古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

枕詞「そらにみつ(天尓満)」(万29)について

2023年10月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 柿本人麻呂の近江荒都歌として知られる長短歌三首はよく知られる。ここでは、長歌に現れる枕詞と思しい「そらにみつ」という語について考察する。

  近江あふみの荒れたる都をよきりし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
 玉だすき うねの山の 橿原かしはらの ひじりの御代みよゆ〈或に云ふ、宮ゆ〉 れましし 神のことごと つがの木の いやぎ継ぎに あめの下 知らしめししを〈或に云ふ、めしける〉 そらにみつ 大和やまとを置きて あをによし 奈良山を越え〈或に云ふ、そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて〉 いかさまに 思ほしめせか〈或に云ふ、思ほしけめか〉 天離あまざかる ひなにはあれど 石走いはばしる 近江あふみの国の 楽浪ささなみの おほの宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろきの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂くひたる 霞立つ はるれる〈或に云ふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる〉 ももしきの 大宮おほみやところ 見れば悲しも〈或に云ふ、見ればさぶしも〉(万29)
  過近江荒都時柿本朝臣人麿作歌
 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世従〈或云自宮〉阿礼座師神之盡樛木乃弥継嗣尓天下所知食之乎〈或云食来〉天尓満倭乎置而青丹吉平山乎超〈或云虚見倭乎置青丹吉平山越而〉何方御念食可〈或云所念計米可〉天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮尓天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流〈或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留〉百礒城之大宮處見者悲毛〈或云見者左夫思母〉

 枕詞「そらにみつ」は、柿本人麻呂が作ったと考えられている。もともとあった枕詞「そらみつ」を五音化したと考えられている。「そらみつ」は「やまと(のくに)(大和(国))」に掛かる。「そらにみつ」も、何が「そらにみつ」なのかはいまだわかっていないものの、「やまと(大和)」に掛かる。そして、新語を登場させてまで同じ掛かり方をする理由について問題にすることがある。その際、枕詞において最大のテーマであるはずの、何に掛かるかという点で二つの立場がある。「そらにみつ」は「やま(山)」に掛かり、結果的に「やまと(大和)」を導くとする説と、「そらにみつ」は「やまと(大和)」に掛かるとする説である。それぞれ、専論によって示す(注1)

 [万29番歌にある「奈良山」は、]大和を離れるに当たって別れを惜しむべき山であり、大和と鄙との境界の山で、大和を離れるに際して特別の感慨を抱かせた山である。畝傍の山→そらにみつ山─大和→奈良山と、山を繋いだのが人麻呂の意図ではなかったかと推測される。神武天皇紀に見える当時の解釈、神が「空見つ」をもとに、人麻呂が新しい枕詞を創り出したことによって、このような歌の流れが生まれた。「大和をおきて」「奈良山を越え」とうたったことによって、五音+七音のリズムが整うとともに、境界としての奈良山が鮮明になる。……これらの表現の存在や文脈を思えば、「大空から見て良い国だと選び定めた」「神の霊威のあまねく付着した」と神と関わって捉えられていたであろう枕詞[「そらみつ」]を改めて、山に統一して、山に囲まれたとの古事記以来の伝統を継承したほめ言葉を連想させる「そらにみつ」を創出した[のだろう。](岡内2015.23~24頁)
 「天」が王都であることを補強するものに「そらみつ」の枕詞がある。この枕詞は「山」にかかるのではなく「やまと(大和)」にかかる。「天」はアメではなくソラと訓む。アメと訓むと、同歌(二九)中の他の「あめ」の語との間に意味上の矛盾をきたす。しかし作者人麻呂が「そらみつ」(二九或云)を「そらみつ」と推敲の結果変えたのには明らかな「天」志向があろう。「倭が『そら』に満ちている」のは、倭が日の御子なる天皇のもとに繁栄していることを表す。倭讃美であり天皇讃美の枕詞である。「そらみつ」を「そらみつ」と変えた人麻呂の推敲は成功しているのであって、決して平板化した失敗作ではない。失敗というのは我々の感性が人麻呂に及ばぬか乃至ないし人麻呂とは異質であることを証するに過ぎないのではなかろうか。(金井2019.183頁)

