古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集巻十六「半甘」の歌

2024年08月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十六「有由縁并雑歌」には諧謔の歌が多く、そのほとんどは明解を得ていない。次の「戯嗤僧歌」、「法師報歌」の問答も誤解されたままである。

  たはむれにほふしわらふ歌一首〔戯嗤僧歌一首〕
 法師ほふしらが ひげ(注1)剃杭そりくひ 馬つなぎ いたくな引きそ ほふしはにかむ〔法師等之鬢乃剃杭馬繋痛勿引曽僧半甘〕(万3846)
  法師ほふしの報ふる歌一首〔法師報歌一首〕
 檀越だにをちや しかもな言ひそ 里長さとをさが 課役えつきはたらば いましもはにかむ〔檀越也然勿言弖戸等我課伇徴者汝毛半甘〕(万3847)

 二句とも最後の「半甘」の訓みが難解とされてきた。昨今の通釈書では、万3846番歌の結句「僧半甘」を「ほふしかむ」ととるのが一般的で(注2)、「ほふし含羞はにかむ」意とするのは、武田1957.(280~282頁)、稲岡2015.(124頁)程度である。ここは、「含羞はにかむ」と訓むのが正しい。その意味するところを以下に述べる。
 ハニカムは、「𪙁 亦作摣抯二形、則加反、捉也。波尓加牟はにかむ、又伊女久いめく」、「齵 五溝反、齒重生也。波尓加无はにかむ、又久不くふ、又加无かむ」、「𪘮 五佳反、齒不齊皃。波尓加牟はにかむ、又久不くふ」、「齱 側鳩反、齵也、齒偏也。波尓加牟はにかむ、又久不くふ」、「𪗶 士佳反、平、𪘲也、齒不正也。波尓加牟はにかむ、又伊女久いめく」(以上、新撰字鏡)、「眥 如上、又云、波尓加美はにかみ、又云、伊支□美」(霊異記・上・二興福寺本訓注)とあり、霊異記の用例(「の犬の子、家室いへのとじに向ふごとに、期尅いのごにらはにか嘷吠ゆ。」)を参考にして、歯をむき出して怒る意として捉えられてきた(注3)
 しかし、ヤマトコトバのハニカムは、もともとはにむことで、土を口に入れて噛めば、何だこれは? と口をひんまげる動きになるところを指しているものと考えられる。すなわち、両目をひん剥いたり歯を剥き出しにして怒る意ではなく、顔を少し横に向かせ傾け、口角が片方だけ上がるようなさまをいう。何を! と勢い込んでみたものの、虚を突かれていることに気づいて半笑いを浮かべるような恰好のことである。ちょっと恥ずかしいところがあり、現在使う含羞はにかむに通じている。また、苦笑いのことも指すだろう。っっったく〜! といった顔面神経痛的な偏った顔つきになる。それが題詞の「嗤」に表されている。新撰字鏡に、「嗤 亦、蚩に作る。充之・子之二反、戯也。阿佐介留あざける、又曽志留そしる、又和良不わらふ」とある。「戯嗤僧歌」とは、「戯」れに「檀越」が「僧」を笑いものにしたということであるが、虚仮にしているのではない。特定の僧侶について嘲笑ったのではなく、話(咄・噺・譚)に作り上げている。ふだんなら尊敬されるはずの「僧(法師)」に対し、機知あふれる言葉でからかう歌を作り、一本取られたと思わせたということである。それに対して「法師」の方も「檀越」に対してやり返し「報」いている。「僧(法師)」も「檀越」も一般名称である。
 万3847番歌は、四句目原文の「弖戸等我」が難訓箇所であるが、訓めなくてもわかりやすい。檀越よ、そうは言うなよ、里長(?)が租税を無理矢理徴収しにかかったら、お前だって苦笑いするしかないだろう、という意味である。
 「檀越」は寺や僧尼に財物を施す信者、施主である。法師に寄進できるぐらいだったら税金をきちんと納めろと、徴税官に細かな取り立てにかかられたら、参ったなと思って笑うしかないだろうというのである。税務署に変な口実を与えてしまったわけで、口角が片方だけ上がることになる。これが「報歌」である。
 ならばもとの歌、万3846番歌も、同様の頓知をもって歌は構成されていると考えられる。法師らの鬢の剃り残しに馬を繋いでひどく引っぱるな、法師は苦笑いを浮かべる、という意味である(注4)
 「ほふ」は、のりの師のことである。ノリ(法、典)は仏法だけでなく法律や規準のことも言い、ノル(宣、告)という動詞に由来する。ノは乙類で、同音にノル(乗)がある。「法師」はノリの師なのだから身ぎれいにしていなければならないだろう。戒律としても定められている。ひげの剃り後から生え出してきている無精ひげを放置したままでいいはずはない。清潔さを保てないなら、ノリ(乗)の師となるように乗り物の馬をつないでしまえ。ひどくは引っ張らなくていい、ゆるく引っ張ればいい。それがユルシ(緩、許)というものだ、と戯れている。法には適用という側面があることをきちんと伝えている。ノリの師である法師は苦笑いするしかないだろうというわけである。
 「馬繋」と馬が出てくるのは法師がノリの師であるゆえである。「半甘」をハニカム(含羞)と訓むのは苦笑いのさまを表すためである。檀越と法師との間で軽妙なやり取りが行われていたから万葉集に収められている。
 万3847番歌の四句目原文、「弖戸等我」は「里長さとをさが」と訓まれている。それで正しい。この部分を難訓に記している理由は、実際に里長がこの歌を知ったなら、檀越から徴収しに掛かるだろうからである。法師と檀越とは持ちつ持たれつの関係にある。ちょっとからかわれたぐらいで反論を口外していては、自らの実入りがなくなって困る。おそらく、当初「五十戸我」と書いたのを改めたものと思われる。行政上、五十戸を一まとまりにしてさとという支配単位にした。そこに一人の徴税官を配置し、里長と呼んだ。五十はヤマトコトバでイである。現代では馬の鳴く声はヒヒーンと聞きなしているが、上代ではイとしていた。「嘶」字で表されることのあるイナク、イバユのイである。歌に馬が出てきていたのは、それをヒントにしたものかも知れないし、馬が嘶く時には左右どちらかに頸を曲げ傾けて鳴いている。形の上ではハニカム(含羞)のと同じ姿態である。その五十という数は、五と十から成っている。五と十から成っているのにヤマトコトバでは一音である。つまり、五であり十である何かがヤマトコトバで存在しているということである。それは身近にある。手の指である。片手で五、両手で十になる。そこで「五十」を「手」と書き、さらにそのテという音に合わせて「弖」と改めた。
 この書き改めの肝は、五と十とが同等に存在するものを探すことにあった。このヒトシ(等)という語は、一の意のヒトに由来していると考えられる。ヒが甲類、トは乙類である。同音にヒト(人)がある。「弖戸」=「手戸」=「五十戸」であり、「五十戸」に等しい人とはそこに一人だけいる徴税官、「五十戸長」=「里長」ということになる。鹿持雅澄・万葉集古義に「弖(氐)」は「五十」の誤字(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1883823/1/234)、井上通泰・万葉集新考に「等」は「長」の誤字(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1882760/1/123)であるとする説は結果的には正しいことになるが、実際には「戯書」の類に当たる。問答の最初の題詞、「戯嗤僧歌一首」にある「戯」の義はここにも顕れていると言えるのかも知れない(注5)。手の込んだ「有由縁」話(咄・噺・譚)が詠われている。

(注)
(注1)原文に「鬢」とあるからビンと音読みすべきという説が見られる。ホフシ、ダニヲチと字音語があるのだからという。後藤1980.参照。万3835番歌の「鬢」については、梅谷2013.参照。「……麻呂と鉄折かなをりと、鬢髪ひげかみりて沙門ほふしらむとまをす。」(持統紀三年正月)と見え、「鬢」をヒゲと訓むことに疑義を見出し得ない。ヤマトコトバのヒゲを書き表すのに「鬢」字を用いたのであり、その逆ではなく、そうしたからといって咎められる筋合いのものでもない。頭部に生える人毛は、ヤマトの言語体系ではカミとヒゲであった。丸山1981.参照。
(注2)往年は、「ほふしなからかむ」と訓み、引っ張ったら僧侶が半分になってしまうという意に解されていた。
(注3)したがって、武田氏や稲岡氏はハニカムに「含羞」字を当ててはいない。稲岡2015.の訳は次のとおりである。

 坊さんの鬢のそりあとが、のびて杭のようになった所に馬をつないで、ひどく引っぱるなよ。坊さんが歯をむきだして怒るだろうから。(万3846)
 檀越さん。そんなことをおっしゃるな。里長が課役を強制したら、お前さんだって歯をむき出して怒るはずだ。(万3847)(124頁)

(注4)助詞ニが省かれることの少なさを検討したうえで、ウマツナギを薬草の狼牙のこととする説が工藤1977.に見られ、池原2013.も追認する。「ひげ」から「馬繋」への連想が飛躍、誇張が過ぎると思われていた経緯があり、このようなおもしろ味に欠ける解釈に陥っている。
(注5)万葉集の書記法の一つ、「戯書」という名が上代にあったわけではない。ただ、「戯」なのだから書き方も「戯」にしようと考えたとしても不都合なところはない。

(引用・参考文献)
飯泉2013. 飯泉健司「大山を削る─平城京の天皇・僧と民の文学─」『日本文学』第62巻第5号、2013年5月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.62.5_20
池原2013. 池原陽斉「『萬葉集』巻十六・三八四六番歌の訓読と解釈─「馬繋」と「半甘」を中心に─」『上代文学』第110号、2013年4月。上代文学会ホームページhttps://jodaibungakukai.org/data/110-06.pdf)(「「戯嗤僧歌」の訓読と解釈─「馬繋」と「半甘」を中心に─」『萬葉集訓読の資料と方法』笠間書院、2016年。)
稲岡1976. 稲岡耕二「万葉集における単語の交用表記」『萬葉表記論』塙書房、昭和51年。(「万葉集における単語の交用表記について」『国語学』第70集、昭和42年9月。国立国語研究所・雑誌『国語学』全文データベースhttps://bibdb.ninjal.ac.jp/SJL/view.php?h_id=0700190450)
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)」』明治書院、平成27年。
梅谷2013. 梅谷記子「萬葉集巻十六・三八三五番歌の解釈─遊仙窟との比較を通して─」『上代文学』第111号、2013年11月。上代文学会ホームページhttps://jodaibungakukai.org/data/111-03.pdf
尾山2006. 尾山慎「萬葉集における二合仮名について」『萬葉語文研究』第2号、2006年。
工藤1977. 工藤力男「上代における格助詞ニの潜在と省略」『国語国文』第46巻第5号(513号)、昭和52年5月。(『日本語史の諸相 工藤力男論考選』汲古書院、1999年。)
後藤1980. 後藤利雄「鬢と髭と檀越と─万葉巻十六の歌三首について─」『国語と国文学』第57巻第8号、昭和55年8月。
武田1957. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 十一』角川書店、昭和32年。
丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。

額田王の春秋競憐歌、「山乎茂入而毛不取草深執手母不見」の訓みについて

2024年08月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 額田王の春秋競憐歌の「山乎茂入而毛不取草深執手母不見」の訓み方について検討する。一般に次のように訓まれている。

 冬ごもり 春さりれば 鳴かざりし 鳥もきぬ かざりし 花も咲けれど 山をみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず 秋山あきやまの の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ あをきをば きてそなげく そこしうらめし 秋山そあれ(注1)(万16)
  近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇謚曰天智天皇〉
  天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
 冬木成春去来者不喧有之鳥毛来鳴奴不開有之花毛佐家礼杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曽思努布青乎者置而曽歎久曽許之恨之秋山吾者

 問題にあげた部分は、「山をみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず」と訓まれることが多い(注2)。中西1978.は、「茂」字について、形容詞「し」のミ語法であるとする。「し」という形容詞は確例に乏しく、万185番歌に「もく咲く道を〔木丘開道乎〕」と「し」の例は確かめられることを根拠にしている(注2)
 だが、そもそもこの議論には見落としがある。「山乎茂……草深……」を「山が茂っているので山に入って取ることもせず、草が深いので手に取って見ることもありません」という意味であると捉えているのだが、前半の「入りても取らず」は「入って取ることもしない」ではなく、「入ったとしても取ることはない」であり、後半の「取りても見ず」は「取って見ることもない」ではなく、「取ったとしても見ることはない」、すなわち、取ったっとて見ないで捨てる、の意と考えるのが適当である。いちいち花のことを気にかけたりしていられないほど深草なところになっている。咲いた花を含めて取っても見ることがないのは、目的が草刈りだからである。草刈り時には、草があまりにも深いので作業に追われ、選別して花を取って愛でている間などなく全部捨てるというのである。
 「山乎茂入而毛不取」は、草刈り時の「深執手母不見」とは異なる状況を表していると考えられる。「入りても取らず」は、入ったとしても取らない、の意である。その前に「山乎茂」がある。「茂」字を形容詞のシシ、モシと解する限りにおいて、山が茂っているという意味になる。近現代には山が茂るという言い方は馴染んでいる。山にはたくさん木が生えていて、その木が茂っていることをもって比喩的に、山が茂ると言うことができている。植林に精を出したおかげである。古代にも山に木はたくさん生えていたとは思うが、生えていない山もあっただろう。「畝傍山うねびやま 木立こたちうすしと ……」(舒明前紀、紀105)といった例が見える。山が茂るという言い方で木々が生い茂っていることを表すことはなかっただろう。「し」、「し」は、草木やその枝葉が繁茂していることをいう。「山」を形容していることにならない(注4)
 他の考え方をするなら、「乎茂」を借字と捉え、「山しみ」と訓む説があげられる(注5)。「山が惜しいので、入っても花を取ることはしない」という意味である。後続の「草深み 取りても見ず」は草ぼうぼうの中の花の様子を表していた。春が押し詰まって夏も近づいた晩春のことを言っている。それに対して早春の、枝先に花が咲き始めた頃、いまだ葉の出ていない時に花を取ってしまったら、冬山のように見る影もなくなってしまうから、もったいなくて花を取ることはしないというのである。

 冬ごもり 春さりれば 鳴かざりし 鳥もきぬ かざりし 花も咲けれど 山しみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず 秋山あきやまの の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ あをきをば きてそなげく そこしうらめし 秋山そあれは(万16)

 つまり、春の山の魅力に花はあげられるけれど、春の早い時期も、遅い時期も、花を手に取って愛でることは実際のところしていないのだ、という主張が行われている。それに対して秋の山は、紅葉狩りと呼ぶのに値するように紅葉した枝を手に取っているというのである。その比較により額田王は「判之歌」を成している。
 このように捉えた時、「茂」字をシミと訓んでいることになる。現在、形容詞のシシという語は存在が疑われている。そんななか、字余りとならないようにシミと訓みそうな例が一例、また、副詞のシミニ、シミミニの例で「繁」字を用いた表記も見られる(注6)

 うら若み 花咲きがたき 梅を植ゑて 人のことしみ〔人之事重三〕 思ひそがする(万788)
 忘れ草 かきもしみみに〔垣毛繁森〕 植ゑたれど しこ醜草しこくさ なほ恋ひにけり(万3062)

 また、「敷」、「布」、「及」、「如」で表されることの多いシクという動詞は多義に用いられ、「茂」字を用いたものも見られる。

 やすみしし わご大王おほきみ たからす 日の皇子みこ しきいます〔茂座〕 大殿おほとのの上に ひさかたの 天伝あまつたひ来る 白雪ゆきじもの きかよひつつ いや常世とこよまで(万261)

 一面に広がり及んでゆくことを表す動詞としてシクという語があり、その形容詞形としてシシという語があったとして不自然さはない(注7)。それらの語に「茂」という字を当てることについては訓義からも肯定され、戯書的用法としても首肯される。草がぼうぼうに生えているところには、シシ(獣)が隠れているではないか。

(注)
(注1)新大系文庫本66頁。
(注2)旧訓では字余りを厭わず「山をしげみ」と訓まれていた。
(注3)池原2016.は「茂」字をシシという形容詞で訓むことへの批判としてこの説を追認し、北原2011.がク活用形容詞の語幹末がイ列音になることは古代語では基本的にないと指摘している点をあげている。ただし、北原氏は例外として、キビシ、ヒキシがあるとし、ク活用形容詞かと疑われるものとして、サキク、マサキクがあるとしている。
 なお、「茂」をシムという四段動詞の連用形のミ語法とする説もある。
(注4)山が連なって何重にもなっていることを表そうとしたかもしれないが、その形容に「し」、「し」は使われないだろう。
(注5)ミ語法は、AヲBミの形をとるが、「草深み」のように格助詞ヲが省かれることも多い。

 …… 名告藻なのりその おのが名惜しみ 間使まつかひも らずてわれは けりともなし(万946)
 防人さきもりに 立ちし朝明あさけの 金門出かなとでに 手離たばなれ惜しみ 泣きしらばも (万3569)

(注6)武田1956.に、シミ、シキ、シジ、シミミなどを「綜合して考えれば、繁茂を意味する古語シが考へられそうでもある。」(112頁)との指摘がある。
(注7)シシという形容詞の活用形がク活用かシク活用か、見極めるに足る用例数がない。キビシはキブシという異形があって後にシク活用に転じており、ヒキシは中古にヒキナリという形容動詞形で使われ後にヒクシという語形に転じている。シシにはシゲシという異形があり後には使われなくなっている点からして、ク活用であったと推定することは可能である。

(引用・参考文献)
池原2016. 池原陽斉「「献新田部皇子歌」訓読試論─「茂座」借訓説をめぐって─」『萬葉集訓読の資料と方法』笠間書院、2016年。(「「献新田部皇子歌」訓読試論─「茂座」借訓説をめぐって─」『美夫君志』第87号、2013年11月。)
北原2010. 北原保雄「形容詞の語音構造」『日本語の形容詞』大修館書店、2010年。(「形容詞の語音構造」『中田祝夫博士功績記念国語学論集』勉誠社、1979年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
中西1986. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。

枕詞「おしてる」「おしてるや」について

2024年08月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 枕詞「おしてる」「おしてるや」は「難波なには」に掛かるが、掛かり方は未詳とされている。説としては、難波に宮があり、朝日・夕日のただ射す宮だからと褒めたたえる意であるとする説、おしなべて光る浪の華の意であるとする説、岬が突堤のように押し出しているとする説、襲い立てるように浪速なみはやだから、などいろいろ理由づけている(注1)が、いずれも決定打に欠けている。枕詞以外の動詞「おし照る」等を含めて上代の例をあげる。

 おしてる〔於辞氐屡〕 難波の崎の ならび浜 並べむとこそ その子は有りけめ(紀48、仁徳紀二十二年正月)
 …… 大君おほきみの みことかしこみ おしてる〔押光〕 難波の国に あらたまの 年るまでに ……(万443、大伴三中)
 おしてる〔押照〕 難波のすげの ねもころに 君がきこして 年深く 長くし言へば ……(万619、大伴坂上郎女)
 おしてる〔忍照〕 難波の国は 葦垣あしかきの りにしさとと 人皆の 思ひ休みて ……(万928、笠金村)
 天地あめつちの 遠きが如く 日月ひつきの 長きが如く おしてる〔臨照〕 難波の宮に わご大君 国知らすらし ……(万933、山部赤人)
 おしてる〔忍照〕 難波を過ぎて うちなびく 草香くさかの山を 夕暮に が越え来れば ……(万1428)
 おしてる〔押照〕 難波堀江の 葦辺あしへには かり寝たるかも 霜の降らくに(万2135)
 おしてる〔臨照〕 難波菅笠すがかさ 置きふるし 後はが着む 笠ならなくに(万2819)
 おしてる〔忍照〕 難波の崎に 引きのぼる あけのそほ舟 そほ船に 綱取りけ ……(万3300)
 そらみつ 大和やまとの国 あをによし 平城ならの都ゆ おしてる〔忍照〕 難波にくだり 住吉すみのえの 御津みつ船乗ふなのり ……(万4245)
 皇祖すめろきの 遠き御代みよにも おしてる〔於之弖流〕 難波の国に あめの下 知らしめしきと 今のに 絶えず言ひつつ ……(万4360、大伴家持)

 おしてるや〔淤志弖流夜〕 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島あはしま 淤能碁呂おのごろしま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ(記53、仁徳記)
 直越ただこえの この道にして おしてるや〔押照哉〕 難波の海と 名付けけらしも(万977、神社かむこその老麻呂おゆまろ
 おしてるや〔忍照八〕 難波の小江をえに いほ作り なまりてる 葦蟹あしがにを 大君すと …… さひづるや 唐臼からうすき 庭に立つ 手臼てうすに舂き おしてるや〔忍光八〕 難波の小江の 初垂はつたりを からく垂れ来て 陶人すゑひとの 作れるかめを ……(万3886、乞食者ほかひびと
 おしてるや〔於之弖流夜〕 難波の津ゆり 船装ふなよそひ あれは漕ぎぬと 妹に告ぎこそ(万4365、物部道足)

 春日山かすがやま おして照らせる〔押而照有〕 この月は 妹が庭にも さやけかりけり(万1074)
 我が屋戸やどに 月おし照れり〔月押照有〕 霍公鳥ほととぎす 心あれ今夜こよひ 来鳴きとよもせ(万1480、大伴書持)
 窓越しに 月おし照りて〔月臨照而〕 あしひきの 下風あらし吹くは 君をしそ思ふ(万2679)
 桜花さくらばな 今盛りなり 難波の海 おし照る宮に〔於之弖流宮尓〕 きこしめすなへ(万4361、大伴家持)

 動詞の用例では、月が照り輝いて夜なのに明るいことを示そうとしている。万1480番歌では、鳥目のホトトギスでも今夜、来て鳴いてくれと歌っている。そんな「おしてる」が「難波」にかかっており、当たり前のつながりであると感じられて枕詞となっている。強烈な太陽光線がナニハという言葉にかかって然るべきとする考えは、難波の平野部に展開された水田が干上がって畑になっていることをもって成り立つ。むろん、実景を述べるものではない。ナニハという地名が先にあり、そのナニハという言葉(音)が、ナ(菜)+ニハ(庭)を意味し、畑を表すからである。光が押し照るから全部畑になってしまったようなところ、それがナニハだ、と笑っている(注2)。文字を持たなかったヤマトコトバが言葉の音を頼りにしながら戯れていた言語遊戯である。不思議な言語ゲームをくり広げており、書契以後の我々とは言葉に対する向き合い方が異なっている。ものの考え方が稚拙であるというものではないが、我々の現代的な思考法のなかに何かをもたらすかといえば、下手な暗号のようなもので、ほぼ何ももたらさないと言えるだろう。

(注)
(注1)時代別国語大辞典は、万977番歌をとりあげ、生駒山から難波の海に日が照っているのを見て言っているのを、この枕詞に対する万葉人の一つの解釈を示すものとしている(149頁)。作者、神社老麻呂は、ただとぼけたことを言っているものと筆者は考える。真面目に言っているとしたら、歌として聞く人は窮屈なことを歌っていると思い、ブーイングを発したことだろう。
(注2)似たような枕詞に、「しなてる」がある。「かた」に掛かるが、掛かり方は未詳とされている。

 しなてる〔斯那提流〕 片岡山かたをかやまに いひて こやせる その田人たひとあはれ 親無しに なれりけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その田人あはれ(紀104)
 しなてる〔級照〕 片足羽川かたしはかはの さ塗りの 大橋の上ゆ くれなゐの 赤裳あかもすそ引き 山藍やまあゐもち れるきぬ着て ただ独り い渡らすは 若草の つまかあるらむ 橿かしの実の 独りからむ 問はまくの 欲しき吾妹わぎもが 家の知らなく(万1742)

 シナは坂の意である。登る坂があってそこへ照りつけていたら、峠を越えて反対側で降りる坂のほうには照りつけていない。片方にしか照らないから、シナテルはカタ(片)に掛かるのであろう。

(参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。

万葉集巻十七冒頭「傔従等」の歌について

2024年08月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十七の冒頭に、「悲傷羇旅」の歌が載る。「羇旅」は旅の道行きのことであるが、畿外へ出ることを指すとする考えもある。だが、後代のようにこの語が部立として用いられているわけではなく、キリョという漢語が意識されていたとは考えられず、ヤマトコトバのタビを書き表すのに恰好をつけて記しているにすぎない。タビという言葉は、遠近にかかわらず他所へ寝泊りすることと考えられている。
 題詞に記されている状況説明が問題視されている。大宰帥として赴任していた大伴旅人が大納言に任ぜられて平城京へ戻った。その旅路に従者を伴っている。そして、「傔従等別取海路京」した時、「悲-傷羇旅各陳所心作歌」が十首あげられている。「傔従」ないし「傔従等」とはどういう人たちか、「羇旅」を「悲傷」するとはどういうことなのか、明解が得られていない(注1)。ここでは専論である関谷2021.が載せる現代語訳を併せて掲げる(注2)

  天平二年庚午の冬十一月に、大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみ大納言だいなごんけらえ〈帥を兼ぬることもとの如し〉、みやこに上りし時に、傔従けんじゅうこと海路うみつぢを取りて京に入る。是に羇旅たび悲傷かなしびておのもおのも所心おもひべて作る歌十首〔天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言〈兼帥如舊〉上京之時傔従等別取海路入京於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首〕
 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども 玉藻たまも刈る見ゆ〔和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由〕(万3890)
  私の愛しいあの人を、私が(再会を待つ)松原から見渡すと、海人娘子たちが玉藻を刈っているのが見える。
   右の一首は三野みののむらじ石守いそもりの作。〔右一首三野連石守作〕
 荒津あらつの海 潮干しほひ潮満しほみち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ〔荒津乃海之保悲思保美知時波安礼登伊頭礼乃時加吾孤悲射良牟〕(万3891)
  荒津の海には干潮や満潮の時が決まっているが、私は今後いつでも、恋しく思わないことがあろうか。
 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく〔伊蘇其登尓海夫乃釣船波氐尓家里我船波氐牟伊蘇乃之良奈久〕(万3892)
  海人の釣り船たちもそれぞれの磯に戻ってしまった。私たちの船を泊める磯はまだ決まっていないのに。
 昨日きのふこそ 船出ふなではせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも〔昨日許曽敷奈〓(人偏に弖)婆勢之可伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日見都流香母〕(万3893)
  つい昨日、船出をしたのに。(いさなとり)比治奇の灘を今日見ることだ(もうこんな所に来てしまった)。
 淡路島あはぢしま 渡る船の 楫間かぢまにも われは忘れず いへをしそ思ふ〔淡路嶋刀和多流船乃可治麻尓毛吾波和須礼受伊弊乎之曽於毛布〕(万3894)
  淡路島の瀬戸を渡る船の、一漕ぎの間にも、私は忘れず(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌乞我が背〔大船乃宇倍尓之居婆安麻久毛乃多度伎毛思良受歌乞和我世〕(万3898)
  大船の上に揺られているので、天雲のようにやるせない。歌をお願いします、私の愛しいあなた。
 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも〔海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可問〕(万3899)
  海人娘子が焚くいざり火のように、ぼんやりと角の松原のことが思われる。
 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ〔多麻波夜須武庫能和多里尓天傳日能久礼由氣婆家乎之曽於毛布〕(万3895)
  (たまはやす)武庫の渡しにて、(天伝ふ)日が暮れて行くので、(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば 奥処おくか知らずも〔家尓底母多由多敷命浪乃宇倍尓宇伎氐之乎礼八於久香之良受母〕(万3896)
  「家」にいても不安定にただよう命であるが、波の上に浮かんで揺られていると、物思いが果てしない。
 大海おほうみの 奥処おくかも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも〔大海乃於久可母之良受由久和礼乎何時伎麻佐武等問之兒良波母〕(万3897)
  大海のように果てしなく遠く出て行く私を、「何時お帰りなのですか」と尋ねた、あああの子よ。
   右の九首は、作者の姓名をつばひらかにせず。〔右九首作者不審姓名〕

 「傔従等」とある「等」は、「傔従」とは呼ばれない人のことを指すと考えられ、それは一首目の作者として名のある三野石守が該当する。三野石守が傔従を統率して船を進めた。どうして主人である大伴卿、大伴旅人と「別」なのか。延喜式・民部省下に、「凡そ山陽・南海・西海道等の府国、新任の官人、任に赴く者は、皆海路を取れ。仍りて縁海の国をして例に依りて食を給はしめよ。〈但に西海道の国司、府に到らば、即ち伝馬に乗れ〉。其の大弐已上は乃ち陸路を取れ。」とある。この条に関連する記述としては、続紀・神亀三年八月三十日条がある(注3)。虎尾2007.は、当該万葉歌でも、傔従等は別に海路で、大伴旅人は陸路を取って上京していると読むのが自然であろうとしている。長官は交通上の安全や、各地の巡察を兼ねながら陸路で行き、家来は効率を重視し、荷物運搬の都合上、船を使ったと考えられるのではないか。
 両者が別行動をとり、到着した奈良の都に合流した時、旅すがらでの思いについて歌を詠むように促し、傔従等が作った十首を採っている。すなわち、旅自体はすでに終わっており、旅装は解いて寛ぎながら、その間のこと、また、旅を総括するような思いをそれぞれ歌にしている。「悲傷」、「所心」とあっても、「羇旅」はすでに完了しているから、旅の最中まっただ中のつらさを吐露したものではない。
 「悲傷」した理由について、大伴卿と別行動だからというので「悲傷」したという説があるが、道中ご主人様の尊顔を拝することができなくて寂しかったと、現在目の前にしながら歌を詠むとは思われない。主従の関係にあることと同性愛的な恋情は直結するものではなく、職務を執行しているところへ私情を差し挟んで公にするとも考えにくい。「傔従」は筑紫で現地任官された人たちで、都まで随従しなければならなかった点をもって「悲傷」の主因と考えるのが妥当であろう。故郷から離れて寂しいという気持ちは容易に想像できる。九州で採用された人をわざわざ都に向かわせる状況を想定しづらいとする考え方もある(注4)が、「傔従」という立場の人は、大宰府の役人、地方公務員ではなく、大伴旅人に仕える従者、資人や舎人に当たる人を雇ったということであろう(注5)。下働きに働く人たちは、主人の旅人が引っ越すならその引っ越しに携わらなければならず、海路に就いたなら当然ながら船を漕ぐ水夫の役割を担っていただろう。
 すなわち、最初の一首、三野石守の作のみが官吏、残り九首を作った作者不明の人が「傔従」である。それらは彼らが水夫として働いていた時の歌ということになる。

 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども 玉藻たまも刈る見ゆ(万3890)
   右の一首は三野みののむらじ石守いそもりの作。

 「我が背子」は、三野石守が大伴旅人に対して呼びかけたものである。アガマツバラという地名があったとする説と、「松原」を「待つ」と掛けるための序詞とする説がある。尤も、アガマツバラという地名であっても「待つ」と掛けていることに変わりはない。所在は不明であるが、「傔従等」の「等」に当たる三野石守は大伴旅人とは別行動で、海路をたどって先に畿内まで来ていて、主人の到着を待っていたものと思われる。今か今かと松原から望んでいると、海人の乙女たちが玉藻を刈っているのが見えた。この歌に趣意があるとするなら(注6)、有名な麻続王をみのおほきみの玉藻の歌になぞらえた、広義の典故となる歌ということになるだろう。麻続王をみのおほきみは島流しの刑にあっていた。大伴旅人は太宰帥という体のいい島流しから帰ってきている。

 荒津あらつの海 潮干しほひ潮満しほみち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ(万3891)

 この歌は、アラツという地名のツ(津)、船の停泊場に適したところがあり、それに引っ掛けて歌を作っている。潮の干満の時間は月の運行に合わせて起こる。干潮の時、満潮の時がある。一般に、「いすれの時か」とあるのを、干潮の時、満潮の時といったこととは無関係にいつでも、と解されているが誤りである(注6)。津が津として船の停泊にかなうのは、当時の大型船である準構造船の停泊形態として、潮が引いた時に干潟に乗り上げる形で逗まるものだったからである。アラツ(荒津)というだけのことがあって潮の干満の水位差が大きかったのであろう。停泊するのに確かで、停泊させたつもりなのにどこからか水があふれてきて船が流されるというようなことはなかった。すなわち、大型船を停泊させたり出航させたりするのに一日のうちで「時」は限られているけれど、干潮の時、満潮の時のどちらかが恋しいと思わないことがあろうか、いやいやそのようなことはなく、両方とも恋しいのだ、と歌っている(注8)

 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく(万3892)

 この歌は、大型船で出航してから途中でどこかへ停泊させて休もうと思っていた時、海岸沿いは岩場のあるところばかりで、漁船は磯に近づいて漁民がさっさと陸にあがっているのを見て詠んだものであろう。漁船は小型船で、丸木舟だったかもしれない。ボートを泊めるには磯に近づけてロープでくくりつけておけば済むのだが、大型船の場合、船体を岩場に当てると壊れる恐れがある。砂浜に乗り上げたく、なかでもラグーンのような波の静かなところが求められた。さて、どこに停泊させたらいいというのか、接岸させるのに適した場所があるのか知らない、と嘆いている。

 昨日きのふこそ 船出ふなではせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも(万3893)

