古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

高橋虫麻呂の龍田山の歌

2024年05月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 一

 万葉集の歌のなかには、いまだに訓みの定まらない歌がある。訓みが定まらなければ、歌全体の完全な理解には至らない。巻九の高橋虫麻呂歌中から出たとされる龍田山歌群もその一例である。

  春三月にもろもろの卿大夫まへつきみたちの、難波なにはくだときうた二首 あはせて短歌〔春三月諸卿大夫等下難波時謌二首并短哥
 白雲しらくもの 龍田たつたの山の たぎの 小桉をぐらみねに 咲きををる 桜の花は 山高み 風しまねば 春雨はるさめの ぎてし降れば は 散り過ぎにけり 下枝しづえに 残れる花は 須臾しましくは 散りなみだれそ 草枕 旅行く君が かへり来るまで〔白雲之龍田山之瀧上之小桉嶺尓開乎為流櫻花者山高風之不息者春雨之継而零者最末枝者落過去祁利下枝尓遺有花者須臾者落莫乱草枕客去君之及還来〕(万1747)
  反歌〔反謌〕
 きは 七日なぬかは過ぎじ 龍田彦たつたひこ ゆめこの花を 風にな散らし〔吾去者七日者不過龍田彦勤此花乎風尓莫落〕(万1748)
 白雲の 龍田の山を 夕暮ゆうぐれに うち越え行けば たぎの 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲きぎぬべし 彼方此方こちごちの 花の盛りに 雖不見左右 君がみゆきは 今にしあるべし〔白雲乃立田山乎夕晩尓打越去者瀧上之櫻花者開有者落過祁里含有者可開継許知期智乃花之盛尓雖不見左右君之三行者今西應有〕(万1749)
  反歌〔反謌〕
 いとまあらば なづさひ渡り むかの 桜の花も 折らましものを〔暇有者魚津柴比渡向峯之櫻花毛折末思物緒〕(万1750)

 訓みが定まらないのは万1749番歌の「雖不見左右」の句である。紀州本等には「雖不見左」ともある。「左右」はマデと訓まれることが多く、五音に収まりきらなくなるために「雖不見左」をとって「ミサレトモ」(紀州本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1143069/1/25)、「さずとも」(多田2009b.382頁)、あるいは「在」の誤りかとされて「あらずとも」(佐佐木信綱・新訓万葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1258483/1/182)、「あらねども」(大系本391頁)、「見えねども」(中西1978.268頁)などと訓まれている(注1)
西本願寺本万葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242438/1/20~21をトリミング合成)
 「雖不見」の例は万610番歌にもあるが、異訓が多い。

 近有者雖不見在乎弥遠君之伊座者有不勝自(万610)

 近くあれば 見ねどもあるを いやとほに 君がいまさば ありかつましじ(新大系文庫本(一)380頁)
 近くあれば 見ねどもあるを いや遠く 君がいまさば 有りかつましじ(伊藤2009.306頁)
 近くあらば 見ずともあらむを いや遠く 君がいまさば ありかつましじ(中西1978.309頁)
 近くあれば 見ずともありしを いや遠に 君がいまさば ありかつましじ(大系本277頁)
 近くあらば 見ずともあるを いや遠く 君がいまさば ありかつましじ(多田2009a.88頁)

