エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

2017年、大谷翔平を追いかけて?(東京ドーム年間シート体験記)

2020-02-29 23:15:01 | プロ野球
2017年は、我が人生において最もカオスに野球三昧の一年でした。
ロッテファンなのでロッテ戦はもちろん行くわけですが、ヤクルトの
ファンクラブ会員でもあるので石川雅規登板試合を中心にヤクルト戦に行き、
さらに我が神・斎藤雅樹が(前半戦は)巨人の二軍監督だったのでイースタン
リーグの巨人戦も見に行ったうえに、なんと、大谷翔平を見たいがために
日ハムの東京ドーム年間シートを購入してしまったのです。

これは、元G党でカツオが好きなかもめによる、大谷翔平観戦記…
に見せかけた単なる「東京ドーム年間シートオーナー体験記」であります。

大谷翔平について、最初、私は「さすがにプロで二刀流をやるのは無理」と
思っていました。
しかし、まず大谷の投球を見て「これは投手をやめちゃダメだ!」と思い、
次に打球を見て「この打球の伸びは天性のもの、この打球を打つ人が打者を
やめちゃダメだ」と思いました。
で、「どっちも絶対やめちゃダメなんだから、二刀流をやるべし」という
意見へと即座に転じました。試合を見て、そうしか結論できなかった。

2016年には、東京ドームで大谷が出場する試合を見たくて二度ほど
会社帰りにダッシュで行ってみたのですが、もう試合が始まっているのに
チケット売り場が超~大行列で、しかも「今からお並びいただいても、
チケットをお求めいただけない可能性が高いです」というアナウンスが
繰り返されるような状態でした。
定時ダッシュで電車賃かけて駆けつけたのが無駄足! ロッテファンなのに、
他球団の選手のためにこの騒ぎ!
大谷翔平は、そのくらい魅力的で素晴らしい選手ということです。

2016年のパ・リーグ優勝は日ハムですが、大谷翔平が先発して1対0の
完封勝ちで決めたという「なんだこりゃ」なヒーロー漫画状態。
「投手なのに先頭打者ホームラン」とか(しかもその試合8回まで投げてる
んだよ!)、CSで球速165キロ計測とか、何なのこの人!
こんなすごい選手をなんとかしてもっとちゃんと見たいじゃない!!

2017年、シーズン前にだらだらネットを見ていた私の目に、「北海道
日本ハムファイターズ 東京ドーム年間シートのご案内」という広告が
入ってきました。
「…年間シート。……日ハムの東京ドームの年間シート!?!?」
俄然、刮目する私。
日ハムは北海道に移転する前、東京ドームを本拠地としていたので、
その頃の名残で、ある程度の数の試合を東京ドームで開催します。
「多分10試合とかだから、そんなにべらぼうな金額ではないはず…」
恐れおののきつつも日ハムの公式サイトから年間シートの案内を見てみたら、
東京ドームでの主催試合は7試合で、東京ドームホテルのブッフェつきの
席で5万数千円というお値段でした。しかも7戦中3戦がロッテ戦!
さらに4人まで使える指定席or自由席引換券1回分と、鎌ヶ谷球場
(日ハムの二軍本拠地)のチケット多数ついてる。でも5万何千円…
いろいろ悩みましたが、シンプルに「大谷翔平のために5万出せるか?」と
自分に問うたら、その返事は即答の「ハイ」でした。

2018年にはメジャーに行ってしまうだろう。日本で今年のうちに見て
おかなければならない。だって私、飛行機ダメだからアメリカ行けないもん。
あの、去年は入れなかった東京ドームのハム戦の席を全試合分確保できる。
買うっきゃないよね♪

ネットで連絡先を伝えて、年間シートの案内じたいは電話で行われました。
「今でしたら、一番前のお席がご用意できます」
まじか!! 申し込み時期は遅かったけど、1人だから隙間があった模様!
諸々説明を受け、その場で申し込みを決めました。
私は「東京ドームのシーズンシートオーナー」になったのです。
耳からそれだけ聞くと大金払ったすっごい金持ちみたい!!

とはいえ、「年間シートを買う」というのは勇気が要るものです。
実は、そのハードルを下げてくれたのは読売ジャイアンツでした。
巨人の特別チケットに『読売ジャイアンツOB解説付き「直生」練習見学
ツアー』がセットになった指定B席というのがあるのです。巨人OBの
20分くらいのトークがついた、東京ドーム裏方ツアーみたいなもので、
ビールの売り子ちゃんのタンクを背負わせてくれたり、VIPルームや
年間シートを案内してくれたりするツアーがついてきて、普通の指定Bと
同じ価格。超、お買い得。
私の母は桑田真澄を命がけで愛する人なので、桑田がこの担当の時に
母を連れていってあげたのですが、その時に引率のチアの女の子から、
「ビュッフェのついた年間シート」を説明され、試しに座ってみたりして
いました。だから、どんな席なのかは完全にわかっていたわけです。
小心者で守銭奴な私が「年間シート」という高いハードルを越えられたのは
読売ジャイアンツの営業努力のお陰といえるでしょう。

日ハムと巨人の東京ドームタッグプレーに仕留められた私は、耳をそろえて
全額を支払いました。それからしばらくして、いよいよ1年分、7枚の
チケットと特典チケット等々が送られてきました。
日ハムの看板選手たちがプリントされた券面に苦笑い。
ロッテファンの私が、この、中田翔とかがどどーんとポーズをつけてる
券面をおし戴いて東京ドームに通うのか。大谷の券面は記念になるが。
そして、年間シート購入者専用サイトから、購入者オンリーのいろんな
交流イベントなどが申し込めるようにもなっていました…が、これは、
全部がソッコー埋まっていて、とうとう一つも申し込む余地がありません
でした。このへんは改善してほしいなあ。せっかくだったのに。

4月20日木曜日、東京ドームでの日ハム×オリックス戦が、人生初の
オーナー様観戦となりました。
しかし…スターティングメンバーに、大谷翔平の名はありませんでした。
大谷は4月8日に足を痛めて9日に登録抹消となり、この年、東京ドーム
での出場は東京ドーム最終戦の9月7日だけ。その日は「3番・指名打者」
で先発出場して2打数1安打(2四球)という結果で、私が年間シートで
見られたのはヒット1本だけでした。大谷出る出る詐欺やん~~!!

と、いうことで残念ながら大谷翔平レポートにはなりません。
人生初のオーナー様観戦の日、私は会社を早退して東京ドームに向かいました。
(野球だライブだと、年中早退しててよくクビにならないな!)
18時試合開始のところ、初日なので16時半すぎくらいに到着。
シーズンシートオーナー用の入り口から恐る恐る入ると、当然ながらまずは
チケットの確認。ビビり散らしつつも無事入場。私の席は、入り口から
まっすぐ行って階段を下りた先の最前列、通路から2番目でした。
ほどなく隣の通路側の席に、巨大なレンズを装着したカメラを手にした女子、
いわゆる「バズーカ女子」がやってきました。
席の構造上、彼女も一人でシーズンシートを買っていることは明らか。
これは、毎試合このカメラで好きな選手の写真をばっしゃばしゃ撮るために
大枚はたいてシートを買ったのでしょう。なるほど、これもまたファン道。
「あっ、よろしくお願いします~」
バズーカ女子は愛想よく挨拶をしてくれました。わずか7試合とはいえ、
1シーズン隣り合わせになるので、隣が明るい女性でホッとしました。
本当は隣の席の他人と友達然と過ごすのは面倒なんだけど(一人で観戦したい)
このバズーカ女子とは最後まで時々仲良く話をして楽しくやりました。
あっ、すぐに「実は私はロッテファン」とカミングアウトしましたよ。
「ロッテ戦の時はロッテファンになりますが…」と先に謝っておきました。

ブッフェは、紙のトレーに紙の食器だけど美味しい!
ホテルブッフェらしい料理も出るし、ポテトフライ等のジャンクなものも
あって、欲張った結果統一感のない食事になるのがなんとも贅沢で楽しい。
試合開始30分前には食べ物を取るレーンが大混雑になるので、早く来るか
試合開始後に悠々と取るか。私には「試合開始後に、試合でなく食べ物を
延々と見ている」という選択肢はないので、平日のオーナー様デーは全部
会社を早退しました。(いい会社だな!)
デザートが出るタイミングが「何回終了後」とかで、そのタイミングに
なるとまた並びに行きます。でも「なくなっちゃった」ということは
なかったように思います。量は充分に用意されていました。
とにかく、ブッフェに関しては大満足。好き放題食べ物を盛りつけて、
お酒を飲みながら(これは別料金)、たっくさん美味しいものを食べて、
二階の最前列で野球を見る。もう、ほんとにパラダイス。
実はもう、初日に「これが7試合も味わえるとは、完全に元は取ったな」
と満足してました。

なおバズーカ女子の反対側のお隣さんは、複数人でシェアしているらしく
子供連れや女性同士の2人組が交替で使っていました。
いずれにしても、両隣が女子供ばかりで安心して1シーズン過ごせました。

ロッテ戦のある日の風景。混んでずらっと並んでしまったブッフェの列を
進んでいくと、あれあれロッテのユニフォームを着込んだ人とすれ違う。
ここは日ハムのシーズンシートでないのかい。一部はチケットで売ってる
席なのかもしれないけどね。でも一塁側であることは間違いない。
でも私もロッテのユニフォーム。すれ違ったロッテファンが「あっ、
ロッテファンですね」と笑顔で声をかけてくる。「こんなところに、
お互いなんでいるんだろうねえ」というお茶目な笑顔。
「いや~大谷翔平が見たくて、年間シート買っちゃったんですよ☆」と
笑顔で答えて「がんばりましょー」と手を振りました。
それをニコニコ笑顔で見ている周囲の日ハムファン。
もともとパ・リーグのファンは仲がいいんだけど、ほんとにほのぼのした
いい環境でした。
ロッテ戦の時だけだけど、隣の者がロッテのユニフォームを着ても嫌な顔
一つしなかったバズーカ女子をはじめ、日ハムファンの皆さんありがとう。

私が全試合行ったわけではなく、このオーナー様席は2回、ダンナに
譲りました。そのうちの1回は「指定席(あるいは自由席)券に4人まで
引き換え」という特典チケットを活用して、会社の女子3人と一緒に
観戦に行きました! なんとか指定席に引き換えたいと思ったんだけど、
土曜だったからか自由席にしか引き換えられず、一人で引き換えに並んだ
あとは、自由席の場所取りにダッシュで球場の中に入り、獅子奮迅の
ホストぶりで女子たちと楽しく華やかに観戦しました。
もちろん連れの女子たちは観戦タダ。特典のチケットだからね!
その日は日ハムの黄色いユニフォームを配る日で、しかもロッテ戦だった
ので、2人は配られたユニフォームを着て、私ともう一人は私の持参した
ロッテのユニフォームを着ました。試合はロッテが負けたけど…
その後、オーナー様席で観戦していたダンナと場外で合流して、女子4人の
楽しい観戦記念写真を撮ってもらって解散しました。楽しかった!
これで実質、7試合分+4人観戦分でチケット11枚分でしょ。
絶対お買い得だと思うな!

