Corriere della sera 2016/12/20より
«Vado al mercatino più bello»
L’ultima passeggiata di Fabrizia
「一番綺麗なクリスマスマーケットに行って来るわ。」それが彼女の最後の外出になった。
Fabrizia Di Lorenzo(31歳、Abruzzo州Sulmona出身)がベルリンで起きたトラック事故でなくった。
19日のベルリンのテロ事件にイタリア女性Fablizia Di Lorenzo 31歳も巻き込まれ亡くなった。
「彼女はいつものようにここから出かけていった。」しかし、あの日はいつもの夜とは別だった。4FLOW(勤めていた会社)のホールでは電話がなり、木張りの床はギシギシとなる。彼女の同僚たちは音をさせずに歩いている。まるであのクリスタルの夜だ(1932年ドイツで起きたナチスの謀略事件) 誰もが目を赤くしている。彼らが彼女を最後に見たのは月曜日の日、出かけるところだった。会社受付の机の上には、ニュースレターの2ページが開かれ、2016年ドイツ物流賞を取ったときに表彰記念をみんなで手で持ち上げている(慣例のポーズ)写真が出ている。切ない写真だ。その中でもFabriziaはもっともかわいく、もっともエレガントな装いだ。輝く上着、ちょっとヒールの高い靴、手には黒の小さなハンドバッグ。「すばらしい女の子だったわ。」受付の女性が語る。「いまはただ静かに彼女のことを思いたい。」とこの運送会社の社長、Stefan Wolffも動揺を抑えるように語る。
《最も綺麗なクリスマスマーケット》
彼女、Fabrizia Di LorenzoがHallesrstrasseの角を抜け、イタリアを思い出すために時々通っていたイタリアレストランの前を通り過ぎたとき、彼女は友人たちに言った。「これからWeinachtmarkt に行くの。最も綺麗なクリスマスマーケットの1つなんだよ。」きっと誰かと待ち合わせていたのだろう。故郷のAbruzzoに住んでいたものには心地よい冷たい空気。Spreaの街を見ながら、「この場所がとっても好きなの。」彼女はしばしば手すりに寄りかかりながら、ベルリンビールを手にBadeschiffのアレーナを見ていたものだった。どれほど彼女はこのベルリンの町を好きだったか、あのトラックが彼女に襲い掛かるまでは。
《Fabriziaの父》
娘の事故を最初に知ったのはその父だった。Sulomonaの自宅でTVを見ていたときに緊急速報でベルリンの事故を知った。事故のあったCharlottenburgの街はまさにFabriziaが働いている街。嫌な予感にすぐに電話をするが誰も出ない。何度電話しても呼び出し音だけ。最後にようやく出たのはドイツ語の声だった。「私たちが彼女の死を知ったのは深夜1時半。妻と彼女の恋人がドイツにちょうどつく時間でした。私たちは息子がDNA鑑定の結果を待っている外務省(la Farnesina)に電話をしました。彼女になにが起きたかについて幻想を抱くつもりはありません。疑いようがないのです。」外交官のPiero Benassiは遺体安置所で彼女の家族による遺体確認の世話をしている。ローマの検察はすでに動いており、記録もできている。《名前はDi Lorenzo》ただし、冷蔵装置に入った8つの身体部分は手足の区別も出来ない状態だ。《今朝Fabriziaは仕事に来なかった。》そう語る4Flow(彼女の勤め先)の幹部の声も低い。
《親戚、友人、知人の話》
いとこのEmilianaの話:《彼女は木曜日にAbruzzoに帰ってくるはずだったの。そして大晦日はベルリンでみんなで祝おうと。だけど少し怖かったの。この事件の多い時期は止めといた方がいいんじゃないかな。。。と兄たちも言っていたの。》 友人のGiovanniの話《とても優秀な女性でした。》
同僚のAndreasの話《彼女と一緒に働けるのは本当に楽しかった。》社長のStefanの話《厳しい選考で採用された優秀な女性でした。》Charlottenburgの街で、この31歳の女性はイタリア、ドイツ、スペイン、フランスを結ぶ物流の仕事をしながら、自分が勉強してきたことをやっと活かすことのできる仕事を見つけ、親にとってもそれは誇りだった。また彼女はブログで、イタリア人としてまた異国の人間としてなにを感じているかを発信していた。そして最後のブログが残ったままとなっている。それはRenzi前首相を支持する言葉だった。先の国民投票が否決されたことについて、La meglio gioventu’の映画の中の一説を引用して《Peccato presidente(かわいそうな大統領)》《イタリアは動かず、なにも変わらず、死滅していく恐竜のようなもの。》と書いた。動かないイタリア。でも彼女は違った。ベルリンの彼女はいつも情熱的に活動していた。また、ジャーナリストの一面もあった。Berlino Magazine誌でいくつかの記事も書いていた。《もしも若者がイタリアから抜け出してきたなら、それはなにか今までとは違うことをしたいから。もしもなにか学びたいとか向上したいとかの気持ちがあれば、それはもう正しい道にいるのだ。》今日はもう暗くなり、4Flowのオフィスも電話はもうつながらなくなる。明日もまた仕事がある。しかしイタリア人のグループには少し心を休める時間が与えられるだろう。《今は従業員すべてにとって悲しいときだ。とりわけ、イタリア人の仲間たちにとっては。》と幹部のHerr Wolffは語った。
<原文>
http://www.corriere.it/esteri/16_dicembre_20/vado-mercatino-piu-bello-l-ultima-passeggiata-fabrizia-5fd6f8e4-c705-11e6-84f8-50724e442573.shtml
