古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について

2020年03月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 有間皇子ありまのみこの自傷歌として知られる挽歌は、万葉集の巻二に見られる。
 
  有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
 磐代いはしろの 浜松がを 引き結ぶ まさきくあらば また還り見む(万141)
 家にあれば に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万142)
  有間皇子自傷結松枝歌二首
 磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武
 家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛

 万141番歌の三句目の訓みが第一の問題である。後の人が有間皇子を偲んで「自傷」と仮託したという説も唱えられている。題詞と万142番歌の歌の内容とは関わりがないのではないかとも指摘されている。小さな椎の葉にどうやってご飯を盛りつけたのかも長らく課題のままである。
 有間皇子の性格について日本書紀に記述がある。

 九月に、有間皇子、ひととなりさとくして陽狂うほりくるひすと、云々しかしかいふ。牟婁温湯むろのゆきて、病ををさむるまねしてまゐき、国の体勢なりを讃めて曰はく、「ひただところを観るに、病おのづからに蠲消のぞこりぬ」と云々いふ。天皇すめらみこときこしめし悦びたまひて、おはしましてみそなはさむと思欲おもほす。(斉明紀三年九月)

 有間皇子はアリマという名を負っている。そんな彼が湯治へ行くのなら、その名のとおり「有間温湯ありまのゆ」(舒明紀三年九月・十年十月)へ行くべきである。なのに「牟婁温湯むろのゆ」へ行っていて、「陽狂」の証左となっている。バカなふりをする人物が謀反の廉で捕らえられ、護送される際に歌を詠んでいる。題詞にある「自傷」について、「柿本朝臣人麻呂の、石見国に在りて臨死みまからむとせし時に、自ら傷みて作る歌一首」(万223題詞)と同様のストレートな意味を持つとは考えられない。万141番歌の題詞は「自傷結松枝歌」であり、「自傷作歌」ではない。松の枝を結ぶことが自ら痛むことであった。むろん軍手着用を促す話ではない。結果的に歌が歌われている。歌が「自傷」行為であったことが推定される。
 初期万葉における歌には政治的なメッセージが込められていることが多い。たとえそれが「挽歌」の部立の筆頭にあげられていても、いわゆる高尚な「挽歌」とは違う。そもそも自らへの「挽歌」であるとは何らかの抗議を示すものであり、センセーショナルな歌であった可能性がある。彼の歌は万葉集にこの二首しか載らない。衆目を浴びたから残っている。
 皮肉たっぷりに、自分を捕らえた政権側への抵抗歌としてこの歌は歌われた。三句目を、「引き結び」と連用形中止法で訓むとの解釈が根強く、一首は最後まで一連に続いていると考えられている。

 ○磐代の 浜松が枝を 引き結び○○○○〈引結〉 ま幸くあらば また帰り見む(万葉二・一四一)
 この歌について、ヒキムスブは現在の動作、カヘリミルは未来の動作と考えるのが普通である。しかし、……[連用形中止法(連用形並立法)の連用形の動詞の時制(テンス)は後続の動詞句に決まるという]観点からして、そのような解釈は、まず成り立たない。前半を現在の動作と見るならば、原文「引結」をヒキムスブとして、一旦切るべきである。ただし、それでは歌の流れが中断してまずいなら、ヒキムスビと訓んで、それも未来の動作と考えるべきであろう。マサキクアラバが間に割り込んでいるから、ヒキムスビとマタカヘリミムとの時が変わってもよいような印象を与えるが、それは、連用形並立法の性格をとらえそこなった解釈である。(山口2011.415頁)(注1)
 歌末の「む」と呼応するものだという吉永[1997.]や山口[2011.]の解釈は妥当なものではない。この[「引き結び」]句がつぎの「ま幸くあらば」という仮定表現と呼応して「引き結ぶことによって本当に無事でいられたら」という意味をあらわすものであり、その「ま幸くあらば」の「時」が「引き結び」という連用形にもおよぶために、この連用形があらわす動作もまた作者によって仮想されたものになるのだと解すべきである。」(佐佐木1999.7頁)

 これらの議論は、連用形中止法における決まり事、テンスの一致を適切化させるために、針の穴を通すように考案された解釈である。「引き結び」と連用形に訓んでしまうと、有間皇子はまだ松の枝を引き結んでいない。これからの未来に「引き結び」をすると、それが原因となって「ま幸くあらば」という事態が生じて、「還り見む」ことへとつづけようとしている。「ま幸くあらば」という厄介な挿入句を取り置いた時、意味的には、まだ「引き結」んでいない「浜松が枝」を「また還り見む」と言っていることになっている。これは、文法的に宙ぶらりんの解釈に思われる。佐佐木1999.は、文法構造上よく似た万918番歌からそのように帰納されるとしている。

 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万141)
 沖つ嶋 荒磯の玉藻 潮干満しほひみち い隠りかば おもほえむかも(万918)

 潮が満ちて隠れてしまったら、の意であるのと同等であるとする。しかし、万918番歌の第五句目にある「む」と万141番歌にある「む」とを同様に推量の意と捉えてよいのか問題が残る(注2)

 「また還り見む」=「また」(副詞)+「還り見る」(動詞)+「む」(助動詞)(万141)
 「念ほえむかも」=「念ほゆ」(動詞)+「む」(助動詞)+「かも」(助詞)(万918)

 万918番歌の「念ほゆ」は、「念ふ」に自発の助動詞「ゆ」が接続した形で、自然と思い出されるという意味である。詠嘆の助詞「かも」がつづくことにより、「む」が推量の意を示すことは確かになっている。一方、「還り見む」という句だけ見れば、その「む」は、第一義的には自己の行為についての意志・希望を示していると捉えたいところである。意志を表したいとき、その前提となる条件設定がすべて仮想であることは考えにくい。何か実際に行為をすでに行い、そのうえで、~したい、と言うのが一般的な主張の姿である。何もしないでいて、これから引っ張って結ぶことで幸いであるならば、また還ってきて見よう、という言い方に、人の(強い)意志を込めることは難しい(注3)。だからといって、薄弱な意志であれば推量と言えるのだと考えられるのか。「また還ってきて見ることになるのだろう」という物言いは、何を謂わんとしているのか不明である。助動詞「む」を動詞の後に付けてモダリティ modality 形式にしている(注4)。発話者である有間皇子が、事柄をいかに心のうちで判断評価しているのか、それを表そうとして助動詞が用いられている。文の述べ方を示す添付資料として助動詞「む」は働いている。
 助動詞「む」については、岩波古語辞典に、「一人称の動作につけば「…よう」「…たい」と話し手の意志や希望を表わし、二人称単数の動作につけば相手に対する催促・命令を表わし、二人称複数の動作につけば勧誘を表わす。三人称の動作につけば予想・推量を表わす。」(1479頁)と単純化されている。発話者の心の態度を表わす部分だから、その使われ方によって意味合いが変わってくる。意志や希望を表わす場合には一人称でなければならないが、逆に一人称であれば必ず意志や希望を表わすものかといえばそうでもない。

