りの姿勢をとっている。そして、上を向いて遠吠えをしているようである。姿を彷彿させてとても面白い。
 注意点がある。律師は、「ただ今や、過去聖霊は蓮台の上にてひよと吠え給ふらむ」と宣っている。あの世へ行っているというのだから、七七日の法要か何かであろう。そして、「ひよ」という遠吠えと思われる声は、さて、何のための声と思っているのであろうか。第一に考えられるのは、あの世から、この世のご主人様へ、遠く吠えて寂しがっているということである。ご主人様が近くにいるならワンと吠えるが、遠いあの世の蓮台の上からご主人様を呼ぶために、遠吠えの声となっている。憂いを帯びた声である。

 爰(ここ)に万(よろづ)が養(か)へる白犬(しらいぬ)有り。俯し仰(あふ)ぎて其の屍の側(ほとり)を廻(めぐ)り吠ゆ。(崇峻前紀)

 第二に、犬があの世で蓮台の上で遠吠えしているのは、読経のためであると捉えた可能性もある。平岩1991.に、近世の文献に、経を読む犬として面白がられた例が記されている。菊岡米山・諸国里人談、伴蒿蹊・閑田耕筆、暁鐘成・犬の草紙などに、僧侶の読経や声明の声につれて吠えることが記されている。イヌとしては遠吠えをしているだけなのであるが、朗々と歌うような読経に呼応して続くから、一緒になってお経を唱えているものと思われたというのである。このような状況が、清範律師の日常にもあったとすれば、律師が講話に浄土の犬の吠えていることを伝えたのは、とても身近な事柄であったからということになる。だから、犬畜生のことを「聖霊」と呼んでいる。律師は、つい先ほどまで、犬の法事でお経を唱えていた。亡くなった犬が浄土でもそれに答えるかのように遠吠えをする様子が目に浮かんできた。もちろん、読経に合わせて遠吠えしている犬は、お経を読んでいるわけではないことは11~12世紀の人も知っていたであろうけれど、不思議で興味深い様子であると観察していたに相違あるまい。お経を読むぐらいだから、犬だって極楽往生できるのは当たり前のことだと解釈し、さらに、それがあの世でも、「ひよ」とお経を読んでいると聴衆に想像させている。まったく信仰心が篤い犬だなあ、だから極楽へ行けたのだなあと、ほのぼのさせてくれている。
光背および蓮華座(康円(1207~?)、鎌倉時代、文永10年(1273)、興福寺伝来、東博展示品に「柴犬タローの遠吠え」を合成)
 遠吠えについては、ホユ、咆哮、howl という動詞自体、オノマトペ的に表わした言葉である。頭子音が〔h〕、〔Φ〕、〔f〕系の音である。時代的、地域的なばらつきを加味した上でも、頭子音に格別濁音が現れていない。濁音という概念のあいまいさを含みおいても、これは明らかな兆候ではないかと思われる。その理由として考えられるのは遠吠えという事象にある。イヌの声には、人間の耳には聞こえない高い周波数の音声があって、それは犬笛の存在によってよく知られている。可聴域と不可聴域との境界の高い声について、それを人間の言葉の濁音として転写することはあまりないであろう。再発声が難しくなる。ドスの効いたというドスを、とても高く発音すると意味は通じにくくなる。オリンピックの金メダルと銀メダルが聞き取りにくいのは、日本語の抑揚に同じである点を放置し、アナウンサーが高低によって隔てようとする意識を持ちたがらないからである。清濁発声の口の使い方に、濁音に低音を求める傾向は必然的に備わっている。