そして鎌ヶ谷スタジアムの二軍戦チケットはけっこうバズーカ女子に
あげました。なぜなら前年に斎藤雅樹巨人二軍監督を追いかけて鎌ヶ谷に
行ったものの、とんでもない遠さ不便さだったうえに、あまりの暑さに
負けて人生初めて「試合の途中で、暑くて挫折して帰る」ということを
やってしまって、この年に1回たりとも行く気になれなかったので…

そんなこんなで東京ドームのシーズンシート(ブッフェ付き)を堪能させて
いただきました。大谷翔平は思ったように見られなかったけど、思いきって
新しい世界を見てみる良いきっかけとなりました。

シーズン終了後、やはり大谷翔平のメジャーリーグ挑戦が決定しました。
最後に「シーズンシートを来年も継続するか」というアンケートを書いて
送るんだけど、大満足だったから、ほんとに「継続する」にしようか…と
最後まで迷いました。でも、年に何十万プロ野球に突っ込むんだよ、と
いう状態だったのでなんとか頑張ってガマンしました。
その後、日ハムの担当者からお電話をいただいて、やりとりしました。
「本当に大満足だったので、継続しようかなという気持ちもありましたが
そこにお書きしたとおり、実際はロッテファンなので、大谷選手がいなく
なったらやっぱり家計のこともあって、我慢しなければと…」
「今回お断りいただいた後になると、今のような最前列をお取りするのが
難しくなってしまうので、ご継続がお勧めではあるのですが…」
「うう~、本当にとっても良いお席で素晴らしかったので惜しいですが、
やはり…大谷翔平が見たかった、ということで来年はあきらめます」
そんなやりとりが交わされ、お互いにお礼の言い合いをして惜しみつつ
電話を切りました。

こうして、夢のような東京ドームオーナー様の1年が終わりました。
ほんとにめっちゃ良かったので、日ハムファンではなくても、ぜひ一度
東京ドームの日ハム年間シートのオーナーになってみてください。
ホントに年何十試合とかのガチな年間シートはなかなか買えないけど、
7試合だけオーナー様がやれるというのは贅沢の種類としてけっこう
上等の部類じゃないかと思います。友人とシェアするとかもお勧め!
以上、大谷翔平を追いかけて…のはずが、単なる年間シート体験記でした。

我が人生の名場面5・青年、壮年編

2020-02-22 20:54:32 | 日記
我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第五弾。
今回は、正社員から派遣社員へ、激動の二十代~現在までの青年・壮年編。

遊園地の仕事を辞めた私は「これを機に、夢をかなえよう」と思いました。
小説家なんて大それた夢はかなわなくても、ライターとか、何かしら「書く」
仕事をしたかったのです。大学時代には、アルバイトでイラストエッセイを
1年間雑誌に連載させてもらったり、結果的に出版社が倒産してしまって
実現しなかったものの「キャラクターを書籍に使わせてほしい」という声が
かかったりしたことがあり、何かしらできるんじゃないか…と思っていました。
しかし、何の実績もない私は一体何をしたらいいかわかりません。
親の知り合いからパンフレットのラフ案を考えてほしいという仕事をもらったり
自叙伝に挿画を描いてほしいという仕事をもらったりもしましたが、ただ漠然と
何者かになろうと試行錯誤しているだけで何もできませんでした。
思い知ったのは、自分が何もできない人間だということ。会社に所属して、
言われた仕事をめいっぱい頑張るという形でしか活躍できないこと。
私が遊園地を辞めたのは26歳の時。28歳から女性の求人は目に見えて減って
くるので、27歳になって間もなく私は財団法人に就職を決めました。

この財団法人は資格試験の教材編集者として私を雇ってくれましたが、なんと
「未経験者可」という稀有な条件だったのです。採用の決め手になったのは
私が仲間たちと作っていた白黒印刷のゲーム同人誌。「未経験でも編集は
できそうだ」と思ってもらえたのか…。1か月遅れで採用された同僚は、
印刷会社の営業さんをしていた同い年の男子だったので、このキャリアの差は
なんとも言えないものがありました。
それでも、上司に教えてもらって私はここで編集のスキルを身につけることが
できました。同い年の同僚も大変いい人、賢い人で、環境は上々でした。
しかし…経営状況が悪化してくると、ワンマンな理事長の場当たり的な経営で
各部署が振り回され、上司も理事長に迎合するのみで私と同僚に過酷な労働を
させて知らんぷりをするようになりました。
あげく、2人で無理をして深夜まで残業して、なんとか仕事を回していたのに
上司が「編集はそんなに大変じゃない」という意味不明の報告を理事長に
したため、「じゃあ、〇〇さん一人でできるね」とか言って、編集は私一人が
やれという話が持ち上がってきました。おいおい、私、夜中3時まで自宅で
入力作業して翌朝7時(ビルが開く時刻)に出勤したりした日もあるのに、
その倍やれって?
そんで、私と同僚は一緒に会社を辞めることにしました。一応、私が少し
後まで残ってまとめて引継ぎはしたけど。
のちに、我々2人が必死でやってた仕事量があまりに多かったため、編集は
5人で回すようになったそうです。人員2.5倍。いる人をちゃんと正しく
使っていれば2人、最大でも3人でなんとかできたかもしれないのに。

この財団法人にいた間に私は結婚しました。名字は大好きなので、変えない
つもりだったのですが、勤め先で「変えたほうが今後絶対楽だよ」と言われた
ので結局変えてしまいました。確かに今、面倒は少ないけど…
生来の名字大好きだし、皆に名字由来の呼び名で呼ばれてたのに!
そして、2年で財団法人を辞めてしまった私、結婚したから「主婦」という
肩書がつくので無職でもいいのですが、結果から言って専業主婦は向いて
いなかったようです。幼少期から自分は専業主婦に向いていると勝手に思って
いたのですが、全然ダメ。
朝、ダンナを会社に送り出した後、夕方まで「自分は生きている価値がある
のか」などとただひたすら考えて布団に横たわっているような日も…。
今思うと、眠るでもなくそんなに何時間もただ考えるだけで布団で起きて
いるのとか絶対無理。今思い返すとこの時期は明らかにほぼうつ病でした。
何もやる気なく、しんどく、気力も出ない、動けない。
当時、ダンナがとにかく私を肯定してそっとしておいてくれたので悪化せずに
いられたのだと思います。
そして、私の回復は突然やってきました。
貯金の残高が50万円を切ったのです。
当時、駅に近いというだけで家賃がそれなりにかかるマンション(てゆうか
ボロアパート)に住んでいたので、これは危機的状況。
「死ぬ!!!」
ほんとにマジで思いました。そしたら俄然、働かなければと慌てだしました。
ただ…30歳プータロー、もとい主婦に新たな働き口などあるのか?
「前職を辞めて1年間、何をしていたのか?」という問いかけへの言い訳と
して、ろくに勉強せずに初級システムアドミニストレータの資格を取りました。
ある程度は常識の範囲内でわかったが、なんで取れたかわからん。
そして就職活動をしようと思ったものの、私は「35歳までに出産しないと」
とも思っていたので、正社員になってすぐに産休や出産退職をして、後続の
女性たちの足を引っ張ることを恐れました。今思うと無駄な心配だった…
そこで派遣社員として編集か広報の仕事ができればと考えました。

派遣登録に人生初めて行ってみると、隣の席の人との雑談で「派遣会社には
何社も登録していいんだよ」という情報が得られました。そうなんだ。私、
派遣会社も一社に決めないといけないんだと思ってた。
そんなわけでもう一社、登録に行きました。すると、そのSS社は速攻
私に仕事を持ってきました。まじで超早かった。
派遣先は、通勤片道1時間半かかる、学習雑誌出版社の医療書籍部門の編集。
「書籍担当」ということでスーツで初日出社した私と一緒に、「雑誌担当」
ということで一緒に連れていかれたのは…だらっとしたアーティスティックで
ラフな服装をした、アート系のメイクをした女子。
「げげ、初日はそれなりにちゃんとした格好して来るもんじゃないのかよ」
私はすっかり度肝を抜かれました。
まあ、結局は「明日からスーツじゃなくていいよ」と言われたけど。

私は派遣登録の際、Windowsは使えるけどMACは使えない旨、
しっかりスキルの欄にチェックを入れたはずなのですが…
私が座らされたのはMACの前。驚愕しつつも涼しい顔をするしかない。
操作じたいはある程度わかったけれど、iMACのハード構造がわからず、
どこからCD-Rを入れていいのかわからない。周囲の目を盗んで、
こそこそ試行錯誤。なんと、正面のうっすい溝が挿入口と判明。
そんな感じでなんとかパソコンを扱いつつ、権利関係の許諾手続きや
素読みと校正の真似事などをやりました。
13巻くらいあるシリーズの立ち上げのためのヘルプスタッフとして
呼ばれ、2巻分は私も「担当」の一人にカウントしてもらいました。ただ、
最初に発行された巻はどこまでスタッフの名前を入れるかが決まって
いなかったので、私の名前がスタッフに載っているのは1冊だけです。
ここには1年の予定が、結局1年3か月いました。
財団法人で編集のスキルをつけてもらい、ここで医療書籍のノウハウを
少し身につけさせてもらいました。

おかげですぐ翌月から、別の大手出版社の科学部門子会社の医療部門の
ヘルプの仕事がもらえました。
血液学の偉い先生がずらっと並ぶ会議で、夕食の弁当を配ったうえに、
スタッフの一人として同席して食事をしたのは超~緊張しました。
ここも3、4か月くらいの予定が結局半年いました。

そしてSS社、とにかく続けて仕事を持ってくる。
翌月からはまた別の出版社の編集の仕事を持ってきました。
ここが私の現在の職場です。もう勤続15年半になります。
ただ、今は派遣社員ではありません。いろんなことがありました。

10年もの間、派遣社員としてこの出版社に勤めた私に、ある日派遣元の
SS社は「時給を200円下げてくれ」と言ってきました。
時給を「200円」下げるって相当のことよ!?
10年勤め、派遣先の出版社からの信頼を得ている自信があった私は、
堂々と「お断りします」と言いました。するとSS社の担当は、
「じゃあ、派遣先に200円の賃金アップを申し入れることになります」
と言いました。そんなん、派遣先だってOKするわけないやん。
「あなたの契約は、昔の、派遣業界の景気が良かったころの金額なので
正直、その金額で継続すると当社は赤字です。いわば、あなたの契約は
うちにとって不良債権なんですよ」
担当者は私にそんなことを言いました。10年、派遣会社にまるっきり
迷惑をかけることなく、ただピンハネだけされて勤めてきた人を
不良債権呼ばわりか。私みたいに黙々と迷惑をかけずに10年もピンハネ
させてあげる派遣社員を捨てて、大して使えないうえに派遣会社に
あれこれ迷惑をかける派遣社員を残せばいい。おそらく、派遣先から
信頼を得ている優秀な人は皆、私のように堂々と断るだろう。
「当社は経営上の都合から、派遣社員の給与を、最高で時給1×40円
までにします」だってさ。オマエんとこの経営が厳しくなったのは、
派遣されてる我々のせいじゃないわ。
「とにかくお断りします。派遣先も、私の給与をそんなに一気に上げる
ことをOKするわけないと思いますよ」
「そうすると、当社もあなたの雇用を続けるわけにいかなくなります」
「それはどうぞご勝手に。私は賃金を下げられるなら退職します」
交渉決裂。派遣先から派遣元の担当者が帰るなり、私は編集部で、速攻
上司に顛末を報告しました。
「当社に賃上げを要求すると言ってましたが、話を聞く必要なんか
ないですよ。それで私がいられなくなっても、それは仕方ないです。
派遣会社がおかしいんですから、完全に無視してかまいません」
正直、派遣先が私をなんとかして残すだろうと思ってたし、ダメでも
「派遣なのに10年雇ってもらえるほど安定した仕事ができる」という
経験があれば別の派遣会社からどこにでも行ける、と思ってました。