 ヒヂキの灘というところは未詳である。昨日、出帆し、今日目にするのはヒヂキの灘だと言っている。ヒヂキとして知られる言葉は建築用語の肘木である。建築の組物を構成してますけたを支える横木のことであり、腕木うでぎともいう。和名抄に、「枅 唐韻に云はく、枅〈音は鶏、漢語抄に比知岐ひぢきと云ひ、功程式に肱木と云ふ〉は衡を承くる木なりといふ。」とある。直線的にしか受けない肘木のことを特に船肘木と言っている。「傔従等」が「別取海路京」と題詞にあり、船を使ったことを言わんとしているから、出航した時に船として海に浮かべていたものが、都に入ってみると宮殿や寺院には建築部材に転換していることを歌っているのだろう。人が水上での乗物だと思っていたものが頭の上にあって安定して桁を受け、上層部を支えている。「陳所心作歌」として、「今日」、「みやこ」で詠まれている。
船肘木のある建物(相国寺庫裏)

 淡路島あはぢしま 渡る船の 楫間かぢまにも われは忘れず いへをしそ思ふ(万3894)

 アハヂという語については、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知と考えられていたと推測される。Abu+fati→afadi である。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。自ら張った巣の中央に蜘蛛がおり、巣の対角線上に虻と蜂とが同時にかかった。両者とも蜘蛛にとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。どちらを捕ろうかと迷っているうちに、どちらも捕れないまま逃げられてしまう。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落て呼んでいるのだと見立てていた(注9)
 淡路島の、すなわち海峡には、二つの海峡があるとの思いが強かった。オールを使って水を掻き漕ぎ、楫を返すときには空中にあげて戻す。その空中にある時間のことを、「楫間かぢま」と呼んでいると一般に考えられている。「」を時間的な意味で捉えているわけだが、空間的な意味に用いる例も見られる。その場合、「楫間かぢま」は楫と楫との間、ふなばた(船端)のことと捉えることもできる。すなわち、ここで使っている「楫間かぢま」という言葉は、その二つの意味を掛けて使っていると考えたほうが適当だろう。船のハタ(端)には右舷、左舷の二つがあり、淡路島の両側にがあることと対応している。淡路島の海峡を渡る船には明石海峡、鳴門海峡を通過するものがあるが、そこは流れが速くなることがあるから必ず舷側の両側に楫を備えた船でなければならない。
左:櫂で漕いだと思われる船(須恵質船形土器、陶邑窯群栂232号窯出土、古墳時代、4~5世紀、大阪府教育委員会蔵、堺市博物館展示品)、右:櫓で漕ぐ船(一遍聖絵模本、鈴木久治写、大正2~3年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591584をトリミング)
 この様子を上代語で表現する場合、ハタ……ヤ、ハタ……ヤ、という形で表すことがあった。ハタは「将」字で表すことも多い。また、「はたや」、「はたやはた」といった展開形になることもある。

 いましはた我に先だちて行かむ、はた我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 ここ許勢臣こせのおみ王子せしむくゑいに問ひて曰はく、「為当はた此間ここに留まらむとや、為当本郷もとつくになむとやおもふ」といふ。(欽明紀十六年二月)
 かむさぶと いなとにはあらね はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも(万762)
 す痩すも けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(万3854)

 すなわち、「淡路島あはぢしま 渡る船の 楫間かぢま」では、ハタ……ヤ、ハタ……ヤと、いずれの場合であれヤと疑問を表す助詞を伴うことになっている。右舷であろうが左舷であろうが、明石海峡であろうが鳴門海峡であろうが、つまりは、船のはたであれ、島のはたであれ、ハタは必ずヤで承けることになっている。ヤという言葉(音)にはの意味があり、家の建物のことをいう。いへという言葉でも、家屋のことを指して使われている。

 いへに来て を見れば 玉床たまどこの よそに向きけり いも木枕こまくら(万216)
 ゆふづく日 さすや川辺かはへに つくる屋の かたよろしみ うべよさえけり(万3820)
 小林をばやしに われ引入ひきれて し人の おもても知らず いへも知らずも(紀111)
 玉敷ける 家も何せむ 八重葎やへむぐら おほへる小屋をやも 妹としらば(万2825)

 というわけだから、必ず家のことを思うに決まっているのである。この作者はヤマトコトバの言葉遊びに長けていて、巧妙なジョークを歌にして開陳し、大伴卿の耳にもその頓智がよく通じたということである(注10)

 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌ふ我が背〔歌乞和我世〕(万3898)

 この歌の五句目は難訓とされていた。筆者は、この歌群が、上京の途中で別行動をとっていた傔従等に対して、都に着いてから道中の思いを歌にしてごらんと大伴旅人が促し、その時に作られて歌われたものと考えている。「歌乞和我世」の「我が背」は旅人のことを指していると考えて間違いないから、旅人が歌を作って披露するようにと傔従たちに求めたことを言っていると理解できる(注11)。唐突に指名されて歌を歌えと言われて困っている。そこで、どうしたらいいかわからないという気持ちを、船中にいた時の、ふだんとは勝手が違ってどうしたらいいかわからなかったことと重ねることで一首を成している。大船の上に揺られていて、天雲がどちらへ向かっているのかわかるすべがない状況でした。今、ご主人様が歌を作れと乞うてくるのと同じようなものでした、と言っている。

 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも(万3899)

 ツノノマツバラは万279番歌(「角松原」)にもあり、現在、兵庫県西宮市の津門つとの海岸を指すとされている。その地の風光が問題ではなく、そのように呼ばれていることをどう理解したらいいかに関心が向いている。海岸線に松原が広がっていたのであろうが、船が寄港するツ(津)でありつつ水がかりが悪いノ(野、ノは甲類)であるという。この矛盾した地名に対し、奇妙で間抜けな命名であると直感が働いている。そして、その謎解きをしようとして歌にしている。
 「いざり焚く火」とは松明たいまつのことであろう。脂分の多い松の枝を伐ったものが重宝され、明り取りのために火をつけた。盆栽のように芽を摘んだものではなく、自然に徒長した枝を乾燥させて使う。松葉が茂り伸びて行っているのが燃え、枝分かれしているところが鹿の角のように思われる。鹿がいるのはノ(野)であり、ツノ(角)があるから、白砂青松の海岸の名にしてかまわないし、集魚灯がぼやぼやっと光っているぐらいにぼやぼやっと理解できることだと述べている。ツノノマツバラの地名譚の歌を作っている。
 この観点は、「おぼほし」という形容詞で表現している点から検証される(注12)。オボホシには、視覚的、聴覚的にぼんやりして明らかでないさま、心が晴れなく不安であるさま、間抜けでおろかであるさま、の語意があるが、それらの意をかねて使われている。

 ぬばたまの 夜霧よぎりの立ちて おぼほしく 照れる月夜つくよの 見れば悲しさ(万982)
 朝日照る 島の御門みかどに おぼほしく 人音ひとともせねば まうらがなしも(万189)
 しきやし おきなの歌に おぼほしき ここのらや かまけてらむ(万3794)

 松明の集魚灯は少し明るいだけで集まって来るからぼんやりしている。ツノという語義撞着はどうにも間が抜けている。鹿の角の形をした松明から命名された地名かといえば、すっかり明らかになったとは自信が持てるものではない。三つの意をかねて歌に表現している。

 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ(万3895)

 ムコという言葉には婿(聟)がある。和名抄に、「婿 爾雅に云はく、子の夫を婿〈音は細、字は亦、聟に作る。和名は無古むこ〉とといふ。」とある。娘のところへ渡り通ってくる婿殿がいて、日が天を伝うように毎日、暮れになると通い婚にやって来ていた。そんなことを武庫というところへ来て思い出し、家のことを案じている。

 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば 奥処おくか知らずも(万3896)

 タユタフ(猶預)という言葉とオクカ(奥処)という言葉に、それぞれ二つの意味を掛けて使っている。家にいても落ち着かずに不安で生きた心地もしなかったが、波の上に浮いているとまったくゆらゆら揺れ動いて生死をさまよっている気がする。すなわち、この男はやきもち焼きなのである。家にいても女房が近所の男とちょっと話していたりしたら気が気でなかったが、旅人の帰京に同行させられて船で荷物を運び、都へ単身赴任することになってしまった。家に置いてきた妻は浮気をしているのではないかと際限のない不安に駆られている。オクカ(奥処)は、海の果てのどこだか知れないところへ船出していることと、夫婦が将来どうなるかわからないこととを掛けている。オク(奥)はオキ(沖)と同根の語である。空間的に入口から深く入った所、人の行かない神秘的な所、心理的に大切にする心の底、また、時間に転用してこれからの行く先、将来のことも言った。

 大海おほうみの 奥処おくかも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも(万3897)

 大海の果てがどこなのか、そんなわからないところまで行く自分に対して、今度はいつ来られますかといとしいあの子は問うている。大宰府から沖ノ島へ行くなら明日にもまた逢えようが、海は海でもあなたの知らない海の果てなのだよ。なかなか帰ることは難しいし、ひょっとすると将来に渡りもう逢えないかもしれないよ、というのである。「奥処おくか」という言葉は効いている。空間的な場所ばかりでなく時間的な将来のことを言っている。この歌では題詞の「悲傷」が直截的な意味合いになっており、一連の歌を締めくくるのにふさわしい。

 以上、万葉集巻十七の巻頭にある傔従等の歌を解釈した。これまでの通説では、歌に対する評価としては取り立てて言うほどもないもの、構成としては大宰府から平城京まで、傔従等の上京絵巻であるかのように海路を辿るように詠まれていると考えられていた。本稿では、入京後に、傔従等が道中でこみ上げた思いについて大伴旅人が歌にするように求め、各々が作った歌を集めたものであると捉え直した。題詞にもそう記されている。そして、歌のなかに地名が登場していても、その地の実景を写したものでも、歌枕的な地誌があったわけでもなく、言葉(音)としていかに解されるか、頓智、駄洒落を肝要とした歌であることが明らかとなった。当時は基本的に無文字社会であり、非情報化社会であった。言葉を口伝てに伝える以外に伝達の手段を持たなかったのである。「安我あが松原まつばら」、「荒津あらつ」、「比治奇ひぢきなだ」、「淡路島あはぢしま」、「武庫むこわたり」、「都努つの松原まつばら」という地名を耳にしても、実際に訪れた者以外にはその地の様子を思い浮かべることはできない。行動を別にしていた主人、大伴旅人の知らない場所を歌の文句に取り入れて、風景を思い浮かべさせようとしたりはしないだろうし、その場には他の客人も招かれていたかもしれない。知られていないことを披露しても場が白けるばかりである。歌は一回性の芸術で一度きりしか口にせず、当然、相手に通じることしか歌わない。低評価と判断して憚らない近代的な思考の枠組みとはまったく異なる切り口、言葉(音)のみで伝え得る最大限の情報量を盛り込んだ駄洒落の歌がこの十首の歌である。書契の時代以降に暮らしている人とはものの考え方が根本的に違う、異文化の作品であった。この点を知ること以上に万葉集を学ぶ理由も価値も存するものではない。

(注)
(注1)平舘1998.は、題詞の「悲傷」は他の万葉歌の題詞では、挽歌の類に見られると指摘し、文選の「羇旅」という語に流浪、軍旅、望郷などの憂いを感じるところから「悲-傷羇旅」と題していると考えている。しかし、文選の賦を成すような博識にして筆の立つ文士が歌を作っているわけではなく、「傔従等」が「各陳所心作」した歌十首が一連の歌群として構成されている。身分が低く教養も乏しい従者たちの「所心」に憂いがあるかどうかよりも、そのような人たちが作った歌を採録するに足りていることが重要である。天平二年十一月の時点で大伴卿が聞いて歌として体を成していると認め、よって記し残され、後に万葉集に採られている。「作者不姓名」の歌九首は、おそらく九人の「傔従」がそれぞれ一首ずつ作ったものであろう。「傔従等」の憂いの気持ちなど、大伴卿にとってもその他の人にとってもどうでもかまわないことである。表現としてうまくできていることが注目され、褒めるに値すると認めたということである。言葉づかいの技巧を評価した歌と捉えるのが正しい接近法である。
(注2)158~159頁。寛文版本に従う校本万葉集の歌の配列で歌番号(国歌大観)は付されているが、現在信頼が置かれている西本願寺本や元暦校本とは違っている。
(注3)「太政官処分すらく、『新任の国司、任に向ふ日、伊賀・伊勢・近江・丹波・播磨・紀伊等六国にはじきを給せず。志摩・尾張・若狭・美濃・参川・越前・丹後・但馬・美作・備前・備中・淡路等十二国は並食を給はず、自外の諸国くにぐにには、皆伝符を給へ。但し、大宰府并せて部下の諸国の五位以上には伝符を給ふべし。自外は使に随ひて船にらば、縁路の諸国、ためしに依りて供給せよ。史生も亦此になずらへよ』といふ。」(原漢文)とある。新大系本続日本紀(一の417頁、二の520頁)では、和銅五年五月十六日格を参照しながら、万446~450番歌の「天平二年庚午の冬十二月に、大宰帥大伴卿のみやこに向ひて上道みちだちせし時に作る歌五首〔天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首〕」は、「鞆の浦」や「敏馬の崎」を詠んでいて、海路をとったことを表すとされているが、陸路の可能性もあると指摘している。筆者は、大伴旅人が進んだのが陸路か海路かはともかく、万3890~3899番歌では「傔従等別取海路京」と、傔従等とは別行動だったから、都で合流した時に道中の様子を歌にせよと乞われ作られたものと考えている。そして、自ずと「悲-傷羇旅」の「所心」を述べることになったのがこの歌群だったのだろう。
(注4)関谷2021.161頁。「傔従」が単なる身辺警備のSPではなく、身の回りの世話をする舎人的性格を有しているとすると、都へ戻って新規採用してまた一から教え込み慣れ親しませなければならないことを考えれば、付き従わせることに何の不思議もない。
(注5)神野かんの1988.は、続紀・和銅元年三月二十二日条、「みことのりして、大宰府の帥・大弐、并せて三関と尾張守等とに、始めて傔仗けんぢゃうを給ふ。其のかず、帥に八人、大弐と尾張守とに四人、三関の国守に二人。其の考選・事力と公廨田くげでんとは、並に史生に准へしむ。」(原漢文)を挙げ、「傔従」を「傔杖」、武器をとって高官を護衛する従者の意と関連づけて捉え、また、続紀・大宝二年三月三十日条、「大宰府にもはらに所部の国の掾已下と郡司等とを銓擬することをゆるす。」(原漢文)を挙げ、現地採用したものであると捉えている。そして、特に万3891・3896・3897番歌は、そのような従者が離郷の心情を歌っているものとするのが自然であるとしている。神野1993.では歌の解釈の面から同様の内容をも発表している。にもかかわらず、「傔従」が現地採用の官人で、旅人に従って都へ出てきたとする見方に疑問を投げかける向きが絶えないのは、歌の解釈が覚束なかったためである。本稿の歌の解釈、ヤマトコトバ言語ゲーム論は、神野氏の主張を支持する形となっている。
(注6)なかろうはずはない。もしないのなら多くの人に広めても誰も理解することはない。伝えるに値しなければ伝えることはなく、伝わることはない。伝わっていなければ、万葉集に載せられて今日その存在を知ることもない。
(注7)Aの時があり、Bの時がある、その「いづれの時か」と言うとき、AかBかの二者択一を示すと考えられる。「いずれの時」と反語のヤで承けるのであれば、Aか、いやいやAではない、Bか、いやいやそうではない、私がいとおしく思わないだろう時はAとかBとかいうことではない、すべての時において、いつもいとおしく思うだろう、という意味になる。この場所は「荒津」であり、潮の満ち干が激しい。大船は干潟に乗り上げる形で停泊させるから、満潮時に船は停泊や出航が可能で、干潮時に下船や乗船が可能になる。「潮干」の時も「潮満ち」の時も恋しく思わないことはないだろう。しかし、その間の中途半端な水位の時には、船員は何もすることがなく手持ち無沙汰となり、いわば船員でなくなる時であって全然恋しくない時ということになる。
 「荒津」というのだから、船を動かせる満潮の時間帯も、乗客を乗り降りさせる干潮の時間帯も十分に長く確保される場所であったのだろう。思うように仕事に勤しめたから歌にしている。ひょっとすると、難波津の停泊があまりうまくいかなかったことを暗に指しているのかもしれない。
(注8)これまでの解釈では、「恋ふ」という語について、異性の誰かに気持ちが引かれるという意に解し、残してきた人に対する恋心など、人を相手とする恋であるとする解釈が行われてきた。しかし、「恋ふ」には比喩的に、慕う、なつかしむ、の意がある。

 いにしへに 恋ふる鳥かも 霍公鳥ほととぎす 弓絃葉ゆずるはの 御井みゐの上より 鳴き渡り行く(万111)

 あくまでも「海路」のことを歌っているのだから、引き潮の時、満ち潮の時のいずれの時も「津」としての機能を発揮するからいとおしいのであり、だからこそ「荒津」を歌っているのである。
(注9)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/11778e097320217e614b879e71fd97ba参照。当時の常識として通行していたと考える。
(注10)現代語訳に誤りとする点はないが、「淡路島」をとりたててモチーフにしている理由について省みられたことはなかった。
(注11)状況が定まらないながらも、ウタコヘワガセ、ウタコハムワガセ、ウタへコソワガセ、ウタヒコソワガセなどと訓まれてきている。
(注12)「おぼほし」という語については、清濁に移行があったかとも考えられており、オホホシ、オボボシという形も想定されている。挙例中の歌でも仮名書きからオホホシとするべきものがあるが、ここでは一律にオボホシとした。

(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 九』笠間書院、2013年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 九』集英社、1998年。
神野1988. 神野富一「大宰帥大伴旅人の傔従等」『水門─言葉と歴史─』第16号、1988年12月。
神野1993. 神野富一「大宰帥大伴旅人の傔従等の歌」『美夫君志』第47号、平成5年11月。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
関谷2021. 関谷由一『万葉集羇旅歌論』北海道大学出版会、2021年。
平舘1998. 平舘英子『万葉歌の主題と意匠』塙書房、1989年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
虎尾2007. 虎尾俊哉『訳注日本史料 延喜式 中』集英社、2007年。
橋本1985. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。

八代女王の献歌(万626)について

2024年07月30日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四の相聞の部立に八代女王やしろのおほきみの献歌がある。
 八代女王については情報が限られている。万葉集にこの一首、続日本紀に位階についての記述が二か所あるだけである(注1)

  八代女王やしろのおほきみの、天皇すめらみことたてまつる歌一首〔八代女王獻天皇歌一首〕
 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香あすかの川に みそぎしに行く〈一尾に云はく、龍田たつた越え 三津みつ浜辺はまべに 禊ぎしに行く〉〔君尓因言之繁乎古郷之明日香乃河尓潔身為尓去〈一尾云龍田超三津之濱邊尓潔身四二由久〉〕(万626)
 二月戊午、天皇、でうに臨みたまふ。従四位下栗林王に従四位上を授く。無位三使王・八釣王にならびに従五位下。従四位上橘宿禰佐為に正四位下。従五位上藤原朝臣豊成に正五位上。正六位上多治比真人家主、外従五位下佐伯宿禰浄麻呂・阿倍朝臣豊継・下道朝臣真備に並に従五位下。正六位上三使連人麻呂に外従五位下。四品水主内親王・長谷部内親王・多紀内親王に並に三品を授く。夫人无位藤原朝臣の二人〈名をけり。〉に並に正三位。正五位下県犬養宿禰広刀自・无位橘宿禰古那可智に並に従三位。従四位上多伎女王に正四位下。従四位下檜前王に従四位上。无位矢代王やしろのおほきみに正五位上。従五位下住吉王に従五位上。无位忍海王に従五位下。従四位下大神朝臣豊嶋に従四位上。従五位上河上忌寸妙観・大宅朝臣諸姉に並に正五位下。従五位下曾禰連五十日虫・大春日朝臣家主に並に従五位上。无位藤原朝臣吉日に従五位下。正六位上大田部君若子・従六位上黄文連許志・従七位上丈部直刀自・正七位上朝倉君時・従七位下尾張宿禰小倉・正八位下小槻山君広虫・无位盧郡君に並に外従五位下。(続紀・天平九年(737)二月)
 十二月丙午、坂東の騎兵・鎮兵・役夫と夷俘等を徴しおこして、桃生城・小勝柵を造らしむ。五道倶に入りて並に功役に就く。従四位下矢代女王やしろのおほきみ位記ゐきこほつ。先帝せんていかうせられてこころざしあらたむるをもちてなり。(続紀・天平宝字二年(758)十二月)

 新大系本続日本紀に、「以先帝而改志也。」とは、「かつて聖武の寵愛をうけながら、その後志を変え、他の男性と関係をもった、の意か。」(295頁)という。
 この歌の解釈については、大きく二つの潮流がある。一つは、天皇の寵愛を受けた八代女王が、周囲からの噂が嫉妬や中傷の域にまで達してやりきれないので禊ぎに行こうと歌ったものとする考えであり(注2)、もう一つは、互いの親密な間柄のもとで、甘えかかったり恋心に苦しむ思いを託したとする考えである(注3)。後者の考えでは、続紀の「毀従四位下矢代女王位記」の記事は歌とは無関係であるとしている。
 近年、影山2017.が、後者の立場から展開した見解を提出している。その際、献呈歌でありながら異伝を伴うことへの不審を語っている。相聞贈答に異伝を伴うことはそもそも不自然で、ましてや天皇への献歌において歌詞が彫琢しきれていないというのはおかしいという。
 筆者はそうは考えない。異伝は「一尾云」の形で示されている。「尾」などと記す類例は「尾句」といった例はあるものの他に見られない。ここで、「一尾云」として五句目までをすべて記し、「一尾云、龍田超三津之濱邊尓潔身四二由久」と書いてある。変えているのは三・四句目だけだから、「一云、龍田超三津之濱邊尓」と書くだけでよいのに念を入れて書いている。このことは、その部分が「」であるとの意識のなせるわざであろう。上代語の「」は、鳥や魚の尻から伸びた先の毛や鰭のこと、また、山の裾のことを表していた。すなわち、三句目以降は尾鰭であって、本体はその前の「君によりことしげきを」で尽きている。そこまで言えれば歌の主旨は十分放たれていることを伝えている。
 「ことしげき」とはどのようなことか。「こと」=「こと」である(はずである)から、人が言うことが事実であるということになる。その場合、それを現代語でいう「噂」の意であると思って逐語的に訳すと誤謬が生じる。

 人言ひとごとの〔人言之〕 よこしを聞きて 玉桙たまほこの 道にも逢はじと 言へりし吾妹わぎも(万2871)

 この例では、「人言ひとごと」がどのような性質のものか述べられている。「よこし」な「人言ひとごと」、誹謗中傷である。逆に言えば、ただ「人言ひとごと」としかない場合、人がいろいろと言っていることそのことを指している。それがどのような評価を得たものなのかいまだ判断していない、あるいは判断できないものである。ましてや「こと」(「人言ひとごと」)が「しげし」なとき、数多く言われているから、讃頌しているのか、中傷しているのか、いろいろだから決めつけられない。人々の話題にのぼっているということ、ただそのことを指すのが「こと」(「人言ひとごと」)である。慣用表現になっていて、「ことしげき」、「ことしげけく」、「ことしげく」、「ことしげき」、「人言ひとごとしげし」、「人言ひとごとしげく」、「人言ひとごとしげく」、「人言ひとごとしげき」、「人言ひとごとしげみ」などと使われている。「しげし」は草木が繁茂することを指す言葉である。草がわんさか生えてくること、それは何か特定の栽培品種を一律に生えさせた様子ではなく、多種多様な草がそれぞれに丈を伸ばし、蔓を絡ませ、根をはびこらせて繁茂するさまを指している。雑多な生長が見られるのだが、統一的な条件がある。一定の気温になっていることと一定の雨量が得られていることである。遅霜で枯れたり、大雨で水浸しになったり表土が流されてはならない。そのようなときにしか使えない「しげし」という言葉を「こと」(「人言ひとごと」)に当てはめて使っている。すなわち、「人言ひとごとしげし」などと使う場合、その「こと」(「人言ひとごと」)とは、歌を歌う人が男女関係ができた当事者となっていて、そのことについて周りからキャーキャー言われていることを表している。あの人とあの子とができてるんだって、ヒューヒュー、といった噂である。国家転覆を謀っているという噂、汚職贈収賄の噂、大麻等薬物使用の噂などは含まれない。それら犯罪にまつわるような噂は、雑草が繁るように種々にあれこれ向きを違えて立つことはなく、また、誰もが関心を持つことも当事者が属している世間全体に広まるものでもない。
 すなわち、「しげし」となる「こと」(「人言ひとごと」)とは、誰かさんと誰かさんが麦畑、チュッチュチュッチュしている、ということ以上のものではない。当人たちが「こと」(「人言ひとごと」)を煙たいと思うのは、いきなり写真週刊誌に報じられて世間から注目され、面食らうからである。
 念のために万葉集に使われている「こと」(「人言ひとごと」等を含む)に「しげし」(「しげみ」等を含む)が絡んで使われる例を確認しておこう。40例ある。

 心には 忘るる日無く おもへども 人のことこそ しげき君にあれ〔人之事社繁君尓阿礼〕(万647)
 はむ夜は 何時いつもあらむを 何すとか そのよひ逢ひて ことしげきも〔事之繁裳〕(万730)
 ことしげき〔事繁〕 里に住まずは 今朝けさ鳴きし かりたぐひて 行かましものを(万1515)
 いはそそく 岸の浦廻うらみに 寄する波 来寄きよらばか ことしげけむ〔言之将繁〕(万1388)
 黄葉もみちばに 置く白露の 色葉いろはにも 出でじと念へば ことしげけく〔事之繁家口〕(万2307)
 しましくも 見ねばほしき 吾妹子わぎもこを に来れば ことしげけく〔事繁〕(万2397)
 近江あふみの海 沖つ島山 おくまけて 吾がふ妹が ことしげけく〔事繁〕(万2439)
 人言ひとごとの しげりて〔人事之繁間守而〕 逢ふともや なほ吾がうへに ことしげけむ〔事之将繁〕(万2561)
 摺衣すりころも りといめに見つ うつつには いづれの人の ことしげけむ〔言可将繁〕(万2621)
 淡海あふみの海 沖つ島山 奥まへて 我がふ妹が ことしげけく〔言繁苦〕(万2728)
 ただに逢はず あるはうべなり いめにだに 何しか人の ことしげけむ〔事繁〕 (万2848)
 波のむた 靡く玉藻の 片思かたもひに 吾がふ人の ことしげけく〔言乃繁家口〕(万3078)
 年きはる 世までと定め たのみたる 君によりてし ことしげけく〔事繁〕(万2398)
 ことしげみ〔事繁〕 君は来まさず 霍公鳥ほととぎす なれだに鳴け 朝戸あさと開かむ(万1499)
 旅にすら ひも解くものを ことしげみ〔事繁三〕 丸寝まろねがする 長きこの夜を(万2305)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人事乎繁美許知痛美〕 おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(万116)
 人言ひとごとの しげきこのころ〔人言之繁比日〕 玉ならば 手に巻き持ちて 恋ひずあらましを(万436)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔他辞乎繁言痛〕 逢はずありき 心あるごと な思ひ背子せこ(万538)
 吾が背子し げむと言はば 人言ひとごとは しげくありとも〔人事者繁有登毛〕 でて逢はましを(万539)
 現世このよには 人言ひとごとしげし〔人事繁〕 む世にも 逢はむ吾が背子 今ならずとも(万541)
 初花はつはなの 散るべきものを 人言ひとごとの しげきによりて〔人事乃繁尓因而〕 よどむころかも(万630)
 あらかじめ 人言ひとごとしげし〔人事繁〕 かくしあらば しゑや吾が背子 奥もいかにあらめ(万659)
 人言ひとごとを しげみか君が〔人事繁哉君之〕 二鞘ふたさやの 家をへだてて 恋ひつつまさむ(万685)
 人言ひとごとは 夏野なつのの草の しげくとも〔人言者夏野乃草之繁友〕 いもわれとし たづさはりば(万1983)
 人言ひとごとを しげみと君に〔人事茂君〕 玉梓たまづさの 使つかひらず 忘ると思ふな(万2586)
 人言ひとごとの しげると〔人事茂間守跡〕 逢はずあらば 終<rtつひ>にや子らが おも忘れなむ(万2591)
 人言ひとごとを しげみと君を〔人事乎繁跡君乎〕 うづら鳴く 人の古家ふるへに 語らひてりつ(万2799)
 人言ひとごとの しげき時には〔人言繁時〕 吾妹子わぎもこし ころもにありせば 下に着ましを(万2852)
 逢はなくも しと思へば いやしに 人言ひとごとしげく〔人言繁〕 聞こえ来るかも(万2872)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人言乎繁三言痛三〕 我妹子わぎもこに にし月より いまだ逢はぬかも(万2895)
 ただ今日けふも 君には逢はめど 人言ひとごとを しげみ逢はずて〔人言乎繁不相而〕 恋ひ渡るかも(万2923)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人言乎繁三毛人髪三〕 我が兄子せこを 目には見れども 逢ふよしもなし(万2938)
 人言ひとごとを しげみと妹に〔人言繁跡妹〕 逢はずして こころのうちに 恋ふるこのころ(万2944)
 ねもころに 思ふ吾妹わぎもを 人言ひとごとの しげきによりて〔人言之繁尓因而〕 よどむころかも(万3109)
 人言ひとごとの しげくしあらば〔人言之繁思有者〕 君も吾も 絶えむと言ひて 逢ひしものかも(万3110)
 人言ひとごとの しげきによりて〔比登其登乃之氣吉尓余里弖〕 まをごもの 同じ枕は はまかじやも(万3464)
 潮船しほぶねの 置かればかなし さ寝つれば 人言ひとごとしげし〔比登其等思氣志〕 かもむ(万3556)
 うら若み 花咲き難き 梅をゑて 人のことしげみ〔人之事重三〕 おもひそがする(万788)
 きはまりて われも逢はむと 思へども 人のことこそ しげき君にあれ〔人之言社繁君尓有〕(万3114)
  五年正月四日に、治部少輔石上朝臣宅嗣の家にして宴せる歌三首
 ことしげみ〔辞繁〕 あひ問はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも(万4282)
  右一首、主人石上朝臣宅嗣

 これらの例にある「こと」、「人言ひとごと」は、男女の間に関係ができたことに関する噂である。最後の万4282番歌のみ、梅の花に言葉をかけることのようなものとして用いられているが、これは、恋愛関係にある男女の間についての周囲の噂のことを、あたかも梅を恋人であるかのように擬して利用したもので、宴の席での戯歌である。興味深いことに、「こと」(「人言ひとごと」等を含む)と「しげし」(「しげみ」等を含む)とが絡んで慣用句的に使われた例はほぼ巻十二までであり、その後は巻十四の万3464番歌、そして巻十九の万4282番歌に見られるのみである。歌の表現として飽きられたからなのか、鄙の歌を採集する時には人口が少なくて噂で持ちきりになるようなことがなかったからか、社会変化のために恋愛事情が変わって行ったからか、「人言ひとごと」が「他人事ひとごと」になったといった意識の変化があったからか、定かではない。
 「しげし」を伴わなくても、「こと」(「人言ひとごと」)だけで男女の誰かと誰かが付き合っている、どこまで行ったか、といった噂のこととして捉えられる例も見られる。

 垣穂かきほなす 人言ひとごと聞きて〔人辞聞而〕 吾が背子が こころたゆたひ 逢はぬこのころ(万713)
 恋ひ死なむ そこも同じそ 何せむに 人目ひとめ他言ひとごと 言痛こちたがせむ〔人目他言辞痛吾将為〕(万748)
 人言ひとごとは〔人事〕 しましそ吾妹わぎも 綱手つなて引く 海ゆまさりて 深くしそおもふ(万2438)
 人言ひとごとの〔人言之〕 よこしを聞きて 玉桙たまほこの 道にも逢はじと 言へりし吾妹(万2871)
 人言ひとごとは まこと言痛こちたく〔他言者真言痛〕 なりぬとも そこにさはらむ われにあらなくに(万2886)
 まかなしみ ればこと さなへば 心のろに 乗りてかなしも(万3466)

 以上のように、「ことしげき」とは男女の間に関係ができたと周囲の人が噂を立てて騒ぐことであり、その噂のなかに好意や悪意があるかどうかとは無関係で、評価は中立的である。
 八代女王の歌にある「ことしげきを」についても、天皇と八代女王との間に男女関係ができたという噂であって、そこにやっかみや嫉妬などがあるかどうかについては述べていない。
 では、なぜ八代女王は噂が立っていることを嫌がって、あるいは、汚らわしく思って、禊ぎに行くと言っているのか。
 簡単なことである。
 男女関係ができているというのは、両性の合意により成っているのが基本である。ところが、歌のなかで八代女王は「君により」と言っている。聖武天皇一人が言い寄ってきているために噂が立っていると言っている。これだけを聞けばわかることである。八代女王のほうに天皇への気持ちはない。
 八代女王が聖武天皇から寵愛を受けていたのは確かであろう。彼女がどういう思いであったか時系列で追うことはできないが、二人はできていると人の噂になっているのを嫌だと思ったから、万626番歌のような歌を声に出して言い放った。一・二句目だけで、ああ、そういうことか、と周知に至る内容である。
 筆者の推測にすぎないが、絶対的な権力を握っている天皇からお召しがあれば、初めのうちは疑うことなく参内して相手になっていたことだろう。その時、別段、恋愛感情を意識するようなことはなかった。ところが、天皇からはたびたび御召しがあるようになった。寵愛を受けているということである。周りから嫉妬の目で見られたか、中傷されたり、陰口をたたかれていたか、それはわからないし、その点を八代女王は問題にしていない。問題はそこにはない。例えば彼女自身に他に意中の男性がいたとしたら、ただ天皇の寵愛を受けているという噂が立つことだけでも嫌なことである。そうでなくても若い女性が、中年おやじのパワハラ的なセクハラに対して、キモイ、けがらわしい、と思うことはあって当然なことである。天皇からの誘いを今後一切断る方法として、啖呵をきった歌を献上した。それが万626番歌である。歌とは大きな声をあげて「こと」を伝えることだから、周囲にバレバレになって事は解決するのである。

