古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

江田船山鉄剣銘を読む 其の三

2020年07月05日 | 江田船山鉄剣銘
(承前)
(注)
(注1)1字目は「台」で「治」の省画字、5・6・7・56字目は削れていて見えず、36字目は「六」または「九」か、43字目は見えるようで見えず見えないようで見えるような字、70字目は「和」か「加」かとされる。
 和水町HPに、銘文は、「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利)弖、八月中、用大鐵釜、并四尺廷刀、八十練、□(九)十振、三寸上好□(刊)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也」、説明に、「天下を治めていた獲加多支鹵大王(雄略天皇456~479年)の世に、典曹(役所の仕事)に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺(1m強)の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安」とある(https://www.town.nagomi.lg.jp/kankou/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=3&id=707&class_id=766)。
(注2)列島に鉄製鋳造釜は根づかなかった。土器の長甕を支脚にのせて立て、隙間を粘土で塞いで固めてしまった。そこは常に湯が沸いており、水が追加されながら甑を載せて蒸し料理が行われた。鉄の釜は中世に至るまでかなりの間、一部寺院などを除いてほとんど用いられなかった。文化の違いであった。
五綴鉢(ごてつのはち)(鉄製鍛造、奈良時代、8世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
(注3)「讞」という字は聖徳太子の憲法十七条の第五条に、コトワリマウスとある。礼記・文王世子に、「獄成れば、有司(いうし)、公に讞(げち)す」の鄭注に、「讞 之れ言ひ白す也。」、説文には、「𤅊」字で載り、「𤅊 辠(つみ)を議る也。水に从ふ。獻は法と同意なり」とある。訴訟を裁決するの意である。
(注4)白川1996.に、「于」は「象形」とし、「字形は、曲がった形を作るためのそえ木。また刃の長い曲刀の形。」(47頁)とある。説文には、「于 於(ああ)也。气の舒(おもむ)ろに亏(まが)れるを象る。丂(かう)に从ひ一に从ふ。一は其の气の平らかなる也。凡そ于の属、皆、于に从ふ」とある。食べ過ぎてもう嫌だと横を向いてゲップをしている様子については、本稿の終わりのほうで触れている。
 なお、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄は、「戟 楊雄方言云、戟〈几劇反、保古〉或謂之于、或謂之戈〈古禾反〉」とある「于(ウ)」字を「干(カン)」と見ている。箋注に、「方言云、楚謂レ一戟為レ一孑、此干当レ一レ一孑然諸本及伊呂波字類抄皆作レ一干、按干即盾、非此用、蓋源君所レ一見方言、写者以干戈経典熟用字、又孑干字形相近、誤干戈一物、遂改レ一孑為レ一干、源君襲レ一之也、源君所レ一見若レ一是、孑字必当レ一其音、而此無レ一音則知干字非後人伝写本書者之誤、故今不径改、而弁其誤、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991788/44)、旧字体は改めた。)としている。林2002.269頁でも「干」と見ている。
 戟の活用として、虎退治もあげられる。
画像石(中国山東省孝堂山下石祠、後漢、1~2世紀、東博展示品)
 また、戟によく似た斧・鉞の用途は、木こり、薪割りである。塩を焼くためには大量の薪が必要である。(注16)もあわせて参照されたい。
大原御幸図屏風(長谷川久蔵(1568~93)筆、紙本金地着色、安土桃山時代、16世紀、東博展示品)
(注5)石村1997.に、「大桶の底用定規」(286頁)、「桶用定規」・「型板」(290頁)などとあるものもL字状の板になっている。ヨーロッパではコンパスが用いられているが、本邦では塑型にあてがわれて作られたらしく記されている。規(ぶんまわし)は使われずに矩(さしがね)が用いられたということか。誰のさしがねでやっているんだ、といった形容に使われるように、誰かの回し者という悪いイメージが、曲がれるもの、鎌には付いて回っている。現在も使われている次のものがそれに当たるのかもしれない。
外パスと呼ばれるコンパス(川崎市立日本民家園「不思議古民具大集合!」展展示品)
(注6)稲荷山古墳出土鉄剣銘文には、「七月中」とある。稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣は、表に「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」、裏に「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」と判読されている。「中」については、岸1988.に、秦代の竹簡に「四月中」、漢代の木簡に「七月中」、新羅の銀合杅に「三月中」、石碑に「九月中」、高句麗の碑文に「五月中」などとさまざまな例をあげ、アルタイ語の処格・与格の後置詞を表わす代わりに書かれたとする説(小川環樹)を否定する。そして、「…月中」は「…月じゅう」の意味ではなく、「…月に」という時格を表わす用法で、「わが国の「中」字の用法は、朝鮮三国から渡来した人々が、その才をもって文筆の業に起用され、自国の文字遣いを反映させつつ撰したものと思われる。」(216頁)とする。藤本1988.は、百済の例のないことを倭の例から補おうとまでしている。
 そういった結果、新編全集本日本書紀に、「古訓ナカノトヲカ(中旬の意)は誤り。「~月中」は「~月というその月のうちで」の意を表す中国の俗語的用法。中国出土秦代竹簡や『史記』『漢書』『三国志』などまれに例がある。日本では稲荷山古墳出土鉄剣銘の「七月中」ほか二例。紀ではほかに応神紀に一例。」(①451頁頭注)となっている。しかし、「七月中(ふみつきのなかのとをか)」(神功紀四十六年三月)、「九月中(ながつきのなかのとをか)」(応神紀十三年九月)とある。中旬の11日~20日まで、the middle ten days of a month を指している。「四月上旬(うづきのかみのとをか)」(神功摂政前紀仲哀九年四月)という表記もある。ヤマトコトバの表記として「…月中」を「…月ノナカノトヲカ」と訓み慣わされるには訳がある。理由なく古訓が施されることはない。
 旧暦だから月の満ち欠けによっている。神功紀の例は、百済人が卓淳国へやって来て、日本への海路を尋ねられたとき、海路は遠く、波浪は険しいから大船が必要だと答えたところ、大船を用意して出直してくると言って帰って行ったという。つまり、遠路はるばる船で来ている。基本的に昼間、航行するのであろうが、天候によっては夜も航行したのであろう。夜、月明かりのもとで沿岸を進むためには、ある程度の明るさが確保できる満月を中心とした10日間を選ぶのはきわめて合理的である。応神紀の例も、髪長媛が日向から来たときのことである。船に乗ってきたのであろう。続く割注に「一云」の伝があり、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)が髪長媛を貢上しに数十艘の小船で瀬戸内海を来たことが記されている。
 江田船山古墳出土大刀銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘に、「八月中」、「七月中」とあるのも、ナカノトヲカ(中の十日)の意であろう。晴れていれば月(moon)明かりによって象嵌を識別しやすくなる。太陽光では光が強すぎまぶしく作業にならない。電気はない。窓ガラスもない。灯明では光が一定しなし、散乱光では一目瞭然に見極めることができない。かなう光の条件は、明るい月のもとである。金属面を反射させて象嵌の輝きを確かめた。仕事は夜行われた。そして、江田船山古墳出土大刀の場合、「八月中」は、羽釜の羽が尽きて竈に落ちたことを表したから、竈のことを鍛冶屋の窯のことと見立ててその「中」で焼き直されたという意も含意しているものと思われる。巧みで知恵ある表現である。
江田船山銀象嵌有銘大刀(東博展示品。見えますか? 作れますか? 作りたいですか?)
(注7)佐藤2004.に、「[川口勝康]の下賜説に対しては、すでに亀井正道によって、江田船山古墳の副葬品には「治天下」銘大刀と同一作者・同一工房によって製作されたと考えられる直刀が二口ふくまれており、この大刀を下賜刀とするなら二口の直刀も同時に移動・副葬されたとみなければならず、下賜説にはなお証明すべきいくつかの問題があるとの疑問が提示されている〔亀井―一九七九〕。しかし、たとえ「治天下」銘大刀と直刀二口が同時に製作・移動したものであったとしても、そのことがどうして下賜の否定につながるのか理解できず、また川口も有銘刀剣のみが下賜刀であると主張しているわけではないことからすれば、あまり有効な批判であるとは思われない。むしろ川口説を批判するのであれば、この大刀の銘文解釈に立ち返ることこそ肝要であろうと思われる。」(34頁)とある。筆者には、亀井1979.にそのような趣旨が書かれてあるのか読解できなかった。亀井1979.のすぐれた鑑識眼は、「三寸」をミキダニシテと訓むことを証明していると考える。大刀が下賜されたものであるかどうかについては、正確な「銘文解釈」の上でしか議論しても始まらない。
(注8)時代別国語大辞典(793頁)では、日本国語大辞典に①としてまとめられている、「十分に。ねんごろに。」と「巧妙に。じょうずに。」を分けている。後者の例として、「我が命の 長く欲しけく 偽りを 好(よく)する人を 執(とら)ふばかりを」(万2943)をあげている。十分に、ねんごろに、一生懸命にしたからといって、うまいこといくとは限らないから、巧妙に、上手に、という語釈を別立てにするのは、一理あることである。その場合、ヨクという副詞の意にずる賢さ、悪辣さを秘める結果につながる。ヨクがアシク、ワルクへと向かっていく。ヤマトコトバの原義からしてすでに反義語に結びつくところは、言葉というものの奥深さを示すものであり、とても興味深い。
(注9)鎌が曲がれるもの、刀が真っ直ぐのものというテーマについては、神武記、熊野において、大きな熊に悩まされる話として逸話化されている。拙稿「神武記の「大熊髪」について」参照。
ツキノワグマの首の鎌形(上野動物園)
(注10)「○問、書字不美読、其由如何。○答、師説、昔新羅所上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲地而踏。自其後、訓云文美也。今案、蒼頡見鳥踏地而所往之跡、作文字。不美云訓、依此而起歟。」(早稲田大学図書館古典籍総合データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_04819/ri05_04819_0005/ri05_04819_0005_p0003.jpg)
(注11)額縁がなければそれが絵であるということがわからない。絵を描くことと額縁を作ることを同時作業で行ってしまったのが、江田船山古墳出土の大刀銘であったり、天寿国繍帳銘であったりする。天寿国繍帳銘については、拙稿「天寿国繍帳銘を内部から読む」を参照されたい。自己言及的に言葉を紡いでいった構想、構造は、江田船山古墳出土の大刀銘と一致している。人間の精神の有り立ちを見るうえで、とても興味深い事案である。
(注12)例えば、「お酒は黄桜」(文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210597)といったキャッチコピーである。
(注13)田辺1966.によるもので、「陶器山15型式」(田辺1981.)ともされ、中村2001.に「Ⅱ型式1段階」、山田2011.に「陶器山15窯式」とされている。
 白石2002.は、稲荷山鉄剣の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」とあるのを、定説化している埼玉稲荷山古墳辛亥銘鉄剣修理報告書の解説にあるとおりに考えている。「辛亥年」は471年、倭王武が宋に使いを送る478年であるから年代がほぼ合うという。
(注14)継体紀の筑紫国造磐井の乱の記事は次のとおりである。

 二十一年の夏六月の壬辰の朔にして甲午に、近江毛野臣(あふみのけなのおみ)、衆(いくさ)六万を率(ゐ)て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅(ありひしのから)・喙己呑(とくとこん)を為復(かへ)し興建(た)てて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造磐井、陰(ひそか)に叛逆(そむ)くことを謨りて、猶預(うらもひ)して年を経(ふ)。事の成り難きを恐りて、恒に間隙(ひま)を伺ふ。新羅、是を知りて、密(ひそか)に貨賂(まひなひ)を磐井が所(もと)に行(おく)りて、勧むらく、毛野臣の軍(いくさ)を防遏(た)へよと。是に、磐井、火(ひのくに)・豊(とよのくに)、二つの国を掩(おそ)ひ拠りて、使修職(つかへまつ)らず。外(と)は海路(うみつぢ)を邀(た)へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年(としごと)に貢職船(みつきものたてまつるふね)を誘(わかつ)り致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮(さいぎ)りて、乱語(なめりごと)し揚言(ことあげ)して曰く、「今こそ使者(つかひ)たれ、昔は吾が伴(ともだち)として、肩摩り臂触(す)りつつ、共器(おなじけ)にして同食(ものくら)ひき。安(いづくに)ぞ率爾(にはか)に使となりて、余(われ)をして儞(い)が前に自伏(したが)はしむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜(たか)ぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏(た)へらえて、中途(なかみち)にして淹滞(さはりとどま)りてあり。天皇、大伴大連金村(おほとものおほむらじかなむら)・物部大連麁鹿火(もののべのおほむらじあらかひ)・許勢大臣男人(こせのおほおみをひと)等に詔して曰はく、「筑紫の磐井、反(そむ)き掩ひて、西の戎(ひな)の地(くに)を有(たも)つ。今誰か将(いくさのきみ)たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉(みな)曰さく、「正(たひら)に直(ただ)しく仁(めぐ)み勇みて兵事(つはもののこと)に通(こころしら)へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまをす。天皇曰はく、「可」とのたまふ。
 秋八月の辛卯の朔、詔して曰はく、「咨(あ)、大連、惟(これ)茲の磐井率(したが)はず。汝(いまし)徂(ゆ)きて征て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拜(をが)みて言さく、「嗟(あ)、夫れ磐井は西の戎の姧猾(かだましきやつこ)なり、川の阻(さが)しきことを負(たの)みて庭(つかへまつ)らず。山の峻(たか)きに憑りて乱を称(あ)ぐ。徳(いきほひ)を敗りて道に反(そむ)く。侮(あなづ)り嫚(おご)りて自ら賢(さか)しとおもへり。在昔(むかし)道臣より、爰に室屋に及(いた)るまでに、帝(きみ)を助(まも)りて罰(う)つ。民(おほみたから)を塗炭(くるしき)に拯(すく)ふこと、彼も此も一時(もろとも)なり。唯天(あめ)の賛(たす)けるを、臣(やつこ)は恒に重みせるなり。能く恭(つつし)み伐たざらむや」とまをす。詔して曰はく、「良将(すぐれたるいくさのきみ)の軍(いくさだち)すること、恩(めぐみ)を施して恵(うつくしび)を推し、己を恕(おもひはか)りて人を治む。攻むること河の決(さ)くるが如し。戦ふこと風の発(た)つが如し」とのたまふ。重(また)詔して曰はく、「大将(おほきいくさのきみ)は民の司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)の存亡(ほろびほろびざらむこと)、是に在り。勗(つと)めよ。恭みて天罰(あまつつみ)を行へ」とのたまふ。天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて大連に授けて曰はく、「長門より以東(ひがしのかた)は朕制(かと)らむ。筑紫より以西(にしのかた)は汝制れ。専(たくめ)賞罰(たまひものつみ)を行へ。頻(しきり)に奏(まを)すことに勿(な)煩ひそ」とのたまふ。
 二十二年の冬十一月の甲寅の朔にして甲子に、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡(みゐのこほり)に交戦(あひたたか)ふ。旗(はた)鼓(つづみ)相望み、埃塵(ちり)相接(つ)げり。機(はかりこと)を両(ふた)つの陣(いくさ)の間に決(さだ)めて、万死(みをす)つる地(ところ)を避らず。遂に磐井を斬りて、果して疆場(さかひ)を定む。
 十二月に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献りて、死罪(しぬるつみ)贖(あが)はむことを求(まを)す。(継体紀二十一年六月~二十二年十二月)