結局、派遣先は私を別の派遣会社に移籍させて雇用を続けてくれました。
SS社はとんちんかんで、「次の契約は難しい」とか言ってたくせに、
契約延長の手続きのタイミングに来たら「さいわい、次回はまだ契約を
継続できそうです」とか言いだしたよ。えっ私、もう移籍先と話がついて
あんたんとことは来月でオサラバだよ。
「はあ、そうなんですか?」とかあいまいに返事をしていたら、数日後、
担当者から「実は、派遣先から次回の契約は無しと言われてしまって」と
あわてふためいた電話が来ました。うん、知ってる。
「ああ、けっこうです。お世話になりました」
退職の手続きがあるから来社する、と言っていたくせにSS社の担当は
その日その時刻の約束をすっぽかし、メールで「どないなっとんねん」
と問い合わせた私に「急病で」とか嘘をつきまくり、結局退職手続きの
書類は郵送されてきました。
なお、私がSS社から賃下げ等々言われた内容を移籍先の派遣会社に
事情説明としてまるまるリークしたので(だって口止めされてないし、
される筋合いもないし)、今、移籍先の派遣会社の求人はSS社の
ちょい上の金額をアピールしています。SS社、これから相手に不当な
圧力をかけようというのに、いろいろしゃべりすぎたね。
ただ…移籍に当たって時給は80円下がりました。それは仕方ない。
これに関しては、派遣先の当時の上司と、総務の重鎮の人が、本当に良く
してくれました。総務の人にも「待遇が下がってしまって申し訳ない」と
言われましたが、私こそ「移籍という形で無駄な手間をかけさせてしまい、
派遣元の会社が御社に大変失礼をいたしました」と詫びる立場だよ。

そして、少し前に派遣法が改正されたため、派遣社員は順次契約社員に
なっていったのですが、私は派遣の中では最古参くらいの社歴だったのに
この移籍騒ぎのせいで、他の人の手続きが大半終わってからの手続きと
なりました。初期にはいろいろ混乱もあったのですが、私の時にはもう
いろいろな手続きがすっかり固まっていて混乱なく済みました。
さらに、社内に私しか千葉ロッテマリーンズのファンがいないのに、この
勤め先、ロッテのチケットを4年間にわたってまとまった数量買い続け、
そのかなりの数を私が使用することとなりました。だって他に、あんな
遠いところまでロッテ戦を見に行く人なんてほとんどいないもん。
あの、総務の人が編集部の者に連れられてやってきて、私の背もたれの
ロッテの肩掛けを見て「ああっ!」と大声をあげた日を忘れない。
「ほら、この人、ロッテファンなんですよ!」と私を指さす同僚。
「おお…社内にロッテファンがいたとは…」と感動する総務の人。
以来、使用者が出なかった土日のチケットを中心に、私が消化率を上げて
あげる(?)という日々が始まりました。
すっごいいい席で何年も何試合も観戦させてもらい、特典として好きな
選手のサインなどもいろいろもらったりして、仕事以外にもこの会社には
素晴らしいことばかりです。多くの友人にも恵まれています。
何より、この会社での編集の仕事はほんとに私の天職だと思っています。
最終的には悪い別れ方になったとはいえ、この職場に私を紹介してくれた
SS社には本当に感謝しています。
天職なんて、おいそれと出会えるものじゃない。

プライベートでは、今の勤め先に派遣された頃に家を建てました。
それまで住んでいたマンション(てゆうかアパート)の横に新しい
マンション(?)が建ち、日照時間が1日2時間程度になって
電気をつけないとほぼ一日中真っ暗な環境になってしまったため、
実家で烈火のごとく文句を言っていたら、母が突然、「だったら、
うちの裏に建てちゃえばいいじゃない」と言いだしました。
その頃、私の実家の裏のおんぼろアパートは、あばら屋すぎてもはや
維持がしんどい状態。実際、取り壊しの時、全体がかなり傾いていて
予定どおりの作業ができなくなる事態になったくらいです。
そんなアパートを取り壊し、大手建築会社が出来合いの設計で安価に
売っている小さいほったて小屋を建てました。
土地が小さくて家も狭いので、住宅金融公庫が「当社は、良質な家を
建てるための資金を貸し出しているので、一定以上の規模の家でないと
お貸しできません」だって。まあ、そんなちっさい家ではありますが、
結果として2人から増えなかった家族の規模から言って、ちょうどいい
大きさだったと言えます。
いや、夫婦そろって「片づけられない」系だから、実際は手狭だけど…

そして子供がいないので親不孝を申し訳ないと思っていたのですが、
数年前に弟が四十代半ばで結婚して、まさかの子供まで生まれました。
甥っ子が弟そっくりですっごい可笑しい!

そんなこんなで、充実した人生だったのですが、2019年の夏、
大きな病気をして手術して、現在も治療中という感じです。
家族に恵まれ、友に恵まれ、仕事に超~恵まれ、夫にも超~恵まれ、
まあ今何かあっても「いい人生だった~」と言えるでしょう。
とりあえず、なんとかここまでの人生を書いてみました。
うっかり全部読んじゃった方、長くてほんとにすみませんでした!

我が人生の名場面4・遊園地従業員時代編

2020-02-18 22:42:45 | 日記
我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第四弾。
今回は、濃すぎた新卒社会人、遊園地従業員時代編。
ここだけでだいぶ長いのですが、それだけ経験を積んだ質・量がハンパ
ないので、感謝をこめて書いておきたいと思います。

なんとか入社できた地元の遊園地は、初日から暗雲が立ち込めていました。
大卒と高卒合同で行われた研修では、高卒組が寝るわ遊ぶわ騒ぐわ…あげく、
休憩中に堂々とタバコを吸っている始末。
人事の人いわく「禁止するとトイレで吸うから。前にボヤ騒ぎになった
ことがあって」とのこと。ええ! だからって、違法行為野放しかよ。
研修の間じゅう、高卒生の態度はあまりにひどく、これは学歴云々の
問題ではなく、あえて選んで「不真面目な高校生」を就職させたとしか
思えませんでした。
これからこんな人たちと一緒に仕事するのか…。しかも人事の人が平気で
違法スルー…。絶対まともな会社じゃない。
「こんな会社」にしか就職できなかった自分を呪いました。

しかし、結果として、この会社で社会人生活を出発させたのは人生において
大きなプラスとなりました。逆説的な意味でなく、本当に。
半年間は遊園地の各部署を回っての現場研修で、普通だったらこんなに
たくさんの仕事を経験できない、多数の職種に携わることができました。

大卒の同期15人は3人ずつの5班に分かれて半年間の現場研修。
遊園地内の飲食店実習では、「味を知っておくように」ということで、
通常は廃棄する閉店時点での売れ残り品を毎日食べていいというお達しが!
この当時、勤め先の遊園地は「グルメ遊園地」を標榜していて、園内の
食べ物が本格的でたいへん充実していました。私の入った飲食店の
グラタンピザ、タコス、ブリトー等々…すべてがめちゃくちゃ美味しい!
後日、別の班がこの飲食店に研修に入った際に、私がいかにこの店の
残り物をたくさん食べたか、その量が伝説になっていたとのこと。
いや、だって美味しかったから…。捨てちゃうの勿体ないし。

次に入ったおみやげ屋さんではラッピングができるようになりました。
おみやげ屋の店長さんはなんと同い年。23歳新卒(浪人したため
22歳ではない)で右も左もわからない私に、同い年の店長さんが
お店を切り盛りしながらいろいろ教えてくれる…。高卒で5年頑張ると、
私の今の年齢の時にはこんなに立派になるんだと思ったことで、高卒で
入社してきた従業員を見る目が変わりました。
私は18歳の時、浪人生なのに半年以上遊んでたし、大学に入って4年間、
勉強サボって相当遊んで暮らしてた。何もできない自分が一体、何様の
つもりだったのかと思いました。大卒のオフィスワーカーばかりの職場では
体感できない世間の広さをいい形で知ることができました。

その次は一転、事務所での内勤と、営業回りのお供で外回りにも出ることに。
私を引率してくれたおじさんは「とにかく全部回るまでお昼を食べない」
という人で、ランチが15時以降ということもたびたび。のちに他の人から、
「ランチタイムが遅い人に同行するのがつらかった」という意見が出されて
ました。私は小心者でせっかちなので「全部終わって落ち着いてランチ、
食べたら帰社して日報」というのは割と性に合ってたな。でも新入社員を
連れて歩くなら確かにその辺は気をつかわないとね。
内勤では企業の福利厚生チケットの引き換えなどをやったのですが、
契約違反の「余剰人数分チケット引き換え→正門前でダフ屋行為」をする
母親の多さに唖然というか仰天というか…
夫の会社の福利厚生チケットで、うそをついて実来場人数より多く、
券面表示分MAXで申請して(※福利厚生券の引き換えは券面表示数でなく
実来場人数分のみ可)、余った枚数を転売する妻。大半はこの構図。
とにかく、やるのは会社からチケットを手に入れた従業員本人でなく、
必ず家族です。本人は福利厚生券転売がダメとわかってるから。
中には高校生くらいの息子がこれをやって「3枚引き換えるのは俺の権利だ、
引き換えないのは権利侵害だ」とごたくを並べて叫び散らし、親御さんへの
連絡先も言わずに黙秘を長時間続けられて、仕方なく警察を呼んだことも
ありました…。権利ってなんだろう。
怪しい客の後をつけて正門前で転売の現場を押さえて事務所に連行する
Gメンの仕事を先輩社員と一緒にやったりしました。
チケットを買う列に並んでる人に少し安めに売ってあげて、自分は儲けて
相手も割安で買えてラッキー、いいことして儲かった…というのが転売を
する人の感覚。でも、契約違反の使い方で、違法行為をして、不当な利益を
得ている=違法行為で遊園地に損害を与えてる、ってわかってる?
その数千円で、チケットもらってきた夫は会社クビで、あんたは逮捕だよ。
もちろん契約企業に違反客を通達したり、客を逮捕させたりするのが
目的じゃないから、説明して余剰チケットを返却してもらうだけですが…
毎日これを目の当たりにすると、ほんとにうんざりする!!