 犬の遠吠えが、どれぐらい先まで届くかは知れないが、オオカミの遠吠えは何キロも離れたところまで届く。その昔は山にオオカミがいて、オオカミ同士が遠吠えして仲間を呼び合うことがあり、それにつられて家のイヌも遠吠えに加わっていたようである。2~4万年前に、東アジアの南部でオオカミから家畜化されてイヌへと分化して以降も、ご先祖様の性質を受け継いで遠吠えをした。耳にすると遠い記憶がよみがえるらしい。本能なのだから自然とそうなる。今日、山にオオカミはいない。それでも時に飼い犬の遠吠えを聞くことができる。例えば、オペラ歌手の歌声や、救急車のサイレンに反応して遠吠えを始める。おそらくイヌにしてみれば、呼ばれているから答えているに過ぎないのであろう。家の中にいて、それが救急車であるという知覚、認識は持っていない。勝手に反応して、遠吠えを始めてしまう。救急車の音は、擬音語として表すと、日本語を母語とする人なら誰しも、ピーポーピーポーと表すであろう。周波数が整っているわけではないから、別にビーボービーボーでも構わないのに、高い音ということでそう写している。そしてまた、イヌは口笛にも反応して遠吠えをすることがある。口笛の擬音語は、ピイーであろう。
 筆者は、ここに、大鏡や悉曇要集記に記載の「ひよ」という音写の正当性をみてとる。イヌの遠吠えが遠く呼び掛け合う声であってみれば、それを写した「ヒヨ」が、ビヨやビョウなどといったドスの効いた低い声とすることはできない。人間の聞こえない高音域を含めて高く通る声を求め、オオカミもイヌも上を向いて喉をすぼめて息を吐いている。低く沈んだ声では、山の向こうまでは届かないとわかる。大鏡や悉曇要集記のヒヨは、清音であったほうがよりわかりやすいといえる。そしてまた、犬のために法事をしたとあるからには、飼い犬の愛犬であって野犬化したものではない。イヌが飼われて生活が安定したことと、遠吠えをしないこととはあまり関係がない。まわりの山からオオカミが姿を消すなどして、遠吠えを呼び起こさない音環境にありつづけて、イヌの声はワンワンに代表される鳴き方へ収斂していったものと思われる。時に救急車のピーポーピーポー(〔piːpoːpiːpoː〕や〔ΦiːΦoːΦiːΦoː〕)に反応するのだから、オオカミの声、すなわち、イヌの遠吠えの声は、11~12世紀にヒヨと記されて何の不思議もない。実際の発音としては、〔Φiyo〕や〔Φyoː〕といった音と捉えられたのであろう。発声の意識が唇に始まり喉へと奥まっていく遠吠えらしい音である。ピヨピヨと短く繰り返されるのはヒヨコの鳴き声だが、長く引き伸ばされてオオカミ並みに頑張れば20秒ほどにもなる一声がイヌの遠吠えである。
 大鏡の、「いと軽々なる往生人なりや」について、一般に、剽軽な、と訳している。少しく不親切である。源氏物語・若菜上に、蹴鞠に関して、「軽々なり」とする個所がある。軽やかな、軽率な、騒々しい、といった訳語が当てられている。空中に挙げることと「軽々」とは意味連関が働いており、意識の底で結びついている。大鏡において、律師の話の壺は犬の吠え声にある。具体的に「ひよ」とまで表している。参列者にはよく知られたイヌであり、その声も聞き知っていたことと思われる。往生を遂げて極楽浄土の蓮台の上で遠吠えしている犬の情景として想像するなら、特に事故死したという記述は見られないから、カエルでもないのにハスの上に乗っているところが軽いと思う心と、律師の読経に追随した遠吠えが騒がしく、また、厳粛な読経に軽く高い大きな声で参加している点が軽はずみであるとする感覚があって、「軽々なる往生人」という形容が試みられているのであろう。「軽々なる」のかろがろしい様は、音声にも当て嵌まるところからしても、イヌの遠吠えの声「ひよ」は清音であろう。カエルの合唱とイヌ遠吠えの読経合唱とが連想されていて、カエルのガアガアやお経の観自在菩薩……の濁音ばかりつづく唱え言葉との対比に、まったくもって愉快滑稽で面白く、そして妙にして心温まる、罪のない楽しい法話であると評価された話としてまとまっている(注3)