 歌の言葉は歌が歌われている最中にしか聞かれない。空中を飛び交うにすぎない歌の言葉、それも次にくる言葉を予感させるにすぎない枕詞は言葉遊び(Sprachspiel)の極地にある言葉である。ましてやそれが新語であるのなら、前後の文脈を丹念に拾わなければ理解できないということはあり得ない。聞き直すことがないのが歌である。えっ、何だって? と聞き返さなければならなくなったらその時点でその歌は失敗作である。失敗作が書き残されている可能性はなくはないが、成功作であることを第一の前提として歌を解釈し、それが可能ならその解釈が正しい。
 そのことは、歌の言葉である枕詞にイデオロギーが持ちこまれることがなかったであろうことにも通じる。聞く側の理解が追い付かなければ用をなさないからである。言葉とはそういうものである。天皇制を讃美する言葉ではなく、この歌の例が唯一例で、人麻呂の造語である。
 「そらにみつ」という枕詞を創出するに当たって人麻呂は何を考えたか。まず、「そらにみつ」は「やまと」に掛かるとして聞く人にもすぐに納得されるであろうと考えている。「やまと」を「日本」と書くことがあった。当時の人々の共通認識として知られていた(注2)。「やまと」という地方や国が、どういうわけかは知らないが、「日本」と書くということが知られていたら、「やまと」というところは「日」の「本」、sun が originally にあるところ、つまりは、to be filled with the sun in the sky な状態にあるということである。これを訳せば、「空に満つ 日本」ということになり、表記するに当たり「天尓満倭」と書いている。非常にシンプルな着想であり、「そらにみつ」という新語はその場に居合わせた人に無理なく聞き入れられたであろう(注3)
 枕詞は言葉のつながりをおもしろがるために工夫された修辞である。例えば、次のような例を参照すれば、ヤマトコトバが漢字による表記を伴うことになり、言葉に対する興味を深めていった様子が見て取れる。

 …… はる 春日かすがを過ぎ〔播屢比箇須我嗚須擬〕 ……(武烈前紀、紀94)
 …… はるの 春日かすがの国に〔播屢比能哿須我能倶儞儞〕 ……(継体紀七年九月、紀96)
 はるを 春日かすがの山の〔春日乎春日山乃〕 ……(万372)

 「かすが」という言葉を表記した時「春日」となり、それは「はるひ」とも訓める。だから、「かすが」に掛かる枕詞として、「はるひ」「はるひの」「はるひを」などという言葉が案出されている。言葉遊び(Sprachspiel)の次元として枕詞はこのレベルである(注4)。「やまと」を「日本」と書くのだ、と知った時の喜び、驚きが、もとからあった「そらみつ」という枕詞とは掛かり方の粘着としては別種の、「そらにみつ」なる枕詞へと昇華しているのである(注5)。前後の文脈(注6)やイデオロギーでこじつけて修辞がなされていると考えるよりも、はるかに言葉の実勢に合致していると言えよう。万葉集の歌をネタに頭でっかちな理念を押し付けている論者には、言葉とは何かについて猛省が求められている。

