エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

我が人生の名場面・弟編(しかも前編)

2021-01-26 16:52:00 | 日記
世間一般の兄弟姉妹って、どんなふうに一緒に育つんだろう。
私は子供のころから遊び友達に困った記憶はないんだけど、
幼少期はもう圧倒的に弟と遊んでばかりいたと思います。

あんまり脳の発達した子じゃなかった私、3歳頃までの
記憶は全然ありません。母が出産でいなくなってたとか、
弟がやってきたとか、な~んにも覚えていない。
弟とは正確には1年9か月ちょいの差(2学年差)だから、
覚えてなくてもふつうなのかな。

そんな私の記憶を埋めてくれるのは1本のカセットテープ。
録音は、私が「豆っ子太郎」という絵本を弟に読んであげて
いる音声でした。私自身は覚えていないんだけど、すごく
お姉さん然として鼻高々に読んであげるおしゃまな声と、
「それでどうなったのー」みたいな弟の声が入っていました。
声の端々に「私、お姉さんなの。」という自慢げな雰囲気が
漂っていて、ものすごく可笑しい録音テープでした。
それにつけても弟の素直さよ。何歳くらいなんだろう。

小さい頃は、家族で秋ヶ瀬公園にのびろやよもぎを採りに
行きました。のびろは、味噌をつけて苦辛い味を楽しむ
大人の味わいだったので、私はガン無視してよもぎばかり
摘んでいました。素直な弟は家族と共にのびろを掘って
よもぎを摘んでいました。
帰宅すると母と私と弟で、草もちづくり。摘みたての
よもぎで作った草もちは香りが強くて最高に美味しい!
秋ヶ瀬公園かな、他のところかな…ザリガニ獲り・釣りも
やったと思います。メダカやオタマジャクシも獲ってきて
飼っていました。

子供の頃ってよくわからない遊びを編み出すもので、一時、
私と弟でぐるぐる歩いて回りながら「ドージードージー
バンジェンジョン」と歌い続け、途中で「オーエー」と
掛け声がかかるとばったり倒れる、という謎の遊びをして
いました。そしてまた2人で起き上がって、「ドージー
ドージーバンジェンジョン…」。
こうして勝手に遊んでくれるんだから、母にとって少しは、
育児が楽だったのかなあ…と今想像したりしています。

積み木、コマ、だるま落とし、けん玉なんかも弟とよく
遊びました。ブロックもよく作って遊んでたな。
私は紙の「きせかえ人形」で遊ぶのも大好きだったし絵を
描くのも好きだったので、一人遊びもたくさんしていたの
ですが、それ以上にとにかく弟と、家の中では年中遊んで
いたな~と思います。
お正月には親の引率で凧揚げにも行って。
日本にあるスタンダードな遊びは片っ端から弟とやったん
じゃないかなあ。

父は将棋をする人で、私と弟もてほどきを受けました。
まずは駒に慣れるため、将棋の駒の山崩しから。
そして将棋盤の周りを回るすごろくのような「回り将棋」。
いよいよ将棋のルールを教わり、対局です。
父は強いので、何枚もの駒を落としてやってくれます。
弟はそれなりに対局できていたのですが、私は弱すぎて、
とうとう父が「歩と王だけ」になったのに負けました。
そして姉弟対局もさんざんやりましたが、勝った記憶は
皆無です。おかしいな、私のほうが年上のはずだが…

父は釣りもする人で、親子で釣りにも行きました。
護岸でも釣ったし釣り船にも乗りました。ゴカイなどの、
気持ち悪い虫をばんばん針につけて釣りました。
釣ったアジなどを、母がさばいて食卓に出してくれました。
釣ってきた魚も新鮮ですっご~く美味しい。
これも、やっぱり私はどんくさくて、弟のほうがいつも
上手く釣れていた記憶があります。

さらに、父は麻雀も強い人で、我が家には麻雀牌が一式
揃っていました。コタツの季節には、テーブルの上の板を
ひっくり返して父、母、弟、私で麻雀をやりました。
お友達は「ドラえもんのドンジャラ」とかをやってるのに
我が家はマジに麻雀です。
まあ、母も頭数合わせみたいなものだし、子供たち相手
なので、ほんとにお遊びでしたが、十歳にも満たぬ子供を
交えて雀宅囲んでいるなんて、ちょっと変わった家だよね。

それにしても、父って「おいしいとこどり」で、母って
しつけだとか教育だとかの厳しい役割を担うことになって
損だと思うな。
母は、幼い私と弟を連れて、毎週図書館に通っていました。
借りるのは紙芝居を1つと本を2冊だったと思います。
私は声を出して紙芝居をやってみて、絵とお話をずらして
読むようになっているあの構造を理解して、紙芝居を自作
するような神童ぶりをみせはじめます。
一方で、弟はあんまり本は好きではなく、外に遊びに
行きたいのです。図書館に行くことは楽しそうでしたが、
本に興味を持っていたのは圧倒的に私のほうでした。