 二十一年六月条の最後、「天皇曰可。」の「可」は、書陵部本に「ユルス」、北野本に「ヨシ」と傍訓がある。ここは、八月条に「咨(あ)」、「嗟(あ)」と互いに呼びかけ合うほどの近しさに進む発端の記述である。天皇の発語としては、「可(う)」=「諾(う)」であったと考えられる。阿吽の呼吸になっているという話であろう。江田船山古墳出土大刀銘の「◆」字は、鵜飼の鵜(う)を表して十分なのである。
(注15)大塚・歳勝土遺跡(横浜市都筑区)の環濠と柵との関係は、隋書・倭国伝の「日出処天子致書日没処天子無恙云々」とともに考えることが求められている。
(注16)継体紀の最後には、継体天皇が亡くなった年次について、割注形式で「或本(あるふみ)」の異伝として二十八年(534)の薨去を伝えている。百済本紀によって、「太歳辛亥の三月」「是の月」に「又聞く」こととして、継体二十五年に亡くなったことになっている。紀では、「二月」になっている。そして、「辛亥の歳は、二十五年に当る。後に勘校(かむが)へむ者(ひと)、知らむ。」とある。紀に何を意味するのか未詳であったが、稲荷山古墳出土の鉄剣銘とを「後勘校者、知之也。」と、後考を俟っている。
(注17)森2003.。アクセントまで引き写す識字能力があるなら、筆者が述べているヤマトコトバの表記能力もあって当たり前である。母語についてのことである。
(注18)拙稿「事代主神の応諾について」参照。
(注19)土器製塩については、考古学からさまざまな研究が行われている。筆者は、古代の塩づくりの技術について、単一のやり方へと収斂させようとする研究姿勢に多少の疑問を感じる。結果的にできればいいわけで、海沿いの家庭では塩水自体を調味料に汁を作ることもあったのではないか。それはそれで言葉の上ではシホ(塩)であろうと憶測している。生産物が売買の対象や税となったとき、生産効率の向上が求められるようになる。漁師が船上で作るうしお汁に、塩を持参したとは考えにくいのである。言葉の上では、シホ(塩)、ウシホ(潮、ウミ(海)+シホ(塩)の約か)は同系で、キタシ(堅塩)は新たなる造語のように感じられる。正倉院文書で、「顆」と数えることがあるのは、塊になっていたからであろう。語学的にいって、シホ→キタシには、製塩技術に何らかの変化があったらしいことを窺わせている。「藻塩(もしほ)」(万935、常陸風土記行方郡条)法には諸説あるが、前段階の塩析出法であったようである。考古学研究が整うことを期待したい。
 近藤1984.に、「越前茂原の塩焼きと焼き塩―三木謙三翁の話―」という昔話が付されている。筆者が注目するのは、その地が継体天皇の出身地、越前で、米ヶ脇遺跡に土器製塩の遺構がある点である。塩田法発明以降も民俗的に塩焼きが営まれていた由来は、あるいは、継体天皇の故事ゆえからではなかろうか。
 武烈紀に、「詛(とご)ふ時に唯、角鹿海(つぬがのうみ)の塩(うしほ)をのみ忘れて詛はず。是に由りて角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす。」(武烈即位前紀仁賢十一年十一月)とある個所、大系本日本書紀に、「角鹿は敦賀(つるが)。敦賀の塩だけが特に天皇御料となることは、後世に見当たらない。」((三)153頁)とある。「角鹿」は越の国にある。継体天皇の故事と関わりがあるように思われてならない。
 古代の人たちは、北陸地方~若狭湾沿岸にかけての塩のことをどのように思っていたか。キタシホ(北塩、堅塩(キタシ)の代表?)であろうか。底面を安定させている製塩土器の脚台を何と呼んでいたか。例えば、コシ(腰&層&輿)であろうか。製塩土器自体は、例えば、シホカメ(塩甕)か。貯蔵用と同じになるのであろうか。本邦の竈では、カメ(甕)が支脚の上に載せられ、粘土で隙間を埋めて据え付けられており、湯を常時沸かして甑を被せて蒸し料理をしていたとされる。甕が洗えない作りである。外山1991.に、「いわば「はめころし」の状態」(176頁)と形容されている。ときどき壊していた形跡もあるとされる。筆者はここに、電気ポット内の様子を思い浮かべる。塩の析出である。水道水の場合、カルシウム分が多いようである。つまり、火にかけられる甕の甕たる本質とは、塩の析出にあるのではないか。本文に述べたとおり、竈に釜ではなく甕を採用した点は、製塩土器と共通するところがあるように感じられる。ヤマトコトバの解明には、想像力をたくましくして検討されるべき課題が多い。
(注20)古代の塩釜の記録としては、「熬塩鉄釜」(筑前国観世音寺資材帳、和銅二年(709))、「煎塩鉄釜」(長門国正税帳、天平九年(727))、「塩釜」(周防国正税帳、天平十年(738))があげられている。生塩を鉄板の上で煎って脱水したようである。ただし、類例が少なく、比較的短期間しか用いられていない点を考慮すれば、当時の人々において、釜文化は甕文化に劣るとの評価もあったかもしれない。作るのに値段が高い割に使い勝手として手入れが面倒である。放っておくとすぐ錆びて穴が開く。
(注21)越(こし、コは甲類)という語と、鹹水を濾(こ)す(コの甲乙未詳)ことが関係し、中古に「塩ごし」という語になったのかわからない。また、上代に「藻塩」とあるのが海藻を積み重ねて上から海水を注いで鹹水を得、それを製塩土器で煮詰めて塩づくりをしたと考えられていることと関係があるのか、これも不明である。濾過する意味のコス(濾・漉)という言葉が上代に見られない。中古の「塩ごしの樋」の語から、越す筧、向こう側へ潮水を遣り水として送ることを表すとする説も根強い。しかし、上代に遡るのであれば、樋(ひ、ヒは乙類)と火(ひ、ヒは乙類)の洒落をもって、火を越(こ)す(コは甲類)ことを表した可能性は残る。ただし、それらのことを示す具象的な遺物は見当たらない。
(注22)継体天皇を越前国からお迎えする際の事情、男大迹王の逡巡については、この記事を含んで記されている。

 元年の春正月の辛酉の朔にして甲子に、大伴金村大連、更(また)籌議(はか)りて曰く、「男大迹王(をほどのおほきみ)、性(ひととなり)慈仁(めぐみ)ありて孝順(おやにしたが)ふ。天緖(あまつひつぎ)承(つた)へつべし。冀(ねが)はくは慇懃(ねむごろ)に勧進(すすめまつ)りて、帝業(あまつひつぎ)を紹隆(さか)えしめよ」といふ。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰く、「枝孫(みあなすゑ)を妙(くは)しく簡(えら)ぶに、賢者(さかしきみこ)は唯し男大迹王ならくのみ」といふ。丙寅に、臣連等を遣(まだ)して、節(しるし)を持ちて法駕(みこし)を備へて三国に迎へ奉る。兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駈(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。是に、男大迹天皇、晏然(しづか)に自若(つねのごとく)して、胡床(あぐら)に踞坐(ましま)す。陪臣(さぶらふひと)を斉(ととの)へ列(つら)ねて、既に帝(すめらみこと)の坐(ましま)すが如し。節を持つ使等、是に由りて敬憚(かしこま)りて、心を傾(かたぶ)け命(いのち)を委(よ)せて、忠誠(まめなるこころ)を尽さむと冀ふ。然るに天皇、意(みこころ)の裏(うち)に尚疑(うたがひ)ありとして、久しくして就かず。適(たまたま)河内馬飼首荒籠(かふちのうまかひのおびとあらこ)を知れり。密(しのび)に使を奉遣(たてまだ)して、具(つばびらか)に大臣・大連等の迎へ奉る所以(ゆゑ)の本意(もとつこころばへ)を述べまをさしむ。留ること二日三夜(ひふつかよみよ)ありて、遂に発つ。乃ち喟然歎(なげ)きて曰はく、「懿(よ)きかな、馬飼首。汝(いまし)若し使を遣して来り告(まを)すこと無からましかば、殆(ほとほど)に天下(あめのした)に蚩(わら)はれなまし。世の云はく、『貴賤(たふとくいやしき)を論(あげつら)ふこと勿れ。但(ただ)其の心をのみ重みすべし』といふは、蓋し荒籠を謂ふか」とのたまふ。踐祚(あまつひつぎしろしめ)すに及至(いた)りて、厚く荒籠に寵待(めぐみたま)ふことを加ふ。甲申に、天皇、樟葉宮(くすはのみや)に行至(いた)りたまふ。(継体紀元年正月)

 「適(たまたま)」知っていた河内馬飼首荒籠に聞かなかったら、「殆(ほとほど)」に天下の笑い者になっただろうと嘆いている。そして、人は身分の貴賤ではなくその心ばかりを重んじろという格言は、まさに荒籠のことを指していると言っている。「荒籠」は荒く編んだ籠のことで、今日、蛇籠などのことをいうと解されているが、塩と関係する。

 其の兄の子を恨みて、乃ち其の伊豆志河(いづしのかは)の河島の一節竹(ひとよだけ)を取りて、八目(やつめ)の荒籠(あらこ)を作り、其の河の石を取り、塩に合へて、其の竹の葉に裹(つつ)みて、詛(とご)はしむらく、……(応神記)
 詛ふ時に唯(ただ)角鹿海(つのがのうみ)の塩をのみ忘れて詛はず。是に由りて、角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす。(武烈前紀仁賢十一年十一月)

 応神記で「一節竹」を取ってきて葉をむしり、河の石を塩にまぶしてくるんでいる。稈のほうは「八目籠」を作っている。その状況からすると、「荒籠」は塩を入れる籠であったようである。男大迹(をほど)という名を冠しながら、百部根(ほど)の比喩が理解できていなかったのだから、「殆(ほとほど)」に笑われるところだったと気づかせてもらったのである。
 このように、塩焼きと百部根のことが日本書紀に“きちんと”記されているところから考えると、江田船山古墳出土大刀の銘文は、ヤマト朝廷の観念体系を具現化したものであるとわかる。
(注23)「酷毒流於民庶」(雄略紀二十三年八月)の「流」字、古訓に「ホトコリナム」とあることについて、神田1983.に、他の「被」、「連延」、「延」ともども「諸訓は、その引申義なること殆ど論證を要せざるべし。」(370頁)とある。
(注24)平安文学に、「来し方」と記される事柄を、キシカタと訓めば時間的に過ぎ去った過去を、コシカタなら空間的に通り過ぎて来た場所のことと区別されていたが、平安末期に不分明になり、過去のこともコシカタというようになったと解説されている。過去回想の助動詞キがカ変動詞「来(く)」を受ける場合、終止形のキは付かず、連体形のシ、已然形のシカが、「来」の未然形のコないし連用形のキに付くとされる。「きし方行く末」(竹取物語・蓬莱の玉の枝)という例がある。ところが、管見ながら、万葉集には、仮名書きの例から、「来(こ)し」、「来(こ)しか」と読み慣わされており、「来(き)し」、「来(き)しか」の例は見られない。大伴家持の万3957番歌に、「出でて来(こ)し」、「来(こ)し日の極み」とあり、用字は「許(こ、コは乙類)」で、時間、場所の両用に用いられている。和文語「来(く)」と、漢文訓読語「来(く)る」、「来(きた)る」との関係から、その謎は解かれるかもしれない。次注も参照されたい。
(注25)「◆加多支鹵」の義訓によって、キタシ(堅塩)の一義に、キタシ(来たし)と読むことがわかった。「来(きた)す」は、来させる、もたらす、の意で、「来(きた)る」の他動詞形である。「来(きた)る」は、キ(来)+イタル(至)の約とされ、漢文訓読系で使われ、平安時代、女流文学には「来(く)」を用いた。ところが、万葉集に、「来(きた)る」は20例を超える。持統天皇御製の、「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたへ)の 衣乾(ほ)したり 天の香具山」(万28)は早い例である。万葉集に登場する語が、どうして女流文学に排除されることになったのか、筆者は不勉強で納得できていない。言葉の歴史を文化史として捉え返せていない。
 本稿では、「安也」をイヅクニカと義訓で読むとする点も指摘した。漢文訓読体に特有に見られる言葉が、偶然の一致や、筆者の思い過ごしによるものでなく、継体二十五年(531)からすでに用いられていたとするなら、ヤマトコトバの歴史は、今日考えられているほど“新しい”ものではなく、漢文・漢語との接触混淆を伴いながら程よく醸成されていたことを窺わせて興味深い。それは、ピジン・クレオールでも、カタカナ語乱発でも、和製英語短縮化のいずれの状況とも異なるものである。音→音への交雑ではなく、文字(「書(ふみ)」)→言葉への交換過程での発明に依った語である。言葉とはもともと音であるが、その音を理解するために言葉があるというからくりが、きちんとからくりとして成立している、それが上代のヤマトコトバなのである。母語以外の他言語を返り点などを施しながら読んでしまい、いわゆる和訓と呼ばれる語を生じさせつつ母語並みに扱っていき、言葉が言葉自体でなぞなぞとして楽しめるほどに発展させている。そのようなことは、他の言語においてどの程度まであり得たのであろうか。ランガージュにもいろいろあることは言うまでもないながら、存外に深くは考えられていない。ここにあげた例では、キタシが、来たし、北し、堅塩、の意味を兼ねていて、それらが互いに意味的に絡まるように“作られている”といった状況が、他の言語Aにおいて、それ以外の言語Bからの影響を受けながら、混ぜっ返して結局は言語Aのなかでなるほどと納得できるように、言語A内で言葉を練り上げてしまうようなことが実例としてあるのものなのか。言語A内でと断ったのは、キタシ(来たし、北し、堅塩)と言ったとき、中国大陸や朝鮮半島の人にはどの意味も通じないからである。「謎」が問題なのではなく、なぞなぞが問題なのである。
 筆者は、オリジナルのヤマトコトバと、漢文訓読を含めた漢字文化の受容の際に生じたベストマッチング、つまり、高度ななぞなぞ文化について考究している。なぞなぞ、頓智が、既存のヤマトコトバを変革して行くなかで、漸次的にすすんだ意図的な創意工夫に重きを置くものか、はじめからヤマトコトバのうちにオリジナリティとして発揮されていたものなのか、現代の言語生活とは次元が異なる別世界であるため、同定すべき位置を見出せていない。例えば、枕詞“とは何か”について、どうしても現代の言語活動では“定義”をしてかかろうとして、いくぶん見当違いなことになっている。「枕詞」が問題なのではなく、なぜ枕詞などという言語活動が促進的に行われたのか、そこが問題である。枕詞とは言語遊戯であると定義できたとして、なぜそのようなことをするに至ったのか、何をやっているのか意味がわからない。個々の枕詞の“語源”について考究されることに拘泥している段階から抜け出さなければならない。本稿では、そんな言語活動が、6世紀前半にまで遡る現象であることを知り、驚きを禁じ得ない。言語をもって文明たらんとした上代のヤマトコトバ“とは何か”。謎ではなく、なぞなぞが問題である。
(注26)本邦において文字表記が多少なりとも一般化するのは、7世紀中葉のことである。少し先んじて聖徳太子の勝鬘経・法華経講話に始まり、大化改新や律令の策定、記紀編纂や万葉集歌の書きつけなどを通じてである。江田船山古墳出土の大刀鉄剣銘が物語っているのは、百年以上も前の528年頃、ランガージュの能力に長けた人たちがいたということである。エクリチュールを馬鹿にして無文字であることを選択したがゆえ、文字時代の到来が遅くなったのであろう。その間に行われていたこととは、東夷の“大”帝国(石母田正に擬う)、ヤマトコトバ帝国の隆盛であったと考える。日本語の由来がつかみ切れないのは、当時のガラパゴス化がさらに影響しているからではなかろうか。

(引用・参考文献)
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※本稿は、旧稿(2016年、2018年)を整理し、日本書紀記事との関係について少なからず加筆したものである。

(English Summary)
Reading the Silver Inlaid Inscription of the Iron Sword from the Eta Funayama kofun
Eta Funayama Burial Mound Sword in Japan is an ancient iron sword excavated from the Eta Funayama kofun in Kumamoto Prefecture, Japan in 1873. The inscription on the back of the sword is said to indicate that the sword was made in the era of Emperor Iuryaku "雄略天皇" called "獲加多支鹵(Wakatakeru)" in the 5th century. But we need to read and think carefully. When we verify the inscription in detail, we realize that "三寸" of it is meant to cut the iron material into three equal parts. And, surprisingly, to express the cormorant called "鵜(u)" in Japanese, the Japanese character which is very similar to "獲(u)" has been made. In addition, we notice that the writing is a complex texture of reading of a kanji by meaning and of it by sound. After all, we can recognize that the inscription conveys the rebellion of Tsukushi-nö-kuni-nö-miyatsuko Ifawi "筑紫国造磐井", during the era of Emperor Keitai "継体天皇", in 527.