 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香あすかの川に みそぎしに行く(万626)
 聖武天皇、あなたによってまるで愛し合っているかのような噂が立っています。私は自分の身が穢れたように感じています。明日香の川に禊ぎをしに行きます。

 若い八代女王にとって冗談ではないのである。どうして天皇の遊び女にならなければならないのか。無位だったのがなぜか年頃になったら位を授けてくれていたけれど、そういう魂胆だったのね、けがらわしい。私は嫌、さようなら。それが言いたくて歌を歌っている。後は付け足し、尾鰭である。実際に明日香や三津へ出掛けていって禊ぎをしたかどうかなどどうでもいいことである。要するに、権力を笠に着て忍従させられ弄ばれる関係から逃れたく、振りほどいて、断ち切ってしまいたいのである。だから、フルを被る「故郷ふるさとの」と歌い、タツを被る「龍田たつた越え」と歌っている。
 次の例では白波の立つ、と龍田山のタツとを掛けている。

 わたの底 おき白波しらなみ 龍田山たつたやま 何時いつか越えなむ いもがあたり見む(万83)

 音を地口的に遊ぶために言葉を用いることは万葉集の常態であった。地名を導き出すために序詞を設けているばかりでなく、その反対の、言葉を訴えたいために地名を設定することも行われた。すなわち、万626番歌では、禊ぎの場所としてどこへ出掛けるかは問題ではなく、どういう音(言葉)が歌の主旨にかなうかによって詠まれている。その部分は「尾」鰭である。相聞贈歌に異伝を持つことは異例であったとしても、訴えたいことをきちんと伝えるため異例なことをしてわざわざ交換可能な「尾」鰭をつけて歌っている(注4)。禊ぎの場所は別のところでも一向にかまわない。関係をキルを言いたければ、「霧が峰 垂水たるみふちに 禊ぎしに行く」なども候補であろう。
 以上、八代女王の献歌について検討した。古代の言葉づかいは端的で、必要十分な最小限を記録することで事の真相を表明することとなっている。だからこそ三十一文字(音)で済む。現代的な感覚で解釈しようとしても本質理解には至らないことがよくわかる例である。

(注)
(注1)影山2017.は、「作歌事情の詳細を伝えない詠への接近は宿命的に動揺する」としつつ、「天平宝字二年の記事と当該歌との短絡が不当であることは確認しておくべき」であるとする。「短絡」はいけないが、確かに論証されるのであれば両者は関係する事項として認めざるを得ない。なぜなら、ほかに事跡のない人物の情報が、よりによって歌に一首、事立てた記事に一か所あれば、その人はそのことでのみ記録されていると考えられるからである。記録する側にモチベーションが働いている。同様の例に、麻続王をみのおほきみの例がある。天武紀四年四月条に流罪になったとする記事が載る。万23・24番歌の左注に紀を引用しているように、関係づけて考えることに不自然なところはない。
(注2)阿蘇2006.に、「「君により」とあるので、女王の恋情のせいではなく、天皇の寵愛のせいで人々に嫉まれ中傷され辛い立場にあることを訴えようとしたものであろう。……聖武天皇の寵愛がかなり目立ち、周囲の反発をかうほどであったことを示している。」(633~634頁)とある。
(注3)伊藤1996.に、「神祭りか何かで明日香へ旅することがあった時、恋の噂を払うために行くとことさら大げさにうたうことで、日頃、恋心に苦しんでいるという思いを託したものか。「献歌」には作品を奉ずるという傾向がある。これも恋を主題にしたもので、こんな歌ができましたという次第で献じたものであろう。」(545頁)とある。
(注4)影山2017.に、「ごくふつうに考えて相聞贈答に異伝を伴うこと自体がまず不自然であり、加えてそれが天皇への献歌であるとしたときに抱かれる不審感は小さくない。献呈に際して詠作者がどれほど心を砕いてことばを紡ぎ、表現を練り、より高い純度の完成形を目指そうとしたか、が容易に想像できるからだ。」(61頁)とあって、迷宮入りしている。「常識的に見て寵愛を受けることは歓迎すべき状態であり、それを迷惑と嫌悪したり、ましてや穢れとして忌避したりする慣習は、ふつうは成立するはずがない。」(66頁)ともいう。歌が心情を表していけないとでもいうのであろうか。基本的姿勢としていただけない。

(引用文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(「八代女王の禊ぎ」『武庫川国文』第78号、2014年11月。武庫川女子大学リポジトリhttps://doi.org/10.14993/00000579)
新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀 三』岩波書店、1992年。

※本稿は、2023年8月稿の誤りを2024年7月に正し、大幅に改稿したものである。

佐伯宿禰東人と妻の相聞歌

2024年07月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四の「相聞」の歌である。

  西海道さいかいだう節度使せつどし判官じょう佐伯さへきの宿禰すくね東人あづまひとつまの君に贈る歌一首〔西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻贈夫君歌一首〕
 あひだなく ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が いめにし見ゆる〔無間戀尓可有牟草枕客有公之夢尓之所見〕(万621)
  佐伯宿禰東人のこたふる歌一首〔佐伯宿祢東人和歌一首〕
 草枕 旅に久しく なりぬれば をこそ思へ な恋ひそ吾妹わぎも〔草枕客尓久成宿者汝乎社念莫戀吾妹〕(万622)

 現在の一般的な解釈を多田2009.の訳出で確認する。

  西海道の節度使の判官佐伯宿禰東人の妻が夫の君に贈った歌一首
 絶え間なく恋しく思っているからなのか、草を枕の旅にあるあなたが夢に見えることだ。
  佐伯宿禰東人が答えた歌一首
 草を枕の旅にも久しくなったので、お前のことをこそ思っている。そんなに恋に苦しまないでくれ。わが妻よ。(95~96頁)

 これでは意が通じない。少しもおもしろくない(注1)
 佐伯宿禰東人あづまひとが西海道の節度使の判官として単身赴任していた時の歌のやりとりである。アヅマヒトという名の人の妻が、アヅマヒトのことを思うとなると東国の人のことを思うことになる。しかし、当の佐伯東人は今、西海道にいる。妻の夢に出て見えたというのは、ひょっとして東国にいる人のことで、自分のことではないかもしれない。妻は寂しさにかまけて浮気をしかねない様子である。そんなことは嫌だという思いを歌に作って、機知あふれる和歌としたのが万622番歌である。こういう歌を返してもらったら、何言ってんだか、あの人、とにやにやしながらまんざらでもなく思うものだろう。

 「をこそ思へ」、君のことを私のほうが思うことはあっても、「な恋ひそ吾妹わぎも」、決して恋い焦がれてくれるな、と言っている。彼の名はアヅマヒトである。ヤマトタケルは東方遠征の帰り道、足柄の坂で「吾妻あづまはや」と妻を偲んで三度歎いたものだった(注2)。この話はよく知られ、上代の人たちの通念としてあっただろう。だから、男の自分のほうが妻の不在を歎くのが正しいのである。そして、もし「」がアヅマヒト、アヅマヒトと恋してしまったら、きっと本当のアヅマヒト、普通名詞の「」であるアヅマヒト、東国の人に巡り合って恋に落ちてしまい、気持ちは自分から移ってしまうであろうというのである。
 「の君」である西海道節度使判官佐伯宿禰東人は落ち着かない。最愛の妻が東国の人に取られかねない。セの君なのであるが、妻の言ってきた歌を「」と肯定できる状況ではない。だから、「な恋ひそ吾妹わぎも」と禁止、否定してかかっている。禁止を表す「」が「」を湧出させることも懸けて作っている。
 歌に題詞が付いている。わざわざ書いてあるのは、歌がどういう舞台設定で歌われているのか、きちんと示すためである。すなわち、アヅマヒトという名の人が関わらないのであれば、このような歌は少しもおもしろくない歌、ひいては歌として体を成していないもの、歌とは呼べない代物ということになる。題詞とからめて味わうことで、初めて本当の歌の姿、言語ゲームとしての歌意が伝わる。これまでの解釈はハズレであった。
 
(注)
(注1)多田氏は講釈を加えている。何をか言わんや。
▷恋と魂逢いと夢─相手との直接の出逢いが妨げられた時、相手の魂との逢会ほうかいを求めて魂が遊離する状態が恋。魂の遊離は主体の統御を超える作用だから、恋は受動的である。魂逢いが実現すれば、互いに夢を見る。六二一歌では、妻が自分の恋によって、夫を夢見たとうたっている。一方、反対に相手が恋したので、相手が夢に現れたとうたった例もある。→六三九。魂逢いによる夢は、どちらにも及ぶ相互作用だったことがわかる。魂は生命力の本質でもあるから、魂の遊離は持ち主にとっては危険な状態を引き起こしかねない。そこで、六二二歌では、「な恋ひそ我妹」と相手を気遣うことになる。(95~96頁)

(注2)拙稿「ヤマトタケルの「あづまはや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/07b383a718f7e70925f7b5be16a45c5b参照。
 題詞の「西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻」の「妻」を「め」と訓む釈が目につく。新大系文庫本では「つま」とありながら「くん」とルビが付いている。「吾妻あづまはや」の逸話に近づけておらず、上代の人の心に届いていない。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解 2』筑摩書房、2009年。

留京歌(万40~44)について

2024年07月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 持統六年三月、天皇は伊勢へ行幸した。中納言三輪朝臣高市麻呂は時期が悪いから延期するように諫言したが天皇は強行した。その時に歌われた歌が万葉集巻一の万40〜44番歌である。最初の三首は柿本人麻呂の歌で、当麻真人麻呂たぎまのまひとまろの妻、石上大臣いそのかみのおほおみが一首ずつ加えている。  

  伊勢国いせのくにいでます時に、みやことどむる柿本朝臣人麻呂の作る歌〔幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌〕
 嗚呼見あみの浦に 船乗ふなのりすらむ 娘子をとめらが 玉裳たまもすそに しほ満つらむか〔鳴呼見乃浦尓船乗為良武𡢳嬬等之珠裳乃須十二四寳三都良武香〕(万40)
 くしろく 答志たふしさきに 今日けふもかも 大宮人おほみやひとの 玉藻たまも刈るらむ〔釼著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武〕(万41)
 潮騒しほさゐに 伊良虞いらご島辺しまへ 漕ぐ船に いも乗るらむか 荒き島廻しまみを〔潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎〕(万42)
  当麻真人麻呂たぎまのまひとまろの作る歌〔當麻真人麻呂妻作歌〕
 背子せこは いづくくらむ 沖つ藻の 名張なばりの山を 今日けふか越ゆらむ〔吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六〕(万43)
  石上大臣いそのかみのおほまへつきみ従駕おほみともなりて作る歌〔石上大臣従駕作歌〕
 吾妹子わぎもこを いざ見の山を 高みかも 大和やまとの見えぬ 国とほみかも〔吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞〕(万44)
  右は、日本紀に曰はく、「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰に、浄広肆じやうくわうし広瀬王ひろせのおほきみ等を以て留守官とどまりまもるつかさと為す。是に中納言ちうなごん三輪朝臣高市麻呂みわのあそみたけちまろ、其の冠位かがふりきてみかど擎上ささげ、重ねていさめてまをさく、『農作なりはひさきに、車駕みくるま、未だ以て動くべからず』とまをす。辛未に、天皇、諌めに従ひたまはず。遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔にして庚午に、阿胡行宮あごのかりみやいでます」といふ。〔右日本紀曰朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰農作之前車駕未可以動辛未天皇不従諌遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡行宮〕

 これらの歌はいわゆる行幸従駕歌と見られている(注1)がそうではない。四首目まで行幸時に京を守るために残された側から歌われている。この時の行幸では、三輪高市麻呂が反対し、冠位を捨てる覚悟で諫言している。なぜ天皇は行幸を決行したのか、なぜ三輪高市麻呂は猛烈に反対したのか、その理由等については、これまでにも諸説あげられてきたが、なお要を得た回答は得られていない。
 ただ言えるであろうことは、都に留まる側から行幸する人への思いを歌った歌が冒頭から四首も続いているのだから、三輪高市麻呂の立場と同じ思いを歌っている可能性が高いという点である。この歌を万葉集に採録した人はそのことを理解していて、適切に左注を施したのだろう。
 三輪高市麻呂は、諫める理由に「農作なりはひ」をあげている。憲法十七条の第十六条に、「十六に曰はく、おほみたからを使ふに時を以てするは、古の良きのりなり。かれ、冬の月にいとま有らば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農桑なりはひこかひときなり。民を使ふべからず。其れなりはひせずは何をかくらはむ、こかひせずは何をかむ。」(推古十二年四月)とある。季節的にも「春三月」なら田植えの時期に近い農繁期に当たり、人民は多忙を極めていたことであろう。農作業に支障が出ては農本主義は成り立たない。当然の主張である。一連の歌のなかでは、万43番歌が農作業にかかわらせて歌を詠んだものと思しい。

 背子せこは いづくくらむ 沖つ藻の 名張なばりの山を 今日けふか越ゆらむ(万43)

 人麻呂の三首に続いて当麻真人麻呂たぎまのまひとまろの妻が歌を作っている。タギマノマヒトマロのことを思ってのことであろう。どうして登場しているのか。タギマという音が、タク(動詞)+ウマ(馬)のこと、馬の手綱をたくし上げるように操ることと関係していると思ったからであり、思わせたいからであろう。春の農作業、田作りをとりあげている。馬を使う作業としては、田起しや田均しがある。馬に馬鍬を引かせて代掻きをした。「農作之前」にすることである。なのに、当麻真人麻呂は従駕させられ、あろうことか農耕に使うべき馬に乗って出かけてしまった。田作りは疎かになってしまっている。我が夫はどこを進んでいるのだろう、藻が流れていってどこへ行ったかわからないように隠れてしまうという、そのナバリの山を今日あたり越えているのだろう、いい気なものだ、とぼやいている。伊勢への行幸だから、海にまつわることを持ち出すために「沖つ藻の」という枕詞を登場させ、ナバリという地名を歌っている。流れ流れてどこへ行ったものか、代掻きもしないで、という意味である。そのとき、ナバリには、ツナ(綱)+ハリ(張)の意を込めていたのだろう。条里制の田で一気に代掻きをするために、嫌がる馬を泥田へと手綱を張って引き入れて馬鍬を引かせていた。

 吾妹子わぎもこを いざ見の山を 高みかも 大和やまとの見えぬ 国とほみかも(万44)

 さらに石上大臣いそのかみのおほおみの歌が載っている。彼はイソノカミという名を負っている。いそいそと勇んで見ようとしている。従駕しているから、大和の方を見るために振り返っている。ちょうどイザミという山のあるところを通過している。さあ、見ようというのだが、イザミの山が高いからか、大和国が遠いからか、大和は見えない。進みながら振り返って見ようとすることは、振り返りつつ離れて行っている。上代では「振りけ見る」という。そういう行為に石上大臣いそのかみのおほおみは適任である。なぜなら、イソノカミという音は、イシノカメという音の転訛したものと思われるからである(注2)。石のかめ(メは乙類)は酒を入れておく容器である。石を穿って作ったものではなく、石のような風合いの須恵器のことを指している。「さけ」(ケは乙類)は「け」(ケは乙類)と同音である。どんなに勇んで見ようとしても、それにふさわしい名を負っている私が見ても、大和を目にすることはできない。早く帰ろうよ、と歌っている。
 人麻呂作の三首も、同じように諫言の気持ちをもって歌われたものと考えられる。伊勢(志摩を含む(注3))地方の地名を詠み込みながらなじるような歌になっている。

 嗚呼見あみの浦に 船乗りすらむ 娘子をとめらが 玉裳たまもすそに 潮満つらむか(万40)

 万40番歌では、「玉裳たまもすそに潮満つらむか」と言っている。今は「農作之前」である。尻をからげながら泥田の水に浸かって作業をすべきところである。タヅクリ(田作り)の時、きれいな衣装を身に纏うこと、タヅクリ(手作り)などしない(注4)。「大和やまとの 忍 おし の広瀬ひろせを 渡らむと 足結あよひ手作たづくり 腰づくらふも」(紀106)とあり、「手作たづくり」は手で衣類の紐を結ぶなどして身づくろいすることをいう。盛装していながら海辺で遊んでいる場合ではないのである。
 この歌で、「らむ」は二つ使われている。現在そうしているだろうと推量しているわけだが、後者のそれは疑問の助詞「か」を伴っている。裳の裾に潮が満ちているだろう、と言っているのではなく、裳の裾に潮が満ちているのだろうか、と疑問を投げかけている。情景を到底見ることなどできない都にいながら、推量に疑問を加えている。意図してそう歌っているとしか考えられない。場所は「嗚呼見あみの浦」である。当時の船の停泊形態としては、大型船の場合、ラグーンのようなところへ乗り入れて潮が引くのを待ち、干潟に乗り上げるようにしていた。出航形態はその逆をたどる。水位が増してきて船が浮かび、初めて航行が可能となる。
 ところが、その場所はアミノウラである。アミ(網)+ノ(助詞)+ウラ(浦)ということは、浦という、海からみて奥まったところに海の水が満ちるのを待たなければならない。船の周りに潮を持って来ることを考えると、桶や盥で汲んできて満たせば何とかなるのだが、網では水を汲もうにも汲むことはできない。だから、いつまで待ってもちっとも船出はできないのではないか。「玉裳たまもすそに潮満つらむ」ことなんてないのではないか、と皮肉を言っているのである。

 くしろく 答志たふしさきに 今日けふもかも の 玉藻たまも刈るらむ(万41)

 この歌の原文では、元暦校本などにより「今日」としているが、西本願寺本には「今」とある。「今もかも」と訓む可能性が残されている(注5)。筆者は、歌意を理解するうえで、「今もかも」が正しいと考える。
西本願寺本万葉集(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242401/1/20~21をトリミング接合)
 万40番歌で歌っていた「玉裳たまも」を引き継いで、「玉藻たまも」を歌っている。当たり前の話であるが、玉藻たまもを刈るのは漁民の仕事であって、大宮人おほみやひとのすることではない。では、宮廷社会の人間がタマモカルことがなかったかといえば、一度事件になったことがある。麻続王をみのおほきみ事件である。麻続王がその子どもを相手に、天皇の冠、中国で皇帝が被る玉藻ぎょくそうと呼ばれる冠を被せて遊んでいた。天武天皇は激怒し、子どもを含めて流罪にした。天武四年(675)のこの事件のことは万葉集の万23・24番歌にも録されており、17年経過した持統六年(692)でも人々の間に記憶されていたことであろう。玉藻ぎょくそうを借りるのと玉藻たまもを刈るのとを絡めた洒落の歌が歌われた(注6)。すなわち、万41番歌においては、今でも玉藻を借りて遊ぶ輩がいるらしいと皮肉を言っていることになっている。
 この解釈が正しいのは、序詞風に歌われている上の句が証明している。「くしろく 答志たふしさきに」の「くしろく」はタフシという地名の頭音、タ(手)を導く枕詞である。くしろというブレスレットは、手に巻くからたまきとも呼ばれる。そんな手の関節、タフシ(手節)のことを表してしまう地名、答志たふしの、さらに先のことを問題にしている。手首の関節よりも先にあるのは指である。古語にオヨビと言った。和名抄に、「指 唐韻に云はく、指〈諸視反、由比ゆび。俗に於与比およびと云ふ〉は手の指なり、指扐〈音は勒、於与比乃万太およびのまた〉は指の間なりといふ。」とある。ヨの甲乙は不明ながら仮に乙類であるとすると、オヨビは動詞オヨブ(及)の連用形と同音である。「及ぶ」とは、至る、達する、の意で、時間的にも、空間的にも使われた。今に至るまでもまだ玉藻ぎょくそうを借りて玉藻たまもを刈るようなことになっているのだろう、と皮肉っている。
 では、この人麻呂の歌はいつ歌われたのか。実際に行幸へ出掛けてしまってから都で歌われたものが、使者によって伊勢へ届けられたとは考えにくい。題詞を注意深く読むと、「幸于伊勢国時、留京柿本朝臣人麻呂作歌」と書いてある。行幸へ出掛けようとする寸前に、天皇一行がまだ都にいるときに歌われた歌である可能性がある。三輪高市麻呂が諫言したのとほど近い時に歌われたものであると推測される。

 潮騒しほさゐに 伊良虞いらご島辺しまへ 漕ぐ船に いも乗るらむか 荒き島廻しまみを(万42)

 この歌は、「船にいも乗るらむか」とあり、船に彼女は乗船するのだろうか、と疑問を呈している。潮がさわさわと音を立てていて、島のめぐりは荒波が立っている。そんな伊良虞いらごの島のあたりで船に乗ろうとしないのではないか、というのである。行幸へ行っても波が荒くて船に乗りたがらない女性たちがいて、ちっともおもしろくないよ、と言いたいのである。行幸に反対する意を表明している。
 イラゴというからには、イラ(苛・莿)なる性格を有するところだろうと推測している。都から遠く離れたところの実際の地誌については知られていない(注7)。それでもイラゴノシマというところなのだから、イラ(苛・莿)なる島であろうと知恵が働いている。少なくとも歌を歌い、その歌われた歌をその場で聞いた人たちの間では、そのように思われたであろうと考えられる。それ以外にイラゴノシマという地名がとり上げられた理由は見出だせない。
 何がイラ(苛・莿)なのか。島の性質なのだから、磯が多くて岩礁、暗礁がめぐっている島だと感じられよう。だから、やたらと潮騒の音がすることになっている。潮流の激しい時に海鳴りがしているのである。ざわざわと音がするのは、潮の流れが海中の巌にぶつかっているからである。海のなかにあって上からは見えない岩石のことを、上代語でイクリ(海石)と言った。「門中となか海石いくりに」(記74)とある(注8)。時に船が接触して難破する危険性がある。
 そんな海石いくりが「島廻しまみ」、つまり、島をめぐっている。だから、イラゴノシマはどこを取ってみても「荒き島廻しまみ」になっている。イクリがメグリにある。ということは、「漕ぐ船」というのは、航行において比較的安定した大型船ではなくて、小さなクリブネであると直感される。クリという音が連想されるからである。遠くを進む刳船を陸上から見ると、波立つところで波に揉まれ、船端は高い波に隠れているに違いない(注9)。ちょうど、海石いくりが海面に隠れて暗礁となっているようにである。刳船には海水が入ってきていつ沈むか知れやしないから、暗礁が周囲にある島であえて船に乗ろうとするだろうか。女官が尻込みするような危険なことを無理強いしてどうなるのか、伊勢行幸は止めたらよいのではないか、というのがこの歌の主張である。
 以上、伊勢行幸時の留京歌(万40〜44)ほかは、三輪高市麻呂と同じく行幸を思い留まらせようとして歌われた歌であった(注10)。題詞の「幸于伊勢国時、留京柿本朝臣人麻呂作歌」にある「留」字は、自動詞トドマルではなく、他動詞トドム(下二段)の連体形と、上二段活用のトドムの連体形を兼ねた表現である。他動詞のトドムは、引き留める意であり、上二段の用例は山上憶良の歌に限られる。「留みかね」の形で使われており、留めておくことができないニュアンスを含んでいたかと思われる。これらの反対意見を排して持統天皇は行幸に出立した。行幸は公式行事である。御用歌人の人麻呂が自発的に留まると言って留まることなどできるはずはなく、随伴しなければならないのだが、減らず口を挟むのなら留まっていなさいと命じられて留まっていたということだろう。

(注)
(注1)これまでの、なぜ左注が記されているのかを無視した解釈や、そこに「農作なりはひ」とまで明示されている点を顧慮しない臆説については、各種注釈書や参考文献を参照されたい。
(注2)拙稿「「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/63ce526724ddc00295935ef605f00c7b参照。
(注3)「……及び伊賀いが伊勢いせ志摩しまのくに国造くにのみやつこども冠位かうぶりを賜ひ……」(持統紀六年三月)とあって、この頃に分国したと考えられている。
(注4)タツクリと、共に清音であったかもしれない。紀歌謡原文には「陀豆矩梨」とある。
(注5)中西1978.70頁に適切な注釈が施されている。
(注6)拙稿「玉藻の歌について─万23・24番歌─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a892d49d86103f4b75e31d62cff4c78/?cid=defef9518fa2bff0745395aee2ec3fad参照。
(注7)無文字時代に知識の集積体である歌枕的な発想はない。歌をやりとりする上で皆が共有してはじめて歌枕は利用可能となる。万葉集に見られる上代においては、言葉(音)だけが頼りであり、言葉と一体となる事柄だけが求められた。文字が読めない人ばかりの時、そうでなければ通じないからである。本来の意味での言霊とは、言=事なる一致点を強調した考え方による。
(注8)イクリ(海石)という言葉は、「涅 唐韻に云はく、涅〈奴結反、和名は久利くり〉は水中の黒土なりといふ。」と関連がある語と考えられている。「農作」、つまり、田作りの時に行幸を決行しようとする天皇への諫言を助勢する歌である。タツクリ・・と韻を踏んでいる。和名抄にも、「佃 唐韻に云はく、佃〈音は田と同じ、和名は豆久利太つくりた久利〉は作り田なりといふ。」とある。そしてまた、砂浜で見ることができる大きめの貝にハマグリ・・がある。石ころのようなものをクリと呼んでいるわけで、イクリはイソ(磯)+クリ(栗)の約かもしれない。和名抄に、「栗 兼名苑に云はく、栗〈力質反、久利くり〉は一名に撰子といふ。」とある。
(注9)クル(刳)、クリブネ(刳船)という言葉の確例は上代に見られない。ただ、単材式刳船、いわゆる丸木舟は、岩礁の多い海岸の小型漁船として近代まで活躍していた。ぶつかっても全壊することは少なく、重心も低く傾いても復元力を有していた。
(注10)神野志2010.に、澤瀉1957.が「をとめら」→「大宮人」→「妹」と対象を狭めながら歌い進んでいるという指摘(307頁)を推し進め、最終的に公的な立場から離れた私的領域を歌うことになっていて、連作のなかで私的領域までからめるかたちになっているという。そして、「『万葉集』の「歴史」は、私的領域を見出しながら、そこまで組みこんだ世界をあらわしだすのだといってよいであろう。」(215頁)と結論づけている。人麻呂唯我論が始まっているようである。論じてきたように、人麻呂の歌(万40〜42)に続く当麻真人麻呂たぎまのまひとまろの歌(万43)、石上大臣いそのかみのおほまへつきみの歌(万44)は一連の歌であり、左注冒頭の「右」はそれら五首すべてにかかる。当たり前の話だが、人麻呂が宮廷社会の中心にいるわけではないし、歌を中心に世界が回っているわけでもない。

(引用・参考文献)
尾崎2015. 尾崎富義『万葉集の歌と民俗諸相』おうふう、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
神野志2010. 神野志隆光「私的領域を組み込み、感情を組織して成り立つ世界─泣血哀慟歌から考える─」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2017. 多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年。
辻󠄀尾2018. 辻󠄀尾榮市『舟船考古学』ニューサイエンス社、平成30年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。

山部赤人の印南野行幸歌

2024年07月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻六の前半に、笠金村かさのかなむら車持千年くるまもちのちとせ山部赤人やまべのあかひとによる長反歌からなる行幸従駕歌がある。ここでは山部赤人の印南野行幸従駕歌について検討する。

  山部宿禰赤人やまべのすくねあかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南野いなみのの 大海おほみの原の 荒栲あらたへの 藤井ふぢゐの浦に しび釣ると 海人船あまぶねさわき 塩焼くと 人そさはにある 浦をみ うべも釣りはす 浜をみ 諾も塩焼く ありがよひ 御覧母知師 きよ白浜しらはま〔八隅知之吾大王乃神随高所知須稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尓鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尓有浦乎吉美宇倍毛釣者為濱乎吉美諾毛塩焼蟻徃来御覧母知師清白濱〕(万938)
  反歌三首〔反謌三首〕
 おきつ波 邊波安美 いざりすと 藤江ふぢえの浦に 船そ騒ける〔奥浪邊波安美射去為登藤江乃浦尓船曽動流〕(万939)
 印南野の 浅茅あさぢ押しなべ さの 長くしあれば いへしのはゆ〔不欲見野乃浅茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生〕(万940)
 明石潟あかしがた 潮干しほひの道を 明日あすよりは したましけむ 家近づけば〔明方潮干乃道乎従明日者下咲異六家近附者〕(万941)

