古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

上代語「畳」について─「隔(へだ)つ」の語誌とともに─

2024年04月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
上代のタタミ(畳)の諸例

 上代にタタミ(畳)に関する語を見ると次のような例がある。最後の二例は、記紀に「畳」字の用いられ方としてあげたものである。

 みちの皮のたたみ八重やへに敷き、亦、きぬたたみ八重を其の上に敷き、其の上にいませて、……(記上)
 海神わたつみここ八重やへ席薦たたみ舗設きて、る。(神代紀第十段本文)
 海に入らむとする時に、すがたたみ八重・かはたたみ八重・きぬたたみ八重を以て、波の上に敷きて、其の上にしき。(景行記)
 木綿ゆふたたみ 手に取り持ちて かくだにも われひなむ 君に逢はぬかも〔木綿疊手取持而如此谷母吾波乞嘗君尓不相鴨〕(万380)
 木綿畳 手向たむけの山を 今日けふ越えて いづれの野辺のへに いほりせむ吾〔木綿疊手向乃山乎今日越而何野邊尓廬将為吾等〕(万1017)
 木綿畳 田上山たなかみやまの さなかづら ありさりてしも 今ならずとも〔木綿疊田上山之狭名葛在去之毛今不有十方〕(万3070)
 木綿ゆふつつみ〈一に云ふ、畳〉 白月山しらつきやまの さな葛 後も必ず 逢はむとそ思ふ〈或る本の歌に曰ふ、絶えむといもを が思はなくに〉〔木綿裹〈一云疊〉白月山之佐奈葛後毛必将相等曽念〈或本歌曰将絶跡妹乎吾念莫久尓〉〕(万3073)
 よそのみに 君をあひ見て 木綿畳 手向の山を 明日か越えなむ〔外耳君乎相見而木綿牒手向乃山乎明日香越将去〕(万3151)
 いはたたみ かしこき山と 知りつつも われは恋ふるか 同等なみにあらなくに〔磐疊恐山常知管毛吾者戀香同等不有尓〕(万1331)
 いのちの またけむ人は たたみこも 平群へぐりの山の くま白檮かしが葉を 髻華うづせ その子〔伊能知能麻多祁牟比登波多々美許母幣具理能夜麻能久麻迦志賀波袁宇受爾佐勢曾能古〕(記31)
 畳薦 へだて編む数 かよはさば 道の柴草しばくさ ひざらましを〔疊薦隔編数通者道之柴草不生有申尾〕(万2777)
 逢ふよしの 出で来るまでは 畳薦 へだて編む数 いめにし見てむ〔相因之出来左右者疊薦重編數夢西将見〕(万2995)
 たたみけめ 牟良自むらじが磯の 離磯はなりその 母を離れて 行くが悲しさ〔多々美氣米牟良自加已蘇乃波奈利蘇乃波々乎波奈例弖由久我加奈之佐〕(万4338)
 何所いづくにそ 真朱まそ穿をか こもたたみ 平群の朝臣あそが 鼻のうへを穿れ〔何所曽真朱穿岳薦畳平郡乃阿曽我鼻上乎穿礼〕(万3843)
 …… 韓国からくにの 虎とふ神を 生け取りに 八頭やつ取り持ち 其の皮を 畳に刺し 八重やへたたみ 平群の山に 四月うづきと 五月さつきあひだに くすりがり ……〔……韓國乃虎云神乎生取尓八頭取持来其皮乎多々弥尓刺八重疊平郡乃山尓四月与五月間尓藥獦……〕(万3885)
 日下部くさかべの 此方こちの山と 畳薦 平群の山の 此方此方こちごちの 山のかひに 立ちざかゆる びろくま白檮かし ……〔久佐加弁能許知能夜麻登多々美許母弊具理能夜麻能許知碁知能夜麻能賀比爾多知耶加由流波毘呂久麻加斯……〕(記90)
 大君おほきみを 島にはぶらぼ 船余ふなあまり いがへむぞ が畳ゆめ ことをこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ〔意富岐美袁斯麻爾波夫良婆布那阿麻理伊賀弊理許牟叙和賀多々弥由米許登袁許曾多々美登伊波米和賀都麻波由米〕(記85)
 吾が畳 三重みへ河原かはらの 磯のうらに かくしもがもと 鳴く河蝦かはづかも〔吾疊三重乃河原之礒裏尓如是鴨跡鳴河蝦可物〕(万1735)
…… 畳々亞々御本〈音引〉……(記9、真福寺本)
 其の山の峯岫みねくき重畳かさなりて、また美麗うるはしきことにへさなり。(景行紀十八年七月)

 上代に畳というものの実態は、今日の床のついた畳のことではなく、コモやイグサ、ユフなどで編んだり織ったりして一枚にしたり、毛皮で作った敷物のことである。織って作られたもので言えば、今のイグサ上敷のような形態である。和名抄には、「畳 本朝式に、掃部寮に長畳・短畳と云ふ。〈唐韻に、徒協反、重畳なり、太々美たたみ〉、「莚〈席附〉 説文に云はく、莚〈音は延、无之路むしろ〉は竹席なりといふ。遊仙窟に、五綵龍の鬢莚と云ふ。〈今案ふるに、俗に又、九蝶莚有り、文に依りて之れを名く〉。唐韻に云はく、席〈音は藉と同じ、訓は上に同じ〉は薦席なりといふ。」、「薦 唐韻に云はく、薦〈作甸反、古毛こも〉は席なりといふ。」とある。つまり、タタミにはいろいろな素材によって作られたものがあり(注1)、タタミという語をもって自分の座席、居るべき場所のことを指すことにもなっている。また、その重ねるところから、形容する表現や助数詞にも用いられている。
 言葉は概念を一定の範疇に括るものである。その領域がどこまでを占めるのかは用例から確かに見出される。上にあげた例に、容易には理解しづらいものがある。「たたみこも 平群へぐりの山の」、「たたみこも へだて編む数」、「たたみけめ 牟良自むらじが磯の」といった修辞法である。いずれも「畳」が関係する言葉遣いである。それらを含めて納得が行ったとき、はじめて上代の人にとって「畳」とは何であったか、「畳」という言葉は何を意味していたかが理解できたということになるのだろう。