江田船山鉄剣銘を読む 其の二

2020年07月04日 | 江田船山鉄剣銘
(承前)
歴史的背景

 この銘文に記される歴史事情について次に考える。
 白石2002.に、「この銀象嵌銘を持った江田船山大刀は、須恵器の編年の物差しで申しますと、[田辺昭三氏が]MT15と呼ばれている須恵器の時期のものであるということが想定される。少なくともそれより古いとは考えられないということになるのです。……銀象嵌銘を持った江田船山大刀は、新相の遺物を伴った二番目の被葬者の持ち物であった可能性がきわめて高いということになるわけです。」(37頁)とある。田辺1966.の須恵器編年グラフにおいて、「MT15」(注13)は西暦520年頃のことかと思われる。この科学的鑑識は、現在、「獲□□□鹵大王」(江田船山古墳出土大刀銘)、「獲加多支鹵大王」(稲荷山古墳出土鉄剣銘)をワカタケル大王、すなわち、雄略天皇のことであるとの歴史認識の定説に、齟齬が生じていることを示している。
戦場での戈戟類、「旗鼓相望」(蒙古襲来絵詞、ウィキペディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takezaki_suenaga_ekotoba_1-2.jpgをトリミング)
 九州で歴史的にインパクトのある事件といえば、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいはゐ)の乱(継体二十一~二十二年(527~528))である(注14)。須恵器編年のMT15の時期で当たっている。紀には次のようにある。

 天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、[物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の]大連(おほむらじ)に授けて曰く、「長門より以東(ひがしのかた)は朕制(かと)らむ。筑紫より以西(にしのかた)は汝制れ。専(たくめ)賞罰(たまひものつみ)を行へ。頻(しきり)に奏(まを)すことに勿(な)煩ひそ」とのたまふ。(継体紀二十一年八月)

ここに「斧鉞」とあるのが「四尺廷刀」なる戈戟類であろう。また、「専行賞罰」が刑罰を職とする刑部卿に相当し、江田船山古墳出土の大刀銘にある「奉事典曹人名无利弖」に当たるのであろう。物部麁鹿火その人である。物部氏は、姓氏録や旧事記には、饒速日命(にぎはやひのみこと)の子、宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)から出たとある。継体記には、「荒甲(あらかひ)」とあるが、紀に「麁鹿火(あらかひ、ヒは乙類)」と記されている。新手の鹿火のことかと想像される。鹿火とは、野営の際などに獣や蚊が襲ってくるのを防ぐために焚き火を焚いて煙や臭いを出して寄せ付けないようにした仕掛けである。万葉集に、「鹿火屋(かひや)」(万2265)とある。
「无利弖」→「旡我弖」(三浦1993.61頁)
 「奉事典曹人名」、銘文の18~20字目に判読されている「无利弖」は「旡我弖」に見える。「旡」は「既」の旁で、説文に、「旡 㱃食の气、屰(ぎゃく)にして息するを得ざるを㒫と曰ふ。反に从ひ欠す。凡そ㒫の属、皆㒫に从ふ。今変じて隸に旡に作る」とあり、嫌になるほど食べて咽ぶほどになって顔をそむける象形である。アゴエ(距)から連想される顎の鎌形が目立ってくる。名義抄に、「旡 音既、ツクス」とある。つまり、猛獣に襲われそうになったら、狩りでとった獲物を惜しみなく与えてしまえば良いということである。猛獣に尽くしてあげれば猛獣は食べ尽くして飽きてしまい、人を襲うことなく去って行く。役割として新手の鹿火である。ボディシールドになっているから、「荒甲」という用字も適っている。
 「我」は一人称で用いられることの多い字であるが、旁は戈である。白川1996.に、「我は鋸。嵯峨・齟齬のように、ぎざぎざに刻む音。」(102頁)と、「戈」の「語系」が示されている。説文に、「我 身を施すを自ら謂ふ也。或説に、我・頃は頓(つまづ)く也。戈に从ひ𠄒(すい)に从ふ。𠄒は或説に、古の垂の字なり。一に曰く、古の殺の字は、凡そ我の属にして皆我に从ふといふ」とあり、名義抄に、「我 吾可反、禾(ワ)レ、イタツキ、カタヰ、禾ガ、ア」とある。イタツキとは、和名抄に、「平題箭 揚雄方言に云はく、鏃の鋭かざる者は之れを平題〈伊太都岐(いたつき)〉と謂ふといふ。郭璞に曰く、題は猶ほ頭の如き也、今の戯射箭也といふ。」とある。先が尖っていて殺生能力がある鏃ではなく、犬追物で使われるような鳴鏑、蟇目の類を指すようである。鹿火は獣を殺すのではなく、遠ざけることに特化している。イタツキは新手の鹿火である。
 「弖」字は「氐」の異体字である。名義抄に、「氐 羌也、ヲカス」、「羌 ツツガ」とある。憂いがないの意、つつがなし、のツツガに当てる「恙」と同意である。万葉集の「恙無」(万3253)は、他の仮名書きの用例(万894・1020・1021・4408)とともに、ツツミナクと訓まれている。障害のことをツツミ(ミは甲類)と言っている。堤(塘・隄)(つつみ、ミは甲類)とアクセントこそ違え、同音で同じような意味の言葉である。土を盛って流れの障壁とした。動物園で観覧客の柵の向こう側に、空堀を含めて堀が設けられていることがある。襲って来ないようにした新手の鹿火である。環濠集落の柵と堀の順についての検討は後考を俟ちたい(注15)
鏑矢(犬射蟇目)(犬追物図、小笠原流@Wiki様「犬追物」http://ogasawararyu.wiki.fc2.com/wiki/%E7%8A%AC%E8%BF%BD%E7%89%A9)
「弖」=「氐」=「羌」=「恙」=「堤」(アフリカゾウのゲージ、多摩動物公園)
 以上から、銘文の18~20字目は「旡我弖」であり、「旡我弖」はアラカヒ(ヒは乙類)のこと、万葉集に見られる義訓の類の延長線上にあると知るに至る。「奉事典曹人名旡我弖」とは、刑部卿に相当する物部大連麁鹿火(?~宣化元年(536))のことである。北部九州を制圧した物部麁鹿火のとった政策は、朝鮮半島からの新技術の直輸入垂れ流しを止め、ヤマトに合った形で技術導入を図ることにあったと見受けられる。竈は受け入れるが鉄製の釜は受け入れない、といったことである。国内産業の保護政策の側面も有したと思われる。筑紫国造磐井が採り入れて行っていた技術や制度は、当時のヤマト朝廷から見れば異端であり、民族的アイデンティティさえ戸惑うほどの脅威だったのであろう。

「獲□□□鹵大王」

 冒頭の大王名「獲□□□鹵大王」(稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」)も、ワカタケル大王(雄略天皇)ではない。かつては、「治天下𤟱□□□歯大王世」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説(福山敏男)もあった。それが稲荷山古墳から銘のある鉄剣が見つかり、「獲加多支鹵大王」をワカタケル大王とするようになった。しかし、銘文は、万葉集に見られるような義訓が行われている。この部分だけ仮名書きで記すことはかえって考えにくい。大刀が江田船山古墳の2番目の被葬者の副葬品として埋納されたのは520年頃のことである。ワカタケル大王=雄略天皇(在位、457~479年)代ではなく、継体天皇(在位、507~531年)代、ヲホド大王(「男大迹天皇」(継体紀即位前紀)、「袁本抒命」(継体記)、ドは乙類)の御世である。19~21字目の「旡我弖」が(物部)麁鹿火のこととわかったから、1~11字目の「(台)天下獲□□□鹵大王世」は継体天皇の時代のことであるとするのが整合的な解釈である。
 従来の説の矛盾点は被葬者の副葬品の年代ばかりではない。稲荷山鉄剣の銘文中に、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」とある。通説では、「ワカタケル大王の寺(役所の意かとされる)が磯城宮(しきのみや)に在りましし時」と読んでいた。「斯鬼宮」はシキノミヤである。雄略天皇の泊瀬朝倉宮を“広域磯城”の域内だからそう記されていると解釈するのは強引すぎる。また、記紀によれば、雄略天皇は都を遷していないから、わざわざ宮都の場所を特定して断る必要もない。崇神天皇の都した磯城瑞籬宮は桜井市金屋に、欽明天皇の都した磯城嶋金刺宮は桜井市慈恩寺に、継体天皇が二十年九月に遷った磐余玉穂宮は桜井市池之内にあったものと推定されている。これらは確実に磯城に所在する。「獲加多支鹵大王」が継体天皇のことを指すとすれば、大王名と宮都名の矛盾も解消する。
 継体天皇の都した場所は、紀に、以下のように記されている。

 [元年(507)正月……]樟葉宮(くすはのみや)に行至(いた)りたまふ。…河内国交野郡葛葉郷(大阪府枚方市楠葉付近)
 五年(511)の冬十月に、都を山背の筒城(つつき)に遷す。…山城国綴喜郡(京都府京田辺市多々羅都谷付近)
 十二年(518)の春三月……に、遷りて弟国(おとくに)に都す。…山城国乙訓郡(京都府長岡京市今里付近)
 二十年(526)の秋九月……に、遷りて磐余の玉穂に都す。…大和国式上郡(奈良県桜井市池之内付近)

 稲荷山鉄剣の銘文中の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の「斯鬼宮」とは、最後の磐余玉穂宮のことを指すとわかる。磐余は磯城にある。「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」と記しているのは、継体20年(526)の遷都以降、没する継体25年(531)までのことである点を明記するものである。そして、稲荷山古墳出土鉄剣銘に「辛亥年」とあるのは、西暦471年ではなく、継体二十五年(531)に当たる(注16)
 「獲□□□鹵」において、「獲鹵」という言い方は、今日、特に三国志のゲームの世界に行われている。敵の軍用品・兵器などをぶんどることを鹵獲という。史記・楽毅伝に、「是に於て燕の昭王、斉の鹵獲を収めて以て帰る。(於是燕昭王、収斉鹵獲以帰。)」とある。継体紀に記されたことと、これまで見てきたことを綜合すると、物部麁鹿火は筑紫国造磐井と戦い、相手方の持っていた物品、「大鐵釜」を戦利品として接収し、大刀を製作している。「大鐵釜」はヤマト朝廷側にはなかなかなかったものであろう。鉄の釜を使う文化になく、その後も南部鉄器に盛んになるまで見られない。朝鮮半島文化を受け入れていた北部九州の磐井側にしかなかった。敵方の兵器や利器、物資、わけても鉄をぶんどって自分のものとした。
 歴史書である日本書紀によれば、継体天皇が皇位を継いだ過程は、皇位継承者がほとんどいないなか、豪族による合議制で決められていったように描かれている。国王が不在になると、激烈な権力闘争が行われても不思議ではない。それが平和裏に決まり落ち着いている。なぜ大伴氏や物部氏は、自らがトップに立つことを試みなかったのか。歴史学ならびに政治学の課題である。と同時に、戦において持たざる側が勝利するためには、鹵獲の術こそ大切であったことは理解されなければならない。数ある漢字のなかから鉄剣に刻まれている文字をすすんで選んだ理由が物語っている。
 継体天皇は、連れて来られた天皇である。捕虜の天皇である。大王自体が“鹵獲”されている。「鹵」は「虜」に通じ、説文に、「虜 獲たるもの也。毋に从ひ力に从ひ虍声」とある。「獲□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)とは、捕虜の大王の意にとれる。それが巡り巡って筑紫国磐井の乱では、鹵獲した物品で大刀を作らせる側の大本営に立っている。まことにふさわしい文字面といえる。鹵獲→「獲鹵」と本末が転倒している。