 これら赤人の行幸従駕歌は、一般に、土地の讃美をもって王権讃美に代えた作とされ、柿本人麻呂の吉野讃歌の様式に則ったものと捉える見方が主流となっている(注1)。筆者はすでにいわゆる吉野讃歌が王権を讃美するためのものではないことを明らかにしている(注2)。当該長反歌も、土地の讃美や王権の讃美ではない。第一に、釣りをしたり塩焼きをしたりすることを歌うことがどうして土地の讃美になるのか皆目わからない。第二に、万940・941番歌では家に帰りたい気持ちを歌っていて、訪れている印南野に名残惜しさが感じられず、長歌と反歌の関係性が不明である。第三に、これらの歌は行幸時に歌われていると考えられるが、歌を聞く対象は従駕している人たちで、つまりは都から来ている人たち、ふだんから王権を支えている宮廷人たちであり、辺鄙なところで自画自賛しても何も始まらないからである。
 虚心坦懐にこれらの歌を聞いた時、印南野はこんなところです、よく来ましたねぇ、目的は達成されましたから、さあ、そろそろ帰りましょうよ、と歌っているように感じられる。歌は歌である。理屈を並べて陳述してみてもその場で耳で聞く人の心には届かない。人々が共感する内容が歌われたから、歌として成立しているものと考えられる。それ以外のものはわからない歌であり、記憶されず、記録もされなかっただろう。
「高所知須」(元暦校本万葉集、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0002621・E0002621をトリミング結合)
 長歌には訓みに難がある箇所が見られる。「高所知須」、「御覧」、「邊波安美」の訓みが定まっていない。「高所知須」については、「須」字を西本願寺本で「流」とするが、元暦校本では「須」とし、右傍に「流イ」としながら朱で見せ消ちがあって「須」が正しいと認識されていた。讃美の歌だという色眼鏡で見てしまうと、「高所知」を採って訓みを歪曲し、「たか知らせる」と誤って訓みたがってしまう。そして、「御覧」については、「ます」や「さく」などと訓まれている。フラットな気持ちで向き合わなければ本文校訂はできない。
 まず、「神ながら」という言葉の意味を捉え直す必要がある。「神ながら」という言葉は、「神の性質として。神であるままに。」(岩波古語辞典340頁)の意とされ、天皇が神性を有して支配することを表すための語であると考えられてきた。しかし、「神」という言葉は人知を超えたところにあることを強調する。人間が神となるにはある特殊な状況が求められる。死んだら神になる(注3)。今、挽歌を歌っているわけではない。「神ながら」という言葉は、天皇が神さながらにうまく「高所知須」ことをしているということではなく、「神」がいて当たり前に通じていること、人の意向を超越し、予定調和的にうまくかなっていることを表しているものである。歌の文句の「やすみしし わご大君」という枕詞による掛かり方が、神業的に絶妙な言い回し、あやなす巧みな言い方であると追いかけながら形容している言葉、それが「神ながら」である(注4)。「神ながら」が登場する他の歌を見ても、「蜻蛉島あきづしま やまとの国」や「葦原あしはらの 瑞穂みづほの国」などと常套句が現れている。ただの「わご大君」や「倭の国」や「瑞穂の国」では「神ながら」とは言えない。「やすみしし わご大君」、「蜻蛉島 倭の国」、「葦原の 瑞穂の国」と、形容表現として慣用化していることに対して言葉に神意が顕れているとして、「神ながら」と称しているのである。当たり前に「やすみしし わご大君」という言葉づかいをするように当たり前に「高所知須」ことになっていると言っている。何が当たり前といって、オホキミと呼んだ時点で支配者であることを認めているのだから、どこだって支配するのは当然のことなのである。嫌だ嫌だという意味のいなむと呼ばれているイナミノというところであれ変わりはない。長歌の冒頭、「やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南野いなみのの」の歌意はただそれだけである。
 ここまでの検討で、長歌で何を歌いたいかかなり明らかになっている。印南野に行幸しているが、ここは天皇が支配している。ここへは行幸で来ているのであって、敵地へ遠征に来ているのではない。天皇の支配が確立しているところである。わかりきったことを歌にしている。そんなことを歌って何になるか。それはそもそも長歌というものの性質にかかわる。だらだらと尻取り式に語句を並べ、対句をとり入れながら歌い進めている歌を聞き取ることができるのは、最初から聞き手が歌の内容を理解しているからである。もし何か殊更の主張があったら、聞く人は徐々に疲れてきて聞かなくなってしまうだろう。だからこそ、歌に予定調和的な言葉が配されており、よく似合っているのである。
 もちろん、わかっていることをだらだら漫然と述べて話にオチがないというのではおもしろくない。オチを期待してだらだら続く言葉列を聞いている。この歌のオチは「きよ白浜しらはま」である。歌っているのは赤人である。赤人という名を負っていて、色について論じるのにもってこいの人物である。最後のオチ、シラハマへ向け、収斂するために歌の中の語句は散りばめられている。「高所知須」、「御覧母知師」の訓みはこれにより定まる。 
 「高所知須」については、七音に訓もうとして「たかろしめす」(紀州本)といった案が出されている。しかし、無理に七音に訓む必要はない。「神ながら」が予定調和、慣用句を示しているのだから、その点を強調するためには五音で訓むことに支障はないし、かえって効果的でさえある。すなわち、「たからす」と訓めばよいのである。「やすみしし わご大君おほきみの かむながら たからす 印南野いなみのの ……」と歌えば、われらが天皇陛下が支配なさるのは当たり前の印南野のことですがね、と前置きをしていることになる。五音で言い切ることで、イナミノが否もうがどうしようが支配するに決まっているじゃないか、と印象づけることに成功している(注5)。歌のオチはシラ・・ハマであり、タカシラ・・スという訓みの正しさが検証されている。シラの音が掛かっている。
 次に「御覧母知師」について考える。「覧」字は万葉集中に他に六例ある。「梅の散るらむ〔梅乃散覧〕」(万1856)、「行くらむわきも〔徃覧別毛〕」(万2536)、「妹待つらむか〔妹待覧蚊〕」(万2631)、「くるらむわきも〔明覧別裳〕」(万2665)、「乳母おももとむらむ〔於毛求覧〕」(万2925)、「今日か越ゆらむ〔今日可越覧〕」(万3194)である。みな助動詞ラムを表している。
 「御覧母知師」は素直にミラムモシルシと訓めばよい。現在の推量を表す。「ありがよひ らむもしるし」、つまり、いつも通ってきて見ることになっているらしい徴候として「きよ白浜しらはま」はあるのだ、と言っている。「しるし」は名詞、助詞モは不確かさを表している。印南野に来るのははじめてで、今後も通ってきて見るように常態化するかどうかは本当のところはわからないため、不確かさを表す助詞モを伴っている。どうしてそのように奥歯に物が挟まったような言い方をしているのか。簡単である。帰りたいのである。また来ればいいじゃないかと思っている。だから、常に通って見るだろうと言い、その証拠に、きれいなシラハマがあることを示している。地名としてはイナミ(否)だけれど、実態としては支配、領有されることを嫌がってなどいない。完全にヤマト朝廷の版図内である。シラハマ(白浜)があるとおりシラス(知・領)ところなのだからいつでも来れますよ、と言っている。ホームシックの気持ちを歌う反歌(万940・941)との整合性もとれている(注6)。行幸に従っている宮廷人たちの間に帰りたい気持ちが募っていたから、その気持ちを代表して歌にして声をあげている。これまで論者が述べていたように万940・941番歌で私情を詠むことの意味を問題にする必要はない。なぜなら、土地褒めも王権讃美もなく、〈公〉と〈私〉の区別もないからである。長歌から一貫して、ねえ帰ろうよと歌っているだけである。頭をひねって何事であるかを議論する対象ではない(注7)
 第一反歌の「邊波安美」の訓みについては、ヘナミヲヤスミ、ヘナミシヅケミ、ヘツナミヤスミ、ヘナミヤスケミなどが案としてあげられている。澤瀉1960.は「波に対して「安し」と云つた例は無」(73頁、漢字の旧字体は改めた)いとし、鈴木2024.は「赤人の作品中、……「を」はすべて「乎」ないし「矣」で表記され、読み添えとなる例はない。」(155~156頁)と指摘して、ヘナミシヅケミと訓む説を主張する。傾向としてはそうかもしれないが、例外を排除するものではない。
 長歌において、「御覧母知師」を「らむもしるし」と訓むことが確認された。将来的な徴候について語っている。すなわち、この反歌でも、将来の見通しについて安心していられること、以後も波が立たずに気兼ねなく漁に出られることを言おうとしているものと考えられる。それを古語にヤスシ(安・易)という(注8)
 漁をするのに船を出す際、気をつけなければならない波には二通りある。船を出すときの海岸での波と、出てからの波浪である(注9)。海岸に打ち寄せる波は受けても命にかかわらないものの、ひどく水が入ったり船が横倒しになったりしてやり直しになることがある。船出した後の波は操舵の自由を奪われたり、魚がおびえて釣果が乏しかったりする。その両方を対比して言おうとしているから、「おきつ波」と「つ波」と形をそろえているものと考えられる(注10)。よって、ヘツナミヤスミと訓み、「つ波やすみ」の意であると捉えるのがふさわしいだろう。「おきつ波」も「つ波」も、今もそうだがこれからも安らかであるだろう、そう言えるのは、「きよ白浜しらはま」が「らむもしるし」としてあるのだから、という理屈である。もちろん、科学的な言説ではなく、言葉づかいのロジックを語っている。声に出して歌って周囲の人に聞いてもらうのが上代の歌だから、その場で通じて聞いただけで楽しめることを言っているのであった。

(注)
(注1)梶川1997.、神野志2001.など。
(注2)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be68298a70ce0aab17ace7832ecd2e0、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b28999093cc2e134e55a0f0751b4602e参照。
(注3)「現人神あらひとがみ」(景行紀四十年是歳)、「現人之神あらひとがみ」(雄略紀三年四月)、「現人神あらひとがみ〔荒人神〕」(万1020・1021)といった例もあるが、人の形となって現れた神という意味合いが強く、神の万能性を述べたものではない。景行紀の例は、蝦夷えみしに対する威圧のための方便としてその子であるとヤマトタケルが言い放った言葉、雄略紀の例は一事主神ひとことぬしのかみが人の姿となって現れて言った言葉として登場している。万1020・1021番歌の例は、「住吉すみのえの 現人神あらひとがみ」とあり、海神である住吉神を指しており、あるいは人の形に作って船霊として祀られていたものかもしれない。
 また、「あきつ神〔明津神〕」(万1050)と歌の冒頭にあって「わご大君」に被さっているのは、「久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首〈并せて短歌〉」のもとに詠まれた歌で、古の神代の言い伝えによりながら遷都していることを歌ったものだから、神が人の形となって現れていると形容するために冠せられているものと考えられる。拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d0d5cf0a4d2b25a651a0ebd895f8f7da参照。
(注4)天皇が支配することを讃美して「神ながら」と形容しているとしたら、一介の下級役人の分際で評論していることになりはなはだ不遜である。拙稿「「言挙げ」の本質にについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7c75b6111e2415c0f4fc7b72704f61d4、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)神野志2001.や廣川2023.は、「高知らす」や「高知る」、「高知ります」には、「宮」、「高殿」、「大御門」「御舎みあらか」などの言葉を伴って、建物の高さ、壮大さを表すはずであると指摘している。続紀・神亀三年九月条に、「従四位下門部王・正五位下多治比真人広足・従五位下村国連志我麻呂等一十八人を以て造頓宮司とす。播磨国印南野に幸せむとしたまふ為なり。」なる記事があるものの、「頓宮」は仮殿以上のものではない。印南野には立派な離宮は存在しない。そんなところで「高知らす」と口を滑らせている。破格の五音で歌うことで、豪華な別荘もないところにいつまでも留まることに対する疑問の念を表明としてふさわしい。
(注6)第二・第三反歌は、長歌の主題を受け継ぎ、内容を要約するという一般的な反歌のあり方とは異なっていると考えられ、それが定説化している。そのうえでの辻褄合わせの考えが梶川1987.、伊藤1996.、稲岡2002.、清水2005.、阿蘇2007.、神野志2013.、廣川2023.、鈴木2024.に見られる。みな長歌の意が酌めていない誤読である。「行幸の時の歌であっても、……[私情を社会化して]歌うべきものであったというべきなのであり、私情までをからめてとり込んであることを、『万葉集』の世界の本質として見るべきなのである。」(神野志2013.22頁)、「[万940・941番歌の]「望郷の心」も〈君臣の共感〉に裏打ちされたものであると理解できる。」(廣川2023.38頁)、「プロパガンダ的なパフォーマンスという意味が明らかにな[り、]……有徳の天子として喧伝される必要があった。」(鈴木2024.169頁)などと大風呂敷を広げてみても、歌から離れた空理空論でしかない。
(注7)歌は歌われて周囲の人々に聞かれることで成り立っている。印南野に行幸したご一行の気持ちを表すために「山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉」が歌われている。題詞に書いてあること以上/外の事柄、例えば聖武天皇は偉いなあ、といったことは歌われていない。歌詞にないことを読み取ろうとすることは、「こくご」の科目では御法度、零点である。
(注8)ヤスシの意味として、物事のなりゆきに障害や不安がないから安心していられる。その感覚には時間の感覚を含んでいて将来不安がないことをいう。これからも平穏無事だと思えなければヤスシにならず、夜も寝られない。

 たまきはる うちの限りは たひららけく 安くもあらむを 事も無く  も無くもあらむを ……(万897)
 さは 多くあれども ものはず 安く寝る夜は さねなきものを(万3760)

 第一例に「平らけく 安くもあらむ」とあり、当該反歌、万939番歌の用例と合致した使い方である。
(注9)波に風浪とうねりの違いがあることは知られていたであろうが、船を出して「鮪釣」、マグロ釣りをするのに支障があるものとして山部赤人という都会人が考えている。歌の言葉に沖の波と波打ち際の波とを対比させて歌にしている。
 なお、東1935.は、マグロは瀬戸内海にいないから別の魚を候補にあげている。しかし、この歌は忠実に叙景しているとは認められないから、通例のとおりマグロと考えるのが妥当である。「浦をみ」を「うべ」の根拠としている。船を漕ぎ出して沖釣りをする際、魚種を「浦」の様子から想定することはできないではないか。
(注10)「おきつ波」に対して「なみ」のケースが多いものの、「おきつ波」と「つ波」の形も存在する。

 …… 吾妹子わぎもこや が待つ君は おきつ波 来寄きよ白玉しらたま つ波の する白玉 求むとそ ……(万3318)

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1960. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第六』中央公論社、昭和35年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
神野志2013. 神野志隆光『万葉集』の「歴史」世界─巻六をめぐって─」『萬葉』第214号、平成25年3月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/2013
神野志2001. 神野志幸恵「赤人の印南野行幸歌」坂本信幸・神野志隆光編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
清水2005. 清水克彦『万葉論集 第二─石見の人麻呂他─』世界思想社、2005年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。(「山部赤人の神亀三年印南野行幸従駕歌」『東京大学国文学論集』第9号、2014年3月。東京大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.15083/00035090)
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。
廣川2023. 廣川晶照「山部赤人「播磨国印南野行幸歌」について」『美夫君志』第106号、令和5年4月。

紀伊行幸時の川島皇子と阿閉皇女の歌─題詞のフレーミング機能について─

2024年07月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 持統天皇の紀伊行幸時、四年九月に歌われたとされる歌二首である。

  紀伊国きのくにいでましし時に川島皇子かはしまのみこの作りませる御歌みうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉〔幸于紀伊國時川島皇子御作歌〈或云山上臣憶良作〉〕
 白波しらなみの 浜松はままつの 手向草たむけぐさ 幾代いくよまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉〔白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃経去良武〈一云年者経尓計武〉〕(万34)
   日本紀に曰はく、朱鳥あかみとり四年庚寅の秋九月、天皇すめらみこと紀伊国に幸すといへり。〔日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也〕
  の山を越えし時に阿閉皇女あへのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山〔此也是能倭尓四手者我戀流木路尓有云名二負勢能山〕(万35)

 一首目は、川島皇子が作ったとことになっている歌で、山上憶良が代作したものかもしれないということを題詞が伝えている。諸説に、有間皇子ありまのみこの挽歌との関係が指摘されているが、有間皇子の歌は政争に負けて刑死させられたときのただならぬものである。有間皇子の歌は、斉明天皇の「紀温湯きのゆ」(斉明紀四年十月)への行幸時の歌を元歌にして作られている。また、有間皇子の挽歌に感銘して追和した歌もある。

  中皇命なかつすめらみこと紀温泉きのゆいでましし時の御歌〔中皇命徃于紀温泉之時御歌〕
 君が代も が代も知れや 岩代いはしろの 岡の草根くさねを いざ結びてな〔君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去来結手名〕(万10)
 吾が背子せこは 仮廬かりほ作らす 草なくは 小松が下の 草を刈らさね〔吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核〕(万11)
 吾がりし 野島のしまは見せつ 底深き 阿胡根あごねの浦の たまひりはぬ〈或頭に云ふ、吾が欲りし 子島こしまは見しを〉〔吾欲之野嶋波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曽不拾〈或頭云吾欲子嶋羽見遠〉〕(万12)
   挽歌
  後岡本宮御宇天皇代のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ天豊あめとよ財重たからいかし日足姫ひたらしひめの天皇すめらみこと譲位じやうゐの後に後岡本宮にあまつひつぎしらしめす〉
  有間皇子の自らいたみて松がを結ぶ歌二首〔挽謌/後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮〉/有間皇子自傷結松枝歌二首〕
 磐代いはしろの 浜松がを 引き結ぶ まさきくあらば また帰り見む〔磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武〕(万141)
 家にあれば に盛るいひを 草枕くさまくら 旅にしあれば しひの葉に盛る〔家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛〕(万142)
  長忌寸意吉麻呂ながのいみきおきまろの結び松を見てかなしびむせぶ歌二首〔長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首〕
 磐代いはしろの 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも〔磐代乃崖之松枝将結人者反而復将見鴨〕(万143)
 磐代の 野中のなかに立てる 結び松 こころけず いにしへ思ほゆ〈未だつばひらかならず〉〔磐代之野中尓立有結松情毛不解古所念〈未詳〉〕(万144)
  山上臣憶良やまのうへのおくらの追ひてこたふる歌一首〔山上臣憶良追和歌一首〕
 鳥かけり ありがよひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ〔鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武〕(万145)
   右のくだり歌等うたどもは、ひつぎく時に作らえずといふとも、歌のこころ准擬なぞらへるが故以ゆゑに挽歌のたぐひに載す。〔右件謌等雖不挽柩之時所作准擬歌意故以載于挽哥類焉〕

 有間皇子事件は斉明四年(658)のことである。万34番歌、川島皇子の歌は左注によれば朱鳥四年(689)のことである。30年も前の壮絶な事件について、風化とまでは言えないが、単なる過去の記憶へと転化していたことであろう(注1)。持統天皇の行幸で古跡地を通過しているときに、なまなましい記憶を蘇らせようとして歌ったものではなく、座興的に同行者の心をなごませるものであったはずである。
 有間皇子は松の枝を結んでいた。中皇命が草(根)を結んでいたことに対抗した歌い方である。亡くなった有間皇子を悼んで花輪が掛けられることがあったかもしれないが、ひょっとすると草で作った草輪が掛けられたかもしれない。「手向草たむけぐさ」はふつう、手向けのために置かれた幣のこと、その種類のことをいうからタムケグサと呼ぶと思われている(注2)。実際そうであったのだろうが、タムケグサという言葉がいったんできあがってしまったら、手向けるために雑多なものを用いたとしてもヤマトコトバとしては理にかなう。クサは grass のことも variety のことも表すからである。
 今回の行幸で通過した折、そんな「手向草たむけぐさ」が浜松の枝に懸かっていて、時間が経過して枯れた状態になっていると思われるものが見えた。「幾代いくよまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉」と贅言を尽くしているのは、もとは「手向草たむけぐさ」だったと思われるものが目についたということであろう。それは何か。鳥の巣である。左注にも秋九月とあるから、鳥はみな巣立っており、放置された残骸が残っている(注3)。それを目にしながら川島皇子は歌っている。ほのぼのとした歌である。
左:鳥の巣、右:川の洲
 この歌は、題詞の注にあるように、たとえ山上憶良がネタを考えたとしても川島皇子しか歌うことはできない。彼の名は川島である。川の中にある島は、川の流れに従って姿を変え、まったく姿を消すこともある。それをという。樹上のを歌にしてふさわしく、聞いた人たちがおもしろがることができるのは川島皇子をおいて他にない(注4)

  紀伊国きのくにいでましし時に川島皇子かはしまのみこの作りませる御歌みうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉 白波しらなみの 浜松はままつの 手向草たむけぐさ 幾代いくよまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉(万34)
 白波が寄せては返す浜辺の松の枝にタムケグサとして捧げられたかに思われる草が、どれほど年月を経たのだろうか、打ち棄てられた鳥のになっている。そこでの名の負う私(川島皇子)は呟いてみたよ。どうだね皆さん。

 二首目の歌も、おそらく同じ時に紀伊行幸に同行していた阿閉皇女あへのひめみこ(ヘは乙類)が作っている。都は大和にあって、このたび行幸で都を離れている。都にいる間じゅう、アヘの皇女は、会へ、会へと言われていた。そのヘは乙類だから、アフ(会・逢)の已然形である。誰とすでに会っているのかわからないが、そういう名なのだから呼ばれるたびに会っている、会っていると言われている気がしていた。彼女は女性だから、意中の男性、ダーリンに、つまり、古語で「」に会っているのだと思っていた。ヤマト(トは乙類)でそう言われていた。山とすでに会っている、と言われていたということである。助詞の「と」は乙類である。今、紀伊路の「背の山」と会っている。彼女でしか歌えない歌を時を逃さず歌っている(注5)。頓智の効いた名歌である。

  の山を越えし時に阿閉皇女あへのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山(万35)
 これがかつて聞いていた背の山なのですね。ヤマトにいるとき、会っている、会っていると呼ばれては、恋しいヤマトすでに会っている、と言われているようでした。いま、まさしく山とすでに会っています。あなた、と呼べる名前をもつ、紀伊路の背の山とすでに会っています。おもしろいじゃありませんか。

 万葉集は、基本的に題詞と歌で構成されている。題詞は歌が歌われる場面設定、舞台の説明、歌の枠組みを決めている。その条件下で歌が歌われている。フレームが呈示されているから、歌で何が歌われているか理解することができる。歌の意味、内容が理解できる。題詞に示された額縁を外して中の歌の画面を見ようとしても、どこまでが地で、どこからが図なのかわからない。近代短歌では、いきなり歌だけを取り出して評価することがあるが、それは、近代という枠組み、短歌という枠組みのなかで暗黙の裡に作品として成り立っているからである。万葉歌を歌だけ引き出して内容を理解しようとしても、中途半端なものになり、多くの場合、誤解が生じる。題詞を無視した歌理解は、上代の文芸ばかりでなく、古代史についても誤った見方を与える。近代的な視座を古代に持ちこんで捻じ曲げ歪めることにしかならない。無文字時代に使われていたヤマトコトバには、そもそも物事を抽象化する意図がない。ブリコラージュとして具体的に語っていた。メタメッセージを抽き出して現代の議論の場で論じることは、記紀万葉のテキストから離れてテキストに即さない空理空論を弄することになる。

(補論1)
 これまで行われている万葉歌の英語訳は、日本における研究を反映して万葉歌の醍醐味であるヤマトコトバの地口、頓智、言葉遊びについて無視していることが多い。現状で理解されていないのだから仕方がない。ヤマトコトバ→(古典日本語→)現代日本語→英語へという訳出過程は変わるはずもなく、英語を母語とする万葉集研究者の手による訳で本質に違いが出たりはしない。「万葉和歌の「文学的な」翻訳への道のりはまだまだ遠い」(ワトソン2017.109頁)という発想は、万葉集を既成概念の「文学」であるとする立場に立っている。万葉歌の真の理解から程遠いものである。
 Duthie 2014. の英訳を載せる。原文と対照され、歌部分にはローマ字がルビとして振られている。「濱松pamamatu」と奈良時代当時のハ行音を表しているが、「幾代ikuyo」とヨの乙類であることを示していない。上代特殊仮名遣いでは、「yo」(甲類)と「」(乙類)は別音であった。

34
At the time of an imperial visit
to the Land of Kii, a poem
graciously composed by Prince
Kawashima. Another (text) says it was
composed by Yamanoue no Omi Okura.


On the white-waved
 beach, the pine branch
with a cloth offering
 since then how many ages
how many years have passed?
one says “how many years had passed?”

The “Chronicles of Japan” say that
in the fourth year of Akamitori,
Yang Metal Tiger, in Autumn in the
ninth month, the Heavenly Sovereign
visited the Land of Ki.


35
At the time of crossing over Mt. Se,
a poem graciously composed by
Princess Ahe

This must be that
 which when in Yamato
I long for
 that which is on the road to Ki
Mt. Se that bears the name(p.186)

 日本語訳であるダシー2023.には次のような英訳を載せる。ダシー氏は題詞(headnote)や左注(endnote)の書き方に統一性がないことから『万葉集』の多様性を見、「歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。」(164頁。“Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man'yōshū itself.” Duthie, 2014, p.180)として論を展開しているにも関わらず、訳本末尾に載る英訳には題詞や左注がない。訳者が付けたものか。anthologization のために headnote や endnote を付けているわけではなく、歌自体の枠組みを示すために当初から付けられたものであることは本論で述べたとおりである。

34
For the offering on the branch of a pine
upon the beach of white waves, for how long
have years been passing by?
 one says, “had years been passsi[ママ]ng by”

35
This must be that, which being in Yamato
I did yearn for, which on the road to Ki
bears the name of Mt. Se.((13)頁)

 Levy 1981. は次のように訳している。

34
Poem by Prince Kawashima at the time of the procession
to the land of Ki
  One book has Yamanoue Okura as
  the author.

How many generations
has the prayer cloth passed
hung from a branch
of the pine on the beach
where white waves break?

  In the Nihonshoki it is written that in
  autumn, the ninth month, of the
  fourth year of Akamitori (690), the
  Empress went on a procession to the
  land of Ki.

35
Poem by Princess Ae when she crossed Se Mountain

Ah, here it is,
the one I loved back in Yamato:
the one they say lies by the road to Ki
bearing his name,
Se Mountain,
“mountain of my husband.”(pp.55-56)

 Cranston 1993.は次のように訳している。

34
A poem composed by Prince Kawashima when the Empress [Jitō] made a progress to the province of Ki (or by Yamanoue no Omi Okura, according to another source)

 Where the white waves splash
Across the branches of the pines
 Along the sandy shore,
How many ages have they passed,
These offerings on the boughs?

Nihongi states: “In the fourth year of Akamitori [689], Metal-Senior / Tiger, in autumn, ninth month, the Empress made a progress to the province of Ki.”(p.185)

35
A poem composed by Princess Ahe when crossing over Senoyama

 Is this then the spot
For which I yearned in Yamato,
 The famous mountain
Said to lie along the road to Ki,
Senoyama, Husband Peak?(p.272)

 Vovin2017.は次のように訳している。

34
A poem composed by Imperial Prince Kapasima at the time when the Empress went to Kïyi province. Some say [it was] a composition by Yamanöupë-nö omî Okura.

The safe passage offerings on the branches of pines at the shore [that is washed] by white waves for how long the years would pass [until they remain]? A variant: the years would have passed [since I tied them]?

The Nihongi says that in the ninth lunar month in the autumn of the fourth year of Akamî töri the Empress went to Kïyi province.(pp.103-104)

35
A poem composed by Imperial Princess Apë at the time when [the imperial excursion to Kïyi province] was crossing Mt. Se.

Is this Mt. Se that bears [this famous] name that is said to be on the road to Kï[yi province], for which I am longing for when [I] am in this Yamatö [province]?(pp.105-106)

 筆者の英試訳を記しておく。題詞や左注は歌の訳に含めてしまった。万葉集はヤマトコトバで歌われてはじめて poem となるものである。駄洒落を他言語に訳すことは、dictionary =字引く書也、のように、双方の言語で語呂合わせが揃わなければならず、困難を極める。

34
The white waves come and go on the beach. Here, it is well known that a famous person died. Since then, people would offer grass to the branches of the pine tree growing on it. After a long time, the grass is withered and looks completely different, like a bird's nest. My name is “Prince Kahasima”. “Kaha” means river and “sima” means island or sandbank. So we know it well that sandbanks appear and disappear, just like the waves come and go and the ground appears and disappears. In early Japanese, river banks and bird's nests were both called “su”.

35
Oh, this is just Mt. “Se”, which is the famous mountain on the road to Ki, that I heard about when I was in Yamato. My name is Ahë. In Yamatö, people called me “Ahë”, which was also the realis form of the verb "to meet". So, Hearing the sound “YamatöAhë” demands a recognition “already met a mountain”. “Yamatö” sounds like “Yama”-“tö”. In early Japanese, “Yama” means mountain, “tö” means “face to face”, and “Ahë” means “already met”. I didn't know what they were saying until now, but I just understand. Now, I confront this mountain, it’s name is “Se”. “Se”, in early Japanese, means my darling. We can say that I already met the mountain, so called my darling.

(補論2)
 ダシー氏は海外の万葉集研究家である。万葉集の歌よりも題詞や左注に注目して、編纂において「帝国のインペリアル」歌集を志向する暗黙知があったと考えている。「律令国家と平安の宮廷文化が徐々に崩壊した結果、『万葉集』は再評価されて、平安時代に確立した作歌修練とは別個に取り扱われたり、研究されたりすべき古代のテクストとして位置づけ直された。これと同様に、二十世紀後半には文化・文学研究において国民という枠組みが崩壊した結果、古典文学が近現代世界と切り離して捉えられるようになって、『万葉集』自体の語るところを読み取ろうとする可能性もそこから開けてきたのだと思われる。」(ダシー2023.181頁。“Just as the gradual breakdown of the ritsuryō state and Heian court culture led to a reevaluation of the Man'yōshū as an archaic text that should be treated and studied independently from the practice of waka poetry established in the Heian period, so perhaps has the breakdown of the national frameworks of cultural and literary scholarship in the late twentieth century and the consequent perception of classical literature as irrelevant to the modern world opened up the possibility of trying to read the Man'yōshū on its own terms.” Duthie, 2014, p.200)という。万葉集をどう捉えるかという枠組み(frame)について再検討を求めている。ところが、万葉集に記されている題詞や左注は、それぞれの歌の枠組み(frame)を個別に定め示すために加えられたものである(注6)。歌だけを取り出すことができないのは、一定の状況の設定において歌が歌われているため、舞台設定を明示する必要があるからである。作者名が記されるのは、名に負う存在として言葉を吐いているものが歌だったからで、他の人が歌ったのでは意味を成さないことも多かった。くり返すが、題詞は編纂過程で新たに付けられたものではない(注7)
 括弧つきの『万葉集』を見て歌を見ず、に陥った議論は今日の研究に散見される。古典文学が近現代のそれとは別物であることはそのとおりであるが、万葉集など上代のテキストは、平安時代以降の古典文学とさえ別物である。なぜなら、古典日本語で作られているのではなく、ヤマトコトバで作られているからである。万葉集の編纂には、ヤマトコトバの用例集作成を志向する傾向があったという側面さえ認められる。言語ゲームの所産であった。
 万葉集というタイトルについて、よろづのことのはの集と考えていた仙覚の説は、万世に伝わるように期待されたものとする捉え方以上のものである。Collection of myriad leaves という逐語訳はある程度正しいと考える。「葉」の原義は植物の葉である。それが言葉のことを表すのは、タラヨウに字を書いたものを葉書(letter)としていたことからも首肯される。歌の備忘のために言葉が書き付けられたたくさんの紙片をひとつに集めたものを万葉集と名づけたのであろう。編纂者の意図が勝つわけではなくて、collect したというよりは gather したという感触が強い。防人歌のうち、「但有拙劣歌十一首不取載之」(万4327左注)と記す理由は、編纂者の判断で取捨することをお許しくださいとの断り書きである。万葉集の編纂者は撰者ではなかった。雑歌、挽歌、相聞といった部立や、おおむね時代順に並べられているのも、そう整理しておいたほうがわかりやすく、歌ごとにいちいち説明をつける必要もなくなるからそうしておき、一つの体裁として整えている。その意味では assenble していたということだろう。
 ダシー氏は、「この[神野志2007.の「複数の古代」という]考え方は、私見では、『万葉集』の歌に施された種々の題詞や注記から窺える多様な歴史的立場、また多様な歴史化の様式にも適用可能だと思われる。この、歴史的枠組みの複数性こそが、テクスト内部に歌集編成のポリティクスを発生させるのだろう。」(同上171頁、“This [what Kōnoshi has called "multiple antiquities" (複数の古代)] is a concept that, in my view, also applies to the converging of different historical perspectives and styles of historicization in the various notes and commentary that surround the poems in the Man'yōshū. It is this multiplicity of historical frames that creates a politics of anthologization within the text.” ibid. p.188)という。題詞や注記は当該歌のために記されたもので、編成のポリティクスを示そうと(無意識的にさえ)意図されたものではない。歴史的枠組みとしてではなく、当該歌の枠組みを示すために存在している。それぞれの歌が主役であり、歌を定位させるために題詞や注記は記されている。
 参考の便宜のため、ダシー氏の主張の根幹部分を引いておく。

 私が『万葉集』を「帝国の」歌集と称するのは、巻ごとに異なる編纂の原理と様式とを通じ、歌の集積を帝国の歴史として、また帝国の空間的表象として、さらには天皇を中心とする詩的表現の広大な世界として構成しようとする傾向を捉えてのことである。……本章で明らかにするように、『万葉集』に表象される〝国体〟は、さまざまな社会階層の人々が共通の生得的感性を通して統合された国などではない。あくまでも古典的な帝国的世界レルムであって、そこでは、歌が媒介となって宮廷の文化的感性を全土に広め、天皇と宮廷を中心とする広大な文明的な感情世界を生み出すとされる。(同上149頁、“The reason I describe the Man'yōshū as “imperial," is that throughout the various different principles and styles of anthologization that each of its volumes exhibits, there is a pervasive commitment to configuring the collection as an imperial history, a spatial representation of the empire, and a universal realm of poetic expression centered on the figure of the sovereign. ……As this chapter will make clear, the "shape of the state" represented in the Man'yōshū is not that of a nation in which various people of different social classes are united by a common native sensibility, but that of a classical imperial realm, in which poetry serves as a vehicle for the cultural sensibility of the court to spread throughout the provinces and create a universal world of civilized feeling centered on the sovereign and the imperial court.” ibid. pp.161-162)
 繰り返すが、『万葉集』が〈帝国のインペリアル〉歌集だということは、天皇のインペリアル命で編纂された──勅撰──という意味ではない。さまざまな構成原理と長期にわたる編纂史にもかかわらず、この歌集の組織には帝国史と帝国世界とを表象しようとする一貫した志向が看取されるという意味である。(同上157頁、“The Man'yōshū may not be an "imperial" anthology in the usual sense of having been imperially commissioned (勅撰), but it is in the sense that among its variety of structural principles and long compilation history one can nevertheless detect a pervasive commitment to organizing the anthology as a representation of imperial history and of the imperial realm.” ibid. p.172)
 改めて言おう。帝国史、帝国世界の空間的表象、大伴氏一族に関する脇筋という三つの側面は、どれも単一の視点からではなく、相互に衝突しがちな複数の立場パースペクティヴを交えて描かれている。『万葉集』が相異なる複数の立場から成り立っているのは、単に、長期にわたる編纂過程を通じて帝国の理念が変質したためではないだろう。むしろこの多様性は、『万葉集』自体の内部に刻み込まれた、歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。(同上164頁、“As I noted earlier, none of these three aspects─the imperial history, the spatial representation of the imperial realm, or the Ōtomo lineage subplot─are represented from a single viewpoint. All of them include multiple perspectives that are often mutually conflicting. The fact that the Man'yōshū is made up of different perspectives is not simply due to imperial ideals changing over time throughout the long process of compilation. Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man'yōshū itself.” ibid. p.180)

(注)
(注1)2024年の30年前、1994年のトップニュースは自社さ連立村山内閣の発足であるが、今、村山富市氏の眉毛について知らない人、忘れている人のほうが多いのではないか。
(注2)「手向草」については古くから何を指すか諸説立てられている。