たたみこも へだて編む数」

 万2777番歌の「隔て編む数」という表現については、諸解説書に一致をみていない。結論としては、数多く通って来たら道の芝草も生えないだろう、つまり、頻繁に通って来ることを願う女性の気持ちを草に寄せて歌った恋の歌であるとされている。しかし、その表現の解釈に、大系本萬葉集は、「タタミコモは、いくらかずつの隔てを置いて、多くの節(ふ)に編み分けるという。同じような動作を幾度も幾度も繰返して編むわけである。」(239頁)と解しており、中西1981.、稲岡2006.も同様である。一方、新編全集本萬葉集に、「筵機むしろばたで筵を織るのも操作そのものは機織りと同じで、横糸に相当する藁わら・菰こもの類を、緯よこさしを往復させて、通しては筬おさで締めることを繰り返し、織り進む。隔テは、奇数番目の縦糸と偶数番目の縦糸とを交互に上下させる綜絖そうこうを用いて、横糸の通る道を開けることをいうのであろう。」(269~270頁)とし、「を詰めて編む数のように」(269頁)と訳しており、新大系本萬葉集も同様である。解釈に微妙なズレが生じている。
 畳は一部の汚れや棄損の際、その部分をわずかに抜いてまばらに誤魔化すことはあるが、当初から隔てを置いて藺草を編む(織る)ことはない。同じ慣用表現を用いている万2995番歌については、四句目原文に「重編数」とあるため、旧訓にならって「かさね編む数」と訓むとする説もあり、大系本萬葉集、澤瀉1963.、伊藤1997.、小野2006.などがそう訓んでいる。稲岡2006.は、「薦を幾重にも重ねて畳に編む編目の数の多いのを譬喩とした。」(300頁)と解説し、多田2009.はヘダテアムカズと訓みながら意味は同様である。一方、新大系本萬葉集は、「「重」字に隔てるの意は本来ないが、「一重山隔れるものを」(七六五)を「一隔山重成物乎」と表記した例がある。」(163頁)と指摘し、万2777と同様にヘダテアムカズと訓んでいる(注2)。訓みとしての説明であるが、編み方の証明ではない。
 今日、さほど顧みられていない考え方に、武田1963.の考え方がある。万2777番歌については、「隔編数 ヘダテアムカズ。ヘダテは、屋内の区切に使う、几帳、衝立の類。「高山タカヤマ ダテオキ」(巻十三・三三三九)。隔てを編む数で、コモで隔てを編むために苧の往復する度数で、度数の多い譬喩としている。」(167頁)、万2995番歌については、「重は、ヘの音を表示し、ここはヘダテに使つている。」(310頁)としている。汲むべき見解である。奈良時代に屏風を数える助数詞は「畳」であった。当時はパネルをつないだものであったが、国家珍宝帳にも、各種の屏風が「畳」と記して挙げられている。それにつづいて「大枕」、「御軾」、「狭軾」、最後に「御床」とあり、「御床二張 〈並塗胡粉具緋(黒)地錦端畳褐色地錦褥一張広長亘両床緑絁袷覆一條〉」と記されている(注3)。当時の宮殿はだだっ広いワンルームがあるばかりで建具が乏しかった。寝るのにスースー寒いから、パーテーションの屏風で部屋に仕切りを入れ、隔てとしていた。だから、万2995番歌の「重編数」をヘダテアムカズと訓むことに誤りはないと言い得る。するとここに、万2777・2995番歌にあるヘダテアムカズのヘダテとは、寝るときにプライベート空間を作るためのことと関係がある語義を持つということになる。すなわち、タタミコモ(畳薦)とは、ダブルベッドのような男女が夜の営みを共にする夜具、敷布団に当たるものと解される。だからこそ、恋の歌に用いられていて然りであるとわかる。
左:座具としての畳・臥具としての畳(春日権現験記模本、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286816/21をトリミング)、右:縁に布を覆っていないイグサ上敷(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/19をトリミング)
 ただし、武田説は、「畳薦」が屏風、几帳、衝立の用のために編まれているかのように感じられてしまう。それでは上代ならではの奔放なエロティシズムが失われる。敷布団のための「畳薦」であることは譲れない。「隔て編む」はそれなりの編み方を言っていたと解されるべきである。「畳薦 隔て編む数」という言い方は他に例がないから、この二例から帰納される編み方が見極められなければならない(注4)。わざわざ「数」と記されている。途方もなく多くの数であることを示していることは確かである。現実に、畳を作るにはたくさんの藺草を用いる。経糸として張られた麻の縒糸の数は決まっている。畳表の膨らんでいる部分の下に2本ずつ仕組まれている。一畳の畳を見ると半間当たりおよそ100本程度であろう。一方、緯糸の藺草については、とても数える気になれないもので、一間に4000~7000本であるという。上級品は均質な藺草を数多く通し、中級品以下はそれなりにということである。前近代には人力の畳機を操っていた。棒綜絖を前後に傾けて経糸をやりくりし、その間にサシと呼ばれるかぎ針で藺草を通していく。万葉歌に、「畳薦 隔て編む・・」とあり、織機は使わず編み物のようにも受け取られるが、編み物をするときのようにかぎ針を使うところが「編む」という表現として現れていると考える。布を織る機との違いは、第一に、緯糸の扱いである。長い繊維でのなかに巻いておいて左右にやりくりし、端まで行ったらまだ戻るということがない。できない。その点、機構的には畳機は機械のように見えつつ、作業的には手編みの域を出ていない。一本通してはまた新しい藺草の端を折ってかぎ針にかけてまた通す。そこが手間なのであり、その手間が「数」という言葉に表されていて、藺草の数、4000~7000という値になる。それだけ多くの数、何べんも何べんもという意味にかなっている(注5)
 そして第二に、織機が経糸を地に対して水平、ないし斜めに張っているのに対して、畳機や筵機の場合、地に対して垂直に立てて張っている。したがって、畳、薦、筵などの製作過程にあっては、織る(編む)にしたがって障屏されていくように見える。ここに、「隔て編む」と形容されているのだとわかる。
機織形埴輪(彩色推定復元、栃木県下野市HP、https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0390/info-0000000056-0.htmlより。同https://www.city.shimotsuke.lg.jp/manage/contents/upload/5821824666a85.pdf参照)
左:短い幅の畳機(世田谷区次大夫堀公園民家園展示品)、右:莚機(川崎市立日本民家園展示品)

