古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

雄略記の吉野の話─童女と阿岐豆野─

2021年09月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略天皇の吉野の童女の話と阿岐豆野の狩りの話は連続する話である(注1)。前後半に分けて見ていく。

吉野の童女

 天皇(すめらみこと)、吉野の宮に幸行(いでま)しし時、吉野川の浜(ほとり)に童女(をとめ)有り。其の形姿(かたち)、美麗(うるは)し。故(かれ)、是の童女に婚(あ)ひて、宮に還り坐(いま)しき。後に更に亦、吉野に幸行しし時、其の童女に遇ひし所に留りて、其処(そこ)に大御呉床(おほみあぐら)を立てて、其の御呉床(おほみあぐら)に坐して、御琴(みこと)を弾きて其の嬢子(をとめ)に儛(まひ)を為(せ)しめき。爾くして、其の嬢子が好(よ)く儛ひしに因りて、御歌を作りき。其の歌に曰く、
 呉床居(あぐらゐ)の 神の御手(みて)もち 弾く琴に 儛する女(をみな) 常世(とこよ)にもがも(記93)

 天皇が吉野を再訪したときの部分について、実のところ訓み方が定まっていない。従来行われていた訓み方は(a)であり、新編全集本古事記の訓み方は(b)である。
(a)後、更亦、幸-行吉野之時、留其童女之所一レ遇、於其処大御呉床而、坐其御呉床、弾御琴、令其嬢子
 後に、更に亦、吉野に幸行(いでま)しし時に、其の童女(をとめ)の遇ひし所に留まりて、其処(そこ)に大御呉床(おほみあぐら)を立てて、其の御呉床に坐して、御琴を弾きて、其の嬢子(をとめ)に儛(まひ)為(せ)しめき。
(b)後、更亦、幸-行吉野之時、留其童女之所三レ於其処、立大御呉床而、坐其御呉床、弾御琴、令其嬢子
 後に、更に亦、吉野に幸行(いでま)しし時に、其の童女(をとめ)が其処に遇へるを留めて、大御呉床(おほみあぐら)を立てて、其の御呉床に坐して、御琴を弾きて、其の嬢子(をとめ)に儛(まひ)を為(せ)しめき。

 新編全集本古事記に、「例の乙女が再びその場に現れたのをとどめての意。この「遇ふ」は、出会った相手を主格に立てて、その出会いが偶然であることを表す用法。……なお、通説では「(天皇は)其の乙女が遇ひし所に留まりて、其処に大御呉床を立てて」のように読み、その「遇ふ」は、最初に天皇が乙女に出会った時のことを指すものと解する。しかし、ここは、乙女が再び現れたことをいう文脈と解すべきである。」(344頁)と解説されている。
 この二通りの訓み方に、「留」という動詞の使い方が異なることになる。(a)では天皇の行幸の鹵簿が「其処」に留まっているが、(b)では天皇が童女を「其処」に留めている。自動詞と他動詞の違いである。「其処」がどこかといえば、「吉野川之浜」なのであるが、その「吉野川之浜」に童女に「有」ったところである。天皇の童女との最初の出会いの場、「其処」であることに違いなく、何を言い淀んで「其処」と言っているのであろうか。
 最初の童女との出会いにおいて何をしているのか理解されなくてはならない。吉野川の浜に童女がいて、きれいだから童女と「婚」し、そうしておいて、宮に還って御座している。この「宮」は宮都である長谷の朝倉宮とも考えられることが多いが、吉野宮とも考えられる。定められないように書いてあるのは、表立って記したくない事情があるからであろう。すなわち、天皇は童女を吉野宮へ連れ帰っておらず、ということは、宮で「婚」したわけではないということである。「吉野川之浜」で青姦に及んでいると考えられる(注2)。だから、その場所について、再訪したときに、「其処」という言い方で表しているようである。したがって、訓み方としては(a)のように訓むのが正しいのであろう。

 後に、更に亦、吉野に幸行(いでま)しし時に、其の童女(をみな)の遇ひし所に留まりて、其処(そこ)に大御呉床(おほみあぐら)を立てて、其の御呉床に坐して、御琴を弾きて、其の嬢子(をとめ)に儛(まひ)為(せ)しめき。

