エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

プロ野球 人生を変えた名・珍場面

2019-12-26 21:04:54 | プロ野球
我が人生、プロ野球とともにあり。
ということで、私の人生において、プロ野球にまつわる
「人生を変えた驚きの名・珍場面」を振り返ってみます。

子供の頃は巨人ファンでした。
親に連れられて、後楽園球場に行ったことも何度かあります。
父、母、弟、私、全員が巨人ファンだったわけですが、
最初に私の野球ファン人生を変えたのは、「帽子」でした。
弟はいつも巨人の野球帽をかぶっていました。
当時、小学生の女の子が野球帽をかぶるなんて文化はありませんが
小学4~5年生、10歳前後の私は「私も巨人の野球帽がほしい」
と親に言いました。すると、巨人ファンのはずの母は、私を
野球帽売り場に連れて行き、こう言いました。
「同じ帽子だと(姉弟の)どっちの帽子かわからなくなるから、
〇〇ちゃんは別の帽子にしなさい」
そこに並んでいたのは12球団それぞれの帽子。いやいや母よ、
なんで巨人ファンの娘に、他の球団の帽子を買えって言うの!?
私は「なんであの時、巨人の帽子を買わなかったのか、変な子供だ」
と思っていた時期もあるのですが、そういえば母のせいだった…。
私が選んだのは「この、小さい星がついてるのが可愛い」という
意外に女の子らしい理由で「ロッテオリオンズ」の帽子。
ロッテのロゴは「ロッテのLとオリオンズのOを組み合わせて、
小さな星(オリオン座の星?)をあしらったもの」でした。
小学校高学年の私の写真は、ひらひらのワンピースを着ていても、
頭にはロッテの野球帽が…。
弟が巨人の帽子、私がロッテの帽子をかぶって暮らしていました。
すると私にとって、やっぱりロッテは特別な存在になるんですよ。
高校野球で見ていて「すごいな」と憧れた愛甲猛もロッテに
行っていたし、新聞の片隅でしか見られないロッテの状況が
(当時のスポーツニュースはパ・リーグなんてほぼスルー)
気になるようになり、「巨人とロッテのファン」になりました。

斎藤雅樹に傾倒して一番「巨人ファン度」が高かった高校時代も、
巨人戦のチケットはなかなか取れないという認識のため、
結局自分で東京ドームに行こうと思うことはありませんでした。
初めて、自分でチケットを買って野球場に行ったのは、なんと
ロッテオリオンズ本拠地、あのぼろっちい川崎球場。
当時私が「友達以上」を目指していた巨人ファンのイケメン男子と、
冗談の延長線上で球場を訪れた1991年の夏。
ガラガラのライトスタンドで、ごく一部に固まって妙にアツい
応援団をすごいと思いました。内野席は超絶ガラガラだし。
結果としてその巨人ファン男子は獲り逃しましたが、それが
今のダンナとの縁につながっていくのだから不思議なものです。
川崎球場にはこの一度しか行く機会がなく、翌年にはなんと
ロッテが移転して「千葉ロッテマリーンズ」になりました。
同じ「ロッテファン」でも、川崎球場に行ったことがあるのと
ないのとでは「箔」が違うじゃないですか♪
私は、誇り高き「川崎球場に行ったことのあるロッテファン」
になれたのです。まあ、当時はほぼ巨人ファンでしたが。