たたみこも 平群へぐり

 万3843・3885番歌、記31・記90歌謡に、畳に関連して「平群へぐり」という地名が登場している。「畳薦たたみこも」が「平群へぐり」を導いている。言葉の間に関連があると考えられたから枕詞として用いられている。一般に、「平群へぐり(ヘは甲類)」のヘの音を引き出しているからとされている。しかし、他のヘ音で始まる語ではなく、「平群」しか導かない。筆者は、「平群へぐり」のグリ(クリ)とも関わっているからであると考える。「君がく 道の長手ながてを 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも」(万3724)と比喩表現があるように、「道」という幅のあるものを「繰る」ことは、蛇腹状にどんどん短くすることを言っている。何重、何十重、何百重、何千重、何万重、何億重になるかはわからない。その際、「たたむ」と同義と解されている「たたぬ」こととは、蛇腹様に「」を重ねていくことと考えられる。万2777番歌にある「へだつ(ヘは甲類)」という動詞を、万2995番歌で「重」と書くことに不自然なところはないのである。「畳薦」が「平群」を導く枕詞である点が確認された。
 「(ヘは甲類)」と「へだつ(ヘは甲類)」の関係を整理してみよう。白川1995.に、「へだつ〔隔(◆(隔の旧字))・障〕 下二段。自動詞「へだたる」は四段。「」を語根とする類義語の「へなる」は、自然に間隔や境界が生まれること。もと空間的な間隔を作る意であるが、のち時間的な、また心理的な状態などにもいう。「へだて」は名詞形。ヘは甲類。」(671頁)とある。語を分解して語源に至ろうとせず、平明でわかりやすい(注6)
 空間的な間隔を作ることが「隔つ」の元の意であるとする説によりながら、万葉集の「へだつ」、「へだたる」、「へなる」の例を見ていく(注7)

 こころゆも おもはずき 山河も へだたらなくに かく恋ひむとは〔従情毛吾者不念寸山河毛隔莫國如是戀常羽〕(万601)
 人言ひとごとを しげみか君の 二鞘ふたさやの 家をへなりて 恋ひつつをらむ〔人事繁哉君之二鞘之家乎隔而戀乍将座〕(万685)
 海山も 隔たらなくに 何しかも 目言めことをだにも ここだともしき〔海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸〕(万689)
 遥々はろばろに 思ほゆるかも 白雲しらくもの 千重ちへに隔てる 筑紫の国は〔波漏々々尓於忘方由流可母志良久毛能知弊仁邊多天留都久紫能君仁波〕(万866)
 たぶてにも 投げ越しつべき 天の川 隔てればかも あまたすべ無き〔多夫手二毛投越都倍吉天漢敝太而礼婆可母安麻多須辨奈吉〕(万1522)
 ひさかたの あまつ印と 水無川みなしかは 隔てて置きし 神代かみよし恨めし〔久方天印等水無川隔而置之神世之恨〕(万2007)
 逢はなくは 長きものを 天の川 隔ててまたや わが恋ひらむ〔不合者氣長物乎天漢隔又哉吾戀将居〕(万2038)
 月見れば 国は同じそ 山へなり うるはいもは へなりたるかも〔月見國同山隔愛妹隔有鴨〕(万2420)
 鳥がの きこゆる海に 高山を へだてして おきつ藻を 枕に為し ……〔鳥音之所聞海尓高山麻障所為而奥藻麻枕所為……〕(万3336)
 …… かしこきや 神のわたりの しき浪の 寄する浜辺に 高山を へだてに置きて ……〔……恐耶神之渡乃敷浪乃寄濱部丹高山矣部立丹置而……〕(万3339)
 月見れば 同じ国なり 山こそば 君があたりを 隔てたりけれ〔都奇見礼婆於奈自久尓奈里夜麻許曽婆伎美我安多里乎敝太弖多里家礼〕(万4073)
 あしひきの 山は無くもが 月見れば 同じき里を 心隔てつ〔安之比奇能夜麻波奈久毛我都奇見礼婆於奈自伎佐刀乎許己呂敝太底都〕(万4076)
 あまらす 神の御代みよより やすの川 中に隔てて 向ひ立ち 袖振りかはし ……〔安麻泥良須可未能御代欲里夜洲能河波奈加尓敝太弖々牟可比太知蘇泥布利可波之……〕(万4125)