それから園内・園外ゲームコーナー。これは「ゲーセン」の仕事。園内に
ゲームセンターがあり、さらに、この部署では企業グループの他の施設の
ゲームコーナーも運営しているとのこと。
私は大学漫研、高校漫研の友人とさんざんゲーセンに行っていたので、
客としては勝手知ったるホームグラウンド状態でした。
ゲームやアニメのキャラクターが大半わかるので、部署の社員が「ロボット、
全然区別つかない…」と悩んでいたグッズをみんな仕分けてあげました。
「これはマジンガーZで、こっちはグレートマジンガー、別なんです。…」
堅気の、しかも若い女子社員に、古いアニメのロボットの違いなど
わかるはずないのです。古くなくてもガンダムは難問で、「顔は同じっぽい
けど、これは〇〇ガンダムなんです」という説明を色々することに…。
お陰で「オタクの人ってすごいね」という変な誉め言葉を頂戴しました。
ここも二十歳そこそこの女子が簡単な故障ならはんだゴテで溶接して
機械を直したりしていてほんとにたくましい。
私たち新人の仕事は清掃や、おつり・景品の補充、中央カウンターでの
問い合わせ対応が主でしたが、UFOキャッチャーのアームの強度を調整
して、試しに30回くらいプレイしてみて状態をみる、なんて仕事も
やらせてもらいました。
遊園地の客が少ないと、園内のゲーセンなんて特に閑古鳥が鳴きまくり、
一日ただひたすら歩き回って機体を拭いてるだけ…ということがあります。
逆に、遊園地が混んでる日に急な雨が降ると屋根のあるゲーセン店内に
雨宿り客が殺到し、普通のゲーセンではありえない凄まじい混雑になります。
遊園地ならではのゲームセンターの苦労です。
あと、園外のゲーセンの外回り仕事もあり、ホテルやボーリング場に設置
されたゲーム機のメンテナンスと景品補充にも同行しました。
課長が運転する車に乗って外回りして、帰りに助手席で寝てしまったため、
「ツワモノ」と笑われました。積極的に寝たわけじゃないんだよ~~…
園外の仕事は他社の人と接する機会が多く、そのためか、このゲーセンの
スタッフは他の園内のスタッフより接客などの態度がしっかりしていました。

一般に「カーニバルゲーム」といわれるアナログなゲームコーナーもあり、
そこはまるっきり別の部署。輪投げなどの他に、ボールを放出する銃で
最初に的を倒した人が大きなぬいぐるみをゲット…みたいな大掛かりな
アナログゲームもたくさんありました。2人の参加者でゲームを開催して
景品を出すのは損なので、できれば全部のレーンが埋まってほしいわけです。
だからマイクを持って参加者を募ります。ゲームの進行役もやります。
「あとお2人、参加される方いませんか? 勝った方にこのぬいぐるみを
さしあげますよ~!」「はーい、では、3、2、1、スタート!」
実はこういう仕事が大の苦手。中学時代は全校朝礼の司会をするのも
抵抗なかったのですが(無頓着、無感動にやってた)、高校では全校集会で
部の代表として発言する際に息継ぎを忘れて言葉がぐだぐだになる緊張ぶり。
自分に愛情というか愛着みたいなものができて自意識過剰になったのかも。
まして「仕事」でやるとなるとますますのプレッシャーが…。でも、やるしか
ないので頑張ってやりました。
小学生の頃に剣道教室で声の通りや大きさをほめられていた私、やがて
自分の元気で明るくてノリのいい司会ぶりを「イケてる!」と思えるように
なりました。客観的に「遊園地のお姉さん」ができてると思う!!
仕事って「やるしかない」し、「やればできる」んだと実感できました。

正門のチケットもぎり。乗り物の誘導係。園内清掃。研修は続きます。
清掃の研修では、園内の掃除だけでなく、園内の焼却炉にごみを流す仕事も
ありました。この部署はかなり年配の男性が担当していたのですが、
使用済生理用品を焼却レーンに流すのを、研修生の二十代前半の未婚の男性に
やらせるのはどうなのよ…。少子化が進むトラウマになるよ。
それに胸を痛めて、それ系のごみは躍起になって自分がやろうと奮闘していた私、
一方でゴキブリが出るとどうしても無理で、飛び上がって逃げていました。
仕事だから、逃げるなんてもってのほかなのですが、どうしてもゴキブリだけは
どうにもならない。私のかの奮闘をわかってか、逆にそっちは男子ができるだけ
素早く焼却炉に送り込んでくれていました。

遊園地にはプールもあったので、真夏にはプールの係員もやりました。
水流の強い場所で水に浸かる仕事をしていたら、足が赤と黄色のまだらに
塩素当たりしてめちゃ痛痒くなり、1日でその担当箇所から異動になりました。

さらに消防訓練もやりました。消防訓練は超ガチ。毎年、この遊園地は区の
自衛消防訓練審査会で優勝を狙っていて、今年の我々も目指すは優勝でした。
選手は「見栄えがいいから」という理由で身長の高い順に選ばれましたが、
唯一、私だけ、声の大きさと気合で選ばれました。選手は三人なのですが、
女子で三番目に背の高い女子が、か細くてか弱くて声も大変可愛らしい
「守ってあげたい系」だったので、私とチェンジすることに…
ただし消火までのタイムも競うので、選手は「足の速い人」が好ましかったの
ですが、私は大いなる鈍足。で、「あなたは、一番走らなくていい一番員で」
ということになりました。
結果、男子隊は2位、我々女子隊は見事優勝を勝ち取りました!
他社の女子自衛消防隊は花のようにか弱くて力ないのに、当社女子隊は
男子隊並みに力強くたくましかったからな。女子隊の優勝は必然でした。

研修の間、月に一度の報告会があったのですが、今思うと「大学出たての
新人なんて、何もわかってないんだな」というレポートを一生懸命皆で
書いて発表していたなと思います。でも、その中に、速攻却下されたものの
ずっとずっとのちに実現した提案もあり、聞く側の課長さんたちも当時は
本気で聞いてなくて、お互い様だったのかもしれません。
高卒と大卒、現場と事務所、ベテランと若手、その他いろんなところで
温度差や価値観の相違がある会社でした。
でも、そこを橋渡しできる立場になるはずだったのは、こうして現場を
じっくり経験してから事務所に入る私たちだったのだろうと今も思います。

なお、専務が報告会で「皆、消防訓練はバカバカしく感じたんじゃないか?
だがね…〇〇くん、消防訓練はどうだった」と急に私に話を振ってきました。
私は、専務が「つまらなかった」と答えてほしいんだろうと感じましたが、
瞬間悩んだものの、やっぱり嘘はつけず、満面の笑みで「楽しかったです!」
と答えました。専務は「そうじゃなくて」という顔をして、次に男子を
一人指しましたが、彼の答えは「僕は自分にスキルが身につくのであれば
何であっても歓迎です、大変有意義でした」というものでした。
「…今年の新卒は、変なのばっかりなんだな。まあとにかく、バカバカしい
気持ちでやってた人もいたと思うが…」と、有難い専務の薫陶は続きました。
話は「研修に無駄なものなどない」ということでしたが、私はすでに
何一つ無駄だなんて思うことなく、日々、楽しく学んでいたわけです。

半年の研修が終わり、配属されたのは企画室。大卒新人の半分はこの
配属先でした。企画室の上司は室長の男性と課長の女性がいて、我々は
班に分かれてこの女性上司の下で企画を立て、実現することになりました。
課長は専務の片腕で、秘書的な役回りもします。社長室や専務の部屋に
お茶を持っていくのは我々下っ端ではなく課長の役目。
一度、客が来るということだけ連絡がきて、課長がさっと台所に立った
ことがありました。社長室、専務の部屋の客ならそれでいいのですが、
「企画室」の客ならお茶汲みは企画室女子の仕事です。(当時お茶汲みは
絶対的に女子の仕事で、そこに疑問の余地はなかった)
私は課長を追って給湯室に行き「やります! 専務のお客様でも、お茶を
淹れるところまでは私が…」と言いました。課長はふっと笑い、「あれは
専務のお客様だから大丈夫、私がやります。…でも、気がついて声かけに
来たの、あなただけなのね」と言いました。
うわあ怖い。上司って見てるんだ。
結果として私が点数を稼いじゃったわけだけど、特に女性はこういう細かい
ところに気が回るかどうかまで評価されるんだな、と思った出来事でした。

私、大学時代に秘書検定の3級と2級を取っていたのですが、学習内容に
ビジネスマナーとしての気の回し方のポイントがわかるような内容が多々
ありました。「タクシー内の上席はここである」…そうか、タクシーに
乗るときにも順序や配置があって超~気を回すものなんだ、みたいな。
多分そうして気を配る感性を学習しておいたのが思いがけないところで
社会人生活の土台になったと思います。そうじゃなければ「課長がすぐに
立ったんだから、我々はいいんだな」と余裕でスルーしていたでしょう。
なお男子にはそういう気配りはまったく求められません。
1990年代中盤でも社会ってそんなもんでした。

企画室の者も、繁忙期には現場の応援に出ます。夏休みのイベントの際は、
駅前のうちわ配りや園内でイベントに使うグッズの歩き売りにも入ります。
声もでかく愛想もよく、もりもり元気で気合入りまくりの私は、うちわも
真っ先に手持ちがなくなって待機所に補充に戻り、グッズもじゃんじゃん
売って真っ先に在庫を取りに事務所に戻っていました。絶対ナンバーワンだと
思えて、わりと、自分は仕事ができる子だという自信が生まれていました。

さらに、私が大学やプライベートで本を作っていたと人事が知っていたので、
季刊で発行される安全啓蒙用の壁新聞の編集に加わってほしいとのお達しが
ありました。
私が就職したのはウィンドウズ95が世に出て間もない頃です。
企画室では私を含め皆ウィンドウズパソコンを使っていましたが(私物、自腹)
社内各部署ではまだパソコンが普及していませんでした。
手書き原稿を各部署から集めて入力して、これまでの壁新聞に似せて
レイアウトして…って、ウィンドウズ初心者の新入社員にえらい負担を
かけるもんだ! まだ新人なのに兼務してるし、ノートパソコン自腹だし!
クロスワードパズルとか挿画とかは手書きでした。だってコピーして園内に
貼るだけだから「版下」を作ればいいんだもん。

1年間企画室にいて、私と、同期の男子一人が組んで担当した「新会員
システム」が実現されました。
次の配属先は、入社時から第一希望を公言していた宣伝の部署。やったね!

この会社の宣伝担当部署はイベントの担当も兼ねているので、下っ端は割と
イベントに担ぎ出されることが多かった記憶があります。冬休み、サンタの
格好でお笑いライブの会場入口に立ち、呼び込みをしたりしました。
他には、バラバラに保管されてた古い写真ポジフィルムをジャンルごとに
分け直して使えるようにしたり、チラシの校正を練習したり…
また、人事からは、安全の啓蒙壁新聞だけでなく、内定者向けの広報誌も
制作を頼みたいという依頼が来ました。人事が部署を通して頼んできた、と
いうのは普通に職務命令なので、当然受諾します。
おいおいまだ2年目の新人に、部署外の仕事を2つも背負わせるのかい。
とはいえ「頼られてる♪」と思ってますます気合が入る私なのでした。

しかし、秋に異動して、まだ大して仕事をしていない冬の時点で、私に、
この会社における「赤紙」が来たのです。
この遊園地、冬は閑散期となります。一方でグループ会社にはスキー場が多く、
そちらは冬が繁忙期。だから冬の時期、何十人もの遊園地スタッフが
スキー場に出向するのです。
2年目の冬、私にもスキー場出向の指示が…。我々は恐怖をこめてそれを
「赤紙」と言っていましたが、現場のスタッフには喜んで行く人も多かった
ようです。なんたってリフトのフリー券がもらえて、休みの日や終業後は
勤め先のスキー場で滑り放題だからね! …私は脚の手術歴のために
スキーを忌避していたので何にもメリットなかったけど。