「獲」か「◆」(犭偏に「丿一」の下に「E」、その下に「又」)か「◇(犭+隻)」か
「獲?(◆(犭偏に「丿一」の下に「E」、その下に「又」)?、𤟱?、◇(犭+隻)?)」(東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035177をトリミング)
 稲荷山古墳出土鉄剣銘によって補うことで成立している「獲□(加)□(多)□(支)鹵」の最初の字は、「獲」の異体字であるとされている。東野2004.は、「異体字の場合、時代が下る例であっても、その発生が新しいとはいえず、傍証とすべきである。あるいは象嵌の省略ともみられよう。また隹の横画が三本の異体は、古くから例がある。この文字は「獲」の異体字と断定してよいであろう。」(98頁)とする。この説には同意できない。東野2004.が引用する藤沢一夫氏の指摘による日本書紀巻十四の古写本中に縦画のない形の「獲」の字は、宮内庁書陵部本のもので、下に示すいちばん左の字に当たる。つづいて同巻中に他の4例がある。
「獲」(宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266aの8/38(16-12)、同(7-11)、10/38(8-9)、31/38(16-7)、32/38(5-3)を模書)
「獲」王僧墓誌(東魏・天平三年(536)刻、『石刻史料新編第三輯(三)漢魏南北朝墓誌集釈(上)』新文豊出版公司、拓本文字データベースhttp://coe21.zinbun.kyoto-u.ac.jp/djvuchar?query=%E7%8D%B2参照)。
左:「獲」字、右:「猴」字(岩崎本日本書紀皇極紀四年正月条を模書)
 当該文字に関しては、書陵部本では、「隹」の左縦画を伸ばし、中軸縦画から「又」の左払いへと続ける字で、「又」の横画は記さない。その中軸縦画は、筆が浮いてかすれているに過ぎない。他の4例も含めて見れば、草冠の位置が全体を覆うか旁だけを覆うか、また、草冠の三画目の左払いが犭偏の一画目に続くこともある。「隹」部分の中軸縦画から「又」の左払いへと続ける際、上から始まるか途中(「隹」の横画の2本目ぐらい)から始めるかといった違いはあるが、中軸縦画は有るものとして筆記されている。筆記者の意識に縦画が無いものとしては筆記されていない。しかも、草冠も有る。「傍証」とはならない例と考える。そして、岩崎本のように、確実に横画数が少なくても「獲」の字としてためらわれていない。大刀銘の文字以上に横画を省いている。紙本墨書で技術的に難しいわけではない。“傍証”とするのに気づかうのは、縦画、横画の本数よりも、全体的なバランス、印象としての“字体”であるように思われる。およそ他に例がなく、違和感あるものを異体字とは定められない。江田船山古墳出土鉄剣銘の文字は芸術的な価値を問うものでもない。
 そしてまた、「獲」の字をワと読む例を、筆者は勉強不足で他に知らない。吏読によるのであろうか。漢音にクヮク、呉音にワク、入声陌韻である。仏典にギャク、梵語の pratilambha、西蔵語の thob-pa の訳、得の一種とする。稲荷山鉄剣の銘文では、アクセントまで引き写してあるとまで論じられている(注17)
 亀井1979.は、隹とするには縦画を欠いているように見えるので、「◆」(犭偏に「丿一」の下に「E」、その下に「又」)とあるように見えるとし、「蝮」字の獣偏化説(福山敏男)のようにとるには、下部の又との釣り合いがとれないとする。筆者はこの見解を積極的に評価する。
 「獲」字はウ(下二段、エ・エ・ウ・ウル・ウレ・エヨ)、トル(四段)の意である。説文に、「獲 獵の獲(う)る所也。犬に从ひ蒦声」とある。白川1996.によれば、「犬は猟犬を意味する。獲得の初文である隻は、あるいは鷹を用いたものであろうか。」(167頁)と推測されている。けれども、白川1995.では、「蒦(かく)は本来は鳥を捕ることであるから、狩猟の獲物より収穀の穫の義となったものであろう。」(138頁)ともする。漢字の成り立ちについてはともかく、上代のヤマトコトバでどう受け取ったかが検討課題である。そして、銘文に「◆」(犭偏に「丿一」の下に「E」、その下に「又」)と記した。
 「獲」という字は、ヤマトコトバに、トル、ウ、エなどと訓まれるであろう。もちろん、倭人の頭の中では、ヤマトコトバが先にあって、それにあてる漢字として見えている。獲物を獲ることが字に表されていると考えたであろう。そして、この個所の刻銘「◆」のアイデアは次のようなものであったろう。動詞トル(取・執・獲・捕・採)の連用形がトリ(万葉集に防人歌など特定の場合を除きトは乙類)で、トリ(鳥・隹・鶏、トは乙類)に同じである。言葉として同じなのはおもしろいことである。そこで上手な文字を造ってみている。銘文の「◆」に見える字はどんな鳥か。まず、草冠がない。草の生えているところにいる雉や鶉や雀や、それを狙う鷲や鷹などではない。水鳥であろう。獣偏ははっきりしているし、「又」部も明らかである。よって、推進力よく狩猟をする水禽類である。パンをちぎって貰っている鴨など平たい嘴の鳥ではない。字形からは頭の毛が寝ており、中軸の縦画がなく、横画も1本足りない。羽が折られている鳥と思われる。そのような鳥は唯一、ウ(鵜)である。捕られた鳥で魚を獲る鳥である。
カワウ(?)(洗足池)
 ウは鵜飼に使われる。彼らは猟をするが、獲物を吐き出して鵜匠に捧げる。捕られた当初、慣れるまで、逃げないように羽を折ることも行われた。「獲」の訓に、ウ、トル(トリ)とあるのだから、これは鵜を表していること間違いない。無理やりでも言うことを聞かされる鳥が、ウである。ヤマトコトバの感動詞にウ(諾)とある。ウという言葉は、ウン、と承諾するしか選択の余地がないことを表している(注18)。そういう意味合いを込めた書記言語として「◆」という象形文字を用いている。「◆」は、野生のウではなく鵜飼の鵜のことを示す。孤例の国字である。
鵜飼(渓斎英泉(1791~1848)、岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩、横大判錦絵、江戸時代、19世紀、東博展示品)

鵜飼、塩焼き、北から来た継体天皇

 つづく「加」はカ、「多」はタ、また、記紀万葉などの古代文献の多くに「支」はキ(甲類)と仮名として訓んでいる。「鹵」は呉音でル、漢音でロ、本来の意味は岩塩、シホである。塩の旧字は鹽である。説文に、「鹵 西方の鹹地也。西の省に从ひ、鹽の形に象る。安定に鹵県有り。東方に之れを㡿(せき)と謂ひ、西方にては之れを鹵と謂ふ。凡そ鹵の属、皆鹵に从ふ」とある。すなわち、「加多支鹵」はカタキシホ(堅塩、キは甲類)のことと解釈でき、古語にキタシ(堅塩、キは甲類)である。

 堅塩媛(きたしひめ)と曰ふ。堅塩 此には岐拕志(きたし)と云ふ。(欽明紀二年三月)
 所以(このゆゑ)に、造姫(みやつこひめ)に近く侍(つかへまつ)る者、塩の名称(い)はむことを諱みて、改めて堅塩(きたし)と曰ふ。(孝徳紀大化五年三月)
 黒塩 崔禹錫食経に云はく、石塩は一名に白塩、又、黒塩有りといふ。〈今案ずるに、俗に黒塩と呼ぶは堅塩と為(す)。日本紀私記に堅塩を木多師(きたし)と云ふは是也。〉(二十巻本和名抄)

 日本国語大辞典の「きたし【堅塩】」の「語誌」に、「固くする意の動詞「きたす」があって、その連用形「きたし」に「しほ」の付いた「きたししほ」の下略とする説がある。この説によれば、苦汁(にがり)を取り除くために塩を煙でいぶし固めたのが堅塩であり、挙例の「十巻本和名抄」(ママ)にあるように色は黒となる。」(④154頁)とある。当時、塩は、製塩土器を用いて水分を蒸発させて生産されていた。カマの話であることのつながりを思わせる。考古学においては、土器製塩について、正確な製法はなお確かめられていない(注19)。塩田法が採り入れられて古代の製塩技法そのものが不明となり、推測するしかなくなっている。大略は、海水から鹹水を得、さらに煮沸して、さらには苦汁(にがり)分を焼ききり(MgCl2→MgO)、黒く堅い塊になる。それを堅塩(黒塩)と呼んでいるようである。
 その製塩土器には先の尖ったものがあり、それが分離して支脚となり、また、煮詰めるに当たって1つの炉にいくつも並べられて注ぎ足されながら焚かれ続けたようである。製塩土器の先の尖り、ないしその分離は、本邦における竈において、羽釜に代わって土器製の長胴甕が用いられ、据え付けるために支脚を置いたのととてもよく似ている。鉄物資が不足している列島で、鉄製の羽釜ではなく、長胴甕を利用すれば良いと気づくヒントは、この製塩土器の形態にもあったのではなかろうか(注20)。仮にそうであるとすれば、言葉の上では、カマ(釜)→カメ(甕)(メは乙類)へと言い換えたということになる。言い間違えて噛んでしまった已然形の「噛め(メは乙類)」と既成事実化している。本邦に岩塩は産出しないから、カタキシホと言えずにキタシシホと言っていることになっている。
浦入遺跡の製塩土器支脚?(平安時代、850年頃)(舞鶴市HP)
カマドの模式図(横浜市歴史博物館展示パネル)
 つまり、「獲加多支鹵大王」とは、堅き塩を獲た大王のこと、すなわち、キタシ(来、キは甲類)こと、来させることを獲た大王である。方角的にも北(キは甲類)である。方角のことをシという。北方から来させた。越前出身である。継体天皇は、皇統が絶えたのでお迎えした天皇である。どういう伝手で来てもらったかというと、「枝孫(みあなすゑ)」(継体紀元年正月)、「趺萼(みあなすゑ)」(継体紀元年二月)を辿ってふさわしい人物を選んでいる。ミアナスヱは御足末の意である。穴の末にあるものとも洒落ができる。継体天皇の名は、ヲホド(男大迹・袁本抒)である。大系本日本書紀にあるように、「ヲホドは小さいホド(塊)の意。」((三)382頁)である。和名抄に、「百部 陶隠居に曰く、百部〈保度豆良(ほどつら)〉は、一種に百部有るを以て、故、以て之れを名づくといふ。」とある。マメ科の多年草植物で、根に塊を多数生じて繁殖する。漢方に百部根である。サツマイモ風の出来栄えである。つまり、芋蔓式に見つけたのが導き出したのがヲホド大王である。上手く引かないと切れてしまい掘り取ることはできない。実際、継体前紀には、当初、「足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)倭彦王(やまとひこのおほきみ)」を丹波国桑田郡に見つけて来てもらおうとしたが、迎えようとした兵士の軍勢に恐れをなして逃げられてしまっている。2番目に白羽の矢が当たったのが男大迹王である。
百部(岩崎灌園・本草図譜、蔓草廿八、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287138/5をトリミング結合)
 百部根の様子を見れば、それがホドと言うに適当であることがわかる。薪を集めて煮炊きや製塩のために土器を熱している場所、ホド(火処)によく似ている。ホドという語は上代に見られないが、火処(火床)の義であるとするなら、「蘿(ひかげ)を以て手繦(たすき)に為て火処(ほところ)焼き」(神代紀第七段本文)とあることから、ドは乙類である。古語拾遺の相当個所に、「庭燎(にはひ)を挙(とも)して」と、焚き火であることを表している。色は赤褐色、炎のようであるとも、赤く燃えた薪のようであるとも見える。タキギ(薪)という語は焚き木の意である。

 ……其の船の材(き)を取りて、薪(たきぎ)と為(し)て塩を焼かしむ。是に、五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施(ほどこ)して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ふ。(応神紀三十一年八月)

 製塩の話になっている。他方、マキ(薪)という語は、新撰字鏡に「㯕 素嵆反、𢳋也、小樹也、万木(まき)、又己曽木(こそぎ)也」とある。木のキは甲類である。これは種を播(ま)くのマクの連用形マキ(キは甲類)と関係がある語と考えられ、播の字には、名義抄にホドコスの訓がある。火処の火を拡がらせるようにどんどんくべていく。まるで、百部根のような塩梅に火処が張っていっている。ハル(張)という語において、張り巡らすことと脹らむこととを兼ね備えた語が、ホドコス(ホドコル)という語であろう。その上に製塩土器は置かれ、海水は濃度を増して鹹水、さらには、堅塩(きたし)に仕上がっていく。海水(鹹水)が注ぎ足されるとともに、薪もつぎつぎに足されていく。最終的に、口を上に開けた製塩土器に堅塩が固まっている。丸い土器に塊になって肥っている。

うがいと百部根
塩焼き(ひろしま県庁「月刊こちら広報課」2016年10月号、https://www.pref.hiroshima.lg.jp/kouhou/201610-yokubari.html)
うがい(いらすとや様「がらがらうがい」https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_52.htmlをトリミング)
 塩が出来あがっていく過程を見ていると、あたかも嗽をしているようである。ヨード水溶液以前、嗽をするのに塩水を使うことがあった。現在の医学的知識でも、健常時は塩水を使った方が良いとされている。ガラガラとあぶくを立てて嗽をするのと、グツグツと塩が煮え上って行くのはよく似ている。そして、鵜飼の仕方は、鵜の喉の下部に紐をゆるく結い、ペリカン様の喉に獲物を入れはするが飲み込めなくし、その手綱を5~10数本ぐらい鵜匠が操るものである。その様子は、ホドヅラ(百部根)の芋の出来具合とよく似ている。本草和名に、「百部根 欬薬」とある。根を乾燥させてうがい薬にした。名義抄に、「嗽 クチススグ、ウガヒス」、下学集に、「鵜飼 ウガイ、嗽(クチススグ)也」とある。嗽(うがひ、ヒの甲乙未詳)という語は、早くからその語源について、鵜飼(うかひ、ヒは甲類)との関係が取り沙汰されている。鵜が魚をのんでは吐き出すこととの連想を見たらしい。
 さらに筆者は、百部根が「欬薬」とされている点に注目している。1本のホドツラから根が広がり、それぞれの先で張り膨らんで塊となっているところは、1人の鵜匠が操る手綱の先に、それぞれ喉を膨らませた鵜がつながれていることに相同であると見てとれる。百部根も鵜も、のんでは吐き出すのに長けている。痰を取るのに百部根を使っている。魚を獲るのに鵜を使っている。百部根も鵜も、吐き出させられている。鵜飼に必要な技能とは、上手に引き寄せる手綱さばきである。空位の天皇を埋めるためにも、上手に引き寄せる必要があった。銘文に、「其の統ぶる所を失はず(不失其所統)」と読まれているのは、鵜飼の手綱さばきに似ていて、ホドツラのたくさんの根の先に太った根があり、それを切らないように手繰り寄せられたことを指している。「統(す)ぶ」という語は、一つにすること、まとめることが原義で、支配の意に用いられるのはその展開形のようである。

 海神(わたつみ)、是に、海の魚(いをども)を統(す)べ集(つど)へて、其の鉤(ち)を覓(と)め問ふ。(神代紀第十段一書第一)
 機衡(よろどのまつりごと)を綢繆(すべをさ)めたまひて、神祇(かみつかみくにつかみ)を礼祭(ゐやま)ひたまふ。(垂仁紀二十五年二月)
 皇太子(ひつぎのみこ)、乃ち皇祖母尊(すめみおやのみこと)、間人皇后(はしひとのきさき)を率(ゐてまつ)り、并(あはせ)て皇弟等(すめいろどたち)を率(す)べて、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)に居(ま)します。(孝徳紀白雉四年是歳、北野本訓)
 毎年(としのは)に 鮎し走らば 辟田河(さきたがは) 鵜(う)八頭(やつ)潜(かづ)けて 河瀬尋ねむ(万4158)

 万葉集の例は、越中守大伴家持の歌である。紐のような根を手繰り寄せて天皇に据えたというのが、越の国から迎えられた継体天皇即位の話であった。何羽もの鵜が同時に鵜飼にかり出されて喉を膨らませるのと、何甕もの製塩土器が一つの炉(火処)に焚かれて塩の泡を立てるのと、何本もの百部根が一株に膨れるのとは、類推されるに足るだけの共通項を持っていた。物質的には釜文化 v.s. 甕文化の戦いが、筑紫国造磐井の乱であった。勝利した側は、製塩土器に由来した甕文化を竈に融合させ、普及させた。ヲホド大王は越(こし、コは甲類)の国から連れて来られて、そのトップに君臨している(注21)。応神紀三十一年条の例から考えると、塩を焼くこと(堅塩づくり)とホドコシ(施、ド・コは乙類)という語は関連づけられて観念されているようである。塩を施すことで諸国を統べている。
 カタキは堅い意味のほかに、難しい、厳重な、の意がある。「◆□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)とは、取り来たし大王、また、得難き大王のことを暗示している。継体天皇は、ほとんど拉致された状態で連れて来られた。その際には厳重な警備が求められた。威儀を高めなければ正統性も確保されないから、武装した大行列で迎えに行くことになる。

 臣連等を遣(まだ)して、節(しるし)を持ちて法駕(みこし)を備へて、三国(みくに)に迎へ奉る。兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駆(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。(継体紀元年正月)(注22)