 吾が命し ま幸くあらば 亦も見む 志賀の大津に 寄する白波(万288)
 うつそみの 人なる吾や 明日よりは 二上山を いろせが見む(万165)
 水伝ふ 磯の浦廻うらみの いはつつじ 茂く咲く道を 又も見むかも(万185)

 これらの例では、主語は一人称であるが、「む」の意味は推量で、「寄せる白波をまた見るだろう」、「二上山を弟として見るだろう」、「イワツツジが盛りに咲く道をまた見るだろうか」などの意味である。その場合、「亦も」、「と」、「又も……かも」といった語が共起している点に注意したい。不確実性を表わす「も」や比喩の措定の「と」、詠嘆を示す「かも」が付いてきたら、一人称が語り手になっていても「む」が意志を表わすことにはならない。白川1995.に、「「む」がもつ種々の用義法は、[漢字の]将の……虚詞的な用義と一致するところがある。」(731頁)と興味深い指摘がある。将来の未確定用件に関して希望的観測をもって心の底に思うことが、意志や推量、勧誘、命令といった幅広い用義に広がっているものと言えよう。だから、認識的に「…ろう」という意味を持ったり、行為的に「…たい」、「…よう」という意味を持つという膨らみが出てくる。
 話を万141番歌に戻そう。「引き結び」と連用形中止法に訓む限り、「まだ引き結んでいないけれど、これから引き結ぶことによって本当に無事でいられたら、還ってきて浜の松の枝を見ることになるのだろう」という意味になる。この言い方は、文にモダリティ性を与えているのか、削ぎ落しているのか不明な陳述である。逆説的に捉えて、還ってきて見ることになるのだろうから、松の枝を引き結ぶことは呪術性が高くて効果的に無事でいられる方法である、だから、今から引き結びます、というもって回った言い方であると解釈できないことはないかもしれない。しかし、そんな風に言いたいときには、ヤマトコトバではそのための格好の用法がある。反語の助詞「や」である。それを使わないのは、そう表現したいわけではないからである。
 「引結」を「引き結び」と連用形に訓まなければならない理由は見られない。ここは、「引き結ぶ」と終止形で三句切れと考えるのが妥当である。「また還り見む」対象は、「引き結」んだ「磐代の浜松が枝」である。「また還り見む」の対象が、上二句において終止形で閉じられたものである点は重要である。この歌にとって、それこそが「自傷」行為となるもので、題詞にかなう肝心なところである。
 すなわち、紀の湯へ行幸している天皇や皇太子の中大兄をはじめ、宮廷社会の人々全員に対するメッセージとして歌は歌われている。イハシロという地名が喚起するイメージを伝えたいから、わざわざ「磐代の」と断って歌い出している。有間皇子がいま連行されている場所は、しばらく前、天皇が行幸するときに通って歌を詠んだところである。

 君が代も 吾が代も知れや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな(君之歯母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去来結手名)(万10)(注5)

 ~シロという言葉は、苗代という言葉が苗を生育するために区切られた培地であるように、特別なところである。また、身代金という言葉が身代わりのお金であるように、等価の物である(注6)。すなわち、イハシロ(磐代)という言葉は、磐と同じ力をもつことを示しつつ、磐を生育させるための場所ということになる。そして、「浜松が枝」、「岡の草根」とつづくのだから、イハシロという地名は、砂「浜」や土砂の堆積した「岡」が、磐のシロなのだと認められていたと理解される。万141番歌でみれば、松は浜に生える。磐にも少しの凹みさえあれば種は発芽し生えてくる。では、砂浜のようなところが磐が生育するかといえば、今日の日本国民であれば、それは確実に生育するであろうことを知っている。火山学の知見ではなく、君が代の歌詞である。君が代は、一般に、古今集の和歌を本歌とすると言われている。

 わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで(古今343、読み人しらず)

 巻七・賀の歌の巻頭歌である。歌いかける相手の命の長からんことを寿ぐ点に眼目がある。そういう修辞法の淵源、萌芽に当たるものは万葉集にすでに見られる。

  市原王いちはらのおほきみの、宴に父の安貴王あきのおほきみく歌
 春草は のち落易かはらぬ いはほなす 常磐ときはいませ たふとき吾が君(万988) 
  寧樂宮ならのみや
  和銅四年歳次辛亥に、河辺宮人かはべのみやひとの姫嶋の松原に嬢子をとめかばねを見て悲しび嘆きて作る歌二首
 妹が名は 千代に流れむ 姫嶋の 子松がうれに 苔むすまでに(万228)
 花らふ このむかの 乎那をなの ひじにつくまで 君がもがも(万3448)

 有間皇子は、実は少し不思議な場所を通過している。「磐代の浜」である。浜は砂浜であろう。磐であり、かつ浜であるところというのは形容矛盾である。そこに松が生えていて、二本の松の枝を引っ張って結び付けている。松は常盤木で長く枯れないことを表わす表象とされている。松の力を借りながら、浜の砂が磐になることもあるだろうという類推思考が行われている。だから、イハシロという地名は、いまは砂浜であるが、そのうち磐に成長するところであって、それを促進させる援助として有間皇子は松の枝を引っ張って結ぶ行為をしているということになる。万10番歌で、天皇一行はイハシロの意味を認めていたではないか。その構図に則って自らも陳述しているわけである。全体を誓約うけひのような形で主張している。
 「ま幸く有」るとは、自分が幸いなことに存命であれば、という意味であることはそのとおりであるが、それが叶うかどうかは旅の安全を祈るといった対自然界の問題ではなく、謀反の咎に関して政権側がどのような処罰を下すかという対人間界の話にかかっている。だから、まずなによりも、歌いかける相手の政権側、自分を逮捕拘束して強制連行させている天皇に対して、長寿繁栄を祈る言葉を設けている。斉明天皇の治世長からんことを願うと謳いあげて、それは同時に自分が存命であらねばならないことにつながるというレトリックである。現天皇の治世の、砂が磐に生長するまで続くことは、これすなわち、自分の命も長らえることと同じことである。反対に、もし自分の命を奪うようなことがあるなら、天皇の治世も長くはないであろう。そういうことを暗に示して呪言的な脅迫を行っている。
 そのようなコミュニケーション法は、上代の言語活動において常態として行われていた。伝承説話の世界では、コノハナノサクヤビメの逸話が知られる。結末の個所を引く。