 天皇の吉野再訪記事に、青姦行為に及んだ「其処」に鹵簿を停留させ、「宮」ではないが陣を構えて「立大御呉床」、鎮座している。そして、「童女」=「其嬢子」に「儛」を舞わせている(注3)。以前童女と遇った所にいれば再び遇えると思っているのは、そこが童女の生活圏であり、水汲みに「吉野川之浜」に来ることは必定だからである。この訓が正しいのは、「婚」字をアフと訓むところに確かめられる。かつて、「吉野川之浜」で「遇」った「童女」(今は「嬢子」)と「婚」っている。ふつうなら「宮」に迎えて「婚」うはずのところ、「其処」で事はすべて済んでしまっている。
 下賤のものとはいえ、宮に迎えてその地に伝わる舞いを舞わせるなどして宴を楽しみ、しかる後に事に及ぶのが常識的な考え方であろう。そうならないところに、雄略天皇の人物像が投影されている。アフというのはそういうことだろう、という思考の論理がこの天皇にはあった。一種のコミュニケーション障害と呼んでも差し支えない。紀には、狩りに行って、「猟場(には)の楽(たのしび)は、膳夫(かしはで)をして鮮(なます)を割(つく)らしむ。自ら割らむに何与(いか)に」と群臣に問いかけ、何を言っているのかわからないので答えないでいると、側にいた御者を斬り殺してしまっている。それを聞いた皇太后は、宍人部(ししひとべ)を置いたらいいと言っているのが通じなかったのだと諭している(雄略紀二年十月)。また、別の狩りの折、昂奮した猪が突如現れたので猟徒は樹にのぼって逃げた時、天皇は「猛(たけ)き獣(しし)も人に逢ひては止む。逆射(まちい)て且(また)刺(さしとど)めよ」と命じたが、恐がって降りてこなかった。そこで天皇は斬り殺そうとしたが、皇后が止めに入り、猪のことで殺すのでは狼と同じではないかと諭した。天皇は狩りへ行って禽獣でなく、いい言葉をえたと喜んで帰路についている(雄略紀五年二月)。
 これらでは皇太后や皇后らの諭しもあって天皇は考えを改めている。言葉の捉えようのことだから訂正しようと思えば訂正できるのである。同様に、記の当該記事でも、後から帳尻を合わせるように再訪して陣幕を張ってそれらしい場を設けて自ら琴を弾き、舞を舞わせてよく舞ったから歌を作り、形を整えている(注4)。儛(まひ、ヒは甲類)は幣(まひ、ヒは甲類)と同音で、神への捧げものだから「其嬢子之好儛」によって天皇は免罪されている。その判断は、神が行うわけであるが、それが行われたと歌に歌っている。琴(こと、コ・トは乙類)によって事(こと、コ・トは乙類)は都合よく解釈され、結果的に自敬表現になって自分のことを神だと考えるに至っている。雄略天皇の何様ぶりが貫徹され、万事問題なしということで幕引きとなっている。陣幕だけにである。

阿岐豆野の狩り

 雄略天皇に行為が先行してあとから事の真意に気づくところのあったことは、記にも反映されている。記において次に続く阿岐豆野の話との連繋に見て取ることができる。話がひと段落して次の話を始めるときには、「亦、一時(あるとき)」、「又、一時」、「又」などと接続させている。前者とは別の話をしますよという符号になる。対してこの箇所では、「即(すなは)ち」と続いている。吉野の童女の話につづけて「即」、阿岐豆野の話になっている。前後で類似する点は、どちらも吉野地方のことであること、いずれも「御呉床(みあぐら)」に座っており、終わりに「御歌」を歌っていることである。単に同じ吉野行幸時の話ということではなく、前後の話は関係がありますよという符号が「即」である(注5)

 即ち、阿岐豆野(あきづの)に幸して、御獦(みかり)せし時に、天皇、御呉床(みあぐら)に坐(いま)しき。爾くして、𧉫(あむ)御腕(みただむき)を咋(く)ひしに、即ち蜻蛉(あきづ)来て、其の𧉫を咋ひて飛びき。蜻蛉を訓みて阿岐豆(あきづ)と云ふ。是に、御歌を作りき。其の歌に曰く、
 み吉野(えしの)の 小室(をむろ)が岳(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)そ 大前に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 呉床に坐し 白栲(しろたへ)の 袖着そなふ 手腓(たこむら)に 𧉫掻き着き 其の𧉫を 蜻蛉はや咋(ぐ)ひ 斯(か)くの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ(記97)
 故、其の時より、其の野を号けて阿岐豆野と謂ふ。(雄略記)(注6)

