昨秋、30回の歴史に幕を閉じた、東京国際女子マラソン。その大会の第一回に出場し、3年後には日本人初優勝を果たしたランナー、佐々木七恵さんが6月27日、53歳の若さで亡くなった。
死因は直腸癌だったという。また一人、かけがえのない人の生命が癌に奪われた。
佐々木さんは1956年、岩手県の農家に、7人兄妹の末っ子として生まれる。(それが「七恵」という名前の由来だという。)21歳年上の長兄が陸上競技の選手だったことがきっかけで、高校進学後に陸上部に入部。3年生の時にインターハイに出場。日本体育大学では3年生の時にインカレの3000mで3位に入賞。ちなみに、それは前年から初めて採用された種目だった。オリンピックに於いても、女子の最長種目が1500mだった時代である。
卒業後は岩手県立盲学校の教員となり、その傍らに競技を継続。'77年のボストンマラソンに、ミチコ・ゴーマンさんが優勝し、女子マラソンという新たな競技への関心が高まる中、開催された第一回の東京国際女子マラソンに出場。3時間7分24秒で26位という成績だった。
後に彼女はインタビューでこう語っている。
「あの時は本当に驚きました。選手村まで品川プリンスホテルに用意されていました。」
当時の日本人の女子ランナーたちは、全国から集められ、強化合宿を経て、スタートラインに立った。主婦から学生競技者に彼女のような教員に、ランニング情報誌の編集長まで、さまざまだった。
「東京中が私たちわず50人のランナーだけのために車を止め、道を開けて待っていて、沿道には大変な人たちが応援してくれたわけです。これは凄いことでした。」
その後、女子マラソンは'84年のロス五輪で正式種目となることが決定し。彼女もトレーニングを重ねて記録を伸ばしてきた。盛岡一高に転勤後は岩手県からの支援も受けられるようになり、大学の先輩の紹介で、瀬古利彦さんらを育てた、エスビー食品の中村清監督と出会い、監督の指導を受けるために休日毎にに岩手と東京を往復した。
中村監督の指導はすぐに成果として現れた。青梅マラソンに入賞して派遣された'81年のボストンマラソン、瀬古利彦さんが優勝したこの大会で当時の日本最高記録となる2時間40分56秒で13位。その年の東京では5位に入賞し、翌年、ニュージーランドのクライストチャーチマラソンで、自己記録を大幅に更新する2時間34分59秒で優勝した後、教員を退職し、エスビー食品陸上部入りを決意して上京、「中村門下生」となる。
中村監督というと、鬼の如き指導者との印象を持つ人も少なくないが、彼女によると、
「先生は私を女性として扱ってくださった。」
のだという。
「無理は絶対いけない。女性として走るんだから母性は大事にするのが当然という考えでした。」
もちろん、これは瀬古さんたち男子の部員に比べて「甘やかされていた」ということではないだろう。
「1日に20km走を3回、というトレーニングも1回だけですけどありました。」
ライバルだった増田明美さんはかつて、ロス五輪を目指していた時期を振り返り、
「当時の私って女を忘れていたんです。」
と語っていたのとは、対称的だったのだろう。
'83年の東京国際女子マラソンでは、日本人ランナーとして初の優勝者となり、ロス五輪の代表に選ばれる。他の代表は彼女の持っていた日本最高記録を大幅に更新した増田さん。3人の派遣が見送られるほど、日本の女子の選手層が薄かった。
ロス五輪のレースは気温30℃を越える中、地元アメリカのジョアン・べノイトがスタートから飛び出し独走し、2時間24分52秒でゴールして金メダルを獲得。16kmで棄権した増田さんが持つ、当時の日本最高記録を5分以上も上回るタイムだった。佐々木さんは11分以上遅れて19位で完走した。まさにこのタイムの差が当時の日本と世界のトップとの差だった。当時、癌に侵されていたという中村監督はレース後に語った。
「スタートの気温が35℃でゴールが40℃くらいであれば金メダルも狙えたでしょう。一升桝には一升しか入りません。」
五輪後は当時のエスビー食品副社長の世話で見合いをして婚約。翌年の名古屋国際女子マラソンでの優勝を最後に引退した。
「先生は、最後は次の始まりなのだから、最後こそ大事にしなければいけないんだとおっしゃっていました。」
その後、子育てが一段落した頃にエスビー食品陸上部に指導者として復帰。女子ランナーを指導した後に顧問に就任。エスビーが全国で開催している「ちびっこマラソン」に尽力する。