※文中に「イヌ」、「犬」と表記が混在しているが、一応の目安として自然の文脈に「イヌ」、文化の文脈に「犬」とした。むろん、境界をきわめられるものではない。

(注)
(注1)オオカミの遠吠えの特徴については、ツィーメン2007.に次のようにある。イヌにも同じ傾向が受け継がれていると思われるので参考とした。

 オオカミのおそらくもっとも独特な声は遠吠えである。長く引きのばされたメロディカルなウーという声で、唇を前方に伸ばし、口を軽く開けて息を吹き出すことで出る。このとき、たいていオオカミは頭を上方に向け、耳をうしろにねかせる。一回の遠状えはしばしば二十秒もの間つづく。新たに息をついだあと、さらにもう一回の遠吠えがつづくこともあるから、全部で数分つづくこともある。ときには個々のオオカミが何時間も遠吠えをつづけることすらある。そのときには、ふつう、一回一回の遠吠えの間の休止はいくらか長くなる。群れのオオカミの遠吠えはそれぞれ非常に独特である。私は、自分のオオカミたちの区別するのをとくに難しいと感じたことはなかったし、オオカミたち自身も個々の遠吠えを聞き分けることができる。これはとりわけ、群れのオオカミがコーラスに加わる順番についての記録から明らかである。オオカミは他のオオカミの遠吠えを聞くと、大変強い刺激を受け、自分も遠吠えをはじめるので、最初一頭のオオカミではじまった遠吠えが、まもなく群れ全体の遠吠えのコーラスになることがよくある。それでも、単発の遠吠えがかならず遠吠えのコーラスをもたらすとは限らない。たとえば地位の低いオオカミの最初の遠吠えが、地位の高いオオカミの遠吠えのきっかけになることはまれである。明らかにオオカミは、仲間のそれぞれの遠吠えを区別するだけでなく、それぞれの遠吠えを特定の個体と結びつけることもできるらしい。またオオカミは、未知のオオカミ(またはイヌ)の遠吠えを自分の知っているオオカミのそれから区別することもできる。子オオカミや若いオオカミの遠吠えは、おとなのオオカミのそれよりも高い音域にある。かれらが群れの中で遠吠えをはじめるのはまれであるが、老オオカミの遠吠えにはとてもはやく反応する。……飼育下の一つの群れのオオカミたちが別々に隔離されたとき、囲い地に一緒に飼われていたときよりもはるかに頻繁に遠吠えをした……。……人馴れしたオオカミたちとともに営林署員官舎を離れると残されたオオカミたちは決まって遠吠えをした。……遠吠えをするのは主として残された地位の高いオオカミで、しかも、そのオオカミのパートナーや、他の優位の個体、そして囲い地から離された子オオカミがとくに遠吠えをすることがわかった。逆に優位の一頭のオオカミ、あるいは最高地位のオオカミが囲い地から出されると、残された群れは、劣位のオオカミが出されたときよりも頻繁に遠吠えをした。(106~108頁)

(注2)secretaryvideo様「2種類の吠え方の巻」https://www.youtube.com/watch?v=FpD2kFM0t5E参照。
(注3)蓮台は、蓮の葉のことではないかとも考える。カエル(古語にカヘル、ヘは甲類)のいる光景にあわせて見ている。法要されている犬は、飼い犬であった。亡くなっているので、飼っていた犬である。完了の助動詞リがついて、カヘルイヌ(ヘは甲類)である。上に崇峻前紀の用例を見た。

(引用・参考文献)
ツィーメン2007. エリック・ツィーメン著、今泉みね子訳『オオカミ―その行動・生態・神話―』(新装版)白水社、2007年。
平岩1991. 平岩米吉『犬の行動と心理』築地書館、1991年。
松尾2007. 松尾樹里「『今昔物語集』における漢字表記の擬声語について」『国語学攷』第194号、広島大学国語国文学会、平成19年6月。
山口2002. 山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い―』光文社(光文社新書)、2002年。

※本稿は、2017年9月稿を2020年9月に整理したものである。

滑石製刀子副葬の意味

2017年08月01日 | 上古・中古・中世・近世
 古墳に、滑石製のミニチュアが副葬されていることがある。各種あるが、ここでは滑石製刀子の意味について考える。
 その様子を見ると、鞘に納められている姿で模造している。わざわざミニチュアを拵えた理由は、刀子を表したかったからではなく、鞘を表したかったからと推測される。鞘を縫った針孔ばかりか糸目を表現したものも見られる(注)
石製刀子(奈良県河合町 佐味田宝塚古墳出土、古墳時代、4~5世紀、東博展示品)
 和名抄には次のようにある。

 刀子 楊氏漢語抄に云はく、刀子〈賀太奈(かたな)、上、都穻反〉といふ。(細工具)
 剣鞘 郭璞方言注に云はく、鞸〈音旱〉は剣鞘也といふ。唐韻に云はく、鞘〈私妙反、佐夜(さや)〉は刀室也といふ。(弓剣具)

また、新撰字鏡には次のようにある。

 鞘 思誚反、平、刀剣の室を成すを謂ふ、失知乃乎、又佐也(さや)。(鞘 思誚反平謂成刀剱室失知乃乎又佐也)

 中ほどの「失知乃乎」は、「失知のヲ(緒)」、備忘の用となる緒、手掛かりという意味であろう。刀子には大きさもさまざま、先の尖り方や反り、刃の幅もさまざまで、たくさんの数を使い分けていた。今日でも、初心者用の彫刻刀でさえ、平ら、斜め、U字、V字の刃がセットになって売られている。その数多い刀子を使い終わってしまう時、1点1点にそれぞれぴったりくる専用の鞘があった。それに納めていって、刀子のセット一揃えが確かめられることとなる。片付けの際に1つずつ入れていって、なお鞘が残っているなら、その鞘に入れるべき刀子をさてどこで使ったか思い出すことができる。
刀子の鞘の復元品(高槻市立今城塚古代歴史館展示品)
 したがって、「失知の緒」とは、忘れないようにするための手掛かりという意である。端的に言えば、鞘とは“忘れ形見”である。カタナ(刀)を鞘に納めるということは、カタナは片名であり、名の半分を指す。もう半分は、人々の記憶の中に納める。それがナ(刃、名)という言葉の本意である。人が実在して、名もあるように、刀子も実在して、納める鞘もある。鞘だけ作ることはない。
 人は2度死ぬと言われる。実際に当人が死ぬときと、その人を覚えている人が死ぬときである。生きている人に記憶されているうちは、その亡くなった人は生きている心のなかに生きていて、ありありと語られる。その記憶をたどる緒、思い出すよすが、それが「失知の緒」、鞘だといえる。あなたのこと覚えているからね、とお墓に鞘を副葬したということであろう。新撰字鏡は古墳の副葬品の意味を伝えている。

