次の歌は古今集の序(注1)にも引用されてとみに有名であり、また出土木簡にも見出されている(注2)。けれども、歌の解釈には諸説あっていまだ定説を得ていない。歌の主旨について左注を絡めて全体として理解されるに至っていない。この歌が言葉遊びを極めた歌であることを指摘した論も見られない(注3)。
安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾が思はなくに〔安積香山影副所見山井之浅心乎吾念莫國〕(万3807)
右の歌は、伝へて云はく、「葛城王の陸奥国に遣さえし時に、国司の祗みて承るに緩怠なること異に甚し。時に、王の意に悦びず、怒の色面に顕る。飲饌を設くと雖も、宴楽び不肯ず。是に前の采女有り、風流たる娘子なり。左の手に觴を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて此の歌を詠む。爾乃ち王の意解け悦びて、楽しび飲むこと終日なり」といへり。〔右歌傳云葛城王遣于陸奥國之時國司〓(示へんに弖)承緩怠異甚於時王意不悦怒色顯面雖設飲饌不肯宴樂於是有前采女風流娘子左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌尓乃王意解悦樂飲終日〕
歌の解釈においてこれまでに問題視された点としては、歌にある「山の井」に映っているのは何か、「さへ」はどういう意味か、「井」の水は澄んでいるか、「あさ」という音の反復は意識されているか、上三句の序詞は「浅き」のみにかかるか下二句全体にかかるか、ナクニ止めで終わっている歌の余韻をどう捉えるか(注4)、があげられている。現在の通釈書の現代語訳は次のようになっており、特に違和感はない。
安積山、山影まで見える山の泉の水のように、浅い心で私はあなたを思うのではありません。(新大系文庫本269頁)
安積香山の、山の姿までも映って見える山の泉のように、浅い気持であなたのことを思っているわけでは決してありませんのに。(阿蘇2012.302頁)
安積山の影までが映って見える山の井のような浅い心で、私は思ったわけではないのに。(多田2010.148頁)
しかし、左注との関係についてとなると、途端に皆、奥歯に物が挟まったような解説となる。
万葉集巻十六は、「由縁有り、并せて雑歌〔有由縁并雜歌〕」という標題のもとさまざまな歌が採録されている。「由縁」とは経緯があって歌が詠まれているということであり、状況設定について題詞や左注に説明されることが多い。この歌でも、葛城王が陸奥国に派遣された時に、国司主催のおもてなしの宴会が開かれたが、礼に欠けるものであったため葛城王はふくれていた。その時、「前采女」が気の利いた歌を歌いかけたので、気をとり直して楽しんだと事情が説明されている。
万葉集巻十六の編者がはるかに遠い陸奥国で歌われた歌を書き留めて置こうとしたのは、この歌に「由縁」が有ると考えたからだろう。そういう状況だったらそういう歌を歌って興趣が生まれ、聞いた王の気持ちも楽しくなるだろう。まことにその場にふさわしい歌であると認めたということである(注5)。何がふさわしいかと言えば、歌は言葉でできているから、言葉づかいが洒落ていて場面に合い、見事だということである。
「前采女風流娘子」とは、以前都へ行き采女を務めていて今は国元の陸奥へ帰って来ていた女性のことである(注6)。「風流」とは、都会風、宮廷風ということだが、所作ふるまいがミヤビである(注7)ということよりも、言葉をうまく使って歌を歌ったところがミヤビなのである。なぜなら、歌の左注の文章に書かれているからである。歌は言葉でできていて、それ以外のものではない。
誰もが気づく言葉づかいの妙は、「あさか山」と「あさき心」を掛けている点である。陸奥国、つまり、道の奥の遠い国だから、都で重んじられている礼を知る者がおらず、お客様には失礼をおかけしていてお恥ずかしい限りですと歌っている。「山の井の 浅き心を」と掛かる時、「山の井の浅き」というのがどういう状態なのか議論されている。水深が浅いとする説と地上から水面までの距離が浅いとする説である。関連して、水が清浄かどうかということも考慮されている。井戸の話をするのに、井戸水が涸れそうなことを「浅い」と表現するものか筆者は知らない。井戸が「浅い」のは深井戸の反対で、水位が地面に近いことを指すものである(注8)。水汲みがたやすいことを言っている。誰の仕事か。宮中でいえば采女の仕事である。だから「前采女」の歌として伝わっている。深井戸なら屈強な男性が跳ね釣瓶などで汲み揚げたであろう(注9)。
左:自噴井戸(扇面法華経下絵、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/967638/1/24をトリミング)、右:撥ね釣瓶の井戸(一遍聖絵(写)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/25をトリミング)
彼女は、「左手捧レ觴、右手持レ水、撃二之王膝一」っている。この状況はどういうことなのか注意が必要である。手が空いていないのに膝を撃つことはできるのか。また、葛城王の膝がその体に密着していると撃つことはできない。体勢としては胡床居と呼ばれる座り方なのだろう。左手で觴を捧げていたというのは元采女が昔取った杵柄のごとき所作であるが、右手はどうやって水を持っているのか。ふつうならお酌をして回るのだから酒を入れた銚子や提子を持っていなければならない。なのに水を持っている。觴に水を注ぐというところが「国司〓(示へんに弖)承緩怠異甚」の核心を突いているようである。宴なのに酒の用意がなかった。
酒を注がずに水を持っている。そして、井のことが歌われている。井戸から汲み揚げた水を手にしている(注10)。右手にあって中身が水である容器はヒサコ(瓢、瓠)で、コは古く清音であったものと考えられている。容器の素材は土器の可能性もあるが、その呼称は用途を同じくするからヒサコと呼ばれたものと推測される。水を汲む容器にしているヒサコには、植物のヒサコ、すなわち、瓢箪の類の核を刳り抜いたものを利用した。植物名の場合、ヒサとも言ったとされている。ヒサコを手にしているから、その右手で王のヒザ(膝)を撃った。ヒザ(ヒは甲類)のザは濁音であるが、清濁相通じて言葉を掛ける例はよく見られる。ヒサコとは手にさげること、古語にいうヒサグ(提)ことのできるところに特徴を見たものでもある。そのヒサグという語はヒキ(引)+サグ(下)の約と考えられている。ヒク(引)のヒは甲類だから、ヒサコのヒも甲類だったろう。人間の膝の方には膝頭の骨がある。いわゆる膝のお皿である。柄杓のように水を掬い溜めることができるものと見立てられる。その両者を撃ち合っておもしろがっている。機知あふれる言葉遊びを実行に移している。
