古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

近江荒都歌について

2024年05月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集
「近江荒都歌」?

 万葉集の研究者によって「近江荒都歌」と呼ばれる歌は、万葉集巻一の29~31番歌、柿本人麻呂の初出の歌である。壬申の乱後に廃墟と化した近江大津宮を悼んで詠んだ歌であると考えられている。自然との対比によって旧都への悲しみの情が際立てられているとし、表現が繰り返され、反復されることによって強調され、深化して行っているとされている。さらに、反歌二首では擬人法が用いられ、前半に自然、後半に人事が語られている。逆説の助詞「ど」「とも」が有効に活用されているという。全体として、「挽歌」的と捉える向き(注1)と、歴史叙述として時間を主題化した歌であるとする向き(注2)と、廃墟詠として漢詩の影響を見る向き(注3)などがある。
 「挽歌」と捉えることには難がある。万葉集の部立ぶだてとして、巻二の「挽歌」に類別されず、巻一の「雑歌」に入っている。歴史叙述と捉えることも難しい。天皇の所在地を示す「宮」の歌を詠んだ歌が、「藤原宮御宇天皇代」という標目のもと、行幸時の歌を含めて万28~44番歌に羅列されていて、そのなかに登場した歌が万29〜31番歌である。一つの歌のなかに昔日のことを思うことがあっても、ただちに歴史「叙述」であるなどと言うことはできない。歌の調子には叙事詩の片鱗すら見えない(注4)。漢詩の影響があると決めることは、反証不可能な点で学問的ではない。山上憶良には万葉集の「序」に漢詩文を見ることができても、人麻呂にはその欠片もなく、彼の作った漢詩が懐風藻に載っているわけでもない。
 現代の人が万葉歌の解釈を再解釈していかなる象牙の塔を建てようが、上代の人の考えとは無縁のことである。万葉集のこの部分を撰録した人は、「宮」の歌のアンソロジーを「雑歌」の部類において編纂しようとしていた。どういう意図かはともかく、そこから離れてはならない。すなわち、「近江荒都歌」として柿本人麻呂の万29~31番歌ばかりを抽出するのは、撰者の目指したものと異なるのである。万葉集研究の本来の課題は、高市古人(高市黒人)の万32・33番歌までを含めて、近江大津宮を藤原京時代にどのように捉えていたかについて考えることであろう。歌の表現方法がどうであったかということは、後から振り返ってみて受け取れるというに過ぎない。そもそものはじめに、その歌を歌わんとしたきっかけ、主旨、本意、目的がどうであったかについて考えなければ、万葉集の歌を理解したことにはならない。
 そこで、一人歩きしてしまった「近江荒都歌」という眼鏡を外し、高市古人の歌まで含める形で、藤原京時代における近江京認識の歌(以下、「近江京認識歌」と仮称する)として捉え直すことにする。参考のため新大系文庫本の訓みと訳を引く(76〜81頁)。

  近江あふみ荒都くわうとよきりし時に、柿本かきのもとの朝臣あそみ人麻呂ひとまろの作りし歌
  〔近江の荒れた都に立ち寄った時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌〕
 玉だすき 畝傍うねびの山の 橿原かしはらの ひじりの御代みよ或いは云ふ、「宮ゆ」 れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに あめの下 知らしめししを 或いは云ふ、「めしける」 そらにみつ 大和やまとを置きて あをによし 奈良山を越え 或いは云ふ、「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」 いかさまに 思ほしめせか 或いは云ふ、「思ほしけめか」 あまざかる ひなにはあれど いはばしる 近江あふみの国の 楽浪ささなみの 大津おほつの宮に あめの下 知らしめしけむ 天皇すめろきの  神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁くひたる かすみち 春日はるひれる 或いは云ふ、「霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる」 ももしきの 大宮所おほみやところ 見れば悲しも 或いは云ふ、「見ればさぶしも」(万29)
 〔(玉だすき)畝傍の山の、橿原の聖なる神武天皇の御代から〈或る本には「宮から」と言う〉、お生まれになった歴代の天皇が、(つがの木の)次々に続いて、天下を治められたのに〈或る本には「治めて来られた」と言う〉、(天にみつ)大和を捨てて、(あをによし)奈良山を越え〈或る本には「(そらみつ)大和を捨て、(あをによし)奈良山を越えて」と言う〉どのようにお考えになったものか〈或る本には「お考えになられたのだろうか」と言う〉、(あまざかる)辺鄙な田舎ではあるが、(いはばしる)近江の国の、楽浪(なみささの大津の都で、天下をお治めになった、あの天智天皇の旧都はここだと聞くけれど、宮殿はここだと言うけれど、春の草がびっしり生えている、霞が立って春の日が霞んでいる〈或る本には「霞が立って春の日が霞んでいるせいか、夏草が茂っているからだろうか」と言う〉、(ももしきの)この都の跡を見ると悲しい或る本〈或る本には「見ると心がふさぎこんでしまう」と言う〉。〕
 楽浪ささなみの 志賀しが唐崎からさき さきくあれど 大宮人おほみやひとの 船待ちかねつ(万30)
 〔楽浪の志賀の唐崎は、今も無事で変わらぬが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている。〕
 楽浪ささなみの 志賀の 一に云ふ、「比良ひらの」大わだ よどむとも 昔の人に またもはめやも 一に云ふ、「逢はむと思へや」(万31)
 〔楽浪の志賀の〈一本に「比良の」と言う〉入り江は、今このように淀んでいても、昔の人にまた逢えるだろうか〈一本に「逢うだろうとも思えない」と言う〉。〕
  高市古人たけちのふるひとの、近江あふみ旧堵きうと感傷かんしやうして作りし歌 しよいはく、「高市連たけちのむらじ黒人くろひとなり」といふ
  〔高市の古人が近江旧都の荒れた築地の塀を見て悲しんで作った歌 或る書に、高市連黒人と言う〕
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの 古きみやこを 見れば悲しき(万32)
 〔私は古(しへいにの人なのだろうか。楽浪の古い都の跡を見ると悲しい。〕
 楽浪ささなみの 国つ御神みかみの うらさびて 荒れたるみやこ 見れば悲しも(万33)
 〔楽浪の土地の神様の威勢が衰えて、すっかり荒れてしまった古い都を見ると悲しい。〕(注5)