 爾くして、大山津見神おほやまつみのかみ石長比売いはながひめを返したまひしに因りて、大きに恥ぢて白し送りて言ひしく、「我がむすめふたり並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神あまつかみの御子の命は、雪り風吹くとも、恒にいはの如くに、ときはかきはに動かず坐さむ。亦、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめを使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむと、うけひて貢進たてまつりき。く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売のみを留むめたまふが故に、天つ神の御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。故、是を以て今に至るまで、天皇命等すめらみことたち御命みいのち長くあらぬぞ。(記上)
 時に皇孫すめみま、姉は醜しとおもほして、さずしてけたまふ。おとと木花開耶姫このはなのさくやびめ]は有国色かほよしとして、してみとあたはしつ。則ち一夜ひとよ有身はらみぬ。かれ磐長姫いはながひめ、大きにぢてとごひて曰はく、「仮使たとひ天孫あめみまやつこしりぞけたまはずしてさましかば、生めらむみこ寿みいのち永くして、磐石ときはかちは有如あまひ常存とばにまたからまし。今既に然らずして、唯いろどをのみひとり見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花のあまひに、移落ちりおちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、つはいさちて曰く、「顕見蒼生うつしきあをきひとくさは、木の花のあまひに、しばらく遷転うつろひて衰去おとろへなむ」といふ。これ世人ひと短折いのちもろことのもとなりといふ。(神代紀第九段一書第二)

 姉妹二人が結婚相手に送られている。そのうち、磐を醜いと思って石長比売いはながひめ(磐長姫)を受けなければ、命は長くないと大山津見神は言っている。いま、有間皇子はイハシロにおいて、磐を作ろうとして引き結ぶ作業を行っている。松の枝が結ばれてあることは自然界ではふつう見られない。ひとつのしめとして認知される。そしてそれが磐へと固まっていくとしたら、天皇であれば無碍にはできない。言い伝えのもとに生きていたから、「天つ神の御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ。」(記)、「故、其の生むらむ児は、必ず木の花のあまひに、移落ちりおちなむ。」(紀)ということになってしまうからである。古代には、似たような二つの事案を並立させるようにして考える癖があり、占い法として誓約うけひという形に定式化している。ある条件をあらかじめ設定しておき、その成否によって、本願が叶うかどうかを占うものである。だから文の進行がパラレルになる。類推思考の円熟の賜物とも言える(注7)
 有間皇子の歌は呪詛の言葉として機能した。斉明天皇は、自分の長男である中大兄、後の天智天皇を皇太子に据えている。今、中大兄が「天神御子」に当たる。磐の製造促進を受け入れないと、中大兄は「木の花のあまひのみ坐さむ」ことになってしまうという。かわいいわが子が死ぬかもしれないと思わせられ、斉明天皇は癇に障った。無文字文化において、言葉と事柄とが同一になるとする言霊信仰下にあっては、論理術に正しく言葉にされてしまうと本当にそうなるだろうこととなってしまう。ヤマトコトバの社会において圧力がかかるのである。
 引き結んだ枝は松である。松は常盤木である。長寿を連想させることもさることながら、藤や葛などの蔓性植物ではない点も考慮されなければならない。蔓性植物が「結ぶ」ことはごく自然に起こる。だから、藤や葛は引き結んでも人目にそれとわかる人為にならない。人為的に行われていると知れるから人々の間でわかるのである。標として顕著となり、占有地として人に認めさせることができる。しめ縄が張りめぐらされた結界は、他の人に入るなということを示している。その意味するところは人間には通じても、動物には通じない。イノシシやシカのための防護柵を設けることとは次元が異なる。しめ縄が張りめぐらされていたとしても、逸脱者である本気の泥棒であれば、その内側にある幣の絹織物など財宝を奪っていく。賽銭泥棒と同じで、行うのは簡単である。しかし、神の祟り、天罰が下ると信じられている。常識を弁えていると、恐れ多くて結界に侵入することは憚られる。いま、有間皇子は、砂浜に生えている松の枝を結んで標にして、さざれ石どころか砂から巌を作りましょう、と大風呂敷を広げている。「また還り見む」と言っているのは、自分が個人的に見たいというばかりではなく、さあ、皆さんもご覧になれますよ、と大見得を切っているのである。
 言説が悪質で、確信犯的である。「陽狂」して見せたほどの人物像が目に浮かぶ。三句目の「引結」を「引き結び」と連用形中止法と訓むべきか、「引き結ぶ」と句切れに訓むかについて、この解釈からも「引き結ぶ」と句切れに訓むことが正しいと知れる。虚心坦懐に考えるのにふさわしいからである。歌を歌として歌う理由が生じているから歌が歌として歌われている。一人称の主語、有間皇子が、内心に積極的な意志を抱いて「む」という助動詞を用いて一首を歌い切っている。その際に、自分の意志は皆さんの意志にもかかわることでしょうと巻き込むように弁舌を振るっている。初期万葉の歌が持つ政治性はこの歌にも当てはまる。

 磐代の 浜松が枝を 引き結ぶ ま幸くあらば また還り見む(万141)

 磐代の浜に生えている松の枝を引き結びます。(はい引き結びました。こうなったからには、天皇はじめ皆さんよ、もうあなた方に選択肢はないのです。枝の話だけに。磐長姫のお話をご存知ですよね。あなた方もついこの間、この磐代の地で歌を歌って盛り上がっていましたから。あなたの大切な御子君の中大兄がアマヒノミに短命になってもいいのですか。そんなことは私も望みません。ですから、お互いに何も手出しをせずにいましょう。そして、私が刑に処せられずに)本当に無事でいられたら、また還ってきて結んである松の枝を見ましょう。(皆さんも同じように無事に還れますよ。)
 歌意を示すのに説明調になり長くなる。その理由は「引き結ぶ」ことの意味が重いからで、だから終止形にして句切れとなっている。ぶっきらぼうに二つの文章が提示されている。