 概観すると、ヘダツ(隔)の空間的な離れ方は、距離感によるものではないことがわかる(注8)。万685番歌では、二軒長屋の隣さえも隔てなのであるとする。万1522番歌の天の川は、小石を投げれば届くほど幅の狭い川と捉えられている。万3336・3339番歌は、高山だから隔てるものとして意味があるとも考えられるが、隔てにする、隔てを置くという言い方からは、高山を屏風に見立ててそれを舗設するような気持ちで言っているものと考えられる。万4073番歌も、衛星画像を見ればすごく近いところらしいことを言っている。
 ヘダツという語は、ヘ(辺)+タツ(立)の意(注9)とは解することはできない。言葉がまず先にあり、それを飛鳥時代当時の人がどのように感じ、受けとめていたかである。常に動態として存在する言葉を考えるうえではそれが重要である。万866番歌に、「白雲しらくも千重ちへに隔てる」とあるのは、鰯雲のような白雲が千層のミルフィーユ状態になっていることをもって隔たっていると主張しており、そこから、筑紫国の遠さを表そうとつとめている。つまり、ヘダツのヘとは、一重、二重のヘ(重)のことで、そのヘ(重)によって、両者間のつながりに支障をきたしていると感じられ、用いられていた言葉であると考えられる。山や川や家の壁によって隔てられているとは、村と村との間、家と家との間に自由往来ができないことを言い、間に仕切りを設置して隔絶させられていると述べている。ほんのわずかな絶縁層があることで電気が伝わらないような感覚である。ヘ(重)は仕切りそのことをいう訳ではないけれど、ヘ(重)によって表される屏風のような障屏物がタツ(立)ことで、ヘ(重)によってタツ(断・絶)ことになっていると解されていたと感じられる(注10)(注11)
 ヘ(重)+タツ(立)ことで、ヘ(重)+タツ(断・絶)ことになっていることは、タタミ(畳)という言葉と深くつながっていると感じられよう。奈良時代、屏風は「畳」を助数詞として数えていた。当時の屏風は縁のついたパネルであり、それをつなげて立てていた。唐紙障子と同じく、表と裏の間に格子桟を入れて面を構成している。中空層を持って面となって空間を遮断している点は畳と一致する。「畳薦」が「隔て編む」を導く枕詞となっているのは、意味を重ねていることまでも絡め表そうとした結果なのであろう。自己循環的に語の定義を下して証明としているのだった。