私がゲットした人生初の彼氏(今のダンナ)は千葉県民でした。
ロッテも千葉に移転。であれば、私が千葉マリンスタジアムに
行く際に、「千葉県民だから来て」と彼氏を付き合わせるのは
そんなに悪いことではないでしょう。
それがたとえ、極寒の3月のオープン戦「ロッテ×巨人」の、
寒風吹きすさぶレフトスタンドであっても。
彼氏が野球にまったく興味がなくても。
自分が試合から目を離したくないために、彼氏に何度も
「寒いから、あったかいものを買ってきて」と頼んで
使いっぱにしたとしても。
いやあ、彼氏(千葉県民)、いつまで経っても野球ファンには
ならなかったけど、何度も何度も野球場に付き合ってくれて、
ほんとに優しかったな。
そんな千葉県民の彼は、立場が「夫」に変わっても、
野球にはあまり興味がなく、でも野球場には来てくれて…
しかしある時、ダンナがロッテファンになる日が訪れました。
ゴールデンウィーク、野球観戦でばかり千葉に行っている
我々夫婦は、球場からそう遠いわけでもないのにご無沙汰して
しまっているダンナの実家に立ち寄りました。
めっちゃ、野球観戦のついでになっちゃいましたが、
半年以上ほったらかしていたダンナの両親と、久々の
楽しい時を過ごしました………。
それから一週間後、お義父さんが急逝したのです。
「千葉にロッテ戦を見に行ってたお陰で死ぬ前の父に会えた。
ずっと顔を見ないまま死なれるところだった。ヨメのお陰でも
あるが、ロッテにも生涯感謝したい」
こうして、ダンナは急速に野球に興味を持ち、もともと頭の
いい人なので、野球の戦略的技術的な部分などをめきめきと
理解していき、ガチでアツいロッテファンに育ちました。

2005年、ロッテ×阪神の日本シリーズ第一戦のチケットが
取れた時は本当にうれしかったものです。巨人ファンだった
時代は、日本シリーズなんてプラチナどころじゃない
絶対に取れないチケットだったので、自分が日本シリーズを
観戦できるなんて、思いもしませんでした。
しかも、夫婦で参戦したその試合で、大学卒業から10年
ご無沙汰していた大学のサークルの先輩にバッタリ会って
めちゃくちゃびっくり。
ダンナと私は大学のサークルの先輩後輩なのですが、
なんとそのサークルに希少なるロッテオリオンズファンが
一人いて、その人もこの試合に来ていたのです。
あの「ロッテファンって存在するの?」というレベルで
ファンの少なかった1991年に私が初めて出会った
自分以外のロッテファンの人。でも、その彼としては、
うちのダンナがガチロッテファンになってたことが多分
一番の驚きだっただろうな。笑
しかも、この試合は「霧でコールド」という珍試合に…。
試合再開を期待しながら、阪神ファンの方々と共に、
球場じゅうでぐるぐるウェーブを繰り返したのは本当に
楽しかった…。実は霧が球場に垂れこめてきた時に、
「劣勢の腹いせに、阪神ファンが発煙筒か何かを
焚いたのでは」と思っていたことはナイショです。
普通の日本シリーズとして「勝利の瞬間」が見たかったけど
霧の中、主審が出てきてコールドを宣言するというのも
超・激レアな経験ということでいい思い出です。

すっかりロッテを応援しに千葉マリンに通うようになり、
ビジターとしても野球場各所に通うようになった私ですが、
あくまでも内野観戦派であって、応援に参加することは
ありませんでした。
日本野球の応援文化は好きです。子供のころから、
「かっとばせー中畑」とか叫んでテレビを見ていたので。
でも、自分がその中に入って声をあげることは考えても
みなかった…
なのに、ある日、その運命を変える日が訪れました。
東京ドームで開催された日ハム×ロッテの試合。
内野自由席を購入した私は、すいていたので、周囲に
人のいないエリアにぽつんと座っていました。
そこに「お一人ですか?」という声がかかりました。
「はい」と答えると「お隣、失礼します」と座ったのは
同じく一人で観戦に来た女性。
おお、同志か…と思ったら、彼女は桁が違いました。
内野席なのに腕を振り上げ、突如私に向かって、
「レッツゴーマーティー、からお願いします」
とレクチャーを始めたのです。!?!?!?
スルーするのも申し訳なく、気をつかってなんとか
彼女のレクチャーに合わせて応援をやってみる私。
もちろん内野席だから座ってできる範囲内ですが、
腕を振り、声を出して応援を続けるハメに………
しかし、これが実に気持ちいい。
応援歌はもともとさんざん耳にしていてほとんどの
メロディーを覚えていたのが、彼女の歌声で歌詞を覚え、
主力選手の応援歌はたいがい歌えるようになりました。
以降、応援しながら見るようになり、やがてはマリンの
ライトスタンドや、ビジター球場のレフトスタンドで、
人一倍大きな声で歌って叫んで跳ぶようになりました。
ダンナも付き合わされて歌って叫んで跳ぶようになり、
「あの、野球に興味もなく、球場で大声を出すようには
見えない温和でインドアインテリな人が…」と感慨に
ふけりました。
でも絶対変だよね、あの東京ドームのロッテ女子。
今も、彼女がどこの誰か、まったく知りません。
でも彼女によって私の人生の新たなドアが開かれたことは
確かなのでした。