手向草、只手向なり、草は万にそへて云詞にて、……幣を初て、何にても神に物を奉るを云、今は松か枝を結て奉るなるべし、有間皇子の結松の事あれど、昔はさしも忌べからざる歟、(契沖・万葉集代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874349/1/69、漢字の旧字体は改めた)
手向草とは、古松の枝にかゝる蘿也。……これを手向草と名付るは松が枝に垂たるさま、さかきか枝にしらがつけと詠る如くに垂に似たれば手向草とはいふ也。其色白くして、浜松にかゝりたるは、波のかゝれるとみゆるが故に、白浪の浜松が枝乃手向草とよめる歟。(荷田春満・僻案抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970572/1/62、漢字の旧字体は改めた)
手向草 「タムケグサ」とよむ。……神を祭る為に供ふるをいふ。「草」は「料」字の意にてこゝは何にても手向くる料をいふ。行旅の時人々道々に「ぬさ」をとりて神に手向け往来の恙なからむことを祈たるは古の習俗なり。その「ぬさ」は布帛を主とせり。されば、こゝにも浜の松が枝に白き布などの誰人かの手向けたるまゝに残りてありしを見てよまれしならむ。或る説にこの巻二の有間皇子の磐代の結び松の故事を思ひてよみたまひしかといへれど、行幸の折にさる忌はしき事を古とてもよむべくもあらず。又この手向草を松枝を結びたるなりといふ説あれど、これも松を結びて神に手向けたりといふ事例を知らず。(山田孝雄・萬葉集講義 巻第一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/91~92、漢字の旧字体は改めた)
手向草。「手向」は、神を祭る為に供へる物の総称。「草」は、料の意の語で、手向の物の意。古へは行旅の際、途中の無事を祈る為に、行く先々の神に幣物を供へて祭をするのが風で、その幣物は、主としては布であつたが、木綿ゆふ、糸、紙なども用ゐた。……行幸の供奉をしつつ、途中、浜辺の松の枝に附けてある手向草を見られての感である。「幾代までにか」と云はれてゐるので、比較的長く朽ちない布であつたらうと思はれる。(窪田1951.91頁、漢字の旧字体は改めた)
手向草 タムケグサ。タムケは、行路にあつて、無事であることを願つて神を祭ること。天神を招請して、邪悪の神を拂うのが原義で、ムケは征服の義。コトムケのムケと同語であろう。タは接頭語、手の意がある。それから転じて、道路の悪神に、幣帛を捧げて、災禍を免れようとする思想に移つた。そこで手向として幣帛を献ずる意になるのである。クサは料の義。タムケグサは、手向の祭の材料。幣帛をいうので、実質としては、布、木綿、糸、紙等が数えられる。それらのものが、古くなって松が枝に懸かつているのを見て、いつの代からの物かと疑うのが、この歌の意である。(武田1956.174頁、漢字の旧字体は改めた)

 近年の注釈書では次のようにある。

手向け草─道中の無事を祈って神に捧げる幣帛へいはくの類。木綿ゆうなどを用いた。「草」は、材料の意。松の枝に懸けたり、結んだりしたのだろう。松は土地の霊の宿る神木とされた。この地が岩代いわしろなら、有間皇子事件(六五八年)への意識がある。あるいは、一四三、一四四歌と同時の作か。事件後三十二年。(多田2009.47頁)
「手向くさ」は旅の安全を祈って道の神に捧げた幣帛(へいはく)。作者は、浜松の枝に幣(ぬさ)を掛けようとして、古の旅人が残した古幣を目にして感慨を催した。それは「古(いにしへ)にありけむ人も我がごとか三輪の檜原(ひばら)にかざし折りけむ」(一二八)にも似た懐古の思いであっただろう。(新大系文庫本81頁)

(注3)鳥は巣の素材を選ばない。都市に棲む鳥は、洗濯ハンガーやビニール袋なども使って作っている。幣となっていた布帛であれ何であれ、すなわち、クサと呼ぶに値する名もなき存在を用いる。一般大衆は名もなき存在、「青人草あをひとくさ」(記上)と呼ばれていた。「くさ」と「くさ」はアクセントを異にするから語として起源的に別とされるが、混用する条件は整っている。
(注4)山上憶良の作とする類歌が巻九にある。

 白波しらなみの 浜松はままつの木の 手向草たむけぐさ 幾代いくよまでにか 年はぬらむ〔山上歌一首/白那弥乃濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄経濫/右一首或云川嶋皇子御作歌〕(万1716)

(注5)「背の山〔勢能山〕」について、稲岡2004.は、阿閉皇女にとって亡き夫、草壁皇子への追慕の念があり、雑歌に入れられているが相聞歌に他ならなかったと推測している。注釈書ではその考えが続いている。筆者は、副次的にそういう気持ちが存在していたのか可能性を推し測ることをしない。澤瀉1957.も、「むやみに悲痛な感情をこのお作に汲み取らうとするのは正しくこのお作を会する所以ではない。」(279頁、漢字の旧字体は改めた)と述べている。当該歌が歌われて、周囲で聞いた人に、ああ、旦那さんを亡くされてお気の毒になあ、という感情を惹起させたとは思われない印象の歌である。彼女の名、アヘ(ヘは乙類)と、地名のヤマト(トは乙類)と、山の名のセとを掛け合わせてはじき出されたヤマトコトバの頓智に聞き入って感心し、記憶され、書きとめる者がいて、後にそのジョークをよく理解していた人が万葉集に組み入れたのだろう。当然、雑歌に分類される。
(注6)Goffman 1974. ほか参照。
(注7)万葉集にある標目や題詞を見て、全体の構造ないし構成を考えようとする一派がある。伊藤1974.、市瀬・城﨑・村瀬2014.、村瀬2021.など参照。

(引用・参考文献)
伊藤1974. 伊藤博『萬葉集の構造と成立 上・下』塙書房、1974年。
市瀬・城﨑・村瀬2014. 市瀬雅之・城﨑陽子・村瀬憲夫『万葉集編纂構想論』笠間書院、平成26年。
稲岡2004. 稲岡耕二「大名持神社と人麻呂歌集─人麻呂の工房を探る(其の三)─」『萬葉』第188号、2004年6月。学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir/2004
澤瀉1957. 澤瀉久隆『万葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
窪田1951. 窪田空穂『万葉集評釈 第1巻』東京堂、昭和26年。
神野志2007. 神野志隆光『複数の「古代」』(講談社(講談社現代新書)、2007年。
阪下2012. 阪下圭八「初期の山上憶良」『和歌史のなかの万葉集』笠間書院、平成24年。(『万葉集を学ぶ』有斐閣、1977年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈三』角川書店、昭和31年
ダシー2023. トークィル・ダシー、品田悦一・北村礼子訳『万葉集と帝国的想像』花鳥社、2023年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
村瀬2005. 村瀬憲夫「妹勢能山詠の諸問題」『萬葉集研究 第27号』塙書房、2005年。近畿大学学術情報リポジトリhttps://kindai.repo.nii.ac.jp/records/1269
村瀬2021. 村瀬憲夫『大伴家持論 作品と編纂』塙書房、2021年。
ワトソン2017. ワトソン・マイケル「万葉集の英訳について」『万葉古代学研究年報』第15号、2017年3月。奈良県立万葉文化館HP https://www.manyo.jp/ancient/report/
Cranston 1993. Edwin A. Cranston. A waka anthology. Vol. 1: translated, with a commentary and notes. California, Stanford University Press. 1993.
Duthie 2014. Torquil Duthie. Man'yōshū and the Imperial Imagination in Early Japan. Leiden, Brill, 2014.
Goffman 1974. Erving Goffman. Frame analysis: an essay on the organization of experience. Massachusetts, Harvard University Press, 1974.
Levy 1981. Ian Hideo Levy. Man'yōshū: A Translation of the Japan’s Premier Anthology of Classical Poetry Volume one. New Jersey, Princeton University Press.1981.
Vovin 2017. Alexander Vovin. Man'yōshū : Book 1: a new English translation containing the original text, Kana transliteration, Romanization, glossing and commentary. Leiden, Brill, 2017.

安積山の歌(万3807)

2024年07月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 次の歌は古今集の序(注1)にも引用されてとみに有名であり、また出土木簡にも見出されている(注2)。けれども、歌の解釈には諸説あっていまだ定説を得ていない。歌の主旨について左注を絡めて全体として理解されるに至っていない。この歌が言葉遊びを極めた歌であることを指摘した論も見られない(注3)

 安積香山あさかやま 影さへ見ゆる 山のの あさき心を が思はなくに〔安積香山影副所見山井之浅心乎吾念莫國〕(万3807)
  右の歌は、伝へて云はく、「葛城王かづらきのみこ陸奥国みちのくのくにつかはさえし時に、国司くにのみこともちつつしみてうけたまるに緩怠おほろかなることはなはだし。時に、みここころよろこびず、いかりの色おもあらはる。飲饌をくと雖も、うたげたのし不肯かへしたまはず。ここさき采女うねめ有り、風流みやびたる娘子をとめなり。左の手にさかづきささげ、右の手に水を持ち、みこひざちての歌をむ。爾乃すなはち王のみこころよろこびて、楽しび飲むこと終日ひねもすなり」といへり。〔右歌傳云葛城王遣于陸奥國之時國司〓(示へんに弖)承緩怠異甚於時王意不悦怒色顯面雖設飲饌不肯宴樂於是有前采女風流娘子左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌尓乃王意解悦樂飲終日〕

 歌の解釈においてこれまでに問題視された点としては、歌にある「山の井」に映っているのは何か、「さへ」はどういう意味か、「井」の水は澄んでいるか、「あさ」という音の反復は意識されているか、上三句の序詞は「浅き」のみにかかるか下二句全体にかかるか、ナクニ止めで終わっている歌の余韻をどう捉えるか(注4)、があげられている。現在の通釈書の現代語訳は次のようになっており、特に違和感はない。

 安積山、山影まで見える山の泉の水のように、浅い心で私はあなたを思うのではありません。(新大系文庫本269頁)
 安積香山の、山の姿までも映って見える山の泉のように、浅い気持であなたのことを思っているわけでは決してありませんのに。(阿蘇2012.302頁)
 安積山の影までが映って見える山の井のような浅い心で、私は思ったわけではないのに。(多田2010.148頁)

 しかし、左注との関係についてとなると、途端に皆、奥歯に物が挟まったような解説となる。
 万葉集巻十六は、「由縁有り、并せて雑歌〔有由縁并雜歌〕」という標題のもとさまざまな歌が採録されている。「由縁」とは経緯があって歌が詠まれているということであり、状況設定について題詞や左注に説明されることが多い。この歌でも、葛城王が陸奥国に派遣された時に、国司主催のおもてなしの宴会が開かれたが、礼に欠けるものであったため葛城王はふくれていた。その時、「前采女」が気の利いた歌を歌いかけたので、気をとり直して楽しんだと事情が説明されている。
 万葉集巻十六の編者がはるかに遠い陸奥国で歌われた歌を書き留めて置こうとしたのは、この歌に「由縁」が有ると考えたからだろう。そういう状況だったらそういう歌を歌って興趣が生まれ、聞いた王の気持ちも楽しくなるだろう。まことにその場にふさわしい歌であると認めたということである(注5)。何がふさわしいかと言えば、歌は言葉でできているから、言葉づかいが洒落ていて場面に合い、見事だということである。
 「前采女風流娘子」とは、以前都へ行き采女を務めていて今は国元の陸奥へ帰って来ていた女性のことである(注6)。「風流みやび」とは、都会風、宮廷風ということだが、所作ふるまいがミヤビである(注7)ということよりも、言葉をうまく使って歌を歌ったところがミヤビなのである。なぜなら、歌の左注の文章に書かれているからである。歌は言葉でできていて、それ以外のものではない。
 誰もが気づく言葉づかいの妙は、「あさ・・か山」と「あさ・・き心」を掛けている点である。陸奥みちのく国、つまり、道の奥の遠い国だから、都で重んじられている礼を知る者がおらず、お客様には失礼をおかけしていてお恥ずかしい限りですと歌っている。「山のの あさき心を」と掛かる時、「山のあさき」というのがどういう状態なのか議論されている。水深が浅いとする説と地上から水面までの距離が浅いとする説である。関連して、水が清浄かどうかということも考慮されている。井戸の話をするのに、井戸水が涸れそうなことを「浅い」と表現するものか筆者は知らない。井戸が「浅い」のは深井戸の反対で、水位が地面に近いことを指すものである(注8)。水汲みがたやすいことを言っている。誰の仕事か。宮中でいえば采女の仕事である。だから「前采女」の歌として伝わっている。深井戸なら屈強な男性が跳ね釣瓶などで汲み揚げたであろう(注9)
左:自噴井戸(扇面法華経下絵、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/967638/1/24をトリミング)、右:撥ね釣瓶の井戸(一遍聖絵(写)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/25をトリミング)
 彼女は、「左手捧觴、右手持水、撃之王膝」っている。この状況はどういうことなのか注意が必要である。手が空いていないのに膝を撃つことはできるのか。また、葛城王の膝がその体に密着していると撃つことはできない。体勢としては胡床居あぐらゐと呼ばれる座り方なのだろう。左手でさかづきを捧げていたというのは元采女が昔取った杵柄のごとき所作であるが、右手はどうやって水を持っているのか。ふつうならお酌をして回るのだから酒を入れた銚子や提子を持っていなければならない。なのに水を持っている。觴に水を注ぐというところが「国司〓(示へんに弖)承緩怠異甚」の核心を突いているようである。宴なのに酒の用意がなかった。
 酒を注がずに水を持っている。そして、井のことが歌われている。井戸から汲み揚げた水を手にしている(注10)。右手にあって中身が水である容器はヒサコ(瓢、瓠)で、コは古く清音であったものと考えられている。容器の素材は土器の可能性もあるが、その呼称は用途を同じくするからヒサコと呼ばれたものと推測される。水を汲む容器にしているヒサコには、植物のヒサコ、すなわち、瓢箪の類の核を刳り抜いたものを利用した。植物名の場合、ヒサとも言ったとされている。ヒサコを手にしているから、その右手で王のヒザ(膝)を撃った。ヒザ(ヒは甲類)のザは濁音であるが、清濁相通じて言葉を掛ける例はよく見られる。ヒサコとは手にさげること、古語にいうヒサグ(提)ことのできるところに特徴を見たものでもある。そのヒサグという語はヒキ(引)+サグ(下)の約と考えられている。ヒク(引)のヒは甲類だから、ヒサコのヒも甲類だったろう。人間の膝の方には膝頭の骨がある。いわゆる膝のお皿である。柄杓ひしゃくのように水を掬い溜めることができるものと見立てられる。その両者を撃ち合っておもしろがっている。機知あふれる言葉遊びを実行に移している。
 ヒサコ、ヒサ、ヒザが一連の言葉群を構成している。「前采女風流娘子」は、ヒサコでヒザのコ、膝頭の骨部分をコツンと撃ったのである(注11)。どうしてウツ(撃)ような真似に出たのか。それはその場がウタゲ(宴)だからである。ウタゲという言葉は、ウチ+アゲの約、酒宴の際に手をうちたたくことに由来する言葉とされている。ここでは、手と手をうちたたくのではなく、ヒサとヒザをうちたたいている。歌う時に撃っているから拍子を取っているわけである。ヒサ(久)にヒサにと囃している。宴で囃子言葉の歌が歌われたことは知られている。

 冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇すめらみこと大田田根子おほたたねこて、大神おほみわのかみいはひまつらしむ。是の日に、活日いくひ、自ら神酒みわささげて天皇にたてまつる。りてうたよみして曰はく、
 此の御酒みきは 我が御酒ならず やまとなす 大物主おほものぬしの みし御酒 幾久いくひさ幾久(紀15)
如此かく歌して、神宮かみのみやとよのあかりす。即ち宴をはりて、諸大夫等まへつきみたち歌して曰はく、
 味酒うまさけ 三輪みわ殿とのの 朝門あさとにも でてかな 三輪の殿門とのとを(紀16)
ここに、天皇歌してのたまはく、
 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押しびらかね 三輪の殿門を(紀17)
即ち神宮のみかどひらきて幸行いでます。所謂いはゆる大田田根子は、今の三輪君みわのきみ始祖はじめのおやなり。(崇神紀八年十二月)

 酒をささげたてまつり、幾世までも久しく栄えよと歌った歌が伝わっていた。「前采女」はそれを伝えようと瓠で膝を撃っている。そういう伝承が思い起こされたなら、同様に、宴の席で采女が歌ったとされる歌も思い出されたことであろう。それはちょうど今、葛城王が怒っているように、雄略天皇が怒っていた時に三重の采女が歌を歌ってそれを鎮めたという話に沿っている。わざわざ王が怒っているときに采女が歌う設定にしている。昔話を踏襲しているからである。「前采女」は、無礼を詫びながら楽しませる機知を持っていた。

 又、天皇すめらみこと長谷はつせ百枝槻ももえつきしたいまして、豊楽とよのあかりたまふ時に、伊勢国いせのくに三重みへうねめ大御盞おほみさかづきを指し挙げてたてまつりき。しかくして、其の百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮く。其の婇、落葉おちばさかづきに浮くこと知らずて、なほ大御酒おほみきを献る。天皇、其の盞に浮く葉を看行みそこなはして、其の婇を打ち伏せ、たちを以て其のくびに刺して、らむとしたまふ時、其の婇、天皇にまをしてはく、「が身を殺したまひそ。白すべき事有り」といひて、即ち歌ひて曰はく、
 纏向まきむくの しろの宮は 朝日の 日る宮 夕日ゆふひの 日がける宮 竹の根の 根る宮 の根の 根ふ宮 八百土やほによし いきづきの宮 真木まきく 御門みかど 新嘗屋にひなへやに てる ももる つきは つ枝は あめへり なかつ枝は あづまを覆へり 下枝しづえは ひなを覆へり 上つ枝の 枝のうらは 中つ枝に 落ちらばへ 中つ枝の 枝の末葉は しもつ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は きぬの 三重みへの子が ささがせる 瑞玉盞みづたまうきに 浮きしあぶら 落ちなづさひ みなこをろこをろに しも あやにかしこし 高光る 日の御子 事の 語りごとも をば(記99)
かれ、此の歌をたてまつりしかば、其の罪をゆるしき。爾くして、大后おほきさき、歌ふ。其の歌に曰はく、
 やまとの 高市たけちに だかる いち高処つかさ 新嘗屋にひなへやに てる 葉広はびろ 真椿まつばき が葉の ひろいまし の花の 照り坐す 高光る 日の御子に とよ御酒みき たてまつらせ 事の語り言も 是をば(記100)
即ち、天皇の歌ひて曰はく、
 ももしきの 大宮人おほみやひとは 鶉鳥うづらとり 領巾ひれ取りけて 鶺鴒まなばしら へ 庭雀にはすずめ 群集うずすまて 今日けふもかも 酒水漬さかみづくらし 高光る 日の宮人みやひと 事の語り言も 是をば(記101)
 此の三つの歌は、天語歌あまがたりうたぞ。
 かれ、此の豊楽とよのあかりに、其の三重のうねめめて、あまたのたまひものを給ふ。(雄略記)

 しかし、この雄略記だけでは万3807番歌の状況を定めきれない側面がある。「前采女」は酒を持っていない。持っているのは水である。酒が切れていて用意できなかったのだろう。ために井戸から水を汲んできてそのまま葛城王に提供しようとしている。そのような逸話は記紀説話のなかにある。ソラツヒコの話である。海神わたつみの宮を訪れた火遠理命ほをりのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみこと)は、海神から虚空津日高そらつひこ(虚空彦)と呼ばれている。海神の宮を訪れてカツラの木の上に登って様子を見ていたことが発端である。

 即ち、其の香木かつらに登りていましき。しかくして、海神わたつみむすめ豊玉毘売とよたまびめ従婢まかたち玉器たまもひを持ちて水をまむとする時に、かげ有り。あふぎ見ればうるはしき壮夫をとこ有り。いと異奇あやしと以為おもひき。爾くして、火遠理命ほをりのみこと、其のまかたちを見て、水を得まくしと乞ふ。婢、すなはち水を酌み、玉器たまもひに入れて貢進たてまつりき。爾くして、水を飲まずて御頸みくびたまを解き、口にふふみて其の玉器につはき入る。是に其のたまもひきて、婢、璵をはなつこと得ず。かれ、璵を著けしまにまに、豊玉毘売命にたてまつりき。爾くして、其の璵を見て、婢に問ひて曰はく、「し、人、かどに有りや」といふ。答へて曰はく、「人有り。我が井のの香木のうへいます。いと麗しき壮夫ぞ。我がきみして甚たふとし。故、其の人水を乞ひしがゆゑに水を奉れば、水を飲まずて此の璵をき入る。是、離つこと得ず。故、入れし任にち来てたてまつる」といひき。爾くして、豊玉毘売命、あやしと思ひ、出で見て、乃ち見でて、目合まぐはひして、其の父に白して曰はく、「吾がかどに麗しき人有り」といひき。爾くして、海神、自ら出で見て云はく、「此の人は天津日高あまつひこ御子みこ虚空津日高そらつひこぞ」といふ。即ち、内にりて、みちの皮の畳八重やへを敷き、亦、きぬ畳八重を其のうへに敷き、其の上にいませて、百取ももとり机代つくえしろの物をそなへ、御饗みあへて、即ち其の女、豊玉毘売命にはしむ。(記上)

 万3807番歌の左注にあるカヅラキノミコ(葛城王)は、カツラキ(香木、桂)+ノ(助詞)+ミコ(御子)であるとなぞらえられている。井戸にゆかりがある人だから井戸水を汲んできて提供しようとしている。「前采女」は従婢まかたちの役目を担っている。着席している様は、板の間に藁蓋などを敷いたところに座らされているのではなく、たくさんの敷物を重ねたところに腰掛けるような具合になっていると考えられる。胡床居あぐらゐになるからヒザ(膝)が出て、ヒサコ(瓢)で「撃」つことができた。「みちの皮の畳八重やへを敷き、亦、きぬ畳八重を其の上に敷き、其の上にいませて」という状況である。陸奥みちのく、ミチ(道)+ノ(助詞)+オク(奥)の地である。ミチという言葉にはアシカの意味もあり、アシカの毛皮が敷物に利用され、カヅラキノミコ(葛城王)はミチの皮を何枚も積み重ねたところに座らされていた。実際のところ、ミチノクはアシカの毛皮の大生産地でもあった。
ニホンアシカ(絶滅種)(兵庫県立考古博物館「動物と考古学展」展示品)
 「前采女」が葛城王に伝えようとしているのは、陸奥国は海神が住むほど遠い国で、国司は王のことをぞんざいに扱っているわけではなくて、龍宮城のような別世界のおもてなしをしているのですよ、ということであった。王はまるでソラツヒコのようで、見目麗しくいらっしゃる。だからその先例に従っておもてなしをしているというのである。題詞中の「飲饌」は、オモノ(御物)、あるいは、ツクエシロノモノ(机代物)などと訓めばよいのであろう。御馳走がいろいろ並べられている。
 これまでの解釈では、宴と井の水とを結びつけて捉えられていなかった。井の水の神聖性を歌ったとも考えられていたが、その場合、畏怖の念を覚えはしてもおもしろいと思うことはなく、酒宴との関係も不明である。畏まることになって「王意解」のことはあっても「悦楽飲終日」には至らないだろう。この日、「王」は何を「飲」んでいるのか。「前采女」が持っていた「水」である。すなわち、ナクニ止めで語られている安積香山の歌の共通項とは、水である。酒の用意がされていないことに「怒色顕面」となっていた葛城王は、「雖飲饌、不宴楽。」であったが、「前采女」に膝を撃たれながら歌われた歌を聞いてなるほどと思い、酒ではなく水の飲み会、ソフトドリンクの食事会を一日中楽しんだということになる。
 以上のように、左注に記されていることとの整合性を保った理解が行われることではじめて、この歌は万葉集巻十六、「有由縁」歌として蘇ることができるのである。

(注)
(注1)古今集・仮名序に、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は采女の戯れより詠みて、この二歌は、歌の父母の様にてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と見える。
(注2)紫香楽宮跡から出土している。天平十六〜十七年当時のものと推定されている。
(注3)言語は、主張、問いかけ、命令、祈り、約束、懇願、脅迫、言葉遊びなど、無数のゲーム的な行為の束である。この歌がそのうちのどの要素を強く持っているかを探ることが万葉集研究の唯一無二の方法である。ところが、村瀬2010.は、左注の「伝云」について、「作りものの語り」であると決めて歯牙にもかけない。「「左手に觴を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて」という振舞いは千手観音ならいざしらず、現実の采女の行動としては不自然である。思うにこれは、もともとあった安積香山歌……に、「伝云」に記されたような盛りだくさんな内容(宴席で詠まれた歌、采女が詠んだ歌、王への忠誠の心を吐露した歌等々)を付与したがために生じた無理に起因するのであろう。」(95頁)とする。わざわざ左注を記して「有由縁」として編んだ採録者の意図を無視している。仮に後から話を作ったとした場合、最終的に馬脚を現すことはあり得ても、最初から誰もが疑問視するような話を付け足すようなことはない。話にならないからである。
(注4)ナクニは、打消の助動詞ズがク語法によって体言化された形、クニに助詞二が下接したもので、ナクニ止めで終わる歌には独特の余韻を残す効果がある。鉄野2008.は、「ナクニ自身は、単に否定的な状況を提示するに過ぎない。しかし、その否定的な状況に対して、それに応じようとすれば、両者の関係はおのずと逆説的にならざるを得ない。更にナクニで言いさしにすれば、自分には、その状況に対して如何ともし難い、乃至はそれ以上何も言えない、といった気持を暗示することになる。口ごもることによって、以下は察してくれ、あるいはあなたはどうしてくれるのか、などと、聞き手に下駄を預ける体なのである。」(5頁)と解説する。そして、「ナクニ止めの歌のように、最後に全体を否定する形では、その語[「つなぎことば」(伊藤1986.)]は結局否定される側にあることになる。……そうした時、序詞は本旨に対して多様で微妙な関係を結ぶことになる……。その関係の多くは、何らかの比喩である。比喩が、異なるもの同士の中に共通の要素を見出すことに成り立つのだとすれば、そこには必ず裏面として、差異が存することになる。」(14頁)としている。そして、安積香山の歌では、「差異(山の井は浅いけれども、自分の心は深い)をあえて挙げることで、かえって共通項(清らかであること)が浮かび上がる仕組みになっている。」(同頁)と結論づけている。以下に述べるように、共通項が井の清らかであることと捉えるのは誤りである。
(注5)史書に見られないから史実ではなかっただろうとの主張もあり、また、説話化された歌であるとの見方もある。しかし、なにより歌の理解が第一である。講釈はその後で(したければ)することである。
(注6)采女の制に合わないから嘘であるとする生真面目で融通の利かない、文学的でない見解も見られる。また、多田2010.に、「「采女」は水司や膳司に配属されたが、井の聖水に奉仕する「水の女」としての役割がその職掌の一端であったらしい。」(147頁)と尤もらしいことが語られている。しかし、女中が主人に仕える卑近な仕事は、おーい、お茶、と呼ばれた時、さっと茶を入れて差し出すことであろう。
(注7)これまでの説ではそう捉えられている。「都から来訪した葛城王を適切にもてなす術を唯一心得ていた「前采女」の洗練された振舞いと関わって用いられている。」(高松2007.168頁)という。具体的には、膝を撃つことに色っぽさを含むとする説に、鉄野2008.、上野2018.などがある。また、拍子を取るリズミカルな撃ち方とする説に、折口1971.、藤井1987.などがある。
 なお、「芸能」として捉えようとすると「風流」はもはやミヤビでは意が解し尽くせないから音読みするとする説が佐藤2024.に見られる。評するに値しない。
(注8)木村2008.が指摘していて正しい。近年の注釈書では、多田2010.や阿蘇2012.はこの説に依っている。だが、現在でも研究者のなかには否定的に捉える向きもある。加藤2019.は、「「安積山…」詠のように、単に「山の井」について「浅き」といった場合は、山の井の水の深浅についていわれたものと理解するのがふつうで、そのような自然な理解を排して水面の位置のことであるとするのは、説明を重ねる中でしか発動しない読解と言わざるをえない。」(15〜16頁)と批判している。井戸水を汲み揚げることを知らないようである。万葉集のなかで「井」に関して浅い、深いと形容しているのはこの歌だけである。「井」は飲み水を得るためのもの、「田井たゐ」は稲の飲み水のあるところ、つまりは水田のことを言っている。人は「井」から水を汲み揚げて使う。電動ポンプはない。

 もののふの 八十やそ娘子をとめらが 汲みまがふ 寺井てらゐの上の 堅香子かたかごの花(万4143)
 勝鹿かつしかの 真間ままの井を見れば 立ちならし 水汲ましけむ 手児名てこなし思ほゆ(万1808)
 山辺やまのへの 五十師いし御井みゐは おのづから 成れる錦を 張れる山かも(万3235)

 上二首は水を汲むことが歌われている。最後の歌は、井戸端にきれいな着物を着た女官が集まっていることを、錦を張った山のようだと譬えている。井に水が溜まっている、その水深について、当時の人は頭に浮かべたことがあったのだろうか。溜池の水深なら深くあることが望まれただろう。たくさんの水を貯えていることを指すからである。しかし、井の場合は、湧泉であれ、掘井であれ、「走井はしりゐ」のような川の水の活用であれ、水の深さは求められていない。次から次へと湧き出してくるところを「井」と呼んでいる。汲み揚げたらじわっと滲みだして次に汲む時にはまた満ちている。それが「井」である。角川古語大辞典は「山の井」の項を設け、「山中にわき出る泉。掘り井戸ではないために、たまっている水の量が少なく、浅いことのたとえに用いられる。」(764頁)としている。これは誤解だろう。水を汲むのに十分な条件がそろわないところを「井」とは呼ばなかっただろう。日本国語大辞典では、「山中の、湧水をたたえたところ。掘井戸に対して、それが浅いところから、和歌では「浅い」の序詞の一部としても用いる。」(190頁)としている。水量の問題ではなく、釣瓶を使わなくても汲むことができることをいうものとしている。これが正しい。
 廣岡2005.に、「古代において、影(姿)を写すことは神秘なものと理解され、その魂まで宿すものと考えられていた。ここはそういう深い井を言うものであろう。古代における井の多くは湧泉であり、この歌の井も泉をいう。山名もアサだけではなくて、アサカの音は浅からずの否定形を内にもっていると理解してよい。その清泉の水を右手に持って歓待したというのは、この陸奥の地霊の奉仕を意味している。」(320頁)とある。後付けの空論である。波立たない水面は影を写す。田に水を張れば影を写す。盥の水も同じである。盥が魂を宿す祭具となり、実用から外されたことはない。そして、この講釈によって、葛城「王意解悦、楽飲終日。」ことになるとは考えられない。しかも、井戸がとても深かったら、覗き込んだ自分の顔も見えなくなるだろう。清泉で歓待することを地霊への奉仕と論理を飛躍させ、反証不可能な言辞にしている。
(注9)影が映るのだから水はきれいで深くないといけないとする考えが意外に多くみられる。契沖・万葉代匠記に、「影さへみゆるは山の井のきよきによりてなり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/66)とあるのが発端かもしれない。しかし、影が映るのは水の表面の反射による。水面が風波に揺らいでいたり、水草が水面から出ていたり、藻が繁殖しすぎてガスが発生して泡立っていたりしたら映らないが、水面が穏やかなら水中の色は乱反射により全体のトーンにはなるが影が映らないことはない。強い光が当たる場合や他に光が乏しい夜景などが、水鏡の映りやすい条件である。
水鏡の例(平等院)
 むろん、安積山を映した井の水はきれいだっただろう。なぜならそれは井であり、井は飲み水を供するところだからである。飲用に適さなくなった井戸が廃される時、独特なお祭りをして埋めたであろうことは出土状況から確認されている。もはや「井」ではないということである。
(注10)廣岡2005.は、三句目までの序詞と主意を表す下句との関係について、「[序詞は]一般には下句の「浅し」へ冠すると理解するが、……今の場合、「浅き心を我が思はなく」という全体に冠するものであろう。そうでなかったら序詞にする必要はなく、「安積山」だけの枕詞でよい。」(320頁)などと乱暴なことを言っている。左注で「前采女」は「右手持水」していて、「井」のことを歌のなかに歌い込んでいる。歌と左注をもたれ合いの関係にして伝えようとしているのだから、両者を一括して理解しなければならない。
(注11)コツンという擬音語がコツという字音に由来するのかはわからない。

(引用・参考文献)
阿蘇2012. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第8巻』笠間書院、2012年。
伊藤1986. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
上野2018. 上野誠『萬葉文化論』ミネルヴァ書房、2018年。(「難波津歌の伝─いわゆる安積山木簡から考える─」『文学・語学』第196号、2010年3月。)
內田1999. 內田賢德「綺譚の女たち─巻十六有由縁─」『伝承の万葉集』笠間書院、平成11年。
折口1986. 折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集14』中央公論社、1996年。
加藤2019. 加藤睦「「安積山影さへ見ゆる…」詠(万葉集・巻十六)について」『立教大学大学院日本文学論叢』第19号、2019年10月。立教大学学術リポジトリhttps://doi.org/10.14992/00018924
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
木下1972. 木下正俊『萬葉集語法の研究』塙書房、昭和47年。(「「なくに」覚書」『万葉集研究 第一集』塙書房、昭和47年。)
木村2008. 木村高子「安積山歌詠考」『成城国文学』第24号、2008年3月。
佐藤2024. 佐藤陽『古代的心性研究序説』武蔵野書院、2024年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
鉄野2008. 鉄野昌弘「序詞とナクニ止め」『国語と国文学』第85号第9号、平成20年9月。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館、2002年。
廣岡2005. 廣岡義隆「積山さかやま 影さへ見ゆる やまの 浅き心を が思はなくに(16・三八〇七)」『セミナー万葉の歌人と作品 十二巻 万葉秀歌抄』和泉書院、2005年。
藤井1987. 藤井貞和『物語文学成立史』東京大学出版会、1987年。
村瀬2010. 村瀬憲夫「「安積香山」歌と「伝云」」『国語と国文学』第87巻第11号、平成22年11月。

駿河采女の歌の解釈

2024年07月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集中には、駿河采女するがのうねめの歌が二首ある。天皇の宮に仕える駿河出身の下女のことであり、同一人物の作かどうかはわからない。