'96年、僕の地元で開催された市民マラソン大会のゲストランナーとしてやって来た彼女に会うことができた。走り終えた後、閉会式では講話があったが、これまでに聞いた、ゲストランナーの話で一番面白かった。
「アトランタ五輪の前に、特集番組でテレビに出演したんですけど、司会の方が
『最近の日本の女子ランナーは美人が多くなりましたね。』
なんて言うもんですから、思わず、横にいらした増田明美さんと顔を見合わせちゃいましたよ。」
という話から始めて、場内は大爆笑である。これが実に見事な「つかみ」であり、その後は自身の競技生活の苦労を語り、
「私たちは、真っ暗な道を手探りで歩いて、道を開いていきました。その道を後から若い人たちがついてきてくれて、有森さんにいたってはメダルまで獲得してくれ、本当に嬉しかったです。」
といった言葉で締めくくった。日本の女子マラソンは自分たちが作った、というプライドも感じられた。
その後、ツーショットで記念撮影もすることが出来、それをランニング情報誌に投稿したところ掲載していただいた。海外マラソンのツアーに参加した際、一緒に参加した女性ランナーがその写真の事を記憶されていた。
「佐々木さんって、市民マラソンのゲストにはあまり出場されないんですよ。だから、佐々木さんと一緒に写真を撮れるなんて、いいなあ、と思って、印象に残っていたんですよ。」
今回の訃報を、市民マラソンで多数の優勝経験を持つ、知り合いの女性ランナーにメールで知らせたところ、
「憧れとかじゃなくて神のような存在」だったという返信をいただいた。増田さんが山口百恵さんを引き合いに出していたのは少し大げさにも思ったが、引退後は増田さんらに比べると、表舞台に出る機会は少なく、地味な印象だったが、その功績は日本の女子マラソンの歴史の中で大きな位置を占めている。先に紹介した講話を聞いた際には、さすがに元教員だけにトークが達者だと思った。マラソン中継の解説ももっと聞いてみたいものだとも思っていた。
もう、それも叶わなくなってしまった。ご冥福をお祈りしたい。
※新聞報道では、現姓の「永田七恵」さんとして紹介されていましたが、本稿においては、現役時代の旧姓で統一しました。
参考文献
月刊ランナーズ1998年12月号
「ヒューマン・インタビュー」
月刊陸上競技1984年9月号増刊
ロサンゼルスオリンピック総集号
死因は直腸癌だったという。また一人、かけがえのない人の生命が癌に奪われた。
佐々木さんは1956年、岩手県の農家に、7人兄妹の末っ子として生まれる。(それが「七恵」という名前の由来だという。)21歳年上の長兄が陸上競技の選手だったことがきっかけで、高校進学後に陸上部に入部。3年生の時にインターハイに出場。日本体育大学では3年生の時にインカレの3000mで3位に入賞。ちなみに、それは前年から初めて採用された種目だった。オリンピックに於いても、女子の最長種目が1500mだった時代である。
卒業後は岩手県立盲学校の教員となり、その傍らに競技を継続。'77年のボストンマラソンに、ミチコ・ゴーマンさんが優勝し、女子マラソンという新たな競技への関心が高まる中、開催された第一回の東京国際女子マラソンに出場。3時間7分24秒で26位という成績だった。
後に彼女はインタビューでこう語っている。
「あの時は本当に驚きました。選手村まで品川プリンスホテルに用意されていました。」
当時の日本人の女子ランナーたちは、全国から集められ、強化合宿を経て、スタートラインに立った。主婦から学生競技者に彼女のような教員に、ランニング情報誌の編集長まで、さまざまだった。
「東京中が私たちわず50人のランナーだけのために車を止め、道を開けて待っていて、沿道には大変な人たちが応援してくれたわけです。これは凄いことでした。」
その後、女子マラソンは'84年のロス五輪で正式種目となることが決定し。彼女もトレーニングを重ねて記録を伸ばしてきた。盛岡一高に転勤後は岩手県からの支援も受けられるようになり、大学の先輩の紹介で、瀬古利彦さんらを育てた、エスビー食品の中村清監督と出会い、監督の指導を受けるために休日毎にに岩手と東京を往復した。
中村監督の指導はすぐに成果として現れた。青梅マラソンに入賞して派遣された'81年のボストンマラソン、瀬古利彦さんが優勝したこの大会で当時の日本最高記録となる2時間40分56秒で13位。その年の東京では5位に入賞し、翌年、ニュージーランドのクライストチャーチマラソンで、自己記録を大幅に更新する2時間34分59秒で優勝した後、教員を退職し、エスビー食品陸上部入りを決意して上京、「中村門下生」となる。
