稲荷社のはじまり
稲荷信仰は、伏見稲荷神社に始まるとされる。文献に見える起源は次の記事にある。
風土記に曰はく、伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲粱を積みて富み裕けし。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を抜じて、家に殖ゑて祷み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。(山城風土記逸文)
この記事は、伊禰奈利の社の木を自分の家に植えて祈り祭ったら、福が来たという話である。今日、伏見稲荷では、その木のこととして験の杉が配られている。狐を稲荷の神の使いとするのは、一般に、御食津神を三狐神と付会した俗信からとされている(注1)。そして、キツネの古形としてケツネという語を想定し、五来1985.は、「ケ(食)ツ(の)ネ(根元霊)」(11頁)に由来するという。
左:しるしの杉のお守り、右:キタキツネ標本(よこはま動物園ズーラシア展示品)
また、大森2011.は、ケツネのケは、もののけのケでもあり、狐憑きとの関連を指摘する。狐は悪さをする悪霊・悪神であり、巫覡がそれを鎮める呪術を行ったという。狐をケツネと言う例は、関西地方の方言や物類称呼、本朝食鑑などにある。いずれの場合も、ケは乙類との想定である。
しかし、問題はそれほど単純ではなさそうである。五来2010.の引く伴信友は、次のようにも記している。「ある人この下書[『験の杉』]を見て云、伊奈利ノ神は神世にはきこえ給はず、いとはるか後の世の、大同の頃に顕はれて祭られたまへる故事をおもふに、伊呂具ノ公がしかじかの事によりて、怪み恐懼りて祭れるが始にて、後々然ばかり狐に因ありてきこえたまひ、社地の狐の巣の如くなるを思ふにも、誠は狐ならむも測りがたし、いかにといふに、答けらく、其はいかにも測りがたきことなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991313/217~218)。
言葉の遍歴として、ケツネ→キツネとあったかどうか、証左がない。本草和名に、「狐陰茎 和名岐都禰」、和名抄に、「狐 考声切韵に云はく、狐〈音は故、岐豆祢〉は獣の名にして射干なり。関中に呼びて野干と為す語の訛れるなりといふ。孫愐に云はく、狐は能く妖怪と為りて百歳に至りて女と化為る者なりといふ。」、名義抄には、「狐 音胡、キツネ、ヒトリ、野干也、クツネ、和去」とある。説文には、「狐 䄏獣也。鬼の乗る所なり。三徳有り。其の色中和、小前大後、死するに則ち丘に首むかふ。犬に从ひ、瓜声」とある。万葉集には、狐の登場する歌が一首のみ見られる。
長忌寸意吉麿の歌八首
さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ(万3824)
右の一首は伝へて云はく、「一時に衆つどひて宴飲しき。時に夜漏三更にして、狐の声聞ゆ。すなはち衆諸興麿を誘ひて曰はく、『この饌具、雑器、狐の声、河、橋等の物に関けて、但歌を作れ』といひき。即ち声に応へて此の歌を作りき」といふ。
「狐の声」が「来む(コは乙類)」と表されているとして有名な歌である。狐はコンコンと鳴くというのが上代からの通念であった。この歌に「狐」とあるのは、キツネ(キは甲類)と訓むべきとされる。日本書紀には次のような例がある。
……大きなる星、東より西に流る。便ち音有りて雷に似たり。時の人曰はく、「流星の音なり」といふ。亦は曰はく、「地雷なり」といふ。是に、僧旻僧が曰はく、「流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ」といふ。(舒明紀九年二月)
石見国言さく、「白狐見ゆ」とまをす。(斉明紀三年是歳)
是歳、出雲国造 名を闕せり。に命せて、神の宮を修厳はしむ。狐、於友郡の役丁の執れる葛の末を噛ひ断ちて去ぬ。又、狗、死人の手臂を言屋社に噛ひ置けり。言屋、此には伊浮瑘と云ふ。天子の崩りまさむ兆なり。(斉明紀五年是歳)
伴信友が「大同の頃」としており、平安時代にケツネと訓んだ例が記述されて残っていれば五来氏らの説も通用するかもしれないが、今のところ見られない。上代から中古にかけての狐の用例としては、日本霊異記・上巻、「狐を妻として子を生ましむる縁 第二」がある。
昔、欽明天皇 是は磯城嶋の金刺の宮に国食しし天皇、天国押開広庭命ぞ。の御世に、三野国大野郡の人、妻とすべき好き嬢を覓めて路を乗りて行きき。時に曠野の中に姝しき女遇へり。其の女、壮に媚び馴き、壮睇つ。言はく、「何に行く稚嬢ぞ」といふ。嬢答ふらく、「能き縁を覓めむとして行く女なり」といふ。壮も亦語りて言はく、「我が妻と成らむや」といふ。女、「聴さむ」と答へ言ひて、即ち家に将て交通ぎて相住みき。
比頃、懐任みて一の男子を生みき。時に其の家の犬、十二月十五日に子を生みき。彼の犬の子、毎に家室に向かひて、期尅ひ睚み眥み嘷吠ゆ。家室脅え惶りて、家長に告げて言はく、「此の犬を打ち殺せ」といふ。然雖、患へ告げて猶し殺さず。二月三月の頃に、設けし年米を舂きし時に、其の家室、稲舂女等に間食を充てむとして碓屋に入る。即ち彼の犬の子、家室を咋はむとして追ひて吠ゆ。即ち驚き澡ぢ恐り、野干と成りて籬の上に登りて居り。家長見て言はく、「汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は忘れじ。毎に来りて相寐よ」といふ。故、夫の語を誦えて来り寐き。故に、名づけて岐都禰と為ふ。時に彼の妻、紅の襴染の裳 今の桃花の裳を云ふ。を著て窈窕び、裳襴を引きつつ逝く。夫、去にし容を視て、恋ひて歌ひて曰はく、
恋は皆 我が上に落ちぬ たまかぎる はろかに見えて 去にし子ゆゑに
といふ。故に其の相生ましめし子の名を岐都禰と号く。亦、其の子の姓を直と負す。是の人強き力多有り、走ることの疾きこと鳥の飛ぶが如し。三野国の狐の直等が根本是れなり。
つねに来て寝よというところからキツネと呼んだという馬鹿馬鹿しいお笑いの一席になっている。ツネにキてだからキツネ、キてネるからキツネである。無文字文化のなかでの言葉には、今日の人には洒落やなぞなぞのように聞こえる事柄が多い。日本霊異記は、基本的に仏教説話集である。この話の主題は、狐をキツネと訓む、ないし、動物のキツネをキツネと呼ぶようになった由来を説くものではないであろう。一般的に狐(野干)のことはキツネと呼ばれていたから、こじつけのような話が作られている。確かなのは、ケツネとは呼ばれていなかったこと、ないしは、少なくとも一般的ではなかった点である。
万3824番歌で、狐の鳴き声をコム(「来む(コは乙類)」)と洒落ていた。左注に、「狐の声」と明記され、鳴き声を詠みこんでいることは確かである。「即応レ声作二此歌一也」とまで念を押されている。キツネの特徴とは、第一に、コンコンと鳴くことである。それは、音韻的には上代に、コムコム(コは乙類)と聞いたということである。非常に伝統的な鳴き声の擬音語である。同音のコムには、「籠む(コは乙類)」がある。
米を籠める米俵
稲荷信仰において、狐は神のお使いとされる。俗説から狐の好物として、油揚げをお供えしている。キツネの語源説に、キ(黄)+ツ(助辞)+ネ(愛称)の意かとするものがある。その説は、油揚げの色の類推までもはらんでいる。きつねうどん、けつねうろんとは、油揚げの載っているうどんのことである。また、油揚げを醤油と砂糖で甘辛く煮て、真ん中に包丁目を入れて袋状にし、すし飯を包みこんだものを稲荷寿司と呼ぶ。けれども、うどんの場合、稲荷うどんとは言わない。狐と油揚げの関係についての発想の端緒は、稲荷寿司のほうにあったらしい。油揚げの材料となる豆腐の伝来については、平安後期の記録に豆腐の語が見られるかとされるものの、一般には、鎌倉から室町期に禅僧が伝えたと解されている。それを油で揚げるとなると、禅林料理にあったかもしれないものの、南蛮料理を知るに及んで作られるようになったと考えるのが妥当であろう。
左:関東の稲荷寿司、右:関西の稲荷寿司
岡田2003.によれば、きつねうどんは、「1893年(明治26)に、大阪の松葉屋で、うどんに油揚げを2枚のせた、コンコンさんと呼ぶ種物を創作する.」(126頁)ことに端を発するかに記述されている。稲荷寿司の方は、喜田川季荘・守貞漫稿に、「又、天保末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸・干瓢等を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。日夜売レ之ども夜を専として、行燈に華表を描き、号て稲荷鮨、或は篠田鮨と云。ともに狐に因ある名にて、野干は油揚を好む者故に名とす。最も賤価鮨也。尾の名古屋等従来有レ之、江戸も天保前より店売には有レ之歟。蓋両国等の田舎人のみを専らとす鮨店に従来有レ之歟也。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053410/109)、漢字の旧字体は改め、句読点を補った)とある。