たたみという言葉とは何か

 次に、タタミ(畳)という語自体について考える。古典基礎語辞典の「たたみ【畳】」の項の解説として、「動詞タタム(畳む、タ四)の連用形名詞。タタムは、他動詞として「衣服みけしのみ畳みて棺の上に置けり」〈書紀 推古二一・一二〉や、「屏風の一枚ひとひら畳まれたるより」〈源氏 東屋〉のように、長さや幅のある平面的なものを幾重にも折り返して重ねる意。また、自動詞として、幾重にも重なる意。その連用形名詞タタミは、折り返して積み重ねることが本来の意で、折り畳むことのできる敷物の総称であった。上代では、むしろ・薦こも・毛皮などの類。中古になると、藺草いぐさなどでできた薄縁うすべりをいう。いずれも畳んで持ち運びし、板敷きの床や庭や旅の具などに用いた。神や天皇、貴人たちの座る場所や寝床としても敷かれた。」(718頁、この項、石井千鶴子)とある。
 また、民俗学大辞典に、「古代から『古事記』や『万葉集』などに畳の語がみえるが、古くは、むしろしとね・茣蓙などの薄い敷物も、すべて畳と称し、座臥両用に使用して、普段はたたんでおいたので、「たたみ」の語が生じたといわれている。当時の畳は、薦を数枚重ねて麻糸などで綴じ、表に藺草でつくった莚をかぶせてへりをつけたものであったが、のちに稲藁を綴じ固めた床の上に畳表と縁布をつけた厚畳を畳と称し、縁布をつけない莚・茵などと区別した。」(44頁、この項、松崎哲)とある(注12)
左:畳を運ぶ(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/22をトリミング)、中:畳を巻く(北野天神縁起模写、神奈川大学21世紀COEプログラム・『マルチ言語版絵巻物による日本常民生活絵引』第1巻本文編http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/seika/101_01/02-125-191.pdf(5/67)をトリミング)、右:ふんわりと畳まれたイグサ上敷(?)(葛飾北斎・冨嶽三十六景・常州牛堀)
 言葉が分化していったのは確かであろうが、今日いうところの畳が、畳んで置かれていたから専売特許のようにタタミと称されたとする説は眉唾ものである。語学的見地に立てば、素材や用途などから、それぞれ別のものであると認識されて別の語として使われるようになっていたと考える。そして、布団を押入へしまう時のように、普段は畳んでおいたのでタタミというという説はあり得ない。タタミ(畳)と称され始めたとき、今日目にするタタミ上敷のような薄地のもの、いわゆる薄縁であった。仕舞う際に畳まれていたとすると、板敷の床の上に広げて使う際、その折ってあった部分が不陸になりかねない。本当に畳んでしまわれていたのか、文献や図様に確かめられない。むろんさまざまな方法があってかまわないのであるが、北野天神縁起に載る畳を巻いている例に対して説明がつかない。一帖ずつ積み重ねられていたとする考え方もあるが、その場合、言葉として命名されるとき、連用形名詞としてならツミやカサネとなったのではないか。それはすなわち、タタミという名詞だけでなく、タタムという動詞についても別の謂われを持つと考える必要があるということである。
筵の上で量り売り(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/17をトリミング)
 藺草製の畳と稲藁製の莚の様態には明らかな相違がある。第一に、表面の性状、第二に、縁の有無である。表面の性状の違いは、藺草と稲藁という素材の違いにより、緑色と茶色の色合いの違いに表れる。また、その織りの組織の違いにも認められる。莚は茶色い藁の粗放な織り、畳は緻密な織りに特徴がある。絵に描く場合、前者は筋をつけて描き、後者は緑の面として描くのが一般的である(注13)
 莚は、莚機によって日常的に織られていた。稲藁を縒ったものを経糸とし、緯糸も稲藁である。多くの場合、畳同様、かぎ付きのサシと呼ばれる竿に引っ掛けて行って返る。それを繰り返す。片サイドは切れたままで終わる。その部分の始末についてはそれぞれである。藁に太さがあり縦糸と緯糸が交わるところが弱く折れ曲がってくねくねしていっており、放っておいてもすぐにばらけることはない。織り方は平織りである。筵機の棒綜絖の開孔は、一つ一つ山谷山谷の繰り返しになっている。性能からおさとも呼ばれるこの棒綜絖を半回転させて傾きをかえることで、経糸が手前側と向こう側を行き来し、そのたびに緯糸を通せば織りあがるようになっている。出来上がった莚の表面をみると、裏も表もないものであるが、縦にも横にも凹凸を繰り返す。藁(rice straw)自体が空気を含んでいるから、弾力性、保温性が得られる。
 一方、畳の場合、経糸は麻糸である。緯糸が藺草である。藺草の長さは半間あまりにすぎず、行ったきりである。両サイドが剥き出しになる。一帖の畳に藺草は4000~7000本使われる。藁ほどには太くなく、ある程度の硬さもあるため引きつれる心配があり、固く織り、縁を施すか畳床に縫い付けるかする。もともとそういうものとして考案されたものであったのだろう。その織り方は、泥染めしたうえで切りそろえた藺草を、経糸の麻糸2本ずつに交互にくぐらせ、強く押さえていく。経糸を通しておく棒綜絖は、山山谷谷山山谷谷と穿たれており、それを傾けることによって緯糸の藺草を二つ飛びずつ交互に通させる。その結果、表面から見ても裏面から見ても経糸は見えない。結果、絵巻ではただ緑色の面として描かれる。畳の本質は、見えない経糸と経糸の間に、空気の層を形成する点にある。そして、表面はきれいに波打って見える。太さに頼るのではなく、きつく織ることで面として弾力性と保温性を獲得している。
左:イグサ(神代植物公園水生植物園、2016年6月中旬)、右:畳開孔棒綜絖概念図
 筆者は、ここに、タタミのタタミたる所以を見出す。畳んでしまっておくからタタミではなく、叩くようにきつく硬く織られるところに由来すると考える。タタム(畳)とタタク(叩)は同根の語であると考える。その結果、空気層を間に保った面としてもった構成の敷物となっている。藺草の綿密な集合織りによって、藺草繊維一本一本の細い中空構造に加え、麻糸の隠れる部分が空気層となるように、緯糸の藺草が面として重ねられている。層状に構成する織りの構造からの命名である。古典基礎語辞典に記載の、推古紀や源氏物語の例にあった衣服や屏風は、もともとは人の胴や腕が入っていたはずであったり、心木の骨に麻や下貼紙を貼り重ねてその上に本地を貼るから空気の層を伴いながら重なることになる。ふんわりとゆるやかでありながら、重なり合いが起きている状態になる点を捉えてタタムと言っているものと考える。タタミを織っている最中、畳機は垂直機だから屏風を作っているように見えるし、屏風の横つながりのマイクロ化した様子を、畳の整然たる横波に譬えることもできる。そこで、タタミと呼び、「畳」という字をあてている。それ自体に波打ちが幾重にも重なって見える点でヘ(重)であるし、敷物にすれば中空の面状構造がはっきりと上下を隔絶してヘダツ(隔)存在となる。