ヒサコ、ヒサ、ヒザが一連の言葉群を構成している。「前采女風流娘子」は、ヒサコでヒザのコ、膝頭の骨部分をコツンと撃ったのである(注11)。どうしてウツ(撃)ような真似に出たのか。それはその場がウタゲ(宴)だからである。ウタゲという言葉は、ウチ+アゲの約、酒宴の際に手をうちたたくことに由来する言葉とされている。ここでは、手と手をうちたたくのではなく、ヒサとヒザをうちたたいている。歌う時に撃っているから拍子を取っているわけである。ヒサ(久)にヒサにと囃している。宴で囃子言葉の歌が歌われたことは知られている。
冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇、大田田根子を以て、大神を祭らしむ。是の日に、活日、自ら神酒を挙げて天皇に献る。仍りて歌して曰はく、
此の御酒は 我が御酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし御酒 幾久幾久(紀15)
如此歌して、神宮に宴す。即ち宴竟りて、諸大夫等歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(紀16)
茲に、天皇歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(紀17)
即ち神宮の門を開きて幸行す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖なり。(崇神紀八年十二月)
酒をささげたてまつり、幾世までも久しく栄えよと歌った歌が伝わっていた。「前采女」はそれを伝えようと瓠で膝を撃っている。そういう伝承が思い起こされたなら、同様に、宴の席で采女が歌ったとされる歌も思い出されたことであろう。それはちょうど今、葛城王が怒っているように、雄略天皇が怒っていた時に三重の采女が歌を歌ってそれを鎮めたという話に沿っている。わざわざ王が怒っているときに采女が歌う設定にしている。昔話を踏襲しているからである。「前采女」は、無礼を詫びながら楽しませる機知を持っていた。
又、天皇、長谷の百枝槻の下に坐して、豊楽為たまふ時に、伊勢国の三重の婇、大御盞を指し挙げて献りき。爾くして、其の百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮く。其の婇、落葉の盞に浮くこと知らずて、猶大御酒を献る。天皇、其の盞に浮く葉を看行して、其の婇を打ち伏せ、刀を以て其の頸に刺し充て、斬らむとしたまふ時、其の婇、天皇に白して曰はく、「吾が身を莫殺したまひそ。白すべき事有り」といひて、即ち歌ひて曰はく、
纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光る宮 竹の根の 根垂る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土よし い築きの宮 真木栄く 檜の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞に 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに 是しも あやに畏し 高光る 日の御子 事の 語り言も 是をば(記99)
故、此の歌を献りしかば、其の罪を赦しき。爾くして、大后、歌ふ。其の歌に曰はく、
倭の 此の高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の語り言も 是をば(記100)
即ち、天皇の歌ひて曰はく、
ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領巾取り懸けて 鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 群集り居て 今日もかも 酒水漬くらし 高光る 日の宮人 事の語り言も 是をば(記101)
此の三つの歌は、天語歌ぞ。
故、此の豊楽に、其の三重の婇を誉めて、多たの禄を給ふ。(雄略記)
しかし、この雄略記だけでは万3807番歌の状況を定めきれない側面がある。「前采女」は酒を持っていない。持っているのは水である。酒が切れていて用意できなかったのだろう。ために井戸から水を汲んできてそのまま葛城王に提供しようとしている。そのような逸話は記紀説話のなかにある。ソラツヒコの話である。海神の宮を訪れた火遠理命(彦火火出見尊)は、海神から虚空津日高(虚空彦)と呼ばれている。海神の宮を訪れてカツラの木の上に登って様子を見ていたことが発端である。
即ち、其の香木に登りて坐しき。爾くして、海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水を酌まむとする時に、井に光有り。仰ぎ見れば麗しき壮夫有り。甚異奇しと以為ひき。爾くして、火遠理命、其の婢を見て、水を得まく欲しと乞ふ。婢、乃ち水を酌み、玉器に入れて貢進りき。爾くして、水を飲まずて御頸の璵を解き、口に含みて其の玉器に唾き入る。是に其の璵、器に著きて、婢、璵を離つこと得ず。故、璵を著けし任に、豊玉毘売命に進りき。爾くして、其の璵を見て、婢に問ひて曰はく、「若し、人、門の外に有りや」といふ。答へて曰はく、「人有り。我が井の上の香木の上に坐す。甚麗しき壮夫ぞ。我が王に益して甚貴し。故、其の人水を乞ひしが故に水を奉れば、水を飲まずて此の璵を唾き入る。是、離つこと得ず。故、入れし任に将ち来て献る」といひき。爾くして、豊玉毘売命、奇しと思ひ、出で見て、乃ち見感でて、目合して、其の父に白して曰はく、「吾が門に麗しき人有り」といひき。爾くして、海神、自ら出で見て云はく、「此の人は天津日高の御子、虚空津日高ぞ」といふ。即ち、内に率て入りて、みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取の机代の物を具へ、御饗為て、即ち其の女、豊玉毘売命に婚はしむ。(記上)
