古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

湯原王の菜摘(夏実)(なつみ)の川の歌

2024年03月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 湯原王ゆはらのおほきみは万葉集に19首の歌を残している。いずれも短歌である。

  湯原王の吉野にして作る歌一首〔湯原王芳野作歌一首〕
 吉野にある 菜摘なつみの川の 川淀かはよどに 鴨そ鳴くなる 山陰やまかげにして〔吉野尓有夏實之河乃川余杼尓鴨曽鳴成山影尓之弖〕(万375)

 「吉野の菜摘の川の川淀には鴨が鳴いているようだ。山の陰になっているところで。」(多田2009.304頁)

 この歌を一言で評すれば、「感のとおった叙景歌。」(古典集成210頁)とするのが通説である(注1)が、誤りである。吉野にあるナツミ川の風情をインスタグラムにアップした歌ではない。
 吉野に、ナツミという川が流れている(注2)。既存の固有名である。その言葉(音)を使って機知ある歌を作っている。吉野にあるナツミ(ミは甲類)という川の流れ方は、ヨシノというナ(名)+ツミ(積、ミは甲類)と積み重ねて表現するに値するものだと思われたのである。ヨシノという名を体現して止まないとするのである。ヨシノは、ヨ(代・世)+シノ(篠)という語呂合わせから、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と代々続くところと捉えられてめでたがられていた。このヨ(乙類)という音は、また、助詞のヨ(乙類)と同音である。助詞のヨは、相手に呼びかけ、念を押し、自分の考えを相手に押しつける気持ちを表している。確かに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と、呼びかけのヨが連呼されるとすれば、それは念を押している意であると感じられる。
 そのように、ヨが渋滞して川の流れがとどこおっているから、そこは「川淀」ということになり、歌に歌われている。ヤマトコトバからして、これはおかしなことである。ヨシノがヨ(代・世)+シノ(篠)という語呂合わせからヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と捉えられるなら、ヨヨと涙を流すように止めどもなく流れ続けることを表すはずである(注3)。川で言えば、たぎと呼ばれるようなところに当たる。川淀かはよどのように滞留していることは言葉の義に反する。川の形状が実際にどうだったかは問題ではなく、ヤマトコトバが撞着しているところに興味が向かっている。上代の人は言葉と事柄とは同じことを示すように志向した。それが上代の人たちの言葉に対する考え方であった。だから、この歌では、自分では確認できないことにしている。実見したわけではないから伝聞の助動詞「なり」を使い、物理的に見ることができないことを「山陰」だからと断って念を押している。助詞のヨの意味を強調し、具現化した構成になっている。
菜摘(吉野町HP https://www.town.yoshino.nara.jp/chomin/kankyo-gomi/post-49.html#natumiti)
 ヨシノという名が積まれたところとして、ナツミなる川の名がたまたま付いていた。ヨシノの地にあるのだから、ヨ(代)の意味のヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……の集積地ということになるだろう、なるだろう、と念を押すヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところである。念を押さなければならないということは、本当のところは定かではないから相手に無理強いをすることになる。本当のところはわからないが、きっとそうだろうという言い方、眉唾ながらの詠嘆を表すには助詞のカモが使われる。助詞のカモのモは本来乙類であるが、早くからモの甲乙の区別はなくなり、鴨(モは甲類)の音と紛れ、万葉集の表記に「鴨」字を当てることがきわめて多い。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところ「かも」しれないし、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところではない「かも」しれない、と、鴨が代弁して鳴いているらしいと伝え聞いたと話している(注4)。湯原王は自分で確認することはできない。なにしろ吉野は山の地で、「山陰」のために見えやしないと言い訳を付け加えている。冗談を言っているのだから、マジで受け取られては困るのである。
 このような冗談の歌、言葉遊びの歌、諧謔の歌を前にして、叙景のすばらしさを褒めているとする現代の解釈は如何ともしがたい。湯原王が歌った時の意味とは別方向へ一人歩きしてしまっている。現代人が、聴覚と視覚を組み合わせて立体的に描写した叙景歌であるととるようには、万葉の時代に解されてはいなかった。そもそも、吉野の菜摘の川のうち、淀になっているところで鴨が鳴いているということだ、山の陰になっていて私の視界には入らないが、という意味のことを聞いたとして、上代の人にとって何かの役に立つことはない。湯原王は、万631番歌の題詞脚注に、「志貴皇子之子也」とあるが、続日本紀に系譜、閲歴はおろか、記事にも登場していない。皇族ではあるが重要人物ではない。少しばかり高貴なおじさんの目に、鴨の姿が入るか入らないかなど知ったことではない。
 近代以降、短歌を志す人にとっては、歌の歌い方がうまく、表現に深みがあると評価されることになった。しかし、音声言語でしかなかった時代には局地的な風情など意に介してはいられない。記憶のキャパシティを超えて覚えるに及ばないことは雑音でしかない。文字がないということは、記録がないということであり、検索することもできない。すべてはヤマトコトバの言葉のうちに込められた情報だけで生活していた。言い伝えられながらさまざまな知恵を凝らしたものがヤマトコトバで、ヤマトコトバを伝え聞くことで暮らしの知恵として役立てていた。すなわち、ヤマトコトバをもって歌を詠むということは、何か新しい情報を伝えるためではなく、頓智を凝らして聞き手をおもしろがらせる芸であった。基本的に娯楽作品なのである。うまいことが言えた時にのみ周囲の喝采を浴びて人々の間に歌として共有され、聞き手の記憶に残って拙い表記法で書きとめられ、やがて万葉集にも載ることとなった。人間の記憶には限りがある。叙景にせよ、歌枕にせよ、やりたければやればいいが、聞き手がついて来られない歌が空中をひとたび舞ったとしても、聞き流され、忘れられたに違いあるまい。