畳として伝わるもの
左:御床畳残欠(正倉院中倉202、松本・尾形1990.https://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/12/pdf/0000000158(21/36)をトリミング)、右:葡萄唐草文錦褥の麻芯・莚(麻・藺草製、奈良時代、天平勝宝六年(754)、法隆寺献納宝物、東博展示品)
 古代からの伝世品に、正倉院の畳・藺筵、法隆寺の筵が知られる。御床畳の畳については、松本・尾形1990.に、「御床畳残欠 一具(二畳分) 破損が多いが、おおよその構造は、真菰製の粗い筵三枚を二つ折りして重ね合わせて心とし、表に藺筵、裏に麻布、両長側小口に錦の縁裂をあてていたようである。比較的完全な部分の厚さ約四センチ……。」(80頁)と解説がある(注14)
 法隆寺献納宝物の莚部分は、経糸は麻糸かと思われ、緯糸に藺草を使った平織のように見える。きつく叩くように織られている。現在の畳とは織りの組織が異なる。藺筵と呼ばれるのがふさわしいようである(注15)。緯糸に隙間が生まれないように織った次の段階の発想として、経糸を二本ずつの畳織りにして経糸が完全に見えなくした畳表が作り上げられた。上にあげた素材の藺草が泥染めされていたかどうか、筆者にはわからない。織り方の工夫、泥染めするときれいに仕上がるという知恵もすばらしいものであり、端の処理に縁を付けた人、畳床を作ってそれに貼りつけた人、たくさんの知恵の積み重ねの上に暮らしている。私たちは当たり前のこととして顧みることが乏しかった。
 この、波打って層を成して面となる織り方をもってタタミと名づけていたとするならば、言葉に寄せる人々思いは藺草畳の製作段階にまで及んでおり、クッション性を持たせる技法を凝縮させた語であるといえる。
 記上の火遠理命の海神の宮訪問の部分の原文に、「美智皮之畳敷八重、亦、絁畳八重敷其上、坐其上而」とある。新編古典全集本古事記は、「みちのかはたたみ八重やへき、また絁畳きぬたたみ八重やへ其のうへ に敷き、その上にいませて、」(129頁、傍点筆者)と冗漫な訓を付けている。誤りであろう。畳むことで得られる確かなクッション性を畳という語で表している。それが八重にあるからクッション性がなおさら確かになる。旧訓の、「みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐して」が良い。連用形名詞がいまだ動詞の義を保っていたと思われる上代には、「みち」、すなわち、アシカの鞣革一枚をもって、「畳」と呼んだ理由は、その毛皮そのものに求められるものではない。アシカの毛が間に層を成しているとは見受けられない。実際がどうかではなく、語学的な理由があってのことと考える。その古語のミチは、「道」に同音であり、「道の長手」(万3724)を「繰り畳ね」ることが想念されたからであろう。実際、アシカの姿を観察すれば、動きに応じて皮に蛇腹が生じている。畳の細かな凹凸が、その蛇腹に再現されていると見立てられるのである(注16)
左:日に焼けたイグサ上敷、中:カリフォルニアアシカ(ウィキペディア、David Corby様「Sea Lion at Monterey Breakwater」https://ja.wikipedia.org/wiki/カリフォルニアアシカ)、右:サバトラ
 このような類推発想は他にも見られる。「…… 韓国からくにの 虎とふ神を 生け取りに 八頭やつ取り持ち 其の皮を 畳に刺し 八重やへたたみ 平群の山に ……」(万3885)とある。虎の皮に見事な縦縞模様があり、その波模様をもって「畳に刺し」、すなわち、畳状に刺して、という形容につながっている。語学的にも形態的にも凹凸感を認めがたいキツネやノウサギの皮の場合、たとえそれを八重に重ねても、それを畳と評することはなかったと考える。
 用例に、「みちの皮の畳八重やへに敷き、亦、きぬたたみ八重を其の上に敷き、」(記上)、「八重席薦たたみ舗設きて、」(神代紀第十段本文)、「すが畳八重・皮畳八重・絁畳八重を以て、波の上に敷きて」(景行記)、「吾が畳 三重みへの河原の」(万1735)とある。これらの修飾の掛かり方は、「畳」自体が重ねられたものとしてあったのではなく、薄い敷物を重ねたという表現であると解される。実物としては薄いものであるが、その造りや様相、名称が波打ちくものと感じられ、だからくものとしてふさわしい、つまり、くものであると語義認定が定まって、それはもとをただせば、たたみかけるように強く叩いて織られることに由来するもので、ならばタタミなるものは累乗して重ねてこそ語用論的におもしろいと思われたからそのようにしていた、ないしは、そのように見立てられていたということであり、記紀万葉に表現として行われていたのである。シクという言葉の概念にもっとも適する敷物こそタタミということになっている。言葉が言葉を循環的に自己(再)定義することは、無文字時代の人にとって認識を確かならしめる唯一の方法であった。
 凸凸凹凹の棒綜絖から作られたと思われる畳の遺物は、これまでのところ正倉院の「藺筵」類にまでしか遡ることができない(注17)。筆者は、古墳時代後期や飛鳥時代になって、技術的画期をもって完成した経糸二本ずつに織った新型の藺筵に対してタタミなる語をあてがい、畳という漢字で表すことにしたのではないかと考える。

