古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「一重山(ひとへやま) 隔(へな)れる」歌

2024年06月10日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四に、大伴家持が坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思って歌った歌を横にいて聞いていた藤原郎女ふぢはらのいらつめが引き取って一首歌い、そこでさらに家持は二首歌を作り坂上大嬢に贈っている。

  久邇京くにのみやこに在りて寧楽ならいへに留まれる坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思ひて大伴宿禰家持が作る歌一首〔在久迩京思留寧楽宅坂上大嬢大伴宿祢家持作謌一首〕
 一重山ひとへやま へなれるものを 月夜つくよよみ かどで立ち いもか待つらむ〔一隔山重成物乎月夜好見門尓出立妹可将待〕(万765)
  藤原郎女ふぢはらのいらつめ、之れを聞きて即ちこたふる歌一首〔藤原郎女聞之即和歌一首〕
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり〔路遠不来常波知有物可良尓然曽将待君之目乎保利〕(万766)
  大伴宿禰家持、更に大嬢おほをとめに贈る歌二首〔大伴宿祢家持更贈大嬢謌二首〕
 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尓不所見来〕(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な〔今所知久迩乃京尓妹二不相久成行而早見奈〕(万768)

 この歌群では問題点がいくつか挙げられている。一首目の題詞に「思」とあり、妻の坂上大嬢のことを思って家持は歌を作っているが、それをなぜか藤原郎女が引き取って「即和」して歌を作っている。しかる後、家持は「更贈」る歌を二首作っている。最初は「思」うだけだったのが、今度は「贈」ることになっている。この間の事情についてどう考えたらよいか。
 多くの論者は、万765番歌の題詞に「思ひて……作る歌」とあり、万767番歌の題詞には「更に……贈る歌」とあるから、最初から贈る歌として作られていたのを横から藤原郎女が割り込んだと考えている。村瀬1988.は、「言わば一対一の男女の密室の相聞であるべき歌に、第三者……が「これを聞きて即ち和ふる」というかたちで介在してくるところに、言わば広間の相聞へと広がりをみせる」(60頁)ものであると論評している。鈴木2017.は、万765番歌の「月夜つくよよみ」について、万735・736番歌の「月夜つくよ」という言葉を踏まえた表現であると指摘し、二人の記憶に残された思い出の言葉なのだという。影山2019.は、この四首の背後には、妻に逢えずにいることを距離感をもって表すほかはないというやりきれない気持ちがあったとする(注1)。そして、家持に特有の歌群構成の手法によりできあがったものであると決めつけ、その経緯を推測して二通りの可能性を見ている。

1 当初は宴席などで交わされた家持歌と藤原郎女歌とを後日大嬢に贈ることになり、その二首と内容の上で連続する書簡歌二首を取り合わせ、全体を浄書して「寧楽宅」へ届けた。
2 家持歌と藤原郎女歌とは宴席などで交わされたのだったが、家持七六五歌一首は後に大嬢に届けられ、さらに後日、七六七、八歌を大嬢に贈った。歌集編集段階に及んで後部二首詠作の導因となった藤原郎女歌をこの位置に据え、全体を一連の作品として再構成した。
いずれに拠るときにも、全体が家持によって整えられた歌群であることに変わりはない。(30頁)

 なぜこのように曲げて解されなければならないのか。筆者はシンプル、素直に解釈する。家持が妻を思って歌を口ずさんだら、横にいた人がそれにこたえるように歌を歌った。なるほど、そういう言葉づかいもあるなと家持は思い返し、さらに歌を作って妻のもとへ計四首を伝えることにした。ただそれだけのことではないか。「浄」などしていないと考える。この点は根本的な問題である。
 相聞歌について、二人だけの内密なやりとりであるとする考え方は以前からある。村瀬1988.が想定するような、二人だけの相聞歌、密室の相聞歌、限られた相聞歌という捉え方である。しかし、歌なのだから声に出して歌われており、近くにいる人は自ずと聞いてしまう。二人だけで完結して他の誰にも聞かれないとすると、当事者が書き残す以外に後の時代に伝えられるはずはない。万葉集の編纂者の一人に違いない家持なら可能であると考えることは、他にも相聞歌が多数あることからして捻くれた見方である。相聞の歌は、歌として歌われて、周囲の人が耳にしていた。当時の歌は、歌われ、聞かれて、はじめて歌として成立していた。至極あたり前のことである。その前提で当該歌群を見直してみると、題詞のあり方に議論を呼ぶような不可解なところはない。
 家持は久邇京にあって、奈良の屋敷に留まっている大嬢のことを思って歌を歌った。当初は伝えようとは考えていなかったのだろう。それを横で聞いていた藤原郎女がすかさず合いの手を入れた。それを聞いて家持は、興が乗り、さらに二首の歌を作った。前の歌、自身の歌と藤原郎女の歌も併せて坂上大嬢に贈ることにしたのである。歌としてのおもしろさを伝えるには、声に出して聞かせることが肝要である。ましてや文字が読めたか不確かな妻へ、書いて贈ったりはしない。使者に覚えさせ伝言としたのである。
 ようやく本論の入り口にたどり着いた。問題点は二つある。第一に、藤原郎女はどうして家持の万765番歌に即座にこたえる歌を歌ったのか。第二に、家持はどうして藤原郎女の歌を聞いて、さらに二首作り、妻のもとへまるごと伝えようと思ったのか、である。興が乗った理由こそが理解されなければならない。それがわからなければ、この歌は、本当のところわかっていない。