稲荷寿司という名称は、色が狐色になっているだけでなく、稲荷信仰のイナリを稲荷という字で表したところに発端があると知れる。「稲荷」の意味するところは、稲を租として都へ荷物に運ぶために、俵を編んでなかに裹んで入れていたということである。俵のなかに米が入っている様は、稲荷寿司に譬えられよう。「米(コ・メは乙類)」を「籠め(コ・メは乙類)」てある。狐の鳴き声と同じコムコムである。したがって、稲荷寿司という命名は、富士山型の稲荷寿司の多い関西地方ではなく、俵型のそれを食する江戸を源とすると考えられる。
米俵の意の俵の字は、中国では、分かち与える、散らす、の義である。集韻に、「俵㧼 分与也、或に手に从ふ」とある。本邦でのみ、タワラと訓んで入れ物、および入れ物の単位としている。この義に転用された理由については、筆者の臆説として、イネの茎葉部分の藁と、実の部分の籾とを分けたところにあるからかとも思うが、はっきりしない。日本国語大辞典に、「歴史的かなづかいは、通常「たはら」とするが確かな根拠はない。「たわら」とする説もある」(1180頁)とある。藁で編んであるのだから、タ+ワラではないかと考えるのは、正否は別として素朴な推論ではないか。「俵 彼廟切 チル、タハラ」(高山寺本名義抄(三宝類字集)(鎌倉初期書写加点))、「俵 タハラ」(伊呂波字類抄(鎌倉期))、「俵 タワラ、ヘウ普𩜙」(法華経単字(院政期か))とある。類義語に、秉があり、和名抄に、「秉 薩珣に曰はく、秉〈音は丙、訓は以奈太波利、毛詩に見ゆ〉は禾束也といふ。四声字苑に云はく、穧〈在詣反、今案ふるに田野人、稲の穧を捒りて云ふは是なり〉は刈り把る数也といふ。」とある。刈り取って稲架で干すのに束にしたものを秉、タハリとすると、籾状にして袋に入れてまとめたものは俵、タハラと呼んだと整理されよう。その確証は、稲荷という字面にある。荷という字は、担う荷物の意味の他に、蓮などとも書く植物のハスを表す。イネもハスも水の溜まった田で栽培される。ハスはレンコン収穫、また、仏花のためである。稲田と荷田が続いていれば、田が原のように広がっているということになる。タハラである(注2)。
俵は、薦を筒状に巻いて縫い合わせて胴にし、その両端に桟俵を被せて藁縄で縛って袋状にした入れものである。俵の両端に被せる桟俵は、直径30cmほどの円形の蓋である。サンダラボッチ、タワラッパワシ、タラバス、サンバイシ、バセなど、多様な民俗語が残っている(注3)。米、麦、芋、柏(槲)や炭などを入れて貯蔵、運搬する用途に用いられた。穀類などは稲藁、炭俵は葦や茅を使って作られた。製作には薦けたとつつろを用い、夜なべ仕事で薦編みされた。飾り物として米俵状の苞を作って小正月の供物とすることもよく見られる。道祖神に供物を載せる台としたり、疱瘡送りや流し雛の船に用いられることもある。そのため、藁座の意味を持っていると考えられている。なお、発祥時の俵には桟俵がなく、巨大な藁苞であったようである。
俵の字は、文献では、播磨風土記・揖保郡条に、「御橋山 大汝命、俵を積みて橋を立てましき。山の石、橋に似たり。故、御橋山と号く。」、延喜式・雑式に、「凡そ公私運米五斗を俵と為、仍て三俵を用て駄と為。」とある。木簡や正倉院文書には、ものの単位としてその袋詰めを数えるため、助数詞として用いられている。正倉院文書の細字注から、俵物は「裹む」と表現したらしいことが知られている。
左:鍵を銜えるお狐様(伏見稲荷大社)、右:米俵の納められた倉(信貴山縁起絵巻・山崎長者巻、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/信貴山縁起)
籾を入れた俵は大切に倉にしまわれた。信貴山縁起絵巻の山崎長者巻では、倉に鍵をかけてしまわれていた米俵が、自然に出てきて飛んで行ってしまう光景が描かれている。伏見稲荷大社の狐像に、稲穂を銜えたものと相対して、鍵を銜えたものがある理由もそこにある。富の拠りどころとして崇められるお狐様は、米俵というものを文字通り鍵として捉えられていた。つまり、稲荷信仰において、動物のキツネを崇拝するに至った理由は、イナリ神を「稲荷」と記したことを契機として、コムコムという鳴き声に掛けた米+籠の俵によっているのである。
この「稲荷」という表記の初見は、類聚国史34・天皇不豫(淳和天皇)の天長四年(827)正月辛巳(19日)条 に、「詔曰。天皇詔旨止。稲荷神前尓申給閉止申佐久。頃間御体不愈大坐須尓依弖占求留尓。稲荷神社乃樹伐礼留罪祟尓出太利止申須。然毛此樹波。先朝乃御願寺乃塔木尓用牟我為尓止之天。東寺乃所伐奈利。今成祟利止申我故尓。畏天奈毛内舎人従七位下大中臣雄良乎差使天。礼代尓従五位下乃冠授奉理治奉留。実尓神乃御心尓志坐波。御病不過時日除愈給倍。縦比神乃御心尓波不在止毛。威神乃護助給波牟力尓依天之。御躬波安万利平支給牟止。所念食止奉憑流止申給布天皇詔旨乎申給波久止申」とある箇所に求められている。伴信友の言っていた「大同」(806~810)の頃にほど近い時期に当たる。おそらく、伝承のとおり、その頃にイナリを稲荷と書き記す「発明」をしたのを契機として、イナリ信仰に狐が神の使いとして定着したということであろう。延喜式・神名帳にも、「稲荷神社三座並名神大。月次新甞」とある。
山城風土記逸文に、「伊禰奈利」とあるイネナリが音転してイナリと訛った。そのイナリという音に、「稲荷」という字を当てた。イナリをイナ(稲)+ニ(荷)と表すのはおかしいと思われるかもしれないが、もともとのイネナリは稲のたわわに稔ることを表している。稲穂が頭を垂れている様が思い浮かぶ。まっすぐに上を向いて葉茎が伸びていたものが、秋になって稲穂を筆頭に斜めに傾いてくるのである。斜めのことはハスという(注4)。ハスに構えるといったり、筋交いのことをハスカイなどという。そうなって初めてイネナリになる。イネは、ハスに稔ったらはじめて荷物になるように俵にすることができるのである。外側は藁、内側は籾である。上にあげた播磨風土記・揖保郡条に、「御橋山 大汝命、俵を積みて橋を立てましき。山の石、橋に似たり。故、御橋山と号く。」とあったのは、米俵とは稲の荷だから、斜めのハスカイ状に積まれていって、斜めに架け渡すはしご階段のことをいう橋になったと言っているわけである。ハス、ハシの音と意味との連動性から地名譚が作られている。
また、植物のハスを表す漢字としては、蓮は実、藕は根、荷は葉を表す。ハスの葉は食器として、また、飯や味噌を包んで保存するために用いられた。万葉集にも歌があり(注5)、ハスの葉が実用されていたことがわかる。つまり、荷という字は、ハスの葉の意味においても、食糧保存容器であり、俵の義を示しているのである。
種籾俵、イナル
俵は、実用の当初の目的として運搬用であったか定かではない。特に米俵の場合、貯蔵用、種籾保管のために用いられた可能性が高い。刈り取り前に品種別に抜穂したり、刈り取った後に良い穂の束を選び、それを扱箸で脱穀(脱粒)し、篩や箕で選別し、ふさわしいもののみを種子籾とした。さらにそれをよく乾燥させてすぐには発芽しないようにしたのち、俵に入れて保存した。自家食用のものは、刈り取ったままニオとして積んでおき、食べる時ごとに脱穀していったものと考えられている。しかし、種籾俵は、囲炉裏の上や土間の天井に枠を組んで置いたり、種籾倉や納屋の天井に大切に貯えられた。鼠の害から防ぐため、梁から太縄で吊るして保存されることもあった。早川1973.に、「また家敷の近くの畑や田の畔等に、四本柱を立て、屋根を葺いた櫓様のものを造って、それに貯える土地もある。これはもっぱら鼠害を防ぐと言って、脚部に杉の枯葉などを絡みつかせたものもある。名称は判らぬが、古風な種子貯蔵法と見られる(石見、長門等に見る。左図参照)」(501頁)とある。

倉の米俵は富に違いない。農本主義でその富を生み出す生産の三要素は、自然(田と水と日光など)、資本(金ではなく籾)、労働力(農民たる「百姓」)である。資本の籾を鼠から守る重要な役割を、杉の葉が担っている。よって、伏見稲荷大社では、しるしの杉を大切なものとしてきている。山城風土記逸文に、「抜二社之木一 殖レ家祷祭之」とある。何の木か記されないが、スギの木であると信じられている。所以について他の説は行われておらず、米倉の守りとしての杉の葉に由来するものと認められている。「今殖二其木一 蘇者得レ福 殖二其木一 枯者不レ福」とあって、「福」という語が用いられている。富はその時、当該年の収穫である。種籾を守れば翌年、その翌年へと続く収穫の連続、すなわち、福をもたらすということである。サキハヒとは、幸が這うようにのびてゆくことである。
種籾と俵との関係については、根木2005.に、種籾の保存上の、温度、湿度管理についてさまざまな条件が検討されている。しかし、イネは他のイネ科植物同様、なかなかに丈夫な発芽力を持っており、実用性からは種籾俵で保管する特段の意義は見出せない。むしろ、翌年の農作開始時、苗代に種子籾を蒔く過程での発芽促進のひと手間に関わるものであろう。すなわち、種籾を水に浸して発芽を促す際、俵ごと木の棒などで重しとして押さえ、種子浸けしたのである。ばらばらなままの種籾を苗代に蒔くと浮いてしまい定着せず、発芽までに時間もかかり、鳥についばまれる危険性も高い。そこで、春の彼岸の頃に種籾俵ごと川や池に水没させ、20日ほど浸してから取り上げて俵を開き、莚に種子籾を広げておく。すると、2~3日して籾の割れ目から芽が出てくる。この若干発芽した種籾を苗代に蒔き、苗として成長させた後に田に植えた。