万3807番歌の左注にあるカヅラキノミコ(葛城王)は、カツラキ(香木、桂)+ノ(助詞)+ミコ(御子)であるとなぞらえられている。井戸にゆかりがある人だから井戸水を汲んできて提供しようとしている。「前采女」は従婢の役目を担っている。着席している様は、板の間に藁蓋などを敷いたところに座らされているのではなく、たくさんの敷物を重ねたところに腰掛けるような具合になっていると考えられる。胡床居になるからヒザ(膝)が出て、ヒサコ(瓢)で「撃」つことができた。「みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐せて」という状況である。陸奥、ミチ(道)+ノ(助詞)+オク(奥)の地である。ミチという言葉にはアシカの意味もあり、アシカの毛皮が敷物に利用され、カヅラキノミコ(葛城王)はミチの皮を何枚も積み重ねたところに座らされていた。実際のところ、ミチノクはアシカの毛皮の大生産地でもあった。
ニホンアシカ(絶滅種)(兵庫県立考古博物館「動物と考古学展」展示品)
「前采女」が葛城王に伝えようとしているのは、陸奥国は海神が住むほど遠い国で、国司は王のことをぞんざいに扱っているわけではなくて、龍宮城のような別世界のおもてなしをしているのですよ、ということであった。王はまるでソラツヒコのようで、見目麗しくいらっしゃる。だからその先例に従っておもてなしをしているというのである。題詞中の「飲饌」は、オモノ(御物)、あるいは、ツクエシロノモノ(机代物)などと訓めばよいのであろう。御馳走がいろいろ並べられている。
これまでの解釈では、宴と井の水とを結びつけて捉えられていなかった。井の水の神聖性を歌ったとも考えられていたが、その場合、畏怖の念を覚えはしてもおもしろいと思うことはなく、酒宴との関係も不明である。畏まることになって「王意解」のことはあっても「悦楽飲終日」には至らないだろう。この日、「王」は何を「飲」んでいるのか。「前采女」が持っていた「水」である。すなわち、ナクニ止めで語られている安積香山の歌の共通項とは、水である。酒の用意がされていないことに「怒色顕レ面」となっていた葛城王は、「雖レ設レ飲饌、不レ肯二宴楽一。」であったが、「前采女」に膝を撃たれながら歌われた歌を聞いてなるほどと思い、酒ではなく水の飲み会、ソフトドリンクの食事会を一日中楽しんだということになる。
以上のように、左注に記されていることとの整合性を保った理解が行われることではじめて、この歌は万葉集巻十六、「有二由縁一」歌として蘇ることができるのである。
(注)
(注1)古今集・仮名序に、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は采女の戯れより詠みて、この二歌は、歌の父母の様にてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と見える。
(注2)紫香楽宮跡から出土している。天平十六〜十七年当時のものと推定されている。
(注3)言語は、主張、問いかけ、命令、祈り、約束、懇願、脅迫、言葉遊びなど、無数のゲーム的な行為の束である。この歌がそのうちのどの要素を強く持っているかを探ることが万葉集研究の唯一無二の方法である。ところが、村瀬2010.は、左注の「伝云」について、「作りものの語り」であると決めて歯牙にもかけない。「「左手に觴を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて」という振舞いは千手観音ならいざしらず、現実の采女の行動としては不自然である。思うにこれは、もともとあった安積香山歌……に、「伝云」に記されたような盛りだくさんな内容(宴席で詠まれた歌、采女が詠んだ歌、王への忠誠の心を吐露した歌等々)を付与したがために生じた無理に起因するのであろう。」(95頁)とする。わざわざ左注を記して「有二由縁一」として編んだ採録者の意図を無視している。仮に後から話を作ったとした場合、最終的に馬脚を現すことはあり得ても、最初から誰もが疑問視するような話を付け足すようなことはない。話にならないからである。
(注4)ナクニは、打消の助動詞ズがク語法によって体言化された形、クニに助詞二が下接したもので、ナクニ止めで終わる歌には独特の余韻を残す効果がある。鉄野2008.は、「ナクニ自身は、単に否定的な状況を提示するに過ぎない。しかし、その否定的な状況に対して、それに応じようとすれば、両者の関係はおのずと逆説的にならざるを得ない。更にナクニで言いさしにすれば、自分には、その状況に対して如何ともし難い、乃至はそれ以上何も言えない、といった気持を暗示することになる。口ごもることによって、以下は察してくれ、あるいはあなたはどうしてくれるのか、などと、聞き手に下駄を預ける体なのである。」(5頁)と解説する。そして、「ナクニ止めの歌のように、最後に全体を否定する形では、その語[「つなぎことば」(伊藤1986.)]は結局否定される側にあることになる。……そうした時、序詞は本旨に対して多様で微妙な関係を結ぶことになる……。その関係の多くは、何らかの比喩である。比喩が、異なるもの同士の中に共通の要素を見出すことに成り立つのだとすれば、そこには必ず裏面として、差異が存することになる。」(14頁)としている。そして、安積香山の歌では、「差異(山の井は浅いけれども、自分の心は深い)をあえて挙げることで、かえって共通項(清らかであること)が浮かび上がる仕組みになっている。」(同頁)と結論づけている。以下に述べるように、共通項が井の清らかであることと捉えるのは誤りである。
(注5)史書に見られないから史実ではなかっただろうとの主張もあり、また、説話化された歌であるとの見方もある。しかし、なにより歌の理解が第一である。講釈はその後で(したければ)することである。
(注6)采女の制に合わないから嘘であるとする生真面目で融通の利かない、文学的でない見解も見られる。また、多田2010.に、「「采女」は水司や膳司に配属されたが、井の聖水に奉仕する「水の女」としての役割がその職掌の一端であったらしい。」(147頁)と尤もらしいことが語られている。しかし、女中が主人に仕える卑近な仕事は、おーい、お茶、と呼ばれた時、さっと茶を入れて差し出すことであろう。
(注7)これまでの説ではそう捉えられている。「都から来訪した葛城王を適切にもてなす術を唯一心得ていた「前采女」の洗練された振舞いと関わって用いられている。」(高松2007.168頁)という。具体的には、膝を撃つことに色っぽさを含むとする説に、鉄野2008.、上野2018.などがある。また、拍子を取るリズミカルな撃ち方とする説に、折口1971.、藤井1987.などがある。