  駿河采女するがのうねめの歌一首〔駿河婇女謌一首〕
 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ 浮寝うきねをしける 恋のしげきに〔敷細乃枕従久々流涙二曽浮宿乎思家類戀乃繁尓〕(万507)
  駿河采女するがのうねめの歌一首〔駿河采女謌一首〕
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも〔沫雪香薄太礼尓零登見左右二流倍散波何物之花其毛〕(万1420)

 万507番歌は、枕から濡れこぼれる涙が溢れ、水鳥のようにその水に浮かぶ思いで寝ている、恋心が激しいので。万1420番歌は、消えやすい泡のような雪が、まだらに降るかと見まがうほどに流れつつ散っているのは何の花だろうか、といった意味であると解されている。雪の降るさまは梅の花の散ることになぞらえることがある(注1)から、ここでも梅の花を意識していると捉えている釈が多い。これらの内容は誰が歌ったとしても意味が通じる。茫漠とした一般論を詠んでいるように感じられる。しかし、特段に駿河出身の采女が歌ったと記録されている。その理由はどこにあるのだろう。また、駿河出身の采女には名はなかったのだろうか。
 前後を見ると、万505・506番歌の題詞は「安倍女郎あへのいらつめの歌二首」、万508番歌には「三方沙みかたのさみ弥の歌一首」、万1419番歌の題詞は「鏡王女かがみのおほきみの歌一首」、万1421番歌には「尾張連をはりのむらじの歌二首〈名をもらせり〉」とある。名のある人、また、闕名の人の間にある。
 題詞が歌の内容の枠組みとなるフレーミング機能を果たすものであるなら、スルガノウネメというだけでその職掌が定まり、個別的特異性をもって歌が歌われていると目されよう。采女は下働きの女官なのだから、天皇の宮における雑事のうち、スルガの名を冠したものに与えられたであろう役割にまつわる歌が詠まれていると考えられる。その第一候補は、スルガというのだから、スル(摺・摩・擦・擂・磨)+ガ(処)の意で、何かをスルことを仕事としていた者として認識されていただろう。実際にそうしていたかについては記録はない。それでも古代には、名負氏の考えがあって職掌が名と深く結びついていた。名に負う存在として宮廷に仕えていたのである。
 古代の人がスル(摺・擂・擦・磨)といえば、食料製造のためのスル、顔料製造のためのスルが考えられる。万507番歌からは、涙のように液体が涌き出ていること、万1420番歌からは、雪のように思える花が関係することという二つの条件が示されている。両者を兼ね備えた事柄としては、菜種を擂って菜種油をとることが導き出される(注2)
 奈良時代に栽培が確認されているアブラナ科の植物として、ダイコン(注3)があげられる。食用とされており、他の蔬菜類よりも高価であったことが知られている(注4)。食べる時期に収穫せずに放置すれば薹が立って白い菜の花を咲かせ、莢の状態の種を採ることができる。絶対に種を採ることがあったのは、翌年も栽培するために欠かせないからである。種には油分を多く含んでいる。そこで、エゴマなどと同様、油をとることが行われたと考えられる(注5)。炒る、擂る、蒸す、搾る、濾す、の工程を経て菜種油ができあがる。液体の上澄みが油で、下には水分が沈んでいる。この油は食用ではなく灯明用の灯油である(注6)。松明などと比べて煤が少なく、魚油と比べれば臭いもきつくない。庶民に手が出る値段ではなく、皇室や高級遺族の屋敷、寺院でのみ使われていた。宮中での生活に使うために作っていたのだろう。名に負う駿河采女が製作に携わっていた。
 以上を前提として歌を再解釈すると次のようになる。

 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ 浮寝うきねをしける 恋のしげきに(万507)
 枕のような擂臼のところから流れ出る涙のようなものに、不安な思いをいだきながら身を横たえるように低くしてのぞき込む。油がとれていることにとても関心があるので。
 
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも(万1420)
 沫雪がまだらに降るかと見立てられるほどに、流れ飛び散っているのはいったい何の花でしょう。(あれはアブラナ科のダイコンの花ですね。私の出番は間近なようです。)
青味だいこん(アブラナ科の十字花、花の色は白い)

 万507番歌では、「恋」という言葉を比喩的に用いている。苦労して油を搾っており、滲み出てきたので賞愛するようになっている。また、万1420番歌の修辞表現は、「何の花そも」とふるったものになっている。ふつうなら食べるために収穫されてしまい、ダイコンの花を目にすることはなく知られていないからである。今日でも白い十字花を目にした人は驚いて、黄色くない菜の花に蝶は気づくのだろうかと想像をめぐらせる感想を発している。このように、両首はスルガノウネメでなければ歌い得ない歌なのであった。

(注)
(注1)例えば次のような歌がある。

  紀少鹿女郎きのをしかのいらつめの梅の歌一首
 十二月しはすには 沫雪あわゆき降ると 知らねかも 梅の花咲く ふふめらずして(万1648)

(注2)神野・中村・深澤2014.に、「奈良時代には荏胡麻油、胡麻油、麻子油、曼椒油、椿油、胡桃油、閉美油(イヌガヤ)の7種類の油があったことが文献史料にみえる。」とある。延喜式に書いてあるのが手がかりであるが、史料類から原材料を正確に搾り出せないのは、結果的に灯油がとれて明りになればそれでよいから任せておいたということだろう。
(注3)和名抄に、「葍 爾雅注に云はく、葍〈音は福、於保禰おほね、俗に大根の二字を用ゐる〉は根、正に白くして之れを食ふべしといふ。兼名苑に萊菔〈上の音は来〉と云ふ。本草に蘆菔〈音は服〉と云ふ。孟詵食経に蘿菔〈上の音は羅、今案ふるに萊菔、蘆菔、蘿菔は皆、並びに葍の通称なり〉と云ふ。」と見える。
(注4)関根1969.参照。
(注5)深津1983.は、アブラナの油料としての利用は江戸時代をあまり遡らないと推定している。市場に出回る製品レベルではそうであったかもしれないが、使えるものは使うのが民俗的な知恵である。
(注6)食用にしたことがないとは言い切れないが、現在の精製油と違い酸化が進んでいて、あまりお薦めできる代物ではない。

(引用・参考文献)
神野・中村・深澤2014. 神野恵・中村亜希子・深澤芳樹「「曼椒油」再現実験」『香辛料利用からみた古代日本の食文化の生成に関する研究』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所、平成26年9月。奈良文化財研究所学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/11177/2851
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
辻本1916. 辻本満丸『日本植物油脂 訂正増補再版』丸善、大正5年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/981096
深津1983. 深津正『燈用植物』法政大学出版局、1983年。

万葉集の「辛(から)き恋」

2024年06月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に「からき恋」という言い方が三首に見られる。「からし」という言葉は、舌を刺すような鋭い感覚、塩辛いばかりでなく酸っぱい場合にも用いられる味覚の意味と、そこから派生して骨身にしみるようなつらい気持ちに陥る状態のことを指した。「辛き恋」の歌はその二通りの意味を掛けたもので、序詞で塩辛さを伝え、その「辛き」という言葉で表されるようなつらい感覚の恋をする、という比喩表現である(注1)

志賀しか海人あまの 火気ほけ焼き立てて 焼くしほの からこひをも あれはするかも〔壮鹿海部乃火氣焼立而燎塩乃辛戀毛吾為鴨〕(万2742)
  右の一首は、或るに云はく、石川君子朝臣いしかはのきみこのあそみ作るといふ。〔右一首或云石川君子朝臣作之〕

  筑紫つくしたちに至りてはるかに本郷もとつくにを望みて、悽愴いたみて作る歌四首〔至筑紫舘遙望本郷悽愴作歌四首〕
②志賀の海人の 一日ひとひも落ちず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも〔之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能可良伎孤悲乎母安礼波須流香母〕(万3652)

  (平群氏女郎へぐりうぢのいらつめの、越中守こしのみちのなかのくにのかみ大伴宿禰家持に贈る歌十二首〔平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首(万3931題詞)〕)
須磨すまひとの 海辺うみへつね去らず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも〔須麻比等乃海邊都祢佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安礼波須流香物〕(万3932)
  (右のくだりの歌は、時々に便たより使つかひに寄せて来贈おこせり。一度ひとたびに送らえしにはあらず。〔右件歌者時々寄便使来贈非在一度所送也(万3942左注)〕)

 歌の内容は、海浜で塩を焼いていて、そこでできあがる塩のように辛い恋なんかを私はするのかな? と歌っている。塩焼きのことと恋のことは無関係(注2)だから、修辞を先行させてとぼけた歌を歌っているとしか考えられない。
 文法学の論者は、このように表面的に受け取ることを嫌う。序詞を用いた表現と用いない表現の違いを指摘し、序詞表現の効果を言い立てる。

 序詞によらない場合は、形容詞……「辛き」が直接「恋」を形容している。それに対して序詞を用いた……[歌で]は、恋の……「辛さ」を「志賀の海人の……焼く塩の辛き」事実に即しながら、具象的・象徴的に表現しているのである。少なくとも……「辛し」のみによっては、それがどのように……「辛き」恋であるのかを具象化することは不可能である。ここに、序詞の表現上の特質があると言わなければならない。(和田2022.221頁)

 「辛き恋」だけではどのような恋だかわからないというが、重労働である塩焼きの結果できた塩のような「辛」さで譬えられるような「恋」なのだ、と言われてもどのような恋なのかわからない。片思いや三角関係のような大がかりなつらさを伴うものから、男女間のささいなやりとり、その際にいちいち気になる心の襞のようなものまで、「辛き恋」にはいろいろあるだろう。それをぐずぐず述べるとき、はじめてその恋は具象化する。そもそも唐突に「辛き恋」と言って相手に伝わるとは思われない。塩焼きが何たらかんたらと前置きすることによってのみ、「辛き恋」という表現はあり得ただろうということである。「辛し」という言葉のもつ二つの側面を使う限りにおいておもしろい表現となり、だから悦に入って歌にしていたということである。
 ①は、巻十一の「物に寄せておもひぶる歌三百二首」の一首である。逆に言えば、物に寄せずに歌うことなどかなわない内容であるとも考え得る。①と②は、「志賀の海人」が塩焼きしていることを思い浮かべている。「志賀の海人」は漢委奴国王の金印で有名な福岡市の志賀島の海人のことである。②は、巻十五、遣新羅使の歌である。筑紫まで来て奈良の都を振り返って思い悲しんでいる。大陸へ行くということは、すなわち、カラ(からから)へ向かうわけだから、カラ(辛)いことを歌いたかった。①でも、渡海の起点となるところだからカラの地が意識されている。そういうところの海浜で焼いてできあがる塩はさぞかしカラいものだと洒落を言っていて、辛い恋という言い方が成立している。冗談のような成り立ちであるが、言葉が音でしかなかった無文字時代、ないしその余韻を残している万葉の時代には、決定的である。誰かが語呂合わせに気づいて言葉遊びをした。その言葉遊びの延長線上でこれらの歌は歌われている。
 ➂はその応用形である。「志賀の海人」が「須磨の海人」(注3)ではなく「須磨人」に代わっている。平群氏の女郎は九州へ出向いていないし、歌を贈る相手は越中にいる。近場でどこか「辛き恋」を歌うのに良いところはないかと探して、スマヒトだったら行けるのではないかと思いついた。スマノアマでは駄目である。
 スマヒトという言葉(音)にはスマヒという言葉(音)が隠れている。あるいは、スマヒビトの約かもしれない。すなわち、相撲取りのことである。相撲節会のため、部領使ことりづかひを各地に派遣して力士を都へ召し出していた。同じく防人を招集して引率する者も部領使ことりづかひと呼ばれていた。コトリはコト(事)+トリ(執)の約と見られている。区別するために「相撲すまひの部領使ことりづかひ」(万864序)、「防人さきもりの部領使ことりづかひ」(万4327左注)とも言っている。
 スマヒトは部領使に連れられて行く人のこと、同じ部領使に連れて行かれる防人かもしれず、となるとそれはカラ(韓・唐)に対して防衛に当たる人のことで、塩焼きすればことのほかカラ(辛)い塩ができあがっただろうと連想が働いている。スマヒ(相撲)は現在の相撲よりも範囲が広く、二人が組み合って力比べをする武技を言っていた。
 ②と➂で、「一日も落ちず」、「海辺常去らず」と否定形を表現内に含めており、旅の慕情や旅人の非日常性へと導く表現であるとも考えられている(注4)。しかし、述べてきたように、カラ(韓・唐)と関係があり、カラ(韓・唐)に対抗的な役目を果たす防人の要素をスマヒトは持っている。動詞形のスマフは平安時代になって確例が見られるが、抵抗する、身をもって拒む意を表す。組み合ってする力比べは、相手の力をいかに防ぎ拒むかに力点が置かれると見られていたようである。その点は「志賀の海人」でも似ていて、予備自衛官の役目を兼務していたのだろう。塩を焼くには「一日も落ちず」、「海辺常去らず」見ていなければならない。同様に、敵であるカラ(韓・唐)が襲ってこないか見張るためには、休むことなく常時監視していなければならなかった。レーダーが故障していたら敵軍の攻撃に抵抗することはできない。
 万葉集の研究でこれら三首がとりあげられるのは、序歌としてのありかた、序詞表現をどう捉えるかという視点からであることが多い。その際、序詞は本意を導き出すためのものと思われている。当該歌でいえば、「辛き恋をも我はするかも」が歌の本意であるとされ、三句目までは序詞で「辛き」を導き、そこまでが「恋」を修飾する言葉であると見られることが多い。「辛き」を「つなぎことば」と措定する見解もあり(注5)、また、序詞が下の句(本意)のどこまで掛かるかが議論にのぼることもある。

(和田2022.221頁を縦横改変)

 ところが、いま見てきたように、「辛き恋をも我はするかも」を伝えたいために歌が作られているとは一概に言えないのである。すてきな修辞法が考えついたから歌にして歌い、聞いてもらっている。聞いた相手も、つらい恋ですねえ、お気の毒に、頑張ってくださいね、などとは受け取らなかった。カラだけにカラとはうまいこと言いますね、お話がお上手ですね、なかなかに賢いですね、というのが感想であったろう。恋心を伝えるために言葉を使っているのではなくて、言葉心を伝えるために言葉を使っている。序詞や枕詞という修辞法をなぜ使うのか。言語が持つ魔性が一役買っていることは疑い得ない(注6)。頓知、洒落、地口、なぞなぞなどの言葉遊びも含めて言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)と呼ばれている。

(注)
(注1)序歌に関し、伊藤1976.は、「つなぎことばそのものは、本質において掛詞、結果において譬喩で、れっきとした二重表現と考えられる」(257頁)と述べている。
(注2)平舘2015.に、三首に加えて万5番歌「…… 海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心」をあげ、「塩焼きの景色を恋心に重ねるこの手法は人口に膾炙していたことが知られる。」(244頁)との妄言がある。「下心」(万5)は恋心とは限らないだろう。当該三首は「焼く塩の辛き恋をも我はするかも」を常套句にしてそれぞれに捻った作となっているにすぎない。「塩焼きが導く「辛き恋」に対して、家人を思うその辛さを詠むのではなく、それをする「我」を内省する表現には、もはや都と通じ得ない遠い地に居るという心情の反映を窺える。」(同245頁)も妄言である。「塩焼き」が「辛き恋」を導いているのではなく、「……焼く塩の」が「辛き」を導いている。なお、平舘氏の主張は、現在の通行している序詞一般についての標準的な見解から外れるものではない。考え違いが横行していると筆者は考えている。
(注3)須磨の海人が塩焼きをしていたことを歌に詠んだものは二例ある。塩屋という地名が知られている。前者は「大網公人主宴吟謌一首」、後者は「過敏馬浦時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉」の「反歌一首」である。塩を焼いたらどこでも「辛き恋」を導くかと言えば、上代人にとってはそうではないのである。

 須磨の海人あまの 塩焼きごろも 藤衣ふぢごろも とほにしあれば いまだ着なれず〔須麻乃海人之塩焼衣乃藤服間遠之有者未著穢〕(万413)
 須磨の海人の 塩焼きぎぬの れなばか 一日も君を 忘れて思はむ〔為間乃海人之塩焼衣乃奈礼名者香一日母君乎忘而将念〕(万947)
 
(注4)平舘2018.は、万2742番歌の序詞の表現、「火気焼き立てて焼く塩の」が「繋がる本旨の「辛き恋」に激しい炎が燃えるような恋の思いを連想させる」(367頁)のに対し、万3652番歌の「「一日も落ちず」は欠けることの無い時間の把握と共に相聞的な情調をすでに包含していることを窺わせ……、旅の日々の中で一日も欠けることなく重ねられてきた慕情に導かれるものとしてある」(369頁)とし、「序詞中の否定の表現を含む用法が、その表現によって、事象の継続を意味し、本旨の心情の在り方に、単なる継続以上の時間性を反映させていることが考えられる」(372頁)としている。この考え方の誤りについては(注2)参照。
 万葉集で他に「からし」の例とされるのは以下のとおりである。一首目はカラクニ(韓国)という音がカラク(辛)を導き出しているところに興趣を覚えて歌っている。二首目は蟹の塩漬けのことを歌っているが、実態はよくわかっていない。それでも、カラウス(唐臼)とカラク(辛)との間には音の連繋が見て取れる。三・四首目は原文に「少可」、「小可」を「苛」の誤字としてカラクと訓む説である。カラシ(辛)は骨身にしみることをいうのだから語義に合わないと思われる。アシク(悪)、ツラク(辛)と訓む説があり、そちらが穏当であろう。すなわち、カラシ(辛)という語を歌に使う理由は、カラ(韓・唐)との音の戯れがおもしろいからなのである。

 昔より 言ひけることの 韓国からくにの からくも此処ここに 別れするかも〔牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久尓能可良久毛己許尓和可礼須留可聞〕(万3695)
 …… さひづるや 唐臼からうすき 庭に立つ 手臼てうすに舂き おしてるや 難波なには小江をえの 初垂はつたりを からく垂れ来て 陶人すゑひとの 作れるかめを 今日けふ行き 明日あす取り持ち が目らに 塩りたまひ きたひはやすも 腊賞すも〔……佐比豆留夜辛碓尓舂庭立手碓子尓舂忍光八難波乃小江乃始垂乎辛久垂来弖陶人乃所作〓(瓦偏に缶、缻の左右反対)乎今日徃明日取持来吾目良尓塩漆給腊賞毛腊賞毛〕(万3886)
 黙然もだあらじと ことなぐさに 言ふことを 聞き知れらくは 辛くはありけり〔黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波少可者有来〕(万1258)
 大夫ますらをと 思へるわれを かくばかり 恋せしむるは 辛くはありけり〔大夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在来〕(万2584)
(注5)伊藤1976.。同書では当該三首をとり上げていないが、「万葉の序詞は、リズムの快感をたのしむ表現であるとともに、寄物して陳思する心物融合の修辞表現だったと考えられるのである。」(262頁)としている。「つなぎことば」による二重表現は、「同音異義語に富み、連想性の豊かな日本語固有の性格に由来することはいうまでもない。」(同頁)としていながらそこで止まっている。万葉歌は、ヤマトコトバを使っているうちに言葉がひとり歩きをし、その結果、成果として声に出して歌われているという側面を多分に持っているのである。
(注6)鈴木1990.は当該三首をとり上げていないが、序詞を使った万葉集の表現構造を、「事物現象を表す言葉と心情を表す言葉がたがいに対応しあうことによって、歌中の〈心〉〈物〉いずれの言葉をも超えて新たなイメージを構築しうるというしくみ」(138頁)と捉えている。言葉についてフラットにしか見ていない。実態は、さまざまな意味合いを錯綜させながら再生産しつづけるのが言葉というものである。

(引用・参考文献)
伊藤1976. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
鈴木1990. 鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会、1990年。
平舘2015. 平舘英子『萬葉悲別歌の意匠』塙書房、2015年。(「辛き恋─遣新羅使人歌の旅情─」『萬葉』第206号、平成22年3月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2010)
平舘2018. 平舘英子「序歌の方法」芳賀紀雄監修、鉄野昌弘・奥村和美編『萬葉集研究 第三十八集』塙書房、2018年。
和田2022. 和田明美『古代日本語と万葉集の表象』汲古書院、2022年。

万葉集巻一・大宝元年紀伊行幸時の歌について

2024年06月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大宝元年の紀伊行幸の際に歌われた歌は、万葉集中に少なくとも二十一首を数えるという。巻一・54~56番歌、巻二・143・144・146番歌、巻九・1667~1679番歌、同・1796~1799番歌が確かなものとされている。
 巻一に載る持統上皇の紀伊行幸にまつわる歌は以下の三首である。これらの歌について深く考察された議論は見られない。他に十八首もありながら、なぜ巻一の編者は紀伊行幸の題詞において三首しか採らなかったのか。当該題詞のもとにいかに枠組まれたのか、疑問さえ呈されていない。

  大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌〔大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌〕
 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を〔巨勢山乃列々椿都良々々尓見乍思奈許湍乃春野乎〕(万54)
  右の一首は坂門人足さかとのひとたり〔右一首坂門人足〕
 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも〔朝毛吉木人乏母亦打山行来跡見良武樹人友師母〕(万55)
  右の一首は調首淡海つきのおびとあふみ〔右一首調首淡海〕
  或る本の歌〔或本歌〕
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は〔河上乃列々椿都良々々尓雖見安可受巨勢能春野者〕(万56)
  右の一首は春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆ〔右一首春日蔵首老〕

 現状の解釈では、紀伊へ向かう途中、巨勢山、巨勢の春野、真土山について、その景勝を歌にしたかのように捉えられている(注1)。秋に行幸しているから椿の花の咲く春の野のことは今は偲ぶしかない(注2)、あるいは、真土山は明媚なところで紀州の人は上京の折ごとに愛でられて羨ましい、といったことを歌っていると思われている。しかし、その考え方には無理がある。
 「巨勢こせ春野はるの」は固有名詞であろう。季節が秋であってもコセノハルノである。また、「紀人きひと」であっても、都へ行き来することがなければ「真土山まつちやま」を見ることはない。なのにすべての「紀人」について「ともし」と評している。つまり、何を言っている歌なのか、まったくわかっていないのである。深く考えることなくなんとなくわかった気になり、放置されたままになっている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)

 作者の坂門人足さかとのひとたりがどのような人であったか、行幸に従駕していたという以外わからない。それでも、坂門さかとという氏であり、巨勢山を登っていく坂の入口に関係があるらしく思われ、そのあたりで歌を詠んだものと推測される。
 峠を越えるために坂を上っていくのは、つらく疲れる。その山道の両側に椿の木が生えていて、それを目にして歌にしたという推測は当たっているであろう。道には道端が二つある。両サイドである。前を向いて歩いていれば、顔の左右のツラ(面)に当たるところに椿が生えている。道の真ん中に生えていたら伐採されるから、自ずと左右のツラに生えていることになる。だから、「巨勢こせ山のつらつら椿」という言い方が妥当になる。それをよくよく見ながら、「巨勢こせ春野はるの」のことを思い描いて慕ってみようよ、と言っている。
 どうして「巨勢の春野」を思慕しなければならないのか、理解に苦しむ。そのため、伝誦歌として万56番歌があり、有名だったから、それに似せた歌が歌われたと思われている(注3)。しかし、この考え方を100%追認することはできない。「河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせ春野はるのは」という歌は、どうして人口に膾炙していたのだろうか。仮に都で歌われたものだとすると、春日老かすがのおゆという人が紀伊に遣わされ、帰京後に道中どうだったか聞かれて歌を歌い、天皇以下居並ぶ群臣たちから拍手喝采を受けたと想定することになる。不可能ではないものの、そのとき記憶されたとしてはたして人々に伝えられるものだろうか。確かにツラツラの部分の言い回しはおもしろいが、それ以上の含蓄を持っているわけではない(注4)。覚えておく必要のないことを口ずさんだものとは考えにくい。
 歌は歌われた時、ほとんどその時にのみ人々の関心を呼び、頭脳に働きかけるものである。奈良時代までの古代の歌は、その刹那的な瞬間芸、一回性の芸術として存在していた。無文字時代の歌だったということである。万54・56番歌に「巨勢こせ春野はるの」という言葉がくり返されている。そこに焦点が当たっているのだから、コセノハルノという言葉に人々の興趣をそそるものがあったと考えるべきであろう。もちろん、コセノハルノは地名であり、固有名詞である。すなわち、固有名詞以上のことを表しているからおもしろがられて使われていると考えられる。要するに駄洒落である。
 コセ(巨勢)のコは乙類である。下二段活用の動詞、コス(遣)の連用形と同音である。希求の助詞コソと同根の語とされ、呉れる、寄こすの意のオコスのオが脱落した形と考えられている。

 …… の鳥も 打ちめこせね〔宇知夜米許世泥〕 いしたふや 天馳使あまはせづかひ 事の 語りごとも 此をば(記2)
 霍公鳥ほととぎす 初声はつこゑは われにこせ〔於吾欲得〕 五月さつきたまに まじへてかむ(万1939)(注5)
 奥まへて 吾を思へる 吾が背子は 千年五百年ちとせいほとせ 有りこせぬかも〔有巨勢奴香聞〕(万1025)
 白玉の 五百箇いほつつどひを 手にむすび おこせむ海人あまは〔於許世牟安麻波〕 むがしくもあるか(万4105)

 他の動詞の連用形に連なる形のケースが多く、〜してくれる、の意に解されている。その後どうなってもかまわずにすることを表していて、ヤル(遣)の意に極めて近い。ヤルは、遠くへ派遣させたり、先行きがどうなってもかまわないものとして人を遣わせたり、くよくよ考えずに物事を進行させたりすることである。遠くへ行かせる、先へどんどん進めるの意からは、思いを晴らす意の心を遣るという言い方が生まれている。

 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心をるに あにしかめやも(万346)
 忘るやと 物語りして 心遣り 過ぐせど過ぎず なほ恋ひにけり(万2845)
 もののふの 八十やそともの男の 思ふどち 心遣らむと 馬めて うちくちぶりの ……(万3991)

 上代の人たちは、この意を、コセ(コは乙類)という音を聞いた時に感じ取っていたのだろう。心が晴れるところ、だから、巨勢には春野という特定の場所があって当然だと納得し、歌に歌われるのを耳にしておもしろがっていたのである。 
 いま、紀伊への行幸の途上にある。峠を越えようと難儀な行進を続けている。本当にここを登って行ったらその先に紀伊への道は開けているのだろうか、と不安がり、嫌がる気持ちを抱く人もいたことであろう。そんな心配は無用だと、この歌は歌っている。どんどん進めば思いは晴れると地名に謳っているではないか。なるようになる、案ずるより産むが易しなのだ。予定していたよりも遅れがちな鹵簿の歩みを鼓舞する歌として歌われている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)
 巨勢山で進行が遅くなっているけれど、道の両側に並び生えている椿を、遅い歩みに従ってよくよく見てごらん、そして、ここは巨勢の春野のすぐ近くであることを思い出してごらん、コセノハルノというのは、どんどん進めば心が晴れるところのことだっただろう、何のことはない、どんどん先へ進んでいけば良いことがあるに決まっているじゃないか。紀伊への道を急ごうよ。

 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
  右の一首は調首淡海つきのおびとあふみ
 
 枕詞「あさもよし」については、麻裳の産地として紀伊国が挙げられるからという説が有力視されている(注6)。この考え方は誤りであろう。そうと知らなければ成り立たなくなってしまうからである。枕詞と被枕詞との関係は、知識の有無とは無関係に成り立っているはずである。無文字時代の人にとって、言葉は誰にでも共有されなくては存立しない(注7)。それが嵩じて、今となっては訳がわからないほどに不思議な連着をもよおしている。そのようなことが成り立つ根拠には、ああ、そういうことかと納得するに足る頓知が控えているに違いないのである。
 誰にでも(子どもにでも)わかる連着の理由は、アサモというものが、喪着として使われていたことによる。キ(キは乙類)には、、そして、(注8)がある。棺を前にするには麻喪あさもを身につけるのがふさわしい。だから、「あさもよし」はキ乙類の枕詞になるのである。次のアサモノミソは、麻喪あさも御衣みその意であろう。

 七年の七月の丁巳に、[斉明天皇]かむあがりましぬ。皇太子ひつぎのみこ[中大兄]、素服あさものみそたてまつりて称制まつりごときこしめす。(天智前紀皇極七年七月)
 [菟道稚郎子うぢのわきいらつこ]乃ちまたひときに伏してかむさりましぬ。是に、大鷦鷯尊おほさざきのみこと素服あさのみそたてまつりて、発哀かなしびたまひて、みねしたまふこと甚だぎたり。仍りて菟道うぢの山の上にはぶりまつる。(仁徳前紀応神四十一年二月)
  霊亀元年歳次乙卯の秋九月に、志貴親王しきのみこかむあがりましし時の歌一首〔并せて短歌〕
 …… 玉桙たまほこの 道来る人の 泣く涙 こさめに降り 白栲しろたへの ころもひづちて 立ちまり 吾に語らく ……(万230)

 このような言葉どうしの結びつきは、この歌でさらにくり広げられている。
墳墓(左:餓鬼草紙、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016937をトリミング、右:一遍聖絵、鈴木久治写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591577/1/20をトリミング)
 「真土山まつちやま」は固有名詞で、もともと地名としてあった言葉である。それを受けて、マツチヤマとはどういうことか謎解きをしている。万葉人の語義解釈、洒落解きである。ヤマ(山)には、山岳の意のほかに山陵の意味もある。真の土でできた山陵、ないしは、真の槌の形をした山陵である。饅頭形にしててっぺんに槌の柄が立っていたとすれば、墳墓の墓標の様子さながらである。紀人きひととは棺人きひと、葬る人のことで、紀伊の棺人はあらかじめ墳墓が用意されていて世話いらずであると、きつい洒落を飛ばしているのである。したがって、四句目の「行きと見らむ」の主語は紀人ではなく、いま行幸に従駕している人々のことを指している。つまり、文句たらたらで進んでいる人に対して、遭難しても大丈夫だ、紀人きひと棺人きひとになってうまいこと葬ってくれる、すでに寿陵として真土山まつちやまが用意されているじゃないか、と言っている。トモシ(羨)という形容詞は、稀少性をもって評価の判断にする語である。ただ少ないことばかりでなく、逢うことや触れることの少なさから心が惹かれること、そこから、そういう経験を有する存在はうらやましい、という意に展開している。行幸先が紀伊国きのくにで、そこの住人は紀人きひとであり、いつでも棺人きひとになってくれる。後の心配はいらないということである。そんなことは他の国へ行く際には見られないことだから、トモシ(羨)であるとしているのである。

 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
 麻の喪服もうまい具合に合っているのが棺人きひとならぬ紀人きひとで、そんな稀な合致はめずらしくて心惹かれるなあ、なおさらマツチヤマという、いかにも墳墓にふさわしい名の山があって、我らは行きにも帰りにも目にすることだろうよ。ああ、棺人きひとならぬ紀人きひとというめぐり合わせはめずらしいものだなあ。どんなことがあっても後の心配が要らないなんてすごいじゃないか。どんどん先へ進もうよ。

 「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌」の題詞の下に、行幸の歩みを促す歌が二首並べられている。題詞と歌との関係がすっきりしている。同じ機会に歌われたであろうが、人々を進ませるために歌われたのか定かではない歌は、「或る本の歌」ということになる。

  或る本の歌
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
  右の一首は春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆ

 この歌は、万54番歌との類似性からそのもととなったとも、また、歌としてはこちらのほうがうまいとも評されることがある。しかし、それらの観点は度外視して編者は採っているものと推測される。「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌」であることに違いはないが、趣旨が異なる。皆に統一したい意思とは、紀伊国への行幸の達成である。途中でぼやぼや物見遊山することは、目的達成の妨げになりかねない。だから、「或る本の歌」というように脇へ置かれている。作者は春日老という人である。この人は当時、閲歴からして老人であったようだが、若い頃から「おゆ」という名であった。歩くのが遅いと目され、見物に夢中になって道草を食うなと注意されているようである。
 証拠がある。続紀の記事に次のようにある。

○[九月]丁亥(18日)、天皇すめらみこと紀伊国きのくにみゆきしたまふ。○冬十月丁未(8日)、車駕きよが武漏温泉むろのゆに至りたまふ。○戊申(9日)、従へるつかさ并せて国・郡のつかさどもに階を進め、并せてきぬふすまを賜ふ。また国内くぬちの高年に稲給ふことおのおのしな有り。当年ことしの租・調でう、并せて正税しやうぜいくぼさることからしむ。ひとり、武漏郡のみ本利ほんりならびゆるし、罪人つみひと曲赦きよくしやす。○戊午(19日)、車駕、紀伊より至りたまふ。○己未(20日)、駕に従へる諸国の騎士に当年の調・庸と担夫たんぶの田租とをゆるす。(続紀・文武天皇・大宝元年)