 [私ハ]磐代の浜松が枝を引き結ぶ
 [私ハ]ま幸くあらばまた還り見む

 この二つが連続して不思議でないのは、歌を歌った有間皇子にとっても、それを聞くことが予測されていた紀の温湯に滞在中の斉明天皇、皇太子中大兄、またとり巻きの宮廷社会の人々にとっても、共通認識として持っていたからである。上代の人の常識なのだから、一見つながらないように思われる二つの命題が、直線的に一つの歌につづけて歌われている。ハッと気づいて納得させられ、やられたと思う内容となっている。論理哲学の授業が紀伊路で繰り広げられている。無文字の時代の言葉は音声だけに依っていた。言葉は一つ一つその底流にそれぞれの背景を背負いながら成り立っている。それらを一つ一つよく理解していたから、互いに得心が行くように伝え合うことができた。コノハナノサクヤビメ、イハナガヒメの話は当時の人の百科事典的な知識として共通認識となっていたから、イハシロは磐を生育させるところでありつつ、君が代ゆかりの天皇家の人々がその寿命のことを気にかけたくなるところだった。イハは大切にしないといけない、有間皇子の言い分は理屈として通っている。聞かざるを得ないではないか、と感じられたのである。
 「また還り見む」という言辞は贅言に聞こえる。カヘリミルには大略、①もう一度やってきて見る、②ふり返ってみる、の二義がある。①の場合、「還る」ことがあれば当然「見る」ことはある。もう一度やってきて見る、という語を発する際、万葉集では「また還り見む」(万37・911・1100・1114・1183・1668・3056・3240・3241)が常套句化している。「ま幸くあらば還り見む」ではなく、「ま幸くあらばまた・・還り見む」と有間皇子が歌ったから踏襲されている。有間皇子の歌の影響は計り知れない。この念の入れようは、言葉に念を込めているからである。松の枝を結ぶこと自体に何か呪力があるのではなく、念じ込めた言葉のなかに力があると信じられていたのである。言葉と事柄とは相即の関係にあるとする考えが言霊信仰の真相である。以上のように捉えていくことによって、この歌の意味深さが理解でき、後述する万142番歌に「椎の葉に盛る」といったふざけた表現も行われていると得心するに至る。
 「有間皇子、ひととなりさとくして、陽狂うほりくるひす」(紀)という指摘は正鵠を射ている。少し賢しらであったため、言語の論理学において天皇側に勝ってしまい、時の政権に鋭く突き刺さるような言辞になっている。その結果、かえって政権から憎まれて、「藤白坂にくびらしむ」(斉明紀四年十一月)ということになった。その場所が「藤白」である点にも注意したい。フヂシロという地名からは、藤の栽培促成地であって藤蔓の代わりにも当たるところとの印象を得る。天皇側の言い分はこうである。引き結びたければいくらでも引き結べるように、藤蔓のあるところへ行きなさい。いくら引き結んでもただフジが絡まっているようにしか見えなくて、人為的な標にはなりませんよ。その藤蔓であなたの首を括ってあげましょう。アリマ(有間)と言う名前は間がある文様、マダラ(斑)のこと、言い換えればブチ(斑)のことで、あなたにはフヂシロがお似合いですよ、という発想である。藤白坂と紀の温湯の間に磐代は位置するとされている。つまり、有間皇子は、「また還り見」ることができた後、絞殺された。言葉として放った事柄は達成されて、言=事とする言霊信仰に過不足はなかったということになる。
 政変時の歌である。言葉の応酬ばかりである。初期万葉における歌は言葉の応酬である。無文字時代にコト(言)はコト(事)と同一とされていた。そして、政治とは言葉である。初期万葉の歌は政治的表明である。
 次に、万142番歌について検討する。「椎の葉」にご飯を盛るのかについて長く議論されてきたが、なお未解決である。

 家にあれば に盛るいひを 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万142)

 「椎の葉に盛る」という表現は、飯を盛るには椎の葉は小さすぎて異様に映る。有間皇子の食べようとするご飯なのか、「紀州磐代の道祖神の神前に供へ」た神饌(注8)なのかで意見が分かれている。今日では前者が優勢である。後者の考えに立つと、歌で表現しようとする「家」と「旅」の対比がうつろになり、「余りにも抽象化し、ふやけた発想になってしま」う(注9)と批判されている。ご飯を「椎の葉に盛る」ことはあり得ないとする再批判には、安楽な家を離れて旅の不自由さの嘆きを表わさんがために詠んでいると強調されている。また、万141番歌の前にある題詞に、「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」とある点との関わりが不明ともされている。
 日本書紀をあわせ読めば、歌が歌われた時点は、万141番歌は有間皇子が謀反の疑いで都から紀温湯へ護送される途中で、万142番歌申し開きが適わずに紀温湯から都へ護送される途中で歌ったものである。拘束感が違うと読み取れる。万142番歌は、藤白坂で絞殺刑に処せられる直前のものである。

 十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣、語有間皇子曰、天皇所治政事、有三失矣。大起倉庫、積聚民財、一也。長穿渠水、損費公粮、二也。於舟載石、運積為丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善_己、而欣然報答之曰、吾年始可兵時矣。甲申、有間皇子、向赤兄家、登楼而謀。夾膝自断。於是、知相之不祥、倶盟而止。皇子帰而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪、率宮丁、囲有間皇子於市経家。便遣駅使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子、与守君大石・坂合部連薬・塩屋連鯯魚、送紀温湯。舎人新田部米麻呂従焉。於是、皇太子、親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天与赤兄知。吾全不解。庚寅、遣丹比小沢連国襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬塩屋連鯯魚・舎人新田部連米麻呂於藤白坂。塩屋連鯯魚、臨誅言、願令右手、作国宝器。流守君大石於上毛野国、坂合部薬於尾張国。〈或本云、有間皇子、与蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬、取短籍、卜謀反之事。或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人、一日両夜、邀牟婁津、疾以船師、断淡路国。使牢圄、其事易成。或人諫曰、不可也。所計既然、而無徳矣。方今皇子、年始十九。未成人.可成人、而得其徳。他日、有間皇子、与一判事、謀反之時、皇子案机之脚、無故自断。其謨不止、遂被誅戮也。〉(斉明紀四年十一月)