 この狩りはうまくいったのであろうか。これまでの研究に歯牙にもかけられていない。しかし、冷静に考えればわかるように、猟果はなかったものと思われる。自敬表現(注7)を使いながら誰が奏上したのかと言い、出張って陣中に御呉床、折り畳み式簡易腰掛に座っているとアブに嚙まれ、それをトンボが食っていったなどといった歌が歌われ、倭の国はアキヅシマと呼ぶのだと感慨に耽っている。イノシシ・シカの話にならずにアブやトンボの話になっている。奇妙奇天烈な話なのだから、何が言いたいのかきちんと論じられなければならない。新編全集本古事記に、「虫にも奉仕される帝王を語る話である。」(345頁)と、紀75歌謡のなかの表面的な語り口をそのままに発展させる解釈が行われるにとどまっている。
左:埴輪(矢負いの猪、伝千葉県我孫子市出土、古墳時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016907をトリミング)、右:巻狩(浜松歌国・摂陽奇観、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226419/77をトリミング結合補正)
 阿岐豆野へ行っているのは、「御獦」、狩猟が目的である。「小室(をむろ)が岳に 猪鹿(しし)伏す」と言ってきたものがあって、その山麓にあたる阿岐豆野へ出向いて狩りをしようとしている。山のなかに勢子(注8)が入って山から猪や鹿を追い立て、出て来るのを待っていて弓矢を使ってハンティングしようとしている(注9)。弓矢を使う猟は鉄砲の普及によって途絶え、今日でも禁止されていてそのあり様は不明なところが多い。基本的には弓矢を当てて獲物を瞬殺させないまでも出血させて弱らせ、跡をつけていって捕えるというものであったと考えられる(注10)。もちろん、弓の腕が高くなければ動く標的であるイノシシやシカを射当てることはできない。そのためにはふだんから弓術をたしなんでおく必要がある。草鹿のような的もあるが、まずはふつうの的で練習したであろう。丸く円を何重かに描いた的を盛り上げた土に立てらせ、それを少し離れた位置から射るのである。その盛り上げた土のことを射垛(あむつち)と言い、アヅチとも言う。和名抄に、「射垛 唐韻に云はく、垛〈他果反、字は亦、垜に作る。楊氏漢語抄に、射垛は以久波土古路(いくはどころ)と云ふ。世間に阿無豆知(あむつち)と云ふ。今案ずるに、又、堋の字を用ゐ、音は朋とす。〉は射垛也といふ。四声字苑に云はく、垛は埾也といふ。」とある(注11)
射垛(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596366/31をトリミング)
 話のなかに「𧉫(あむ)」が登場する所以である。アブに噛まれると炎症を起こしてふくらんでしまう。射垜状態になっていて、「𧉫、咋御腕」の結果、腕は全体的に肉の盛りあがった「手腓(たこむら〔多古牟良〕)」になっているとも考えることも可能である。ただ、最初から手腓的になっていたところへ嚙みついたと考えるのが適当であろう。「白栲の 袖着そなふ 手腓」とは何か。袖を着て備えている。狩り用の服をきちんと着ていて腕まくりなどしていない(注12)。これは狩りの時に着る装束の袖にあしらわれた籠手のことを指しているのであろう。高忠聞書(就弓馬儀大概聞書、寛正5年(1464))に、「一、野山の狩の籠手は、すあをの袖のちいさき物なり。右の袖へ縫つゞけたる物也。指にかくる革もなし。 今程の籠手をばさゝぬなり。昔の籠手と云は、只すあをの左の袖をちいさくぬひたるなり。」とあり、狩詞之記(就狩詞少々覚悟之事、新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100211182/viewer/7参照)はそれを引き、「さる間すわうの紋あるべし。」と続けている。素襖の袖を先細に縫ったものを籠手袖と呼ぶことがあった(注13)。ニッカポッカ調にふくらんで鞆と同じ役割を果たしているところを手腓と形容し、そこにアブが取りついたとの謂いであろう。場所は二の腕の力こぶのできるところではなく、前腕の手首から肘までの個所に当たる。𧉫(あむ)は垜(あむつち)ではなく、手元に止まっている。
 そこへ蜻蛉(あきづ)、トンボがやってくる。トンボは飛ぶ棒の意とされている。飛ぶ棒と言えば弓矢に使う矢のことが思い当たる。食糧獲得のための狩猟には長い柄をともなう槍類も使うが、投げる棒であり飛ぶ棒と表現するのには少し違うようである。矢が飛んできてアブをさらって飛び去っている。離れたところに的を据える垜(あむつち)に𧉫(あむ)は行かず、飛ぶ棒であるトンボも手元で標的に命中して咋い去っている。つまりは、弓矢を使うことがなかったということである。
 的のことはイクハとも言ったから、射垜のことをイクハドコロとも呼んでいる。イクハはイ(五十)+クハ(鍬)の意にも聞こえる。射垜を作るのは意外に重労働で、鍬を上手に使って盛り土を固める必要がある。そして、たくさんの鍬によって一気に耕す農具に馬鍬(うまぐわ、まぐわ、まんが)がある。田の代掻きに用いられている。田んぼにイネを植える前の最後の工程である。ここに水田は完備されることになる。水田が広がるとトンボの生育環境は整う。垜を馬鍬が均すほどに水田稲作が展開していっている。本来なら、水がかりが悪いから野と称されるところにまで、棚田を作って稲作が行われている。
馬鍬代掻き図(六道絵模、松平定信・古画類聚、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0029535をトリミング)
 「小室(をむろ)が岳」からは水が浸み出して灌漑用水になっている。あるいはそれは、シシ(宍、猪鹿)ではなくてシシ(小便)のことを指しているのではないか(注14)。なぜ「小室が岳」から少しずつ水が浸み出しているかと言えば、ヲムロが山の高いところに設置されている氷室、氷の貯蔵庫で、すこしずつ融け浸み出しているという意を表しているのであろう(注15)
 すなわち、「み吉野(えしの)の 小室(をむろ)が岳(たけ)に 猪鹿(しし)伏す」と言って来た者の言い分は、伏流水があって浸み出していると言ってきたのかもしれないのである。それを聞き違えて、動物が隠れている岩室がある岳だから絶好の猟場ではないかと狩りに出かけたが、アブに刺されてしまった。そのアブを、広がる水田に大繁殖したトンボがすぐさま食ってしまった。的に矢が当たることが離れたところではなく、手元の袖のところで完了してしまっている。それはそれで一つの狩りに譬えられると天皇は合点したという話である。狩りのことは田猟という。「田」(雄略紀五年二月)をもって狩りに当てている漢字の用法にマッチするものでもあった。田んぼの開墾術も漢字も中国から伝来している。