(注)
(注1)「木綿ゆふたたみ」はユフをもって畳に拵えたものとする説がある。万380番歌を例にとり、西宮1990.は、「ユフで編んだ畳(古代の畳は床が無く、折畳めるものであつた)であるが、それを「手に取り持ち」、神に手向けるのであつて、端的に言へば、神に献る幣帛としてのユフ畳である。「木綿畳むけの山を今日越えて いづれの野辺にいほりせむ吾れ」(万6・一〇一七)の歌が、ユフ畳が神への「手向け」の品となつてゐたことをよく表してゐる。このやうに、「畳」の形にするのは、単に繊維のまま神に献るよりも、より手の込んだ、質量ともに上等のものであるべきだとする思想がさうさせてゐるのであらう。」(338頁)、「要するに、[ユフは]カウゾの樹皮から採れる帯紐状の繊維であり、それを懸けたり、結んだりして、神聖な場や物であることを示す具に用ゐられたものであると言ふことができるのである。まさに、和名抄が「祭祀具」として、筆頭に「木綿」を掲げただけのことはある。……このユフは「カウゾの樹皮から取れる﹅﹅﹅」等と上に述べてきたが、正確に言へば、「ユフを作る﹅﹅」のであつて、自然に取れるのではない。荒皮を蒸して剝ぎ、幾度も水にさらし白い繊維を取る、この工程が「作る」であり、ユフ作りの専門家がゐたのである。」(339頁)とする。筆者は疑問をいだく。実態としてどのようなものか知られておらず、万葉集の歌をもって存在を想像しているにすぎない。
(注2)契沖・万葉代匠記に、「へだてあむ数」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2552067/19)と訓んでいる。
(注3)国家珍宝帳(部分、宮内庁正倉院HP、https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000010568&index=8内CO0000001348・CO0000001350をトリミング合成)参照。
(注4)「たたみこも へだて編む数」について、「隔て編み」という編み方のことを示すとする説が、名久井2019.にある。「万葉歌人が詠んだ「隔て編み」の技法で作られた古代の「畳薦」は,民具の[まくり畳]の裏側のように細縄でわらを一目飛ばしに編む「隔て編み」の方法で編んだものであったというのが,自分の得た結論である。「隔て編み」を甚だ手数が掛かるものと認識していた古代人は,たぶん「織席」と「編薦」を対比していたのではなかろうか。つまり畳表として表面に張られる「席」は織物だから1回の動作で端から端までを織ることができるが,それと比較すると[薦編み台]上で一目ごとに「重り」を前後に動かして編んで作る「編薦」に要する手数は「席」の比ではないと認識されていたのであろう。しかも「狭帖」には数枚の「薦」を重ねて厚く作られる場合があったわけだから,「畳薦」といえば,その製作にはきわめて手数を要するものであるというのが万葉時代の人々の共通認識だったのであろう。」(43頁)とし、民具の炭すごの製作方法に「隔て編み」を見出している。
炭すご(宮古市北上山地民俗資料館『資料館だより』№23、平成29年3月31日発行。http://kitakamisanchi.city.miyako.iwate.jp/index/pdf/newsletter23.pdf(6/6)をトリミング)
 とてもユニークな見解で傾聴に値する。ただ、語学的見地からは、「隔て編み」なる言葉が使われた形跡がなく、編み方に「一つはね」に編んでいると言っている。緯糸を二・三列目にずらしながら編むことを「隔つ」ことと捉えることはないだろう。また、「隔て編み」という名詞をもってして「隔て編む」という動詞を説明することは、言葉の成り立ち上、上代に起こりえない。
(注5)阿蘇2010.に、「男に通って来てほしい回数を、「畳薦隔て編む数」と表現したところには、詠み手・歌い手の生活環境の反映があろう。」(514頁)とある。誤読と言い切れないところがある。
(注6)古典基礎語辞典の「へだ・つ」の解説には、「他動詞はタ行下二段活用。自動詞は、上代はタ行四段活用のヘダツとラ行四段活用のヘダタル(隔たる)とがあったが、中古以降、ヘダタルのみが用いられた。ヘは海辺・山辺などのヘ(辺)で、海や山のはし。他の地形との境界となる最も外側の部分。タツは「立つ」。ヘダツは静止した二つのものの中間に境目を置くことをいう。それが妨げとなって、両者がつながり合えなくなることを表す。空間・時間・心理のいずれにも用いる。類義語サク(放く)は、二つのものの一方が移動して間を置くことをいう。」(1072頁、この項、須山名保子)とある。また、同書の「へ【辺】」の解説にも、「さらに、ヘダツ(隔つ)・ヘナル(隔る)という動詞は「ヘ(境界)を立てる」「ヘ(境界)になる」という語源的な意味をもっている。つまり、この動詞には境界という「ヘ」の古い意味がはっきりと含まれている。」(1068頁、この項、白井清子)とある。
 ヘ(甲類)が「辺」の意とすると、いま検討中の万2777・2995・3843・3885番歌の「へだて」や「平群へぐり」のヘ(甲類)、さらには、万1735番歌の「三重みへ」のヘ(甲類)において、畳などの辺、へりのことを含意していることになってくる。ヘ(辺)は中央に対する周辺の意味である。へりをつけない粗雑な畳、薦、筵も、敷物として用を成している。
(注7)ヘナルとヘダタルの語義の違いについては、専論として田野2007.がある。
(注8)ヘダタル(隔)の例には、少し遅れて原義から転じ、「相去ること皆二千由旬をへだたれり。」(石山寺本法華経玄賛、淳祐(890~953)点)の例のように、遠ざかる、離れる、という距離感を示すものが出てくる。
(注9)古典基礎語辞典1072頁。
(注10)僅かに残るアクセントの表記からは、ヘダツのヘが、「辺」であるか「重」であるか定まらない。「八重垣(夜覇餓岐)」(神代紀第八段本文、紀1歌謡)に「上上平上」・「上上上□」、「八百重」(神代紀第五段一書第六)に「上上上」(以上、乾元本)のほか、「二重(赴多弊)」(紀47・49歌謡)に「上上平」、「八重子(野鞞古)」(紀124歌謡)に「上平上」・「上上上」、「八重(野陛)」(紀127歌謡)に「上平」(以上、兼右本)、「単衣(比止閇岐奴)」に「平平平平上」(和名抄)、「辺(陛)」(神代紀第九段一書第六、紀4歌謡)に「平」、「頭辺(摩苦羅陛)」(神代紀第五段一書第七)に「平平上平」、「脚辺(阿度陛)」(同)に「平上□」(以上、乾元本)、「へだつ(阻・複・間)」に(平平上)」(名義抄)とある。