 問題点を整理する。旅先で食べるために盛ったご飯は握り飯なのか、糒(乾飯)、つまり、ホシヒ、ホシイヒ、カレヒ、カレイヒの類なのか、そこがポイントである。「握飯」とすると、「罪人として護送中の囚われの身であれば、そのまま手づかみでたべたのであって、わざわざ食器や椎の葉に盛ってたべるという手間ひまをかける必然性はまったくない」し、「乾飯」とすると、「椎の葉に盛って食べるということはちょっと無理であろう」とフローチャートを組んだ解説が行われている(注10)。「盛る」と明示された作業を考究しなければならない。
 「家に有ればに盛るいひ」とある「(ケは乙類)」とは何か。ご飯をよそう器であると信じ込まれている。和名抄に、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、和名は〉は食を盛る器なりといふ。」(注11)とある。食器のことを指しながら、そこへよそった食べ物のことも同じく「(餉)(ケは乙類)」と呼んでいる。御食みけ朝餉あさげというケである。関根1969.に次のようにある。

 ……これら笥類の用途であるが、『万葉集』によると、
  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(一四二)
とあり、飯を盛るという。武烈紀の影媛の歌に「拖摩該玉笥儞播、伊比佐倍母理拖摩暮比玉盌儞、瀰逗佐倍母理」とあり、神功皇后紀十三年条に「命武内宿禰太子角鹿笥飯大神」などとあるのも笥に飯を盛った証左となろう。また近時の藤原宮跡出土木簡にも「コ二大御莒二大御飯笥・・匚」(〈『同概報』〉)とみる。
 まず大笥については、経師〜雑使五八人分として大笥五八合を計上し(⑯六七~六八)、同じく経師〜雑使四四人分として大笥四四合を計上(⑯五一三)しており、人別一合の割となる。ただここで問題となるのは、飯を盛るといっても今日の飯茶碗のように、それで食事をとったのか、あるいは今日のオヒツのように、ただ飯を入れるだけのものであったのかは定かでない。前掲『万葉集』では前者の意になろうか。(307頁)

 茶碗に当たるのか、オヒツ(飯櫃)なのか、推測だけで決定されていない。和名抄も、「飯を盛る器」としていて、それが銘々の茶碗(お椀、お弁当箱)に当たるものなのか、オヒツに当たるものなのか、用途細目には触れていない。筆者は、142番歌の「笥」はオヒツ(注12)に当たると考える。
 歌に、「家にあれば……」と「旅にしあれば……」を対比させている。本当の対比とは、やることがことごとく正反対ということであろう。家では、ご飯は炊いた後、オヒツに入れて余分な水分を木地に吸ってもらって良い頃合いの食感となる。反対に、旅路で糒(乾飯)を食べるときには、水分を与え吸わせてふやけた状態にする。ふやかさなければ硬くて食べられない。糒は携行食であるが、けっして飲みこむものではない(注13)。米粒の水分の出し入れがちょうど反対になるから、家と旅との対比が鮮明になる。わずかな時間に限り、くり返されることなく空中を飛び交う言葉が歌なのだから、瞬時に聞き取られ聞き分けられるように、そのぐらいはっきりしていて当然である。

 ここ烏賊津使主いかつのおみおほみことうけたまはりて退まかる。ほしひころもうちに裹みて坂田に到る。……仍りて七日経るまでに庭の中に伏せて、飲食みづいひ与ふれどもくらはず。しのびみふところの中のほしひくらふ。(允恭紀七年十二月)(注14)
 餱 胡溝反、平、乾飯也。食也。加礼伊比かれいひ、又保志比ほしひ。(新撰字鏡)(注15)

 「椎の葉」は、「笥」=オヒツと対となるものである。ほしひ(ヒは甲類)に水分を与える容器に、しひ(ヒは甲類)ほどふさわしいものはあるまい。ホシヒとシヒの洒落は侮れない。歌は空中を飛び交う音声言語だからである。無文字文化のなかでコミュニケーションは独自の豊かさをそなえていた。「旅にしあれば」の「飯」とは、ホシヒにほかならず、それが「家にあれば」の「飯」の水分調節を「笥」=オヒツが担っていたことを直観させるのである。「椎の葉」に糒を盛って水分を与えることができるかといえば、あまり生産的、効率的、実用的ではないのだが、それが旅路での不便を物語るのにふさわしい。小さな葉一枚一枚に、糒を一粒一粒載せていって、水をポトリ、ポトリと垂らしていく。その結果、「椎の葉」上に、一粒一粒ご飯がよみがえる。それを一粒一粒拾って食べるという話にしている。謀反の大罪を犯した罪人とはいえ、天皇家の皇子、有間皇子である。実際に行ったわけではないであろうが、屈辱と感じたのであろう。政争に敗れても口の減らない嫌味を吐いている。すぐに絞首刑に処せられたから最後の捨て台詞になっている。生かしておいたらどこまで減らず口をたたくか知れたものではない。
 処刑されてお骨になった。お骨の一粒一粒のことは仏教に舎利である。ご飯の一粒一粒も舎利である。色彩、形状が似ているから、言葉の上で同様に扱われた(注16)。すなわち、有間皇子が「自傷」の歌として詠んだという題詞は、この万142番歌においてさらに際立っている。あと何分かで皇子、あなたは舎利になりますよ、と告げられての辞世の歌なのである。命乞いの歌ともとれる。なぜなら、シヒ(ヒは甲類)には、ほかに、メシヒ(盲)、ミミシヒ(聾)などのシヒ(癈、痺)という語があり、どんな不具も受け入れるから、命だけは助けてほしいという訴えにも受け取れるからである。日本書紀には、謀反に参加した塩屋連鯯魚しほやのむらじこのしろの命乞いが記されている。「塩屋連鯯魚、ころされむとして言はく、「願はくは右手をして、国の宝器たからもの作らしめよ」といふ。」とある(注17)。万142番歌は緊迫した場面での丁々発止のやりとりの反映であった。
 二つの歌が歌われた時点を確かめておく。往路と復路でそれぞれ詠まれている。護送されて行く時に、有間皇子は、藤白坂を通過してから万141番歌を歌い「磐代」と言っている。有間皇子はそのように口に出して歌ってしまった。そして、「ま幸くあらばまた還り見む」と続けている。無事である、良好な状態であるなら、再度見ようと言っている。斉明朝の天下は、完璧に良好な状態を保っているとするのが政府の方針である。全体主義的な国家は言論統制に傾く。そのなかで、言葉として発せられてしまった以上、言霊信仰下にあっては言=事であるから、「また還り見」るところまでさせなければ、「ま幸く」ないことになる。上に見たように、この歌には明示される形で主語が据えられているわけではない。有間皇子一人のこととして理解されるばかりでなく、宮廷社会全体について言い及ぶアジテーションとしても効果を発揮している。斉明朝の政策は、少なくとも歌が広まる宮廷社会のなかでは秩序を保つように向かっていた。したがって、復路において有間皇子が歌を歌った「磐代の浜松が枝を引き結」んだ地点までは生かしておき、「ま幸くあ」ることを「還り見」させることで、社会全体の安寧の揺るぎないことを確定させている。それは天皇や皇太子たちにとっても「ま幸くある」ことになるからである。しかる後、有間皇子が藤白坂へさしかかるなりすぐに絞首している。藤の蔓を引き結んでも何の標にもならない。まったく同じ道を戻らせて「還り見」させつつ、道(=道徳)にもとると断罪した。題詞の「松が枝を結ぶ」との指定、拘束は、二首目の万142番歌の時点にも生きている。呪縛の貫徹をもっての解放が、有間皇子の処刑としてもたらされている。万142番歌は彼の辞世の歌なのであった。