名に負はむと

 記97歌謡に、「名に負はむと」という表現がある。この表現について、「名として持とうとして」、「名を負い持とうとして」と解され、助動詞「む」は意志の意であるとする見方が多かった(注16)。それには、蜻蛉が倭の国の名を自分の名として持とうとして𧉫を咋ったのだとする考えと、雄略天皇が蜻蛉の𧉫咋いを目にしてその名を国名に負わそうとしたとする考えが行われてきた。しかし、「そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ」という文言はすでに定着していたと考えられる点と矛盾を来すとして別案が試みられている。
 新編全集本古事記を解説する形で、金澤2017.は、「「名に負ふ」を「名にふさわしい」、そして「む」を推量の助動詞」(6頁)と述べている。「このように蜻蛉島の名にふさわしいだろうと思って」と解釈し、「蜻蛉が大君を守るのは、「蜻蛉島」の名にふさわしいだろうと思っての意。……「名を負ふ」は別義で、名を持つの意。」(新編全集本古事記345頁)としている。金澤2017.は、万葉集の「名に負ふ」の例から、それを、「伝統や歴史の古さ、またその景物の持つ美しさ尊さなどにより、高名なその「名」に相応する実体が伴っているという事を、多くは感動を伴って実感(または要求)し、讃美されるその名にふさわしくある、という意味」(8頁)と捉えている。そして、「雄略天皇の歌の「名に負ふ」も、倭の国の別名である蜻蛉島の名を持つ蜻蛉という虫のその名に、天皇の腕に噛み付いた虻を素早く咥えて飛び去るという相応しい実体が伴っている事を実感した雄略天皇が、蜻蛉を「(なるほど)その名にふさわしいのだろう」と改めて確認し、蜻蛉を讃美した表現だと捉える事ができる。」(9頁)と解している(注17)
 「名に負ふ」と「といふ」の対照関係をもつ形は、万葉集に次の例がある。

  背(せ)の山を越ゆる時、阿閇皇女の作りませる御歌
 これやこの 大和にしては 我が恋ふる 紀路(きぢ)にありといふ 名に負ふ背の山(万35)
  越勢能山時阿閇皇女御作歌
 此也是能倭尓四手者我戀流木路尓有云名二負勢能山

 この歌の場合、「といふ」の対象と「名に負ふ」の対象はともに紀伊国の「背の山〔勢能山〕」である。ただし、厳密にいえば、「我が恋ふる」対象は「背」であって、その「背」を「名に負ふ」のが「背の山」である。記97番歌謡の場合、「といふ」の略形、「とふ」のは「蜻蛉〔阿岐豆志麻〕」であるが、「名に負はむ」のは「阿岐豆」であり、この微妙な違いを無視することはできない(注18)。すなわち、「…… 斯(か)くの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ」(記97)という歌において、「…… 斯くの如 名に負はむと」と「そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ」とは別文であると考えられる。「…… 斯くの如 名に負はむと 阿岐豆野といふ」になっていないのである。「…… 斯くの如 名に負はむと(す)」というところを略して後文を継いでいると捉えるべきで、引用の助詞「と」を挟んだ「むとす」は、~しようとする、の意である。大君が獣の出てくるのを待って呉床に腰掛けて白栲の袖をまくっていた腕のふくらんだところに虻が掻きついたらすぐにその虻を蜻蛉が食って、といった事情で、高名な名を負おうとしてのことであった、と述べている(注19)。蜻蛉の意志を強く感じるから、結果的にアキヅノと言うようになったとするのである。すでに定着していた命題、「そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ」は、その説明に添えられたものと考えられよう。あの、名高い、蜻蛉島に同じように、この野のことを、アキヅノと名に負おうとしてのできごとであったのだ、と歌っている。
 「そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ」については、神武紀にその言い始めとする記述がある(注20)

