古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

柿本人麻呂の「夕波千鳥」歌について

2024年04月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
  柿本朝臣人麻呂の歌一首〔柿本朝臣人麻呂歌一首〕
 淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ〔淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努尓古所念〕(万266)

 この歌は、柿本人麻呂が淡海の海、琵琶湖での光景を目にして、天智天皇が都した近江朝時代のことへ思いに耽っている歌と解されてきた(注1)。ただし、細部において意見は分かれており、本当のところはよくわかっていない。近年の通釈書でも、新大系文庫本に、「近江の海の夕波千鳥よ、おまえが鳴くと、心もしおれるばかりに過ぎし日々が思い出される。」と訳し、釈に、「人麻呂屈指の名歌。「夕波千鳥」は体言を重ねた造語。ほかに「山清水」(一五六)など。「汝が鳴けば」の「な」は、二人称の代名詞、多くは男から女に、さらには動植物などにも親愛感を込めて言う。「心もしのに」のシノは、動詞「しなふ」などのシナと同源の語。結句「古(いにしへ)思ほゆ」、既出(一四四)。 近江朝の栄枯盛衰を偲んだ歌であろうか。」(231頁)とある一方、多田2009.には、「近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと、心もひたすらに過去のことが思われてならない。」と訳し、釈に、「○タ波千鳥─夕波の上を飛ぶ千鳥。人麻呂の造語。ただし、「夕波」を背景に「千鳥」は岸辺にいるとする説もある。……○心もしのに─「しのに」は、対象にひたすら心が向けられてしまう状態を示す言葉。「しなゆ」の類語とする説は誤り。→二七七九、三九七九、三九九 三、四一四六。○古思ほゆ─「古」は、いまは廃墟となった近江宮の繁栄の過去。「イニシへ」は現在にまでつながると意識される過去。「ムカシ」には断絶感がある。「思ほゆ」は、「思ふ」の自発形。 思わされる。心が「古」への思いにすっかり領有されてしまったことを示す。千鳥の鳴く音が、その思いを引き起こす。」(240頁)とある。
 「夕波千鳥」(注2)、「心もしのに」(注3)、「古」の語について、はっきりしないところがある。
 大浦2007.は、「心もしのに」についての論稿の最後のところで、万3255番歌原文の「小竹」という用字から、シノニという語は「その直線性において、「小竹(篠)」とも通底しているのではないか。」(62頁)と鋭い指摘をしている。
 シノ(篠)という植物は、大型のタケ(竹)、小型のササ(笹)のあいだの、中ぐらいの大きさ、太さのものを指すと考えられている。厳密な区分があるわけではなく、あいまいに区分けして言葉を使っていたとされている。
ヨの続く篠の概念図
 そのシノ(篠)という言葉は、古代の人が、ヨシノ(吉野、ヨは乙類、ノは甲類)という地名について思っていたことと関わりがある。今日の我々から見ればほとんど駄洒落としか考えられないような理解である(注4)。ヨシノとは、ヨ(節、ヨは乙類)+シノ(篠、ノは甲類)の意で、フシ(節)につないで伸びていくこと、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとしてあるものと悟っていたのである。ヨ(節)はヨ(代)と同根とされる言葉で、代々続くことを言い表すから、ヨシノ(吉野)は代々続くこと、未来永劫天皇の世が続くことを表すおめでたいところだと考えられていた。ために離宮が造られ、持統天皇はたびたび行幸していた。持統天皇のツボにはまった駄洒落であったようである。
 また、ヨヨという語は、多く「と」、「に」を伴って使われる擬態語・擬声語である。筍のように水があふれだすことを表す擬態語、さらには涙を流しておいおいと泣くことを表す擬声語としても使われた。

 御いづるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)
 八月より絶えにし人、はかなくて睦月になりぬるかしとおぼゆるままに、涙ぞ、さくりもよよにこぼるる。(蜻蛉日記・下)

 源氏物語の例に見るように、竹類は春に筍として出てきて非常に多くの水気を帯びて生育する。小ぶりのシノ(篠)とて同じである。つまり、ヨシノ(節+篠)なるところは「よよ」と瑞々しいのだといい、それはまるで川の流れのたぎつところを思わせるほどであって、その観念のもとに吉野では川こそが持て囃されるにふさわしくあるということになり歌に歌われている(注5)。特にシノ(篠)とされるものは、成長してなお、カハ(皮、葉鞘)の残したままにあるものが多く、だから、水のたぎるように流れるヨシノ(吉野)のカハ(川)こそ、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる概念を具現化したところとして歌に詠まれて宜しとされていたのである。結果、水気の多い状態を表すウル(潤)という語と関連すると考えられて、一緒に使われることがある。

 あさかしは うるかはの 小竹しのの芽の しのひて寝れば いめに見えけり(万2754)
 かむ奈備なびの あさ小竹しのはらの うるはしみ わが思ふ君が 声のしるけく(万2774)