種籾を鼠の害から防ぐために用いられた方法としては、しるしの杉へと発展したと思われる杉の葉を使う以外に、梁から吊るして保存される場合があった。この、梁から吊るされる俵と似た情景が、産屋の習俗に残っていた。瀬川1980.には、「滋賀県高島郡西庄村(現、マキノ町)では、「コヤドは七十五日藁の枕」「コヤドの藁を、毎日一把ずつ捨てて、しまいになるともとの身体になる」などというが、昔の出産は座り産で天井から吊した力綱にすがるか、枕上に高く積んだ米俵または藁枕によりかかって産むのであった。横臥すると難産になると信じられていたのである。」(82頁)とある。また、大藤1967.にも、「母屋の棟の下で産をする場合は、どの部屋を使うかは土地によってかならずしも同じではないが、大体はふだんの寝室であるナンド、またはヘヤとかヒヤ、ネマ、チョウダ(岐阜県吉城郡坂下村)とよんでいるところを使うのが普通になっている。……「三州奥郡産育風俗図絵」によれば、この地方では、……図に見るような天井から下がる力綱をとることも、産婦がよりかかって休息するわらを入れた俵も[以前はあったが、今では]用いられなくなった」(27~28頁)とある。
左:吊るされた米俵(21 21 DESIGN SIGHT「コメ展」パネル展示)、中:吊るされた種もみ(福井市おさごえ民家園・旧城地家住宅展示品)、右:産屋の図(松下石人「三州奥郡産育風俗図絵」、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456703/14)
種籾俵が納屋に吊るされる様と、妊婦が産屋で力綱にぶら下が様の類似性は、ともに新しい命を誕生させることを連想させるものである。命の誕生が、今日と比較にならぬほど難しい状況にあった前近代にあっては、文字通りすがる思いでの習俗になっていたと推測される。そして、このタハラ(俵)をめぐる風習は、ハラ(腹)と関係があると思われたのであろう。赤子が無事に産まれるには、経験豊かな産婆が欠かせない存在であった。産婆は、コズヱババと呼ばれるように、子をこの世に据える存在であり、命を生かすかどうかを決める婦、命婦であって、老女をいう専女でもあった。だからこそ、伏見稲荷の命婦社に狐は祀られ、倭姫命世記や御鎮座伝記に、その神は「専女」でもあると記されるのである(注6)。
イナリ信仰の源泉となるイナリという語の動詞形について検討する。記に、次のようにある。
其地より幸行でまして、忍坂の大室に到りましし時、尾生ふる土雲八十建、其の室に在りて待ちいなる。故爾くして天つ神の御子の命以て、饗を八十建に賜ひき。是に、八十建に宛てて、八十膳夫を設けて、人毎に刀を佩けて、其の膳夫等に誨へて曰ひしく、「歌ふを聞かば、一時共に斬れ」といひき。故、其の土雲を打たむことを明せる歌に曰はく、
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭槌い 石槌い持ち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子らが 頭槌い 石槌い持ち 今撃たば宜し(記10)
といふ。如此歌ひて、刀を抜きて一時に打ち殺しき。(神武記)
この「待伊那留。此三字以レ音。」のイナルについて、他に用例がなく、今のところ、唸ることと関係があろうかとしか説かれていない。土雲八十建の正体もわからず、不詳とされている。ただ、久米歌として知られる記10番歌謡に、「人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも」とある。これは、室のなかに入って座って待機している様子を示している。また、賊には尾があると記されている。それをイヌのことと仮定してみると、イヌにお座りをさせた形、しゃがんだ様子を表していると受け取れる。そして、食べ物を与えている。イヌは鼻をクンクンと鳴らせながら、お座りしてじっとこらえて待っている。つまり、イナルという語は、イヌ(犬)+ナル(鳴・成・如)の約で、後足を畳みつつ前足は立てて三つ指をつくようにしていながら、k音を発してしきりに鳴くことをいうものと推測される。それは、同じイヌ科のキツネがしばしばとる、しゃがんだ姿勢でコンコンと鳴くことによく似ている。室にたくさんいてみな尻を地につけていたとあるのは、キツネの巣とされる狐穴のことが念頭にあったに違いない。
左:「イナル」(?)、右:王子稲荷の狐穴(落語「王子の狐」にも登場)
神武記にある枕詞ミツミツシは、クメ(久米)に掛かる。この言葉の連関には、比比丘女とも呼ばれる遊戯、子とろ子とろをもじっている。産婆の「専女」ともかかわりがある。子とろ子とろは東アジアでは鶏と深く関わった遊戯で、水稲稲作の流入と相俟っていると指摘されている(注7)。神武記に見られる土雲八十建の話は、ふだんから自然界と積極的に密接に関わっていたからこそモチーフとされ、創作されたものと捉えられる。室にイナルところのイヌ科の動物、イヌ、ないし、キツネといった多産の獣に対して、ミツミツシ=クメノコなる子連れのニワトリが取って代わるという主題が通底している。産屋に俵が付きまとっていたことも相同である。現在でも安産祈願に訪れる水天宮では、犬の置物が配られている。
イナルという語が上のように把握されるとすれば、イネナリ社がイナリ社へと訛った段階からして、後足を畳みつつ前足を立ててしゃがみ座りするキツネのことが連想されていたことになる。文献上、稲荷信仰は中古に始まると認められるものの、イナリを稲荷と記して俵のことを想起させ、コムコム(米籠)と鳴くことを掛け合わせて狐を神のお使いとしたことの発端としては、上代の観念体系、すなわち、ヤマトコトバからして条件が整っていたと見定められる。舒明紀に、「天狗」と書いてアマツキツネと訓む箇所があった。雷のゴロゴロとキツネのコムコムの音が似ていたこと、狗の字にある句に「曲也」(説文)の意味があり、後足を畳むことがイヌにもキツネにも見られる特徴によったものであろう。民俗学では、狐と田の神との関連性が指摘されて通説化している(注8)。筆者はここに異論を唱えたが、諸説への反論は本稿の主旨から大きく離れる。
以上、コムコムと鳴く神使いの狐が活躍する理由は、その昔のコムコムの俵との洒落に確かなものとなったものであると述べた。
初午
稲荷社へ初詣に参拝する日として、古くから初午の日が好まれている。その理由については、五来2010.に、「これを要するに、稲荷神は稲荷山の山神で麓の民の耕作をまもり、稲や穀物の根元をつかさどると信じられた。その化身動物は狐であったが、これを麓の田や畑にむかえるには馬や絵馬をもってした。その時期が旧二月の耕作初めだったので、馬にちなんだ旧二月の午の日、すなわち初午が縁日になったのである。」(38頁)とある。民俗学に、田の神は馬に乗るのだとの解釈が通行している。しかし、身近な例として、お盆にご先祖様は胡瓜の馬に乗って来て、茄子の牛に乗って帰るとされている。さらに、伏見稲荷の場合、古くは山の頂に社は建っていた。枕草子に、「稲荷に思ひおこしてまうでたるに、中の御社のほど、わりなうくるしきを、念じのぼるに、いささか苦しげもなく、おくれて来とみゆる者どもの、ただいきに先に立ちてまうづる、いとめでたし。二月午の日の暁にいそぎしかど、坂のなからばかりあゆみしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、など、かからでよき日もあらむものを、何しに詣でつらむとまで、涙もおちてやすみ困ずるに、四十余ばかりなる女の、壺装束などにはあらで、ただひきはこえたるが、『まろは七度詣でし侍るぞ。三度は詣でぬ。いま四度はことにもあらず。まだ未に下向しぬべし』と、道にあひたる人にうちいひて下りいきしこそ、ただなる所には目にもとまるまじきに、これが身にただいまならばやとおぼえしか。」(158段「うらやましげなる物」)とある。
稲荷社ばかり初午詣を偏重する理由は、田の神や絵馬以外に求めなければならない。本稿で、イナリ信仰は、「稲荷」という字を宛がう発明をもってコムコムと鳴く狐と確かに深くまつるように進展していったと考えてきた。枕草子の例は、山の頂の稲荷社へ歩いて詣でるのがたいへんであるとの言い分である。稲荷社には馬に乗って行きたいとの願望もあるかと思われる。万葉集に頻出する「社」の字はコソと訓む。係助詞の意である。つまり、「稲荷社」という字面は、山頂に祀られる稲荷の方こそ来て欲しいという意味に受け取れる。そして、本稿では、稲荷を米俵のことと見ている。稲を荷物とした俵を馬が運ぶ様子は、石山寺縁起絵巻などにしばしば描かれている。租として都に運ばれた初荷の新米ほど、美味なるものはなかったに違いない。だから皆が希求した。食べればわかる、ウマシ(旨・甘・美)である。よって、稲荷社への参詣には初午の日が選ばれた。稲荷社とは、米を籠メたる俵こそ来メ(コ・メはいずれの場合も乙類)という洒落である。俵はタハラ(田原)だから、山の頂のような急峻な場所ではなく、平らな行きやすいところとのニュアンスすら感じられ、稲荷社のある稲荷山という語は、自己矛盾したおもしろい語であると思われたのであろう。その矛盾を解決してくれるキーワードがウマ(馬・旨・美)であった。