«Vado al mercatino più bello»
L’ultima passeggiata di Fabrizia
「一番綺麗なクリスマスマーケットに行って来るわ。」それが彼女の最後の外出になった。
Fabrizia Di Lorenzo(31歳、Abruzzo州Sulmona出身)がベルリンで起きたトラック事故でなくった。
19日のベルリンのテロ事件にイタリア女性Fablizia Di Lorenzo 31歳も巻き込まれ亡くなった。
「彼女はいつものようにここから出かけていった。」しかし、あの日はいつもの夜とは別だった。4FLOW(勤めていた会社)のホールでは電話がなり、木張りの床はギシギシとなる。彼女の同僚たちは音をさせずに歩いている。まるであのクリスタルの夜だ(1932年ドイツで起きたナチスの謀略事件) 誰もが目を赤くしている。彼らが彼女を最後に見たのは月曜日の日、出かけるところだった。会社受付の机の上には、ニュースレターの2ページが開かれ、2016年ドイツ物流賞を取ったときに表彰記念をみんなで手で持ち上げている(慣例のポーズ)写真が出ている。切ない写真だ。その中でもFabriziaはもっともかわいく、もっともエレガントな装いだ。輝く上着、ちょっとヒールの高い靴、手には黒の小さなハンドバッグ。「すばらしい女の子だったわ。」受付の女性が語る。「いまはただ静かに彼女のことを思いたい。」とこの運送会社の社長、Stefan Wolffも動揺を抑えるように語る。
《最も綺麗なクリスマスマーケット》
彼女、Fabrizia Di LorenzoがHallesrstrasseの角を抜け、イタリアを思い出すために時々通っていたイタリアレストランの前を通り過ぎたとき、彼女は友人たちに言った。「これからWeinachtmarkt に行くの。最も綺麗なクリスマスマーケットの1つなんだよ。」きっと誰かと待ち合わせていたのだろう。故郷のAbruzzoに住んでいたものには心地よい冷たい空気。Spreaの街を見ながら、「この場所がとっても好きなの。」彼女はしばしば手すりに寄りかかりながら、ベルリンビールを手にBadeschiffのアレーナを見ていたものだった。どれほど彼女はこのベルリンの町を好きだったか、あのトラックが彼女に襲い掛かるまでは。
《Fabriziaの父》
娘の事故を最初に知ったのはその父だった。Sulomonaの自宅でTVを見ていたときに緊急速報でベルリンの事故を知った。事故のあったCharlottenburgの街はまさにFabriziaが働いている街。嫌な予感にすぐに電話をするが誰も出ない。何度電話しても呼び出し音だけ。最後にようやく出たのはドイツ語の声だった。「私たちが彼女の死を知ったのは深夜1時半。妻と彼女の恋人がドイツにちょうどつく時間でした。私たちは息子がDNA鑑定の結果を待っている外務省(la Farnesina)に電話をしました。彼女になにが起きたかについて幻想を抱くつもりはありません。疑いようがないのです。」外交官のPiero Benassiは遺体安置所で彼女の家族による遺体確認の世話をしている。ローマの検察はすでに動いており、記録もできている。《名前はDi Lorenzo》ただし、冷蔵装置に入った8つの身体部分は手足の区別も出来ない状態だ。《今朝Fabriziaは仕事に来なかった。》そう語る4Flow(彼女の勤め先)の幹部の声も低い。
《親戚、友人、知人の話》
いとこのEmilianaの話:《彼女は木曜日にAbruzzoに帰ってくるはずだったの。そして大晦日はベルリンでみんなで祝おうと。だけど少し怖かったの。この事件の多い時期は止めといた方がいいんじゃないかな。。。と兄たちも言っていたの。》 友人のGiovanniの話《とても優秀な女性でした。》
同僚のAndreasの話《彼女と一緒に働けるのは本当に楽しかった。》社長のStefanの話《厳しい選考で採用された優秀な女性でした。》Charlottenburgの街で、この31歳の女性はイタリア、ドイツ、スペイン、フランスを結ぶ物流の仕事をしながら、自分が勉強してきたことをやっと活かすことのできる仕事を見つけ、親にとってもそれは誇りだった。また彼女はブログで、イタリア人としてまた異国の人間としてなにを感じているかを発信していた。そして最後のブログが残ったままとなっている。それはRenzi前首相を支持する言葉だった。先の国民投票が否決されたことについて、La meglio gioventu’の映画の中の一説を引用して《Peccato presidente(かわいそうな大統領)》《イタリアは動かず、なにも変わらず、死滅していく恐竜のようなもの。》と書いた。動かないイタリア。でも彼女は違った。ベルリンの彼女はいつも情熱的に活動していた。また、ジャーナリストの一面もあった。Berlino Magazine誌でいくつかの記事も書いていた。《もしも若者がイタリアから抜け出してきたなら、それはなにか今までとは違うことをしたいから。もしもなにか学びたいとか向上したいとかの気持ちがあれば、それはもう正しい道にいるのだ。》今日はもう暗くなり、4Flowのオフィスも電話はもうつながらなくなる。明日もまた仕事がある。しかしイタリア人のグループには少し心を休める時間が与えられるだろう。《今は従業員すべてにとって悲しいときだ。とりわけ、イタリア人の仲間たちにとっては。》と幹部のHerr Wolffは語った。
<原文>
http://www.corriere.it/esteri/16_dicembre_20/vado-mercatino-piu-bello-l-ultima-passeggiata-fabrizia-5fd6f8e4-c705-11e6-84f8-50724e442573.shtml