そして、2009年に起こった「ロッテ応援団による
西岡剛応援ボイコット事件」も我が野球人生における
大きな出来事でした。
ボビー・バレンタインはロッテ球団の歴史を変えた
大功労者であり、私もその信者の一人です。
2009年は、ボビーの去就について、一部ファンと球団が
対決する状態となり、過激なファンが球場のライトスタンドに
暴言やセクハラな横断幕を掲げる騒ぎに発展しました。
西岡剛がその状況を見て「子供たちも来るのだから」という
ごくごく真っ当な理由でそうした「汚い」類の横断幕を
やめてほしいと訴えたところ、翌日から西岡に「裏切者」
という横断幕が掲げられ、応援がボイコットされる事態に
なりました。
私はボビーにいてほしいけれど、球団がボビーにこれ以上の
金を出せないというならやむを得ないという考え方でした。
もうボビーの改革は済んだし、功労者として送り出すのも
良いと思っていました。
しかし、考え方がどうあれ、西岡に対してこれはない。
彼は「応援団が間違っている」ではなく、「子供たちに
そういう横断幕を見せるのは良くない」と中立の立場で
苦言を呈しただけです。
私は、千葉マリンのバックネット裏2階にいましたが、
モニターや遠目に「裏切者」横断幕を見てかなりの憤りを
感じました。ボビー信者でも、西岡が決して間違って
いないことはわかります。
試合開始後も、西岡の応援をするタイミングで、何か
ラッパの音楽を奏でてお茶を濁し、応援を先導せず
放棄する応援団に怒りがこみ上げて外野席に文句を言いに
行きたかったのですが、今いる場所は応援席から一番遠く、
しかもマリンは内野から外野への通行ができません。
試合は延長戦に入り、グラウンド整備で球場が静かになった
タイミングで、私ははるかに遠い応援団に全力で叫びました。
「応援しない応援団なら、帰れよ!!!!!」
すると間髪をいれず背後のオッサン2人が「そうだ、
帰れ帰れ!」と追従してくれました。
それからしばらくして、内野席を中心とする球場全体から
さわさわ、ざわざわと「帰れ」のコールが湧き上がり、
とうとう大きな「帰れ」コールになりました。
皆、同じ気持ちだったのでしょう。
なんか私が「帰れ」コールを先導したみたいになって
恐縮でしたが、同時に、大きな感動をおぼえました。
やっぱりロッテファンは素晴らしい。
延長戦では、応援団を無視して球場じゅうで「ツヨシ」
コールをして西岡を応援。太鼓や笛などの先導がなくても、
心がまとまれば声援は綺麗に揃うんです。
延長12回裏、球場中に声援された西岡が3塁打を打ち、
球場は大歓声に包まれました。あとはサヨナラ勝ちするだけ!
次の打者は堀幸一。応援団が堀の応援歌を奏でても、
球場のロッテファンはそれを無視して「コーイチ!」の
コールを続けました。
結果、堀幸一はスクイズ失敗でゲッツー、試合終了。
「あーあ」というため息の後、皆が三塁打を打って
チャンスを作った西岡に笑顔と拍手を贈りました。
西岡も、笑顔で帽子を取って球場じゅうにお礼の気持ちを
伝えていました。
勝ったわけでもないのに拍手と笑顔に包まれたあの日の
球場の様子は、美しく誇らしい景色として心に残っています。
翌2010年、西岡剛をキャプテンに据えたロッテが、
シーズン3位ながら奇跡以上の輝きを放って日本一に
なったのは、野球の神様から西岡とロッテファンに贈られた
プレゼントだったんじゃないかなと思っています。
あの日の球場のロッテファンは、本当に素晴らしかった…。