(注)世田谷区の野毛大塚古墳出土品(東京国立博物館http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1870参照。)に滑石製のミニチュアがある。①水の祭祀に関係があるものとして、水槽や下駄、②器として、坩(かん)と呼ばれる器やお皿、③生産用具として、斧や鎌、刀子が模造されているとされている。なかでも、刀子、つまり、小刀は、革製の鞘に納めた鉄製の刀子がモデルである。革製の鞘を表現するために、革を糸で縫っていったように、糸の穴を2列に開けていくほど手が込んでいる。
滑石製刀子(野毛大塚古墳出土、古墳時代中期、5世紀、東博展示品)
 滑石製の刀子は出土点数が著しく多く、野毛大塚古墳の第2主体部から232点以上も出土しているという。祭祀具として考えられているが、生産の祭祀に関わるものであるとの括りとしては他に斧、鎌が数点あるばかりで、残りはみな刀子である。
 刀子は、木を削り、包丁となり、埴輪の穴を開けることもでき、手作業に活躍する。農具(鋤や鍬)は、この刀子で木部を工作した。刃先は鉄でも、羽床(だい)と柄の部分は木でできている。伐り出してきた粗材を最終的に刀子で整えていく。刀子は、稲作に使う農具を作る道具、今風に言えば、機械の機械、マザーマシンである。
滑石製刀子群(野毛大塚遺跡、古墳時代中期、5世紀、東博展示品)
左:滑石製斧、右:滑石製鎌(同上)
実際の刀子(鉄製、高崎市綿貫町出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品、写真は左右反転)
鍬羽床部分(木製、静岡市清水区長崎遺跡出土、弥生時代中期~後期、前2~後3世紀、静岡市教育委員会蔵、東博展示品)
 野毛大塚古墳に多数の滑石製のミニチュア刀子が見られるからといって、モノが出土したから現代的な整理をしていては説得力ある議論、真の理解には至らない。刀子自身ではなく、それを収納する鞘部分を形象している点に注意を向けなければならない。他の滑石製ミニチュアのつくりの優劣の指標にもなり、それぞれに何を表したかったのかを考える端緒にもなろう。

※本稿は、2017年8月稿、同12月稿を、2020年9月に改稿したものである。

引っ掛けられた鞍覆(二条城行幸図屏風)

2017年06月22日 | 上古・中古・中世・近世
 馬に乗るときの鞍は、室町時代には実用しているけど工芸品になっていました。大切にしたいから、外出して馬を下りてしばらく乗らない時にはカバーをかけました。鞍覆(くらおおい)と言っています。その鞍覆について、毛氈が舶来していたのでそれを使い出し、赤い緋毛氈の鞍覆は足利将軍専用ものとして外出の際の権威の象徴にしていました。他の人の使用は原則、禁止です。きぬがさの袋の白いのも同じ扱いで、自分たちだけが使える特権であると定めました。もちろん、それは建前で、お金を積めば使わせてあげると免状を出してみたり、政治的な駆け引きの道具にされました。各地の大名から本願寺の派閥長まで、幅広く認めてしまっています。最終的に徳川の世になって、寛永三年(1626年)に後水尾天皇が二条城へ来て下さる運びになったから、みんなでお出迎えするに当たっては格好つけて見せびらかせてしまおうよ、ということで、馬に跨って行列を作って行く時、白い傘袋に緋毛氈の鞍覆をひっからげて行進することとなったようです。このことは絵には描いてあるけれど、記録に書いていないようです。絵に見る傘袋に引っ掛かった鞍覆の質感としては、どれも何とも言えないものです。あくまでも「絵」ですから、深く考えない方がいいと思います。二条城行幸図屛風の楽しい図録に、泉屋博古館編『二条城行幸図屏風の世界─天皇と将軍 華麗なパレード─』サビア発行、2014年があります。
二条城行幸図屏風、江戸時代、17世紀、泉屋博物館蔵、同館「屏風にあそぶ春のしつらえ」展チラシ
洛中洛外図屏風の一部としての二条城行幸図、「海の見える杜美術館(http://www.umam.jp/blog/?attachment_id=7325)」
二条城行幸図屏風、京都国立博物館「皇室ゆかりの名宝」展チラシ
『寛永行幸記 上巻』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288403)
『御行幸次第 上』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286856)
鞍覆姿の馬(上杉本洛中洛外図屏風、米沢市上杉博物館ミュージアムショップHPhttps://www.uesugi-museum.jp/?pid=66552993をトリミング)
洛中洛外図六曲一双のうち左隻(部分)(岐阜市歴史博物館蔵、二条城前パネル)
洛中洛外図屏風歴博F本(部分)(二条城近くパネル)
 群馬県立歴史博物館・米沢市上杉博物館・林原美術館・立正大学文学部編『三館共同企画展 洛中洛外図屏風に描かれた世界』(同プロジェクトチーム発行、平成23年)に、鞍覆とは、「鞍橋の上から鐙にかけて覆うもので茜染の絹糸で組み、総を長く垂らす。室町幕府体制における権威の象徴の一つである。馬上に付けられた華やかさが想像される。上杉本洛中洛外図屏風の画面にも複数確認できる。……謙信は天文十九(一五五〇)年にこの使用を室町幕府十三代将軍足利義輝に認められた。白傘袋使用の特権とあわせて、越後国主の地位を認められたのである。……」(106頁)、また、「足利義輝御内書」の「為白傘袋毛氈鞍覆/礼太刀一腰鵝眼三千疋/到来神妙猶晴光可申候也/二月廿八日(花押)/長尾平三とのへ」(38頁)という文書を載せています。白い傘袋と緋毛氈の鞍覆を使う代わりとして太刀一腰、青銅(銭)三千疋を献上してくれて有難うという意味です。これによって謙信は、事実上、越後国主としての地位を買ったことになります。
 江戸時代の有職故実書、伊勢貞丈『貞丈雑記』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771949/65)をほとんどそのまま引きます。