 上代の人たちには、シノという言葉(音)の持つ本意、含意に、小竹の意が絡んでいると認められていた。「心もしのに」という形容句もその観念のもとで成立している(注6)。その点を考慮すれば、標題歌、万266番歌は次のように解釈され直そう。

  淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(万266)

 夕波千鳥よ、お前が鳴いたら、こちらの心もヨヨと泣けてくるもので、それに見合うように淡海の海、琵琶湖は水が満ちている。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と何代も何代も遡っていにしえのことが思われる、と言っている。
 「夕波千鳥」という語についても、情景を詠むために造られた言葉であるとばかりとは限らない。たくさんの鳥が鳴いて、その泣く涙を集めたから、湖にはたくさんの水がある。鳥は鳴く時、涙を流さないと考えるのは科学的思考である。ヤマトコトバの発想ではナク(鳴、泣)の一語にまとめられている。一つの範疇を表している。
 このことは、「千鳥」という語にも当てはまる。「千鳥」を詠む歌は万葉集に26例ある。鳥は鳴くものだから、泣くことの譬え、歌では序のように扱われることがあり、泣けば涙が出るから千鳥が水辺にいることと論理的に合致する。理屈が通じるから好まれて、水のあるところ、川や海、瀬、「浦渚うらす」などと絡めて歌われ、20例を数える。特に「佐保」の地と関係して詠まれる例が9例にのぼり、詠み合わせ、歌枕と捉える見方もある(注7)。だが、そうではなく、サホという音が、サ(接頭語)+ホ(百)の意を印象づける点で、チドリという音、チ(千)+ドリ(鳥)と組み合わされている。百と千との数詞つながりで好まれたのである(注8)
 千鳥がよくナクのは、千鳥が今いる場を離れなければならない状況に陥っている時であろう。ぼやぼやしていられない、ああ、嫌だ嫌だ、と泣いていると捉えている。そんな時とは、夕方になって寝るために帰路に就く時や、波が立っておちおちしてはいられない時である。だから、「夕波」に「千鳥」は最もよく鳴く。千羽もいてよく泣くということは、涙がヨヨと流れて、設定されている水がいっぱいの琵琶湖によくかなうことになる。「夕波千鳥」は人麻呂の造語と考えられているが、「千鳥」が仕方なくそこから離れる時のことを思い浮かべて造ったものであろう。
 「心もしのに」についても、心にもヨヨと涙がたくさんあることでありつつ、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+とヨ(代、世)がたくさんあることが自動的に頭をよぎることでもある。過去へ向かっていれば、かなり遠い時代の天皇の御世のことになる。通説にあるような数代前の天智天皇の御代、近江朝のことを歌っているものではない。なにしろ、千鳥がナクほどである。単位が千なのだから相当前の御代を指している。古の時代のことで、「淡海の海」について人々の間に語り継がれよく知られる話としては、神功皇后とその御子、後の応神天皇が、腹違いの忍熊王おしくまのみこと戦った戦のことがある。最終的に忍熊王は追い詰められ、船から琵琶湖へと入水自殺している。話のクライマックスに当たる部分は歌謡をもって盛り上げられている。

 是に、其の忍熊王おしくまのみこ伊佐いさひの宿禰すくねと、共に追ひ迫めらえて、船に乗り海に浮きて、歌ひて曰はく、
 いざ吾君あぎ 振熊ふるくまが いたはずは 鳰鳥にほどりの 淡海あふみの海に かづきせなわ(記38)
即ち、海に入りて、共に死にき。(仲哀記)
 忍熊王、逃げてかくるる所無し。則ち、五十ちの宿禰すくねびて、うたよみして曰はく、
 いざ吾君あぎ 五十ちの宿禰すくね たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手いたではずは 鳰鳥にほどりの かづきせな(紀29)
則ち共に瀬田のわたりおちりてまかりぬ。時に、武内宿禰、うたよみして曰はく、
 淡海あふみの海 瀬田のわたりに かづく鳥 目にし見えねば いきどほろしも(紀30)
是に、其のかばねけども得ず。然して後に、日菟道うぢがはに出づ。武内宿禰、亦うたよみして曰はく、
 淡海あふみの海 瀬田のわたりに かづく鳥 田上たなかみ過ぎて 菟道うぢとらへつ(紀31)(神功紀元年三月)

 この話は言い伝えられていて、飛鳥・奈良時代にも巷間に流布し、通念となっていたものと考えられる。人麻呂は人々の常識に従って歌を作っている。ヤマトコトバで「むかし」は現在につながらない断絶感を帯びている一方、「いにしへ」は現在にまでつながると意識される過去のことを指す。記紀にいわゆる人代として言い伝えられている時代は「いにしへ」に当たるわけである。人麻呂の作歌時点から三十年ほど前でしかない天智天皇の近江朝について、イニシヘ(にし)と形容することはあり得ない。

  淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(万266)