(注)
(注1)「引き結び」と連用形中止法に訓むことを早く論じた吉永1969.に、「この歌は
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 ……引き結び……またかへりみ→む
となるのであって、決して「……引き結び……またかへりみむ」でないことは諸注例外がないのである。」(40頁)とある。諸注が研究不足で、解説者も考察不足であった。なお、本稿では、有間皇子自傷歌の先行研究において、訓さえ定まらないまま憶測に終始している数々の論考を紹介しない。連用形中止法についての議論にのみ絞って引用文献として掲げた。
(注2)付け加えると、主語─述語の関係も二つの歌では異なり、文法構造がよく似ているとまでは言えない。主語が変わるかどうかの違いである。万141番歌は、含意を見渡すとその限りではないものの、有間皇子を一人称の主語としてとることができるようになっている。
 [私ガ]磐代の浜松が枝を引結、ま幸くあらば、[私ハ浜松が枝ヲ]また還り見む(万141)
 沖つ嶋荒磯の玉藻[ガ]潮干満、い隠り去かば、[人ニハ荒磯の玉藻ノコトガ]念ほえむかも(万918)
(注3)三田2011.では、助詞の「む」が使われている点に関して、その意味が推量を示すものか、意志を示すものかについて、「ま幸くあらば」という仮定の条件節の読みに置き換え(可能で)、「つまるところ、諦観が表現されるか、積極的な意欲が表現されるかは、仮定表現がおかれた一首全体の状況に支配される。」(15頁)としている。「ま幸くあらば、また還り見む」という言い回しにおいて、本当に無事であったらまた還ってきて見るだろう、というのと、本当に無事であったらまた還ってきて見よう、というのとのバイアスは、何とでも受け取れるものだという。そして意見として、「「ま幸く」あることを無条件に信じ得ない境遇のなかで、それでもわずかに「生きていさえすれば必ず」と再訪への意欲をこめた表現と受け止めたい。」(16頁)と述べている。しかし、歌はそもそも思いを込めて作られている。その歌の状況は、そこに使われている言葉づかいに表れているに違いあるまい。
 確かに、連用形中止法に「引き結び」と訓めば、すべての前提条件が仮想されていて、これから松の枝を引き結んで本当に無事であったらまた還ってきて見るだろう、という解釈に進まざるを得ず、漠として要領を得なくなる。そんな仮定に仮定を重ねるようなことを想定するためには、引き結ぶ行為自体がおまじないの所作として確立していると前提されなければならず、きっとそのはずであったと仮構する方向へ向かっていく。白川1995.に、「紐を結ぶことは、古くは結縄けつじょうとして種々の制約に用いたが、のち愛情を約する行為として〔詩〕にもみえ、〔万葉〕にはことにその例が多い。ものを結ぶことは、そこに何らかの霊的なものを結び留める象徴的な行為とされた。草を結び、またものを著けて結びつけることなどもおこなわれた。」(737頁)と解されている。神社に凶などと引かれたおみくじが結びつけられてあるが、力を封じ込めるためのしきたりなのかも知れない。
 とはいえ、結ぶことなら何もかにも、呪的行為であり、神秘的な力を発揮するものかと言えば、そのようなことはあり得ない。生業全般にわたって日常的に結ぶ作業は行われている。まじないの気持ちで結んだ時、結んだものははじめてまじないの力を有する。
 自然に生えている松の枝を結びつけることが、当時の呪的風習として広がっていたとは考えにくい。松の枝を結ぶことは、万葉集において、有間皇子自傷歌とその追和歌以外では、大伴家持作の万1043・4501番歌に限られる。家持の歌は有間皇子自傷歌に学んだものであろう。自傷歌に出てきているのは、個別具体的に二本の松の木の枝を引っ張ってきて結ぶという行為である。屋外のことで言えば、しりくめ縄を結ぶことはあったかもしれないし、コマツナギを獣道に結んでおくことはあったかもしれない。また、松ということで言えば、門松や松飾りの源流のようなことがあるかもしれない。けれども、イハシロという場所の砂浜に生えているものに限って松の枝を引っ張り結ぶことが、当時の通念として理解されていたとは考え難い。紀の国の磐代というところは都から遠く離れている。行幸で皆が通ったといってもお初にお目にかかった場所である。道祖神に神饌を捧げたとか、その地の民俗風習に松の枝を結んで旅の安全を祈ることが行われていたとする説もあるが、政局に機敏で「陽狂」してみせる天皇家の傍流に当たる要注意人物が、民俗学に通じて歌を歌ったところで何としよう。当時の政局において世間を騒がせるかどうかが問題である。政局とのかかわりが大きいので、謀反人として逮捕、連行されていて、宮廷社会の人にとって大事件であり関心の的となっている。その人が唐突に民俗採集を始めても意味あることにはならない。人々の関心を得られないとなると、マスコミはとり上げず、歌が歌われても誰も聞かず、記憶されることもなければ後に記録されることもなく、万143~145番歌が追和されることもなかったであろう。ショッキングな出来事であったから、有間皇子の歌は人々の心に残り、さらに追和されたと考えられる。
 万141番歌の最後の「む」に、「ま幸くあらば」という条件句が投入されているためにわかりづらくなり、意志の意が乏しく推量とする解釈が通行している。そして、上の句で歌われる松の枝を結ぶ行為の意味づけに波及している。結んだ枝が解けないことと有間皇子が無事であることとが同等のことと呪術思考されたとか、磐代の神への信仰によって磐代の土地神の栄えと有間皇子の命の平安とが一体的なものと把握されたとか、「松」の枝が解けることなく自分を「待つ」存在となることを願ってそのしるしになるように結んだとする考えが提案されている。その結果、歌全体の意味が、死を覚悟してさようならを言っている歌であると捉えられる傾向が強くなっている。そんな諦めモードの歌ということになると、謀反に問われているとき、罪状を認めて心情として死を受け容れていることになる。題詞にある「自傷」という言葉も、単に辞世の歌を示すものとして平板な形象語に捉えられる。しかし、仮にそうなら、世の中は実はとても穏やかであろう。オーディエンスの心は掻き立てられることはなく、追和の歌が歌われることもないに違いなかろう。
 今日でも著名人が世間をお騒がせした場合、謝罪会見を開くことがある。その席上、謝罪の色が窺えないととられたり、真の反省になっていないと受け止められたら、さらなる社会的制裁を受ける。すなわち、その会見での発言が自らを傷めることになる。有間皇子の場合も、「ま幸く有」るのであれば「また還り見」たいと発言してしまった。それが形式的に天皇家の幸を祈るかのような形で行われると、天皇総本家としては、天皇家というものはこのようなことでよいのか、臣下たちへの示しがつくかといった点まで考えざるを得ないムードになる。結果的に、有間皇子は天皇家のメンバーから除外する、すなわち、この世から抹殺して消し去るしかなくなった。謹慎や出家、勘当では済まされないのが社会的公器としての天皇家であった。余計な歌を歌ったがために、当初の想定以上の重い処分に至ったと見なされる。歌を歌ったことが、かえって自らを傷める結果へとつながったから、「自傷結松枝歌」のように細やかに記されている。
(注4)モダリティの英語の例としては、may、must、will、can、should、have to、need to などがあげられる。
(注5)佐佐木1999.に、テナ構文に二類あり、Ⅰ[─てな。(なぜなら)─ため。]、Ⅱ[─。(だから)─てな。]のうち、Ⅱの構文に当たるものであるとする。「一首の全体は、「君の寿命も私の寿命も、知ることなどできるものではありません。(ですから、君の御代の繁栄を祈願して)さあ、磐代の岡の草を結んでおきましょう」というような意味であろう」(335頁)と解されている。歌中の「所知哉」についても、「この歌の構文や内部的な意味関係は、君がも吾が代も所知哉。(だから)─磐代の岡の草をさあ結ぼう。」(334頁)になっているはずだから、「知る」は一般に解されているような領有するの意ではなく、知る、認知するの意である。知られようかいやいや知られないと反語で語っているのだから、シレヤと動詞の已然形で訓まれなければならないとする。筆者も同意見である。その場合、「君」や「吾」が誰に当たるかという問題が浮かび上がるが、「吾」は作者の「中皇命」、すなわち、斉明天皇自身、「君」は「君」として崇めるべきと推奨されている皇太子、中大兄に当たると考える。
(注6)西宮1990.に、シロという語についての詳論がある。二群に分けられて説かれるシロという語の両者の間には、根底に共通する意義素をもっているがために深い関係があると検討されている。最終的に辞書的な記述として、次のような見解が示されている。「しろ〔代〕シル(領知)が原義。㊀占有する、特別な場所。①~となるための特別地。「苗代」「山代」。②~するための特別地。「矢代」「糊代」「城」。③秘密の占有地。④助数詞。土地の広さの単位。㊁領知する人・所・物・事。①代りの人・物・所。「親代」「御名代」「網代」「咲かぬが代に」。③代りの物が本物と同じ機能をもつもの。「物実」。」(361頁)
(注7)拙稿「呪詛の関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274参照。
(注8)高崎1956.。
(注9)稲岡1973.。
(注10)川上2015.。
(注11)狩谷棭斎・箋注和名抄に、「曲禮上注作簞笥盛飲食、文選思玄賦注引、作並盛食器、与此所引合、按曲禮注又云、圓曰簞、方曰笥、禮記引兌命曰、惟衣裳在笥、然則笥又可衣裳、故説文云、笥、飯及衣之器也、依以上諸書、笥非皇國所[け]、只以飯食之耳、古所謂介、蓋土器、後有銀造者、内匠寮式銀器有御飯笥、不源君所載者、其狀奈何、」とある。源順は、お茶碗に当たるものを「笥」と呼ぶとするのではなくて、「笥」というのは食べ物を盛る器でケというものだよ、と指摘している。「木器」の項に載せているのは、彼の目に木製のものが一番ポピュラーに映ったからであろう。曲物のオヒツのことである。
 延喜式に、「笥」、「板笥」、「飯笥」、「板飯笥」、「銀飯笥」、「熬笥」、「大笥」、「縄笥」、「円笥」、「筥笥」、「平笥」、「藺笥」、「笥杓」、「麻笥」、「水麻笥」とある。金田1999.に、「……延喜式(九二七)では、麻笥と桶とは区別せずに使用しているが、(~)ケと(~)ヲケとは助数詞の合と口によってあきらかに区別されている。」(171頁)と指摘がある。(~)ケ系は13種33例中31例に「合」(蓋付き容器)が使われ、(~ヲケ)系は7種44例中41例に「口」(蓋なし容器)が使われているという。今検討している「」は、蓋付き容器であると考えられる。
 正倉院文書に載る経師~雑使に支給された「大笥」は、重箱でうな重か何かのようにそのまま食べろと渡されたのではなく、オヒツを渡されて各々よそって食べるようにしろということであろう。経師~雑使に采女のような仲居さんが給仕して回るとは思われないからである。余りは持ち帰って家族も食べたのであろう。
 年中行事絵巻などに描かれるように、強飯式のごとく山盛りにご飯が器に盛られた場合、その器に蓋をすることはできない。それが仮に常態であったなら、最初から蓋のないもの、つまり、「口」として数えられる(~)ヲケ系になってしまい、万142番歌は「家にあればヲケ(笥)に盛る飯を……」と字余りになる訓み方をしなければならなくなる。妥当とは言えない。
(注12)オヒツ(飯櫃)は、炊いたご飯をそこへ移し替えて盛り入れ、食事の場へ運んで各々の茶碗へよそうための道具である。オヒツという女房言葉が一般化している。木製の桶形のもの、竹籠様のもの、また、それを保温するための外装品や吊るし懸けるものなど、いろいろあった。水分の出し入れや保温、腐敗の進行を遅らせるなど、時に応じて種々の形態のものを活用していた。ハレの場では、塗物の櫃も使われている。旅館で出てくるオヒツでは、内に布巾をかける工夫もされている。筒江2011.参照。宮本1973.では、「飯櫃めしびつ」と「飯籠めしかご」とに分けて、後者を特に夏季のご飯保存用具としている。用途からの切り口ではなく、製作物としての曲物を総括された論説に、岩井1994.がある。史料文献としては乏しく、守貞漫稿や物類称呼などにしかオヒツについて記されていない。当たり前すぎて気に留めなかったのであろう。
オヒツ(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591580/1/31をトリミング)
(注13)寺島良安・和漢三才図会に、「不多食、在腹甚膨張」と注意喚起されている。
(注14)「糒裹裍中」という書き方は注目すべきである。直に懐中に入れているらしい。糒はそれ用の弁当箱に入れたのではないかとも考えられるが、必ずしも決まっていたわけではなさそうである。和名抄に、「樏〈餉付〉 蒋魴切韻に云はく、樏〈力委反、楊氏漢語抄に樏子は加礼比計かれひけと云ふ。今案ふるに、俗に所謂いはゆる破子は是。破子は和利古わりこと読む〉は樏子、中に隔ての有る器なりといふ。四声字苑に云はく、餉〈式亮反、字は亦、𩜋に作る、訓は加礼比於久留かれひおくる〉は食を以て送るなりといふ。」とある。樏という字は、中仕切りのある楕円形のお弁当箱を指しており、小判型の中央に仕切りを入れたΘ形は、ちょうど雪を踏むカンジキにそっくりなので字を通用(「欙」とも書く)しているとする説がある。カンジキの語が寒敷に由来するのか筆者は知らない。火を使わない寒食かんじきの食事がお弁当である。半分にご飯、半分におかずの詰まったものが多く行われている。破子の片側半分に水を入れて餉(乾飯)をふやかすのに使ったのではないかとも想像される。烏賊津使主は持っていないし、「与飲食而不湌」とあるので、お腹がパンパンになったり脱水症状を起こさなかったかと心配になる。下のワリコの弁当箱の例は、真ん丸でないいびつな楕円形をしている。イビツという語が飯櫃いひびつに由来するとの説はかなり正しいのであろう。
(注15)新撰字鏡に所載の字は、「餱」の旁の「侯」部分は「候」である。
(注16)空海・秘蔵記に、「天竺呼米粒舎利。仏舎利亦似米粒。是故曰舎利。」とあるのが早い由来説とするが、サンスクリット語の米の意 sari が遺骨の sarira とに混同があることや、色や形の類似によってもそう感じられるところは誰にも否定できない。米を脱穀する際に臼の中で米粒がうごめくさまを、小さな猿がじゃれる風に見て取ったり、作業現場で砂利の小粒の動きを連想したり、あるいは、サル~サリ~シャリ~ジャリ系の語に共通の思惑を込めた言葉と考えた方が、語学的には正しかろうと考える。
 有間皇子が椎をとりあげている底流には、椎の実が食用となり、まるで糒のように見えることが前提しているのであろう。次の例では、歯の一本一本が、椎の実のようにきれいに粒ぞろいであることを言っている。歯は生きているうちから露出している舎利(お骨・米粒)である。