一 赤き毛氈の鞍覆の事、又火毛の鞍覆とも云ふ。京都将軍の御物なる故、その時代禁制なり。赤からず外の色をも猥(みだり)に不用なり。この毛氈と云ふは、今世のもうせんにあらず。今世、羅紗と云ふ物なり。異国より渡る物ゆゑ、平人は用ふる事をゆるされず、御免あれば用之となり。御内書引付に云く(此ノ引付ハ伊勢守貞忠調進ノ引付ナリ)、
是れは赤もう     就白傘袋赤毛氈鞍覆御免之儀太刀一腰(家助)
せん御免の御     馬一疋(葦毛、印、雀目結)青銅五千疋到来目出候也
内書なり           八月十一日(大永二年ナリ)
                         三雲源内左衛門とのへ
是れ赤毛氈に     為白傘袋毛氈鞍覆赦免之礼太刀一腰(貞守)
て無之たゞの     馬一疋(河原毛、印、両目結)鵞眼五千疋到来目出候也
もうせん御免         六月十三日
の御内書なり                   浦上掃部助とのへ
一 松浦壹岐守先祖へ義教公より火氈の鞍覆御免にて、今に緋羅紗にて包みたるくらおほひを在所にて用ふると云ふ。宗五大双紙に云く、「赤きもうせんの鞍おほひは、公方様御物の外は、大名随分の衆ばかり古はかけられ候つる。色の替りたるをも誰もかもひげ被申候云々」。

 「赤い」とか「毛氈」とか「称する」ものにもいろいろあり、時代とともに変わって行っているようです。室町幕府は滅んで権威づけにならなくなり、赤くする必要性はもはやなくなっています。御行幸次第に見られるように、懐の事情なのか、赤いものに限られていないし、きぬがささえ持たなかった人もいたようです。
 大名が馬に乗るときは鞍覆は侍者が持って行くものです。ちょっと綺麗だったから白い傘袋にかけて行きました。馬から降りたらすぐに鞍を覆ってしまえるように準備しているのでしょうか。天気が悪くなって降りだしたら傘を開きたいし、良すぎても開きたいのに、こうなると単なるお飾りです。遠くからはまるで旗か梵天のように見えるから、朝廷に見せびらかすというよりも、京の民衆に見せつけるためだったようにも思われます。傘という人を覆うものを覆う白い傘袋を、人が座る馬の鞍を覆う赤い鞍覆で覆わせてしまうというのは、きつい洒落としか言えません。まことに恐れ多いことです。
 なお、馬の博物館編『ホースパレード─華やかなる日本の行列─』(財団法人馬事文化財団、2008年)に、後水尾天皇行幸図屏風(馬の博物館蔵)、二条城行幸図屏風(個人蔵)、洛中洛外図屏風(和泉市久保惣記念美術館蔵)、寛永行幸記 上巻(鶴見大学蔵)、御行幸次第(国立公文書館蔵)の図版が載り、引っ掛けられた鞍覆を確かめることができます。
 また、初期狩野派の手になる二尊院縁起絵巻下巻(二尊院蔵、室町時代、16世紀)の第五段の行列のシーンに、四頭の馬に乗る分の赤い鞍覆が白い傘袋にそれぞれ掛けられて進む姿が見られます。傘袋のてっぺんではなく低い位置に掛けられています。金糸で縁取られた感じは上杉本洛中洛外図屏風に近いものです。雑事覚悟事に、「次、傘袋ハ白きもあさぎも有之。是又くらおほい同前の趣なり。」と見えます。