馬借(石山寺縁起絵巻模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)
人は言葉によって考える。大多数の人がそうだね、そのとおりだね、と納得できることでなければ、長い年月、時代を越えて人々に受け入れられ続けるはずはない。そのもとが無文字時代、あるいは、無文字生活が一般的であった時代ならばなおさらである。諳んじられないことは考えられず、広まることはない。言葉は音声言語でしかなかった。考えるとは、頓智を働かすことであった(注9)。
(注)
(注1)五来2010.では、伴信友の『験の杉』において、狐と稲荷の関係は密教の陀祇尼天(荼吉尼天)によるとしている説を批判している。狐の古語はケツネであり、ケは朝餉などのケ、ネは根で、食の根源を示すものであるからという。
曼荼羅に描かれて伝わっているダーキニー像と、我が国の中世以降に描かれた狐に載った陀祇尼天(荼吉尼天、荼枳尼天、拏吉尼天)像とはずいぶんと印象が異なる。
荼吉尼天像(絹本着色、室町時代、16世紀、東博展示品)
古今著聞集・265「知足院忠実大権房をして咤祇尼の法を行はしむる事并びに福天神の事」に、狐の登場する話が載り、弘法大師行状絵詞に、稲を荷う老翁と大師との逸話が描かれるが、由来とするには十分ではないようである。
弘法大師行状絵詞・巻八・第三段、詞書に、「同[弘仁]十四年正月十九日、大師、恩詔を受け、東寺を賜はりて、永く真言の道場と為し給へり。其の年四月十三日、彼の紀州の化人、稲を荷ひ椙を持ちて、両婦を伴ひ二子を率ゐて、東寺の南門に来り、望み給ひしに、大師、逢ひ奉りて悦びを成し、誠を抽んでゝ、神徳を崇め、法味を酧め給ひし時、道俗、是を敬ひて、瑚璉を供へ、簠簋を献じ奉れり。其の後、暫く八条二階の柴守が宅に宿し給ふに、大師、其の間、帝都の巽に当たりて杣山を点じ、利生の勝地を定めて、一七ヶ日夜の間、法によりてぞ鎮壇し給ひける。今の稲荷の社、是なり。彼の八条の二階堂は、今の御旅所なり。大師、神輿を作り、額を書かせ給ひて参らせられしかば、今に、祭礼の時、是を出し奉るとなむ」とある。
狐の由来とする説には他の考え方もある。中村2009.に、「狐が稲荷神の使いとして見られるようになった理由にはいくつかある。ひとつは、狐の持っている尻尾の形態が稲穂に似ているという連想から来たという説がある。かつては日本中に狐は生息していたが、人家の付近にもよく出没し、人間にとってもなじみ深い動物だった。狐の甲高い鳴き声、鋭い眼光、素早い動作など、人々はその姿や習性を不思議に思い、狐を神の使いではないかと考えるようになった。……さらに、狐は農耕にとって害獣となる野ネズミや野ウサギを退治したり、小動物を追って水田の近くによく現れることから、農耕神の使いと考えられるようになったともいわれている。……問題は、そうして何世代にもわたって受け継がれてきたであろう「イナリ・イメージ」がわれわれの意識の深層にも蓄積されており、深層心理の次元ではなかば独立した意志を持った「意識場*3」になりうるということである。それがイナリの神と交感するとき、ご神徳、ご神威となって信仰者に体験されるのである。」、「*3 「意識場」とは人間を含む生命体の想念が作り出す集合的な意識をさす概念であり、精神と物質の連関作用を引き起こすと考えられている。」(58~59頁)とする。この考え方は奇異に感じられる。江戸期以降、農耕を知らない都市の商人に信仰されていることまで、往年の刷り込みによるとでもいうのであろうか。
(注2)鳥獣人物戯画・甲巻に、尾に狐火をつけ、ハスの葉を的にして弓を射る場面がある。そのモチーフは、山城風土記逸文と稲荷の字義によっている可能性がある。秦伊侶具の的の話と、狐、ハスの葉とが登場している。偶然の一致であろうか。後考を俟つ。
鳥獣人物戯画・甲巻(ウィキペディア「カエルとウサギの弓矢の稽古の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥獣人物戯画をトリミング)
(注3)桟俵作りから身を起こす話が落語の「鼠穴」にある。
(注4)古く文献上の用例は見られないが、近世において柳多留に見えるように、俗語としてあり得た可能性を示す語である。
(注5)ひさかたの 雨も降らぬか 蓮荷に 渟れる水の 玉に似たる見む(万3837)
右の歌一首は、伝へて云はく、「右兵衛なるもの有り。〈姓名未だ詳らかならず。〉多く歌を作る芸を能くす。時に、府家に酒食を備え設け、府の官人等を饗宴す。是に饌食は、盛るに皆荷葉を用ちてす。諸人酒酣にして、歌舞駱駅せり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく、『その荷葉に関けて歌を作れ』といへれば、登時声に応へて斯の歌を作りき」といふ。
(注6)産婆と専女については、拙稿「ヤタガラスについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/54f3ec65ce7132af6c41aa9e5ad9db32ほか参照。
(注7)この点については、拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9e373aa9a09a27ff911394b6ad7d2077において考証し、比比丘女とも呼ばれる遊戯、子とろ子とろとの関係を見た。その際、産婆の「専女」との関係や、寒川2003.に引くEberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden, 1968.の説に、東アジアでは鶏と深く関わった遊戯であって、水稲稲作の流入と相俟っているとの指摘についてもふれた。
(注8)民俗学では、狐と田の神との関連性が指摘されて通説化している。柳田1999.、坪井1999.など参照。筆者はここに異論を唱えたが、諸説への反論は本稿の主旨から大きく離れる。
(注9)デリダ1972.に、「われわれはただ記号のうちでのみ思惟するのだ。(We think only in signs.)このことは、……まさに記号の要請が記号の権利という絶対性の中に認められるそのときに、記号の概念を破壊してしまう。超越論的な<意味されるもの>の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際限化(illimitation)であって、……世界における戯れのあらゆる形態を理解せんとする前に、まず考えねばならぬのは世界の〔という〕戯れである。」(103~104頁)とある。なお、デリダは、戦略的に「エクリチュール(écriture)」という語を使っている。記紀万葉に残されている無文字時代にあった上代人の言語活動の爛熟ぶりからは、西洋思想はなんとも迂遠な議論を行っていることよと哀れに思われてしまうものあろう。
(引用・参考文献)
大藤1967. 大藤ゆき『児やらい─そのけがれと神秘─』岩崎美術社、1967年。
大森2011. 大森惠子『稲荷信仰の世界─稲荷祭と神仏習合─』慶友社、2011年。
岡田2003. 岡田哲編『たべもの起源事典』東京堂出版、2003年。
五来1985. 五来重「総論─稲荷の現象学と分類学─」同監修『稲荷信仰の研究』山陽新聞社、1985年。
五来2010. 五来重『宗教歳時記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成22年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
瀬川1980. 瀬川清子『女の民俗誌』東京書籍、昭和55年。
坪井1999. 坪井洋文「神使としての狐」山折哲雄編『稲荷信仰事典』戎光祥出版、1999年。
デリダ1972. ジャック・デリダ、足立和浩訳『根源の彼方に─グラマトロジーについて(上)─』現代思潮新社、1972年。
中村2009. 中村雅彦「キツネが神使となった理由」中村陽監修『稲荷大神─お稲荷さんの起源と信仰のすべて─』戎光祥出版、平成21年。
日本国語大辞典 『日本国語大辞典第二版 第八巻』小学館、2001年。
根木2005. 根木修「水稲耕作における種籾貯蔵の意義」『龍谷大学考古学論集Ⅰ』同刊行会発行、2005年。
早川1973. 早川孝太郎「稲作の習俗」宮本常一・宮田登編『早川孝太郎全集 第七巻─農経営と技術─』未来社、1973年。
柳田1999. 柳田国男「狐塚の話」『月曜通信』(『柳田國男全集20』筑摩書房、1999年所収。)
※本稿は、2014年6月稿を改めた2019年9月稿を2020年3月に整理し、2024年4月にルビ形式にしたものである。
稲荷信仰は、伏見稲荷神社に始まるとされる。文献に見える起源は次の記事にある。