(注11)古典基礎語辞典の「へ 【重】」の解説に、「層を成す造りや構えのものの、一つ一つの層をいう。仕切りともなり、仕切りと仕切りの間ともなる。身にまとう衣服、花びらなどは、「一重ひとへ」「三重みへ」「七重ななへ」「八重やへ」などといい、重なり立つ山、うち寄せる白波、わき立つ天雲などは、「百重ももへ」「五百重いほへ」「千重ちへ」と、大きな数で表す。雪の降り積もるさま、恋心のつのる様子も形容する。宮殿建築の外郭のほうは「外の重」、奥寄りの建物は「内うちの重」といい、自立語のなごりが見える。」(1068頁、この項、須山名保子)とある。この、「仕切りともなり、仕切りと仕切りの間ともなる。」という解説は正鵠を射ている。本居宣長・古事記伝にも、「幣陀都ヘダツと云は、を立と云ことなれば、本はと同じけれども、ソレに二の意あり、一にはをなしてカサぬる意、二には物と物との間をセキつ意にて、隔字は此意にアテたる字なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/153)とある。
(注12)有職故実大辞典に、畳は、「坐臥具の一種。帖ともいう。今日でこそ畳は藁でつくったとこの上に草でつくった敷物を縫いつけて板敷の間にしきつめて座敷をつくって生活しているが、時代がさかのぼればさかのぼるほど広い板敷の上に座したり横臥するところにのみ薄縁うすべりをしくだけであった。畳というものは今日の薄縁となんらかわらぬものでこれを幾重にもかさねて用いた。……紫宸殿のような間切のない広間では後世のように畳に一つのきまりがあったわけではなく、『延喜式』をみてもわかるように長短、 幅ともにさまざまの形態があり、畳の種類も蘭・菅・絹・薦でつくられ、これを幾枚もかさねて使用したのであった(『万葉集』)。」(463頁。この項、遠藤武)と説明がある。
 小川2016.に、「タタミの語源については、タ(手)アミ(編)、つまり手編みのもの、という意味から転じたという説(松岡静雄『新編日本古語辞典』)、あるいはタタムという動詞、すなわち用のない時は折りたたむとか、ないし はタタミ上げ(積み重ね)て用いるという用途からきているといった諸説(荻野由之監修『国史大辞典』など、この説を掲げるものが多いが、古く『古事記伝』『嬉遊笑覧』『倭訓栞』などに説くところを一部誤認しているふしがみられる)があって統一的な見解は定まっていない。」(11頁)とし、「タタミとは単にゴザやウスベリと同様なものというよりは、コモやムシロ(時には皮など)を重ね差しにした敷物と解してよいようだ」(15頁)、「古墳時代以前のいわゆる上古のタタミはともあれ、飛鳥・奈良時代の頃(いわゆる上代)には、タタミというものは、同じ形状の敷物を幾枚か重ね差しにするものである。さらに、その多くは薦を幾枚か重ね差しにするか、もしくは一枚の薦にじかに筵をとじつけたうえ、布か皮で縁どりをしたものであったということがほぼ明白になった。」(16頁)、「畳という漢字は、もともと晶と宜とを合成したもので、日を重ねて多い意(夕を重ねた場合の多と同様)を表わしている。のちに晶が畾に変化して現在の畳(畳)の字になるのであるが、こうした字義からみても、それがもともと重畳・複畳・層畳・積畳あるいは畳重という意味を、つまり、日本語のタタミに当てるにふさわしい内容をもっておったことは明らかであり、タタミに畳の字を当てることがやがて一般化し、定義化される必然性があったといえるのではないかと思う。」(17頁)としている。
(注13)絵画の常として、必ずしもそのとおり描かれているとは言い切れない。
(注14)木村1990.に、「現存の御床畳は、ほとんど崩壊寸前の状態ながら二床分あり、その構造は、幅約一二〇cmで、マコモ(薦)製の筵三枚を二つに折って六重にして、一旦綴じ、この表と両短側小口と裏面周までを一枚の藺筵で包み、裏面は白麻布で覆われ、両長側の縁と小口は、白絁の裏打ちのある錦で包まれていたことが、その残欠から、明らかとなった(第36図)。現代の畳縁と同様である。ただ現代の畳の心材は、稲藁のしびがらを綴じ固めたものを用いるが、御床たたみの場合は、薦筵が心材となっている。薦筵は、マコモを二本一組とし、樹皮様繊維の縒緒で捻り編みされている。」(27~29頁)と解説がある。同時に、「正倉院に残されている筵は、全て経に縒りの強い麻糸を用い、イグサを緯にし、緯の藺は経を二本越しに織ったものであり、今日の織り方と変わらない。」(27頁)としている。正倉院南倉151・152の「藺筵」と呼ばれているものも、今日イグサ上敷として市販されているものと同じ作りであり、畳み癖の起こらないような仕舞われ方が望まれたと思われる。端の処理に上品な縁を付けたものもある。つまり、麻糸を経糸にして、イグサの緯糸は二本飛ばしに互い違いに硬い織りを施して作った座臥用の敷物こそ、タタミの出発点、原形であったと考える。織りの組織の観点から「筵」と「畳」を区別するなら、正倉院南倉の「藺筵」は「藺畳」ということになり、敷物に使うという点からは「藺席」と記すのが適切ではなかろうか。「藺席」の読み方はイムシロである。
 なお、正倉院事務所1997.105~107頁の図版のものの解説に、「いずれも今日の畳表や茣蓙の類と同様のものである。……その主なものについては筵のたては藺、よこは稲(わら)である」(239頁、嶋倉・村田1987.参照)とある。タテヨコを逆に呼んでいる点、木村1990.の説明と異なる点など不明である。
(注15)法隆寺宝物の藺筵参照。
藺筵(法隆寺宝物、奈良時代、8世紀、東京国立博物館蔵、ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/N-52?locale=ja#&gid=1&pid=5)
(注16)拙稿「「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」(万3724)」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d635a0b8f7570a6154ad3497803b48b7参照。
(注17)海外に目を向けると、アッタール遺跡出土の藺草を編んだマットが畳によく似た形状となっている。井1987.参照。

(引用・参考文献)
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新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集三』岩波書店、2002年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
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有職故実大辞典 鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館、平成8年。
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※本稿は、2016年1月稿を2021年1月に大幅に加筆、訂正し、2024年4月に一部訂正、加筆しつつルビ形式にしたものである。

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