 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿(すめらみこと)巡り幸(いでま)す。因りて腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのをか)に登りて、国の状(かたち)を廻らし望みて曰はく、「姸哉乎(あなにや)、国を獲つること。姸哉、此には鞅奈珥夜(あなにや)と云ふ。内木錦(うつゆふ)の真迮(まさ)き国と雖も、猶し蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めて秋津洲(あきづしま)の号(な)有り。昔、伊弉諾尊、此の国を目(なづ)けて曰はく、「日本(やまと)は浦安(うらやす)の国、細戈(くはしほこ)の千足(ちだ)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくに)。秀真国、此には袍図莽句爾(ほつまくに)と云ふ。」とのたまふ。復(また)、大己貴大神、目けて曰はく、「玉牆(たまがき)の内国(うちつくに)」とのたまふ。饒速日命、天磐船(あまのいはふね)に乗りて、太虚(おほぞら)を翔行(めぐりゆ)きて、是の郷(くに)を睨(おせ)りて降(あまくだ)りたまふに及至(いた)りて、故、因りて目けて、「虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国」と曰ふ。(神武紀三十一年四月)

 そういう言い慣わしに同じく、今回、「み吉野の 小室が岳」の山麓にひろがる野においても、同様にアキヅという名を冠して名づけることができるではないか、というために、「そらみつ 倭の国を 蜻蛉島」って言うじゃないかと、大命題を添え述べている。
左:蜻蛉の翅(ウィキペディア、Sathya K Selvam様、ウスバキトンボ「成虫(オス)」https://ja.wikipedia.org/wiki/ウスバキトンボをトリミング)、右:棚田(ウィキペディア、Kiwachiiki様「丸山千枚田」https://ja.wikipedia.org/wiki/丸山千枚田をトリミング)
 それが確かなのは、猪鹿(しし)狩りの場であるはずの野が開墾されて、トンボの翅の文のように畔を築いて棚田に水を張ってきらきらと輝くに至り、秋には稲刈りの場へと変貌を遂げていることを表しているからである。狩りに来ていたはずの雄略天皇は、この現実を目にして、嬉しいではないか、楽しいではないか、国土は開発されて行っている。趣味・娯楽としての狩りはできなくなっているが、刈りはできるようになっていて、それは我が治世の進展を意味するものだというのである。錯誤と同意を一つの言葉のうちにまとめている。雄略天皇の言語作法に添わせながら話に盛り込んでいるわけである。
 このように、雄略記に載る一連の吉野の話は、発せられた言葉に、それと同音の言葉の意味が覆いかぶさってきて逐次逐語的に意味の重層性を有するものになっている。それは、口頭言語が口頭言語として話(咄・噺・譚)のレベルで生き残り、伝え続けられるという本願達成のために必須の技巧であった。とりわけここでは雄略天皇像を投影させて判断の錯誤と絡めた説話となっており、構造的にまで有るべくして有る説話なのである。無文字時代の言語活動は我々が馴染んでいる文字時代のそれとは異質なのだから、記紀の説話を検討、考察するに当たっては、言葉に対する考え方の規準、前提から捉え直すことが求められている。 