 「近江京認識歌」について、これまでの「近江荒都歌」の捉え方、壬申の乱によって廃墟と化したことを悲しむ歌であるという見方を踏襲できるだろうか。人麻呂作歌に限ったところで、筆者は否定的に考える。万29番の長歌の中で、「いかさまに思ほしめせか」と歌っているのは、どのようにお思いになって都を近江へ遷都されたのだろうか、という意味である(注6)
 自問することから歌い出されている。そして、その問いに自答する形でだらだらと字句が並んでいる。ぐだぐだの字句に足元をすくわれずに全体を俯瞰すれば、藤原京時代、近江京のことをどのように認識していたかが語られている。どうしてあんな辺鄙なところへ都を移す必要があったのか、いま打ち捨てられて草ぼうぼうに荒れているではないか、と言うに尽きている。
 近江遷都は天智天皇の治世のことである。何を思ってのことかと問われているのだから、その時のこと、天智六年(655年)のことを言っているのであって、天武元年(660年)の壬申の乱とは無関係である(注7)

ささなみ(楽浪)

 「いかさまに思ほしめせか」の問いについて、答えは与えられないままに歌が終わっていると考えられてきた。しかし、「近江京認識歌」には五首すべてに特徴的な字句、キーワードが含まれている。「ささなみの」である。柿本人麻呂にも高市古人にも共通の認識があった。そこが「ささなみ」の地であったから、そんな辺鄙なところへ都を遷したのだと考えていたと理解される。
 「ささなみ」は今の滋賀県南部、琵琶湖の西南岸を広く指す地名であるとされている。そう考えられて構わないのであるが、「近江京認識歌」の地名表現は冗長に過ぎる。

 近江の国の ささなみの 大津の宮(万29)
 ささなみの 志賀の唐崎(万30)
 ささなみの 志賀の〈一に云はく、比良の〉大わだ(万31)
 ささなみの 古き京(万32)
 ささなみの 国つ御神(万33)

 単に地名を表すのであるなら、万29~31番歌において、「ささなみの」という語は無くても通じる。日本書紀では、「五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥に、近江国に幸して、志賀にしますこと三歳みとせ、是を高穴穂宮たかあなほのみやまをす。」(景行紀五十八年二月)とあり、「ささなみの」と冠されていない。定型的な枕詞ではないとすると、逆に「近江の国の」(万29)、「志賀の」(万30・31)はなくても構わないように思われる。「志賀」は、二十巻本和名抄に、近江国の郡名として「滋賀〈志賀〉」と見え、ほかに、栗本、甲賀、野洲、蒲生かまふ、神﨑、愛智えち、犬上、坂田、浅井、伊賀いがこ、高島の諸郡が記されている。滋賀郡内の郷名としては、古市ふるち、真野、大友、錦部にしこりと記されている。今の滋賀県南部の琵琶湖の西南岸を広く指す地名が「志賀」のようである。どうして「ささなみの」と言いたがるのか、それが謎を解くヒントである。柿本人麻呂が「過近江荒都時」に感を覚えて歌いたかった点は、「ささなみ」であったろう。荒れ果てた近江の旧都を歌い、長歌の最終的結論として「見れば悲しも 或いは云ふ、「見ればさぶしも」」と言っている。
 ヨーロッパの石造建築物と違い、利用されなくなったからといって廃墟となって目にするわけではない。建材は多く新都へと運ばれて再利用された。「近江荒都」の光景は草がぼうぼうに生い茂っているばかりである。それを見て悲しい、寂しいと言っている。壬申の乱で焼失した建物が仮にあったとしても、柿本人麻呂は焼け焦げた残骸を見ているわけではない。草ぼうぼうの所など田舎へ行けばいくらでもある。たまたまそこが一昔前に都であったというだけである。人麻呂の耽る感傷の表現は、枕詞を多用しながらぐだぐだと歌っているだけである。言葉に新鮮味はなく、歌いたいことは「ささなみの」の一語に尽きるようである。「ささなみの」という言葉を歌いたいから歌を作っている。基本はそこにある。端的には、それ以外の言葉は歌い回すために並べられているに過ぎない(注8)
 「いかさまに思しめせか」という問いの答えが「ささなみ」ということである。何がどうしてなんだろうかというのは、大和地方、今の奈良盆地に都があったのに、近江国へ遷都した理由を問うているのである。その間の事情は、歴史的に東アジア世界の外交情勢による。滅亡した百済の再興を目指すために朝鮮半島に出兵し、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、敗戦国として要求を受け入れざるを得なかった。白村江の戦いの後、朝鮮半島では唐と新羅が反目して対立する構図となっていた。百済の旧地を領有していた唐は、それまでは連合していた新羅から攻撃を受け、物資の補給路は黄海を跨がなければならず窮地に立たされている。ヤマトは唐側につき、百済の鎮将劉仁願の顧問団に従うことになっていた。ヤマトは百済との同盟関係から、唐との同盟関係へと舵を切り、一貫して新羅に対抗したのである。唐の顧問団からの指導によって、太宰府付近には水城みづきが築造され、各地に山城や烽火台も設営されている。さらに、都を大和の地から近江へ遷している。遷都にどのような理由や意味があったのか、歴史学に議論されている(注9)が、十分に理解されているとは言えない。
 万葉集では額田王の歌に近江遷都の歌(万17~19)がある。天智称制時代、667年に遷都する際に歌われた。宮廷内にも反対意見があったため、それを宥めるためにも歌が歌われたのだろう。柿本人麻呂や高市古人の歌は、持統朝の694年以降に作られたと考えられる。673年に飛鳥浄御原宮で天武天皇は即位し、694年に持統天皇は藤原宮に遷都している。「近江京認識歌」の一つ前が持統天皇の御製歌で、その前にある標目に「藤原宮御宇天皇代〈高天原廣野姫天皇元年丁亥、十一年譲‐位軽太子、尊号曰太上天皇〉 」とある。標目に従って時代を推定することは適切であろう。近江京が捨てられてから20年の歳月が経過している。20年経てば朽ちるものは朽ちていた。都があったとは思われない荒れ方であり、廃墟景を詠じたものではない。すなわち、柿本人麻呂や高市古人の言わんとしていることは、額田王が訴えていたことと同じである。途中、壬申の乱という内乱があり、天皇も変わってはいるが、天皇制という体制が変わったわけではなくヤマト朝廷は継続している。近江大津宮への遷都は、ヤマトの人々にとって、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで行われたものであると思われていた。その理由は何であったのかを、今さらながら歌にしている。その答えが「ささなみ」である。
 ササナミの表記に、「楽浪」(万29・30・32・33)と記されている。ササを「楽」と記すのは、神楽で「ささ」と囃すことによるとも、神楽の採り物に笹葉を用いたからとも、楽器のささらによるとも考えられている。これらの説は、ササを「楽」と記す説としては正しいが、「ささなみ」と記すときに「楽浪」とする点に答えておらず、今日まで検討されたことがない。「ささなみ」の表記は次のとおりである。