24歳(間もなく25歳)というこの年齢に至るまで、私は親元を離れた
ことがまるっきりありませんでした。初めての自活!!!
でも「一人暮らし」ではなく、グループ会社の寮の4人部屋暮らしでした。
4畳半の共用の居間(テレビ有)の手前にベッド4基のみ、個人スペースは
ベッド&その上の棚だけ。完全に共同生活です。
会社の駐車場に集められ、グループ会社のバスでスキー場に連れて行かれる
心境は、まさに「ドナドナ」…。
新潟の寮にたどり着き、私が真っ先にやったのは、棚にスーパーロボット
関連のムックを次々並べることでした。何しに出向行っとんねん。
私は「後半」ということで2月3月の担当でしたが、12月1月の前半の
人たちは暖冬による雪不足でほとんど営業ができなかったそうです。
それでもさすがに雪深くなった2月の新潟の町、驚いたのは地面に水が
流れていて雪を解かし続けていること。歩道は長靴不要、スニーカーでOK。
田中角栄の政治力か…と思いつつ、スニーカーで歩いて買い物に出かけて、
買ってきたのは1リットルの湯沸かしポット。流しはあるけどコンロも
レンジもなくて、カップ麺やインスタント味噌汁作れないと無理、という
環境だったので、すぐに湯沸かし機能付きの魔法瓶を買いに行ったのです。
すると、「〇〇さんのところはお湯が沸かせる」という情報がすぐに広がり、
ほどなく私たちの4人部屋は出向仲間の女子のたむろ部屋になりました。
1リットルしか沸かせないので、お湯はすぐに空になり、次に沸くまでの間
皆がわらわら居座って、テレビも勝手にチャンネルを選択します。そこで、
自分では絶対に見ない「Toki-Kin急行」という、TOKIOと
KinKiKidsの番組を見せられて、長瀬智也が弟に似てカッコいいとか
ふかわりょうが素敵だとか、新たな世界が広がることになりました。
困るのは「〇〇さんってスキーしないの? 休みとか何やってるの?」と
いう質問。正直に「マンガ描いてます」と答えると「えーどんなの描くの?」
と続くのでほんと困る。「スーパーロボット大戦のパロディ漫画描いてる」
って言っても、ヤンキー系文化の人には意味がわからないし。
それでも四畳半に6人も7人も集まってカップ麺作って一緒にテレビを見て、
時々飲み会になったりもする環境は大変楽しいものでした。
人生初の「お酒を飲みすぎて気持ち悪い」を経験したのはこの場所です。
なお、冷蔵庫はありません。窓を開けて、窓のすぐ下まで積もっている雪の
中にぐさっと刺せば天然の冷蔵庫。私の部屋の窓の外にはたくさんのお酒が
いつも埋まっていました。
スキー場では中腹のロッジタイプのレストランが私の職場でした。
通勤は、寮からバスでスキー場に行き、このレストランの人はふもとから
キャタピラの雪上車で登ります!! 帰りは膝近くまで埋まって徒歩だけど、
経理の集金の人や、スキー板持参の人は滑って下りていきます。
ローテーションで「残業当番」があり、その時はナイター営業をするふもとの
レストランとおみやげ屋に入ります。ここで働いていると、昼の仕事を終えて
夜はスキーを楽しむ仲間たちがごはんを食べに来たりします。
ほんとに楽しい生活でしたが…唯一、同室のバイトの女の子が社員の男を
連れ込んで深夜までしゃべってるのには閉口しました。社員の男の方に苦情を
言って、改まらなかったから人事の人に「毎晩男が忍び込んで来て怖いし
話し声がうるさくてマジ迷惑」と強く抗議しました。でも人事の人の反応は
「よくあることなのに、なんでそんなに騒ぐのか」という態度でした。男に
注意はしてくれたけど。
この会社、全体的にそういう文化なんだよな…。カーテンだけの仕切りで
女性4人が寝てる部屋に毎晩のように男が不当に侵入してくるって、女性に
とって、普通は相当怖いことだよ???
そして3月半ば、雪が解けてきてびっくり。寮の隣、墓地だったのね。
来た時から雪が2メートル以上積もっていたから知らなかった。
気づかなくてよかった。
雪が解けすぎてスキー場の営業が縮小されることになり、真っ先に帰還する
メンバーに私が入っていました。その理由は、なんと…
「広報に異動が決まったので、早く戻ってほしい」とのこと。
こうして私の楽しい山籠り生活は終わりました。

広報の仕事は本当に楽しかった。多分、一番楽しかった仕事です。
当時は「TokyoWalker」「ぴあ」等々、お出かけ情報誌全盛期。
毎週、レギュラーで「〇文字以内で最新情報をリリース」という仕事が
あります。そうした文案を作ったり、見出しのキャッチコピーを作ったり。
私は雑誌担当だったので、掲載誌の管理をしてスクラップ帳を作って、
自分でも「チケットプレゼント」を餌にパブリシティ(広告料を払わずに
記事としてメディアに紹介してもらう)を営業して回ったり。
大好きな職場であるこの遊園地を、たくさんの雑誌に紹介してもらいたい!
就職活動の際にはある会社にひどい圧迫面接を受けたことがあって、
その時に懸命に前向きな反論で返していたら「あなた、営業にむいてるわね」
と女性の社長さんに言われたことがあるんだけど(だが面接は落ちた)、
その意味がわかった外回りでした。売り込んで歩くの超楽しい!
実際は売上ノルマがあったらしんどいんだけどね。
しかし、この楽しい会社で最もつらい目に遭ったのもこの部署でした。
超絶理不尽なパワハラを受けたのです。
部署で決められた通りにマスコミに入園者数を回答したら「何を勝手に
答えてるの」と怒声。いや、全員がこう答えるという決まり通りでしょう。
「じゃあ、私はどう答えるべきだったんでしょうか」と上司に問い返すと、
しばらく無言になり「もういい!」と休憩室に逃げる。
指示通りにやった仕事を「勝手にやるな」「そんな指示出してない」と
言い張る上司に、私の背後の宣伝の部署の人たちが「えー、彼女、言われた
通りにやってるよねえ」とわざと聞こえるように言ってくれたりする。
パワハラ上司は課長代理だったんだけど、間に挟まる係長が、何度も
「〇〇、おまえは間違ってないよ、ちゃんとやってるよ」と言ってくれる。
人事が依頼して部長、課長がOKした壁新聞や内定者広報誌の仕事を
「あなたがやる仕事じゃないでしょう」と言って、やる時間を作らせない。
周囲から、いつも「大丈夫?」と心配されていました。
こんな毎日でも、仕事が好きで会社が好きなので、けなげに頑張っていたら
謎の腹痛で日々がしんどくなってきました。
先輩たちから「心療内科に行くべき」と言われましたが「頑張ればなんとか
なる」「自分がどうにかできないのが悪い」という、典型的な精神疾患
ループに入ってどんどんしんどくなっていきました。
ある朝、目が覚めた私の心はものすごい青空でした。その日の私の中に、
出社という選択肢はまったくなかった。なんかすごい晴れていた。
元気いっぱいに起きてきたのに、「今日、体調不良で休みます」と会社に
さわやかに電話して、明るくすっきり、ためらいなく気持ちよく休みました。
あの時の異様なすっきりさわやかな感じはほんとにやばい。
翌日は普通に出社できましたが、その経験は「精神疾患は『精神的なもの』
ではなく、何か脳内に異常が起こっている」ということを教えてくれました。
人事考課でこのパワハラ上司は私に最低評価をつけました。
この件で、部長と課長から詫びられ、人事の人がパワハラ上司の悪評を私に
告げ口してねぎらってくれるという異常な状況になりました。
結局このパワハラ上司は次の人事異動で社外の食堂に左遷されました。
でも、私は、人事考課が悪かったために給与に影響を受けました。
なお…このパワハラ上司、のちに事件を起こしました。ニュースを聞いた時、
私は「だよねー!」と叫んでしまいました。この元上司がどういう人間か、
社会的に認識されてよかった!としか思わなかった。

「〇〇さんがだいぶまいっているようだから…」ということで、私も異動する
ことが決まりました。
異動先は、研修時に私が独壇場を見せていたゲームセンターの部署。
「ここなら得意分野で、気楽に、楽しくできると思ったんだけど…どうかな」と
課長に言われ、「一種の喧嘩両成敗的なもので、私も広報からは出す形に
しないといけないんだろうな」と忖度したりして、すぐにOKしました。
またもや私が景品の説明係となり、新たに入社してきた十代の後輩からも
あだ名で呼ばれて親しまれ、また私に楽しい日々が戻ってきました。
社外の、ホテルの中にあるゲームコーナーの担当も数か月やりました。
それなりのホテルなので、態度の悪い人は担当にしないのが暗黙の了解。
私はここに出しても大丈夫、と思ってもらえてるんだな…と安心しました。
衝撃だったのは、十代の後輩たちに「熟語でしゃべらないで」と言われたこと。
「話してると、会話に二字熟語っていうか漢字が多くて、私らみたいな勉強
できない人は漢字変換ができなくてわかんないことがあるからさー、もっと
ひらがなでしゃべってよ」…なんと、『ひらがなでしゃべる』とは…!?
「この壁新聞も〇さんが作ってるんだっけ。社内の人、漢字あんまりわかんない
から、もっと熟語減らして書いたほうがいいよ。みんなが〇さんみたいに
頭いいわけじゃないから」
反省しました。私は「自分は優等生」という考えはもう消え果ていたのですが
学校の勉強で言ったらやっぱり勉強ができる子なのです。そういう子に
合わせて教材を作ったらクラスの子はしんどいです。
壁新聞は、遊園地の現場の人たちの安全の意識づけのためのもの。
私の価値基準はまだ受験勉強を頑張った大卒が中心になっていた。
読む人のためにどんな言葉を使うべきか、もっと考えなければいけなかった…

楽しい日々は流れ…しかし、その間もどんどん景気が悪くなり、とうとう
絶望的なお達しが出ました。
「経営状況が非常に悪いので、これからは一般の(つまりヒラの)社員の
給与も減額することになります」…
計算すると、年収が衝撃価格に減る想定。いやそれはさすがに…
そして、中途入社で社員に素晴らしい研修をしてくれていた人事の教育担当
の女性が「社員教育は金を産まない」とクビになるなど、社内で理不尽な
人材軽視がまかり通り、次々と人が辞めていきました。
キャリアの面から見ても、「研修半年、企画室1年、宣伝・広報で1年、
現場で間もなく1年」という状況。この会社では、大卒の同期も現場に
配属されたり異動になったりして、しかも経営状況の悪化に伴って
大卒を積極的に現場に出す方向に経営方針が変わったので「事務所がよくて
現場が悪い」ということはまったくありません。しかし世間は違います。
このままゲームセンターでの経歴が長くなると「事務所で使えなかったから
現場に出されて、そのまま戻れなかった」という見方をする人が必ず出て
しまう。このまま残ることは、どう考えても自分の得にはならない。
私は、ゲームセンターの部署に移ってちょうど1年のところで退職する
ことに決めました。それなら「研修半年、それからはさまざまな部署を
1年ずつ異動していました」という説明が成立するので。
ゲームの上司に退職を伝える際、泣けて泣けて…。
上司も「辞めてほしくはないけど、会社の状況を見て、引き止めるわけには
いかない」と言ってねぎらってくれました。
その年の秋、私はたくさんの思い出をくれた遊園地をあとにしました。

この会社ではたくさんの有意義な薫陶を受けました。
「上司は、偉いんじゃなくて、責任の重さが違うだけ。上司に遠慮して、
会社のためになるようなことを言えない環境になるべきではない」
「黙って三年やってから言いなさい」(当時は、それが発せられた状況から
大いに反発しましたが)
「自分がいなくなっても会社がちゃんと回っていくような、理路整然とした、
すぐに引き継ぎが成立する仕事をしなさい」(そんなんしたらすぐクビに
なるやん、と当時は思いましたが)
「企画には、できないことなんてない。スタートとゴールはもう固定して、
変えない。そのスタートとゴールをどう実現可能なものにしていくか、
それが企画だよ」
「宣伝を作るには、まず、その商品が社会の中でどの位置にあって、
社内の商品の中でどの位置にあって、お客様にとってどういう位置づけの
ものかという整理が必要。そうすると使う表現も決まってくる」
「(当時の、ネットが普及していない環境下で)お客様1人が不満を感じて
帰ったら平均7人に直接言い、その話を聞いた人は平均3人に広めます。
すると、営業日数と来場者数から、1日にたった×人に不満を感じさせただけで
1か月ほどで東京都民全員に当たる人数がこの遊園地を悪く思うようになります。
顧客1人に不満を感じさせる重大さがわかります」…
ここで学んだすべてのことが、この後の人生や仕事に多大なる恵みをもたらして
くれたと思っています。本当に本当に、素晴らしい会社に育ててもらいました。
今、改めて、ありがとう。これもまた、運命の出会いだったと思います。