 礼節を守って誠実に熱心に天皇になってもらおうと説くが、疑問をいだき、知り合いの河内馬飼首荒籠(かふちのうまかひのおびとあらこ)へ使いをやって助言を求め、2泊3日話し合ってようやく大臣や大連の本意がわかったという。はるばる都からやって来たのは、味方かどうか知れないのである。自由にのんびり田舎暮らしをしていたのが、急に兵隊さんに囲まれたら、守られているというよりも囚われて窮屈だと感じるのは当然であろう。そんなに仰々しくしなくても、事を難しくしなくても、都へ行けと言われれば行くことは可能である。けれども、出自が確かであることを示すには、仰々しくして威厳を持たせるしかないのである。天皇とは、あくまでも豪族が合議で決めて据えるものであった。兵士の儀仗の行列は、「鹵簿(みゆきのつら)」(雄略記、天武紀七年四月)という。「前駆警蹕」とは、鹵簿を整えることである。塩(鹽)の製造量を帳簿につけたり、荷札にして都へ貢物として送ることについて、鹵簿という語を関連させて考えられていたようである。その根拠は、相談相手の知り合いが、河内馬飼首荒籠という人だからである。河内馬飼が越前国の三国とつながりがあったのは、馬の飼育に塩が必要だったから仕入れていたのであろう。
 そして、カタキには敵(仇)(かたき、キは甲類)の意もある。カタキ(敵・仇)のキは人の意で、オミナ(嫗)の対のオキナ(翁)、イザナミと対のイザナキの、キ(甲類)は男の人を表す。片+キの意である。突然現れた軍勢は、もとを辿れば自分の祖先を追いやった豪族の末裔だから、親の親の親の親の親の仇のような存在に当たる。男大迹王は、「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)、彦主人王(ひこうしのおほきみ)の子(みこ)」(継体即位前紀)である。
 以上いろいろ検討した結果、「◆□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)とは、カタキを鹵獲(「獲鹵」)せし大王、堅塩(きたし=来たし)を獲し大王のことから、ヲホドノオホキミ(男大迹王)、継体天皇のことを指している。ひげが切れないようにホド(百部)の芋を掘り取った。漢字の「部(べ)」は、大化改新前に、朝廷や豪族に仕えたさまざまな職能集団を指す。「部曲(かきべ)」などともいう。それが百も連なるようなことだと、漢方薬にする百部根という字面は語っている。部の民を百も連ねることができるのは天皇ぐらいである。そして、ヲホドだから小さな塊状の芋である。ヤマト朝廷は“象徴天皇”を失ったとき、手繰り寄せた。小さな手がかりをつかんで宮都へ連れ帰った。裏返せば、皇統の血筋とは、ホドツラ(百部根)が地中で根を広げてそれぞれ張り膨らみ太っているように、実は案外どこにでも隠れて広まっているということになる。

「伊太(→加)」=「いたか」説
「和?(加?)」(左:江田船山鉄剣銘、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/C0035185.jpgをトリミング、右:魏太監劉華仁墓誌銘、京都大学人文科学研究所所蔵石刻拓本資料http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_b/html/nan0214x.htmlをトリミング)
 最後に、もう一人、銘文に名が示された「伊太(和)」について考える。「和」ではないかとする字は「加」とする説もある。筆者は「加」と見る。イタカである。イタカとは、通例、板書き、あるいは板書きの略かとされ、居鷹・為多加・異高とも表記される。功徳、善根、供養のために小さな板の卒塔婆に経文、戒名などを書き、流れ灌頂を行って読経をして銭を乞う乞食坊主をいう。この語が古代にさかのぼるとする証拠はない。けれども、卒塔婆のような細長い大刀の棟(嶺)に文字を刻むという仕業は、何か特別な行いとして人々の注目に値したことと思われる。七十一番職人歌合には、「穢多」と歌を競い合っている。描かれている「いたか」は覆面をしており、社会から排除された賤民、非人の部類のようである。記されている「いたか」の歌に、「文字はよし見えもみえずも夜めぐるいたかの経の月のそら読」とある。月の光の下で象嵌を施す作業を行っていたとする解釈は、「八月中」のナカノトヲカの解釈において(注6)に述べた。
いたか(狩野晴川・狩野勝川模、七十一番職人歌合(模本)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017483をトリミング)
 そんなイタカの仕事にふさわしい人物が、継体紀に記されている。

 十二月に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)[筑紫国造磐井]のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献りて、死罪(しぬるつみ)贖はむことを求む。(継体紀二十二年十二月)

 命乞いをしている。乞食僧に等しい。この葛子(コは甲類)という言葉は、葛粉(コは甲類)に同じである。葛の根を何回もさらすことによってデンプンをとり出したものである。葛餅、葛切、葛湯などに用いられているが、労多くして功少ない食材である。救荒植物であった。まさに命乞いを意味する。筑紫君であったはずである。ツクシ誰の子、スギナの子のはずである。いつからクズの子に成り下がり、晒し者になったのか。クズは屑でもある。吉野葛を久助葛といい、久助とはできそこないのことを指している。献納している屯倉の名の、糟屋のカスは滓をも指す。いかにもとってつけたような紀の記事は、人間のくず、かす、と呼ばれるような所業を示唆している。反乱が鎮圧されたら、一族郎党皆殺しが必定で、所領地の一部を差し出して許されるものではない。「筑紫君葛子」なる人も、出家した坊主のなかでもさらに命乞いをしているから、イタカと呼ばれる立場に落ち着いたということであろう。仏門に下ることとは、本来、命を捨てることを意味する。そこで、「作刀者名伊太加書者張安也」となった。
四季花鳥図巻 巻上(酒井抱一(1761~1828)筆、絹本着色、江戸時代、文化15年(1818)、東博展示品)
 上に、「書者」の「者」は、②形式名詞的用法ではないと捉えた。①提示用法に、書くことは張り安んずることである、の意とした解釈も示した。中世のイタカという職業者は、この作刀者にして銘を刻んだ人物をこのように綽名したことに始まるのであろう。そのうえで、③仮設用法とも解釈される可能性がある。なぜなら、銘を刻まされているイタカ、こと、筑紫葛子は、敗北者側の捕えられた囚人だからである。書けと言われて訳も分からず言われるがままに書いたのではなく、屈辱的な文言を刻まされたということである。
 「張」は弓を張るように長大にすることをいう。詩経・小雅・吉日に、「既に我が弓を張る(既張我弓)」とあり、張って大きくする意に用いる。張り出して来て大きくなった勢力に筑紫国造側は滅ぼされた。その名は、ヲホド(「男大迹」)であった。「旡我弖」こと、既に我が弓を張った“吉日”気取りで「弖」の字を使っている物部麁鹿火に敗北した。ヲホドはもともと遠い越の国にいた。一筋のアナスヱを手掛かりに手繰り寄せられたヲホド=ヲ(小)+ホド(塊、ドは乙類)であった。それがあれよあれよという間に勢力を拡大し、版図を広げた。ホドツラ(百部)が蔓延ったのである。塊根がたくさんできたことに準えている。ヤマトコトバにホドコス(ド・コは乙類)という。ホドコスはホドコルの他動詞形である。広く及ぶようにする、延び広がるようにする、広く行き渡らせる、の意であり、延びた先で肥え太って張って大きくなっていることに着眼した語である。上にあげた「則ち[塩を]施して周く諸国に賜ふ。」(応神紀三十一年八月)以外の諸例をあげる。

 夫の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能く播(ほどこ)し生う」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 凡て此の三の神、亦能く木種を分布(まきほどこ)す。(神代紀第八段一書第五)
 縦使(たとひ)星川、志を得て、共に国家(くにいへ)を治めば、必ず当に戮辱(はぢ)、臣連に遍くして、酷毒(からきこと)、民庶(おほみたから)に流(ほどこ)りなむ。(雄略紀二十三年八月)(注23)
 馬、野に被(ほどこ)れり。(顕宗紀二年十月)
 汝是れ微(いや)しと雖も、譬へば小火(いささかなるひ)の山野を焼焚(や)きて、村邑(むらさと)に連延(ほどこ)るが猶し。(欽明紀五年二月)
 忍壁皇子の宮より失火(みづながれ)延(ほどこ)りて民部省(かきべのつかさ)を焼けり。(天武紀朱鳥元年七月)
 北戸の間に分張(ほどこ)せり。(遊仙窟)
 妙る宝を貧き人に分ち施(ほどこ)し、……(三宝絵序)
 ▲(肉偏に亰) 張也、脹也、又分脹也、波留(はる)、又布止留(ふとる)、又久佐留(くさる)、又保止去留(ほどこる)(新撰字鏡)

 名義抄では、措、播、誇、班、宣、広、施、矢、散などにホドコスという訓を与えている。時代別国語大辞典に、「トの清濁および甲乙を古い例によって証することはできない。ホドコス・ホドコルは、ハダク(下二段、ただし古い例ではない)・ハダカル(四段、ただし古い例ではない)と対応するのではなかろうか。この推定に立つならば、トは、ア列音との転換が常に行なわれる乙類オ列音だったという想定も可能である。」(657頁)とある。神代紀の例は植物の繁茂の用例で、ホドヅラ(百部)の譬えによく適っている。
 ホドコシのコは乙類である。コシ(越、コは甲類)とは異なる。ホド(塊)が越えていったということではない。コシ(層、コは乙類)と関係する語であろう。五重塔などの屋根と屋根の間のくびれの階層のことをいう。腰(こし、コは乙類)と関係する語かともされている。新撰字鏡に、「層 子恒反、重居也、重也、累也、級也、重屋也、高也、志奈(しな)、又、塔乃己志(たふのこし)也」とある。法隆寺五重塔は、上から瓦葺屋根が五重、その下に板葺でもう一重、裳層(もこし)一枚と呼んでいる。塔の初層は、元来、仏陀の棺を納める場所で、龕(喪輿)(もこし、コは乙類)に当たる。塑像で凸凹に造られるのは、説文にいう「鹵 西方の鹹地也」の光景を再現しているようである。ここに、中古のシホゴシ(塩ごし)と上代のモシホ(藻塩)という語の間の接点を見出すことができる。モ(裳)とはスカートのこと、コシ(層)である。塩焼きは、土器に海水か鹹水を足しながら、薪を足しながら作られる。何層にもわたって塩が結晶化していき、薪の灰も積み重なっていく。助詞のモの意の and also を正確に表すように、製塩土器の内側でも外側でも同じように積み重なりが起こっている。結果、カチカチの堅塩(きたし)が出来上がった。それが到来物となった。キタシシホ=「来(きた)し塩」である。漢文訓読調でなければ、「来(こ)し塩」=コ(カ変動詞「来(く)」の未然形、コは乙類)+シ(過去の助動詞「き」の連体形)+シホ(名詞、塩)である(注24)。層塩(龕塩)(こししほ、コは乙類)なる概念を想定して検討された言葉であろう。かたまりの塩だからホド(塊)というにふさわしく、継体天皇の御名に合致している。
法隆寺五重塔初層北面涅槃像土(塑像、奈良時代(711年)、「法隆寺御朱印」様サイト)
土器製塩の塩の析出(知多市HP「歴史民俗博物館 平成27年度活動報告」https://www.city.chita.lg.jp/docs/2016121800014/)
 「伊太加(いたか)」こと、筑紫葛子は銘を刻まされた。第一の意味に、「張」にホドコシの訓を潜められていたのであろう。「男大迹(をほど)」こと、継体天皇というもとは小さな塊は、延び広がって行き渡らせて、あまねく及ぼすほどに蔓延るように増えたのである。三宝絵序の例に見えるように、憐れと思ってお恵みを与えてほしいと、筑紫葛子は命乞いをしている。富の再配分細分化は、強者、富者にとっては微分的にゼロに見えるかもしれないが、弱者、貧者にとっては無限大に思えるものである。ポピュリズムにおける臨時給付金支給は、投票行動に変化を起させる。ホドコシという語が展開された経緯が見て取れる。
 「安」は本来の位置ではないが、漢文訓読に用いられる助字のイヅクンゾ(イヅクニゾ)、「也」は疑問の助字で、カ・ヤと訓める。つまり、「書者張安也」は、「書ケバホドコシイヅクニカ」と訓める。書けば施しはあると思うかもしれないが、どうしてそのようなことがあろうか、の意である。さらにはまた、ホドコシという語についての駄洒落でもあろう。「書クハホドコシイヅクニカ」である。書いたものは、ホド、つまり、男大迹天皇のことであるが、そのもといた越とは何処の国であろうか、という謎掛けである。なんと、九州にまで遠く覇を唱えている。そのことを顕彰する文章に仕上がっている。最後のわずか3文字によって、冒頭の「◆□□□鹵大王」(「◆加多支鹵大王」)=男大迹天皇(継体天皇)に始まった銘文内容をまとめ上げている。
 紀に「安」を漢文訓読の助辞に訓む例は、偏在的ではあるが例がある。「安(いづく)にぞ欺くべけむ(安可欺乎)」(清寧前紀雄略二十三年八月)、「安にぞ異(け)なるべけむ(安可異)」(清寧紀三年七月)、「安にぞ自ら独り軽(かろみ)せむ(安自独軽)」(顕宗即位前紀清寧五年十二月)、「安にぞ輙(たやす)く疑を生したまひて(安輙生疑)」(雄略紀元年三月)、「安にぞ能く膝養(ひだしまつ)ること得む(安能得膝養)」(継体前紀)、「安にぞ空爾(むな)しとして答へ慰むること無けむ(安得空爾答慰乎)」(継体紀八年正月)、「安にぞ率爾(にはか)に使となりて、余(われ)をして儞(い)が前に自伏(したが)はしめむ(安得率爾為使、俾余自伏儞前)」(継体紀二十一年六月)、「安にぞ輙く改めて隣の国に賜ふこと得む(安得輙改賜隣国)」(継体紀二十三年三月是月)、「夫婦(いもせ)に配合(あは)せて、安(いづく)にか更に離(さ)くること得む(配合夫婦、安得更離)」(継体紀二十三年三月是月)、「婦女(めのこ)安にぞ預らむ(婦女安預)」(欽明前紀)、「新羅、安にぞ独り任那を滅さむや(新羅安独滅任那乎)」(欽明紀二年四月)、「安にぞ君に逆ふることを構へむ(安構逆<於君)」(孝徳紀大化五年三月)、「安にぞ父に孝(したが)ふることを失はむ(安失於父)」(孝徳紀大化五年三月)などとある。
 すべて会話体で用いられている。イズクニゾが常訓であるが、継体紀二十三年三月是月条の2例目にイズクニカと訓んでいる。万葉集に、「いづくにか(何所尓可) 船泊てすらむ 安礼(あれ)の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚無し小舟」(万58)とある。築島1963.に、「訓読では、…カの形と…ゾの形とでは、使用上の区別があるらしい。即ち、「イヅクニカ」「イヅクンカ」「イズコニカ」「イヅコンカ」「イドコンカ」などの、「…カ」を伴つた形は、多くは場所を示すもので、陳述副詞のやうに用ゐられるものは例が少いのであるが、これに対して「イヅクニゾ」「イヅクンゾ」「イヅコンゾ」「イドコンゾ」のやうに、「…ゾ」を伴ふ形には、場所を示す用法は無くて、陳述副詞[「何故に」「どうして」「何としてか」]のやうに用ゐられた例ばかりのやうである。」(451頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。つまり、銘文に「書者張安也」とあるように「安也」と続けることによって、イヅクニカと「…カ」と訓む指示がなされているらしい。なお、イヅクニという言い方は見られない(注25)