 楽浪(万29・30・32・33・218・305(注10)・1715・3240)
 神楽浪(万154・206・1253)
 神楽声浪(万1398)
 左散難弥(万31)
 佐左浪(万1170)
 左佐浪(万1170)
 狭狭浪(神功紀元年三月)
 筱浪(天武紀元年七月)
 沙沙那美(仲哀記)
 佐々那美(応神記、記42)

 「楽浪」とは、前漢の武帝時代に版図が朝鮮半島に及んだとき、そこに置かれた郡の名である。漢書・地理誌に、「楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ。(楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。)」と見えるのが、中国の正史における本邦の初見である。白村江の戦い前後においても、中華帝国は版図を朝鮮半島に広げている。ヤマトの人たちにとっては、旧百済の地を支配した唐の出先機関は、往年の楽浪郡に当たるものと考えたのであろう。その唐に付き従うのであれば、都は「ささなみ」の地、今の滋賀県南部に移さざるを得ないと感じられたものと思われる。ヤマトの人にしか通じないなぞなぞなのであるが、当時、ヤマトの人の使っていたヤマトコトバは、文字ならびに文字文化を学び始めた段階にあった。初めて接する漢字表現に、思考が絡みとらわれていたと考えられる。そう分かるのは、柿本人麻呂自身が、「いかさまに思ほしめせか」と表現しているからである。推測したことは、漢字文化圏に中華帝国の楽浪郡の人達に従うために、ヤマトの楽浪郡に都をおけば良いということである。合理性から言えば論外の論理展開である(注11)が、絡め取られているから仕方がない。政権のトップにいた天智天皇等がそう考えて決め、なぞなぞ的論理からは正しいと認めざるを得なかったから皆従ったということであろう。

題詞の「過」

 今、柿本人麻呂は近江大津宮の旧跡地を訪れている。題詞に「過」という言葉で状況が語られている。この語をどう訓むかについては、実は未だ決定できていない。「ぐ」と訓む説と「よきる」と訓む説が並立している。「よぎる」という言葉は上代では清音であった。対象が場所である場合の例をあげる。