 いま問題にしたいのは「雖見」の部分である。ミネドモ説、ミズトモ説に分れている。ドモとトモの違いは、逆接の確定条件か、逆接の仮定条件か、すなわち、事実逢っていないけれども、と、仮に逢わないことになっても、の違いである。「雖」字は万葉集中で、ド、トモ、ドモ、イヘドと訓まれているからいずれにも訓まれ得る(注2)。誤謬を生む曖昧な表記である
 一方、万1749番歌の「雖不見左右」という表記は、正確を期すための綴り方のように見受けられる。訓みを限定するための書き添えとして、「左右」と書いたとする見方である。万葉集中で「左右」はマデに当てることが非常に多い。「左右手まで」(万1189)という例もあり、左右両方の手のことを言うから片手に対してマテ(真手)、よってマデ(迄)に使われている。それ以外に、「左右」をカモカクモ(万399)、カニモカクニモ(万629・3836)、カモカモ(万965・1343)と訓む例があり、万1749番歌の試訓にも見られていた。「左右」はどちらにとってみても、の意味を表したものであろう。すなわち、AでもBでもどちらでも、ということである。条件A、条件Bの二つが与えられた時、どちらもふたつともに適うという意にほかならない。つまり、「左右」の意は、助詞トモの義を表している。「雖見左右」とあれば、「雖」字はドモやトではなく、トモと訓むべきことを「左右」の字が指示している。「左右」の用字は、意味を限定するための添え字的な役割を果たしているようである。
 そのように考えれば、これまで行われた訓のなかで、「さずとも」とする訓み方が最も妥当であるといえる。「…… ふふめるは 咲き継ぎぬべし 彼方此方こちごちの 花の盛りに さずとも 君がみゆきは 今にしあるべし」によって言わんとしているのは、蕾のものは咲き継いでいってあちらこちらに花の盛りなるところができるだろうが、それをご覧にならないままであっても、わが君様が難波へ向かって進み行くことはまさに今であるべきです、という意になる(注3)。花見に興じる(注4)ことなく目的地へ向かうことの是なることを陳述している。
 「みゆき〔三行〕」とあるのは、花見に行くことを言っているのではなく、題詞にあるように「下難波」ことを指している。「みゆき」は偉い人のお出ましであり、それに随行しているのが高橋虫麻呂である。龍田山中にあっても、「みゆき」が目指しているのはただただ難波である。作者高橋虫麻呂の仕えていた関係から、藤原宇合の一行を「みゆき」と見る説も多いが、万葉集で「みゆき」といえば天皇の「行幸みゆき」のことである。天皇の難波行幸があり、少し遅れて難波へ向かった「諸卿大夫等」がいて、それに虫麻呂は付き従ったものと考えられる。遣唐使船が中国へ向かった際にも、船団すべてが同時に行動しているのではなく、先に着く船もあれば遅れる船もあり、難破して到着しない船もある。それらすべてを第○次遣唐使と呼んでいる。同様に、天皇の難波行幸に従っているなかで、天皇の一行から遅れてしまった「諸卿大夫等」の一団があった。あまり遅れてはならないから急いでいるものと思われる。
 だから、道行きの急ぐことに関して、反歌に「いとまあらば ……」という承け方をし、時間があれば向こう側の山の高いところに咲いている桜の枝を(私が)折って来ましょうものを、時間がないのでできません、と言っている。
 その点は歌群の最初、万1747番以降通底している。桜の花が散っているところもあり、咲いているところもあり、帰ってくるまで散らないでいておくれと願い事をしている。万1748番歌に「きは 七日なぬかは過ぎじ」と心づもりの予定を述べて、桜の花を散らせることになるであろう風、その風を司るとされる龍田の神(注5)のことを「龍田彦」と呼び、散らさないでほしいと呼びかけ訴えている。