まとめ(銘文翻刻と釈訓)

 江田船山古墳出土鉄剣銘は、ヤマトコトバを駆使して記された歴史記録であった。それは、ただ単に事柄を書きとどめることを目的としていたのではない。自らが自らの言葉で自らの行いを語ろうとしたときの、その生々しい実体験そのものを伝えようとした努力の結晶である。ヤマトコトバ自体をつくり上げながら定めていく作業なのであった。言葉が紡ぎ出される瞬間が活写されている。言葉が成り立ったそのときその現場そのもの、誕生秘話を抱えながら産み落とされた話、言葉と事柄が相即に結びつきつつ拘束し合う関係を伝えるものであった。無文字時代の言語の特性を表して余すところがない。75字ばかりで本論考の内容を受け継がんとしていた言語能力は、今日から見れば異文化であるとしか言えないものである(注26)

(銘文)
 台天下◆□□□鹵大王世奉事典曹人名旡我弖八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(均)刀服此刀者長壽子孫汪々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(加)書者張安也

(釈訓)
 天の下治らしめしし◆□□□鹵大王(◆加多支鹵大王、こと、男大迹大王(をほどのおほきみ))の世(みよ)、典曹(うたへのつかさ)に奉事(つかへまつ)る人の名、旡我弖(キガテ、こと、物部麁鹿火)、八月(はつき)の中(なかのとをか)、大鐵釜(おほきなるしろがねのかま)并びに四尺(よさか)の廷刀(にはのかま)を用ゐ、八十(やそ)たび練り、九十(ここのそ)たび捃(あつ)む。三寸(みきだ)にし上(うへ)、好(よく)刀に均(ととの)ふ。此の刀を服(はか)せる者は、長寿(いのちなが)くして子孫(うみのこ)汪〃(さか)え、□恩(□のみうつくしび)を得る也。其の統(す)ぶる所を失はず。刀を作る者の名、伊太加(イタカ、こと、筑紫葛子)、書(か)くは張りて安(さだ)むる也(書けばホドコシイヅクニカ、書くはホドコシイヅクニカ)。
(つづく)

江田船山鉄剣銘を読む 其の一

2020年07月03日 | 江田船山鉄剣銘
江田船山古墳出土銀象嵌銘大刀(熊本県玉名郡菊水町(現和水町)江田船山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035177~C0035186をトリミング結合)

銘文解釈の現況

 江田船山古墳出土の大刀の銀象嵌銘(e国宝「江田船山古墳出土品」参照)に、次のようにある。

 台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖
 八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀
 服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

 上の文字の判読は、東野1993.による(注1)。東野2004.は、「天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鐵釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振(う)つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書する者は張安也。」(102頁)と読み下している。
 東博の考古展示室の解説パネル(2018年)には、「75文字の長大な銘文をもつ大刀で、5世紀の政治・社会や世界観を伝える日本古代史上の第一級の文字資料です。古代東アジアの有銘刀剣には、中国製と朝鮮半島・日本列島製があります。中国・後漢時代以降の銅鏡や鉄製刀剣の銘文は、基本的に「紀年」および「吉祥句(きっしょうく)・常套句(じょうとうく)」を中心に構成されます。その後、3~5世紀頃には辟邪除災(へきじゃじょさい)を願う四神(ししん)思想を軸とした世界観を表現するようになります。これに対し、5~7世紀に日本列島で製作された有銘刀剣は、人名を古代日本語で表記していることや製作の事情を述べた内容が含まれるなどの独自性が認められます。また、「治天下~」の表現は中国の影響を受けた世界観を示すものとして注目されます。一方、大陸では銘文を記す対象は石碑のような大型のいわゆる記念物であることが多いのに対して、日本列島では身につけて持ち運ぶことができる鉄製刀剣であることも大きな特徴です。日本列島で鉄製刀剣が弥生時代以降も重視され、東アジアの中で特異なまでに発達することと、古墳時代の有銘刀剣の盛行は深く関係すると考えられます。」とあり、現代語訳では、「ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代に、文章を司る役所に仕えた人、その名はムリテが、八月に、精錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1m余り)の立派な大刀を製作した。八十回、九十回に至るほどに丹念に打ち、また鍛えたこの上もなく上質の大刀である。この大刀を身に着ける者は、長寿を得て子孫が繁栄し、恩恵を受けることができ、その支配地を失うこともない。命じられて大刀を製作した者の名はイタワで、銘文を書き記した者は張安である。」となっている。
江田船山古墳出土大刀(部分々々)(古墳時代、5~6世紀、東博展示品)
 文字史の最初期の遺品である。1世紀のものかとされる「漢委奴国王」金印は中国製と考えられている。3~4世紀のものかとされる石上神宮七支刀は中国ないし朝鮮半島製と考えられている。本邦で作られたものとしては、5~6世紀のものとされる隅田八幡神社人物画像鏡、稲荷山古墳出土鉄剣、そしてこの江田船山古墳出土鉄剣がある。数が限られている中にあって、江田船山古墳出土鉄剣銘の不思議さは、よりによって刀の棟(峰)部分の狭いところに一条に刻まれている点である。相当に凝った考えをする人がいてできあがっていることが予見される。以下、銘文を丹念に観察しながら検めていく。

カマ(「釜」、「竈」、「鎌」、「囂」)の話

 意味として、「大鉄釜」は精錬炉のことと捉えられている。精錬炉は耐火レンガなどで作らなければならない。「釜」が鉄製だと精錬中に融けてしまう。他の金石文や文献などの引用と捉えられている。仏典に、大叫喚地獄の様として、「何故名為大叫喚地獄、其諸獄卒取彼罪、人著大鐵釜中、熱湯涌沸而煮罪人」(長阿含経)などと用例がある。地獄の釜の譬えについては後にも検討する。また、「并」をナラビニと訓むと意が通じないから、アハスと訓むとされている。けれども、「并」の字のアハスという意は、併合などという場合の一緒にすること、品詞は違ってもナラビニということと同じ意味であると思われる。アハスと訓むことでは問題は解消されない。
地獄釜茹で(矢田寺の絵馬、京都フォト通信様「代受苦地蔵絵馬」https://note.com/kppress/n/n945188140254)
 鈴木・福井2002.に、銘文の中段(上掲2行目)は作刀技術を語ったものとし、卸し鉄(おろしがね)製鋼の技術が記されていて、「大鐵釜并四尺廷刀」は材料であって、「大鐵釜」と「四尺廷刀」とを一緒にして新たに長い刀に鍛造したとする。慧眼である。
 「大鐵釜」は鋳つぶされ、「四尺廷刀」に加えられて鍛えられた。単純にそう読むことに特に支障はない。佐々木2006.に、「……硬鋼の素材が流通しているのに、なぜ鋳釜を壊して精錬し、鋼を製造したのであろうか。しかしそれを銘文に記しているのである。これは、もはや技術的解釈が可能な範囲を超えた問題と言わざるをえない」(194頁)とある。「技術的解釈を超えた問題」は、拙稿「コノハナノサクヤビメ考」によって、不細工な石長比売が返し送られたと説話化された由来として解明されつつある(注2)。すると、江田船山古墳出土の大刀は、大山津見神のウケヒの言葉に適うように製作され、石長比売と木花佐久夜毘売を二人とも併せて留めたから、「此の刀を服(はか)せば、長寿(みいのちなが)くして……」というお呪いの言葉が記された、と推理できる。なぜなら、すべてはカマの話に読めるからである。
 「四尺廷刀」について、「廷刀」という例が見られなかった時は疑問視されていた。千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した鉄剣銀象嵌銘に、表面「王賜□□敬(安)」、裏面「此廷刀□□□」とあるところから、「廷刀」という言い方がされていたに違いないと推測されるようになった(平川1988.)。孤例が2例(?)になると定説化されるらしい。平川2014.に、「[稲荷台1号墳出土鉄剣の]「銘文の主旨は、「王賜□□(剣の意)」にあり、王から鉄剣を授けたこと(下賜(かし))を表現したと考えられる。」(107頁)とある。「廷刀」は「鉄鋌」のことである(宮崎市定)、「廷刀」は「官刀」の意である(福山敏男)、「廷」は「挺」の省画で、「廷刀」はそびえ立つほどに長大な刀である(鈴木勉)、といった考えが行われている。そして、鈴木・福井2002.では、「「廷」の文字だけの解釈によって含有炭素量の低い普通の「鉄鋌」を当てるというわけにはいかない。」(7頁)のであり、「廷」から「刀剣用鉄鋌」か「刀剣」そのものを指しているとしている。持って回った議論が通行している。
 東野2004.は、「奉事典曹人」は、「「奉事せし典曹人」とも読めるが、「典曹に奉事せし人」とも解せられる。「典曹人」の存在を考える説は、埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘の「杖刀人」との関係で有力であるが、……杖刀と典曹では語の性格も異なるから、強いて双方を関連づける必要はあるまい。「典曹に奉事せし人、名は」と読めば、後段の「刀を作る者、名は」という構文とよく合致する。」(103~104頁)とする。典曹という語は、後漢書志第二十四・百官一に、「令史及御属二十三人。本注曰、漢旧注、公令史百石、自中興以後、注不石数。御属主公御。閤下令史主閤下威儀事。記室令史主上章表報書記。門令史主府門。其余令史、各典-曹文書。」と見える。三国志・蜀書にも、「典曹都尉」という役職があり、典曹というのは文字を記録する役人であるとされ、官吏名、職名であると説かれている。しかし、後漢書では、「各(おのおの)文書を典曹する」というように動詞である。「上章表報書記」などとは違う内容で文書を書いている。文官にもいろいろあった。財務省も文科省も多くは文官であるが、作成する文書内容はいろいろである。文官でも武官でもない技官も古代からいる。当たり前の疑問が横たわったままである。大刀銘の「典曹」とは何か。
 「典」は、法典などという意でヤマトコトバにノリである。「曹」は、法曹などという裁判官のことである。「奉事典曹人」とは、刑部省の役人、獄訟のつかさを言うのではないか。平野1985.に、「あえて推定すれば、断獄・非違検察を任とする職掌ではないかと思う。「典曹人」とは、その下級の実務官である。いわば文官ではあるが、武官としての将軍府のそれにおなじく、警察力などの“威嚇的手段”をもっていたのであって、この両者に共通する面も多い。」(127頁)とする。養老令・職員令に、「刑部省(ぎやうぶしやう)〈司二を管(す)ぶ。〉卿一人。掌らむこと、獄(ごく)鞫(と)はむこと、刑名(ぎやうみやう)定めむこと、疑讞(ぎげち)決(くゑち)せむこと、良賤(らうせん)の名籍(みやうじやく)、囚禁(しゆきむ)、債負(さいふ)の事。……」、二十巻本和名抄に、「刑部省 宇多倍多々須都加佐(うたへただすつかさ)。」とある(注3)。判事のムリテが鍛冶屋のイタワ(カ)に材料を提供して刀を作らせた。裁判官が提供した材料が、「大鐵釜并四尺廷刀」である。あの世へ行くときの裁判官といえば閻魔大王、上代に「閻羅王(えんらわう)」(霊異記・中)である。地獄で釜茹での刑に処したりする。「大鐵釜」の持ち主に相違ない。では、「四尺廷刀」とは何か。「尺」は長さの単位ではあるが、親指と人差指とをL字形に広げた際のサイズをいう。二十巻本和名抄に、「尺 魏武雑物䟽に云はく、象牙尺といふ。弁色立成に云はく、尺は竹量也〈太加波可利(たかばかり)〉といふ。」とある。長さを計るのに、親指と人差指とをL字形に広げては先へ進めて数えていった。尺取虫をくり返している。それがタカバカリ(竹量)と呼ばれるにいたったのは、竹に等間隔に節があって物差定規に用いられたからであろう。「廷」は、法廷のこと、 court である。法廷に「刀」があれば、縛り上げてお白州に引きづり出された罪人を震え上がらせるに足り、威儀を整えるのに役立ったと理解される。そんな小道具として打ってつけの刀に鉄戈や鉄戟がある。反抗や逃亡を企てたとしても、引っかけ刺され倒されて痛い目に遭うことになる。
左:鉄戟、右:鉄矛(奈良県宇陀市榛原上井足出土、古墳時代、5世紀、東博展示品。鉄矛は刃部分が欠損したものか。)
戟を持つ馬頭羅刹(地獄草紙、文化遺産オンライン「紙本著色地獄草紙断簡(沸屎地獄) 」https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213973をトリミング)
 説文に、「戈 平頭の戟也。弋に从ふ。一に横の象形。凡そ戈の属は皆戈に从ふ」、「戟 枝有る兵(つはもの)也。戈に从ひ戟声。周礼に戟、長さ丈六尺、棘の如しと読む」とある。礼記・曲礼上には、「剣を進(おく)る者は首を左にし、戈を進る者は其の鐏(いしづき)を前にし、其の刃を後にし、矛戟を進る者は其の鐓(いしづき)を前にす。(進剣者左首、進戈者前其鐏,後其刃、進矛戟者前其鐓。)」とある。尖った石づきが鐏、尖っていない石づきが鐓である。戈は、長い柄の先端に直角に短剣状のものを取り付けて、敵の首に撃ちかけて斬りつけたり引き倒したりするもの、戟は、戈にさらに矛を合わせた形で、一体式と異体式とがある。戈の撃刺、ひっかけ斬る機能に、矛の突くという働きまで兼ねたものである。すなわち、戟には木製の柄と同じ方向の刃と、直角方向の刃(援)がついている。銘文に「四尺」とあるのは、柄を取り付けた時の柄を含めた長さか、「周礼に戟、長さ丈六尺」の1/4サイズと見たか、あるいは鎌刃が両側に2個ずつ、計4つのL字になっている方天画戟の類を表したものかもしれない。「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(垂仁紀八十七年二月)とあるのが、実寸ではなく、勾玉が大きいことやぐにゃっとよく曲がっていることを表すのと同様な形容である。
右:鉄鉞戟(鉄、中国、前漢~後漢、前2~後3世紀、東博展示品)、左:鐏(青銅他、中国、戦国時代、前5~前3世紀、東博展示品)
戈(青銅、中国、戦国~秦、前4~前3世紀、東博展示品)
 徐鍇の説文解字繋伝に、「一に戟の偏距(かたかま)を戈と為す」とある。戈は矛部分を伴わず、戟のように先に伸びる部分がないから片鎌といっている。それを「距」と表している。新撰字鏡に、「距 其呂反、上、足角也、阿古江(あごえ)也」とある。「距」は、距離というように足で長さを測るわけであるが、和名抄に、「距 蒋魴切韻に云はく、距〈音は巨、訓は阿古江(あごえ)〉は鶏雉の脛に有る岐也といふ。」とある。鶏の蹴爪のことである。前爪と蹴爪の両方をあわせ持っており、戟の風情を彷彿させる。親指と人差指の間にできたL字形が後爪と蹴爪のところにもできている。「廷刀」は、法廷の刀のことと想定して探求してきたが、「廷」は「庭」に通じ、ニハと訓まれる。ニハトリ(鶏)の爪の話になっている。鶏の足のアゴエの場合、3次元立体であるため、強力な武器に見えることは間違いない。そして、アゴエという言葉は、ア(足)+コエ(蹴の古語)の意とされるが、古い用例は確かめられないものの、アゴ(顎・頤)という語と関連がありそうである。正面からでは不確かながら、横から見て鎌形をしていることがよくわかる。魚のアギト(鰓)とよく似た構造である。
(kokusai1214様「コシャモの「蹴爪」」https://www.youtube.com/watch?v=0Zr07ubLI0s)
 庭園で刀を使うとすれば、草刈り鎌であろう。「廷」の字は、名義抄に、銘文と同じ旁が「手」となる字を載せ、「𨑲 ムカフ、サカフ、ヲトル、アフ、マサル、ツヒニ」とある。戟の古文が屰、ないしは、戟は屰に通じ、屰は逆の初文である。突いて使うのとは逆の、引っぱって有効なのが戈や戟であり、形的には鎌である。説文にいうように、戈は横さまに刃がついている。名義抄に、「戈 過に同じの平声、ホコ、カマ、ヒトシホコ、ツハモノ、イル、吴々、過」、「戟 居逆反、ミツマタナルホコ、ホコ、ホコニサキ、ハヤク、禾客」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈几劇反、保古(ほこ)〉は、或に之れを于と謂ひ、或に之れを戈〈古禾反〉と謂ふをいふ。」とある(注4)。すると、「四尺廷刀」という「四尺」という形容は、ヤマトコトバにヨサカ(ヨは乙類)であろうから、横(よこ、ヨ・コは乙類)+逆(さか)の意味を含むと知れる。捻くれた性格の曲がれるもの、鎌なるものの意がよく表現されている。白川1996.に、「戈 kuai は割裂の音をしめすものらし」(102~103頁)いとしている。
片鎌槍(朱銘 加藤清正息女 瑤林院様御入輿之節御持込)(室町時代、16世紀、東博展示品、徳川茂承氏寄贈、参考図)
 実戦においては、騎馬や馬車での戦いで戈や戟は有効であったろう。本邦において刀剣類の武器は、独自に発達した日本刀が大勢を占め、他に槍、長刀が見られる程度である。しかし、法廷で戈や戟のような姿形を見せられると恐れをなしてしまう。そのため、犯人はつい自白へと向かう。戈や戟というおどろおどろしい鎌形の武器に誘導される。すなわち、鎌をかけられるわけである。この「かまをかける」という不思議な語句がいかに生まれたかについては、いくつかの説があげられている。上代に遡る俗語表現であるかは不明である。①相手にやかましく、かしましく喋らせて、そこから引っ掛けるようにこちらの聞き出したいことをうまく引き出すことから、カマ(囂)をかけるというようになったとする説、②甑を作る際に、寸法を測る道具をカマと呼び、カマで寸法を確認することをカマをかけるといっており、思いどおりに導いて白状させることをカマをかけるといったという説、③鎌の先で引っ掛けるように、相手をこちらに都合の良いように引き寄せるようにした際に、引っ掛けたのを憚って言ったとする説、④山焼きの時、火打金のことをいうカマを火打石にかけ当て、付け木にうまく火をかけることから譬えられたとする説、⑤カマキリのカマの手繰り寄せる動きから見立てたとする説などがある。今見てきたことから、⑥戈戟類に由来する説もあり得、また、⑦鶏の距(あごえ)によるとする説もあげられよう。
 ②の、甑を作る時の厚さを測るコンパスかノギスのような道具について、歴史的由来について不明ながら(注5)、そういう曲尺(矩尺)のものが古くから用いられていたのであるなら、非常に興味深い説であると言える。曲尺(矩尺)は鎌形で、L字状をなす。すなわち、「大鐵釜并四尺廷刀」において、釜と鎌の結合が、釜と甑にまつわるカマとの融合を表しており、石長比売と木花之佐久夜毘売の両者をともに使うことになり、記の大山津見神のウケヒにある、「我之女二竝立奉由者、使石長比売者、天神御子之命、雖雪零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘売者、如木花之栄栄坐、宇気比弖〈自宇下四字以音。〉貢進。」という言葉に呼応してくる。両者を使った刀を製作したのだから、「服此刀者長壽子孫汪〃得□恩也」と言えるのも確かになる。釜と、釜にかけるのが本来の姿であるはずの甑の、それを作る時の鎌のような形の道具とを合体させた刀を持っていれば、長寿繁栄間違えなしということである。もちろん、そのような上手い話については、真実か否かといった次元の話ではない。そうあって欲しいと願われているのであって、ウケヒの文句を具現化したに過ぎない。それを現代の研究者は「威信財」という術語で呼ぶかもしれないが、それは筆者の仮説立て同様、憶測の域を出るものではない。
 始めに言葉ありき、である。そこから出発すると、大山津見神のウケヒの文句など、そもそもが信を置けるようなものではない。そうあってくれるといいなと思って2人の娘を貢進したと言っている。言っていることが大袈裟で、カマをかけたような話である。カマをかけるという慣用句の語源説に、さらに、⑧釜を竈に架けることによる説も付け加えたい。大陸で鉄製であった釜は、それに合わせて設けられた竈に架ければ十分役に立つはずであった。拙稿「コノハナノサクヤビメ考」において、筆者は、大陸から鉄器として釜がもたらされたものが本邦での釜の始源である可能性が高いと指摘した。それまで、煮炊きには、効率の悪い囲炉風の火処(ほど、ドは乙類)を使っていたが、竈を作って釜をかけるという新技術が伝来した。まことにうまい具合にできている。火も煙も見えないから、ご飯はまだ炊けていないだろうと思っていたら、すでにおいしく出来上がっていた。騙されたような仕掛けである。この説の焦点は、まんまと乗る、とするところが、飯(まんま)を炊くために釜を乗せることと絡んでいる点である。カマをかけるという慣用句の語源解釈として穿っていよう。
五徳に鍋に薪の炎、横に戟のようなヨキ(斧)(板橋貫雄模写、春日権現験記・第13軸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287498?tocOpened=1(15/19)をトリミング)
 けれども、羽釜の羽(鍔)が錆などで欠け損じてしまうとうまく竈に架からない。通常の容器において最大の欠陥は、穴が開いて中に入れる液状の物質が漏れ出すことであるが、釜の場合は羽(鍔)部分の損傷も大きな欠陥とされる。竈から落下してしまって役に立たない。まんま(飯)と乗せることができなくなる。それはいつか。ハ(羽)+ツキ(尽、キは乙類)=葉月(はつき、キは清音で乙類)、つまり、八月である。大刀の銘文に書いてある。「八月中用大鐵釜并四尺廷刀……」。なぜ「八月」と記されてあるかについては、これまで吉祥句や鍛冶屋のならわしによるとされてきた。筆者は、八月は羽釜のハがすり減りツキ(尽)て竈に埋没するようになったため、役に立たないから鋳つぶしてしまう次第に相成ったと考える(注6)。その結果、釜は落下転倒し、灰神楽になってかまびすしい大きな音をあげた。江田船山古墳出土の銘文を伴う大刀は、カマとカマがあわさってできたやかましいもの、75文字にも及ぶうるさい銘文を持ったものである。それを自ら記銘している。自己言及の筆致は、無文字文化の感性に適っている。長文の銘文はそのしるしである。

