古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

駿河采女の歌の解釈

2024年07月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集中には、駿河采女するがのうねめの歌が二首ある。天皇の宮に仕える駿河出身の下女のことであり、同一人物の作かどうかはわからない。

  駿河采女するがのうねめの歌一首〔駿河婇女謌一首〕
 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ 浮寝うきねをしける 恋のしげきに〔敷細乃枕従久々流涙二曽浮宿乎思家類戀乃繁尓〕(万507)
  駿河采女するがのうねめの歌一首〔駿河采女謌一首〕
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも〔沫雪香薄太礼尓零登見左右二流倍散波何物之花其毛〕(万1420)

 万507番歌は、枕から濡れこぼれる涙が溢れ、水鳥のようにその水に浮かぶ思いで寝ている、恋心が激しいので。万1420番歌は、消えやすい泡のような雪が、まだらに降るかと見まがうほどに流れつつ散っているのは何の花だろうか、といった意味であると解されている。雪の降るさまは梅の花の散ることになぞらえることがある(注1)から、ここでも梅の花を意識していると捉えている釈が多い。これらの内容は誰が歌ったとしても意味が通じる。茫漠とした一般論を詠んでいるように感じられる。しかし、特段に駿河出身の采女が歌ったと記録されている。その理由はどこにあるのだろう。また、駿河出身の采女には名はなかったのだろうか。
 前後を見ると、万505・506番歌の題詞は「安倍女郎あへのいらつめの歌二首」、万508番歌には「三方沙みかたのさみ弥の歌一首」、万1419番歌の題詞は「鏡王女かがみのおほきみの歌一首」、万1421番歌には「尾張連をはりのむらじの歌二首〈名をもらせり〉」とある。名のある人、また、闕名の人の間にある。
 題詞が歌の内容の枠組みとなるフレーミング機能を果たすものであるなら、スルガノウネメというだけでその職掌が定まり、個別的特異性をもって歌が歌われていると目されよう。采女は下働きの女官なのだから、天皇の宮における雑事のうち、スルガの名を冠したものに与えられたであろう役割にまつわる歌が詠まれていると考えられる。その第一候補は、スルガというのだから、スル(摺・摩・擦・擂・磨)+ガ(処)の意で、何かをスルことを仕事としていた者として認識されていただろう。実際にそうしていたかについては記録はない。それでも古代には、名負氏の考えがあって職掌が名と深く結びついていた。名に負う存在として宮廷に仕えていたのである。
 古代の人がスル(摺・擂・擦・磨)といえば、食料製造のためのスル、顔料製造のためのスルが考えられる。万507番歌からは、涙のように液体が涌き出ていること、万1420番歌からは、雪のように思える花が関係することという二つの条件が示されている。両者を兼ね備えた事柄としては、菜種を擂って菜種油をとることが導き出される(注2)
 奈良時代に栽培が確認されているアブラナ科の植物として、ダイコン(注3)があげられる。食用とされており、他の蔬菜類よりも高価であったことが知られている(注4)。食べる時期に収穫せずに放置すれば薹が立って白い菜の花を咲かせ、莢の状態の種を採ることができる。絶対に種を採ることがあったのは、翌年も栽培するために欠かせないからである。種には油分を多く含んでいる。そこで、エゴマなどと同様、油をとることが行われたと考えられる(注5)。炒る、擂る、蒸す、搾る、濾す、の工程を経て菜種油ができあがる。液体の上澄みが油で、下には水分が沈んでいる。この油は食用ではなく灯明用の灯油である(注6)。松明などと比べて煤が少なく、魚油と比べれば臭いもきつくない。庶民に手が出る値段ではなく、皇室や高級遺族の屋敷、寺院でのみ使われていた。宮中での生活に使うために作っていたのだろう。名に負う駿河采女が製作に携わっていた。
 以上を前提として歌を再解釈すると次のようになる。

 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ 浮寝うきねをしける 恋のしげきに(万507)
 枕のような擂臼のところから流れ出る涙のようなものに、不安な思いをいだきながら身を横たえるように低くしてのぞき込む。油がとれていることにとても関心があるので。
 
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも(万1420)
 沫雪がまだらに降るかと見立てられるほどに、流れ飛び散っているのはいったい何の花でしょう。(あれはアブラナ科のダイコンの花ですね。私の出番は間近なようです。)
青味だいこん(アブラナ科の十字花、花の色は白い)

 万507番歌では、「恋」という言葉を比喩的に用いている。苦労して油を搾っており、滲み出てきたので賞愛するようになっている。また、万1420番歌の修辞表現は、「何の花そも」とふるったものになっている。ふつうなら食べるために収穫されてしまい、ダイコンの花を目にすることはなく知られていないからである。今日でも白い十字花を目にした人は驚いて、黄色くない菜の花に蝶は気づくのだろうかと想像をめぐらせる感想を発している。このように、両首はスルガノウネメでなければ歌い得ない歌なのであった。

(注)
(注1)例えば次のような歌がある。

  紀少鹿女郎きのをしかのいらつめの梅の歌一首
 十二月しはすには 沫雪あわゆき降ると 知らねかも 梅の花咲く ふふめらずして(万1648)

(注2)神野・中村・深澤2014.に、「奈良時代には荏胡麻油、胡麻油、麻子油、曼椒油、椿油、胡桃油、閉美油(イヌガヤ)の7種類の油があったことが文献史料にみえる。」とある。延喜式に書いてあるのが手がかりであるが、史料類から原材料を正確に搾り出せないのは、結果的に灯油がとれて明りになればそれでよいから任せておいたということだろう。
(注3)和名抄に、「葍 爾雅注に云はく、葍〈音は福、於保禰おほね、俗に大根の二字を用ゐる〉は根、正に白くして之れを食ふべしといふ。兼名苑に萊菔〈上の音は来〉と云ふ。本草に蘆菔〈音は服〉と云ふ。孟詵食経に蘿菔〈上の音は羅、今案ふるに萊菔、蘆菔、蘿菔は皆、並びに葍の通称なり〉と云ふ。」と見える。
(注4)関根1969.参照。
(注5)深津1983.は、アブラナの油料としての利用は江戸時代をあまり遡らないと推定している。市場に出回る製品レベルではそうであったかもしれないが、使えるものは使うのが民俗的な知恵である。
(注6)食用にしたことがないとは言い切れないが、現在の精製油と違い酸化が進んでいて、あまりお薦めできる代物ではない。

(引用・参考文献)
神野・中村・深澤2014. 神野恵・中村亜希子・深澤芳樹「「曼椒油」再現実験」『香辛料利用からみた古代日本の食文化の生成に関する研究』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所、平成26年9月。奈良文化財研究所学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/11177/2851
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
辻本1916. 辻本満丸『日本植物油脂 訂正増補再版』丸善、大正5年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/981096
深津1983. 深津正『燈用植物』法政大学出版局、1983年。

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