 二

 筆者の捉え方はすでに述べたところであるが、今日の研究事情では、万1747番歌に「君」とあり、万1748番歌に「吾」とあって、一組の長短歌中に矛盾を含むのではないかと疑問視されている。そのため、長歌は見送りの者の歌、反歌は旅行く者の歌であると解されることもあった(注6)。それに対して、長歌は下僚たる自分を表面に現さず、反歌では自分も含めて一行の意で述べているとする見方もある(注7)。さらには、「旅行く君」、「吾が行く」と対照的に表現する理由は不明であり、万1749・1750番歌、さらには復路にあたる万1751・1752番歌まで絡めて解されるべきとする意見まである(注8)
 この点を精査することは歌の理解に実はとても重要である。筆者は、長歌の「君」を天皇のことと考えている。反歌の「吾」が属する「諸卿大夫等」の一団は、難波へ向かって遅れを挽回すべく急いで旅している。万1749番歌に「君がみゆき」とあるのに「今にしあるべし・・」と「吾」から命令するかのように言っている。下僚の「吾」が「君」に対してそのようなことを言えるものか。唯一考えられるのは、一緒にいる「諸卿大夫」のことを「君」と言うのではなく、先に行ってしまってここにはいない天皇のことを「君」と呼んでいる場合である。天皇は龍田山中の花には目もくれず、難波へと進んでしまって「諸卿大夫等」は遅れをとっている。
 その遅れた責任は「諸卿大夫」にあるといった批判を下僚の分際の虫麻呂が呟くことはない。題詞には「諸卿大夫等」とあり、「等」に含まれるであろう虫麻呂も一蓮托生である。「諸卿大夫等」の総意として歌い、そのとおりだ、うまく言ってくれたと皆に認められたのがこれらの歌群であろう。
 では、なぜ「君」と「吾」とが入り混じる歌い方をしているのか。それは、「君」と「吾」とで決定的な違うところがあるからである。交通手段が違う。「君」は馬に乗っているが、「吾」は徒歩である。どちらが速いか。馬である。どちらが楽か。馬である。万1748番歌において、とんぼ返りで七日以上かからずに帰ってくると決意表明して有意味なのは、徒歩での弾丸ツアーが催行されている「吾」しかいない。だから歌に歌い、同行している騎乗の「諸卿大夫」からおもしろがられ、歌として完成しているのである(注9)
 状況を整理してみよう。道行きの途上で龍田山に通りかかり、桜の花が咲いたところはすでに散ってしまっており、まだ咲いていないところはもう少しすれば咲くだろうといった景色である。だからといって、止まっていようなどと悠長なことは考えていてはいけない。天皇のもとへ、とにかく難波へ向けて急ぎ進まなければならない。しかるに、主旨をそのまま歌にしたとしても、気が焦るばかりでストレスしか感じられない。少しも楽しくないはずなのに歌われていて、「諸卿大夫等」一行の間でおもしろがられている。何がおもしろいのか。それは、語呂合わせがいくつも生まれるからである。
 「諸卿大夫」が騎乗するためには馬の背に「鞍」を置く。歌は声に出して歌われたものだから、クラという音が重要である。だから、「小桉(をくら・・)の嶺」、「桜(さくら・・)」、さらには「夕暮(ゆふぐれ・・)」といった語が使われている。暗くなったからクレという。すなわち、この歌群はクラの歌の集まりである。
 桜という花は、後の時代のように特に愛でられた対象ではなかった。古代にあっては、そもそも実用を旨としていたから、桜といえば樹皮が重宝されてそこに関心が向いている。曲物の綴じ皮として利用されていた。人々の認識の核はそこにあった。そして、上代の人の語感では、サクラはサル(猿)+クラ(鞍)の約、サルノコシカケのことをイメージしていた。曲物の綴じ皮用に樹皮を剥げば樹勢は衰え、キノコが生えやすくなる。木の子の意である。桜(櫻)という字が木の嬰児という形になっている点も合点がいく。乗馬用の鞍はヒトノコシカケなわけだが、それに引っ張られる形でサクラの話になっている(注10)
 桜がサル(猿)+クラ(鞍)の約であるという認識のもとでは、桜の花が咲いたり散ったりしながら旅行く人の人目に立つというのは、猿が人を導いているように見てとれたことを意味する。龍田山に猿がいたかどうかは問題ではない。猿がいると見立てられるということである。上代の人にとって、旅行く人に対して果たす猿の役割はサルタヒコ(猿田毘古神、猨田彦神)のそれである。導きの神である。

 しかくして、日子番能邇々芸命ひこほのににぎのみこと天降あまくだらむとする時に、あめ八衢やちまたて、かみ高天原たかあまのはらてらし、しも葦原あしはらの中国なかつくにを光す神、ここに有り。……かれ、問ひ賜ふ時に答へてまをさく、「やつかれは国つ神、名は猿田毘古神さるたびこのかみぞ。出で所以ゆゑは、あまかみ御子みこ天降あまくだすと聞くが故、御前みさきに仕へ奉らむとして参ゐ向へて侍り」とまをす。(記上)