※春日大社の御造替に携わった絵師の手になる絵馬(帥公尊眺筆、室町時代、天文22年(1553))には、緋毛氈と思しき鞍覆が掛けられた馬の絵を描いたものがあります(2022年12月追記)。
※一乗谷朝倉氏遺跡博物館には復元展示があります(2024年3月追記)。

牓示札(ぼうじさつ)のこと

2017年04月25日 | 上古・中古・中世・近世
加賀郡牓示札(石川県津幡町賀茂遺跡出土、9世紀半ば、石川県埋蔵文化財センターホームページ)
「牓示の様子復元図」(「古代のお触れ書き─加賀郡牓示札─」『いしかわの遺跡』No.8、財団法人石川県埋蔵文化財センター、2000年12月。
https://www.ishikawa-maibun.jp/wp-content/uploads/2018/03/iseki_08.pdfの3頁をトリミング)
 牓示札として石川県津幡町賀茂遺跡出土品が知られている。平川南『日本の原像―新視点古代史―全集日本の歴史第二巻』(小学館、2008年)に、「この牓示札は一一五〇年前、九世紀なかばの古代の村に立てられていた『御触書(おふれがき)』なのである。」(14頁)、「牓示札の大きさは、古代の紙一枚の規格である縦約三〇センチメートル(当時の一尺)、横約六〇センチにほぼ合致する。記された内容は、九世紀にしばしば出された個別の禁令を集めたようなものであり、紙の文書をそのままの体裁で板に書き写している。これは律令(りつりょう)国家が公文書による行政支配を村々にまで徹底させようとしたことを意味している。しかし漢字・漢文で書かれた内容は、当時の村人にわかるはずがない。そこで牓示札には、『村人にその旨を説いて聞かせるように』との郡の下級役人への命令が盛り込まれている。つまり、この牓示札によって、文書伝達と口頭伝達を組み合わせた古代日本の文字文化の特質も、見事に実証されたのである。」(16~17頁)とされている。村人に牓示札の内容を説明するイラストも口絵に載る。筆者には、この考え方に近寄れない。
 平川南、上掲書、ならびに、平川南『古代地方木簡の研究』(吉川弘文館、2003年)による翻刻文を適当に次に示す。

☓〔官ヵ〕符深見村□郷駅長并諸刀弥〔祢〕等
応奉行壹拾条之事
一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状
一禁制田夫任意喫魚酒状
一禁断不労作溝堰百姓状
一以五月卅日前可申田殖竟状
一可搜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状
一可禁制无桑原養蚕百姓状
一可禁制里邑内故喫酔酒及戯逸百姓状
一可塡〔慎ヵ〕勤農業状 □村里長人申百姓名
☓〔撿ヵ〕案内被国去□〔正ヵ〕月廿八日符併〔侢ヵ〕勧催農業
□〔有ヵ〕法条而百姓等恣事逸遊不耕作喫
☓〔酒ヵ〕魚歐乱為宗播殖過時還称不熟只非
☓〔疲ヵ〕弊耳復致飢饉之苦此郡司等不治
☓〔田ヵ〕之□〔期ヵ〕而豈可◍然哉郡宜承知並口示
☓〔符ヵ〕事早令勤作若不遵符旨称倦懈
☓〔之ヵ〕由加勘決者謹依符旨仰下田領等宜
☓〔各ヵ〕毎村屢廻愉〔諭ヵ〕有懈怠者移身進郡符
☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羈進之牓示路頭厳加禁
☓〔田ヵ〕領刀弥〔祢〕有怨憎隠容以其人為罪背不
☓〔寛ヵ〕有〔宥ヵ〕符到奉行
大領錦村主       主政八戸史
擬大領錦部連真手麿 擬主帳甲臣
少領道公  夏□  副擬主帳宇治
□〔擬ヵ〕少領 勘了
嘉祥□〔二力〕年□〔二ヵ〕月□□〔十二ヵ〕日
□〔二ヵ〕月十五日請田領丈部浪麿