風土記に曰はく、伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲粱を積みて富み裕けし。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を抜じて、家に殖ゑて祷み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。(山城風土記逸文)
この記事は、伊禰奈利の社の木を自分の家に植えて祈り祭ったら、福が来たという話である。今日、伏見稲荷では、その木のこととして験の杉が配られている。狐を稲荷の神の使いとするのは、一般に、御食津神を三狐神と付会した俗信からとされている(注1)。そして、キツネの古形としてケツネという語を想定し、五来1985.は、「ケ(食)ツ(の)ネ(根元霊)」(11頁)に由来するという。


また、大森2011.は、ケツネのケは、もののけのケでもあり、狐憑きとの関連を指摘する。狐は悪さをする悪霊・悪神であり、巫覡がそれを鎮める呪術を行ったという。狐をケツネと言う例は、関西地方の方言や物類称呼、本朝食鑑などにある。いずれの場合も、ケは乙類との想定である。
しかし、問題はそれほど単純ではなさそうである。五来2010.の引く伴信友は、次のようにも記している。「ある人この下書[『験の杉』]を見て云、伊奈利ノ神は神世にはきこえ給はず、いとはるか後の世の、大同の頃に顕はれて祭られたまへる故事をおもふに、伊呂具ノ公がしかじかの事によりて、怪み恐懼りて祭れるが始にて、後々然ばかり狐に因ありてきこえたまひ、社地の狐の巣の如くなるを思ふにも、誠は狐ならむも測りがたし、いかにといふに、答けらく、其はいかにも測りがたきことなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991313/217~218)。
言葉の遍歴として、ケツネ→キツネとあったかどうか、証左がない。本草和名に、「狐陰茎 和名岐都禰」、和名抄に、「狐 考声切韵に云はく、狐〈音は故、岐豆祢〉は獣の名にして射干なり。関中に呼びて野干と為す語の訛れるなりといふ。孫愐に云はく、狐は能く妖怪と為りて百歳に至りて女と化為る者なりといふ。」、名義抄には、「狐 音胡、キツネ、ヒトリ、野干也、クツネ、和去」とある。説文には、「狐 䄏獣也。鬼の乗る所なり。三徳有り。其の色中和、小前大後、死するに則ち丘に首むかふ。犬に从ひ、瓜声」とある。万葉集には、狐の登場する歌が一首のみ見られる。
長忌寸意吉麿の歌八首
さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ(万3824)
右の一首は伝へて云はく、「一時に衆つどひて宴飲しき。時に夜漏三更にして、狐の声聞ゆ。すなはち衆諸興麿を誘ひて曰はく、『この饌具、雑器、狐の声、河、橋等の物に関けて、但歌を作れ』といひき。即ち声に応へて此の歌を作りき」といふ。
「狐の声」が「来む(コは乙類)」と表されているとして有名な歌である。狐はコンコンと鳴くというのが上代からの通念であった。この歌に「狐」とあるのは、キツネ(キは甲類)と訓むべきとされる。日本書紀には次のような例がある。
……大きなる星、東より西に流る。便ち音有りて雷に似たり。時の人曰はく、「流星の音なり」といふ。亦は曰はく、「地雷なり」といふ。是に、僧旻僧が曰はく、「流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ」といふ。(舒明紀九年二月)
石見国言さく、「白狐見ゆ」とまをす。(斉明紀三年是歳)
是歳、出雲国造 名を闕せり。に命せて、神の宮を修厳はしむ。狐、於友郡の役丁の執れる葛の末を噛ひ断ちて去ぬ。又、狗、死人の手臂を言屋社に噛ひ置けり。言屋、此には伊浮瑘と云ふ。天子の崩りまさむ兆なり。(斉明紀五年是歳)
伴信友が「大同の頃」としており、平安時代にケツネと訓んだ例が記述されて残っていれば五来氏らの説も通用するかもしれないが、今のところ見られない。上代から中古にかけての狐の用例としては、日本霊異記・上巻、「狐を妻として子を生ましむる縁 第二」がある。
昔、欽明天皇 是は磯城嶋の金刺の宮に国食しし天皇、天国押開広庭命ぞ。の御世に、三野国大野郡の人、妻とすべき好き嬢を覓めて路を乗りて行きき。時に曠野の中に姝しき女遇へり。其の女、壮に媚び馴き、壮睇つ。言はく、「何に行く稚嬢ぞ」といふ。嬢答ふらく、「能き縁を覓めむとして行く女なり」といふ。壮も亦語りて言はく、「我が妻と成らむや」といふ。女、「聴さむ」と答へ言ひて、即ち家に将て交通ぎて相住みき。
比頃、懐任みて一の男子を生みき。時に其の家の犬、十二月十五日に子を生みき。彼の犬の子、毎に家室に向かひて、期尅ひ睚み眥み嘷吠ゆ。家室脅え惶りて、家長に告げて言はく、「此の犬を打ち殺せ」といふ。然雖、患へ告げて猶し殺さず。二月三月の頃に、設けし年米を舂きし時に、其の家室、稲舂女等に間食を充てむとして碓屋に入る。即ち彼の犬の子、家室を咋はむとして追ひて吠ゆ。即ち驚き澡ぢ恐り、野干と成りて籬の上に登りて居り。家長見て言はく、「汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は忘れじ。毎に来りて相寐よ」といふ。故、夫の語を誦えて来り寐き。故に、名づけて岐都禰と為ふ。時に彼の妻、紅の襴染の裳 今の桃花の裳を云ふ。を著て窈窕び、裳襴を引きつつ逝く。夫、去にし容を視て、恋ひて歌ひて曰はく、
恋は皆 我が上に落ちぬ たまかぎる はろかに見えて 去にし子ゆゑに
といふ。故に其の相生ましめし子の名を岐都禰と号く。亦、其の子の姓を直と負す。是の人強き力多有り、走ることの疾きこと鳥の飛ぶが如し。三野国の狐の直等が根本是れなり。
つねに来て寝よというところからキツネと呼んだという馬鹿馬鹿しいお笑いの一席になっている。ツネにキてだからキツネ、キてネるからキツネである。無文字文化のなかでの言葉には、今日の人には洒落やなぞなぞのように聞こえる事柄が多い。日本霊異記は、基本的に仏教説話集である。この話の主題は、狐をキツネと訓む、ないし、動物のキツネをキツネと呼ぶようになった由来を説くものではないであろう。一般的に狐(野干)のことはキツネと呼ばれていたから、こじつけのような話が作られている。確かなのは、ケツネとは呼ばれていなかったこと、ないしは、少なくとも一般的ではなかった点である。
万3824番歌で、狐の鳴き声をコム(「来む(コは乙類)」)と洒落ていた。左注に、「狐の声」と明記され、鳴き声を詠みこんでいることは確かである。「即応レ声作二此歌一也」とまで念を押されている。キツネの特徴とは、第一に、コンコンと鳴くことである。それは、音韻的には上代に、コムコム(コは乙類)と聞いたということである。非常に伝統的な鳴き声の擬音語である。同音のコムには、「籠む(コは乙類)」がある。
米を籠める米俵
稲荷信仰において、狐は神のお使いとされる。俗説から狐の好物として、油揚げをお供えしている。キツネの語源説に、キ(黄)+ツ(助辞)+ネ(愛称)の意かとするものがある。その説は、油揚げの色の類推までもはらんでいる。きつねうどん、けつねうろんとは、油揚げの載っているうどんのことである。また、油揚げを醤油と砂糖で甘辛く煮て、真ん中に包丁目を入れて袋状にし、すし飯を包みこんだものを稲荷寿司と呼ぶ。けれども、うどんの場合、稲荷うどんとは言わない。狐と油揚げの関係についての発想の端緒は、稲荷寿司のほうにあったらしい。油揚げの材料となる豆腐の伝来については、平安後期の記録に豆腐の語が見られるかとされるものの、一般には、鎌倉から室町期に禅僧が伝えたと解されている。それを油で揚げるとなると、禅林料理にあったかもしれないものの、南蛮料理を知るに及んで作られるようになったと考えるのが妥当であろう。


岡田2003.によれば、きつねうどんは、「1893年(明治26)に、大阪の松葉屋で、うどんに油揚げを2枚のせた、コンコンさんと呼ぶ種物を創作する.」(126頁)ことに端を発するかに記述されている。稲荷寿司の方は、喜田川季荘・守貞漫稿に、「又、天保末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸・干瓢等を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。日夜売レ之ども夜を専として、行燈に華表を描き、号て稲荷鮨、或は篠田鮨と云。ともに狐に因ある名にて、野干は油揚を好む者故に名とす。最も賤価鮨也。尾の名古屋等従来有レ之、江戸も天保前より店売には有レ之歟。蓋両国等の田舎人のみを専らとす鮨店に従来有レ之歟也。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053410/109)、漢字の旧字体は改め、句読点を補った)とある。
稲荷寿司という名称は、色が狐色になっているだけでなく、稲荷信仰のイナリを稲荷という字で表したところに発端があると知れる。「稲荷」の意味するところは、稲を租として都へ荷物に運ぶために、俵を編んでなかに裹んで入れていたということである。俵のなかに米が入っている様は、稲荷寿司に譬えられよう。「米(コ・メは乙類)」を「籠め(コ・メは乙類)」てある。狐の鳴き声と同じコムコムである。したがって、稲荷寿司という命名は、富士山型の稲荷寿司の多い関西地方ではなく、俵型のそれを食する江戸を源とすると考えられる。
