ウェブログ

活動の予定や報告、リレーコラム「真実の世界」など

 『私もマンガ世代。』

2006-03-20 | 真実の世界
漫画のことが2回連続であげられてたから、思わず書き込みます。
多分にもれず、私もマンガ世代に育ちました。人に言うのには恥ずかしいほどに漫画が溢れかえっています。質より量、というか・・・。今も一人暮らしなのに、200冊くらいのマンガに囲まれて生きています。ちなみに実家にはこれの2倍以上の本がxxx。

現実逃避をするように熱心にマンガを読んでいたことがあります。
自分が置かれている毎日に嫌気がさしてしまったり、何も考えないでただただ時間を過ごしたい、そんな時に私を逃がしてくれたのはマンガだったことが少なくありません。
でも、気がついたらマンガの中の台詞にドキッとさせられて、現実に引き戻されたり。

私的なお薦めは色々あるので、今回は少女漫画で。矢沢あいの『天使なんかじゃない』をあげます!NANAとかで有名な矢沢あいだけど、ヤッパリ天使なんかじゃないの方が私を捕えます。↓にも書いてあったけど、恋はやるなら力いっぱいよね!!と思わされる。ある高校の生徒会を舞台にして、恋愛模様満点なお話なんだけど。
いつもニコニコしてて明るくて、聖学園の天使みたいに思われている翠ちゃん。そんな主人公の翠ちゃんが「私は自分の幸せを守りたいだけのフツーの女の子で、天使なんかじゃないんだよ」って泣いたり、「天使みたいじゃなくていいから、私の本当の気持ちだけはちゃんと知ってて欲しい」って頑張ったり。自分に与えられている(そうなることを期待されている?)殻を打ち破るために、必死になっている姿に力づけられます。

自分たちもそんな時はないかな~なんて思います。明るい、とか、面白い人、とかって言われてた時に、自分の弱さを私は出すことができなくて凄く大変なときがありました。人前だと泣きたいのに、なかなか泣けなかったり。自分を作る事の大変さを感じていました。でも、色んなことがあって、私は明るいだけのバカじゃないんだけどなぁ、って思うようになって、自分を見つめなおしたりしてきました。自分は周りに期待されている人物を演じるだけの人ではいられないなぁ、なんて。

翠ちゃんがまぶしく思うのは、いつも一生懸命だからかなぁ。友達のために泣く時も、好きな人のために頑張る時も、笑う時も、一生懸命。こんなに一生懸命に、力いっぱい他人と対しているって素敵だなぁと思います。
今年の秋にはキャンプがあります。私もスタッフの一人として参加予定なんだけど。スタッフ一人ひとりと、一生懸命に対しているかなぁ。参加者のことも考えなくてはいけないけれど、それ以上に、スタッフ同士のことをもっと話したいなぁと思います。
聖学園は学校行事がそれはそれは面白そうなんだけど、主催の生徒会が一致して力をあわせていることが原動力になっているのでは?と思うのですよ。

漫画世代パートII

2006-03-20 | 真実の世界
続いて好きな漫画といえば、緑川ゆき「あかく咲く声」白泉社。これも高校生のころに読んでいた作品です。異能を持ったもやしっこ、辛島君に恋してしまった地味め頑張りやの国府さんが、ひたすら熱情をスパークさせる物語。おとなしい子だってやるときはやるんだ、恋は命がけだと思わされます。国府さんは本当に根性があって尊敬します。雨に降り込められた放課後の校舎で、世界をまたにかける窃盗団とやりあったり、辛島君と一緒にいるためなら、危ないところにもどんどんダイブしていってしまう彼女。特殊な能力を持っている辛島君と違って(まあ彼ももやしっこですが)、ただただ平均的な女子高生の国府さんが、辛島君の隣にいたいという情熱ひとつで事件に飛び込んでいく姿が爽快です。必死で走った道の先に絶対辛島君がいるって信じてるから、あんなスピードで疾走できるのでしょう。こけるのなんてへっちゃらさ、というスタンスに妙に共感してみたり。平凡な人の地に足の着いた強さを彼女からは感じます。
 いろいろな漫画を貸し借りしあって読んできたけれど、結局今も好きだなと思えるのはわりと地味というか物静かな作品ばかりです。美形キャラがいるわけでもなく、壮大な世界観があるわけでもなく。わたしの信仰生活もこんなふうであったら良いと思います。地に足が着いていて、日常にとけこむ自然さで、なんか骨のある感じ。
 余談ですが、この登場人物の名前はすべて熊本の地名にちなんでいるそうで(作者の出身地なのでしょう)、水俣に行ったときに密かにチェックしていました。実在したので思いのほか感動しました。高校時代の友人に再会したような。