さらに、小学校に上がると、母は私と弟に夏休みの教材を
買ってくるようになりました。国語の漢字と読解の計2冊、
算数の計算と読解問題の計2冊。1日に4枚の教材が出て、
それをやるように言われます。
私はこれが楽しくて楽しくて。
普通に考えればせっかくの夏休み、なんで毎日余計な
勉強をやらされるのか!? 子供には苦痛なのでは!?
しかし母と私は、揃って、こうして勉強をするのが楽しい
人種だったのです。私は時折「明日の分もちょうだい」
とか言って(国語のほうばっかりだけど)余分にやる始末。
母はもちろん喜び、ますますやらせる気がみなぎります。
「普通の子」の弟にとって、これがいかに苦痛だったか、
想像に難くありません。
当時の私は「このなんかちっさいドリルみたいな勉強の
紙をさばくの、すごーく楽しい」だったので、母と二人で
弟を相当追い詰めてしまったと思います。

毎年、夏にはNHKの岩井の寮に、家族で海水浴に行って
いました。
母は泳げないので、いつも砂浜で優雅にパラソルを立てて
荷物番です。サングラスをかけた小顔で脚のきれいな母が
本を読んで待っていてくれるのは安心感がありました。
私は一回ガチに溺れて、足のつかない深さのところで
浮き輪が外れて暴れているところを父に救助されました。
弟はわんぱくな割にナイーブで臆病なところがあります。
海にビニールプールを浮かべた中でどこか不安げな笑顔で
写っている弟の写真があるのですが、その背後から私が
嬉しそうに浮き輪で近づいていく様子も写っていて、私は
この写真が大のお気に入りです。
実はこの後、私が弟の乗ったビニールプールを少し沖に
運んで行ってしまい、弟が怖くなって泣くのです。
私は意地悪するつもりなんか全然なくて、「沖につれて
いってあげよう」くらいの気持ちなのですが、結果として
無邪気で可愛い弟に向かって邪悪な者が近づいていく、
なんとも言えない悲劇の前の写真になっていて可笑しいの
です。弟よごめんな。姉ちゃん悪気なかったんよ。
私と弟は毎年毎年、砂浜掘ったり磯を覗いて小さい魚や
カニを獲ったり、海でも楽しく遊びました。
潮干狩りにも、家族で何度も行ったっけなあ…

冬には家族でスキーにも行きます。
母は泳げないけどスキーはできるので、家族全員で楽しく
スキーができます。父はなんか一般の人より上のランクの
スキーヤーだったので、子供たちにもスキーを上手く
教えてくれました…が、もちろん弟は上手く滑り、私は
なかなかうまくなりませんでした。足、ハの字にならずに
なんか揃っちゃうんだよね。「わあー」と叫んで滑って
いってしまって父が止めてくれたり転んだり、スキー、
怖かった…。父が私をまるごと抱えて滑ってくれるのが
一番楽しかった。
隣で上手いこと一定のスピードでのろのろボーゲンが
できている弟と好対照だったと思います。

ある年のスキー旅行で、家族を乗せて父の運転する車が
事故を起こしたことがありました。
蛇行した坂のトンネル内が凍っていて、スリップしたの
です。父はなんとかハンドル操作をがんばってしばらく
走行できたのですが、とうとうトンネル壁に激突して
しまいました。
幸い、弟が頬にかすり傷を負っただけで、誰も大きな
ケガをせずに済みました。長く蛇行してくれたので、
全員が身構えていられたのが大きかったと思います。
レッカーしてくれる車を待つ間、車の外で待っていた
時間が長くて寒くて…。
私と弟は当時小学生だったと思います。衝撃の思い出と
なりました。

ところで、母の実家は茨城県のつくば山の近くです。
夏休みには必ず母の実家に泊まりに行きました。
そこには弟の2つ下の従弟が1人いました。
また、その時期に叔母一家も来たりして、そうすると
弟の1つ下の従弟も来ます。
男3人、女1人の面子なので当然「男遊び」になります。
広い芝生の庭で三角ベースをやったり、虫捕りに
出かけたりしました。泊まりに行くのが春休みだと裏の
竹やぶでタケノコ採りを教わったり、田舎の遊びも
いろいろ楽しかったなあ。
「カンペ」という地蜘蛛を獲って遊ぶことになり、
田舎の祖母が袋になっている地蜘蛛の巣のことを教えて
くれて、いざ出陣! となったのですが、私はそれより
アリジゴクに興味があったので、男どもがカンペ獲りを
やっているのに一人でアリジゴクを掘っていました。
そして祖母に「まったく○○は、ごじゃ(ひねくれた子、
変わった子)だから」と言われました。
う~んでもアリジゴクは獲った後も巣を作らせてアリを
食わせたりしていろいろ興味深いんだよ。顔にも、よく
見るとす~っごく小さい目が点々とついていて可愛いし。
でも「みんなでカンペ獲りをするんでしょうが…」と、
協調性のなさに呆れられるような子だったのでしょう。
でも、一人だけ女の子なのにいつも男遊びによく
付き合ってたと思うけどなあ。
ふだんから弟に合わせて遊んでたから、男遊びのほうが
私にとってのスタンダードではあったけど、「○○は
一人女の子だから」とか言ってもらえたこと全然ない。
この田舎でのバケーションは、やがて田舎の本家に次男
が増え、叔母のところに娘が増え、さらに田舎の本家に
三男が増えました。女の子が増えたけど、ちょっと年が
離れていたこともあって、結局田舎に行くたびに男遊び
ばっかりしてたのは変わらなかったな。