スグ
 ①ある場所やそこが視界に入る付近、ある道筋を通ってその先へ行ってその場所から離れていく。通過する。通って去る。
 いすかみ 布留ふるを過ぎて 薦枕こもまくら 高橋過ぎ ……(武烈前紀、紀94)
 新治にひはり 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる(景行記、記25)
 …… あをによし 奈良を過ぎ 小楯をだて やまとを過ぎ ……(仁徳記、記58)
 因りて曰はく、「これよりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其のみつゑを投げたまふ。(神代紀第五段一書第六)
 青駒の 足掻あがきを速み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける(万136)
 霍公鳥ほととぎす まづ鳴く朝明あさけ いかにせば かど過ぎじ 語り継ぐまで(万4463)
 珠藻刈る 敏馬みぬめを過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近づきぬ(万250)
 玉藻刈る 乎等女をとめを過ぎて 夏草の 野島が崎に いほりわれは(万3606)(注12)
 (②時間、③衰退、④程度、⑤消去、……) 
ヨキル
 ①前を通り過ぎる。通過する。
 よきりおはしけるよし、ただ今なむ人申すに、驚きながら、……(源氏物語・若紫)
 騎をつらねて相よきる。(猿投本文選正安四年点、左傍訓にスク、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10481687_po_ART0004667295.pdf?contentNo=1&alternativeNo=19)
 ②途中で立ち寄る。通りすがりに訪問する。
 餘は第二十六の客旧相ひよきるの章の説に同じ。(南海寄帰内法伝巻第二、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967414/22)
 死して地獄に過りて、果を楽受せず。(菩薩善戒経・九)
 閻羅の界において三塗の極苦には、復よきらじ。(西大寺本金光明最勝王経平安初期点、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585/85)
 漸く次ぎに城邑聚落に遊行すとして、空沢の中の深く険しき処によきりぬ。(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585/96)
 戊午に、道をよきりて伊勢神宮いせのかむのみやを拝む。(景行紀四十年是歳)
 是の時に、征新羅将軍吉備臣尾代、きて吉備国に至りて家によきりたり。(雄略紀二十三年八月)
 毛野臣の傔人ともなるひと河内馬飼首御狩にあひよきれり。御狩、ひとかどに入り隠れて、ものこふ者のぐるを待ちて、……(継体紀二十三年四月)
 第六度にいたりて日本によきりたまへり。(唐大和上東征伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190773/65)
 呂禄、酈寄を信じ、時にともに出でて游獦し、其の姑呂媭によきる。(史記呂太后本紀、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3439455/27)
 又、旅に盩厔に次し韓士別業によきる詩に云はく、(文鏡秘府論・地、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231578/44?ln=ja)

 スグは、「空間的には、止まるべきところ、立ち寄るべきところに、止まらず、立ち寄らず、先に進む意。」(古典基礎語辞典637頁、この項、須山名保子。)、「ある一点をはさんで、その一方の側から他の側へ移動する意を示す。……通過する。寄らずに通りすぎる。移動の意が強い場合と、そこに留まらない意が強い場合がある。」(時代別国語大辞典384頁)と解説されている(注13)
 これらの例から考えてみても、万29番歌の前に記されている題詞の「過」は、ヨキルの②の用例と捉えるのがふさわしいであろう(注14)。柿本人麻呂は、所用があってどこか東海道へ赴く際、途中で近江大津京に立ち寄った。そこで歌を詠んだ。一人で出かけたわけではなく、ある程度の人数の人とともに出掛け、せっかくだから寄って行こうと訪れて、都の面影がなくなっていたことに感慨を覚える人たちを前に歌を歌ったということであろう。歌うには手控えがあって、どう歌おうか草稿段階のものも残されていた。それを都へ持ち帰ったために、異伝も伝わっているのではないか。
 都があったとは思われない荒れた情景を前にして思うことは皆同じで、どうしてまたこんなところに遷都したものかねぇ、というものだったのだろう。それは、天智天皇が遷都しようとしていた時の状況と変わるものではない。まったくもって、「いかさまに思ほしめせか」としか言いようがない。その答えはわかっている。当時の国際的な緊張情勢から遷都は行われたのであり、いまさら歴史を塗り替えることはできないし、目の前の光景は元の木阿弥の草ぼうぼうである。単に都のことを歌っているばかりで、壬申の乱の兵どもが夢の跡を見ているのではない。言葉の羅列が長々と続くため、今日の人には挽歌的に聞こえたり、歴史叙述的に聞こえるかもしれないが、それは今日の人々の受け取り方にかかるばかりである。万葉集巻一のこれらの部分を録した編纂者にとって、およそ考え容れないことであった。
 「楽」浪といかにも楽しそうな字面をしているが、そこで開かれていた宴も歌舞音曲も、ヤマト朝廷の人々にとっては心から楽しむには落ち着かない時代であったと、20年以上前のことを振り返ってみて言えるのである。二つの反歌に「大宮人」、つまり、宮廷の人たちが船遊びをしたように歌われているが、あまり楽しいものではなかったということである。なぜなら、白村江の戦いでは船戦において敗れたのである。白村江の想定外の干満差になすすべを知らず、惨敗を喫している(注15)
左:銭塘江の海嘯(CCTV Video News Agency様「Largest Qiantang River Tidal Bores in Ten Years」をトリミング)、右:ささなみの比良岳(西田繁造編『日本名勝旧蹟産業写真集 近畿地方之部』富田屋書店、大正7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967085/18)
 「ささなみ」程度の穏やかな波のところで静かにしていなさいという神のお告げであったと納得して、内海である琵琶湖、「淡海」国に遷都したとも言えそうである。「近江京認識歌」は、当時の人々の認識に合致する歌を歌ったものである。認知的不協和を生まずに聞き入れられている。

古人ふるひとに われ有るらめや(万32)

  高市古人たけちのふるひとの、近江あふみ旧堵きうと感傷かんしやうして作りし歌 しよいはく、「高市連たけちのむらじ黒人くろひとなり」といふ
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの 古きみやこを 見れば悲しき(万32)