米俵の意の俵の字は、中国では、分かち与える、散らす、の義である。集韻に、「俵㧼 分与也、或に手に从ふ」とある。本邦でのみ、タワラと訓んで入れ物、および入れ物の単位としている。この義に転用された理由については、筆者の臆説として、イネの茎葉部分の藁と、実の部分の籾とを分けたところにあるからかとも思うが、はっきりしない。日本国語大辞典に、「歴史的かなづかいは、通常「たはら」とするが確かな根拠はない。「たわら」とする説もある」(1180頁)とある。藁で編んであるのだから、タ+ワラではないかと考えるのは、正否は別として素朴な推論ではないか。「俵 彼廟切 チル、タハラ」(高山寺本名義抄(三宝類字集)(鎌倉初期書写加点))、「俵 タハラ」(伊呂波字類抄(鎌倉期))、「俵 タワラ、ヘウ普𩜙」(法華経単字(院政期か))とある。類義語に、秉があり、和名抄に、「秉 薩珣に曰はく、秉〈音は丙、訓は以奈太波利、毛詩に見ゆ〉は禾束也といふ。四声字苑に云はく、穧〈在詣反、今案ふるに田野人、稲の穧を捒りて云ふは是なり〉は刈り把る数也といふ。」とある。刈り取って稲架で干すのに束にしたものを秉、タハリとすると、籾状にして袋に入れてまとめたものは俵、タハラと呼んだと整理されよう。その確証は、稲荷という字面にある。荷という字は、担う荷物の意味の他に、蓮などとも書く植物のハスを表す。イネもハスも水の溜まった田で栽培される。ハスはレンコン収穫、また、仏花のためである。稲田と荷田が続いていれば、田が原のように広がっているということになる。タハラである(注2)。
俵は、薦を筒状に巻いて縫い合わせて胴にし、その両端に桟俵を被せて藁縄で縛って袋状にした入れものである。俵の両端に被せる桟俵は、直径30cmほどの円形の蓋である。サンダラボッチ、タワラッパワシ、タラバス、サンバイシ、バセなど、多様な民俗語が残っている(注3)。米、麦、芋、柏(槲)や炭などを入れて貯蔵、運搬する用途に用いられた。穀類などは稲藁、炭俵は葦や茅を使って作られた。製作には薦けたとつつろを用い、夜なべ仕事で薦編みされた。飾り物として米俵状の苞を作って小正月の供物とすることもよく見られる。道祖神に供物を載せる台としたり、疱瘡送りや流し雛の船に用いられることもある。そのため、藁座の意味を持っていると考えられている。なお、発祥時の俵には桟俵がなく、巨大な藁苞であったようである。
俵の字は、文献では、播磨風土記・揖保郡条に、「御橋山 大汝命、俵を積みて橋を立てましき。山の石、橋に似たり。故、御橋山と号く。」、延喜式・雑式に、「凡そ公私運米五斗を俵と為、仍て三俵を用て駄と為。」とある。木簡や正倉院文書には、ものの単位としてその袋詰めを数えるため、助数詞として用いられている。正倉院文書の細字注から、俵物は「裹む」と表現したらしいことが知られている。


籾を入れた俵は大切に倉にしまわれた。信貴山縁起絵巻の山崎長者巻では、倉に鍵をかけてしまわれていた米俵が、自然に出てきて飛んで行ってしまう光景が描かれている。伏見稲荷大社の狐像に、稲穂を銜えたものと相対して、鍵を銜えたものがある理由もそこにある。富の拠りどころとして崇められるお狐様は、米俵というものを文字通り鍵として捉えられていた。つまり、稲荷信仰において、動物のキツネを崇拝するに至った理由は、イナリ神を「稲荷」と記したことを契機として、コムコムという鳴き声に掛けた米+籠の俵によっているのである。
この「稲荷」という表記の初見は、類聚国史34・天皇不豫(淳和天皇)の天長四年(827)正月辛巳(19日)条 に、「詔曰。天皇詔旨止。稲荷神前尓申給閉止申佐久。頃間御体不愈大坐須尓依弖占求留尓。稲荷神社乃樹伐礼留罪祟尓出太利止申須。然毛此樹波。先朝乃御願寺乃塔木尓用牟我為尓止之天。東寺乃所伐奈利。今成祟利止申我故尓。畏天奈毛内舎人従七位下大中臣雄良乎差使天。礼代尓従五位下乃冠授奉理治奉留。実尓神乃御心尓志坐波。御病不過時日除愈給倍。縦比神乃御心尓波不在止毛。威神乃護助給波牟力尓依天之。御躬波安万利平支給牟止。所念食止奉憑流止申給布天皇詔旨乎申給波久止申」とある箇所に求められている。伴信友の言っていた「大同」(806~810)の頃にほど近い時期に当たる。おそらく、伝承のとおり、その頃にイナリを稲荷と書き記す「発明」をしたのを契機として、イナリ信仰に狐が神の使いとして定着したということであろう。延喜式・神名帳にも、「稲荷神社三座並名神大。月次新甞」とある。
山城風土記逸文に、「伊禰奈利」とあるイネナリが音転してイナリと訛った。そのイナリという音に、「稲荷」という字を当てた。イナリをイナ(稲)+ニ(荷)と表すのはおかしいと思われるかもしれないが、もともとのイネナリは稲のたわわに稔ることを表している。稲穂が頭を垂れている様が思い浮かぶ。まっすぐに上を向いて葉茎が伸びていたものが、秋になって稲穂を筆頭に斜めに傾いてくるのである。斜めのことはハスという(注4)。ハスに構えるといったり、筋交いのことをハスカイなどという。そうなって初めてイネナリになる。イネは、ハスに稔ったらはじめて荷物になるように俵にすることができるのである。外側は藁、内側は籾である。上にあげた播磨風土記・揖保郡条に、「御橋山 大汝命、俵を積みて橋を立てましき。山の石、橋に似たり。故、御橋山と号く。」とあったのは、米俵とは稲の荷だから、斜めのハスカイ状に積まれていって、斜めに架け渡すはしご階段のことをいう橋になったと言っているわけである。ハス、ハシの音と意味との連動性から地名譚が作られている。
また、植物のハスを表す漢字としては、蓮は実、藕は根、荷は葉を表す。ハスの葉は食器として、また、飯や味噌を包んで保存するために用いられた。万葉集にも歌があり(注5)、ハスの葉が実用されていたことがわかる。つまり、荷という字は、ハスの葉の意味においても、食糧保存容器であり、俵の義を示しているのである。
種籾俵、イナル
俵は、実用の当初の目的として運搬用であったか定かではない。特に米俵の場合、貯蔵用、種籾保管のために用いられた可能性が高い。刈り取り前に品種別に抜穂したり、刈り取った後に良い穂の束を選び、それを扱箸で脱穀(脱粒)し、篩や箕で選別し、ふさわしいもののみを種子籾とした。さらにそれをよく乾燥させてすぐには発芽しないようにしたのち、俵に入れて保存した。自家食用のものは、刈り取ったままニオとして積んでおき、食べる時ごとに脱穀していったものと考えられている。しかし、種籾俵は、囲炉裏の上や土間の天井に枠を組んで置いたり、種籾倉や納屋の天井に大切に貯えられた。鼠の害から防ぐため、梁から太縄で吊るして保存されることもあった。早川1973.に、「また家敷の近くの畑や田の畔等に、四本柱を立て、屋根を葺いた櫓様のものを造って、それに貯える土地もある。これはもっぱら鼠害を防ぐと言って、脚部に杉の枯葉などを絡みつかせたものもある。名称は判らぬが、古風な種子貯蔵法と見られる(石見、長門等に見る。左図参照)」(501頁)とある。

倉の米俵は富に違いない。農本主義でその富を生み出す生産の三要素は、自然(田と水と日光など)、資本(金ではなく籾)、労働力(農民たる「百姓」)である。資本の籾を鼠から守る重要な役割を、杉の葉が担っている。よって、伏見稲荷大社では、しるしの杉を大切なものとしてきている。山城風土記逸文に、「抜二社之木一 殖レ家祷祭之」とある。何の木か記されないが、スギの木であると信じられている。所以について他の説は行われておらず、米倉の守りとしての杉の葉に由来するものと認められている。「今殖二其木一 蘇者得レ福 殖二其木一 枯者不レ福」とあって、「福」という語が用いられている。富はその時、当該年の収穫である。種籾を守れば翌年、その翌年へと続く収穫の連続、すなわち、福をもたらすということである。サキハヒとは、幸が這うようにのびてゆくことである。
種籾と俵との関係については、根木2005.に、種籾の保存上の、温度、湿度管理についてさまざまな条件が検討されている。しかし、イネは他のイネ科植物同様、なかなかに丈夫な発芽力を持っており、実用性からは種籾俵で保管する特段の意義は見出せない。むしろ、翌年の農作開始時、苗代に種子籾を蒔く過程での発芽促進のひと手間に関わるものであろう。すなわち、種籾を水に浸して発芽を促す際、俵ごと木の棒などで重しとして押さえ、種子浸けしたのである。ばらばらなままの種籾を苗代に蒔くと浮いてしまい定着せず、発芽までに時間もかかり、鳥についばまれる危険性も高い。そこで、春の彼岸の頃に種籾俵ごと川や池に水没させ、20日ほど浸してから取り上げて俵を開き、莚に種子籾を広げておく。すると、2~3日して籾の割れ目から芽が出てくる。この若干発芽した種籾を苗代に蒔き、苗として成長させた後に田に植えた。