なお、「芸能」として捉えようとすると「風流」はもはやミヤビでは意が解し尽くせないから音読みするとする説が佐藤2024.に見られる。評するに値しない。
(注8)木村2008.が指摘していて正しい。近年の注釈書では、多田2010.や阿蘇2012.はこの説に依っている。だが、現在でも研究者のなかには否定的に捉える向きもある。加藤2019.は、「「安積山…」詠のように、単に「山の井」について「浅き」といった場合は、山の井の水の深浅についていわれたものと理解するのがふつうで、そのような自然な理解を排して水面の位置のことであるとするのは、説明を重ねる中でしか発動しない読解と言わざるをえない。」(15〜16頁)と批判している。井戸水を汲み揚げることを知らないようである。万葉集のなかで「井」に関して浅い、深いと形容しているのはこの歌だけである。「井」は飲み水を得るためのもの、「田井」は稲の飲み水のあるところ、つまりは水田のことを言っている。人は「井」から水を汲み揚げて使う。電動ポンプはない。
もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花(万4143)
勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ(万1808)
山辺の 五十師の御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも(万3235)
上二首は水を汲むことが歌われている。最後の歌は、井戸端にきれいな着物を着た女官が集まっていることを、錦を張った山のようだと譬えている。井に水が溜まっている、その水深について、当時の人は頭に浮かべたことがあったのだろうか。溜池の水深なら深くあることが望まれただろう。たくさんの水を貯えていることを指すからである。しかし、井の場合は、湧泉であれ、掘井であれ、「走井」のような川の水の活用であれ、水の深さは求められていない。次から次へと湧き出してくるところを「井」と呼んでいる。汲み揚げたらじわっと滲みだして次に汲む時にはまた満ちている。それが「井」である。角川古語大辞典は「山の井」の項を設け、「山中にわき出る泉。掘り井戸ではないために、たまっている水の量が少なく、浅いことのたとえに用いられる。」(764頁)としている。これは誤解だろう。水を汲むのに十分な条件がそろわないところを「井」とは呼ばなかっただろう。日本国語大辞典では、「山中の、湧水をたたえたところ。掘井戸に対して、それが浅いところから、和歌では「浅い」の序詞の一部としても用いる。」(190頁)としている。水量の問題ではなく、釣瓶を使わなくても汲むことができることをいうものとしている。これが正しい。
廣岡2005.に、「古代において、影(姿)を写すことは神秘なものと理解され、その魂まで宿すものと考えられていた。ここはそういう深い井を言うものであろう。古代における井の多くは湧泉であり、この歌の井も泉をいう。山名もアサだけではなくて、アサカの音は浅からずの否定形を内にもっていると理解してよい。その清泉の水を右手に持って歓待したというのは、この陸奥の地霊の奉仕を意味している。」(320頁)とある。後付けの空論である。波立たない水面は影を写す。田に水を張れば影を写す。盥の水も同じである。盥が魂を宿す祭具となり、実用から外されたことはない。そして、この講釈によって、葛城「王意解悦、楽飲終日。」ことになるとは考えられない。しかも、井戸がとても深かったら、覗き込んだ自分の顔も見えなくなるだろう。清泉で歓待することを地霊への奉仕と論理を飛躍させ、反証不可能な言辞にしている。
(注9)影が映るのだから水はきれいで深くないといけないとする考えが意外に多くみられる。契沖・万葉代匠記に、「影さへみゆるは山の井のきよきによりてなり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/66)とあるのが発端かもしれない。しかし、影が映るのは水の表面の反射による。水面が風波に揺らいでいたり、水草が水面から出ていたり、藻が繁殖しすぎてガスが発生して泡立っていたりしたら映らないが、水面が穏やかなら水中の色は乱反射により全体のトーンにはなるが影が映らないことはない。強い光が当たる場合や他に光が乏しい夜景などが、水鏡の映りやすい条件である。
水鏡の例(平等院)
むろん、安積山を映した井の水はきれいだっただろう。なぜならそれは井であり、井は飲み水を供するところだからである。飲用に適さなくなった井戸が廃される時、独特なお祭りをして埋めたであろうことは出土状況から確認されている。もはや「井」ではないということである。
(注10)廣岡2005.は、三句目までの序詞と主意を表す下句との関係について、「[序詞は]一般には下句の「浅し」へ冠すると理解するが、……今の場合、「浅き心を我が思はなく」という全体に冠するものであろう。そうでなかったら序詞にする必要はなく、「安積山」だけの枕詞でよい。」(320頁)などと乱暴なことを言っている。左注で「前采女」は「右手持レ水」していて、「井」のことを歌のなかに歌い込んでいる。歌と左注をもたれ合いの関係にして伝えようとしているのだから、両者を一括して理解しなければならない。
(注11)コツンという擬音語が骨という字音に由来するのかはわからない。
(引用・参考文献)
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伊藤1986. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
上野2018. 上野誠『萬葉文化論』ミネルヴァ書房、2018年。(「難波津歌の伝─いわゆる安積山木簡から考える─」『文学・語学』第196号、2010年3月。)
內田1999. 內田賢德「綺譚の女たち─巻十六有由縁─」『伝承の万葉集』笠間書院、平成11年。
折口1986. 折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集14』中央公論社、1996年。
加藤2019. 加藤睦「「安積山影さへ見ゆる…」詠(万葉集・巻十六)について」『立教大学大学院日本文学論叢』第19号、2019年10月。立教大学学術リポジトリhttps://doi.org/10.14992/00018924