(注)
(注1)多くの万葉集研究では、先行研究を研究史的に長々と記述するのが慣例となっている。ここでは比較的最近の論考を紹介するに限り、筆者の議論に直接関係しないものは本文に掲げていない。
(注2)万葉集中の「やまと」の表記としては、「山跡」は14例、「倭」は20例、「日本」は16例ある。古事記では「倭」が常用され、日本書紀では「倭」、「大倭」ともあるが、特に、「すなはおほ日本やまと〈日本、此には耶麻騰やまとと云ふ。しも皆此にならへ。〉とよあきしまを生む。」(神代紀第四段本文)と注されている。拙稿「聖徳太子薨去後の高麗僧慧慈の言葉「玄聖」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f981b1f0b9dbcc8d2ba754fb18f4e832/?st=1において、「やまと」という語を「日本」と表記していたことを慧慈が認識していたように記されていることから、「日本」と書くようになったのは聖徳太子の発案であったらしいことを推定した。
 なお、「やまと」という言葉を書き表す際に「日本」と書くことにおいて、いかなる思想的背景を担っていたかを問うことは、言葉の語源を問うことと同じく証明のしようがないことである。逆に、どうして「日本」と書いて「やまと」と訓めるのかという視点は、「倭」、「大和」、「大養徳」と書いて「やまと」と訓むことにしたことの謎を解こうとする営みと同じく、上代の人の思考の跡を辿ることにつながるから正しい研究姿勢といえる。本稿では、「やまと」を「日本」と書いたことから派生する言葉の展開について検討している。
(注3)「満」の字義について、「さてミツとは、山のミチタリて、蒼天ソラまでソヽリ上れるを フ。」(橘守部・稜威言別、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/158、漢字の旧字体は改めた)、「天空に霊威の充満するさまを賛美したものか。」(多田2009.43頁)、「「空」を満たすように山々の頂が存在する「大和」として、大和賛美の系譜を引いた」(岡内2015.22頁)ものとする説が行われてきている。これらの考えは、漠然としていて聞き手に伝わるとは限らず承服しがたい。
(注4)枕詞一般について、そうではないとする説が、稲岡1985.、井手2009.、西郷2011.などに見られて今日の主流となっている。対して、廣岡2005.は「言語遊戯としての枕詞」(355頁)を考えている。「「言語遊戯」が不真面目な表現を意味するものでは決してない。古代口承世界における自由な言語活動のありようであったと考えられる。」(356頁)と肯定的に捉えている。筆者は、ほぼそれと同じ見方をするものの、もう一歩進んで次のように述べたい。言語活動には真面目も不真面目もなく、伝わるか伝わらないかしかない。伝わったら言語活動であり、伝わらなかったら言語活動ではない。言語活動として失敗であって、言語活動とは呼べないのである。逆に、言語活動のなかにある洒落のわからない奴は、言語活動から排除されるだろう。
(注5)井手2009.に、「枕詞「そらに満つ」の例は、「天見つ」から「天に満つ」へ新解釈とともに語形の変化をも伴ったものと考えられる。」(87頁)とある。
(注6)本稿の解釈に従えば、次の解説は反証を得たことになる。

 柿本人麻呂における枕詞の用法については、すでに個々の作品および枕詞に即して具体的に考察されており、それらは、おおむね人麻呂の枕詞が、文脈に関わるように作られているという方向で一致する。(白井2005.29頁)

 文脈依存性があるかどうかを措くとしても、人麻呂の枕詞の用法と記紀歌謡ないし初期萬葉の用法との間には大きな差があると認められるとされる。口承から記載へと歌の性質が変化したことによって、枕詞も質的な変化を来していると考えられている。その点は、この「そらにみつ」が「やまと」に掛かる理由が「やまと」を「日本」と記してはじめて生まれたことにも表れていると言える。ただし、記紀歌謡においても、前掲の枕詞「はる(の)」が「春日かすが」に掛かるように、記載しなければそうは連想されなかった例が見られる。枕詞に対する理解は、現代の研究者の整理整頓された頭脳には当てはまらない側面が多い。

(引用・参考文献)
阿蘇1990. 阿蘇瑞枝「枕詞と地名」『東アジアの古代文化』第64号、1990年7月。
井手2009. 井手至『遊文録 萬葉篇二』和泉書院、2009年。
稲岡1985. 稲岡耕二『万葉集の作品と方法─口誦から記載へ─』岩波書店、1985年。
岡内2015. 岡内弘子「「そらにみつ 大和」と「そらみつ 大和」」『香川大学国文研究』第40号、平成27年9月。
澤瀉1941. 澤瀉久隆『萬葉の作品と時代』岩波書店、昭和16年。
金井2019. 金井清一『古代抒情詩『万葉集』と令制下の歌人たち』笠間書院、令和元年。(「「天尓満」─人麻呂枕詞考─」『古典と現代』第54号、1986年9月。「柿本人麻呂─その「天」の用例、「天離」など─」和歌文学会編『論集万葉集 和歌文学の世界 第11集』笠間書院、昭和62年。)
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第4巻』平凡社、2011年。(「枕詞の詩学」『文学』第53巻第2号、岩波書店、1985年2月。)
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞─枕詞・序詞攷─』塙書房、2005年。(「修辞としての枕詞─人麻呂の方法─」『萬葉』第167号、平成10年10月。学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir/1998)
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。(「言語遊戯としての枕詞─「生命指標(らいふ・いんできす)」説は成り立つか─」『萬葉の風土・文学 犬養孝博士米寿記念論集』塙書房、1995年。)
村田1983. 村田正博「人麻呂の技法─近江荒都歌をめぐって─」『萬葉の歌人とその表現』清文堂出版、2003年。(『人文研究』第35巻第3号、大阪市立大学文学部、1983年。大阪市立大学学術機関リポジトリhttps://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_DBd0350302)

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