和訓へのいざない

 これまでの解釈では、前段・中段・後段に分けたとき、中段の後半に動詞が見られない。「用」いてどうしたか。ふつうならシンプルに動詞で表す。すると、東野2004.が仮に「刊」の異体字と見ている43字目は動詞で、「刀」をツクルといった意味の文字に当たるはずになる。この43字目については、「利」(末永雅雄)、「長」(福宿孝夫)、「挍」(福山敏男)とする説もある。釜と鎌とを用いて「八十練(九or六)十(捃or振)」して、それから「三寸上好(刊)刀」したわけである。「三寸上好」については、鈴木・福井2002.に、意味上、「三寸」を長さと見るのは難しいとする。そして、「三寸上(くわ)え」説(福宿孝夫)や「上(切先)から三寸のところに焼き入れをした」説(石井昌國)は文脈上成り立たないとし、残されるのは、「三才上好」説(東野治之)、「三等上好」説(鈴木勉、福井卓造)、「三時上好」説(徳光久也、町田章)、「三均九和」説(本田二郎)、「三刌上好」説(王仲殊)などをあげている。
 しかし、これらの説に依ると不明の43字目が動詞にならない。筆者には、この銘文の文は中国人の作った漢文であるように見えない。教養あるヤマトコトバとして記紀万葉読みをするなら、「三寸」はミタビキダキダ、ミキダニシテ、などと読める。「寸」は寸断の意である。

 時に素戔嗚尊、乃ち所帯(はか)せる十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、寸(きだきだ)に其の蛇(をろち)を斬る。(神代紀第八段本文、私記乙本訓「寸〈岐陁々々(きだきだ)〉」)

刀剣にまつわる言葉として登場している。紀のこの部分、諸本にツダツダと訓んでいる。名義抄に、「寸 キダキダ ツダツダ」とある。ずたずた、きざきざ、に同じく擬声語である。キダ(分・段)は、「刻む」の語幹キザに同じとされている。「寸」は長さの単位でも、何かの簡体字でもなく、寸断したという意味であろう。また、以下の例に見るとおり、三つにスパッと切り分けることは、ミキダ(「三寸(三段)」)にすると表現されていた。ミツダとは言わなかったということである。

 遂に所帯(はか)せる十握剣を抜きて、軻遇突智(かぐつち)を斬りて三段(みきだ)に為す。(神代紀第五段一書第六)
 仍(なほ)、持たる剣を以て、三(みきだ)に其の弓を截(うちき)る。(崇峻即位前紀用明二年七月)
 ……「八段(やきだ)に斬りて、八つの国に散(ちら)し梟(くしさ)せ」とのたまふ。(同上)
 寸(きだきだ)に斬らるとも亦た心甘なひなむ。(遊仙窟)
 愁への腸(はらわた)寸(きだきだ)に断ゆ。(遊仙窟)

 つまり、釜と鎌を并せて用いて80回鍛錬し、60回か90回、捃したか振るったかしたものを3つに切り分けたのである。3分割だから、断ち分けた箇所は2ヶ所である。大刀(たち)にするために断っている。だから、キダキダと2回繰り返すヤマトコトバに成長している。だから、「三寸」と書き表している。的確な言葉遣いである。そのうち1本だけ念入りに銘文を施した。江田船山古墳から出土した大刀のうち、3口が非常によく似ていることは、亀井1979.によって早くから指摘されている。

 船山古墳出土の直刀の中で、これ[銀象嵌大刀]に形態・大きさの頗る似たものが他に二口ある。一は長さ一一三・九センチ(大刀A)、二は一一一・八センチ(大刀B)で、茎の長さは各々二一・五センチ、二〇・九センチ、茎には三個の目釘穴を穿っている。この両者から推定すると、銀象嵌を施した刀の長さは約一〇五センチとなろう。しかもこの三口は、同時発見の他の直刀に比べて遺存状態が一段とよい。特に環頭大刀二口とは、銹化の工合に明らかに差違があると言ってよい。狭い石棺内では、副葬位置による銹の程度の差を考えるのは不適当で、埋葬時期を異にする複数の被葬者のうち、もっとも新しい副葬を示すものと推定することも可能である。……船山古墳出土の大刀A・Bには、茎の刃関に近い部分に小さい方形の刳り込みが存在する。改めて銀象嵌大刀の茎を見ると、残存部に認められる不整形の凹みは単なるきずや銹による欠損ではなく、拡大してみると明らかにタガネ状のもので削った状態を呈している。この刳り込み方は三者共似ているが、大刀B、大刀A、銀象嵌大刀の順に雑になっている。つまり他の二口にも存在する小さい刳り込みを、同様の方法で作ったと見るのが妥当である。言うまでもなく茎に作られたこの小さい刳り込みは、柄に装着する勾金を通す孔として作られたものであるから、銀象嵌大刀を含めた船山古墳の三口の木装大刀は、玉纏大刀である可能性が強いと言えるのである。
 この三口の太刀はあらゆる点で似ているので、同一作者または同一工房による製作と考えられる。もしこの推定が正しければ、銀象嵌大刀の製作地、製作後の移動の問題と関係して、その歴史的評価に重要な意味をもつことになる。(7~8頁)(注7)

 現物を目の当たりにすれば、銘文中の「三寸」はミキダニシテと訓むのが正解であると確かめられる。「大鐵釜并四尺廷刀」の両者を「用」いてできあがった1本である。食品表記などでも量の多いものから表示する決まりになっている。「大鐵釜」のほうが「四尺廷刀」よりも分量が多かったものと思われる。3本分できて3分割した。
 それに続く「上好」という語については、先行研究に、用例がないにもかかわらず熟語と捉えられている。3分割した1本の鉄の棒から刀をつくったのである。「三寸上」=ミキダニシウヘ、三つに刻んだ上でさらに「好□刀」としたのであろう。43~44字目を作刀することと考えるなら、42字目の「好」は、副詞ヨクである。うまく刀を作ったのである。日本国語大辞典に、「よく」は、「①十分に。念を入れて。また、巧みに。うまく。……④困難なことをなし遂げた時、あたりまえでは考えられないような結果を得た時、喜ばしいことにでくわしたときなども感嘆・賞賛・喜悦あるいは羨望の気持を表す。よくもまあ。本当にまあ。よくぞ。」(⑬568頁)と語釈されている(注8)。万葉集に例を見る。

 ①吾が聞きし 耳に好似(よくにる) 葦のうれの 足痛(ひ)く吾が背 勤めたぶべし(万128)
 ④好渡(よくわたる) 人は年にも ありといふを 何時の間にそも 吾が恋ひにける(万523)