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
木下1972. 木下正俊『萬葉集語法の研究』塙書房、昭和47年。(「「なくに」覚書」『万葉集研究 第一集』塙書房、昭和47年。)
木村2008. 木村高子「安積山歌詠考」『成城国文学』第24号、2008年3月。
佐藤2024. 佐藤陽『古代的心性研究序説』武蔵野書院、2024年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
鉄野2008. 鉄野昌弘「序詞とナクニ止め」『国語と国文学』第85号第9号、平成20年9月。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館、2002年。
廣岡2005. 廣岡義隆「安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに(16・三八〇七)」『セミナー万葉の歌人と作品 十二巻 万葉秀歌抄』和泉書院、2005年。
藤井1987. 藤井貞和『物語文学成立史』東京大学出版会、1987年。
村瀬2010. 村瀬憲夫「「安積香山」歌と「伝云」」『国語と国文学』第87巻第11号、平成22年11月。
安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾が思はなくに〔安積香山影副所見山井之浅心乎吾念莫國〕(万3807)
右の歌は、伝へて云はく、「葛城王の陸奥国に遣さえし時に、国司の祗みて承るに緩怠なること異に甚し。時に、王の意に悦びず、怒の色面に顕る。飲饌を設くと雖も、宴楽び不肯ず。是に前の采女有り、風流たる娘子なり。左の手に觴を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて此の歌を詠む。爾乃ち王の意解け悦びて、楽しび飲むこと終日なり」といへり。〔右歌傳云葛城王遣于陸奥國之時國司〓(示へんに弖)承緩怠異甚於時王意不悦怒色顯面雖設飲饌不肯宴樂於是有前采女風流娘子左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌尓乃王意解悦樂飲終日〕
歌の解釈においてこれまでに問題視された点としては、歌にある「山の井」に映っているのは何か、「さへ」はどういう意味か、「井」の水は澄んでいるか、「あさ」という音の反復は意識されているか、上三句の序詞は「浅き」のみにかかるか下二句全体にかかるか、ナクニ止めで終わっている歌の余韻をどう捉えるか(注4)、があげられている。現在の通釈書の現代語訳は次のようになっており、特に違和感はない。
安積山、山影まで見える山の泉の水のように、浅い心で私はあなたを思うのではありません。(新大系文庫本269頁)
安積香山の、山の姿までも映って見える山の泉のように、浅い気持であなたのことを思っているわけでは決してありませんのに。(阿蘇2012.302頁)
安積山の影までが映って見える山の井のような浅い心で、私は思ったわけではないのに。(多田2010.148頁)
しかし、左注との関係についてとなると、途端に皆、奥歯に物が挟まったような解説となる。
万葉集巻十六は、「由縁有り、并せて雑歌〔有由縁并雜歌〕」という標題のもとさまざまな歌が採録されている。「由縁」とは経緯があって歌が詠まれているということであり、状況設定について題詞や左注に説明されることが多い。この歌でも、葛城王が陸奥国に派遣された時に、国司主催のおもてなしの宴会が開かれたが、礼に欠けるものであったため葛城王はふくれていた。その時、「前采女」が気の利いた歌を歌いかけたので、気をとり直して楽しんだと事情が説明されている。
万葉集巻十六の編者がはるかに遠い陸奥国で歌われた歌を書き留めて置こうとしたのは、この歌に「由縁」が有ると考えたからだろう。そういう状況だったらそういう歌を歌って興趣が生まれ、聞いた王の気持ちも楽しくなるだろう。まことにその場にふさわしい歌であると認めたということである(注5)。何がふさわしいかと言えば、歌は言葉でできているから、言葉づかいが洒落ていて場面に合い、見事だということである。
「前采女風流娘子」とは、以前都へ行き采女を務めていて今は国元の陸奥へ帰って来ていた女性のことである(注6)。「風流」とは、都会風、宮廷風ということだが、所作ふるまいがミヤビである(注7)ということよりも、言葉をうまく使って歌を歌ったところがミヤビなのである。なぜなら、歌の左注の文章に書かれているからである。歌は言葉でできていて、それ以外のものではない。
誰もが気づく言葉づかいの妙は、「あさか山」と「あさき心」を掛けている点である。陸奥国、つまり、道の奥の遠い国だから、都で重んじられている礼を知る者がおらず、お客様には失礼をおかけしていてお恥ずかしい限りですと歌っている。「山の井の 浅き心を」と掛かる時、「山の井の浅き」というのがどういう状態なのか議論されている。水深が浅いとする説と地上から水面までの距離が浅いとする説である。関連して、水が清浄かどうかということも考慮されている。井戸の話をするのに、井戸水が涸れそうなことを「浅い」と表現するものか筆者は知らない。井戸が「浅い」のは深井戸の反対で、水位が地面に近いことを指すものである(注8)。水汲みがたやすいことを言っている。誰の仕事か。宮中でいえば采女の仕事である。だから「前采女」の歌として伝わっている。深井戸なら屈強な男性が跳ね釣瓶などで汲み揚げたであろう(注9)。
左:自噴井戸(扇面法華経下絵、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/967638/1/24をトリミング)、右:撥ね釣瓶の井戸(一遍聖絵(写)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/25をトリミング)
彼女は、「左手捧レ觴、右手持レ水、撃二之王膝一」っている。この状況はどういうことなのか注意が必要である。手が空いていないのに膝を撃つことはできるのか。また、葛城王の膝がその体に密着していると撃つことはできない。体勢としては胡床居と呼ばれる座り方なのだろう。左手で觴を捧げていたというのは元采女が昔取った杵柄のごとき所作であるが、右手はどうやって水を持っているのか。ふつうならお酌をして回るのだから酒を入れた銚子や提子を持っていなければならない。なのに水を持っている。觴に水を注ぐというところが「国司〓(示へんに弖)承緩怠異甚」の核心を突いているようである。宴なのに酒の用意がなかった。