そして最近では、イチロー引退を現地で見送ることができた、
(当ブログ別記事参照)というのが我が野球好き人生の
名場面です。

えらい長くなってしまいましたが、47年分あるので、
ホントはまだまだ「2015年、神宮のライトスタンドで
ヤクルト優勝を生で見るまでの長い物語」などいろいろ
あるのです。
でもまあ、私の野球人生の重要な場面は、ここに長々と
書いたエピソードが主なものかな、ということで超~長文
失礼いたしました。

私と読売ジャイアンツ

2019-12-14 23:14:07 | プロ野球
なんか気が向いたので自分の巨人についての全てを吐いておく。

生まれた時点で、私はすでに読売ジャイアンツのファンだったと
思う。両親が巨人ファンで、ナイターをテレビで見るのを
欠かさない家だったので、胎教も受けていたはず。
幼少期も、家では巨人戦と高校野球が必ずかかっていた。
自分が巨人ファンになった瞬間を、私は知らない。

福岡に引っ越したら、町内会対抗の野球がハンパなかった。
茶山と田島の何丁目ごとにチームが組まれて対戦する。
弟は茶山2丁目チームのピッチャー。
きっと将来は巨人のエースピッチャーになるんだと思っていた。
巨人以外の球団に行くという“発想”そのものがなかった。
そういう時代だったんだなと思う。
2人でたくさんキャッチボールをした。
私のグローブはお下がりで、弟のグローブはもちろん自分用。
弟の帽子は、試合では町内のだけど、普段はもちろん巨人の
野球帽。私も巨人の野球帽がほしかったのだけど・・・
ここで私がロッテオリオンズの野球帽を買うことになったのが
以降「巨人とロッテのファン」を名乗ることにつながる。

小学館の「小学〇年生」という雑誌には「リトル巨人くん」
という漫画が連載されていた。小学生の滝巨人(きよと)
という少年が読売ジャイアンツに入って活躍する漫画。
中畑、篠塚、原、山倉、堀内など当時の人気選手が実名で
そっくりな似顔絵で出ていて、本当に面白かった。

実は幼児期、小中学校時代の私は脳みそも人間的にも
非常に未熟かつ視野が狭くて、江川や桑田のダークな入団の
経緯にどうこう思ったりする感覚はなかった。

私にとっての巨人黄金期は藤田元司監督の下で、
生え抜きのスターたちが活躍し、超投手王国を築いていた
あの時代。もちろん中尾捕手という外様の存在が強さに
影響したのは確かだが、とにかく巨人育ちの素晴らしい
選手たちが活躍して勝っていく、それが私にとっての
読売ジャイアンツだった。
そして斎藤雅樹という、投手としても人としても最高の
選手との出会いは私を巨人ファンから「巨人狂」にした。
高校では巨人ファン仲間を見つけてははしゃぎ、
成人式は「まだ19歳だから晴れ着は着ない」と言って、
オレンジ色に黒の飾りリボンのついたジャイアンツカラーの
6万8千円もしたファッションスーツを着て出た。
日本一になればスポーツ新聞全紙を抱えて大学に行った。
自己紹介には「巨人とロッテのファン」と書いていたが、
巨人9:ロッテ1、いや多分ほぼ巨人10の度合いで
巨人ファンだった。

