※以前書いたブログ記事を転写します。
タイトル
「モナ・リザには、親子が隠されている。そして、首は、ヨハネの首である。」
あなた方はまだ、モナ・リザをモナ・リザだと言っているのか?
例えば、ソ連がロシア連邦共和国になったように、国鉄がJRという呼びに変わったように…モナ・リザは長い歴史に幕を閉じるであろう運命を背負っている。
何故なら
モナ・リザは肖像画ではなく、由緒正しい宗教画であるから、一個人名をつけるのは、やはり間違っていると、証明されるような未来が待っている。
何百年も経った未来の人々にとってモナ・リザは化石のような名である。
私自身、今この時代でモナ・リザを語っていることが、時にもどかしい気分になることがある。
モナ・リザでもない絵に対して、モナ・リザは…モナ・リザが…と語っているのだから違和感この上ない。しかしながら、私が生きている今の時代では、モナ・リザをモナ・リザだと言わないと、何の絵を指し示しているか訳が分からなくなるので致し方あるまい。
モナ・リザは、宗教を越えた宗教画で、この世の真理を物語っている。
キリスト教に背く内容を言っただけで、牢屋へ入れられていた時代、ダ・ヴィンチは、絵のなかに、自分が伝えたいメッセージを、そっと忍ばせたのだ。
一見、肖像画に見えるような構成をとったのもダ・ヴィンチにとっては、作戦の一つであった。
キリストを抱いているわけでもなければ、聖女が掲げるアイテムの類いを持っているわけでもない。
上品に手を前に組んでいるポーズからして、誰しも上流階級の夫人をイメージするのは最もであったろう。
何度も書いたが、モナ・リザの身体は黄金比率、リッタの聖母の身体に、透かし絵のように、その絵を源とし、発展的に服装やポーズを変化させた。
そして
自分の女性化した顔を描いた。
最近、ネットでモナ・リザを調べて、よく目にする質問が、モナ・リザは女なのか?男なのか?という内容である。
ここ、数十年の間でスピリチュアルな考え方や物の見方が、人々に浸透してきた為、必然的にモナ・リザが男性に見えてくる人が増えたのだと、私は推測している。
それも無理はない。モナ・リザをエックス線で撮影したら、まるでイエス・キリストのような像が浮かび上がってくるのだ。
ダ・ヴィンチの神妙なる絵画のメッセージが、ここにも隠されていた。
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