酒を注がずに水を持っている。そして、井のことが歌われている。井戸から汲み揚げた水を手にしている(注10)。右手にあって中身が水である容器はヒサコ(瓢、瓠)で、コは古く清音であったものと考えられている。容器の素材は土器の可能性もあるが、その呼称は用途を同じくするからヒサコと呼ばれたものと推測される。水を汲む容器にしているヒサコには、植物のヒサコ、すなわち、瓢箪の類の核を刳り抜いたものを利用した。植物名の場合、ヒサとも言ったとされている。ヒサコを手にしているから、その右手で王のヒザ(膝)を撃った。ヒザ(ヒは甲類)のザは濁音であるが、清濁相通じて言葉を掛ける例はよく見られる。ヒサコとは手にさげること、古語にいうヒサグ(提)ことのできるところに特徴を見たものでもある。そのヒサグという語はヒキ(引)+サグ(下)の約と考えられている。ヒク(引)のヒは甲類だから、ヒサコのヒも甲類だったろう。人間の膝の方には膝頭の骨がある。いわゆる膝のお皿である。柄杓のように水を掬い溜めることができるものと見立てられる。その両者を撃ち合っておもしろがっている。機知あふれる言葉遊びを実行に移している。
ヒサコ、ヒサ、ヒザが一連の言葉群を構成している。「前采女風流娘子」は、ヒサコでヒザのコ、膝頭の骨部分をコツンと撃ったのである(注11)。どうしてウツ(撃)ような真似に出たのか。それはその場がウタゲ(宴)だからである。ウタゲという言葉は、ウチ+アゲの約、酒宴の際に手をうちたたくことに由来する言葉とされている。ここでは、手と手をうちたたくのではなく、ヒサとヒザをうちたたいている。歌う時に撃っているから拍子を取っているわけである。ヒサ(久)にヒサにと囃している。宴で囃子言葉の歌が歌われたことは知られている。
冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇、大田田根子を以て、大神を祭らしむ。是の日に、活日、自ら神酒を挙げて天皇に献る。仍りて歌して曰はく、
此の御酒は 我が御酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし御酒 幾久幾久(紀15)
如此歌して、神宮に宴す。即ち宴竟りて、諸大夫等歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(紀16)
茲に、天皇歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(紀17)
即ち神宮の門を開きて幸行す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖なり。(崇神紀八年十二月)
酒をささげたてまつり、幾世までも久しく栄えよと歌った歌が伝わっていた。「前采女」はそれを伝えようと瓠で膝を撃っている。そういう伝承が思い起こされたなら、同様に、宴の席で采女が歌ったとされる歌も思い出されたことであろう。それはちょうど今、葛城王が怒っているように、雄略天皇が怒っていた時に三重の采女が歌を歌ってそれを鎮めたという話に沿っている。わざわざ王が怒っているときに采女が歌う設定にしている。昔話を踏襲しているからである。「前采女」は、無礼を詫びながら楽しませる機知を持っていた。
又、天皇、長谷の百枝槻の下に坐して、豊楽為たまふ時に、伊勢国の三重の婇、大御盞を指し挙げて献りき。爾くして、其の百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮く。其の婇、落葉の盞に浮くこと知らずて、猶大御酒を献る。天皇、其の盞に浮く葉を看行して、其の婇を打ち伏せ、刀を以て其の頸に刺し充て、斬らむとしたまふ時、其の婇、天皇に白して曰はく、「吾が身を莫殺したまひそ。白すべき事有り」といひて、即ち歌ひて曰はく、
纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光る宮 竹の根の 根垂る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土よし い築きの宮 真木栄く 檜の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞に 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに 是しも あやに畏し 高光る 日の御子 事の 語り言も 是をば(記99)
故、此の歌を献りしかば、其の罪を赦しき。爾くして、大后、歌ふ。其の歌に曰はく、
倭の 此の高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の語り言も 是をば(記100)
即ち、天皇の歌ひて曰はく、
ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領巾取り懸けて 鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 群集り居て 今日もかも 酒水漬くらし 高光る 日の宮人 事の語り言も 是をば(記101)
此の三つの歌は、天語歌ぞ。
故、此の豊楽に、其の三重の婇を誉めて、多たの禄を給ふ。(雄略記)
しかし、この雄略記だけでは万3807番歌の状況を定めきれない側面がある。「前采女」は酒を持っていない。持っているのは水である。酒が切れていて用意できなかったのだろう。ために井戸から水を汲んできてそのまま葛城王に提供しようとしている。そのような逸話は記紀説話のなかにある。ソラツヒコの話である。海神の宮を訪れた火遠理命(彦火火出見尊)は、海神から虚空津日高(虚空彦)と呼ばれている。海神の宮を訪れてカツラの木の上に登って様子を見ていたことが発端である。