 ここかしこで道案内してくれているのだから、それに従って先へと進むのがよい。今は桜の花を見ようと立ち止まっていてはならない。帰って来た時に見ればよい。だからそれまで散らないでほしいと願っている。その願う相手の神さまは、道行きの神の猨田彦ではなく、その場所に在する龍田彦である。龍田彦という呼び方が一般化していたとは思われず、猿田彦から連想してこの時に作られた呼称であろう。龍田神は風の神として祭られていたから、うまく言い当てたことになっている。
 神は遍在する。導きの神である猿田彦は難波への道の難所である龍田の山のあちこちにいて、時に桜の花として見え隠れしている。それに従っていけば山を越えて行くことができる。反対に、従わなければ道に迷い、進むことができなくなる。どうなるか。足取りは覚束なくなって、「たづたづし」く、「たぎたぎし」くなる。

 「たづたづし」
 夕闇ゆふやみは みちたづたづし 月待ちて ませ背子せこ そのにも見む(万709)
 夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに さをさしのぼれ(万4062)
 「たぎたぎし」
 ……が心、つねそらよりかけかむとおもふ。しかれども、今吾が足、歩まずてたぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。かれ其地そこなづけて当芸たぎと謂ふ。(景行記)

 山越えの「龍田たつた」の山は、その名の示すとおり、ともすればタヅタヅシくなりそうな場所である。桜の花などに気を取られて行きつ戻りつすれば絶対にタヅタヅシくなる。たどたどしくて進もうにも進めない。特に山中の急流である「たぎ」の上の桜の花に注意が行くようにしている。そんなものを見ていたらいつ花が散るかと気が散って危険である。確実にタギタギシくなる。道が凸凹したり足を患って利かなくなって進もうにも進めない。そういったことがないように、今はひたすら先へ進むのがよいというのであった。

 三

 歌の作者の高橋虫麻呂について、歌人としていかに評価するかは、(評価することが何かしら有効なことであるか否かは問わず、)歌が訓めた後にはじめて行うことができる。そしてまた、以上のように、言葉遊びに興じるのをモットーとして歌われていたと知れば、現代的な意味合いでの文学的な評価など無意味なことと悟られよう。外部の情報から「諸卿大夫」が具体的に誰のことを指すのかを詮索し、「君がみゆき」とは藤原宇合のお出ましのことではないか、天皇行幸に先立って下準備に行っているものか、などと曲解を弄することなど、(現代の視点からはあるのかもしれないが、)とんだ心得違いである。歌が声でしかなかった時代に、その場限りの声がその場限りに共有されただけである。万葉集に書き記すにあたり、ただそれだけのことがわかるよう、必要十分な事情説明のみ題詞に与えられている。今この万葉集の歌を目にすることができて、我々は無文字時代の人々の思惟について多くのことを知り得るわけだが、それは現代人の思惟とは似ても似つかない。現代の研究者が勝手に作り上げた作品論、歌人論の理念型など、旅の道すがら「たづたづし」や「たぎたぎし」の言語ゲームに興じている人たちには関係のないことである。