 今日行われている上のような訓読は、とても不思議なものである。原文は次のようにある。
 古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸
 西本願寺本、寛永版本に、「古人尓ふるひとに 和礼有哉われあるらめや 樂浪乃ささなみの 故京乎ふるきみやこを 見者悲寸みれはかなしき」(国文学資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200000985/22?ln=ja)とあり、意味が通じている。歌の作者に「高市古人」、あるいは「高市連黒人」であろうと注されている。歌意は、私は「古人」という名を負っていて、きっとそれを体現するように歳をとった古い人間であるからか、古い都を見ると悲しい、という意味である。フルという音が連ならなければ、この歌を聞いただけで直ちに納得することはできない。「ふるひと」は、第一に古老のことである。昔のことを知らない人には、大津京の存在すら不明である。廃墟の姿が焼けた柱や礎石に見えるのではなく、草ぼうぼうなばかりだからである。
 第二に、古人大兄皇子のことが思い浮かぶ。舒明天皇の子で、中大兄(天智天皇)の異母兄弟に当たる。大化改新時の逸話が語り継がれている。宮殿上で皇極天皇の次に席していた。その時、前庭で蘇我入鹿暗殺事件が起こっている。天皇は中大兄に何事かと問うて問答をしたのち、「天皇、即ちちて殿のうちに入りたまふ。」こととなり、一方、「古人大兄、見てわたくしの宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人からひと鞍作臣くらつくりおみ[蘇我入鹿]を殺しつ。韓の政に因りてつみせらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、かどして出でづ。」(皇極紀四年六月八日)ことになっている。彼は中大兄(天智天皇)のことを、「韓人」と定義している(注16)。その後、十四日には、天皇位に就くように軽皇子(孝徳天皇)から薦められたが固辞し、出家して吉野山に入った。同年九月十二日には謀反人として殺されている。
 今思い返してみれば、「古人」皇子が言っていたように、確かに先帝、天智天皇(中大兄)はカラヒトであった。カラ(唐)の政に従って「楽浪」の地に遷都するようなかぶれたことをしていたものだ、という意味にとることができる。私は「古人」だからだろうか、「楽浪」が「韓政からのまつりごと」に因るところで、ラクラウ(楽浪)に合わせてササナミ(楽浪)の地が求められていたことが今よくわかる、まったく悲しいことよ、と歌っているわけである。
 「いにしへのひと」という訓はいただけない。「にし」という語は、我々生きている人にとってたどり着くことのできないほど太古のことを表すからである。古典基礎語辞典に、「遥か遠くに過ぎ去っていて、伝承などで自分がその時点のことを聞いていても確かめることのできない過去をいう。」(137頁、この項、白井清子)とある。万葉集では「いにしへのひと」ははるかに離れた存在として伝説上の人物を指し、またそれが中国のことである例もあり、また、まったく漠としか想像できない昔人のことを言っている。

 いにしへの大き聖(万339)…魏の徐邈じょばく
 古の七のさかしき人ども(万340)…竹林の七賢
 古にやな打つ人(万387)…拓枝伝の味稲うましね
 古の賢しき人(万3791)…孝子伝の原穀(原谷)
 古のますらをとこ(万1801)…葦屋のうなひ処女をとめを争った男
 古の小竹田しのだをとこ(万1802)…同
 古に ありけむ人も 吾がごとか 妹に恋ひつつ 宿ねかてずけむ(万497)
 今のみの 行事わざにはあらず 古の 人ぞまさりて にさへ泣きし(万498)
 妹が紐 結八河内ゆふやかふちを 古の 皆人見きと ここを誰れ知る(万1115)
 古に ありけむ人も 吾がごとか 三輪の桧原ひはらに 挿頭かざし折りけむ(万1118)
 古に ありけむ人の 求めつつ きぬに摺りけむ 真野の榛原はりはら(万1166)
 古の 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(万1725)
 古の 人の植ゑけむ 杉がに 霞たなびく 春はぬらし(万1814)(注17)

おわりに

 以上見てきたように、「過近江荒都時、柿本朝臣人麻呂作歌」、「高市古人感‐傷近江舊堵作歌」の五首の歌は「近江京認識歌」であった。 藤原京に遷都後の持統朝において、20年以上前に置かれていた近江京のことを人々がどのように思っていたか、その共有している認識について、旧都の地を訪れて歌に表したものなのである。柿本人麻呂が近江京が荒れた姿をしているのを見て、他の人にない表現方法をとって独創的な歌にしたという考え方は、 その基盤の据え方からしてあやしい。歌は誰かに聞かれなければ歌ではなかった。誰かが聞いた時、聞いた人に共感されなければ歌として創立しえない。筆記されて伝えられてはいるが、個人的な作詞練習ではなく、書いたものを誰かに見せて見た人が楽しんだというものでもない。歌われた瞬間、即座にそうだそうだと認められなければ、それは相手にされていないということであり、歌として不成立である。コミュニケーションが成り立っていなかったら、万葉集に採録されるはずがない。権威に基づく資格ということではなく、最初から意味を持たないということである。すなわち、万葉集の、少なくともこの部分以前にある歌は、政治的合理性を歌った歌であると考えられるのである。どのようにお思いになってこの辺鄙な近江の地に都を遷されたのか、それは「ささなみ」が「楽浪」郡を示唆するからだった、そうだそうだ、そういうことだった、と聞いている人を巻き込み、その場にいる人々皆が皆ヤマトコトバのなかで腑に落ちた。なぞなぞの答えが解けたのである。その次第を歌にしたものが「近江京認識歌」なのである。