即ち、其の香木に登りて坐しき。爾くして、海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水を酌まむとする時に、井に光有り。仰ぎ見れば麗しき壮夫有り。甚異奇しと以為ひき。爾くして、火遠理命、其の婢を見て、水を得まく欲しと乞ふ。婢、乃ち水を酌み、玉器に入れて貢進りき。爾くして、水を飲まずて御頸の璵を解き、口に含みて其の玉器に唾き入る。是に其の璵、器に著きて、婢、璵を離つこと得ず。故、璵を著けし任に、豊玉毘売命に進りき。爾くして、其の璵を見て、婢に問ひて曰はく、「若し、人、門の外に有りや」といふ。答へて曰はく、「人有り。我が井の上の香木の上に坐す。甚麗しき壮夫ぞ。我が王に益して甚貴し。故、其の人水を乞ひしが故に水を奉れば、水を飲まずて此の璵を唾き入る。是、離つこと得ず。故、入れし任に将ち来て献る」といひき。爾くして、豊玉毘売命、奇しと思ひ、出で見て、乃ち見感でて、目合して、其の父に白して曰はく、「吾が門に麗しき人有り」といひき。爾くして、海神、自ら出で見て云はく、「此の人は天津日高の御子、虚空津日高ぞ」といふ。即ち、内に率て入りて、みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取の机代の物を具へ、御饗為て、即ち其の女、豊玉毘売命に婚はしむ。(記上)
万3807番歌の左注にあるカヅラキノミコ(葛城王)は、カツラキ(香木、桂)+ノ(助詞)+ミコ(御子)であるとなぞらえられている。井戸にゆかりがある人だから井戸水を汲んできて提供しようとしている。「前采女」は従婢の役目を担っている。着席している様は、板の間に藁蓋などを敷いたところに座らされているのではなく、たくさんの敷物を重ねたところに腰掛けるような具合になっていると考えられる。胡床居になるからヒザ(膝)が出て、ヒサコ(瓢)で「撃」つことができた。「みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐せて」という状況である。陸奥、ミチ(道)+ノ(助詞)+オク(奥)の地である。ミチという言葉にはアシカの意味もあり、アシカの毛皮が敷物に利用され、カヅラキノミコ(葛城王)はミチの皮を何枚も積み重ねたところに座らされていた。実際のところ、ミチノクはアシカの毛皮の大生産地でもあった。
ニホンアシカ(絶滅種)(兵庫県立考古博物館「動物と考古学展」展示品)
「前采女」が葛城王に伝えようとしているのは、陸奥国は海神が住むほど遠い国で、国司は王のことをぞんざいに扱っているわけではなくて、龍宮城のような別世界のおもてなしをしているのですよ、ということであった。王はまるでソラツヒコのようで、見目麗しくいらっしゃる。だからその先例に従っておもてなしをしているというのである。題詞中の「飲饌」は、オモノ(御物)、あるいは、ツクエシロノモノ(机代物)などと訓めばよいのであろう。御馳走がいろいろ並べられている。
これまでの解釈では、宴と井の水とを結びつけて捉えられていなかった。井の水の神聖性を歌ったとも考えられていたが、その場合、畏怖の念を覚えはしてもおもしろいと思うことはなく、酒宴との関係も不明である。畏まることになって「王意解」のことはあっても「悦楽飲終日」には至らないだろう。この日、「王」は何を「飲」んでいるのか。「前采女」が持っていた「水」である。すなわち、ナクニ止めで語られている安積香山の歌の共通項とは、水である。酒の用意がされていないことに「怒色顕レ面」となっていた葛城王は、「雖レ設レ飲饌、不レ肯二宴楽一。」であったが、「前采女」に膝を撃たれながら歌われた歌を聞いてなるほどと思い、酒ではなく水の飲み会、ソフトドリンクの食事会を一日中楽しんだということになる。
以上のように、左注に記されていることとの整合性を保った理解が行われることではじめて、この歌は万葉集巻十六、「有二由縁一」歌として蘇ることができるのである。
(注)
(注1)古今集・仮名序に、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は采女の戯れより詠みて、この二歌は、歌の父母の様にてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と見える。
(注2)紫香楽宮跡から出土している。天平十六〜十七年当時のものと推定されている。
(注3)言語は、主張、問いかけ、命令、祈り、約束、懇願、脅迫、言葉遊びなど、無数のゲーム的な行為の束である。この歌がそのうちのどの要素を強く持っているかを探ることが万葉集研究の唯一無二の方法である。ところが、村瀬2010.は、左注の「伝云」について、「作りものの語り」であると決めて歯牙にもかけない。「「左手に觴を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて」という振舞いは千手観音ならいざしらず、現実の采女の行動としては不自然である。思うにこれは、もともとあった安積香山歌……に、「伝云」に記されたような盛りだくさんな内容(宴席で詠まれた歌、采女が詠んだ歌、王への忠誠の心を吐露した歌等々)を付与したがために生じた無理に起因するのであろう。」(95頁)とする。わざわざ左注を記して「有二由縁一」として編んだ採録者の意図を無視している。仮に後から話を作ったとした場合、最終的に馬脚を現すことはあり得ても、最初から誰もが疑問視するような話を付け足すようなことはない。話にならないからである。
(注4)ナクニは、打消の助動詞ズがク語法によって体言化された形、クニに助詞二が下接したもので、ナクニ止めで終わる歌には独特の余韻を残す効果がある。鉄野2008.は、「ナクニ自身は、単に否定的な状況を提示するに過ぎない。しかし、その否定的な状況に対して、それに応じようとすれば、両者の関係はおのずと逆説的にならざるを得ない。更にナクニで言いさしにすれば、自分には、その状況に対して如何ともし難い、乃至はそれ以上何も言えない、といった気持を暗示することになる。口ごもることによって、以下は察してくれ、あるいはあなたはどうしてくれるのか、などと、聞き手に下駄を預ける体なのである。」(5頁)と解説する。そして、「ナクニ止めの歌のように、最後に全体を否定する形では、その語[「つなぎことば」(伊藤1986.)]は結局否定される側にあることになる。……そうした時、序詞は本旨に対して多様で微妙な関係を結ぶことになる……。その関係の多くは、何らかの比喩である。比喩が、異なるもの同士の中に共通の要素を見出すことに成り立つのだとすれば、そこには必ず裏面として、差異が存することになる。」(14頁)としている。そして、安積香山の歌では、「差異(山の井は浅いけれども、自分の心は深い)をあえて挙げることで、かえって共通項(清らかであること)が浮かび上がる仕組みになっている。」(同頁)と結論づけている。以下に述べるように、共通項が井の清らかであることと捉えるのは誤りである。