 万128番歌では、噂どおりだったという意味を、足と葦との駄洒落まじりに歌っている。万523番歌の例は、よくもまあ耐え忍んで渡ってきた人は、という意味である。江田船山古墳出土銘文付大刀が、釜と鎌から刀を作ったことは、駄洒落まじりでありつつほどに巧妙であり念入りでありながら、よくもまあと感嘆するに足るほど、鍛冶の苦労を偲ばせている。以上の①と④とをともに含んだ語義からして、42字目の「好」の字は、副詞のヨクと訓んで正しい。
「好□刀」(エミシオグラム、三浦1993.72頁)
「□」(左:東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035181をトリミング、右:古谷1993.51頁)
「均」(左:東晋、王羲之・興福寺断碑、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185342(9/18))、中・右:北魏、鄭道昭・鄭羲下碑、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151250(23・22/28)をそれぞれトリミング合成)
 象嵌の文字を判読しかねている43字目は、手偏と定まるかなお不明である。筆者は、ここに手偏かと目されているのは、土偏の下に少し突き出てしまったものと見、「均」の字ではないかと考える。「好均刀」、ヨクカタナヲトトノフ、ヨクカタナトヒトシクス、などの意である。うまい具合に刀として整えたのである。カマ→カタナとするのは、鈴木・福井2002.のいう素材の問題だけでなく、言葉の意味からもとても難題であった。カマという語とカタナという語とは、意味的に相反する。カマは曲がれるもの、カタナは真っ直ぐなものの意を持つ。鎌は柄と刃との付き方が直角、戈は援部分によって刃自体が直角に曲がれるものである。他方、刀は一直線である(注9)。羽釜のハ(羽)はぐるりと曲がり切ってめぐっており、刀のハ(刃)は一直線である。それほど違うものへとよくもまあうまい具合にできましたね、というのが、「好均刀」の意味である。刀に反りが生じてきたのは平安時代中期からで、奈良時代の直刀はまっすぐなまま今も輝いている。
直刀(奈良時代、8世紀、号水龍剣、伝聖武天皇御料、東博展示品)
 銘文の最後、「書者張安也」について諸説行われている。刀鍛冶と象嵌者が別人で流れ作業を行ったから、「伊太(和)」と「張安」が併記されているとする説、コピーライターが字を知らない「伊太(和)」に刻ませたとする説、「名」と記さない「張安」は漢人名で一般的だから「名」とは記さず、仮名書きの「无利弖」や「伊太(和)」は名か何かわからなくなるから「名」と記したとする説、「張安」しか文字を知らないから尊大で、その部分の文字も立派で大きく、そのうえ「也」と付けて威張っているという説も唱えられている。それぞれ一理はある。けれども、上に述べた仮説が正しいのであれば、中国系のチヤウアンなる人物が、ヤマトコトバのなぞなぞだらけのコノハナノサクヤビメ説話を理解していたとは思われない。
 「獲□□□鹵」も仮名書きの名の表記とされるが、「(台)天下獲□□□鹵大王世」とは記されていない。わかるから良いのだと言えばそれまでであるが、固有名詞の出てくる箇所は、「(台)天下獲□□□鹵大王世」、「典曹人名无利弖」、「作刀者名伊太(和)」、「書者張安也」であると考えられている。誰がこの大刀を作った“当事者”か。作らせたのはムリテで、作ったのはイタ(ワ)である。そして、銘文を書き込んだのは「張安」であると読まれているが、馬や魚や鳥や花の絵も象嵌されている。馬や魚や鳥や魚の絵は誰が刻んだのであろうか。イタ(ワ)か張安か。絵を「書」でいいのか不明である。銘文の文案だけを考えた人が中国人の「張安」であるとする説もある。実際に手を動かして大刀の嶺に字を掻き刻んだ人と、「書」いた人とが別人ということになる。そのとき、絵のデザイン素案は誰が考えたのだろうか。味わいがあってとても素敵で芸術的センスに富んでいる。銘文の書風のほうは、「隷書・楷書を混交した書風を示す。」(東野2004.93頁)というが、倣製鏡などと同等、評価の下しようがない。。

「書」とは何かと「A者B也」

 「書」と断っている。この「書」とは何かをたださなければならない。「三寸」をミキダとヤマトコトバで考えるのが妥当であったから、「書」もヤマトコトバで了解する必要がある。ヤマトコトバの文字表記らしいことから、もはや張安中国人説は揺らいでいるのだが、なお仮にそれを続けてみる。「書」をフミと訓んで文章のことを指す名詞であると仮定すると、文字を刻んだにせよ文案を考えただけにせよ、張安という中国系の人は中国系なればこそ、「作書者張安也」、「書記者張安也」、「史者張安也」といった表し方にするように思われる。後ろへ続く「者~也」字もくせものである。
 「書(ふみ)」というヤマトコトバについては、紀に、「一書云」をアルフミニイハクと訓むとおりである。伝書であって、誰がいつ書いたかわからない。「何書(いづれのふみ)」(欽明紀二年三月)も同様である。「図籍文書(しるしのふみ)」(神功前紀仲哀九年十月)は目録のことである。「詔書印綬(せうしょいんじゅ)」はいわゆる親魏倭王の印綬を授けた際の親書、「勅書(みことのりのふみ)」(雄略紀七年是歳ほか)、「詔書(みことのりのふみ)」(欽明紀二年四月ほか)も偉い人の公の文書で政治的効力をもつ。「印書(しるしのふみ)」(欽明紀二十三年七月是月)は機密文書である。「高麗の上れる表䟽(ふみ)、烏の羽に書けり。」(敏達紀元年五月)とあるのは外交文書である。敏達紀の例でなかなか解読できなかったことは、フミという語の持つ性質をよく表す逸話である。音声言語と文字言語では利用する脳の領野が異なり、無文字文化のなかで育った人には難題であった。それを小咄に仕立てている。小野妹子の「書(ふみ)」(推古紀十六年六月)も外交文書である。「書信(ふみのつかひ)」(欽明紀五年三月)は伝言役のお使いである。実際には文書(文字)を持たない。暗記者が手紙(文書)代わりになる。この使者が殺されると内容は失われる。歩いて行く時の足跡が、文字のように見えるとする浜千鳥の足跡=文字説は、このようなところにも潜んでいる(注10)
 ほかには、「書函(ふみはこ)」(天武紀元年三月)という信書(親書)の入った箱の例もある。書いた(右筆に書かせた)人が遠くにいて、また、書いた時点も見た時点よりも時間的に遡ることを示す。ヤマトコトバのフミという語には、そういった時間的空間的な遠隔性が備わっている。書物の意で「書」を使うのは日本書紀でも最後の方である。なぜか。書物はほとんどなく、あったとしても読めず、読みこなすことなどできなかったからである。無文字文化にあった。日本書紀という書名も、もとは日本紀であったらしいことが万葉集の左注からわかっている。
 ところが、古墳時代の5~6世紀とされる江田船山古墳出土の大刀の銘文に、「書」とある。これをフミと訓む限り、次のような奇妙な事態が生ずる。紀の例に多い「一書」ほか「書(ふみ)」の例は、既に書かれたものであることを前提とし、それが伝えられていくことを「一書云」という形を用いて使っている。「書(ふみ)」という語には文書の既存性が内含されている。すると銘文は、どこかよそで中国人か中国系の人によって作成された文案があり、遠隔操作されてその指示通りに象嵌されたことになる。「書」の原本が他にあるということである。けれども、指示書が発見されたという例は他にも知られない。対象物に固有の銘なのであろう。あるいは、これはコノハナノサクヤビメにまつわる伝説を書いたのだから、「書(ふみ)」の内容は遠隔的な代物なのだと考えられなくもない。当時の集合無意識の産物であり、降って湧いたような「書(ふみ)」であると想定できなくはない。「古事記」をフルゴトフミと訓むようなものである。フミという語とフルという語に関連を見ようとするのである。音声言語を文字言語へとコード変換したのは、天から降ってきたようなものであると考えるのである。しかし、「書」であり「記」とはない。そもそも、ヤマトコトバは、抽象的な概念操作によって作られてもいなければ使われてもいない。言葉に発することは事柄そのものであることを志向すること、言=事とする言霊信仰のもとに、きわめて具体的でありつつ自己癒着的、自己完結的に使われている。側に下書きがあるから「書(ふみ)」と記したとする場合、「伊吉連博徳書曰」(斉明紀五年七月)のように「張安書謂也」などとなるであろう。下書はとって置かれることが求められたに違いない。
 大刀に銘として、コノハナノサクヤビメ説話の“カマ”の話の内容が刻まれている。そのことの事の次第が記されていると素直に受け取れば、そもそも、なぜ銘が刻まれたのかについても理解することにつながる。銘は、銘の内容を表すだけではなく、銘がどこに刻まれているのかということにも言及していると考えるのである。すなわち、図(figure)と地(ground)とを区分けする枠組(frame)の表示でさえもあるという了解に近づくことができることになる(注11)。「書者張安也」は、この大刀銘の記した、いわば式次第的な文句であると考えられる。
 「A者B也」という構文については、「者」や「也」という字の用いられ方が当たり前すぎてかえって理解しにくいところがある。「者」字の使われ方については、瀬間1994.に、漢籍、古代朝鮮半島、金石文・木簡、古事記の用例について検証があり、①提示用法、②形式名詞的用法、③条件強調用法、④文末用法に分類されている。わかりやすい例を1つずつあげる。①「是者草那芸之大刀也。(是ハ草那芸の大刀也。)」、②「於大穴牟遅神負袋、為従者率往。(大穴牟遅神に袋を負せて、従者(ともビト)と為て率て往きき。)」、③「然者、汝心之清明何以知。(然らバ、汝が心の清く明きは何を以てか知る。)」、④「是今橘者也。(是れ今の橘ゾ。)」である。
 まず、「者」という“用字”についての基本姿勢を確認する。上代の人はヤマトコトバを表すために、適当な漢語(漢字)を探していた。漢籍の文章を見ていたら「者」という字を見つけ、同じ用法であると思ってヤマトコトバにあてがっている。漢語(漢字)「者」の訳、ないし、「者」という字に新たに和訓と呼ばれる新語、漢文訓読のための特殊な言葉を拵えたということではない。どういうときに「者」字を用いるか。上にあげた①~④のときである。言葉を使う現場では、勘を働かせて宙で使う。「○○ト云フコトハ」、「○○トハ」、「○○ソノ者ハ」、「○○ト云フコトナリ」、「○○ト云フ者」、「○○ハ」、「○○ソノ者」、「○○ソレナリ」、ク語法の如きもの(「○○タマハク」、「○○ラクハ」、「○○スラク」、「○○スルニ」)、「○○レバ」、「○○ルハ」、「ソノ時ニハ」といったときに使われている(三矢1925.、国会図書館デジタルコレクション、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085(42~44/100))。山崎1956.は、「A者B也」という表記は、「「也」は言語の形にあらはし得ない……気息、即ち述語格としての陳述と連体修飾語としての独立格的詠嘆との綜合を表意文字の形式を以て表現したものである」(森1949.238頁)と、適切に引用している。Aというものは則ちBであるのである、の意として用いられる。デアルノデアルと2回繰り返しているのは、「AはBである」を確かならしめるために、「『A』というものハ則チ『Bである』のである」と言ってサマになるようにしている。そこに、「A者B也」という表記が導かれる。
 逆に言うと、気息がないところに、「A者B也」のような表記は生まれない。近代に、「本日は晴天なり。」という用法が見られるが、これは無線の電波が届いているかどうかの試験信号として使われた。気息がなければ無線は音が聞きとれないということらしいが、効果的な発声音ではないとも指摘されている。いずれにせよ、面前で言う文言ではない。
 裴1935.によれば、漢語の「者」と「也」と「則」は、同じような概念を共有している。それは、ヤマトコトバのハ、バ、ゾにも当てはまる。そして、瀬間1994.にあげている②形式名詞的用法も、「従者」とは「従フソノ者ハ」の意味である。通説のように、銘文の「書者張安也」を、書いた人は張安という人であると考えるためには、「書者」を②形式名詞的用法ととり、続くはずの「名」の一字が脱落していると考えたうえ、「也」を衍字とまで処理するしかない。「書者名張安也」という字面でもおさまりが悪いのである。「書クソノ者ノ名ハ張安ナリ」と打電されているとは考えにくい。
 古事記には次のような例がある。

 此稲羽之素菟者也。(此れ、稲羽の素菟ぞ。)
 於今者謂菟神也。(今には菟神と謂ふ。)

「也」は現代語の「だ」に相当し、断定の意味になる。これがあの有名な稲羽の素菟だよ、今では菟神と言っているんだ、という意味である。そう話を聞かされて、聞かされた方が納得しなければ、そこにコミュニケーションは成立していない。お話にならない。言い伝えの時代、稲羽の素菟という言葉はよく知られていたであろうから、話を聞いて、あぁ、そうか、これがあの稲羽の素菟のことなんだ、と了解できている。
 もともとのヤマトコトバに、「書ケル者ノ名、張安ゾ」と言われてしまうと、チヤウアンって誰? 何? という話になる。存在の根拠自体がわからなくなる。唐突に先鋭化した名を、銘文の題目にあげるはずはない。名とは何かについて、最低限の理解は必要である。
 以上の反例から、「書者張安也」の「者」が、②形式名詞的用法ではないとわかる。古事記以前の銘文だから特殊用法であると捉えることはできようが、まずは他の用法で記されている可能性を考えたい。①提示用法とするなら、「書クト云フコトハ張リ安ンズルコト也」、③条件強調用法と考えれば、「書ケバ張リ安ンズル也」といった解釈が可能である。前者は容易に通釈できる。鉄の上に文字を掻き刻もうとするとき、刻んだだけではしばらくすれば錆びて見えなくなる。羽が錆びたから「大鐵釜」は使えなくなっていた。「書クト云フコト」とは、言葉を定着させることである。消えたら意味がなく、書いたことになっていない。だから、「書クト云フコト」は、則ち、銀線を張って安定化させることだ、という意味である。“気息”をもって語る定義のような文面ととれる。過不足ない把握が可能となっている。
 「A者B也」には、発展型の「A者B者也」が見られる。「此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也」(記上)、「其登岐士玖能木実者是今橘者也」(垂仁記)など、「『AはBである』ことは真である」という、さらに力説した言説である。すなわち、「書(か)ク」ということは「掻(か)ク」ということが本来の義であるが、鉄の上に掻いたからといって、それは「書(ふみ)」として定着されるものではない。なぜなら、錆びて判読できなくなるからである。となれば、書くことによって書(ふみ)として半永久的に残すということは、すなわち、銀線をもって象嵌に張ることで安定化させて遺すということに他ならないのである。そう定義をし、宣言しているのが、銘文のこの部分である。事の frame の提示が伴われている。「A者B也」と定義をする際、Aが動詞であることによってB→Aへと再定義することにもなる。それは時として、他を排除しようとする試みにも用いられる(注12)
 ③条件強調用法は、一見、今述べた①の解釈と矛盾して、意味を成さないように見える。けれども、「書者張安也」を「書ケバ張安也」と捉えることには十分な意味がある。この点については、①かつ③の用法に解釈した際に、「書」の主語が「作刀者伊太(和)」となる点と密接に関わってくるので後述することにする。いずれにせよ、銘の「書」は、中国人のチヤウアンが作成したのでも、中国の皇帝から贈られたものでも、それに擬したものでもない。
 なお、銘文中にある「不失其所統」は、コノハナノサクヤビメ説話の読みの文意からすると、統治の意味ではなく、皇統のようにいう血筋の続くことを表しているように解釈される。記では、「天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)」についての話として、コノハナノサクヤビメの話(石長比売と木花之佐久夜毘売についての大山津見神のウケヒの話)は語られている。この点も、銘文に「(台)獲□□□鹵大王世」と記入した意味と関わるので後述する。それがなぜ熊本県の江田船山古墳から出土しているのかについては後考を俟たなければならない。歴史研究からは、天皇家の末裔か分家か何かが肥の国へ行っていてお墓に葬られたという話についての事柄になるのかもしれない。言語文化研究の側からは、なぞなぞ小咄の記紀説話が存外に早く、広く、営まれていたことを重く受け止めなければならない。たいへんな難題に対峙することになる。ヤマト朝廷の版図拡大とは、記紀説話の地方への波及拡散でもあったようである。文字表記を考える表記史の研究には、表記するとはそもそもいかなる営みなのかについての検討が必須である。そして、当時の人たちにとって、釜と鎌とを窯を使ってトンチントンチン囂(喧)(かまびす)しくして大刀を一構え作ったという話は、歴史的にインパクトのある事件を契機として同時的に起こった“コト”であったろう。事だから言(こと)として定めた。なぜ銘文を刻むまでして何事かを伝えようとしたのか。当時の人々の考え方の枠組みまでを含めてまるごと理解されることを、銀象嵌銘は待ち望んでいる。
(つづく)