(注)
(注1)挽歌と捉えるのに好都合な歌として、巻第九の「挽歌」の部立の冒頭歌に、「宇治若郎子うぢのわきいらつこ宮所みやどころの歌一首」「妹らがり 今木いまきの嶺に 茂り立つ 嬬松つままつの木は 古人ふるひと見けむ」(万1795)がある。ただし、宇治若郎子はダシに使われて二重重ねになっているばかりで、「今木」に「今来いまき」ばかりでなく、「今城いまき(キは乙類)」、奥つの城のことを懸けているところがこの歌の眼目である。
(注2)例えば、神野志1992.。
(注3)辰巳1995.。
(注4)青木1998.参照。
(注5)原文は以下のとおりである。

  過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世従〈或云自宮〉阿礼座師神之盡樛木乃弥継嗣尓天下所知食之乎〈或云食来〉天尓満倭乎置而青丹吉平山乎超〈或云虚見倭乎置青丹吉平山超而〉何方御念食可〈或云所念計米可〉天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮尓天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流〈或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留〉百磯城之大宮處見者悲毛〈或云見者左夫思母〉
 樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之舩麻知兼津
 左散難弥乃志我能〈一云比良乃〉大和太与杼六友昔人二亦母相目八毛〈一云将會跡母戸八〉
  高市古人感傷近江舊堵作歌〈或書云高市連黑人〉
 古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸
 樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛

(注6)木下1962.に、「大雑把に言へば、……イカニはドノヤウニ ‘how’ であり、……ナニ以下はドウシテ、ナゼ ‘why’ の区別がある。」(3頁、漢字の旧字体は改めた)に従うなら、「いかさまに思ほしめせか」は、‘What did he think?’ であろう。嫌味な言い方として、How do you think?(自分で考えればわかるでしょう?)という言い方もあり、そう受け取ることもできないことではない。言葉が持つ両義性の領域に入る。契沖・万葉集代匠記にも、「いかさまにおぼしめしてかといふによりて見れば、此帝の都を遷し給ふ事を少し謗れるか、民のねがはざること題の 下に引ける天智紀の如し、摠じて都を遷す事は古より民の嫌へる事なり、史記殷本紀曰、……、況や上に引ける孝徳紀にいへる如く、豊碕ノ宮をば嫌ひ給ひて、倭京にかへらせ給ふべき由、奏請したまひながら、御みづからは又あらぬ方へ都を移させ給ふ、不審の事なり、又按ずるに、第二第十三に も、いかさまに思し食てかといへるは、たゞ御心のはかりがたきを云へり、殊に今の帝は大織冠と共に謀て蘇我ノ入鹿を誅し給ひ、凡中興の主にてましませば、七廟の中にも太祖に配して永く御国忌を行はる、智證の授决集にも見えたり、然ればたゞ御心のはかりがたき故にも侍らんか、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936702/47~48、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注7)「近江荒都歌」なる誤った枠組みが与えられて、その表現が挽歌的であるとしたり、天智天皇と天武天皇とを天秤にかけて、時の持統天皇に歌いかけた離れ技であると誤解されるに及んでいる。寺川2003.に、持統天皇の思いを「忖度し」(24頁)ているとある。
(注8)柿本人麻呂は長歌を“得意”としたが、彼は門付け歌人に過ぎなかったから、聞いてもらいたくてワーワー騒いでいるのである。今日から考えて表現がうまいかどうかという点は、その後に来る活動(meta-poetry)であり、当時の人たちにどのように評価されたか不明である。経歴等も史書に一切記載がない。
(注9)諸説ある。白村江の敗戦によって防衛力を強化するため、戦勝国である唐の要求による、交通上の要衝で高句麗との連絡や蝦夷を意識した、渡来人が多く居住していて生産力が高かった、旧勢力の本拠地飛鳥から離れようとした、飛鳥の地における再開発の頭打ちとなって生産力が低下したため、近江にも大王家の基盤を求めたため、秦の始皇帝の真似をして水徳を主張して水の都を建設した、などといった説があり、それらの複合したものであるとも唱えられている。「遷都理由に断案だんあんはない」(森2002.83頁)のが現状である。
(注10)万305番歌は「近江京認識歌」の一員である。「楽浪」が意識的に用字されている。

  高市連黒人の近江旧都の歌一首
 かくゆゑに 見じと云ふものを 楽浪ささなみの ふるき都を 見せつつもとな〔如是故尓不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名〕(万305)
  右の歌は或る本に少弁の作なりと曰ふ。未だ此の少弁なる者は審らかならず。