(注5)史書に見られないから史実ではなかっただろうとの主張もあり、また、説話化された歌であるとの見方もある。しかし、なにより歌の理解が第一である。講釈はその後で(したければ)することである。
(注6)采女の制に合わないから嘘であるとする生真面目で融通の利かない、文学的でない見解も見られる。また、多田2010.に、「「采女」は水司や膳司に配属されたが、井の聖水に奉仕する「水の女」としての役割がその職掌の一端であったらしい。」(147頁)と尤もらしいことが語られている。しかし、女中が主人に仕える卑近な仕事は、おーい、お茶、と呼ばれた時、さっと茶を入れて差し出すことであろう。
(注7)これまでの説ではそう捉えられている。「都から来訪した葛城王を適切にもてなす術を唯一心得ていた「前采女」の洗練された振舞いと関わって用いられている。」(高松2007.168頁)という。具体的には、膝を撃つことに色っぽさを含むとする説に、鉄野2008.、上野2018.などがある。また、拍子を取るリズミカルな撃ち方とする説に、折口1971.、藤井1987.などがある。
なお、「芸能」として捉えようとすると「風流」はもはやミヤビでは意が解し尽くせないから音読みするとする説が佐藤2024.に見られる。評するに値しない。
(注8)木村2008.が指摘していて正しい。近年の注釈書では、多田2010.や阿蘇2012.はこの説に依っている。だが、現在でも研究者のなかには否定的に捉える向きもある。加藤2019.は、「「安積山…」詠のように、単に「山の井」について「浅き」といった場合は、山の井の水の深浅についていわれたものと理解するのがふつうで、そのような自然な理解を排して水面の位置のことであるとするのは、説明を重ねる中でしか発動しない読解と言わざるをえない。」(15〜16頁)と批判している。井戸水を汲み揚げることを知らないようである。万葉集のなかで「井」に関して浅い、深いと形容しているのはこの歌だけである。「井」は飲み水を得るためのもの、「田井」は稲の飲み水のあるところ、つまりは水田のことを言っている。人は「井」から水を汲み揚げて使う。電動ポンプはない。
もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花(万4143)
勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ(万1808)
山辺の 五十師の御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも(万3235)
上二首は水を汲むことが歌われている。最後の歌は、井戸端にきれいな着物を着た女官が集まっていることを、錦を張った山のようだと譬えている。井に水が溜まっている、その水深について、当時の人は頭に浮かべたことがあったのだろうか。溜池の水深なら深くあることが望まれただろう。たくさんの水を貯えていることを指すからである。しかし、井の場合は、湧泉であれ、掘井であれ、「走井」のような川の水の活用であれ、水の深さは求められていない。次から次へと湧き出してくるところを「井」と呼んでいる。汲み揚げたらじわっと滲みだして次に汲む時にはまた満ちている。それが「井」である。角川古語大辞典は「山の井」の項を設け、「山中にわき出る泉。掘り井戸ではないために、たまっている水の量が少なく、浅いことのたとえに用いられる。」(764頁)としている。これは誤解だろう。水を汲むのに十分な条件がそろわないところを「井」とは呼ばなかっただろう。日本国語大辞典では、「山中の、湧水をたたえたところ。掘井戸に対して、それが浅いところから、和歌では「浅い」の序詞の一部としても用いる。」(190頁)としている。水量の問題ではなく、釣瓶を使わなくても汲むことができることをいうものとしている。これが正しい。
廣岡2005.に、「古代において、影(姿)を写すことは神秘なものと理解され、その魂まで宿すものと考えられていた。ここはそういう深い井を言うものであろう。古代における井の多くは湧泉であり、この歌の井も泉をいう。山名もアサだけではなくて、アサカの音は浅からずの否定形を内にもっていると理解してよい。その清泉の水を右手に持って歓待したというのは、この陸奥の地霊の奉仕を意味している。」(320頁)とある。後付けの空論である。波立たない水面は影を写す。田に水を張れば影を写す。盥の水も同じである。盥が魂を宿す祭具となり、実用から外されたことはない。そして、この講釈によって、葛城「王意解悦、楽飲終日。」ことになるとは考えられない。しかも、井戸がとても深かったら、覗き込んだ自分の顔も見えなくなるだろう。清泉で歓待することを地霊への奉仕と論理を飛躍させ、反証不可能な言辞にしている。
(注9)影が映るのだから水はきれいで深くないといけないとする考えが意外に多くみられる。契沖・万葉代匠記に、「影さへみゆるは山の井のきよきによりてなり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/66)とあるのが発端かもしれない。しかし、影が映るのは水の表面の反射による。水面が風波に揺らいでいたり、水草が水面から出ていたり、藻が繁殖しすぎてガスが発生して泡立っていたりしたら映らないが、水面が穏やかなら水中の色は乱反射により全体のトーンにはなるが影が映らないことはない。強い光が当たる場合や他に光が乏しい夜景などが、水鏡の映りやすい条件である。
水鏡の例(平等院)
むろん、安積山を映した井の水はきれいだっただろう。なぜならそれは井であり、井は飲み水を供するところだからである。飲用に適さなくなった井戸が廃される時、独特なお祭りをして埋めたであろうことは出土状況から確認されている。もはや「井」ではないということである。
(注10)廣岡2005.は、三句目までの序詞と主意を表す下句との関係について、「[序詞は]一般には下句の「浅し」へ冠すると理解するが、……今の場合、「浅き心を我が思はなく」という全体に冠するものであろう。そうでなかったら序詞にする必要はなく、「安積山」だけの枕詞でよい。」(320頁)などと乱暴なことを言っている。左注で「前采女」は「右手持レ水」していて、「井」のことを歌のなかに歌い込んでいる。歌と左注をもたれ合いの関係にして伝えようとしているのだから、両者を一括して理解しなければならない。
(注11)コツンという擬音語が骨という字音に由来するのかはわからない。
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