 一重山ひとへやま へなれるものを 月夜つくよよみ かどで立ち いもか待つらむ(万765)
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり(万766)

 最初の二首の問答の本旨は、「一重山ひとへやまへなれるものを」を「みちとほじ」で返したところにある。現在の通釈書では、「一重山ひとへやまへなれるものを」は、一重の山が隔てているだけのものを、と解して、いつだって来れるだろうからと妻は門に立って待っていることだろうという意と捉えている。それに対し、「みちとほじ」と承けている。ちぐはぐな受け答えである。それが実は、藤原郎女が家持の歌意を的確に受け取ったことの証でもある。どういうことか。
 恭仁京遷都に当たり、聖武天皇は平城京からほど近い恭仁京へまっすぐ向かったわけではない。藤原広嗣の乱の最中でありながら行幸が伊勢へ向かって始まり、美濃、近江をめぐって山背の恭仁京へ遷っている。天平12年(740)10月29日に出発し、12月15日に恭仁宮に入っている。壬申の乱の時の天武天皇の行路になぞらえていると考えられている。二か月にも及ぶ「みちとほ」い行脚をしている。さぞや遠いところへ行ってしまったのだろうと、奈良の都に留まっている妻、坂上大嬢は思うことであろう、というわけである。藤原郎女が坂上大嬢の代弁をしている。
「聖武天皇の「大行幸」行程図」(栄原2014.39頁に「一重山」(⛰⛰⛰⛰)を筆者加筆)
 では、どうして「一重山ひとへやまへなれるものを」と冒頭から断っているのに、相手は近くにいるとは気づかなかったのか。それは、次の「月夜つくよよみ〔月夜好〕」という文句である。ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)は、月夜が良いので、月明かりがきれいなので、の意に解されている。だがそればかりではない。「月夜つくよ」という語には月の意を表すことがある(注2)。すなわち、ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)はツクヨ、すなわち、月をヨミ(読)した。月読つくよみとは月日を数えることである。したがって、万765番歌は、一重の山が隔てているだけなのだけれども、迂回しなければ往き来できなくて、行った時に二か月かかったように、妻のもとへ帰るのには同じだけ日数がかかるだろうから、あと何日か、あと何日かと月日を数えては、妻は門に立って待っていることだろうという意にも捉えられるわけである。
 こういう機知あふれる歌を家持は歌にした。そうでなければそこにいない人のことを思った歌を、これ見よがしに声を張って歌ったりしない。妻を思って歌を歌って悪いとは言わないが、お宅のことなど知ったことではない、大人なんだからぐずぐず言わない、といったところがもっぱらの反応ではないか。洒落た言い回し、頓知の歌ができたから家持は歌を披露した。その意をよく理解した藤原郎女がすぐに歌で和した。家持さん、うまいじゃないの、と敬意を抱いている。興に乗った家持は、加えて二首作り、奈良に留まっている妻のもとへ、こんなやりとりがあったよ、おもしろかったよ、お前もおもしろいと思うだろう、と伝えているのである。

 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な(万768)