我が人生の名場面3・怠惰な青春時代編

2020-02-08 20:09:44 | 日記
我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第三弾。
今回は浪人~大学時代、怠惰な青春時代編。

浪人時代は、後輩たちと遊び惚けたり、失恋でだいぶやせたりして、
まるっきり勉強をせずに秋まで過ごしていました。で、秋の時点で、
浪人生が強いはずの暗記科目、「日本史」の偏差値が42。さすがに
反省しました。
私の高校時代を華やかにしてくれた美人の親友はすでに現役で
名門大学に合格していて、しかも彼女のノートが素晴らしいのは
知っていたので、彼女の日本史のノートを借りて勉強しました。
私、顔も頭も努力も彼女に負けてるよ! ダサ!
しかし私が彼女から一番学んだことはまったく別でした。
彼女は本当に綺麗で賢くて優しく強く、またふんわり可愛らしくて、
美人の中でも特に男性受けする家庭的で温かい雰囲気を持っていました。
でも彼女自身は男性にひどく辛辣で冷たい一面が…。ブスで男に縁のない
私は、「なんともったいないことを」としか思えなかったのですが…
彼女と長く友人をやっていて目にしたのは、「ちょっとでもいい顔をすると、
勝手にいいように解釈して調子に乗り、面倒ばかり持ち込んでくる男ども」
の姿でした。彼女はずっと、こんな若さで、男どもの自分勝手に対応し続ける
人生をおくってきたのでしょう。「自分に近寄ってくる男」に常に警戒心と
不信感を抱かなければいけないのはしんどいと思います。
好感を持っている男性に対しても「この人は本当に、私の本質を見ようと
してくれているのか?」ということに不安を持っている彼女の様子を見て、
実は決して美人が「恵まれている」わけではないのだと知りました。
むしろ、好きなだけ好きな人に夢中になって、相手が多少私に興味を持って
くれれば「容姿につられた」ではなくて中身を見てくれたと思えて安心できる
私のほうが、自由で、自主的に幸福になれるのです。
私は、美人に対する卑屈な嫉妬心のようなものをすべて失いました。
彼女たちは私のような者からは想像もつかない面倒を背負って戦っている。
さらに同性からもうらやまれたりやっかまれたりして、大変だ。
私はその後もわりと美人とつるむことが多くなるのですが、多分、美人に対する
ひがみも何もなく、彼女たちの根本的な苦労をある程度客観的に理解できている
状態なので、美人さんたちからも付き合いやすかったのではないかと思います。

浪人しても目標だった名門大学に合格できなかった私は、薄汚い怪しい高校とは
かけ離れた、キリスト教系のミッション大学に進学しました。
キリスト教の教科が必須だったその大学で、「私はキリスト教がこういう理由で
好きになれない」というレポートを書いてA(優良)の成績をもらいました。
うーん、なかなかいい大学じゃん。高校では、クラスで大ウケして爆笑を
さらった「私とNHK」という私の発表論文を、左翼っぽい国語の先生が
「私はNHKが嫌いです」と言って低評価にしたが、えらい違いだ。
そしてこの大学、なんとも中庸でふわ~んとした平和な人の多いところで、
「隠れ金持ち」のたくさんいる、どことなく豊かな環境でした。
大学の友人が「庭で取れたのが食べきれないので」と大量の柿や栗を
友人一同に配ったり(どんだけ庭広いねん!)、別の友人が「うちは古くて
汚いから恥ずかしい」と言っていたのに行ってみたら成城のでかい旧家だったり
(旧家の家屋が古いのは当然じゃ!)、さらに別の友人宅はビルの最上
2フロアを贅沢に使って玄関に大理石の彫像があったりとか…
浪人中に親友になった高校時代の2歳下の後輩も金持ちの息子で、彼とも年中
一緒にいたので、とにかく周囲に金持ちの多い環境になりました。

我が家(というか母)のポリシーは、実際には大して金持ちでもない凡人の
家でも、立派で優秀なエリートとして生きよ、というフィーリングでした。
米と茶は絶対安物を買わない、2つの商品があったら質の良い高いもののほうを
買う、試食や詰め放題などであさましい姿を見せるのは恥、他人との交際に金を
ケチるべからず…
そうした美学を良しとして育てられた私なので、この大学の「庶民と金持ちが
適度に混ざった友人環境」は自分を引き上げてくれるような気がしたものです。
貧乏で薄汚い…もとい超・ド汚い都立高校も私に合っていて楽しかったから、
私の適応力が高いというだけのことかもしれないけど。

とはいえ、大学の1、2年次は厚木の山の中に片道2時間半かけて通学して
いたので、人生はまるっきり豊かになりませんでした。単位を取るのに
めいっぱい。時間割はゆるゆるで楽ちんな学部でしたが…とにかくキャンパスが
遠かった。
私はここでもサークルに3つ入りました。
一つは大本命、漫画研究会。もう一つは「映画・イベント(主に旅行)・文芸」
を三本の柱に据えている創作サークル。もう一つは教授を中心とした集まりで
「アドグル」という大学独自の特殊なサークルのうち、理系の教授のところに
所属してみました。
実は私、高校時代に一番読んでいた本が「相対性理論」「量子力学」「宇宙論」
などの科学系専門書。なんとかそうした類の理論を理解したかったのですが、
いくら本を読んでも全然理解できず…それで、理工学部の量子力学の教授の
アドグルに入ってみたわけです。実際は量子力学の話は全然出なかったけど。
でもこのアドグルでは「理系社会・理系文化」を少し肌で感じることができて、
これも貴重な経験となりました。
文系女子というだけで妙にちやほやされるとか。飲み会で脱ぐ男がいて、私は
耐えきれず脱出したのに理系女子は慣れたもので適当にやりすごすとか。
研究室にお泊まりセットみたいなのがあって、ほんとに泊まりがけで実験する
ことがあるんだとか。就職は教授を通してある程度決まるとか。自分と縁の
なさそうな世界でも、覗いてみることには価値があるものだ…と思った
理系サークル体験でした。
このサークルは、私の周辺の代の人がほとんど来なくなっても、卒業後なお
参加していました。しゃべる相手ほとんどいなかったけど、「誰?」という
方々と都度なんとか会話して飲み会に出てたという…。頑張るな~私。

「映画・イベント(主に旅行)・文芸」のサークルは、イベントと文芸の部門が
なんと休眠していました。えー文芸班に入りたくて入部したのに。
しかし私はくじけず、文芸班の復活を買って出て、実際復活させました。
とはいえやはりこのサークルは「映画制作」が主体でした。映画に出ようという
人たちの集いなので、顔のいい人がけっこう多い! 華やかなサークルでした。
合宿の足は車。車を持っている人が、車を持たない人を分乗させて合宿に
出かけます。200キロでぶっとばすクルマ自慢の男、超絶イケメンなのに
変に都会人ぶったりせず「宮城」ナンバーの地元車を東京に持ってきて堂々と
乗っている自然体な先輩など、いろんな車文化にも接しました。
合宿では徹夜飲み、日中はテニスをしたりして、帰りは居眠り運転の先輩を
起こしながら命の危機と共に帰還。「いかにもイケてる大学生」のような
サークル活動を経験できました。
私が3年生の時には、「サークル全員が出演する映画」が撮影されました。
「全員が、一番似合う役で」という方針で作られた映画、私に割り振られた
のは「マッドサイエンティスト」の役。うーんそういう立場か…。とはいえ、
演じてとても面白い役回りで、やりがいがありました。「狂喜して笑う演技」
が一番難しかった。でも、この映画を全員に焼き増して配ってくれるという
話がなぜか実現されず、残念なことにその映画は手元に残っていません。
それでも、学生映画の撮影を手伝い、また出演するなんて、私の人生からは
なかなか想像できない思いがけない体験ができました。

そしてやっぱり私は「漫研の人」。漫画研究会に一番エネルギーを割いた大学時代
でした。3年で渋谷のキャンパスに移ってからは、授業に行かずに学食で漫画を
描いたりして過ごしてたし…。高校で自分を「ただの人」なうえに「勉強の
できないダメな奴」と認定した私は、それを言い訳に堕落していました。
漫画もいっぱい描いたけど、小学校でマンガグループに「通り魔」という名前を
つけるようなセンスが成長によって洗練されることはついになく、センスなしの
才能なし…
さらにゲーム三昧で時間を無駄にし、「ぷよぷよ」で100万点を目指して朝を
迎えたり、「ドラクエ5」で全モンスターを集めようと躍起になった挙句データが
飛んだり…
大学に入れてくれた両親に申し訳ないダメ人間生活を送りました。
大学2年生の時にコピー誌編集長、3年生では編集長を歴任し、サークルの
中心メンバーとして実際それなりに活躍もできていたと思いますが、
ここで素敵な恋が経験できたこと、そして未来のダンナをとっつかまえたこと、
それが漫画研究会で私が一番成しえたことだったかもしれません。
なお、映画のサークルは皆さん車持ちでしたが、こっちの合宿の足は電車。
サークルの後はゲームセンターに行ったり、男の先輩の家に徹夜マージャンに
行く男どもが多数いたり、この漫画研究会はマニアックな男社会。高校の
漫画研究会は女所帯だったので、また違う味わいの漫画研究会でした。

大学のクラスメイトとは6人の仲良しグループを作ってつるんでいました。
一人、気合の入った子がいて、清里に女子旅に行った時、いきなり「朝、
8時半にテニスコート予約してあるから!」と言われて全員呆然としました。
別の旅行では2人ずつ3部屋を予約していたのですが、彼女が「私、朝5時に
起きて10キロ走るから、5時に目覚まし鳴ってもOKな人と同じ部屋で!」
と言ったら皆が「ええ…」となって、私が「じゃあ」と同室になり、ついでに
一緒に走ろうとして1キロで挫折してホテルに戻ったりしました。
6人で交換ノートを作ってその中で若い悩みを共有し合ったり相談し合ったり…
コイバナをするのもこのメンツが中心でした。

高校の漫画研究会のOB会にも入り、いろいろ「大人の女性の遊び」を教えて
もらいました。OB会のイベントとして「ランチクルーズ」や「ワイン会」が
開催され、ワインに超詳しい先輩がレクチャーをしてくれました。
イクラが苦手なので参加しませんでしたが、荒巻鮭を一匹あますことなく
使いきってパーティーをやる「鮭の会」などのユニークなイベントもありました。
そうした案内が入ってくるOB会報はいつも楽しく読めました。
また、このOB会が出していたオリジナル漫画の同人誌はハイレベルで、
そこから3人も漫画家が輩出されました。末端に参加させてもらいましたが、
コミケで売り子をやった時に先輩の名声をファンから耳にして恐縮したものです。
高校の後輩たちともさらに結束が固くなり、ファミコンの古いゲームを愛好する
面々で集うようになりました。このメンツでファミコン雑誌を作り、コミケに
出るようにもなりました。
この仲間の一人が2つ下の親友、金持ちの息子だったので、彼の別荘に仲間たちで
集って自炊しながら泊まり込みでゲームをしまくりました。
とにかく人間関係が充実していた大学時代でした。