中村監督というと、鬼の如き指導者との印象を持つ人も少なくないが、彼女によると、
「先生は私を女性として扱ってくださった。」
のだという。
「無理は絶対いけない。女性として走るんだから母性は大事にするのが当然という考えでした。」
もちろん、これは瀬古さんたち男子の部員に比べて「甘やかされていた」ということではないだろう。
「1日に20km走を3回、というトレーニングも1回だけですけどありました。」
ライバルだった増田明美さんはかつて、ロス五輪を目指していた時期を振り返り、
「当時の私って女を忘れていたんです。」
と語っていたのとは、対称的だったのだろう。
'83年の東京国際女子マラソンでは、日本人ランナーとして初の優勝者となり、ロス五輪の代表に選ばれる。他の代表は彼女の持っていた日本最高記録を大幅に更新した増田さん。3人の派遣が見送られるほど、日本の女子の選手層が薄かった。
ロス五輪のレースは気温30℃を越える中、地元アメリカのジョアン・べノイトがスタートから飛び出し独走し、2時間24分52秒でゴールして金メダルを獲得。16kmで棄権した増田さんが持つ、当時の日本最高記録を5分以上も上回るタイムだった。佐々木さんは11分以上遅れて19位で完走した。まさにこのタイムの差が当時の日本と世界のトップとの差だった。当時、癌に侵されていたという中村監督はレース後に語った。
「スタートの気温が35℃でゴールが40℃くらいであれば金メダルも狙えたでしょう。一升桝には一升しか入りません。」
五輪後は当時のエスビー食品副社長の世話で見合いをして婚約。翌年の名古屋国際女子マラソンでの優勝を最後に引退した。
「先生は、最後は次の始まりなのだから、最後こそ大事にしなければいけないんだとおっしゃっていました。」
その後、子育てが一段落した頃にエスビー食品陸上部に指導者として復帰。女子ランナーを指導した後に顧問に就任。エスビーが全国で開催している「ちびっこマラソン」に尽力する。
'96年、僕の地元で開催された市民マラソン大会のゲストランナーとしてやって来た彼女に会うことができた。走り終えた後、閉会式では講話があったが、これまでに聞いた、ゲストランナーの話で一番面白かった。
「アトランタ五輪の前に、特集番組でテレビに出演したんですけど、司会の方が
『最近の日本の女子ランナーは美人が多くなりましたね。』
なんて言うもんですから、思わず、横にいらした増田明美さんと顔を見合わせちゃいましたよ。」
という話から始めて、場内は大爆笑である。これが実に見事な「つかみ」であり、その後は自身の競技生活の苦労を語り、
「私たちは、真っ暗な道を手探りで歩いて、道を開いていきました。その道を後から若い人たちがついてきてくれて、有森さんにいたってはメダルまで獲得してくれ、本当に嬉しかったです。」
といった言葉で締めくくった。日本の女子マラソンは自分たちが作った、というプライドも感じられた。
その後、ツーショットで記念撮影もすることが出来、それをランニング情報誌に投稿したところ掲載していただいた。海外マラソンのツアーに参加した際、一緒に参加した女性ランナーがその写真の事を記憶されていた。
「佐々木さんって、市民マラソンのゲストにはあまり出場されないんですよ。だから、佐々木さんと一緒に写真を撮れるなんて、いいなあ、と思って、印象に残っていたんですよ。」
今回の訃報を、市民マラソンで多数の優勝経験を持つ、知り合いの女性ランナーにメールで知らせたところ、
「憧れとかじゃなくて神のような存在」だったという返信をいただいた。増田さんが山口百恵さんを引き合いに出していたのは少し大げさにも思ったが、引退後は増田さんらに比べると、表舞台に出る機会は少なく、地味な印象だったが、その功績は日本の女子マラソンの歴史の中で大きな位置を占めている。先に紹介した講話を聞いた際には、さすがに元教員だけにトークが達者だと思った。マラソン中継の解説ももっと聞いてみたいものだとも思っていた。
もう、それも叶わなくなってしまった。ご冥福をお祈りしたい。
※新聞報道では、現姓の「永田七恵」さんとして紹介されていましたが、本稿においては、現役時代の旧姓で統一しました。
参考文献
月刊ランナーズ1998年12月号
「ヒューマン・インタビュー」
月刊陸上競技1984年9月号増刊
ロサンゼルスオリンピック総集号
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