監督が長嶋茂雄に代わって巨人の良き文化はぶち壊された。
私が子供のころから見ていた読売ジャイアンツは、
自分のチームで育ってきた生え抜き、ずっとおなじみで
いてくれた素晴らしい選手たちの活躍するチームだった。
だが、長嶋は他所の看板を次々に金で買ってきた。
他所のチームの看板選手が並ぶスコアボードに、
巨人、読売ジャイアンツの矜持はもはやなかった。
ホームランを待つだけの退屈な戦略も、すでに目の肥えて
しまった私の野球観にはまったく合わない。
さらに、巨人ファンの多くはそんなものを求めていなかった。
この時期に、私の周辺にいた同世代の巨人ファンは全滅した。
「こんなの巨人じゃないし、プロ野球はもういい」という
感じで野球ファンまでやめてしまった。
私は、斎藤雅樹がいたから、巨人に辟易しつつもファンを
やめることはできなかった。
だが、あんなに好きだった野球中継を見ることは著しく減った。
私にとっての「プロ野球、失われた10年」に入った。

ある日、電話が鳴った。父からだった。
「斎藤引退するって、今会見がテレビで流れてるよ」
滂沱の涙を流しながら引退会見を見た。
長嶋が斎藤、槙原、村田を引退に誘ったという。
だから3人もの選手が同時に引退になった。
桑田も言われたが断ったという。聡明だと思う。
長嶋茂雄はどういう人間なんだ。年寄りにとっては神様だか
なんだかか知らないが、四十代以下の元巨人ファンには
「巨人をダメにした張本人」でしかない。

どんな大金を払っても斎藤雅樹の引退試合は命をかけて
絶対に行くつもりでいた。
だが、あまりに急に、しかも長嶋の勇退と一緒に引退
セレモニーがある日のチケットが手に入るはずもなかった。
長嶋は私から斎藤を見送る機会も奪った。
そして、斎藤雅樹を200勝させず、いくら150勝が
かかった試合だからといっても延長12回まで179球も
投げさせるような無謀な起用で斎藤の晩年をつぶしたことも
許せない。
野球界で、私から誇れる球団と最愛の選手を奪った長嶋は
最も嫌いな人物だ。生涯許す気はない。

2001年、斎藤雅樹の引退で私のプロ野球愛は死んだ。
それは2004年にボビー・バレンタインが再来日して、
私の二番目に好きだった球団・ロッテを魅力的に作り変えて
くれたことでロッテファンとして蘇ったが、もはや私は
「失われた10年」を経て巨人ファンではなくなっていた。

現在の巨人ファンは、FAで他球団の看板選手を買い漁る
ことに抵抗がないようだ。
その一部が飼い殺されて選手生命を無駄に消費していたり、
若手選手の成長機会が阻害されたりしていても、
チームが金を使うことを「頑張っている」と思っている。
「他球団の主力を引き抜けば他所が弱くなって優勝できる」
というやり方にも見えるFA獲りが、セ・リーグ全体の
レベルを下げていることに気づかないのだろうか。
巨人の栄光のエースナンバー「18」を外様がつけることに
なんとも思わない人も増え、背番号への憧れや誇りという
感覚も薄れてしまったようだ。
「球界の盟主」であった「栄光の読売ジャイアンツ」は
長嶋茂雄が滅ぼしたと私は思っている。
自分で手を下しておいて何が「永遠に不滅」なのか。

私の中の栄光の読売ジャイアンツは、藤田元司と斎藤雅樹
とともにある。
あの時代、正力松太郎が「紳士たれ」と説いた理想の
読売ジャイアンツがいた。その時代に巨人ファンで
いられたことが私の人生の喜びである。