人生初のアルバイトをしたのは大学2年生の冬。
コージーコーナーの工場で2週間の短期バイトをやりました。
アルバイト初日、お昼にあまりにおなかがすいて、嫌いな漬物までも食べずに
いられなかったのが衝撃的でした。労働って大変なんだと感じました。
そして、やっと手に入れた8万円を手に帰宅した最終日…
目の前で、弟が「パチンコで勝った」と言って20万円をひらひらさせていて、
「勤労って何だろう」と虚しくなったものです。
そして3年生になってキャンパスが近くなったため、やっと本格的にアルバイトを
経験しました。働いたのは近所のちゃんこ屋さん。
しかし、悪い意味でお嬢さん育ちの私は、気が利かないし、食べ物も扱い慣れない。
「キャベツの千切りはできる?」「いえ全然…」「じゃあ、おにぎり握って」
「あの、握ったことがないので…」。注文を次々言われてささっと対応する
他の子たちに対して、「えっとちょっと待ってください、伝票を…」と、
書かないと対応できない脳内いっぱいいっぱいの私。
私が一番役に立ったのは、元相撲取りのマスターの次に力自慢だったので、二階の
宴会場にビール満載のビールケースをまるごと持って上がれたことくらい。
ここで、私はおにぎりが握れるようになり、キャベツの千切りもそれなりに
細く美味しく切れるようになりました。
なので、母のおにぎりは俵型ですが、私のおにぎりは三角形です。

就職の時期になってハッピーな大学生活は暗転します。
我々の2つ上の先輩くらいまでは就職活動は楽勝でした。その時点ではバブルの
余韻が残っていたのです。しかし…
私たちの世代は完全に就職氷河期となり、求人そのものが激減。
しかも、男女雇用機会均等法施行後なのに、堂々と女性差別ができる世の中で、
男子のところには百科事典のような分量で企業のエントリーシートハガキが
届けられているのに、女子には「卓上ミニ辞典」のような分量のハガキのみ。
私が「定員いっぱいです」と断られたセミナーに、後から申し込んだ男子は
普通に入れてもらえるなど、いろいろな差別を実体験しました。
それまで「男女差別」なんて感じたこともなかったのに、「社会に出る」となれば
「女はお茶くみコピーの末に結婚退職だから要らない」とでも言われているような
圧倒的な斥力を感じることとなりました。
「サークル3つを兼部して文芸班長を務めたり、サークル誌の編集長を務めたり…」
とそれなりにアピール要素はあったと思うのですが、不勉強や社会的な知識不足も
あり、私は4年生の夏の終わりになってもまだ内定が一つもとれていませんでした。
大企業、有名企業を軒並み落ちて、中小企業も結局は全滅…
なのに世の中はまだバブルの感覚で「就職が決まらない大学生が多いんですって、
まあ皆高望みばっかりするからよね」とバイト先のちゃんこ屋で話している人を、
「中小も全部落ちたわ!」と本気で殴り倒したかった。
親も「なぜ就職できないの、普通に活動すればできるはずなのに」という感覚。
この時、どれだけ就職活動の状況が急変していたか、一般の大人は全然わかって
いなかったし、私たち大学生は当然、もっとわかっていませんでした。
2つ上より上の先輩は「いかに自分たちが楽勝で内定を取ったか」という自慢話。
大人たちは「内定がとれないなんて信じられない、ちゃんとやればそれなりに
就職は決まるはず。就職が決まらない人が悪い」という感覚。
この時、数十年先に「就職氷河期世代」「ロスジェネ」として社会問題にされる
ほど就職先がなく、人材がないがしろにされた時代に入っていたと、まだ認識
されていませんでした。だから、内定が取れずに多くの人が自分を責め、自分に
絶望し、苦しむこととなりました。
第二次ベビーブーム世代で人口が最も多い世代なのに、とんでもなく求人数が
減って、すさまじく狭き門に多大な人が殺到していたことを、誰も正しく評価
しなかった時代。
私は幸い、なんとか「地元の遊園地」に内定をもらうことができました。
しかし「初任給の低い地元の中小企業」でしかなく、誰からも「いいところに
入った」とは言ってもらえない、ビミョーな就職先でした。
それでも、一応は「やりたいこと」を見出せる、子供のころから馴染んだ場所で
働けるので、私自身はホッとして、夢を抱いて先に進むことができました。

この時代の就職がいかに厳しく、しんどかったかというと…
友人は、仲間内でもうらやまれる「山一証券」から内定をもらったのに、なぜか
もっと給料の低い大手学習塾グループに進路を決めてしまいました。誰もが
「もったいない、なんてことを!!」と惜しんだのですが…
山一証券はその後倒産。給料のいい金融業界に入れたことを喜んでいた人たちが
まだ新人なのに転職に奔走することになりました。
安定、安泰だと思われていた企業が「普通に倒産する」時代が来ていました。
とんでもない狭き門をなんとか通り抜けた優秀な人材が、先人の失敗によって
世間の荒波に生身でまた放り出される時代にもなっていたのです。
まさかの「山一を蹴るなんて」が「山一を蹴っておいて、よかったね」に変わる。
何を信じればいいのかわからない、バブル崩壊直後の就職氷河期の現実でした。

私の人生は、たくさんの人々が私の周囲をいつも彩ってくれていることで成立し、
豊かになっているなと思います。
特に、成長してからは、私が何をしたかというのはあまりなくて、どんな人と
どんな風に関わってきたかという話ばかりです。
その分、笑い話的なエピソードが少なくて盛り上がりませんが、引き続き
現在に至るまでを書いていきたいと思います。

我が人生の名場面2・少女期編

2020-02-07 15:51:07 | 日記
我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第二弾。
今回は中学校~高校時代、ときめきの少女期編。

中学1年生の夏休み、私は生まれ故郷の東京都板橋区に帰還しました。
また転校生となったわけですが、今回の転入先は小学校時代の友人が
多数通っている地元の中学校。不安はまったくありませんでした。
いや福岡の小学校に転校したときも不安はなかったか。
案の定、懐かしの友人たちが歓迎してくれました。
日々絵を描いて過ごしている私は、そうした友人たちのたくさんいる美術部に
入りました。美術部とは名ばかりの、アホな遊びばかりしている悪友たちの
巣窟でしたが、楽しい仲間に囲まれていろんな悪いことをして過ごしました。
給食室に返された残りのコーヒー牛乳を盗み飲みしたり、禁止されている
買い食いどころか、部活の時間にラーメン屋に食べに行ったり…
なお、この美術部、学年上位の成績をおさめる女子がずらりと並ぶ、
そうそうたるメンバー。先生方が「優等生」と認識している女子たちの
裏の顔というか「ダメ人間の顔」で過ごす憩いの場でした。

いわゆる優等生ほど変な人が多いのか、この中学の名物男も成績優秀者。
彼は学校にいろんなコスプレをして登校して来たり、校内でコスプレしたり、
正門で不審者の格好をしてフェイクなビラ(ただの白紙)を配って校長室に
呼ばれたり、コスプレ衣装を作っていたせいで遅刻して正門にすがりついたり、
とにかく変なことばかりして目立っていました。
私と、同学年の彼が在学中に阪神が日本一になったのですが、彼は阪神ファン
だったらしく、友人たちとタイガースのはっぴを着て各教室を練り歩き、
「六甲おろし」こと「阪神タイガースの歌」を大合唱していきました。
当時ガチガチの巨人ファンだった私は、半分面白がりつつも「チクショー」と
怒りに燃え、「将来の結婚相手の条件」に「ゴキブリが倒せる人」だけでなく
「阪神ファン以外」という項目を足しました。

この中学校で起こったのが、私に向けられた「〇〇さん黒幕疑惑事件」。
13、14歳の女の子たちは恋するお年頃。ナイショにすることを約束して、
好きな人を打ち明け合う女子トークなんかをやるわけです。
クラスの女子数人で好きな人を語り合った数日後、大事件が…
みんなの好きな人がいろんな人にバレていたのです。
中学生女子にとって「好きな人がバレる」というのは大変なショック。
皆、真っ青になって激怒。私も気が気でない思いをしました。
ある日、その仲間たちが私のところに来て「あの子が犯人らしい。みんなで
問い詰めるから一緒に行こう」と言いました。どうやら言いふらした証拠を
つかんだらしいのです。
私は、皆で取り囲んで責める雰囲気に気乗りしなくて、「いや、私は
一対一で話すわ」と言って参加しませんでした。
疑われた彼女は実際犯人だったようなのですが、その後、彼女はなんと
私のことを「〇〇さんだけが文句を言いに来なかった。絶対おかしい。
〇〇さんが皆に私をいじめさせた黒幕に違いない」と言っていたそうで…
その彼女と親しい女子が、トイレで私を罵りながら個室のドアを蹴っていたと、
たまたま聞いていた友人が教えてくれました。
以降バカバカしいので結局文句も言いに行かず、その彼女と関わるのは
やめましたが、彼女が「中学の時、囲まれて文句を言われたり仲間外れに
されたり、いじめを受けた」と思っているのかもしれないんだな…と思うと、
いじめのうちの何件かは、周囲の人のほうがよっぽど被害者かもしれないと
思いました。だってこれ、私は被害にしか遭ってないよ。なんだ黒幕って。

この当時の私の「好きな人」は、クラスに1位2位3位と好きな人がいて、
でもその誰ともほとんどしゃべったことがなくて、1位の人が私の
「好きな人認定」の人でした。そんでクラス替えのたびにメンツが
総とっかえになるという、「好きとは何ぞや?」状態の女子でした。

こういう「人生を振り返る」みたいな場で具体的に「好きな人」の話が出て
くると、わりと白けるというか「他人の恋愛話をぐだぐだ聞かされるのは
嫌だな」という感じだと思いますが、この中学校で出会った初恋については
私の人生超最大のキーポイントなのでご容赦ください。
中学2年の私は、中学校の委員会の一番偉いやつ(笑)に入りました。
そこで出会った彼は、私の人生の土台となり道標となりました。
男子としゃべるのが苦手なうえに、「顔を見て話したら男子が嫌がる」
とかいう面倒くさい自虐にかられていた超~~暗い勘違い女…それが
当時の私の姿でした。女子が相手なら友人も多くいつも楽しい私なのに、
男子が相手だと途端に何を意識してか殻に閉じこもり、何やら気持ち悪い
変な態度で目も上げずにしゃべる変な奴。
しかし初恋の彼は、女子を分け隔てなく扱って、私に対しても普通に、
いや普通以上に優しく、「顔を見てしゃべったほうがいいよ」と言ってくれる
など、私を徹底的に相手して矯正して正常化してくれました。
そして、彼が素で言った「ウン、僕の友達みんないい人ばっかり」という
言葉は私を驚愕させました。
さきの「黒幕事件」でもわかるように、女子の「友達」の中では、いろいろ
ドロドロしたことが起こります。嫌いな人がいたり、でもそれを隠して
親しいふりをしたりしていて、私は決して「友達みんながいい人」なんて
言えませんでした。
しかし彼はそれを言ってのけ、しかも嘘には聞こえない。
ああ、こういう人っているんだ、と思いました。
そして、この恋はまるっきりかなわなかったけれど、この彼に出会えたこと
自体が自分の人生においてとんでもない幸福だと思うことができました。
その時、私に「幸せを敏感に感知するアンテナ」が生えたのです。
以降、「ああ、そうか、私って幸せな人生だなあ」と思って生きる時間が
圧倒的に増えました。
というか、自分を幸せだと思うことは、それまでいっさいなかった。
私はブスで損をしている、もっと認められたいのに恵まれてないし、
皆はいいよな…というような卑屈な感じ方しかできなかった…
それがぐるっと変わりました。
そう、私はいつだって良き友人に囲まれてきた。しかもたくさんの。
家族にも恵まれている。担任の先生のことだっていつも大好きだった。
自分が普通にすごく幸せだってことに、15歳で気がつくことができた。
それまでは本当に、アンテナが立ってなかったんだと思う。
彼には成人式で再会できたけれど、こんな「人生をありがとう」なんて
会話ができる機会もなく…。私は私の人生を「恵まれすぎて最高すぎる」
と思っていますが、それに気づく能力を授けてくれたのはこの、中学で
出会った初恋の彼なのです。今でも、人生を挙げて全力で感謝しています。

さて、コイバナ的述懐はそのくらいにしておいて。
高校受験を迎えた私は、「あなたは内申点が高いから、都立のレベルを
下げる必要はない。だから、ダメもとでも上の学校を受けると良い」と
中学校の先生に言われたものの、ダメもとの学校は全部落ちました。
進学先は、受験で行った際に仲間たちを震撼させた超謎の汚い都立高校に
決まりました。だって、物理的に各所汚くて壊れてるだけでなく、机の中に
ラグビーのヘッドキャップをかぶった白髪交じりのカツラ(しかもなぜか
黄色いテニスボール入り)が入っているような高校だよ!
受験生が動揺するから、そんな不審物は除去しとけよ!