種籾を鼠の害から防ぐために用いられた方法としては、しるしの杉へと発展したと思われる杉の葉を使う以外に、梁から吊るして保存される場合があった。この、梁から吊るされる俵と似た情景が、産屋の習俗に残っていた。瀬川1980.には、「滋賀県高島郡西庄村(現、マキノ町)では、「コヤドは七十五日藁の枕」「コヤドの藁を、毎日一把ずつ捨てて、しまいになるともとの身体になる」などというが、昔の出産は座り産で天井から吊した力綱にすがるか、枕上に高く積んだ米俵または藁枕によりかかって産むのであった。横臥すると難産になると信じられていたのである。」(82頁)とある。また、大藤1967.にも、「母屋の棟の下で産をする場合は、どの部屋を使うかは土地によってかならずしも同じではないが、大体はふだんの寝室であるナンド、またはヘヤとかヒヤ、ネマ、チョウダ(岐阜県吉城郡坂下村)とよんでいるところを使うのが普通になっている。……「三州奥郡産育風俗図絵」によれば、この地方では、……図に見るような天井から下がる力綱をとることも、産婦がよりかかって休息するわらを入れた俵も[以前はあったが、今では]用いられなくなった」(27~28頁)とある。



種籾俵が納屋に吊るされる様と、妊婦が産屋で力綱にぶら下が様の類似性は、ともに新しい命を誕生させることを連想させるものである。命の誕生が、今日と比較にならぬほど難しい状況にあった前近代にあっては、文字通りすがる思いでの習俗になっていたと推測される。そして、このタハラ(俵)をめぐる風習は、ハラ(腹)と関係があると思われたのであろう。赤子が無事に産まれるには、経験豊かな産婆が欠かせない存在であった。産婆は、コズヱババと呼ばれるように、子をこの世に据える存在であり、命を生かすかどうかを決める婦、命婦であって、老女をいう専女でもあった。だからこそ、伏見稲荷の命婦社に狐は祀られ、倭姫命世記や御鎮座伝記に、その神は「専女」でもあると記されるのである(注6)。
イナリ信仰の源泉となるイナリという語の動詞形について検討する。記に、次のようにある。
其地より幸行でまして、忍坂の大室に到りましし時、尾生ふる土雲八十建、其の室に在りて待ちいなる。故爾くして天つ神の御子の命以て、饗を八十建に賜ひき。是に、八十建に宛てて、八十膳夫を設けて、人毎に刀を佩けて、其の膳夫等に誨へて曰ひしく、「歌ふを聞かば、一時共に斬れ」といひき。故、其の土雲を打たむことを明せる歌に曰はく、
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭槌い 石槌い持ち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子らが 頭槌い 石槌い持ち 今撃たば宜し(記10)
といふ。如此歌ひて、刀を抜きて一時に打ち殺しき。(神武記)
この「待伊那留。此三字以レ音。」のイナルについて、他に用例がなく、今のところ、唸ることと関係があろうかとしか説かれていない。土雲八十建の正体もわからず、不詳とされている。ただ、久米歌として知られる記10番歌謡に、「人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも」とある。これは、室のなかに入って座って待機している様子を示している。また、賊には尾があると記されている。それをイヌのことと仮定してみると、イヌにお座りをさせた形、しゃがんだ様子を表していると受け取れる。そして、食べ物を与えている。イヌは鼻をクンクンと鳴らせながら、お座りしてじっとこらえて待っている。つまり、イナルという語は、イヌ(犬)+ナル(鳴・成・如)の約で、後足を畳みつつ前足は立てて三つ指をつくようにしていながら、k音を発してしきりに鳴くことをいうものと推測される。それは、同じイヌ科のキツネがしばしばとる、しゃがんだ姿勢でコンコンと鳴くことによく似ている。室にたくさんいてみな尻を地につけていたとあるのは、キツネの巣とされる狐穴のことが念頭にあったに違いない。


神武記にある枕詞ミツミツシは、クメ(久米)に掛かる。この言葉の連関には、比比丘女とも呼ばれる遊戯、子とろ子とろをもじっている。産婆の「専女」ともかかわりがある。子とろ子とろは東アジアでは鶏と深く関わった遊戯で、水稲稲作の流入と相俟っていると指摘されている(注7)。神武記に見られる土雲八十建の話は、ふだんから自然界と積極的に密接に関わっていたからこそモチーフとされ、創作されたものと捉えられる。室にイナルところのイヌ科の動物、イヌ、ないし、キツネといった多産の獣に対して、ミツミツシ=クメノコなる子連れのニワトリが取って代わるという主題が通底している。産屋に俵が付きまとっていたことも相同である。現在でも安産祈願に訪れる水天宮では、犬の置物が配られている。
イナルという語が上のように把握されるとすれば、イネナリ社がイナリ社へと訛った段階からして、後足を畳みつつ前足を立ててしゃがみ座りするキツネのことが連想されていたことになる。文献上、稲荷信仰は中古に始まると認められるものの、イナリを稲荷と記して俵のことを想起させ、コムコム(米籠)と鳴くことを掛け合わせて狐を神のお使いとしたことの発端としては、上代の観念体系、すなわち、ヤマトコトバからして条件が整っていたと見定められる。舒明紀に、「天狗」と書いてアマツキツネと訓む箇所があった。雷のゴロゴロとキツネのコムコムの音が似ていたこと、狗の字にある句に「曲也」(説文)の意味があり、後足を畳むことがイヌにもキツネにも見られる特徴によったものであろう。民俗学では、狐と田の神との関連性が指摘されて通説化している(注8)。筆者はここに異論を唱えたが、諸説への反論は本稿の主旨から大きく離れる。
以上、コムコムと鳴く神使いの狐が活躍する理由は、その昔のコムコムの俵との洒落に確かなものとなったものであると述べた。
初午
稲荷社へ初詣に参拝する日として、古くから初午の日が好まれている。その理由については、五来2010.に、「これを要するに、稲荷神は稲荷山の山神で麓の民の耕作をまもり、稲や穀物の根元をつかさどると信じられた。その化身動物は狐であったが、これを麓の田や畑にむかえるには馬や絵馬をもってした。その時期が旧二月の耕作初めだったので、馬にちなんだ旧二月の午の日、すなわち初午が縁日になったのである。」(38頁)とある。民俗学に、田の神は馬に乗るのだとの解釈が通行している。しかし、身近な例として、お盆にご先祖様は胡瓜の馬に乗って来て、茄子の牛に乗って帰るとされている。さらに、伏見稲荷の場合、古くは山の頂に社は建っていた。枕草子に、「稲荷に思ひおこしてまうでたるに、中の御社のほど、わりなうくるしきを、念じのぼるに、いささか苦しげもなく、おくれて来とみゆる者どもの、ただいきに先に立ちてまうづる、いとめでたし。二月午の日の暁にいそぎしかど、坂のなからばかりあゆみしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、など、かからでよき日もあらむものを、何しに詣でつらむとまで、涙もおちてやすみ困ずるに、四十余ばかりなる女の、壺装束などにはあらで、ただひきはこえたるが、『まろは七度詣でし侍るぞ。三度は詣でぬ。いま四度はことにもあらず。まだ未に下向しぬべし』と、道にあひたる人にうちいひて下りいきしこそ、ただなる所には目にもとまるまじきに、これが身にただいまならばやとおぼえしか。」(158段「うらやましげなる物」)とある。
稲荷社ばかり初午詣を偏重する理由は、田の神や絵馬以外に求めなければならない。本稿で、イナリ信仰は、「稲荷」という字を宛がう発明をもってコムコムと鳴く狐と確かに深くまつるように進展していったと考えてきた。枕草子の例は、山の頂の稲荷社へ歩いて詣でるのがたいへんであるとの言い分である。稲荷社には馬に乗って行きたいとの願望もあるかと思われる。万葉集に頻出する「社」の字はコソと訓む。係助詞の意である。つまり、「稲荷社」という字面は、山頂に祀られる稲荷の方こそ来て欲しいという意味に受け取れる。そして、本稿では、稲荷を米俵のことと見ている。稲を荷物とした俵を馬が運ぶ様子は、石山寺縁起絵巻などにしばしば描かれている。租として都に運ばれた初荷の新米ほど、美味なるものはなかったに違いない。だから皆が希求した。食べればわかる、ウマシ(旨・甘・美)である。よって、稲荷社への参詣には初午の日が選ばれた。稲荷社とは、米を籠メたる俵こそ来メ(コ・メはいずれの場合も乙類)という洒落である。俵はタハラ(田原)だから、山の頂のような急峻な場所ではなく、平らな行きやすいところとのニュアンスすら感じられ、稲荷社のある稲荷山という語は、自己矛盾したおもしろい語であると思われたのであろう。その矛盾を解決してくれるキーワードがウマ(馬・旨・美)であった。

人は言葉によって考える。大多数の人がそうだね、そのとおりだね、と納得できることでなければ、長い年月、時代を越えて人々に受け入れられ続けるはずはない。そのもとが無文字時代、あるいは、無文字生活が一般的であった時代ならばなおさらである。諳んじられないことは考えられず、広まることはない。言葉は音声言語でしかなかった。考えるとは、頓智を働かすことであった(注9)。
(注)
(注1)五来2010.では、伴信友の『験の杉』において、狐と稲荷の関係は密教の陀祇尼天(荼吉尼天)によるとしている説を批判している。狐の古語はケツネであり、ケは朝餉などのケ、ネは根で、食の根源を示すものであるからという。