 下々の者である村人は、文字をまったく読むことができない。その人たちを相手にして、牓示札の文字を見せても理解されることはない。手習いから始めなければ無理である。江戸時代には御触書が通用した。識字率が高かったから有効であった。瓦版屋さん(読売)が営業できていた。古代にまったく無効な牓示札が、道端に掲げられていたとは考えにくい。体裁も、当時の標準的な紙と同じで、罫線まで引かれている。ご指摘の通り、紙の文書を板に書いただけの代物である。紙がなかったためであろう。日に当たっていた形跡があり、文字の部分が浮き出ている。まるでお経の版木のようである。掲げられていたとしても、文字の読める官吏が勤めている役所の中であると考えられる。真ん中にあいている丸い穴は、何を意味するのであろうか。
 文章のなかに、「符の旨を国の道の裔(そば)に縻羇(びき)し之を進め、路頭に牓示し、厳しく禁を加へん。(符☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羇進之牓示路頭厳加禁)」とある。この出土品は、「符」全部を記している。「符の旨」だけを「路頭に牓示」すれば良いのではないか。掲示板に、「○○○○ということを掲示せよ」とある掲示物は、コンテクストの論理階梯に混乱をきたしている。従順な地方官であれば、掲示物としては「○○○○」だけにする。それを「○○○○ということを掲示せよ」というポスターにするのは、無抵抗・不服従の反対闘争を行っていることになりはしないか。
 平川先生の前掲書、『古代地方木簡の研究』に、「本木簡の場合、各行は、行頭部分では界線に沿うものがあるが、全体的にはあまり界線にとらわれずに記されている。これは、直接札に記されたものではなく、紙の文書があらかじめ用意され、それをもとに、そのままの書式で木札に転記した場合に起こりうる傾向と理解できるであろう。」(121頁)とある。ほぼそのとおりであろう。紙の文書で送られてきたものを、紙がないからそこらへんにある材木に転記し、もとの紙の文書は次の刀禰に回覧したということである。その際、文書の形式に疎かったため、界線にまたがることに何か意味があるのかもしれないから間違いのないように、日頃からやっているようにまるごとそのままに“写す”ことが行われた。別に村人に見せるためではなく、覚えとして取っておかなければならないからそうしておいた、ということではないのか。意図的に無抵抗・不服従をしているのではなく、頭が空っぽだから無抵抗・不服従の状態になっている。その際、本当に頭の中が空っぽであることを示す点として、真ん中の釘穴(?)がある。ここに本来文字が一字あったのか考えると、上の「田〔之〕……可」までの字間が縮まっており、初めから穴に当たらないように作られている。穴を避けるように字が転写されており、その可能性としては、穴のある板に写すために殊更に字を縮めたか、そのように記されて隣の刀禰から回ってきた「文書」(板書?)をそのとおりにしたかのいずれかであると想像できる。衆目にさらされる立札、高札に、真ん中に釘穴(?)のある板を(再)利用するであろうか。
 「牓」と記される木簡には、門牓について、市大樹「藤原宮・平城宮出土の門牓木簡」『奈良文化財研究所紀要』(2007年。https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/10312)や同『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)に論考されている。告知札、闌遺札と呼ばれる木簡もある。「牓」についての規定は捕亡令、同じ意味の「牌」は賦役令に記載がある。いくつか出土しているが、すべていわゆる木簡形式の一方に長いものである。なかには横長にして数文字ずつ縦書きして改行していく「横材木簡」と呼ばれるものもある。それでも、紙のように面として一枚二枚と数えられるようなものではない。
 ヤマトコトバを研究する立場からすると、賀茂遺跡出土の「牓示」札は、フダ(札・簡)の概念を覆すものである。中世以降の制札・高札につながるものと定義するのに抵抗がある。馬や迷子の捜索のため、また、境界の標識として記すため、というように異なる目的を、使用方法としては他者に知らしめるために掲示した、という点に限って、同じく“牓示札”と総称し、それに類するものとしてこの賀茂遺跡出土品が捉えられている。他にも疑問点はある。幅のある板状のものが、そもそも「木簡」と呼ばれるものに相当するのか、筆者は不勉強で知らない。7世紀末の明日香村の石神遺跡から出土した、表裏に文字が記されている3月と4月の暦の“木簡”は幅がある。木器に転用されているのでもとの姿は不明であるが、長方形であったとされている。「牓示」された確証はないのの、カレンダーは今日でも人目に触れるように高く掲げられる。
 「牓」字は、字鏡集に、フダと訓まれている。中世以降の制札・高札のことをタテフダと一般にいっている。札を立てているからということであろう。法度、禁制、諭告、案内などを知らしめるために板などに記して道端に立て、通行人に供覧せしめた。タテフダという言葉は、文献記録に戦国時代の16世紀半ば以降の言葉である。ひょっとして、タテフダという語は、タテガミ(立紙・竪紙)に由来する言葉なのかもしれない。正式な文書形式は、今日、般若心経の書写用紙にあるようなものとしてあった。横長の紙に縦書きに記す。料紙の正式な用法であるある立紙を、板に転写して正式に御触書にしたから、タテフダと呼んだのかもしれない。タテガミという言葉は、文献記録に平安時代後期の11世紀末に用いられている。となると、9世紀半ばの賀茂遺跡出土の“牓示札(ぼうじさつ)”のことを、ヤマトコトバ的にタテフダであるとは了解できない。なお、タテガミと今日言っている動物の鬣については、新撰字鏡や和名抄にタチカミとある。本ブログ「太刀魚と馬の鬣、sword、「発掘された日本列島2015」展の形象埴輪について」を参照されたい。
 白川静『字訓』(平凡社、1995年)に、次のようにある。