 往路で二十もかかっている。何か問題が生じたのか記されていないが、例えば豪雨による崖崩れなどに遭遇して逗留を余儀なくされていたかもしれない。そんなとき、無聊を慰めるためにこの歌が歌われていたのではないか。河が流れていれば、河には岸が両サイドにあり、だからツラ(面)は二つあるから「つらつら」にあるのであり、「つらつらに」あれば「つらつらに」見ることになるだろうが、足止めを食っているのなら文句を言わないで、ここは良いところだ、見ても見ても飽きないところだと無理やりに褒めて、人々の不満の捌け口になるような歌が歌われたのだろう。いきり立った気持ちは和んで、腰を落ち着かせることとなった。だが、これは「紀伊国きのくにいでまの歌」ではあっても、行幸の列の進行を歌ったものではないことになる。だから、万54番歌を生む本歌であっても「或る本の歌」としてしか収まらないのだった。
 このように読み解くことによってはじめて、万54〜56番歌は、その題詞のもとで三首採られていることに合点が行き、編者の意図ともども理解することができるのである。

(注)
(注1)「五四は、交通の要衝「巨勢山」の景物を、春野を表現に呼びこむことでほめた歌、五五は、その地から先の国境いの山「真土山」を、現地の人を呼びこむことでほめた歌。……旅先の土地や景物を楽しんでうたいながらも、過ぎ行く重要な地の土地ぼめを行ない、安全な羈旅を願う古くからのしきたりの上にも立っている。……地名はうたいこまれるだけで、すでに祭られたことになる。愉楽の中にも、こうして、過ぎて来た道を、今過ぎる道も、そして先行く道も安まるのである。」(伊藤1983.229〜230頁)などと、ツッコミどころ満載の評論が行われている。
(注2)シノフという言葉は、賞美する、の意のほかに、遠方の人、故人などを思慕する、慕う、の意があるが、同じ場所のめぐる季節について使われたとする確例は見られない。
(注3)山田孝雄・萬葉集講義に、「上の「巨勢山」の歌[万54]の意の本づく所はこの歌[万56]によめる如きものにして、上の歌はこの歌の如きを本としてよめるものなるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/142)とあるように、万56番歌が先に伝誦されていて、それを踏まえて万54番歌が紀伊へ向かう途上で歌われたとする考え方は広く行き渡っている。森1987.は、万56番歌に作者の春日蔵首老の名が明記されているからには、同じ紀伊行幸時に詠まれた歌であったとしている。
(注4)有間皇子事件の岩代の浜松のような強烈な印象を与えることはない。
(注5)三句目は「吾にもが」と訓まれることが多い。「吾にこせ」は木下1993.の案で、新編全集本萬葉集が採っている。
(注6)村瀬1986.
(注7)ある村だけで通じるいわゆる方言のようなものや、特定の技能に関する専門用語のようなものは、誰にでも通じるものとは言えないが、文字に定着させる術がないという条件からすれば、永続するには危うい言葉であったと考えられる。残り伝えられる言葉に秘匿性、秘儀性がないということについては、人は言葉で考え、言葉を共有することによって人であるという基本的な位置づけを顧みた時、古代における暮らしの全般、相聞、祭祀、権力など再検討されるべき課題は多いことを示唆している。
(注8)白川1995.に「き〔棺〕 ……「き」が「おく」、また木の意ならば、キは乙類である。」(265頁)とある。

(引用・参考文献)
伊藤1983. 伊藤博『万葉集全注 巻第一』有斐閣、昭和58年。
木下1993. 木下正俊「万葉集存疑訓注─枕詞「味凝」のことなど─」『萬葉』第146号、平成5年4月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/1993
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集➂』小学館、1995年。
福井1960. 福井久蔵、山岸徳平補訂『枕詞の研究と釈義 新訂増補版』有精堂出版、昭和35年。
村瀬1986. 村瀬憲夫『万葉の歌─人と風土─9 和歌山』保育社、昭和61年。
森1987. 森「春日老歌論─「つらつら椿」をめぐって(一)─」犬養孝編『萬葉歌人論─その問題点をさぐる─』明治書院、昭和62年。

「一重山(ひとへやま) 隔(へな)れる」歌

2024年06月10日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四に、大伴家持が坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思って歌った歌を横にいて聞いていた藤原郎女ふぢはらのいらつめが引き取って一首歌い、そこでさらに家持は二首歌を作り坂上大嬢に贈っている。

  久邇京くにのみやこに在りて寧楽ならいへに留まれる坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思ひて大伴宿禰家持が作る歌一首〔在久迩京思留寧楽宅坂上大嬢大伴宿祢家持作謌一首〕
 一重山ひとへやま へなれるものを 月夜つくよよみ かどで立ち いもか待つらむ〔一隔山重成物乎月夜好見門尓出立妹可将待〕(万765)
  藤原郎女ふぢはらのいらつめ、之れを聞きて即ちこたふる歌一首〔藤原郎女聞之即和歌一首〕
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり〔路遠不来常波知有物可良尓然曽将待君之目乎保利〕(万766)
  大伴宿禰家持、更に大嬢おほをとめに贈る歌二首〔大伴宿祢家持更贈大嬢謌二首〕
 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尓不所見来〕(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な〔今所知久迩乃京尓妹二不相久成行而早見奈〕(万768)

 この歌群では問題点がいくつか挙げられている。一首目の題詞に「思」とあり、妻の坂上大嬢のことを思って家持は歌を作っているが、それをなぜか藤原郎女が引き取って「即和」して歌を作っている。しかる後、家持は「更贈」る歌を二首作っている。最初は「思」うだけだったのが、今度は「贈」ることになっている。この間の事情についてどう考えたらよいか。
 多くの論者は、万765番歌の題詞に「思ひて……作る歌」とあり、万767番歌の題詞には「更に……贈る歌」とあるから、最初から贈る歌として作られていたのを横から藤原郎女が割り込んだと考えている。村瀬1988.は、「言わば一対一の男女の密室の相聞であるべき歌に、第三者……が「これを聞きて即ち和ふる」というかたちで介在してくるところに、言わば広間の相聞へと広がりをみせる」(60頁)ものであると論評している。鈴木2017.は、万765番歌の「月夜つくよよみ」について、万735・736番歌の「月夜つくよ」という言葉を踏まえた表現であると指摘し、二人の記憶に残された思い出の言葉なのだという。影山2019.は、この四首の背後には、妻に逢えずにいることを距離感をもって表すほかはないというやりきれない気持ちがあったとする(注1)。そして、家持に特有の歌群構成の手法によりできあがったものであると決めつけ、その経緯を推測して二通りの可能性を見ている。

1 当初は宴席などで交わされた家持歌と藤原郎女歌とを後日大嬢に贈ることになり、その二首と内容の上で連続する書簡歌二首を取り合わせ、全体を浄書して「寧楽宅」へ届けた。
2 家持歌と藤原郎女歌とは宴席などで交わされたのだったが、家持七六五歌一首は後に大嬢に届けられ、さらに後日、七六七、八歌を大嬢に贈った。歌集編集段階に及んで後部二首詠作の導因となった藤原郎女歌をこの位置に据え、全体を一連の作品として再構成した。
いずれに拠るときにも、全体が家持によって整えられた歌群であることに変わりはない。(30頁)

 なぜこのように曲げて解されなければならないのか。筆者はシンプル、素直に解釈する。家持が妻を思って歌を口ずさんだら、横にいた人がそれにこたえるように歌を歌った。なるほど、そういう言葉づかいもあるなと家持は思い返し、さらに歌を作って妻のもとへ計四首を伝えることにした。ただそれだけのことではないか。「浄」などしていないと考える。この点は根本的な問題である。
 相聞歌について、二人だけの内密なやりとりであるとする考え方は以前からある。村瀬1988.が想定するような、二人だけの相聞歌、密室の相聞歌、限られた相聞歌という捉え方である。しかし、歌なのだから声に出して歌われており、近くにいる人は自ずと聞いてしまう。二人だけで完結して他の誰にも聞かれないとすると、当事者が書き残す以外に後の時代に伝えられるはずはない。万葉集の編纂者の一人に違いない家持なら可能であると考えることは、他にも相聞歌が多数あることからして捻くれた見方である。相聞の歌は、歌として歌われて、周囲の人が耳にしていた。当時の歌は、歌われ、聞かれて、はじめて歌として成立していた。至極あたり前のことである。その前提で当該歌群を見直してみると、題詞のあり方に議論を呼ぶような不可解なところはない。
 家持は久邇京にあって、奈良の屋敷に留まっている大嬢のことを思って歌を歌った。当初は伝えようとは考えていなかったのだろう。それを横で聞いていた藤原郎女がすかさず合いの手を入れた。それを聞いて家持は、興が乗り、さらに二首の歌を作った。前の歌、自身の歌と藤原郎女の歌も併せて坂上大嬢に贈ることにしたのである。歌としてのおもしろさを伝えるには、声に出して聞かせることが肝要である。ましてや文字が読めたか不確かな妻へ、書いて贈ったりはしない。使者に覚えさせ伝言としたのである。
 ようやく本論の入り口にたどり着いた。問題点は二つある。第一に、藤原郎女はどうして家持の万765番歌に即座にこたえる歌を歌ったのか。第二に、家持はどうして藤原郎女の歌を聞いて、さらに二首作り、妻のもとへまるごと伝えようと思ったのか、である。興が乗った理由こそが理解されなければならない。それがわからなければ、この歌は、本当のところわかっていない。

 一重山ひとへやま へなれるものを 月夜つくよよみ かどで立ち いもか待つらむ(万765)
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり(万766)

 最初の二首の問答の本旨は、「一重山ひとへやまへなれるものを」を「みちとほじ」で返したところにある。現在の通釈書では、「一重山ひとへやまへなれるものを」は、一重の山が隔てているだけのものを、と解して、いつだって来れるだろうからと妻は門に立って待っていることだろうという意と捉えている。それに対し、「みちとほじ」と承けている。ちぐはぐな受け答えである。それが実は、藤原郎女が家持の歌意を的確に受け取ったことの証でもある。どういうことか。
 恭仁京遷都に当たり、聖武天皇は平城京からほど近い恭仁京へまっすぐ向かったわけではない。藤原広嗣の乱の最中でありながら行幸が伊勢へ向かって始まり、美濃、近江をめぐって山背の恭仁京へ遷っている。天平12年(740)10月29日に出発し、12月15日に恭仁宮に入っている。壬申の乱の時の天武天皇の行路になぞらえていると考えられている。二か月にも及ぶ「みちとほ」い行脚をしている。さぞや遠いところへ行ってしまったのだろうと、奈良の都に留まっている妻、坂上大嬢は思うことであろう、というわけである。藤原郎女が坂上大嬢の代弁をしている。
「聖武天皇の「大行幸」行程図」(栄原2014.39頁に「一重山」(⛰⛰⛰⛰)を筆者加筆)
 では、どうして「一重山ひとへやまへなれるものを」と冒頭から断っているのに、相手は近くにいるとは気づかなかったのか。それは、次の「月夜つくよよみ〔月夜好〕」という文句である。ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)は、月夜が良いので、月明かりがきれいなので、の意に解されている。だがそればかりではない。「月夜つくよ」という語には月の意を表すことがある(注2)。すなわち、ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)はツクヨ、すなわち、月をヨミ(読)した。月読つくよみとは月日を数えることである。したがって、万765番歌は、一重の山が隔てているだけなのだけれども、迂回しなければ往き来できなくて、行った時に二か月かかったように、妻のもとへ帰るのには同じだけ日数がかかるだろうから、あと何日か、あと何日かと月日を数えては、妻は門に立って待っていることだろうという意にも捉えられるわけである。
 こういう機知あふれる歌を家持は歌にした。そうでなければそこにいない人のことを思った歌を、これ見よがしに声を張って歌ったりしない。妻を思って歌を歌って悪いとは言わないが、お宅のことなど知ったことではない、大人なんだからぐずぐず言わない、といったところがもっぱらの反応ではないか。洒落た言い回し、頓知の歌ができたから家持は歌を披露した。その意をよく理解した藤原郎女がすぐに歌で和した。家持さん、うまいじゃないの、と敬意を抱いている。興に乗った家持は、加えて二首作り、奈良に留まっている妻のもとへ、こんなやりとりがあったよ、おもしろかったよ、お前もおもしろいと思うだろう、と伝えているのである。

 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な(万768)

 万767番歌にあるウケヒは、願って、の意と解する説が多い。多田2009.に、「「ウケヒ」は、ここでは夢を見るよう祈誓すること。「ウケヒ」は、本来、神意を判断する呪術。A→a、B→bのように、生ずる事態とその判断とを前もって定めておき、得られた結果を神意と見なした。……大嬢の魂が通って来れば、魂逢いによって夢が見られる。自分を思ってくれないことへの恨み言。」(174頁)と説明がある。だが、ここで言いたいのは「妹」への恨み節ではなく、「都路みやこぢを遠みか」を示すところにある。藤原郎女が代弁する形で「道遠み」と言っていたように、「寧楽の宅」から「久邇京」まで50日弱かかる道のりのことを指している。「妹」は50日弱かかると思っているから夢に現れてくれないのだろう、ととぼけたことを歌っている。ウケヒと断っているのも、「妹」が「寧楽の宅」と「久邇京」とは「一重山ひとへやまへなれる」にすぎず、実は近いところだと思っているのなら近いのだから夢に現れるだろうし、50日弱かかる遠路だと思っていたら遠いから一晩のうちでは辿り着けずに夢に現れないだろう、と仮定しているわけである。
 仮にこの歌で恨んでいるとすると、家持のほうが思いが強い片思い的な状況になる。すると、次の万768番歌が、家へ帰って「妹」の顔を早く見たい、それで夫婦関係を安定させたいというやきもち的な内容を歌っていることになる。しかし、それでは、万765番歌で「かどで立ちいもか待つらむ」と歌っていたこととの間に齟齬が生じてしまう。万767・768番歌の題詞に「更」(注3)とあることに反することになる。筆者の捉え方に依れば矛盾なく受け取ることができる。
 そして、万768番歌も、「寧楽の宅」と「久邇の都」との間の距離感をおもしろがって歌にしたものだろう。「今知らす久邇くにの都」と冒頭に歌われている。既知のことがらをなぜ詠むのか疑問視する向きもあるが、遷都した意味を述べるのではなくて、その都の名について頓智としているのである。クニの都というのは、国都を意味する。「今知らす」とは、今、天皇が領有しているという意味で、その版図の中心にあるのが都である。対外的に「日本」と表記される国であるが、訓みはヤマトである。その中心に位置して都があって然るべきなのは、行政単位としての大和やまと国である。ところが、平城京から一山越えただけの恭仁京は、行政単位としては山背やましろ国にある。言葉の論理の上では少々問題が起きている。だからこそ、「今知らす」と当たり前のことを冠して歌っているわけである。
 つまり、この歌は、山背国にある「久邇くにの都」がはたしてヤマトの国の都としてふさわしいのか、長い行幸の末に遷都したところよりも、平城京へ戻った方が賢明なのではないか、といった感慨を「妹」と早く逢いたいと歌うことによって言わんとした可能性を含む歌なのである。論理的誤謬に対して聖武天皇は秘策をくり出している。「大倭国やまとのくにを改めて、大養徳国やまとのくにとす。」(続紀・天平九年十二月二十七日)、「なづけて大養徳やまと恭仁大宮くにのおほみやとす。」(同・天平十三年十一月二十一日)とある。天皇は、ヤマトを「大養徳」と書くように命じている。天皇が大いなる徳を養ってそのために垂れる国になるようにというのである。だから、天皇の在所は「大養徳」なるところであるはずで、行政区分では山背国に当たるのかもしれないが、「大養徳恭仁大宮」だと言って憚らないのである。
 この「大養徳恭仁大宮」なる命名(命字)が当該歌よりも先であったなら、「今知らす久邇くにの都」は「大養徳やまとの恭仁大宮くにのおほみや」であり、「寧楽の宅」同様、ヤマト・・・にあるのだから、近いのだから、「はや見」ることは簡単なこと、すぐにでもできることである。「一重山ひとへやまへなれる」だけだということを言い方を変えて歌にしたのである。

(注)
(注1)影山氏の生硬な言い回しを筆者なりに砕いた。
(注2)ツクヨミという語に、「月読つくよみ(ミは乙類)」の意とは別に、「月夜霊つくよみ(ミは甲類)」、月の意のツクヨに神の意のミがついた形があって、早くから混同されていた。
(注3)「更」字を「また」と訓む説もある。

(引用・参考文献)
影山2019. 影山尚之「坂上大嬢に贈る歌─距離の感覚と作品形象─」『萬葉』第227号、平成31年3月。萬葉学会HP学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir(『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。)
栄原2014. 栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』敬文舎、2014年。
鈴木2017. 鈴木武晴「家持と書持の贈報再論─異論を超えて真実へ─」『都留文科大学研究紀要』第85集、2017年3月。都留文科大学学術機関リポジトリhttp://trail.tsuru.ac.jp/dspace/handle/trair/802
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
田野2007. 田野順也「『万葉集』における隔絶感の表現─中臣宅守歌の「山川を中にへなりて」をめぐって─」『同志社国文学』第66号、2007年3月。同志社大学学術リポジトリhttps://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005382
村瀬1988. 村瀬憲夫「家持の相聞歌─恭仁京時代─」『上代文学』第60号、1988年4月。上代文学会HP機関誌『上代文学』目次
https://jodaibungakukai.org/02_contents.html(『大伴家持論─作品と編纂─』塙書房、2021年。)

玉藻の歌について─万23・24番歌─

2024年06月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻一の万23~24番歌は、罪科に問われた「麻続王をみのおほきみ」という人にまつわる歌である。原文と伊藤1995.の訓読、訳をあげる。



解釈の現状と「和歌」

 背景の事情はよくわからないものの、万23番歌は、島流しにあった麻続王が海岸で藻を採っておられるのを人々が同情して詠んだ歌であるとされている。そのことは次の万24番歌の「和ふる歌」を併せて考えれば明らかだという。ただし、「和歌」と呼べるものは、先に作られた歌を主とし、それに応えて従とされる歌のはずであるとも考えられている(注1)。筆者の予断ではあるが、「和」さずとも一首で十分に歌として機能して完結しているものに、さらに加えて厚みを増す作用を示したものが、「和歌」と呼ばれたのではないかと考える。同じ事柄について別の視点から歌としてあわせたという意味である。歌う立場が異なるのは贈答歌である。伊藤1995.を含め、現状の解釈では、万23番歌+α の歌として計二首を捉えるのか、逆に万24番歌を導く伏線として万23番歌が置かれているか、いずれにせよ、そうだそうだと言い合っているに過ぎないものとして考えられているように感じられる。足して1になるのではなく、足せば2以上の効果、膨らみがあるのが「和歌」なのではないか。
 なお「白水郎」はアマと訓んで「海人あま」のこととされる。もとは中国南方の白水地方の郎、すなわち男性の称から来ているという(注2)。また万24番歌の第一句、「うつせみの」は、現実の世の意味から「命」を導く枕詞とされている。ほかに、第五句は、「玉藻刈りす」、「玉藻刈りむ」と訓ずる説もある。この五句目と一句目の訓は、これらの歌の眼目である「和歌」の真髄において正しく訓まれなければならない。現状の解釈では不十分である。
 影山2011.は、万17・18番歌の額田王の近江下向の歌に続く万19番歌の井戸王の歌に「即和歌」とある点について、次のように論じている。



 万19番歌は左注にあるように和歌に似ていないとされている。万葉集の編纂者は時代を追って引き継いでいったものと考えられるから、厳密に文字を使い分けていたかどうかは定められないものの一定の目安にはなるであろう。「即和歌」にはもう一例、左注で記される万3844・3845番歌がある。そこでは「左注」に記されており、お互い、からかい喧嘩の言い合いになっている点から、影山2011.の考察では対象としていない。
 万23・24番歌は、「和歌」とだけあり、「即和歌」ではないが、①~④の例と共通点が多い。そこで、以下にそれらの例を示す。



 以上の歌のやり取りの特徴として、即座にその場にいた作者が、前の歌に和して歌い返していること、そして、応酬の場を具体的に想定できることがあげられている。さらに、影山2011.は、「鸚鵡返しや人称の一方通行」(27頁)が見られることを指摘する。「前歌との接続性を主張するために言語上の密な関係を構築しようとする所為と理解され、いうならば本来は贈答唱和を期待していない詠歌に対し自ら進んで「和歌」として連なろうとするのが「即和歌」であると考えられるのである。」(25~26頁)という。万23・24番歌も、即時性や同場性は欠けているものの、これらととてもよく似た傾向にある。両歌の主語は麻続王である。同時代性と共場性を有した歌ということができるのではないか。麻続王は自ら進んで「和歌」として連なろうとしたのである。
 村田2004.は、万23番歌「哀傷作歌」の作者について、紀歌謡に現われる「時人歌」の特徴と共通すると論じている。「すなわち、①歌の表現上に事件に関する固有名詞が登場し(麻続王)、②作者に興味を示されず(人)、③短歌形式であり、④事件最中(後)の詠であり、⑤話者の感想が歌われる(海人なれや)」ことから、「当該歌は「時人歌」の一つとして把握してよいであろう。」(277頁)とする。「時人歌」的な性格を持った万23番歌に対して、事件渦中の当事者である麻続王が「和」したことになり、きわめて特殊な歌群である。
 この点は、歌の字句にある「玉藻」を「刈る」ことに関しても指摘されている。内藤2012.は、万葉集中の「玉藻刈る」歌全24例について概観し、「玉藻」を「刈る」主体がアマ(海人)やアマヲトメ(海人娘子、海人通女、海少女)の例が多く、他には後に触れる41番歌に「大宮人」が「玉藻」を「刈る」歌があるなか、万23・24番歌は、罪を得て配流された王自らが「玉藻」を「刈る」歌となっていて、「『万葉集』において他に類例のない特殊な「玉藻刈る」歌である。」(272頁)と評している。

歴史事件との関係

 左注の記事と現行の日本書紀との間には、日付の干支に違いが見られる。紀では天武四月朔日を甲戌きのえいぬ、麻続王が罪を得た日を辛卯かのとうに作る。しかし、いずれにせよ18日に当たっているので、事実に誤りはないものと考えられている。結局、麻続王は因幡、一人の子は伊豆大島、もう一人は五島列島に流罪になっている。

 辛卯に、三位みつのくらゐ麻続王罪有り。因幡に流す。一の子をば伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋ちかのしまに流す。(天武紀四年四月)(注3)

 新大系文庫本万葉集に、「左注の日本書紀の言う通りだとすれば、遠流・中流・遠流の三つのうち、罪の主体と考えられる王が近流の因幡、連座したと思われる子の一人が中流の伊豆、一人が遠流の九州の血鹿島(→八九四)に流される重い刑を受けたことになり、尋常ではない。史料に何らかの混乱があったか。」(73~75頁)とする。「罪の主体」が「王」であるという前提は先入観にすぎない。子どもの方が罪を犯し、親が連座させられているのだろう。連座でも罪は罪だから、「三位麻続有罪。」と記されても不思議ではない。少なくとも、その可能性を排除して史料批判をしてはならない。
 天武朝は中央集権的な国づくりが進んだ時代であった。斉明天皇が構想していた天皇中心の国家像は、律令制度の導入によってより完成されたものになっていく。人々にとって、それは「百姓おほみたから」にせよ、官人にせよ、必ずしも明るく伸びやかで自由な風潮の時代であったとは限らない。実際、天武天皇は当初から諸々の禁令を発している。

 癸巳にみことのりしてのたまはく、「群臣まへつきみたち百寮つかさつかさ天下あめのした人民おほみたからもろもろのあしきことすことまなし犯すこと有らば、事に随ひて罪せむ」とのたまふ。(天武紀四年二月)

 漠然とした一般論に見えるが、推古朝に聖徳太子が山背大兄王やましろのおほえのみこ等に語ったとされる遺言、「諸のあしきことそ。諸のよきわざ奉行おこなへ。」(舒明前紀)に由来し、大本は七仏通誡偈「諸悪莫作、諸(衆)善奉行、自浄其意、是諸仏教」によっているとされている。聖徳太子が親族の心の戒めとして言っているのに対して、天武天皇は治安維持のために言っている。道徳の内面化を社会全体に広めようとした政策である。教育勅語のようなものと考えればわかりやすいだろう。

 癸卯に、人有りて宮のひむかしの丘に登りて、妖言およづれごとして自らくびはねて死ぬ。是の夜のとのゐに当れる者に、ことごとくかがふり一級ひとしなを賜ふ。(天武紀四年十一月)

 夜中に、飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやの東の岡、現在の明日香村岡に登って、反体制のアジテーションを行って自決した者がいた。宿直の者全員が一階級増されているところを見ると、政権は口封じをしたようである。

 丁酉に、宮中みやのうち設斎をがみす。因りて罪有る舎人等とねりどもゆるす。乙巳に、飛鳥寺のほふし福楊ふくやうつみしてひとやに入る。庚戌に、僧福楊、自ら頸を刺してみうせぬ。(天武紀十三年閏四月)

 罪科を問うておいて恩赦を与えたり、牢獄へぶち込んだ僧侶が自死している。事をとり立てている記事ではないから、当たり前のことと思われる世相であったと考えられる。窮屈な世の中に暮らし続けると、だんだん感覚が麻痺してくる。全体主義的な時代を経験している。職務を全うすることに明け暮れた役人は、良心を滅却して火もまた涼しくなる。

 壬寅に、杙田史名倉くひたのふひとなくら乗輿きみ指斥そしりまつれるといふに坐りて、伊豆島に流す。(天武紀六年四月)
 丁亥に、小錦下せうきむげ久努臣摩呂くののおみまろ詔使みかどのつかひむかこばめるにりて、官位つかさくらゐことごとくらる。(天武紀四年四月)

 律令では名例律の規定として、「八逆」の大罪の一つ、「大不敬だいふきやう」の罪に、「……乗輿じやうよ指斥ししやくするが情理じやうり切害せつがいある、及び詔使ぜうしむかこばむで人臣にんじんらい無きをいふ。」とあげている。それぞれ本来なら斬首、絞首に相当する罪である。罪が軽くなっているのは、厳格に適用するのには当たらない低俗なものだったからであろう。後者の事例で登場する久努摩呂という人は、諫言する人物であったようである。同じ天武紀四年四月条に、「辛巳に、みことのりしたまはく、『小錦上せうきむじやう当摩公麻呂たぎまのきみまろ・小錦下久努臣摩呂、二人、朝参みかどまゐりせしむることなかれ』とのたまふ。」とありながら、天武天皇の亡くなった朱鳥元年九月条に「直広肆ぢきくわうし阿倍久努朝臣麻呂あへのくののあそみまろ刑官うたへのつかさの事をしのびことたてまつる。」と再出する。天皇は反省して適材を適所に復帰させていたようである。しかし、天武四年の段階では、完璧なるイエスマンが求められている。社畜ならぬ国畜になり切らないといけない生きづらい時代になっていた。
 その天武四年四月、麻続王は罪を得た。彼が子どもともども連座して流されているのは、大不敬のような重罪を犯しつつ、罪一等を減じられたということであろう。子どもの方が都から遠いところに流されているから、子どものいたずらの責任を親が負わされたに違いあるまい。久努麻呂という人が懲戒処分で官位を奪われてからわずか四日後である。あるいは、麻続王事件に関係してのことではなかろうか。査問委員会か懲罰委員会にかけられた麻続王一家のことについて、どうだっていいじゃないかという久努麻呂と、こういうことこそ大事なのだという天皇の使者との間のいさかいである。玉藻の歌とは、その時の事件簿であった可能性が濃厚である。

無文字時代の「歴史」

 それは、歌の題詞と左注との間の齟齬からも感じ取れる。左注の筆者は、万19番歌(「綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓着成目尓都久和我勢」)に左注を施したのと同一人物である蓋然性が高い。万19番歌では、「右の一首の歌は、今かむがふるにこたふる歌に似ず。ただし、旧本、このつぎてす。このゆゑになほ載す。」と注している。一方、万24番歌においては、「和歌」とある点についていっさい疑問を呈していない。左注の筆者は、「和歌」であることはそのとおりであるとしている。「歌辞」にある「伊良虞嶋」自体も不審に思っていない。歌辞ではなく、設定としての題詞のほうに疑問をいだいている。題詞に、流された場所を「伊勢國伊良虞嶋」としている点について間違えではないかと感じている。現在伝わる紀にも引用と同等の記事があり、麻続王が「伊勢國伊良虞嶋」に流罪になったという事実はないようである。
 では、左注の言うように、歌の字句のために題詞を間違えたかと考えてみると、そもそも歌の字句がなぜ「伊良虞嶋」の話になっているのかという疑問が浮かぶ。「伊良虞嶋」は現在の愛知県の渥美半島の先端、伊良湖岬かその近辺の島に比定されている。半島をもってシマと呼ぶ例は、志摩国が半島であるなどあり得ることである。しかし、「伊良虞嶋」は伊勢国ではなく三河国である。もとより当時の国境がいかなるものであったか確かではなく、伊勢湾を挟んで隣接する「国」である。その間にある神島を指しているとする説(澤瀉1957.227~228頁)もある。しかし、むしろ、伊勢国と三河国の間に、志摩国が位置していることに注意が払われるべきであろう。
 左注を付けた人は万葉集の最初の編者とは別の人であったと思われる。最初の編者はシンプルに、標目、題詞、歌だけを記し、それを引き継いだ二番目の編者が、左注を施したうえで歌の採録を続けていったのだろう。万19番歌の左注に、「旧本」と記されており、左注を付けた人は「旧本」を写しているとわかる。この両者の間には時代の展開、文化的な大転換点があった。完全な無文字文化から一部に生得的に文字を学んだ世代がいる文字文化への転換である。それは同時に、律令制の導入時期にあった。万葉集の歌においても、それとちょうど対応するように、額田王の口承の歌から、柿本人麻呂の筆記メモ帳の歌へと転換していった(注4)。その両文化の間にあるクレバスは深く、無文字文化の文化について、文字文化の人には時にわからないことが起きるようになっている。言い伝えに伝えられた説話の内容は、無文字文化で当たり前のこととして常識として受け止められていたが、文字文化の時代が進むにつれ、常識ではなくなっていった。世の中を学ぶことの意味合いが、それまでの言い伝えを聞いて悟って知るという方法から、書いてある文字を見て知識を積み上げて理解するという方法へと変っていった。脳の使う部位が異なってきた。音声言語によりかかった思考と、視覚言語(文字)によりかかった思考とでは性質が異なる。知恵と知識の違いとして表されよう。なぞなぞとクイズの違いと言っても良い(注5)
 万24番歌に左注を施した人はネイティブに文字に親しんで育った人であり、麻続王よりもひと世代後の人、つまりは異文化に属していた。反対に、麻続王事件を歌った「人」と彼に和した「麻続王」は、ともに同時代の無文字文化の人である。それらの歌詞を聞くと、狐につままれたような感じになる。記紀に残されている語句があらわれている。万23番歌に見える「海人あまなれや」という句である。この句は、言い伝えのなかの諺に登場する。応神記、仁徳即位前紀の皇位継承辞退の話に、「海人あまなれや、おのが物からねなく」などとある。



 当時、皇太子のウヂノワキイラツコとオホサザキノミコト、後の仁徳天皇とが皇位を譲り合っていた。そして、菟道宮、今の宇治市と難波、今の大阪とに分かれて住んで三年が経過していた。時に漁師が鮮魚を贄として天皇に献上しようと菟道に持って行ったところ、ウヂノワキイラツコは自分は天皇ではないと言って断り、難波に進上させた。ところが大オホサザキノミコトも固辞して今度は菟道へ向かわせた。行き来する間に贄の魚は腐ってしまい、漁師は泣いたというのである。そこから、自分の持ち物が原因で憂き目を見ることがあるという諺になったと伝えている。
 この諺の焦点は、真ん中のヤが反語の助詞で、海人であるからか、そうではないのに、自分の持ち物が故につらい目に遭う、という意味のことである。応神記、仁徳前紀の逸話は、諺に「海人」が持ち出されている謂われを語っている。逸話があって諺が成立したのではなく、諺はもともと存在し、それを後講釈するのにとてもうまく合致する贄献上の出来事があったので、それに託けて逸話をまとめ上げているものと考えられる。
 万23番歌にしても、麻続王は海人ではない。諺を意識して上の句を挿入しているとすれば、歌の後半の玉藻を刈ることがつらいことという考えに固まってくる。けれども、諺が持つべき本来の意味、言葉の変化技が少しも生きてこない。ただ泣きを見たというのでは冴えない。意外なことに自分の持ち物が災いして泣く結果に至ったという展開が欲しい。修飾形容のために諺を引いてきた理由は必ずやあるだろう。
 反歌の万24番歌の題詞に、「麻続王、聞之感傷和歌」となっている。この歌を作ったのは麻続王である。前の万23番歌を受けて歌っている。結果、四・五句目が繰り返し調になっている。この箇所の訓については、意図的に用字を変えているようであり、違えて訓むのであろうとする見解も多く見られた。しかし、用字を変えた真の理由は、同じ言葉、言い伝え世代にとって重要な音を強調するためであったとも考えられる。題詞には、「和歌」と明記されている。影山2011.の指摘どおり、同じ言葉(音)の反復をこそ求めている。微妙なニュアンスや音韻の違いを引き立たせるべき理由は見当たらない。ただし、単に同じ語句(意味)を追従したというのではない。この場合、音は同じであるが意味は異なるということではないか。なぞなぞ的発想である。
 コタフルウタに「和歌」と記されている。「応歌」、「答歌」とはされていない(注6)。論語・子路篇に、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(君子和而不同、小人同而不和。)」の有名な文句がある。この言葉の例証としては、春秋左氏伝・昭公二十年条に載る、斉の景公と晏氏(晏嬰)の問答が分かりやすい。景公が狩りから帰った時、腹心の部下が急いで駆けつけてきた。それを見て景公は、彼だけが心が和合すると言った。それに対して晏氏は、彼はただ君と心を同一にしているだけで、和合してなどいないと答えた。その時景公は、「和と同と異なるか。(和与同異乎。)」と尋ねた。晏氏は、和というのはあつもの、すなわちスープを作りようなことだと譬えている。狩りの獲物でスープをこしらえるとき、料理人は火加減、水加減、味加減を調節する。それが「和」であると言っている。足りないところは増やし、多すぎるところは減らす。塩梅アウフヘーベンである。
 「和歌」とはその原初段階において、弁証法的なものであったと推測される。つまり、万23・24番歌の下の句の類似は「和合」の一致をみている。しかも万24番歌の作者は、流罪にあった当人だから、流刑地が「伊良虞嶋」でないことはもとより承知している。にもかかわらず、前の歌を踏襲しているということは、「射等籠荷四間乃珠藻苅麻須」=「伊良虞能嶋之玉藻苅食」にはワザがあって、歌意を示す重要なキーワードが隠されているということである。この四・五句目の訓みこそがこの歌の焦点である。