漫画世代

2006-03-19 | 真実の世界
 青年会のホームページを活性化させるためにブログの頻繁な更新を!と前回の役員会で決意しあいました。こまめに更新する秘訣は何か?やはり自分の得意分野について熱く語ることでしょう。というわけで、漫画の話。
 何を隠そう、漫画世代です。なるべく早弁をして、昼休みはお互いに貸し借りしあった漫画を熱心に読みました。そんなふうに自分の世界に入ってしまったら、友人同士のコミュニケーションは、いつ図るのかと尋ねられたことがありますが、卒業して五年たってもシーズンごとに同窓会するくらいの仲良しっぷりなので、きちんとこころはつながれていたのでしょう。普段はなかなか話しかけられないようなクラスメイトにも、「漫画貸して」だけはきちんと言えました。ロッカーの中には貸した後返却されて、もって帰るのが面倒な漫画がぎっしり並べられ、漫画図書館ができていました。
 若かりし頃に読んで、今も大好きな作品があります。遠藤淑子の「マダムとミスター」白泉社。古本屋で再会して思わず購入。ジャンルとしてはラブコメディーとも言えるかもしれないけれど、ラブの要素は限りなく薄いです。だからこそ想像力(妄想?)をかきたてるのかもしれませんが。でも多分この漫画家さんは家族の間に存在するあたたかくて穏やかな力について描きたいのだとわたしは思っています。この漫画のメインキャラたちは血のつながりはありませんがお互いを必要としあって、生活を共にしています。ポジションとしてはマダム(未亡人。21歳)と執事(亡くなった雇い主と養子縁組していたのでマダムとは親子関係。きっと20代)。この二人は天涯孤独で、それぞれのルートをたどってお屋敷に暮らすようになります。出会った二人のまわりではいつもなんだか笑える事件が頻発して、それを共有するたびに絆が深まっていくというか、それを確認しあうというか。もともとは赤の他人だったのに、日常を分かち合いながら居心地のよい空間がこのお屋敷に広がっていく快感にひきつけられます。二人の間にあるのは熱情でも激情でもなく、あえていうなら家族愛とでももうしましょうか。とても穏やかで、安定した信頼の情なのです。
 実際の家族はなかなかこうはいかなくて、家族愛っていう言葉が押し付けや暴力にまで感じられるようなときもあると思うのです。家族のなかで必ずしも無償の愛のルールが働いているかというと、もう胸が騒ぎます。でもだからこそ、無償に愛したり愛されたりすることを描きたい、表現したいと思う人がいて、それを読みたい、信じたいと思うわたしがいるのかな。
 無償で人を愛することが稀有なのはもちろんだけれど、無償で愛されることを受け入れるのも至難の技だと思うことがたびたびあります。やはり、放蕩息子の兄のように、これだけ父に仕えたんだから一番に愛されるべきだとか、ファリサイ派と徴税人のたとえのように、律法を守って祝福にあずかれることを感謝しますと言ってしまいたい衝動は強いなと。愛は奪うものって誰のセリフだったかな?
 無条件に愛されてしまうことを受け入れる、砕かれた心を自分のうちにたずねながら眠ります。
                                   真実

わたしも水俣へ

2006-03-17 | 真実の世界
 今朝、水俣から帰ってきました。とても緊張しながら出発したのですが、たどり着いた海の静かさに、肩をぽんぽん叩かれたような気になりました。「そんなに肩肘張らんでもいいよ」と。水俣に限らず、人を訪ねるときはいつもそうなんだけれど、「わたしは何をしたら良いんだろう、相手はわたしに何を期待しているんだろう」って考えあぐねることがよくあります。それはやっぱり、その人が大好きで、親しくなりたくて、会えてよかったって思って欲しいから。だけど今回は同じ場所にいて、同じ時間を過ごして、相手の声が自分を震わせるのをじっと聞いていました。