 万767番歌にあるウケヒは、願って、の意と解する説が多い。多田2009.に、「「ウケヒ」は、ここでは夢を見るよう祈誓すること。「ウケヒ」は、本来、神意を判断する呪術。A→a、B→bのように、生ずる事態とその判断とを前もって定めておき、得られた結果を神意と見なした。……大嬢の魂が通って来れば、魂逢いによって夢が見られる。自分を思ってくれないことへの恨み言。」(174頁)と説明がある。だが、ここで言いたいのは「妹」への恨み節ではなく、「都路みやこぢを遠みか」を示すところにある。藤原郎女が代弁する形で「道遠み」と言っていたように、「寧楽の宅」から「久邇京」まで50日弱かかる道のりのことを指している。「妹」は50日弱かかると思っているから夢に現れてくれないのだろう、ととぼけたことを歌っている。ウケヒと断っているのも、「妹」が「寧楽の宅」と「久邇京」とは「一重山ひとへやまへなれる」にすぎず、実は近いところだと思っているのなら近いのだから夢に現れるだろうし、50日弱かかる遠路だと思っていたら遠いから一晩のうちでは辿り着けずに夢に現れないだろう、と仮定しているわけである。
 仮にこの歌で恨んでいるとすると、家持のほうが思いが強い片思い的な状況になる。すると、次の万768番歌が、家へ帰って「妹」の顔を早く見たい、それで夫婦関係を安定させたいというやきもち的な内容を歌っていることになる。しかし、それでは、万765番歌で「かどで立ちいもか待つらむ」と歌っていたこととの間に齟齬が生じてしまう。万767・768番歌の題詞に「更」(注3)とあることに反することになる。筆者の捉え方に依れば矛盾なく受け取ることができる。
 そして、万768番歌も、「寧楽の宅」と「久邇の都」との間の距離感をおもしろがって歌にしたものだろう。「今知らす久邇くにの都」と冒頭に歌われている。既知のことがらをなぜ詠むのか疑問視する向きもあるが、遷都した意味を述べるのではなくて、その都の名について頓智としているのである。クニの都というのは、国都を意味する。「今知らす」とは、今、天皇が領有しているという意味で、その版図の中心にあるのが都である。対外的に「日本」と表記される国であるが、訓みはヤマトである。その中心に位置して都があって然るべきなのは、行政単位としての大和やまと国である。ところが、平城京から一山越えただけの恭仁京は、行政単位としては山背やましろ国にある。言葉の論理の上では少々問題が起きている。だからこそ、「今知らす」と当たり前のことを冠して歌っているわけである。
 つまり、この歌は、山背国にある「久邇くにの都」がはたしてヤマトの国の都としてふさわしいのか、長い行幸の末に遷都したところよりも、平城京へ戻った方が賢明なのではないか、といった感慨を「妹」と早く逢いたいと歌うことによって言わんとした可能性を含む歌なのである。論理的誤謬に対して聖武天皇は秘策をくり出している。「大倭国やまとのくにを改めて、大養徳国やまとのくにとす。」(続紀・天平九年十二月二十七日)、「なづけて大養徳やまと恭仁大宮くにのおほみやとす。」(同・天平十三年十一月二十一日)とある。天皇は、ヤマトを「大養徳」と書くように命じている。天皇が大いなる徳を養ってそのために垂れる国になるようにというのである。だから、天皇の在所は「大養徳」なるところであるはずで、行政区分では山背国に当たるのかもしれないが、「大養徳恭仁大宮」だと言って憚らないのである。
 この「大養徳恭仁大宮」なる命名(命字)が当該歌よりも先であったなら、「今知らす久邇くにの都」は「大養徳やまとの恭仁大宮くにのおほみや」であり、「寧楽の宅」同様、ヤマト・・・にあるのだから、近いのだから、「はや見」ることは簡単なこと、すぐにでもできることである。「一重山ひとへやまへなれる」だけだということを言い方を変えて歌にしたのである。

(注)
(注1)影山氏の生硬な言い回しを筆者なりに砕いた。
(注2)ツクヨミという語に、「月読つくよみ(ミは乙類)」の意とは別に、「月夜霊つくよみ(ミは甲類)」、月の意のツクヨに神の意のミがついた形があって、早くから混同されていた。
(注3)「更」字を「また」と訓む説もある。

(引用・参考文献)
影山2019. 影山尚之「坂上大嬢に贈る歌─距離の感覚と作品形象─」『萬葉』第227号、平成31年3月。萬葉学会HP学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir(『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。)
栄原2014. 栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』敬文舎、2014年。
鈴木2017. 鈴木武晴「家持と書持の贈報再論─異論を超えて真実へ─」『都留文科大学研究紀要』第85集、2017年3月。都留文科大学学術機関リポジトリhttp://trail.tsuru.ac.jp/dspace/handle/trair/802
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
田野2007. 田野順也「『万葉集』における隔絶感の表現─中臣宅守歌の「山川を中にへなりて」をめぐって─」『同志社国文学』第66号、2007年3月。同志社大学学術リポジトリhttps://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005382
村瀬1988. 村瀬憲夫「家持の相聞歌─恭仁京時代─」『上代文学』第60号、1988年4月。上代文学会HP機関誌『上代文学』目次
https://jodaibungakukai.org/02_contents.html(『大伴家持論─作品と編纂─』塙書房、2021年。)

この記事についてブログを書く
« 玉藻の歌について─万23・24番歌─ | トップ | 万葉集巻一・大宝元年紀伊行... »