(注11)口承文化から文字文化への移行の段階において、なぞなぞ段階があったということはこれまで論じられたことはない。けれども、我々は容易にその事実について気づくことができる。幼少期の子どもは、口承文化から文字文化へ移行していっている。その間、文字を習い始める過程において、小学校低学年を中心に、特異な傾向としてなぞなぞが興味津々に楽しまれている。同じ現象が飛鳥時代の人々に起きていたと考える。ヤマトコトバと訓義を表す漢字との、絡み合いを楽しむやりとりが行われていたと推測される。
 コナトン2011.の「社会の記憶」に関する次の論考のうち、「経済化 economisation」は「省力化」のこと、「懐疑論 scepticism」は「ほんまかいな?」のことであると捉えてかまわないであろう。そして、コミュニティの記憶の構成要素として、「記念式典」と「身体」とを社会の記憶の特質として検討を進めている。万葉集の「雑歌」とは何かと問われれば、「記念式典」に当たって口承の伝達の役割を果たすものであったと定めることができると考える。
 「社会の記憶に対する文書化ライティング影響インパクトはしばしば論じられ、それが非常に大きかったことは明らかである……。口承文化から文字文化への移行は、具体化の実践から表記の実践への移行を意味する。文書化の影響は、表記によって伝えられる物語はすべて変更できないほど確立される事実、その構成過程が閉鎖的である事実から来るものである。スタンダード版や正典はこの典型である。この不変性こそが変革イノベーションを促すバネとなる。文化の記憶が「生の」語りではなく、その表記の再生産によって伝達されるようになると、即興はますます困難になり、変革は制度化される。音声表記は経済化と懐疑論という二つの過程を促進することによって文化的変革をはかる。ここでの経済化とは、コミュニティの記憶が韻律という形式への依存から解放されることである……。懐疑論とは、コミュニティの記憶の内容が系統的システマティックな批評の対象になることである……。」(134頁。わかりにくいので原文を付す。The impact of writing on social memory is much written about and evidently vast. The transition from an oral culture to a literate culture is a transition from incorporating practices to inscribing practices. The impact of writing depends upon the fact that any account which is transmitted by means of inscriptions is unalterably fixed, the process of its composition being definitively closed. The standard edition and the canonic work are the emblems of this condition. This fixity is the spring that releases innovation. When the memories of a culture begin to be transmitted mainly by the reproduction of their inscriptions rather than by 'live' tellings, improvisation becomes increasingly difficult and innovation is institutionalised. Phonetic writing generates cultural innovation by promoting two processes: economisation and scepticism. Economisation: because the form of communal memory is freed from its dependence on rhythm. Scepticism: because the content of communal memory is subjected to systematic criticism. pp.75-76. ともに(注)部分は割愛した)。
 また、「文化の継承において、その構成に不自然や矛盾と感じることがあっても、それを明らかに口にすることははばかられる。……その矛盾が文化への永続的な影響を生むとは考えにくい。懐疑論は個別に働くものであり、文化として蓄積するものではないからだ。」(135頁)ともある。「「ささなみ」=「楽浪」=「楽浪郡」」? という「懐疑論」は、日本書紀のような正史文書にはばかられ、口承文化のなかに残滓をとどめている所以である。
(注12)万250・3606番歌は、野島崎近辺のことを歌っている。前者は海路を、後者は陸路を進んでいる。ここは万3606番歌の仮名表記からスグと訓む。万250番歌において、船はどんどん進んで行くなか歌を詠んでいる。船は野島崎に近づきはするが上陸することはないだろう。岩礁が危険だからである。
 「右三首過鞆浦日作歌」(万448左注)とあって「鞆浦」に寄港しており、スグと訓むべきと考えられる。ヨキルと訓むことに抵抗があるのは、「天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首」(万446題詞)中の歌であり、「右二首、過敏馬埼日作謌」(万450左注)ともあって、通過地点であると考えたほうが無難だからである。船に乗っている人の中で一番偉い客であったとしても、ちょっと物見遊山に進路を変更してくれ、上陸させてくれと、船長に言えるものではない。
(注13)西大寺本金光明最勝王経と景行紀四十年是歳条の例は、①②のいずれにも解釈可能であり、辞書に①ととる説と②ととる説がある。スグに、停止しない意があると考えると、伊勢神宮の前を通り過ぎつつ拝むというのは、鳥居から中に入らないで拝むという忙しい現代人の参拝方法になる。
 なお、伊藤1983.に、万29番歌の題詞の「過」は、「集中の他の題詞や左注の「過」の字を検討するに、やはり「立ち寄り(見)つつ通過する」意に解するのが穏当だと思う。」(131頁)とある。それに従う注釈書も多く見られるが、語義を理解しているように見受けられない。ヨキルという語はもとからあるヤマトコトバである。「「く」の再活用語であろう。「避道よきぢ」「曲道よきぢ」という語もある。……道の途中で立寄る。また途中で通り過ぎることをいう。「く」の関係からいえば、目的のところに直行せずに、何らかの理由でわき道する意である。」(白川1995.784頁)。
(注14)万葉集の題詞に、「過」という字は全部で14例あるが、通過(万794、万942、万1800、万3638、万4159)、経過(万886、万3967)、超過(すぐれる、まさる)(万802、万3973)の意味が多く、寄り道して立ち寄る意味のヨキルの例としてあげられるのは、最大限次のものであろうか。

 過勝鹿真間娘子墓時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉〈東俗語云、可豆思賀能麻末能弖胡〉(万431題詞)
 過敏馬浦時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉(万946題詞)
 過敏馬浦作謌一首〈并短哥〉(万1065題詞)
 過葦屋處女墓時作謌一首〈并短謌〉(万1801題詞)