(注)
(注1)この歌について、澤瀉1958.は、「第三期の終より第四期のはじめへかけての作、天平のはじめ頃のものであり、優美婉麗の作風で、当時の新風をしめしてゐる。」(386頁、漢字の旧字体は改めた)、西宮1984.は、「この歌も王の代表作で、声調はn音とk音とが重ねられて鴨の鳴声と協和音をかなでる如く、しかも清澄な景色がそれによって鮮明に描かれている。「山蔭にして」とシテ止めにしているのも余情の表現となり、ニシテ止めの先駆をなしたものとして注意される。」(265頁)と評している。また、鉄野2011.は、贅言を尽くしてうがった見方をしている。「湯原王は、……宴席歌や相聞歌も達者であるが、優雅で清新な自然詠に特に優れる。この歌は吉野での作。夏実(菜摘とも)は、吉野宮のあった宮滝よりやや上流で、水の静かに流れるところである。「鴨そ鳴くなる」の「なる」はいわゆる推定の助動詞ナリで、音声が聞こえてくることをいう。それは鴨の姿が見えないことを表すが、一方で、「山影にして」と続けることで具体的に鴨のいる場所も示される。聴覚と視覚とを組み合わせた構成によって、景が立体的に描かれているのである。しかも、第四句と第五句を倒置したうえで、「…にして」と言いさしにしていることで、まるで鴨の声に引かれ山影に誘い込まれていくような余情がもたらされており、まことに効果的である。漢詩の対句には、聴覚・視覚といった感覚の個別性が意識されることが多いが、湯原王の描写法にも、その影響があると考えられる。」(104頁)。
 湯原王の歌全体については、中西2019.に、「湯原王の歌は輝くような太陽の代わりに月を好み、豪快なけものの肢体よりも小動物の声の世界に愛し、優美な新しい風雅の中に歌われた。そしてそれらの中に一点の物思いの曇りもとどめてはいない。」(222頁)、川島2005.に、「湯原王の詠作には、詩嚢の豊かさ、あるいは丹精のこまやかさといったものを、窺うことができる。」(182頁)と評されている。
(注2)「吉野なる」という訓み方も見られるが、原文に「吉野尓有」とあるから「吉野にある」と訓む。周知のことではないのだからそう訓むのがのぞましい。
(注3)中古の例文をあげる。

 御いづるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)

(注4)万葉集中に、鴨が詠み込まれた歌は20例ほどある。そのうち、その鳴き声だけを捉えて歌った歌は、標題歌以外、次の防人歌に限られる。

 あしの葉に 夕霧ゆふぎり立ちて 鴨がの 寒きゆふへし をばしのはむ(万3570)

 歌末の「む」は推量の助動詞である。防人に行って、夕方に葦の葉に霧が立ち、鴨が飛来して寒い夜に鳴き声が聞えるようになったら、絶対にあなたのことを思うだろうと言っている。どこか他人事のような言い方なのは、防人に出掛ける時、別れの時に歌った歌だからである。今はまだ季節が春か夏なのであり、晩秋になって鴨が渡ってきて鳴いたら、という将来を仮定して推量している。将来のことだからそうなる「かも」しれないし、そうならない「かも」しれない。だから同音の「鴨」を登場させて諧謔している。鴨が何と鳴くと聞き分けたか、擬音語化し定着していた言葉は知られない。助動詞のカモを表出させるために方便として登場させている。その点、万375番歌と同じ使い方である。誰もが聞いてわかるようになっている。

(引用・参考文献)
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
川島2005. 川島二郎「湯原王の歌」神野志隆光・坂本信幸編『万葉の歌人と作品 第十一巻』和泉書院、2005年。
古典集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 万葉集一〈新装版〉』新潮社、平成27年。(『新潮日本古典集成 万葉集一』新潮社、昭和51年。)
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)

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