弟は「ゴレンジャーごっこ」とかを友達とやるのですが、
まれに、私を仲間に入れてくれました。
弟と男友達+私、ということは私は紅一点。なら私は、
ゴレンジャーの紅一点「モモレンジャー」役だよね、
そう思うよね? でも…
「おまえはキレンジャーな。」
弟は私に三枚目の「キレンジャー」の役をやらせ、
モモレンジャーの役は全然くれませんでした…。
1、2回だけモモレンジャー、やらせてもらえたときは
嬉しかったな。「いいわね、いくわよ」って言って、
イヤリング爆弾を投げる真似をするだけなんだけど。
こういう仲間に入れてもらえるとき、弟の友達からの
私の呼び名は「□□□(弟の名)の姉ちゃん」。
この呼び方で呼ばれるの、いつもうれしかったんだな~。
学校とかで弟の友達に時々「あっ、□□□の姉ちゃん」
とか言われるのもうれしくて。
なんかね、弟がいるって、無条件にうれしいんですよ。

お小遣いとして小銭を手に入れると、2人で近所の
駄菓子屋に行きます。弟はくじびきのスーパーボール
とか袋とじのメンコとかを買います。
私は「10円ガム」「ヨーグルト」「きなこ棒」などの
駄菓子を普通に買うのですが、男の子の買い物って…。
でも、その弟のメンコで、私が一緒に遊ぶんだけどね。
スーパーボールの投げ合いとかも。
なのに駄菓子は自分で食う姉ちゃんよ…。

ところで子供の頃、年賀状って出してましたか?
我が家では、父が木版画で年賀状を制作していました。
木彫りで何枚も版を作って、絵の具で濃淡などを載せ、
多色刷りをするのです。
父は私と弟にも木版画を教えてくれました。
最初は簡単なゴム版画から。子供に彫刻刀を持たせて、
ケガをさせないようによく教えてくれたと思います。
父は家の中で時間をかけて油絵なども描いていて、
私は完全に父の影響を受け、絵にも版画にも興味を
持ちました。一方で、弟はそういう方面に特に興味は
湧かなかったようです。彫刻刀で何かを削る感じは
楽しかったのかな?
私も弟も、木彫りの版画ができるようになりました。

クリスマス、サンタさんがくれるのは、本を2冊と
大きなおもちゃ。私は「こえだちゃんと木のおうち」
「ママ・クッキー(ほんとにクッキーが焼ける!)」
などをもらいました。
が、やっぱ、弟の超合金のロボットや戦隊ヒーローの
でかい基地のおもちゃとかで弟と一緒に遊んじゃうの
です。ライディーンの超合金を「ゴッドバード」に
変形したり、マジンガーZのビニール人形の腹に
マブチモーターをつけて「スクランダークロス!」と
叫んで水の中を泳がせたり、お約束の「パンチが
なくなった」事件が起こったり…
テレビでは、私は確かに魔女っ子ものなども見て
いましたが、弟と一緒にヒーローロボットアニメを
見るのが基本中の基本でした。
ヒーロー系のおもちゃで弟と遊んだ時間は無限。
たくさん、たくさん遊び続けた記憶があります。

当時は「スーパーカー消しゴム」が流行しました。
弟と私は、レースのコースや、「ガソリンスタンド、
車庫、家」などが併記された一般の道のコースを
チラシの裏に書いて、スーパーカー消しゴムのお尻を
パッチンボールペンで弾いて遊びました。
飽きるほどスーパーカー消しゴムを弾いた後…なんと
弟の手に、当時皆が夢と憧れた、「ランボルギーニ
カウンタックLP500」のラジコンカーがやって
来たのです。真っ赤な超かっこいいラジコンカー!
姉弟はスーパーカー消しゴムを忘れてラジコンを抱え、
外に飛び出して思いっきり遊びました。
弟が駆る真っ赤なランボルギーニの軽やかな走行を、
眺めて追いかける至福の時。
これも本当に誇らしく、楽しかったなあ。

さてさて、一体どこまで弟と遊んだ話が続くのよ。
いや…それが、これでまだ折り返しなんですよ。
だってこの時点で、私と弟はまだ東京在住。
この後で一家は福岡へ引っ越し、また新たな幕が開き
ます。もう読む人なんかどうでもいいや、という
ことにして、弟と遊んだ話を全部書くことにしました。

なんか改めてこうして振り返ると姉弟ってすげえ。
どれだけたくさん一緒にいて、一緒に遊んだんだろう。
後編に続く!