 第二・三例の「敏馬浦みねめのうら」の歌は、散歩に出かけて行って海人の様子を見ている風情がある。第四例は、巻九の「挽謌」のなかにあり、ひとつ前の「過足柄坂死人作歌一首」(万1800題詞)と似たような意味合いなっているが、この場合、「足柄坂」を通過することは当初から旅程の中に入っており、通っていたらたまたま「見死人」ことになったので歌を作ったという意味であろう。一方、「葦屋處女墓」の歌は、そのあたりを通過して長歌と短歌二首を作ったというのではなく、第一例と同じく、お墓があるからお参りしようと出掛けた時に歌を作ったという意味であろう。「葦屋處女墓」を「過」ぎてから先どこへ行こうというものでもないので、ヨキルと訓むのが正しいと考える。
 なお、辰巳1987.に、「人麻呂以後に墓下の作や景勝地での作に「過」を用いるのも、……中国詩の「過」の文学的形態に含まれる作品であることは確かであろう。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3132454/50)とある。題詞と歌との関係は見なければならないが、題詞と中国詩との関係を見なければならないとは筆者は考えない。中国ではそう書いているから、それに倣ってお題を書いておけば良かろう程度のことであると考える。
(注15)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f0d6d7b1f0d734bc459b39e8358d80fc/?img=d61dbb74aa694aebf334b6ffa3c3c319など参照。
 第二反歌に、詠作者の人麻呂ら一行が船に乗って行こうとしているとする説(江富2016.13頁)があるが、趣味が悪いと思われる。竹生・西2006.は疑問を呈するが、「大わだ淀むとも」とは白村江河口の潮流のことを暗示した表現であり、流れが止まっていたらあれほどみじめ敗戦にはならなかったと「修辞的仮定」(大系本萬葉集333頁)により言い表している。日本書紀などにどこにもそのように記されてはいないが、誰しもが言い「淀む」ことであったに違いあるまい。
(注16)拙稿「乙巳の変の三者問答について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/350dc1604d89890309cb462f0216631cなど参照。
(注17)他に、今日「いにしへびと」と訓んでいる例が一つある。

 眉根まよね掻き 下いふかしみ 思へるに 古人いにしへびとを 相見つるかも〔眉根掻 下言借見思有尓去家人乎相見鶴鴨〕(万2614)
  或る本の歌に曰ふ、眉根掻き 誰をか見むと 思ひつつ 長く恋ひし 妹に逢へるかも〔或本哥曰眉根掻誰乎香将見跡思乍氣長戀之妹尓相鴨〕
  一書の歌に曰ふ、眉根掻き 下いふかしみ おもへりし 妹が容儀すがたを 今日見つるかも〔一書歌曰眉根掻下伊布可之美念有之妹之容儀乎今日見都流香裳〕(万2614)

 この歌は、昔なじみの人という意味で「いにしへびと」と訓み、家から去っていった夫のことを言うとされているが、中古・中世に例がなく、不審とする向きもある。他に用例がないのであれば、「にし家人いへびと」と訓むことも気にならない字余りなので可能である。「家人いへびと」は、召し使いの下男や下女のことばかりでなく、夫・妻のことも指して使われている。

 家人は 帰り早来はやこと 伊波比島いはひしま いはひ待つらむ 旅行くわれを〔伊敝妣等波可敝里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和礼乎〕(万3636)

(引用・参考文献)
青木1998. 青木生子「柿本人麻呂の歌の原点─「いかさまに思ほしめせか」をめぐって」『青木生子著作集 第4巻─萬葉挽歌論─』平成10年。
伊藤1983. 伊藤博『萬葉集全注 巻第一』有斐閣、昭和58年。
江富2016. 江富範子「楽浪の歌─近江荒都歌第二反歌をめぐって─」『国語国文』第85巻第7号(983号)、臨川書店、平成28年7月。
木下1962. 木下正俊「『なに』と『いかに』と」『萬葉』第44号、昭和37年7月。萬葉学会HP http://manyoug.jp/memoir
神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
コナトン2011. ポール・コナトン著、芦刈美紀子訳『社会はいかに記憶するか─個人と社会の関係─』新曜社、2011年。(Connerton, Paul. 1989. How Societies Remember, Cambridge University Press, England.)
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。 
竹生・西2006. 竹生政資・西晃央「びわ湖の環流と柿本人麻呂の近江荒都歌」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第11巻第1号、2006年9月。佐賀大学機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1730/00018447/
辰巳1995. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3132454
寺尾2017. 寺尾登志子「人麻呂の近江荒都歌をめぐって─作者の創意と時代背景─」『専修大学人文科学研究所月報』第283号、2017年5月。専修大学学術機関リポジトリhttp://doi.org/10.34360/00007029
寺川2003. 寺川眞知夫「近江荒都歌─その表現の背景─」『万葉古代学研究年報』第一号、奈良県立万葉文化館、2003年3月。奈良県立万葉文化館http://www.manyo.jp/ancient/report/
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
森2003. 森公章「倭国から日本へ」森公章編『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、2003年。
渡瀬2003. 渡瀬昌忠『渡瀬昌忠著作集 第七巻』おうふう、2003年。

(English Summary)
Manyoshu vol.1 has three poems written by KAKINOMOTO no Hitomaro, written by visiting the desolate old capital of Omi. The research of them has focused only on the expression method of KAKINOMOTO no Hitomaro. But considering the appearance of selecting and arranging the Manyoshu, it must be understood that it is a series of the capital of Omi poems including two poems of TAKECHI no Huruhito. In this paper, we will examine that these poems speak of a common sense of how the Yamato court people perceived the former Omi-Kyo during the Fujiwara-Kyo era. The keyword to clarify is the place name "Sasanami", that means ripples, in all poems. It is written as "楽浪" in kanji and it also means Lelang Commandery in China. So, it can be understood that the capital was relocated following the tense international circumstances in East Asia at that time. It was shocking for ancient Japanese people that The Yamato Kingdom, the nation, was defeated by big waves in the Battle of Baekgang.

※本稿は、2021年4月稿を2024年5月に部分的に訂正し、ルビ形式にしたものである。

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