それ[伴信友『験の杉』であげた重要な史料]は鎌倉時代以前にできた神道五部書の『倭姫命世記』と『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(略称『御鎮座伝記』)で、前者に、
御倉神。専女也。保食神是也。
とある専女は狐のことで、これが保食神、すなわち宇迦之魂神である稲荷神とおなじだという。また後者に、
御倉神三座。素戔嗚尊子、宇賀之御魂神。亦名専女。三狐神。
とある三狐神はミケツ神とよみ、「御饌津神」とおなじであろう。伴信友翁はここで割注をくわえて、
今山城葛野郡松室の西の路傍に狐斎といへる小社あり、狐字を書てケツネとよめり。山城わたりの里人の中、また京人にも、賤しきものゝ中には、狐をケツネともいへり。他国にも然呼ふ処ありとぞ。
と重要な発言をしている。これで真宗徒の密書や陀祇尼天を引かないでも、稲荷は狐神であるということはもう一歩で結論づけられたものをと、私はたいそう惜しいとおもう。(28頁)
御倉神。専女也。保食神是也。
とある専女は狐のことで、これが保食神、すなわち宇迦之魂神である稲荷神とおなじだという。また後者に、
御倉神三座。素戔嗚尊子、宇賀之御魂神。亦名専女。三狐神。
とある三狐神はミケツ神とよみ、「御饌津神」とおなじであろう。伴信友翁はここで割注をくわえて、
今山城葛野郡松室の西の路傍に狐斎といへる小社あり、狐字を書てケツネとよめり。山城わたりの里人の中、また京人にも、賤しきものゝ中には、狐をケツネともいへり。他国にも然呼ふ処ありとぞ。
と重要な発言をしている。これで真宗徒の密書や陀祇尼天を引かないでも、稲荷は狐神であるということはもう一歩で結論づけられたものをと、私はたいそう惜しいとおもう。(28頁)
曼荼羅に描かれて伝わっているダーキニー像と、我が国の中世以降に描かれた狐に載った陀祇尼天(荼吉尼天、荼枳尼天、拏吉尼天)像とはずいぶんと印象が異なる。

古今著聞集・265「知足院忠実大権房をして咤祇尼の法を行はしむる事并びに福天神の事」に、狐の登場する話が載り、弘法大師行状絵詞に、稲を荷う老翁と大師との逸話が描かれるが、由来とするには十分ではないようである。
弘法大師行状絵詞・巻八・第三段、詞書に、「同[弘仁]十四年正月十九日、大師、恩詔を受け、東寺を賜はりて、永く真言の道場と為し給へり。其の年四月十三日、彼の紀州の化人、稲を荷ひ椙を持ちて、両婦を伴ひ二子を率ゐて、東寺の南門に来り、望み給ひしに、大師、逢ひ奉りて悦びを成し、誠を抽んでゝ、神徳を崇め、法味を酧め給ひし時、道俗、是を敬ひて、瑚璉を供へ、簠簋を献じ奉れり。其の後、暫く八条二階の柴守が宅に宿し給ふに、大師、其の間、帝都の巽に当たりて杣山を点じ、利生の勝地を定めて、一七ヶ日夜の間、法によりてぞ鎮壇し給ひける。今の稲荷の社、是なり。彼の八条の二階堂は、今の御旅所なり。大師、神輿を作り、額を書かせ給ひて参らせられしかば、今に、祭礼の時、是を出し奉るとなむ」とある。
狐の由来とする説には他の考え方もある。中村2009.に、「狐が稲荷神の使いとして見られるようになった理由にはいくつかある。ひとつは、狐の持っている尻尾の形態が稲穂に似ているという連想から来たという説がある。かつては日本中に狐は生息していたが、人家の付近にもよく出没し、人間にとってもなじみ深い動物だった。狐の甲高い鳴き声、鋭い眼光、素早い動作など、人々はその姿や習性を不思議に思い、狐を神の使いではないかと考えるようになった。……さらに、狐は農耕にとって害獣となる野ネズミや野ウサギを退治したり、小動物を追って水田の近くによく現れることから、農耕神の使いと考えられるようになったともいわれている。……問題は、そうして何世代にもわたって受け継がれてきたであろう「イナリ・イメージ」がわれわれの意識の深層にも蓄積されており、深層心理の次元ではなかば独立した意志を持った「意識場*3」になりうるということである。それがイナリの神と交感するとき、ご神徳、ご神威となって信仰者に体験されるのである。」、「*3 「意識場」とは人間を含む生命体の想念が作り出す集合的な意識をさす概念であり、精神と物質の連関作用を引き起こすと考えられている。」(58~59頁)とする。この考え方は奇異に感じられる。江戸期以降、農耕を知らない都市の商人に信仰されていることまで、往年の刷り込みによるとでもいうのであろうか。
(注2)鳥獣人物戯画・甲巻に、尾に狐火をつけ、ハスの葉を的にして弓を射る場面がある。そのモチーフは、山城風土記逸文と稲荷の字義によっている可能性がある。秦伊侶具の的の話と、狐、ハスの葉とが登場している。偶然の一致であろうか。後考を俟つ。

(注3)桟俵作りから身を起こす話が落語の「鼠穴」にある。
(注4)古く文献上の用例は見られないが、近世において柳多留に見えるように、俗語としてあり得た可能性を示す語である。
(注5)ひさかたの 雨も降らぬか 蓮荷に 渟れる水の 玉に似たる見む(万3837)
右の歌一首は、伝へて云はく、「右兵衛なるもの有り。〈姓名未だ詳らかならず。〉多く歌を作る芸を能くす。時に、府家に酒食を備え設け、府の官人等を饗宴す。是に饌食は、盛るに皆荷葉を用ちてす。諸人酒酣にして、歌舞駱駅せり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく、『その荷葉に関けて歌を作れ』といへれば、登時声に応へて斯の歌を作りき」といふ。
(注6)産婆と専女については、拙稿「ヤタガラスについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/54f3ec65ce7132af6c41aa9e5ad9db32ほか参照。
(注7)この点については、拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9e373aa9a09a27ff911394b6ad7d2077において考証し、比比丘女とも呼ばれる遊戯、子とろ子とろとの関係を見た。その際、産婆の「専女」との関係や、寒川2003.に引くEberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden, 1968.の説に、東アジアでは鶏と深く関わった遊戯であって、水稲稲作の流入と相俟っているとの指摘についてもふれた。
(注8)民俗学では、狐と田の神との関連性が指摘されて通説化している。柳田1999.、坪井1999.など参照。筆者はここに異論を唱えたが、諸説への反論は本稿の主旨から大きく離れる。
(注9)デリダ1972.に、「われわれはただ記号のうちでのみ思惟するのだ。(We think only in signs.)このことは、……まさに記号の要請が記号の権利という絶対性の中に認められるそのときに、記号の概念を破壊してしまう。超越論的な<意味されるもの>の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際限化(illimitation)であって、……世界における戯れのあらゆる形態を理解せんとする前に、まず考えねばならぬのは世界の〔という〕戯れである。」(103~104頁)とある。なお、デリダは、戦略的に「エクリチュール(écriture)」という語を使っている。記紀万葉に残されている無文字時代にあった上代人の言語活動の爛熟ぶりからは、西洋思想はなんとも迂遠な議論を行っていることよと哀れに思われてしまうものあろう。
(引用・参考文献)
大藤1967. 大藤ゆき『児やらい─そのけがれと神秘─』岩崎美術社、1967年。
大森2011. 大森惠子『稲荷信仰の世界─稲荷祭と神仏習合─』慶友社、2011年。
岡田2003. 岡田哲編『たべもの起源事典』東京堂出版、2003年。
五来1985. 五来重「総論─稲荷の現象学と分類学─」同監修『稲荷信仰の研究』山陽新聞社、1985年。
五来2010. 五来重『宗教歳時記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成22年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
瀬川1980. 瀬川清子『女の民俗誌』東京書籍、昭和55年。
坪井1999. 坪井洋文「神使としての狐」山折哲雄編『稲荷信仰事典』戎光祥出版、1999年。
デリダ1972. ジャック・デリダ、足立和浩訳『根源の彼方に─グラマトロジーについて(上)─』現代思潮新社、1972年。
中村2009. 中村雅彦「キツネが神使となった理由」中村陽監修『稲荷大神─お稲荷さんの起源と信仰のすべて─』戎光祥出版、平成21年。
日本国語大辞典 『日本国語大辞典第二版 第八巻』小学館、2001年。
根木2005. 根木修「水稲耕作における種籾貯蔵の意義」『龍谷大学考古学論集Ⅰ』同刊行会発行、2005年。
早川1973. 早川孝太郎「稲作の習俗」宮本常一・宮田登編『早川孝太郎全集 第七巻─農経営と技術─』未来社、1973年。
柳田1999. 柳田国男「狐塚の話」『月曜通信』(『柳田國男全集20』筑摩書房、1999年所収。)
※本稿は、2014年6月稿を改めた2019年9月稿を2020年3月に整理し、2024年4月にルビ形式にしたものである。