(注)
(注1)原文は次のようにある。むろん、返り点や句読点はなく、字体や行も整ったものではない。
 天皇幸-行吉野宮之時、吉野川之浜、有童女、其形姿美麗。故、婚是童女而、還-坐於宮。後更亦幸-行吉野之時、留其童女之所一レ遇、於其処大御呉床而、坐其御呉床、弾御琴、令其嬢子。爾因其嬢子之好儛、作御歌、其歌曰、
 阿具良韋能 加微能美弖母知 比久許登爾 麻比須流袁美那 登許余爾母加母
即幸阿岐豆野而、御獦之時、天皇坐御呉床。爾𧉫咋御腕、即蜻蛉来、咋其𧉫而飛。蜻蛉阿岐豆也。於是作御歌、其歌曰、
 美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 多礼曽 意富麻幣爾麻袁須 夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志麻都登 阿具良爾伊麻志 斯漏多閇能 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐都岐 曽能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登 那爾々淤波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布
 故、自其時、号其野阿岐豆野也。
(注2)井上2015.に「じっさい、屋外での性交は、……ごくふつうにおこなわれていた。日本の、とくに農山村漁村では、あたりまえの慣行だったのである。すくなくとも、今日のようにやや変態的なイメージでながめられることは、なかったろう。」(31頁)とある。
 中西2007.に、琴を弾いて舞をまう件は後に新嘗祭に行われた五節の舞の起源を語るものとし、それが主たる話だから前段の「婚」の話に求婚譚、恋愛譚が不在となっているとする説が述べられている。口頭言語に割愛して済まされる話などありえない。
(注3)記の表記に、「童女」→「嬢子」と転換させている。記95歌謡中にヲミナとあるのにかかわらず、訓み方はともにヲトメとされており、年齢の進行について不明確な呼称である。天皇は年端のいかない少女を襲ったものと思われ、彼女は自分が何をされたかも気づかないままであったろうことが読み取れる。記95歌謡原文に「袁美那(をみな)」とし、それを「常世にもがも」と歌っているのは、精神的に幼女のままであれ、何も気づくことなくそのままであれ、乙女心を抱くことなかれと言っているものと考えられる。
 この説話の一つ前は、引田赤猪子をめぐる話である。美和河で「童女」を見かけ、結婚しないでいろ、そのうち宮中に入れるからと約束しておいて八十年経ち、操を貫いた「老女」が天皇のところを尋ねて悶着が起きている。赤猪子の話から、吉野の童女の「常世にもがも」がそのまま導かれていると考えるのは短絡的である。通訓としては、「童女」、「嬢子」をヲトメ、「老女」をヲミナとしている。「童女君(をみなぎみ)」(雄略紀元年三月)から仮定するなら、「童女」をヲミナ、「嬢子」をヲトメとし、ヲトメを結婚適齢期の心身ともに成熟女性と見、性別上の女性のことは総括してヲミナと訓むのではないかと考える。他の用例との兼ね合いについては後考を俟つ。なお、飯田武郷・日本書紀通釈には、雄略紀の「童女君」の傍訓「ヲナキミ」をヲグナギミとし、幼いうちは童男・童女とも髪形は総角(あげまき)で同じであるからとする説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933891/45)がある。また、新編全集本日本書紀には、古訓を無視した「童女君(わらはきみ)」(雄略紀元年三月)とする説(150頁)がある。
(注4)新編全集本古事記に、「吉野の地の精霊ともいうべき乙女との交情を語ることによって、天皇のめでたさをいうのが、この一段の主旨である。」(344頁)、西宮1979.に、「仙境吉野で、吉野川の巫女ふじよと聖婚した雄略天皇はここで神仙となり、琴を弾き神女に舞わせ、その乙女の永遠を祝福する。……「天皇」という語が道教の典籍に由来することを考え合せれば、雄略天皇神仙化はきわめて自然な発想だったといえよう。」(246頁)などとある。この後、雄略記に天皇が仙人になって活躍する記述はない。埴輪に琴を弾く姿は珍しくない。「童女」を「嬢子」と代えて巫女的存在に仕立て上げられていると見ているのかもしれないが、神の使いとして差し向けられたわけではなく、ただの田舎の少女である。
(注5)本居宣長・古事記伝に、「即幸は、上段の同度の事なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/445、漢字の旧字体は改めた。)とある。古典基礎語辞典に、「スナハチは、品詞が三つ[名詞、副詞、接続詞]に分かれ、かなり複雑な用法を有する。」とし、「接続詞スナハチは、主として漢文訓読文に用いられ、「即」のほかに「則」「乃」「便」「輙」「仍」などの漢字を訓じた例がある。前の事柄を受けて、その結果、後の事柄が起こることを示し、そこで、その時に、と訳せるものが多い。ほかに、前に述べた事柄を、後のほうで説明し直したり、言い換えたりするときにも、つまり、とりもなおさずの意で、スナハチを用いることがある。また、ある時点を強調して、そのような時には、の意を表す例もある。」(654頁)とある。「即」の前に述べてあることと後に述べてあることとの間に密接な関係がある点は変わらない。
(注6)紀の該当箇所は、記と比較すれば多少説明調になっている。

 秋八月の辛卯の朔にして戊申に、吉野宮に行幸す。庚戌に、河上の小野に幸す。虞人(やまのつかさ)に命(みことのり)して、獣(しし)を駈らしめ、躬(みづか)ら射むとしたまひ待(お)ひたまふ。虻(あむ)疾く飛び来て、天皇の臂(みただむき)を噆(く)ふ。是に、蜻蛉(あきづ)、忽然(たちまち)に飛び来て、虻を囓(く)ひて将(も)て去ぬ。天皇、厥(そ)の心有ることを嘉(よみ)したまひ、群臣(まへつきみたち)に詔して曰はく、「朕(わ)が為に蜻蛉を讃めて歌賦(うたよみ)せよ」とのたまふ。群臣、能く敢へて賦(よ)む者(ひと)莫し。天皇、乃ち口号(くちつうた)して曰はく、
 倭の 嗚武羅(をむら)の岳(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰か この事 大前に奏(まを)す 一本(あるふみ)、大前に奏すといふを以て、大君に奏すといふに易へたり。 大君は そこを聞かして 玉纏(たままき)の 胡床(あごら)に立たし 一本、立たしといふを以て、坐(いま)しといふに易へたり。 倭文纏(しつまき)の 胡床に立たし 猪鹿待つと 我がいませば さ猪(ゐ)待つと 我が立たせば 手腓(たくふら)に 虻掻き着き 其の虻を 蜻蛉はや囓ひ 昆虫(はふむし)も 大君にまつらふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉島倭 一本に、昆虫といふより以下(しも)を以て、かくの如 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島といふ、といふに易へたり。(紀75)
 因りて蜻蛉を讃めて、此の地(ところ)を名けて蜻蛉野(あきづの)とす。(雄略紀四年八月)