 …… 遇はし嬢子をとめ 後姿うしろでは 小楯をだてろかも 歯並はなみは 椎菱なす ……(応神記、記42)
椎(2017年7月3日)
 新編全集本古事記に、「前から見て、歯並びをほめる。椎と菱とを持ち出したのは、形よく並んでいることをいうためか。殻を割って取り出した実の白さから、白いことを形容するという説があるが、従いがたい。」(262~263頁)とある。しかし、両者とも樹上や水面に形よく並んで結実しているとは言い難い。八重歯、乱杭歯といった叢生、また、歯抜けになっていることもある。椎も菱も食用にしたので、殻を剥いてみて大きさが粒ぞろいで歯の形に似て色も白いところからそういう形容をしたと考えた方がしっくりくる。椎の実は、クヌギやコナラの実と違ってあく抜きが不要という。菱の実にもえぐみなどはないという。食べる器官である歯の美しさを讃める謂いにふさわしいよう、おいしく食べられるものを選んで譬えとしている。上代人の「形容」には奥深さがある。
 なお、村上2013.に、「歯並はなみは 椎菱なす」はつづく「櫟井の 和邇坂の土」にかかる序詞とする説があるが、長歌のだらだら表現の一句一句の発想の柔軟さが理解されていない。
(注17)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2cf5283bf20eb7d4cc3a0d3ea68114e7参照。