(注)
(注1)「左右」のままに訓むとして、「ミズトヘド カニカクニ」(賀茂真淵・万葉集考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1913072/1/257)、「ミズトイヘド カニカクニ」(橘千蔭・万葉集略解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2576192/1/28)、「ミザレドモ カニカクニ」(武田1956.347頁)、「メサズトモ カニモカクニモ」(塙書房本万葉集219頁)など、破格ながら一句設ける説もある。
(注2)「雖」字一般の訓みについては稿を改めて論じたい。
(注3)稲岡2002.は、原文を「雖不見左」として「さずとも」と訓み、「あちらこちらのすべての花の盛りをごらんにはなれずとも、我が君のおでましには、今がちょうど良い時でしょう。」(434~435頁)と解している。「さず」に可能の否定の意はない。一方、同様に「さずとも」と訓んだ多田2009b.は、「あちこちの花の盛りにご覧にならなくても、あなたのご旅行はまさに今でこそあるべきだ。」(382頁)と解している。
 また、「さずとも かにもかくにも」と訓んだ一派は、「つぼんでいるのは 続けて咲きそうである あちらこちらの 花の盛りに ご覧になれなくても とにかく あなたのお出ましの時期は この今でございましょう」(全集本413頁)、「蕾のままのはすぐに続いて咲くでしょう。あちらの花もこちらの花も一度に咲き揃ったさまを御覧になるわけにはいかないにしても、ともかくご主人様がたのお出ましには、今がいちばん結構な時期でございます。」(古典集成本405頁)、「つぼみでいたのは続けて咲くことでしょう。あちらこちらの花の盛りにはご覧になれなくても、何はともあれ、あなたのお出ましになる時はまさに今なのです。」(新大系文庫本(三)65頁)と解している。
 坂本1993.は、メサズトモの訓では、「みゆき」は行われている最中のこととて、共に桜を見ている人々に対してご覧になれなくても、というのは理屈に合わないとしている。注意深く歌の言葉を聞けば、咲いたものはすでに散り過ぎてしまっていて、蕾のものはこれから咲き継いでくるであろう、と言っている。その咲き継いだら見事に盛りになるであろうと予想される候補地はいくつもあるけれど、盛りになるのを待たずに今は「みゆき」の途に就くべき時なのだ、と主張している。
(注4)古代に花見、それも桜の花見、さらにはヤマザクラの花見が行われることが常であったとは知られていない。ましてや目的外の花見、山中の峠越えの難所での旅行団による花見が行われていたとは知られていない。高橋虫麻呂は諧謔の精神を持ち合わせていたようである。
(注5)「夏四月の戊戌の朔にして辛丑に、龍田たつたの風神かぜのかみ広瀬ひろせの大忌神おほいみのかみを祭る。」(天武紀五年四月)とあるのが記録の最初である。
(注6)全集本は長歌に対する反歌を「贈答歌に似せたものか。」(413頁)としている。
(注7)鴻巣盛広・万葉集全釈 第三冊。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1259696/1/63~64
(注8)瀧口2014.。
(注9)無文字時代に口頭で歌われた歌が成立する瞬間は、歌を聞いた人が、そうだそうだと賛同し、記憶した時である。歌は、歌い手と聞き手の双方が互いに持ち合った時にはじめて焦点を結ぶ。
(注10)拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9213fa3866aceeafc581a5e09e326ab0参照。

(引用・参考文献)
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集二 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
小田2015. 小田芳寿「諸卿大夫等の難波に下る時の歌─「散り過ぎにけり」を手がかりに─」『京都語文』第22号、2015年11月。佛教大学論文目録リポジトリhttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG002200008468
古典集成本 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
坂本1993. 坂本信幸「花之盛尓雖不見左右─万葉集巻九・一七四九番の訓詁─」『ことばとことのは』第十集、和泉書院、平成5年12月。
新谷2001. 新谷秀夫「虫麻呂の難波に下る時の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻』和泉書院、2001年。
新大系文庫本(一) 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新大系文庫本(三) 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集3 萬葉集二』小学館、昭和47年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
瀧口2014. 瀧口翠「高橋虫麻呂の龍田の歌」『上代文学』第112号、2014年4月。上代文学会http://jodaibungakukai.org/02_contents.html
武田1956. 武田祐吉『増訂 万葉集全註釈 七』角川書店、昭和31年。
竹本2020. 竹本晃「高橋虫麻呂の桜花の歌の創作」『大阪大谷大学歴史文化研究』第20号、2020年3月。大阪大谷大学機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1200/00000359/
多田2009a. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1978年。
塙書房本万葉集 佐竹昭広・ 木下正俊・ 小島憲之『補訂版 万葉集 本文篇』塙書房、平成10年。

※本稿の初稿は、2023年2月に別のところで発表した。

この記事についてブログを書く
« あしひきの 山桜戸を 開け... | トップ | 近江荒都歌について »