(注7)雄略天皇の記事について、金澤2017.は、「天皇としての強い自称性を発揮している。その自称性は歌においても多くの自敬表現に表れていると言える。この歌でも「大前に奏す」「やすみしし我が大君」「胡床に坐し」等の表現を用いて、雄略天皇は自らが天皇である事を誇示している。」(5頁)とする。西宮1979.は、「自敬表現を多く使い、穀霊たる蜻蛉あきづが天皇をかばうところに、「有徳うとくの天皇」たる所以ゆえんを物語ろうとしているのである。」(247頁)とまとめている。虫刺されの話に徳の有無を説くものであろうか。筆者は、自分のことばかり言う人、自己中心的な人が、ともすれば陥りがちな独りよがりの考え方、上に見た一種のコミュニケーション障害の表れとして承認欲求が肥大化して自称性が高まっているものと捉える。自敬表現自体が奇異なのではなく、過度な自敬表現を用いて記し述べる古事記の文章の深意を考える必要がある。
(注8)紀では「虞人(やまのつかさ)」と呼んでいる。狩之作法聞書に、「一、勢子なみと云事。せこのつらなり押来るが遠くより見るに大波のくねりくるが如くなるを云言葉也。」(365頁)、吾妻鏡に、「未明催-立勢子等。終日有御狩。」(建久四年五月二十七日)、富士谷御杖・歌袋に、「せこ声とハ、鹿を追出す者、声をたつるを云。又せこたてゝとも云ハ、追出す人を並立るを云。」(新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200007423/viewer/150)、塙保己一・武家名目抄に、岡本記云として、「落かかりてくる物とは、山より谷へ走り下る物をいふなり。巻めの鹿とはいまだ巻おとさず山の嶺などにせの中にまじりてあるをいふかなり。まきめの鹿を嶺よりまきおとしてなどいふなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772001/38)などと見える。
(注9)「…… 薬猟(くすりがり) 仕ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟(いちひ)が本(もと)に 梓弓 八つ手挟(たばさ)み ひめ鏑 八つ手挟み 猪鹿(しし)待つと 吾が居(を)る時に さ牡鹿(をしか)の 来立ち嘆かく ……」(万3885)とある。鹿笛や犬の利用も考えられるが、阿岐豆野で御呉床に坐して待っているところからすると、「岳」→「野」への誘導のことが眼中にあると考えられる。
(注10)「射ゆ鹿猪(しし)を 認(つな)ぐ川上(かはへ)の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに」(紀117)とある。
(注11)紀75歌謡で、「ヲムラが岳〔嗚武羅〕」としているのは、ヲ(尾)のある獣が群れている岳であることと、だから標的が多くて垜が複数設けられていることに譬えられることとを重ね描写したものと推測される。
(注12)「着そなふ」はきちんと着て具えること、狩りの時には着重ねることがある点、ならびにソナフ(四段)のソが甲類であることについては、西宮1970.参照。万葉集の例が引かれている。

 江林に やどる猪鹿(しし)やも 求むるによき 白栲の 袖巻き上げて 猪鹿待つ我が背(万1292)
 かきつばた 衣(きぬ)に摺りつけ 大夫(ますらを)の 着襲(そ)ひ狩する 月は来にけり(万3921)