(引用文献)
稲岡1973. 稲岡耕二「有間皇子」『萬葉集講座』第五巻、有精堂、1973年。
岩井1994. 岩井宏実『曲物』法政大学出版局、1994年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
金田1999. 金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)、ぎょうせい、1999年1月。
川上2015. 川上富吉「椎の葉に盛る考─有間皇子伝承像・続─」『萬葉歌人の伝記と文芸』新典社、平成27年。
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本文学全集 古事記』小学館、1997年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
高崎1956. 高崎正秀「萬葉集の謎を解く」『文芸春秋』昭和31年5月号。
筒江2011. 筒江薫「櫃・イジコ・飯籠[ヒツ・イジコ・メシカゴ]」『食の民俗事典』柊風舎、2011年。
西宮1990. 西宮一民「ヤシロ(社)考」『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
三田2011. 三田誠司「ま幸くあらばまたかへり見む─有間皇子自傷歌追考─」『岡大国文論稿』第39号、平成23年3月。
宮本1973. 宮本馨太郎『めし・みそ・はし・わん』岩崎美術社、1973年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。
山口2011. 山口佳紀『古代日本語史論究』風間書房、2011年。(初出は、「万葉集における時制(テンス)と文の構造」『国文学 解釈と教材の研究』第33巻第1号、学燈社、1988年1月。)
吉永1979. 吉永登『万葉─通説を疑う─』創元社、昭和44年。

※本稿は、2018年5月稿を2020年3月に改稿し、2023年9月にさらに整理してルビ化したものである。

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