 相手に何かをしてあげるというのは達成感は深いけれど、場合によっては「こちらの気が済むだけ」という一方通行になりかねないと、ふと思いました。本当にこころを慰めたり、誠意を伝えたり、相手と出会うには隣に座って他者の声にただただ自分を響かせることかなと。そして、そんなこと考えてる自分が一番そういう出会いに渇いてるんだとも。



 話はすこしずれるかもしれませんが、子どものときから将来の夢は「人と一緒に生きること」です。短大時代にキャリアプランを何度も書かされ、そのたびに自分の底から湧いてくる言葉はこれでした。一人っ子だったからかな。自分はとても自由で元気に満ちているけれど、一人で好き勝手に生きてそれだけで終わったら意味ないなと。



 水俣の海は静かで甘夏は黄色くって、健やかな時間を過ごしてきました。帰ってきたわたしは何かと出会って変わったというよりはますます誰とも違う自分を思い知らされたような気になっています。帰ってきたばかりで、えらいいろんなことを考えたのでまとまりのない文章だけれど、小出しにしていくつもりなので、お付き合いどうぞよろしく。

『水俣にて』

2006-03-17 | 真実の世界
3月14~17日朝まで、水俣フィールドトリップと称して関西の2人の先生方と4人の青年で水俣に行ってきました。といっても,私は一足先に帰ってきたので最終日にどんなことが会ったのかはわからないんですけど。

水俣。その土地名を聞いて思い浮かべるのはヤッパリ『水俣病』です。
今回の旅では水俣病の患者さんや支援者の方と会うと知っていたのに、全く予習をせずに乗り込んでしまいました。みんな本とか読んでてすごいなぁ~と。学生時代に習った水俣病についての知識を思い出してみたり。でもあんまり覚えていなかったり。
正直な話、何で水俣まできてしまったのか良くわかりません。
何かを学ばなくちゃ!という迫られるような気持ちもなく、そこに行かなくてはだめだ!というような焦りもなく。ただ、大好きな先生が水俣で何かに出会い、それが彼女にとってすごく大切な物だ、ということを何となく感じていました。大好きな先生を捕らえて離さない程の何が水俣にあるのかなぁ、それを知りたいなぁと、そんな気持ちで夜勤明けの体を引きずりながら水俣入りしました。

水俣では、晴天の中、みかんを狩らせてもらったり出荷作業を手伝わせてもらったり。軽トラの荷台に乗って海とかみかん山の上の方に連れて行ってもらったり。夜中には綺麗な月を見たり(残念ながら星はあんまり見えなかったけど)。普段、室内で仕事をしている分、太陽の下で働くことがリフレッシュになりました。仕事のこととか、進路のこと、青年会のことなんかも考えながらみかんを狩っていたんだけど、自問自答をしながらゆっくりと考えることが最近なかったかも、なんてことに気づかされました。ちなみに途中から、そんなこと考えられないくらいみかん狩りに夢中になってしまいましたが。

私たちが滞在した地域は水俣病の患者がたくさん出た地域でした。
水俣に行って、初めて水俣病がまだ終わっていないことを知りました。
今までは知らなかったり、知っていてもリアルでなかったことが、実際に水俣の海を見たり、埋め立てられた土地を見たり、水俣で生きている人たちに会ったりする中で、少しだけリアルになったかも。そこに行って実際に出会う、ってすごく大事だと思いました。

出会い、ということを大切にしたいと思いました。
関心を持って、実際に会ったり行ったり話したり。そんな関わりを通して、いろんな人や物や出来事に出会えたら、と思います。水俣で起こった出来事に関心を持って、そこで一緒に生きたり、同じ時を過ごしたり、その出来事を考え続けたりしている人たちに出会えて、そんなことを思いました。知り合っている・知識として知っている、ということは、もしかしたら本当は出会っていない、ということになるんじゃないかなぁ。

神様のこと、イエス様の十字架の救いのこと。そのこととも、知識として知っているだけではなくて、もっともっと出会いたいと思いました。
水俣の人たちに会いに、また水俣に行きたいです。次は恋路島でキャンプとか?