 野外の狩りにおいては、射礼などの儀式のように片肌を脱いで立ち向かうことはなかったであろう。止まっている的を目がけているのではなく動いていて立ち向かってくるかもしれない猪鹿を相手にしており、蚊などの害虫対策からも肌の露出はなるべく避けたいからである。
(注13)「素襖」という語は室町時代に現れるとされ、直垂系統の服装である。ここで問われているのは袖括りがあるかどうかということで、雄略天皇は狩衣(狩襖)を召していたと想定されよう。それは布衣(ほい)とも呼ばれるように上に重ね着られるものである。
(注14)日葡辞書に、「Xixi.シシ(しし) 子どもの小便.婦人語.」(785頁)とある。
(注15)「無戸室(うつむろ)」(神代紀第九段本文)、「大窨(おほむろ)」(綏靖前紀)、「窟(むろ)」、「窨(むろ)」、「氷室(ひむろ)」(仁徳紀六十二年是歳)などとある。
(注16)本居宣長・古事記伝に、「今蜻蛉が云々して、此国の名を己が名に負持てかくの如くワレに仕イサヲを立むとて、其カネて古より倭国を蜻蛉嶋とは云なりけりと詔ふなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/447、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注17)佐佐木2010.に、「名に負はむと」について、「このように、ふさわしい名で呼ぼうと。「名に負ふ」は、評判・名にふさわしい意。「隼人の名負夜声なにおふよごえ」〔万十一・二四九七〕。」とし、「この【できごとの】ように、ふさわしい名だろうと【人々は】思い、(そらみつ)倭の国を蜻蛉島というのだ。」(127頁)と訳している。
(注18)諸説も無視しているわけではなく、回避しようとしている。土橋1972.は、「「蜻蛉野」の名の起源が、雄略天皇と蜻蛉の故事に由来するという説明。この故事を歌では「蜻蛉島」の起源とし、後文では「阿岐豆野」の起源とするのは、同じ物語の中にあるだけに不統一の感を抱かせるが、起源の説明は、物語に歴史性を与える方法としてしばしば用いられるもので、同じ物語を二つの地名の起源とするようなことにも、さして違和感を感じなかったのかもしれない。」(341~342頁)とする。稗田阿礼の語りが、聞き耳を立てて歴史性を読み取らなければならない講義であるはずはない。
 中西2007.は、「「蜻蛉島」は倭の、いわゆる枕詞、形容言である。この歌は、その形容言の起源を述べた歌である。それを、また地の文で地名起源説話として語る形になっている。形容言と地名起源説話は、それだけ古代人にとって、似た心持ちの中で伝えるものであった。地の文と、歌で述べている内容は同じであり、それをくり返しているにすぎない。この地名起源説話は、歌をもって伝えられていたのだろう。ところが、『古事記』が散文に語りの伝承を代えた時に、歌のみを置くことができずに、地の文でも歌の内容と同じことをくり返して語ってしまうこととなった。……内容が少し異な[るのは、]その野を阿岐豆野という由来を語ることが本来の目的であったのに、蜻蛉島を説明する歌で代用したために起きた、くい違いである。」(415頁)とする。口頭言語にくい違いを放置して伝えられる話などない。
(注19)「名に負ふ」といって名高い名を示す点については、鉄野1997.、松木2006.にひとまず解決がついている。また、この間の事情が述べられて正しいことは、この段落の前の段落からの承け方が「即」であったことからも理解されよう。「…… やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと」、すなわち、「呉床に坐し 白栲の 袖着そなふ 手腓に 𧉫掻き着き」、すなわち、「其の𧉫を 蜻蛉はや咋ひ」といった具合に事態は時々刻々推移している。阿岐豆野とは、スナハチの場であると考えられておもしろがられ、「𧉫」とは、蜂に似て腰のくびれていないス(素・生)+ナ(連体助詞)+ハチ(蜂)であると洒落を言っているように感じられる。
(注20)倭の国の形容言がそれぞれどのような意味合いからそう呼ばれるに至ったのか、また、なぜこの箇所にまとめられているのかなど、解決されなければならない課題は多い。

(引用・参考文献)
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居駒2020b. 居駒永幸「雄略記の歌と散文(II)─表現空間の解読と注釈─」『明治大学教養論集』第549号、2020年9月。明治大学学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10291/21248
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金澤2017. 金澤和美「『古事記』雄略天皇の蜻蛉の物語と歌の意味─「名に負はむと」の解釈を通して─」『昭和女子大学大学院日本文学紀要』第28衆、昭和女子大学学術機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1203/00005869/
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千葉1975. 千葉徳爾『狩猟伝承』法政大学出版局、1975年。
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土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
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日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
本田1983. 本田義寿「アキヅノとアキヅシマ(記紀・雄略)覚書」『論究日本文学』第46号、立命館大学、1983年5月。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyu_list/ronkyu_list46-50.htm
松井2005. 松井章「狩猟と家畜」上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編『列島の古代史 ひと・もの・こと2 暮らしと生業』岩波書店、2005年。
松木2006. 松木俊曉『言説空間としての大和政権─日本古代の伝承と権力─』山川出版社、2006年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。

(English Summary)
In Kojiki, the story of a girl in Yösino and the story of hunting at Akiduno, at the age of Emperor Yuryaku are connected by the word "sunafati (即)" which has simultaneity and paraphrase. In the series of their stories, different meanings of the words with the same sound lay over the uttered words, and ancient Japanese homonyms weave up another meaning pattern. It is an essential technique for the oral language, to survive and continue to be conveyed at the speaking level as oral language. Especially here, it is related that Emperor Yuryaku used to misunderstand words, and it is the series of tales that succeeded in projecting the image of him. By the way, in the research to date, the insight as in this paper has not been offered into this problem.

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