「玉藻」とは何か

 「玉藻たまも(珠藻)」は、美しい藻のことで、「玉(珠)」は美称であるとされている。ほかに「玉裳たまも」という言葉もあり、美しいスカートのことを指す。柿本人麻呂には、この二語の類想から作られたらしい歌がある。



 これらの歌は、持統六年(692)三月、諫言を聞き入れずに行幸を決行したときの歌である。三首目には「伊良虞」の地名まで登場している。この時、三河へ渡ったという記事は見られない。持統天皇は後に退位し太上天皇となり、文武天皇の大宝二年(702)十月に三河まで足を延ばし、その年の十二月に亡くなっている。問題は、飛鳥時代の後半当時、文字に慣れていた人麻呂すらが、「玉藻」と「玉裳」の同音異義語の駄洒落を楽しんでいる点である。歌はヤマトコトバで作られ続けており、言語空間は声を中心に成立していて、基本的に無文字時代と変わりがなかったのである。人麻呂は、万23・24番歌を参考にして、万40~42番歌を作ったようである(注7)
 「玉藻の歌」において、伊良虞なる地名は地名本来の役割を果たしていない。麻続王と関連性がないのである。「伊良虞の島の」は序詞で、「玉藻」を導く字詞として使われた可能性が高い。その地と歌との間に何らつながりはなく、駄洒落として地名が引っ掛けられて採用されているにすぎないからである。流された因幡は今の鳥取県の東半で海沿いではあるが、彼が漁師に転職したという話は伝わらない。また「玉藻」ではなく、「玉裳」であったと仮定しても、麻続王が女装したために刑に処せられたとは考えにくい。ヤマトタケルが女装して熊曾(熊襲)を征伐したという騙しの話は伝わるものの、罰則を伴った女装禁止令は見られない。最後に残るのは、「玉藻」=「珠藻」とあるのは、ふつうのタマモ、万葉集中の海藻のタマモではないという説である。玉藻は、中国の冕冠べんかん玉藻ぎょくそうのことを指し、その訓読語のようなものではないか。そして、「海女なれや、……」の諺を引用している。

 打麻うつそ(注8)を 麻続王をみのおほきみ 海人あまなれや 伊良虞いらごの島の 玉藻たまもす(万23)
 うつせみの 命をしみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す(万24)

 〔打麻を〕麻続王は大海人皇子おほあまのみこ(注9)(天武天皇)なのであろうか、大海人皇子ではないのに、(伊良虞の島といえばお馴染みの)玉藻たまもならぬ玉藻ぎょくそうのついた冠を借りて国を治めるとは。(万23)
 〔うつせみの〕命が惜しいから、浪に濡れて(伊良虞の島で名高い)玉藻を刈って食べるような暮らしに甘んじるのだよ。(万24)

 礼記・玉藻篇に、「天子は玉藻ぎょくそう、十有二りう、前後、延をふかくす、龍巻りょうかんして祭る。(天子玉藻、十有二旒、前後邃延、龍巻以祭。)」とある。天子の冕冠には、垂れ玉を十二条つけるように指示されている。冠の前後は、糸で玉を貫いて飾りとしていた。麻続王よりもその子どものほうが遠流になっているので、天皇だけが被ることのできる垂れ玉付きの冠を子どもたちが遊んで被ったらしい。
 増田1995.165頁によれば、袞冕十二章は、中国の天子が元日朝賀の儀に身につける服装で、唐書・車服志に、「袞冕者、践祚・饗廟・征還・遣将・飲至、加元服、納後、元日受朝賀、臨軒冊拜王公之服也。広一尺二寸、長二尺四寸、金飾玉簪導、垂白珠十二旒、硃絲組帯為纓、色如綬。深青衣、纁裳、十二章、日・月・星辰・山・龍・華蟲・火・宗彝八章、在衣、藻・粉米・黼・黻四章、在裳。衣画、裳繍、以象天地之色也。自山・龍以下、毎章一行為等、毎行十二。衣・褾・領画以升龍、白紗中単・黻領・青褾・襈・裾、韍-繍龍・山・火三章、舄加金飾。」とあるように、頭に冕冠を被り、深青色の衣と纁色の裳をつけるようになっているという。
 中国で旒の垂れる冕冠の形態が整えられたのは、後漢・明帝の永平2年(59)のこととされている(注10)。冕冠の古い絵画作品できれいに残っているものとして、宋代の模写、20世紀の加筆も見られつつつも、唐・閻立本(?~673年)の「歴代帝王図巻」がある(注11)
伝閻立本、歴代帝王図巻(唐時代、7世紀、絹本着色、ボストン美術館蔵、武皇帝劉秀(後漢光武帝)、Wikimedia Commons「Han Guangwu Di.jpg」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Han_Guangwu_Di.jpg)
 説苑・君道篇、呂氏春秋・審応覧・重言篇、史記・晋世家本紀には、周の成王と唐叔虞との逸話が載る。成王は年の離れた幼い弟、唐叔虞に対し、大きな桐の葉っぱを細工して冠の形に作り、爵位を与えて諸侯にしてあげようと言った。子どもだから喜んで、叔父さんの人格者、周公旦、のちに孔子が理想の聖人と考えた人のところへ報告に行った。周公旦は成王に会見して、「天子に戯言無し。(天子無戯言。)」と説いた。そこで、言葉通りに幼い弟を封じたという。上に立つ者は発言を慎重にしなければ、治まるものも治まらない。麻続王も子どもたちをきちんと躾けておいてもらわないと困るのである。三位(注12)麻続王は、天武天皇(大海人皇子)の冠帽を整える役職にあったのかもしれない。「麻績王」という名があったのは、名に負う役職に就いていたからという可能性は十分にある。冕冠の本体は絹製かもしれないが、ガラス玉を垂らす紐は麻の緒でできていたのではないか。そして、仕事場へ子どもを連れてきて、遊び場と化していたようである。
 下二句は、「玉藻たまも」と「玉藻ぎょくそう」、「借り」と「刈り」の準え、駄洒落から成っている。カルはいずれもアクセントを等しくする。万23番歌の用字は借訓である。五句目はともにヲスと訓む。統治する意味と食べる意味の敬語とを掛けている。万24番歌のヲスは、自嘲的に使われた自称敬語なのであろう。編者は万23番歌の原文に、「白水郎」、「藻」などと紛らわしい表記を施して、当局に感づかれないようにしている。政権に対するシニカルな諷刺戯歌(万23)が先にあり、それに呼応する形で諦観の歌(万24)を唱和した掛け合わせになっている。麻続王は、「(大)海人あま(皇子)なれや、己が物から泣く」羽目に陥ったらしい。

「うすせみの」と服制

 万24番歌の冒頭、「うつせみの」は、一般に「世」や「人」を導く枕詞である。この言葉の由来はウツシオミにあると指摘されている。



 「うつしおみ(宇都志意美)」(ミは甲類)は、「現し臣」がもともとの言葉とされている。雄略天皇は山中で謎の人物に出会い、横柄な態度をとっていた。すると相手が一言主神ひとことぬしのかみであるとわかった。そこで、自分は現世において神に仕える臣下だからわからなかったと謝っている。つまり、「うつせみ(うつそみ)」という言葉は、現在という時制を表すだけでなく、この世の人、なかでも天皇を指した言葉であった。
 続紀に、「天皇命すめらみこと」(文武元年八月・慶雲四年四月ほか)という表記がある。詔を記した宣命体の話し言葉の場面で用いられている。古代の言文一致運動の成果である。「皇」=スメ(ラ)、「命」=ミコト(御言)が本来である。ミコトに命の字を当てることは、古事記に「倭建命やまとたけるのみこと」とすでに使用されている。高貴な方のお言葉、「御言みこと」とは命令である。よって、「うつせみの」は命という字で表される言葉を導き、寿命の意味でイノチとも言うから、枕詞的な序詞に流用されたのであろう。
 中国の真似をして天皇が玉藻のついた冕冠を被った記録としては、奈良時代の天平四年(732)正月、聖武天皇の朝賀の儀からとされている。続日本紀に、「四年春正月乙巳の朔、大極殿だいごくでんおはしましてでうを受けたまふ。天皇始めて冕服べんふくす。」とある。朝賀の儀の記述は、大宝元年(701)正月条に、「天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。」とあるのが最初である。だが、その半世紀前の天武天皇(大海人皇子)代、さらにその前にも、賀正の礼の記事はある。



 また、大仏開眼会のような仏教行事の関連で言えば、まさに天武四年四月にも行われている。

 夏四月うづきの甲戌の朔にして戊寅に、僧尼ほふしあま二千四百余ふたちあまりよほたりあまりせて、大きに設斎をがみす。(天武紀四年四月)

 天武天皇(大海人皇子)は、髪形や服装を中国風に改めたほど中国にかぶれている。

 乙酉に、詔して曰はく、「今より以後のち男女をのこめのこことごとくに髪げよ。十二月しはすの三十日みぞかのひより以前さきに、へよ。唯し髪結げむ日は、亦勅旨おほみことのりなぞらへ」とのたまふ。婦女たをやめの馬に乗ること男夫をのこの如きは、其れ是の日におこれり。(天武紀十一年四月)

 髪形を中国のように髷に結わせようとしている。服装のほうもやかましい(注13)

 辛酉に、詔して曰はく、「親王みこたちより以下しもつかた百寮つかさつかさ諸人ひとたち、今より已後のち位冠くらゐかがふり及びまへもひらおび脛裳はばきも、着ることまな。亦、膳夫かしはで采女うねめども手繦たすき肩巾ひれ 肩巾、此には比例ひれと云ふ。ならびることまな」とのたまふ。(天武紀十一年三月)

 襅は前裳、褶は枚帯、脛裳は脚絆、手繦は襷、肩巾は肩にかける薄い布切れである。



 前半は中国風の服装について、子細は自由にして構わないとの記事である。後半は、二年前の髪形、馬の乗り方についての規定を緩めるお達しである。巫覡のような神職に垂れ髪を許すのは、憑依による神憑り儀礼のときに、髷を結っていては様にならないためであろう。さらに三年後に、中国の服装、髪型の導入が失敗に終わったことを物語る記事がある。

 秋七月ふみづきの己亥の朔にして庚子に、みことのりしてのたまはく、「また男夫をのこ脛裳はばきもを着、婦女めのこ垂髪于背すべしもとどりすること、なほもとの如くせよ」とのたまふ。(天武紀朱鳥元年七月)

 以上の服制についてのごたごたを勘案すれば、玉藻のついた冕冠も、最初は飛鳥時代のほんの一時期、天武朝期に皇位を重々しく見せるための装飾品として利用された可能性が十分にあると考えられる。賀正の礼や設斎に被ったのだろう。
 歌の本来の意味について、左注を付けた人は微妙な言い回しをしていて、理解しているようには見えない。言葉を表面的に検索するばかりでは、無文字時代特有のなぞなぞの知恵が施された歌意にたどり着くことはできない。

伊勢国の伊良虞島という設定

 最後に、この「玉藻の歌」が、なぜ配流地と関係のない「伊良虞嶋」に設定されているか、また、それを編者は、なぜ「伊勢国」と断り記したかについて検証する。「伊良虞嶋」が唐突に登場しているのには、天武紀の麻続王事件の記事に近いところにヒントがある。

 壬午に、詔して曰はく、「諸国もろもろのくに貸税いらしのおほちから、今より以後のちあきらか百姓おほみたからて、富貧とめりまづしきことを知りて、三等みしなえらび定めよ。りて中戸なかのへより以下しもつかた貸与いらしたまふべし」とのたまふ。(天武紀四年四月)

 種籾を貸与しておいて、収穫に当たっては利子として税を徴収するという政策である。その割り当てについて、種籾を十分に持たない者を優先して貸し付けるようにと通達している。中小企業ローンの促進策のようなものである。「貸」とは、上代語でイラスである。すなわち、イラゴとは利子のことである。それが税にプラスされて上納される。中小零細農家に貸し付ければ、種籾を持てないぐらい切迫しているから、秋に収穫した新米で返済することになる。大規模富裕農家だと、前年以前に収穫した古米を取り置いて充てるかもしれないから返された米は美味しくない。そうならないように、中小零細を使っている。この新米の上納とは、伝統的にいえば、いわゆる速贄のことである。速贄の言い伝えは、古事記のサルタビコとサルメキミの話の終わりに添えられている。

マナマコ(ナマコ綱シカクナマコ科、葛西臨海水族園展示品。突起があるからイラ(刺)ゴと考えたかどうかは不明。)
 「海鼠」が「嶋之速贄」になっている。「嶋之速贄」が、イラ(貸付利子)であると思えば、イラゴは島である。また、「伊良虞嶋」は志摩国であるけれど、もともと伊勢国に含まれており分国したものである(注14)。貸付金の元本が伊勢国、その利子が志摩国に相当するというアナロジーである。題詞はそれを物語る。元本よりも利子の部分を先に返して「速贄」とするという考え方は、取り立てる側に立った業者ばかりか、一度でもローンを組んだことのある人なら納得のいく話であろう。利息が複利で膨らんでいく。借りた金額が2倍になるのは、年利5%で14.21年、10%で7.27年、15%で4.96年である。養老律令・雑令の規定では、「公出挙くすいこ」は5割、「私出挙しすいこ」は10割の利息を徴収できることになっている。当時の利息制限法である。また、複利計算はしない定めになっている(注15)。天武四年四月の施策は、「中戸より以下」の余裕のない者をローン地獄に陥れようという質の悪いものである。そこまで計算した上で、万葉集の「麻続王の歌」は、題詞とともに録されたと考える。
 麻続王は、自分の子どもに、天子だけが被ることの許される「玉藻ぎょくそう」=タマモを遊びで貸してあげた。おそらく麻続王は、子どもにねだられて、余った玉の飾りを使って子ども用の小さな冕冠を製作し、被せてあげたのであろう。貸子いらごは利子のことで、利子は古語でカガという。カガフル(被)ものが「かがふり(爵)」である所以である。
 実際に被ったのは「海鼠」ならぬ子どもである。罪の重さは被った者がより大である。形式が問題だからである。けれども、きちんと返している。子ども用に作った小さな冕冠とは、冕冠の利子分である。所詮は遊び、元本も利子分もきちんと返したのだから良いだろうと主張したのは、久努摩呂らであったろう。高金利で貸し付けて「嶋之速贄」を貪ろうとする政策のほうがよほど宜しくないのではないか。そういった政権批判の思いが諷刺としてはじめから万23番歌にあり、万葉集の編者も、採録するに当たってその意を込めたと考えられる。筆者は、万葉集の当初の編纂過程に地下出版の傾向を見て取る。
 借金の返済金が、租税に上乗せされる+α の+α 分となり、それは確実に手にできる「速贄」(=新米)であろうと考える神経(無神経)とは、天皇が神の側へ回っていることを表す古代天皇制の確かな証拠である(注16)。役人の狡猾さは、実は平凡な人が仕事熱心になることで生まれる。良心が欠落していて自らの論理の矛盾に気づくことがない。そして天皇は、もはや神なのだから人の心は持ち合わせる必要さえない。天武天皇(大海人皇子)には人の心が若干残っていたから、当摩麻呂と久努摩呂の2人の諫言が耳に痛くて、会いたくないと「勅」していた。それが可能なのは、天皇の恣意が罷り通るほど絶対化されていたからである。
 初期万葉の歌とは、政権の座に就いたものを中心と考え、その磁場が強い核心部分ほど身勝手なプロパガンダを表明している。万葉集に載る「玉藻の歌」は、言論の自由などとうてい保障されない時代、子どものいたずらも冗談も通じない気難しい世相のなかで、何とか事の真相を後世に伝えようとした苦心の記録である。飛鳥時代、政治的に相容れない行動をとった皇族には、政治的な敗北と同等の過酷な環境が待ち構えていた。それは、そのまま文芸的敗北ともいえ、敗者が言葉にした、ないし、したかったことは、お決まりの辞世の歌か、挽歌か、よほどの難訓のワザが施された歌にしか残されていない。万葉集の最初の編者は、標目、題詞、歌だけをシンプルに記すことで、時代の空気を伝えることに成功している。無文字文化と文字文化との間のクレバスに、巧みに橋を架け渡したのであった。

(注)
(注1)ヤマトコトバのコタフは、コト(言・事)+アフ(合)の約とされている。古典基礎語辞典に、「『日本書紀』の中では、「答」「対」「応」「報」「和」の五つの漢字をコタヘ、コタフと訓んでいる。「答」「対」は日常生活から公事に至るさまざまの事柄・出来事・心情などの問いかけに応じてする説明・回答を意味する。特に「対」は問者と向きあった形で問いただされたことに答えることもいう。「報」は戦況報告や騒乱の状況を告げる場合もみられる。「応」は反響する、反応する、手ごたえを感じる意で、山彦の声にも使っている。「和」の字のコタフは、唱和することの意。……「和」の字のコタフとは、事が合いすべて丸くおさまるということを意味する。」(495頁。この項、西郷喜久子)と記されている。この日本書紀の使い分けは、万葉集の題詞や左注の使い方に通じるものがあると思われる。ヤマトコトバのコタフの多義性に、漢字のニュアンスを合わせる形で用いている。「和歌」とある場合、先に歌われたものが主、後から唱和されたものが従の印象が生じていることに適っている。それは、歌が「和」されて歌われ、唱和されて歌どうしが和合している意と解される。(注5)参照。
(注2)小島1964.に、「会稽郡(浙江省)白水郷(地方)の漁民達が有名であり、やがてその漁業を生業とする者の代名として「白水郎」の名をもつてするやうになつたと思はれる。上代人がこの文字を使用し始めたのは、渡唐南路に当つて活躍した「白水郎」を実地に見聞した結果かと思はれる。従つてこのアマの文字表現「白水郎」は、必ずしも文献にのみよつたものとは断定できない。つまりこれは耳より聞く口頭語を背景としたとみる方が可能性が大である。萬葉文字表現の背後には、一語一語にその由来する複雑な経路をもつもののあることは、これによつてその一端が知られる。……「白水郎」の如き例は、恐らく中国文献を経ない例の一つかとも思はれ、萬葉集文字表記の複雑性を示すものと云へるであらう。」(855頁、漢字の旧字体は改めた)とある。文献を経ないで「白水郎」という字を書いている点について、筆者には完全に腑に落ちる説明とは言えないが、現在までのところ、これに代わる有力な説を見出せていない。そしてその物言いはとても慎重である。
(注3)流刑地については、他に常陸風土記にも別の伝承が残る。
(注4)山崎1986.に、「麻續王に関する二首の唱和の歌は、口から口へと歌い継がれることによって練り上げられたに違いない、そういう表現のまるみと磨き上げがなされているように思うのである。それはしかし、もともと一人の即興詩人によって詠じられたものであったはずであるが、それが民衆の前で演じ歌われているうちに、個としての感情の表現から、いわば抽象的人間の情感へと昇華されて行ったのであろう。しかもそこでは、一般に動作的イメージを喚起する表現を伴ったようである。そのことこそ初期万葉の中に見られる古代歌謡的性格と解されるのである。」(16頁)とある。筆者は、万23番歌について、即興詩人などといった洒落た存在ではなく、洒落は洒落でもきつい洒落を言う「時の人」の、世相諷刺の題材にされた要素が強いと考えるが、口承の歌である点については意見を共にする。

(注6)万葉集に、「応歌」に類した「応詔歌」などや、「答歌」に類した「答御歌」などがある。それぞれの特徴について検討すべき課題は多い。促されて応じたり、問われて答えたりしたことを意味する用字ではないかと推測する。仮にそうであるとすると、それらはコタフルことが予定されていた歌ということになる。一方、俎上の「和歌」は、影山2011.の指摘どおり、自然発生的に唱和して和合したという意味合いを帯びていると考えられる。
(注7)拙稿「留京歌(万40~44)について」参照。
(注8)「打麻乎」をウチソヲと訓むべきか、ウツソヲと訓むべきか、どちらでも「歌の解釈に直接影響を与えるほどではない。」(村田2004.282頁)とする説がある。ヤマトコトバが文字を持たなかった時代に、言葉は音声言語としてのみ存在した。現代人の頭で解釈することにおいて差がなかろうとも、飛鳥時代の言葉としては、必ず一つの音で歌われた。二つの理由による。第一に、「」という名詞、すなわち、体言に、動詞が掛かっているので基本的に連体形であろうと思われる。小田2015.334頁、「終止形・連用形による連体修飾」の項に、「終止形が直接名詞に続くことがある」例として、「射ゆししを」(紀歌謡117)、「ゆ竹の」(万420)、「流る水沫みなわ」(万1382・4106)、「流る辟田さきたの」(万4156)、「田に立ち疲る君」(万1285)、「新室を踏み鎮む児し」(万2352)、「連用形が直接名詞に続くことがある」例として、「恋忘れ貝」(万3711)、「植ゑ小水葱こなぎ」(万3415)の例を載せている。「打麻乎」をウチソヲと訓むとする考えは、連用形が直接名詞に続くことの一例と扱われなければならない。しかし、小田氏のあげる例に限ればどちらも東歌である。文法的に破格と推される。連用形が直接名詞に続く他の例があるか、指摘を仰ぎたい。
 第二の理由として、万23・24番歌は、題詞にあるとおり、「和歌」として綴られている。影山2011.の「即和歌」の検討に、「鸚鵡返し」的な性格があるとの指摘があった。この万23・24番歌についても、鸚鵡返し的に同じ言葉、同じ音をもって返しているところに、「歌」としての特徴が見出されるものと考えられる。万24番歌の歌い出しが、ウツセミノとあるのは、万23番歌がウツソヲとあったから、そのウツの音を捉え返して「和歌」を歌ったものととるのが妥当であろう。今日の人にとって何となく心地よいという理由でウチソヲと訓んでいるにすぎず、そう訓まれるべき根拠は見当たらない。以上から、「打麻乎」はウツソヲと訓む。元暦校本萬葉集古河家旧蔵本の左側墨書傍訓、西本願寺本右側不思議な色傍訓にウツアサヲともある。他にウテルヲヲとする伝本もある。「麻続王」をミノオホキミと訓むなら、ウツヲヲかもしれない。いずれにせよ、「打」の訓は、ウツでなければならない。
「ウツアサヲ」(東京国立博物館研究情報アーカイブズ
(注9)「天武天皇」は漢風諡号である。生前の名前は、オホアマさんであった。
(注10)後漢書・輿服志に、「冕服広七寸、長尺二寸、前円後方、朱緑裏、衣上、前垂四寸、後垂三寸、係白玉珠、為十二施、以其綬采色組纓」、「爵弁一名冕、広八寸、長尺二寸、如爵形前小後大、繪其上爵頭色」などとある。なお、山東省沂南県の画像石、尭舜禅譲図に刻されていても、尭舜のころに冕冠があったわけではない。秦始皇帝が冕冠を被っている像が見られるが、時代考証的にどうなのか不明である。筆者がここに展開している天武朝冕冠起源説も時代考証にまつわる問題であるため記しておく。
(注11)沈・王1995.に、「[歴代帝王図巻の]画中で表現された服装は、隋・唐時代の画家が、ただ漢代の輿服志の三礼六冕の旧説および晋・南北朝時代の絵画や彫刻中の冕服を踏襲して描いた皇帝の冕服と侍臣の朝服の形式であり、漢や魏の本来の服装とは符合していない。しかし、この種の冕服形式および服飾の文様は後世に影響を及ぼし、封建社会の晩期においてもなお役立ち、宋(および遼・金)元・明の約1000年にわたって踏襲されたのであった。」(215頁)とある。
「玉藻」のついた冕冠図(3:沂南漢代画像石墓の冕冠、4;司馬金龍墓出土の漆画屏風に描かれた楚王の冕冠、5;集安高句麗壁画の仙人が戴く冕冠(沈・王1995.216頁、王亜容挿図)
 似た形状に、孝明天皇の礼冠があるが、旒は周囲にめぐらせてある。
孝明天皇の冕冠(Barakishidan「Benkan emperor komei.jpg」Wikimedia Commons、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Benkan_emperor_komei.jpg)
 旒に用いたのではないかとされるものが、正倉院に残っている。
左:礼服御冠残欠(正倉院北倉157、真珠・瑠璃玉垂飾、宮内庁HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020681&index=2をトリミング)、右:冠架(正倉院北倉157、赤漆八角小櫃付属、宮内庁HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010564&index=0をトリミング)
 米田1998.によれば、この礼服御冠残欠は、聖武天皇・光明皇后が、天平勝宝四年(752)四月九日、東大寺大仏開眼会において身に着けたものという。続日本紀、同日条に、「盧舎那大仏のみかた成りて、始めて開眼す。是の日、東大寺に行幸みゆきしたまふ。天皇、みづから文武の百官を率ゐて、設斎大会したまふ。其の儀、もは元日ぐゑんにちに同じ。」とあって、儀場の雰囲気(装束や施設、音楽や舞)が同様であったとされている。「元日朝賀の儀とは、元日に天皇が大極殿において群臣から賀を受ける儀式である。当日大極殿前庭に礼服を着た群臣らの居並ぶ中、天皇は冕服べんぷくを着して大極殿中央に設けられた高御座たかみくらに上り、群臣の再拝を受け、ついで前年に起こった祥瑞しょうずいの奏上を、さらに群臣の代表者が賀詞を奏上するのを聞かれ、新年の宣命せんみょうを宣下する。ここで群臣らは称唯しょうい再拝し、舞踏再拝する。この時、武官は立って旗を振り、万歳を唱える。かくして儀式は終了し、天皇は退出される。」(30頁)とある。
(注12)左注、天武紀四年条とも、「三位麻續王」と記されている。「續」字は「績」字の通用である。中国でもわずかにそのような例がある。「續」字は、今日、「続」字をもって常用としている。むことは、麻の繊維をとり出して撚ったり結んだりして継いでいくことだから、糸として続(續)くことになる。意味的な連関がある。また、「売(賣)」は常訓として、ウルと訓む。ウムとウルで語幹を共にする。と同時に、麻続王一家は連座させられている。芋蔓式に罪に問われた。績んだ麻は芋蔓のようである。また、ヲミノオホキミは三位であるはずが、降下させられて四位になるほどの罪を犯したという意味にもとれる。どういう罪かといえば、冠にまつわり天皇の位を冒するものであった。よって、「續」なる「四」の字が混入した字、「賣」の字が入っている字が好まれているようである。紀や初期万葉における異体字には、筆記者の熟慮の跡が見て取れると感じられることがある。異体字研究に、一字=一音=一義の中国に倣い、一字=一訓=一義のヤマトカンジを創作したふしがあると付言しておく。
(注13)「婦女の馬に乗ること男夫の如きは、其れ是の日に起れり。」との記事は、注目に値する。女性が乗馬する風がこの日からというのではなく、男性のような乗り方、すなわち、跨って乗るのがこの日からとするものかもしれないからである。それまでは横座りであったかとも考えられるのである。古墳から出土する埴輪の横座り用の鞍は、実際にあったのかもしれない。
(注14)志摩国が伊勢国から分立したのは、「……及び伊賀いが伊勢いせ志摩しまのくに国造くにのみやつこども冠位かうぶりを賜ひ……」(持統紀六年三月)とあるところから七世紀後半頃かとされている。記紀の説話上で問題なのは、「嶋の速贄」なる語句と、「モズの早贄」という常套句との関係である。また、「百舌鳥耳原もずのみみはら」(仁徳紀六十七年十月)という言葉も検討に値しよう。
(注15)公出挙の場合、aを貸し付けられると、一年後に完済するための返済額は計算上3/2×a(=1.5a)である。これは借金の返済だけであり、公租公課は別であったと思われる。養老令・雑令に、「凡そ稲粟たうぞくを以て出挙すいこせらば、ほしきままわたくしけいに依れ。官、理することず。仍りて一年を以てさだむること為よ。一倍にすぐすこと得じ。其れ官は半倍はんべせよ。並に旧本くほんに因りて、更にさしめ、及び利を廻らして本と為ること得ず。若し家資けし尽きなば、亦上の条に准へよ。」、同・賦役令に、「凡そ調物でふもち及び地租ぢそ雑税ざふぜいは、皆明らかに、いだすべき物の数を写して、を坊里に立てて、衆庶しゆしよをして同じく知らしめよ。」の「雑税」の個所、義解に、「謂、出挙稲及義倉等、是也」とあり、地租とは別に出挙稲という借金の返済があった。ただし、地租負担は3%程度と軽かったそうである。結局、公出挙をa受けて、班田の収量をbとすると、1.5a+0.03bを税として納めることとされていた。一粒万倍には今日でもならず、300倍程度であろうか。仮に飛鳥時代の標準的な収量が1粒50倍であったとして、まるごと種籾を公出挙で借り受けていると、10000粒獲れても200粒借りているから300粒(公出挙分)+300粒(地租分)で計600粒納める計算になる。手取りは9400粒である。政府の側からすると、豊作不作の別なく基本料のように毎年入ってくるのが公出挙の返済分ということになる。200粒借りて、不作の年で5000粒しか獲れなくても、公出挙分は変わらず300粒、地租分は150粒、計450粒納めることになる。手取りは4550粒である。出挙の重税感は否めないであろう。豊作の年には翌年の種籾を確保して出挙で借りないようにしておかないと、不作で堪らない年が来ることになる。
 以上は取らぬ狸の皮算用にすぎない。とはいえ、近世に稲を作付せずに畑にしてしまったり、現代に減反補助金を当てにしながらの三ちゃん農家が増えてしまったり、後継者不足で自家作以外は放棄されてしまうなど農政が難しいのは、取らぬ狸の皮算用がある程度利いてしまうせいであろう。
(注16)藤田2012.参照。なお、「玉藻ぎょくそう」のついた冕冠を天武天皇が被ったとして、それをタマモと呼んだとは限らないではないか、という設題に対しては、非常に高い精度をもってタマモという訓をあてたであろうと考えている。政治史において、純粋な意味での天皇制は歴史上二回しかなかったとされる。近代天皇制と古代天皇制である。いずれも科学技術や文化芸術を先進的な外国に負いながらも、精神的支柱を自らの内に求めようとするため、近代においては敵性語である英語を使わずに不思議な言い換えが行われた。古代においても然りであろう。事は精神論である。ともに先進的な外国文化に憧れて実用としながら、外国語は使わないという矛盾した行いをしている。言葉を拠りどころとすることこそ、民族という幻想を抱かせるのに最も適した方法といえる。藤田2012.のいう天皇制の真髄は、言語学的にも確かで、ヤマトコトバが天皇制成立の基礎であった。ただし、麻続王の「玉藻」のような語は、ほぼヤマトコトバで成り立つ万葉集において例外的な言葉といえる。歪んだ国粋主義を諷刺した歌が万23番歌である。タマモという言葉を使うこと自体が、語用論的にシニカルである。他のいわゆる訓読語(ケダシ(蓋)、イマダ(未)、ホリス(欲)といった語)は、古墳時代後期から飛鳥時代前期に作られたと思われる新語ではあるが外来語ではない。economy を「経済」、battery を「電池」と言って日本語化したことの古代版かとも見紛うが、近代には主に名詞が造語されている。両者の共通点、相違点について検討すべき課題は多く、とても興味深いものがあるが、本稿の主旨からは離れるので問題提起に止めておく。

(引用・参考文献)
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釋注一』集英社、1995年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
影山2011. 影山尚之「額田王三輪山歌と井戸王即和歌」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学』塙書房、昭和39年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
沈・王1995. 沈従文・王㐨編著、古田真一・栗城延江訳『増補版 中国古代の服飾研究』京都書院、1995年。
内藤2012. 内藤聡子「三河湾の『玉藻』の歌」印南敏秀編『里海の自然と生活Ⅱ─三河湾の海里山─』みずのわ出版、2012年。
藤田2012. 藤田省三『天皇制国家の支配原理』みすず書房、2012年。
増田1995. 増田美子『古代服飾の研究─縄文から奈良時代─』源流社、1995年。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
山崎1986. 山崎良幸『和歌の表現─表現学大系各論篇第一巻─』教育出版センター、1986年。
米田1998. 米田雄介『正倉院宝物の歴史と保存』吉川弘文館、平成10年。

※本稿は、2016年2月稿、2018年1月稿について、2024年6月に誤りを正しつつ整理したものである。