 ふだ〔札・簡・簿……・籍……・帳〕 文字をしるすための小片。「ふみ、いた」から転化したものであろう。「ふみた」「ふむた」ともいう。「ふみて」が「ふで」となるのと同じ。もと木や竹で作り、のち布を用いることもあった。(660~661頁)

 白川先生のあげられている用例に、「籍帳(へのふみた)」(顕宗紀元年五月条)、「名籍(なのふみた)」(敏達紀三年十月条)がある。そういったフミタの札は、どのように扱われたのか。荷札は荷物に括りつけられる。木簡、竹簡はぐるぐる巻きにできるように綴じられている。インドで見られる貝葉経文は、真ん中にあながあいていて、糸で綴じられてまとめられている。境界標のように建てられるものには、墓標、ないし卒塔婆があろう。そんななか、高札としてタテフダなるものを想起することは、ヤマトコトバ的になかなかむずかしい。カケフダ(掛札)であろう。出勤したときに表にし、退社するときに裏にする名札には、掛けられる形式のものが多い。
 長い文章をそのままに見ることは、いまでも本の大きさに一定のサイズ感があるように、人の肩幅よりも大きくなると視野に入らなくなってきて手こずる。お経が巻物に写されれば、巻きながらしか唱えられず、蛇腹式であれば、開いているところしか唱えられない。40インチのモニターにこれまで同様に小さな文字を出力して一気に見渡したとして、人間は一度に見ることはできない。観光案内板の立札に寺社の縁起が長々と改行なく記されているものがあるが、立ち止まって読み通すのに数分かかり、とてもいらいらする。同じことが案内パンフレットに書いてあれば、それをゆっくり読むことができて不快感はない。加賀郡牓示札は、その違和感を惹起させるものである。(石碑建立の由来を示す碑文の場合、書として見るので別物である。)
 筆者の考えは、警察庁から全国の警察署に、「『振り込め詐欺に注意せよ』と高齢者に注意せよ」と通達があったら、「振り込め詐欺に注意しましょう」という内容のポスターを各警察署で作って掲示板に貼るのがふつうであるというものである。「振り込め詐欺に注意せよと高齢者に注意せよ」という立て看板を設置することはないと思う。字が読めるか読めないかには大きな開きがあるが、字は読めても意味が理解できるかどうかにも大きな開きがある。さらに、逐語的に意味はとれても大局的な思想が理解できないことも多い。9世紀半ばの賀茂遺跡出土の「牓示」と記されている縦23.3cm(28~29cm≒一尺)×横61.0cm(61cm≒二尺)(括弧内は復元推定サイズ)の板は、“控え”であってタテフダではないと考える。それが歴史学にどのようなことに当たるのか、議論されることを期待したい。
参考図:貝多羅墨書(梵本心経および尊勝陀羅尼、後グプタ朝、7~8世紀、東博展示品。留め穴部を避けて文字が書かれている)

The fox of Fushimi Inari shrine (伏見稲荷大社, Fushimi Inari Taisha) and inari-sushi (稲荷寿司).

2016年08月20日 | 上古・中古・中世・近世
The statue of the fox at Fushimi Inari shrine (伏見稲荷大社, Fushimi Inari Taisha).

Why is it a fox?
The Inari shrine is a Shinto shrine for the deity/god of rice. Inari is written in Kanji as 稲荷. The word literally translates to 'a sack of rice'; 稲 means 'rice' and 荷 means 'a sack'.
In Japanese, the word for rice is 'kome', and to fill or pack rice is 'komeru' or 'kome' for short.
So colloquially, medieval Japanese people alternately referred to the word 'Inari' as 'kome-kome' (rice that is packed).
In addition, a fox's call is said to sound like 'kom-kom' in Japanese culture. As a result, foxes are thought to be the shrine's messengers.
A sack of rice is called "tawara(俵)". It is made of rice plant straws.(Ishiyamadera engi emaki(石山寺縁起絵巻).)

Furthermore, owing to its definition, Inari-Sushi is created in the shape of a sack of rice.
(In translation to English, I got the teaching of Mrs.Y and her daughter. I express my gratitude.)
There is another related academic paper (Japanese version).