 淡海の海の夕波に千鳥が鳴く。お前が鳴いたら、こちらの心もヨヨと泣けてくるもので、その涙を集めたかのように淡海の海、琵琶湖は水が満ちている。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と何代も何代も遡っていにしえのことが自然と思い出される。忍熊王おしくまのみこは行き詰まって、ここ淡海の海に投身自殺した。私の心がしっとりと濡れるのと同じように、さぞかし水に濡れたことであろうから。

(注)
(注1)天智天皇の皇后、倭姫王やまとのひめおほきみ倭大后やまとのおほきさき)の歌(万147・148・149・153)からの連想を説く見方も散見される。
(注2)「棚無小舟たななしをぶね」(万58)などと同様の造語で、「彼[柿本人麻呂]がことばによって日本人の感受性を開拓していった跡を知ることができる。」(西郷2011.175頁)という評は、ヤマトコトバとは何かという根本的問題を踏み外している。
(注3)これまでの諸説や見解については、中嶋2003.、大浦2007.を参照されたい。
 そのなかの一つ、亀井1985.は、象徴的な「しのに」という語の存在により、動詞「しのぐ」、「しなふ」、「しのふ」を互いにパロニムとして古代人は把握していたとする。ところが、「なかんづく、人麿の作は、悲しみをこめて別離をうたってゐるのである。そこへ、単なる類音・・しゃれ・・・を用ゐてゐるとすれば、それは、あまりにも技巧として軽すぎるといはねばなるまいと、わたくしはおもふ。」(108頁)としつつ、言語現象を言語の表現美として捉えるフォスラー一派の学説を引き、「狭義の[社会的に固定した形態として成立する]コンタミネーションは、すべて、パロニミーにおける意味論的価値関係の転換であり、変革である。そして、えせ語源・・・・(étymologie populaire, Volksetymologie)もまた、この点、おなじである。」(109頁)として、「より大なる表現力への欲求から生まれた機能的形態とみらるべきもの」(同頁)として是認、評価している。本稿では、単なる類音と片づけることのできない駄洒落を見出している。言葉が言葉を生んでいく生成論的過程である。
(注4)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be68298a70ce0aab17ace7832ecd2e0、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b28999093cc2e134e55a0f0751b4602e参照。
(注5)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」に詳述した。
(注6)拙稿「「心もしのに」探求」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f8f4a36774d4b3483ae9c62458d2c865参照。
 「吉野讃歌」とされる歌も、「心もしのに」という表現が使われる歌も、万葉集において柿本人麻呂の作を初出と認める傾向にある。ただ、当時の歌を網羅したのかわからない万葉集の用例をもってして表現の発案者が誰であるかは定められない。そして、そのようなことをしてもあまり意味のないことである。言葉は誰かが言い出したからといって言葉になるのではなく、受けとる側が賛同して受容しなければ言葉とならない。今日、表現の創作者としての人麻呂論は数多く展開されているが、眉唾ものとして扱わなければならない。
 なお、シノを詠み込む次の歌は、訓みに問題が残る。

 あきかしは うるかはの 細竹しのの芽の 人にはしのべ 君にあへなく〔秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公无勝〕(万2478)

 四句目の原文は「人不顔面」である。これを「しのぶ(ノは乙類)」の意ととっているが、「しの(ノは甲類)と音が違う。奈良朝末期にノの甲乙の対立が消えたとされているが、無理があるように感じられる。
(注7)廣岡2021.76~79頁。
 次のような例を見れば、「千鳥」が鳴くことと作者が心に泣くこととを並立的に詠み合わせているものとわかるだろう。第一例では、涙で水がいっぱいになっていて、海や川のことを絡めて歌っている。第二例では、千鳥が友を呼んで鳴くのと、作者の大神女郎おほかみのいらつめが大伴家持が近くにいなくて涙しているのとを絡めて歌っている。

 意宇おうの海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 思ほゆらくに(万371)
 さなかに 友呼ぶ千鳥 物思ふと わびをる時に 鳴きつつもとな(万618)

(注6)チドリのチを数詞(千)と意識して作られている例は他にもある。

 かどの の実もりむ 百千鳥ももちどり 千鳥はれど 君そまさぬ(万3872)
 …… 朝猟あさかりに 五百いほつ鳥立て 夕猟ゆふかりに 千鳥踏み立て ……(万4011)

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
大浦2007. 大浦誠士「「心もしのに」考究」『萬葉語文研究 第3集』和泉書院、2007年。
亀井1985. 亀井孝「「情毛思努爾」『亀井孝論文集4 日本語のすがたとこころ(二)』吉川弘文館、昭和60年。
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第4巻』平凡社、2011年。(『万葉私記』未来社、1970年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
中嶋2003. 中嶋真也「「心もしのに」考」『国語と国文学』第80巻第8号、平成15年8月。
中嶋2014. 中嶋真也「しのに」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。(「万葉「歌枕」の成立─詠み合はせ・伝聞表現・既定表現から─」『美夫君志』第26号、昭和57年。)

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