ここは先生も生徒も変な人ばかりの高校でした。
昭和天皇が危篤の時に「いつ死にますかね」とうきうきしていた先生や、
初日の授業が「私の妻は、白血病で死にました」という身の上話だった先生や、
大学も驚くレベルの実験を次々に課して教科書をまったく開かない先生や、
大半の生徒が使わない道具を「交代で使うときたないから」と全員に強制的に
購入させる先生や、制服がない(みんな私服)なのに毎日スーツで完璧に
キメて登校する生徒や…かなり危険な無法地帯でした。
トイレには学生闘争時代の貼り紙が残ってるし(大学じゃなくて高校なのに!)
床は黒ずんでススが撒かれたみたいに汚いし、窓ガラスヒビ入ってるし、
カーテン下の方破れてなんか茶色くなってるし…物理的にも超汚い!!
そこに生徒が、教室の後ろの黒板の上に飲み終えた空き缶をなぜか並べるし、
運動部の連中が砂を吐き出すスパイクをぽんぽん投げるし…
教室の掃除は「学期に1回だけ」だし、ゴミ箱のゴミ回収は有志がやらないと
誰も、いつまでもやらないし…
夏は弁当を捨てた袋からショウジョウバエが生まれる騒ぎ!
私は時々ゴミ回収をやり、教室を自主的に掃除していました。偉い!

こんな高校だから、いろんなことが「生徒の良識に任せる」感じでした。
お昼は校外に買いに出ようが食いに出ようが勝手。
ここでも悪友たちとバカをやることが最大の楽しみだった私は、後輩たちと
お昼に最寄り駅まで10分の距離を急ぎ、ギリギリの距離まで電車に乗って
出かけていき、ジェラートを食べてダッシュで戻ってくるという無駄な
ミッションをクリアして盛り上がったりしていました。
「人生で一度はやってみたかった」という理由でエスケープもやりました。
同じく、早弁もしてみましたが、緊張してのどがつかえて生きた心地が
しませんでした。早弁は1回でいいやと思いました。

そうそう、この高校では、半分冗談半分本気の「カースト制度」がありました。
当時の都立高校には「学区」があり、学区内の高校にしか進学できなかったの
ですが、我が第四学区は「文京区、豊島区、板橋区、北区」からなります。
その中で一番やんごとないのは文京区様、次に高貴なのは豊島区さんで、
これはもう決まりと言うか論をまたない事実。では三位、四位は?
板橋区と北区のカースト上位争いは、まるで「翔んで埼玉」の埼玉と千葉の
ような状態でした。
いや~確かに、板橋区在住の私の中学校までの通学路は、大半、片側が住宅で
もう片側は畑だよ。雨上がりには手のひらより大きいカエルが必ず道端で
1匹以上死んでいたよ。福岡の友達が遊びに来た時、「板橋農協」の看板を
見て「ええっ! 東京にも農協ってあるの!」と驚かれ、我が家の近所を見て
「すごい、東京に畑がこんなにある!」とさらに驚かれたよ。でも!
「板橋区は北区より圧倒的に人口が多いし、人口密度も高いんだよ! 人が
多く密集して住んでるほうが都会に決まってるだろ!」
「なんだと、北区には山手線が通ってるんだぞ、板橋区はかすってもない!」
まあ、こんなアホな戦いが時々勃発してましたな。
さらに先生まで戦いを煽る煽る。地学の先生が、星の観察の際に、
「文京区、豊島区の人たちは、夜でも明るくて星が見えないと思うので、
夜暗くて星がよく見える板橋区や北区に行くといいですね」
とか満面の笑みで言うわけ。そこで文京区豊島区の人たちがわざとウンウンと
大げさにうなずき、板橋区民北区民が罵り合いを始めるという構図でした。

私がこの高校で何の部活に入ったかというと…
あの、幼稚園時代に「カワイ体操教室のはずが、なぜかピアノ教室に
申し込まれてしまった事件」から10年以上を経て、とうとう「体操部」
に入ったのです!
実際は、美人の先輩に「クッキング同好会でお菓子を作って、その分を
体操部で運動して消費するのよ(ハート)」と勧誘されて「そっかあ…」
と篭絡され、体操部に連れていかれたうえにクッキング同好会も兼部したの
ですが。後から漫画研究会にも入って、3足のわらじになっちゃいました。
そしてこの体操部で、私の人生の大きなターニングポイントが…
私、体の柔軟性は案外あって、初期のころにやる「倒立前転」や
「倒立ブリッジ」が意外とできちゃいました。さらに、女子の新入部員
7、8人のうち3番目に、最初の空中技「前方転回」もできたのです。
もしかしてスポーツできる子だったの? と思いましたが…
筋力不足、体重オーバー、なのに前方転回がちゃんと着地できてしまった
私の脚は、衝撃に耐えきれませんでした。着地を決めたはずなのに、
ぐりっと膝がねじれるような感覚があり、私はばったり倒れました。
「これ絶対脱臼したよな」が最初の感想。しばらく立てませんでした。
部活が終わるまで見学して、帰りはなんとか自宅の最寄り駅までたどり着き、
弟の乗ってきてくれた自転車で帰りました。
私は弟と二人乗りで帰りたかったのですが、カッコいい弟に見事、ラブラブな
二人乗りを拒否られ、自転車を渡されて一人で帰りました。我が家は駅から
ずっと下り坂なので(逆に、行きは全部登り!)自転車があれば、ほぼ
こがないで帰宅できるのです。
翌日、痛みは引いたし歩けるものの、腫れがひどくなったので病院に行くと
「前十字靭帯断裂」の診断。
高校1年生の夏休み~新学期は、手術と2か月の入院で台無しになりました。
そして、手術で腱を移植したり骨を移植したり金属を打ち込んだりして、
翌年の冬に金属を抜く手術をしたりしたので、以降、怖くてスキーが
できなくなりました。もともとスキー好きじゃなかったからいいけど、
大学生になって何度もサークルでスキー旅行に行ったのに、ふもとで
仲間たちを待つだけの時間を過ごす哀れな人でした。
また、そのためにスポーツにより消極的になりました。
ことごとくスポーツに縁がなかった、ということなのかなあ。

3つも部活に入っていた私ですが、文化祭の実行委員もやりました。
合羽橋に使い捨て食器類の仕入れに行ったり、模擬店の仕入れに関する
事務手続きや会計をやったり、すべての支払いが文化祭の後だったり、
各所に何十万円の支払いをしたりと、これまでまったく経験のない
小売店の仕事のようなことができて、とても面白い活動でした。
(うちの高校の「模擬店」は文化祭実行委員会のみが運営可だったので
規模が大きかったのです)

いろいろあった高校時代ですが、私の人生に一番影響があったのは、
中学の美術部からの友人で、体操部、クッキング同好会、漫画研究会、
文化祭実行委員会の全部で一緒だった親友が美人だったことでしょう。
美人と2人で仲よくしていると、ま~あ男子が周囲に寄ってくるのなんの。
もちろん彼らとしては私なんて眼中にないのですが、ないがしろには
できないということです。親友目当てでセットで「コンパ」に呼ばれたり
するのです。皆さんご苦労様だこと。
そして、そういう中で(女性としてでなく人としてですが)私をすごく
高く評価してくれる男子が出てきてくれたりもしました。
「〇〇ちゃんホントにいい人だね! ファンになっちゃったよ」
クラスの中心的存在だった男子の1人がすごく惚れ込んでくれて、
いつも気にかけてくれて、何かあればフォローしてくれて、
「仲間内で入学してから綺麗になった人の話をした時、〇〇ちゃんも入って
たよ」等のうれしい話を教えてくれて、私を引き上げてくれたと思います。
当時私はチャゲ&飛鳥が好きだったのですが、この彼に「飛鳥だけで
充分なのに」ということを言ったら、「そんなことはないよ、彼らは
チャゲの上手さに支えられてるところも大きいよ」という話をして
くれました。確かに、そう言われて視点を変えて聴いたら、曲としての
完成度の高さを下支えしているのはチャゲなんだ、と理解できて、
自分の視野の狭さを反省しました。
こういう華やか系の男子が私にとても良くしてくれたという経験は、
私の自己卑下に満ちた性根をまた新たに矯正してくれたと思います。

プチモテも経験して、今で言ったらほぼストーカーな気に入り方をして
くれた人と、友達のふりをして卒業後に「実は…」という電話をくれた人が
いたりもして、私は「ブスで暗くて気持ち悪い勘違い女」から「普通の女子」
に脱皮できたと思います。中学校で男子への接し方を矯正してもらい、
「幸福感知アンテナ」を授かったことで、いろんな世界が開けました。
好きになったり好かれたり、実は双方向で噛み合っていたベクトルも
あったのですが、結果として高校時代に交際と言える関係に至った男性は
いませんでした。デートとは定義しないものの実質デートと言える外出は
けっこうあったのですが。
もう、中学までの私とは全然違います。これも「幸福感知アンテナ」で
素直に幸福や喜びを感じて表出できるようになった賜物と思っています。

私はあまり年上の人に可愛がられるタイプではなく、同世代とグループで
仲よくして、後輩に慕われる傾向があります。
結果として「終の棲家」となった漫画研究会では、弟分として私を慕って
くれる1つ下の男子、今も公私とも絶大な信頼を置いている1つ下の女子、
のちに親友となる2歳下の男子など、大いなる出会いが多数ありました。

なお、我が母校、愛すべきおかしな都立高校は「4年制」と言われていて、
1浪するのは当然という文化でした。先生も受験で使えない変な教え方
ばっかりするし。
そのせいにするわけではないのですが、中学で成績上位だった私が、
そういうレベルの子が集まるこの高校では「ただの人」以下の劣等生でした。
「勉強がわからない」「答えが出ない」ということを初めて経験しました。
クラスで平均点が35点の数学のテスト(100点満点で平均点がそれと
いうのもテストとしてどうなのか!)で、17点しか取れなかった時には、
あまりのショックで東武東上線の終点、寄居まで乗っていくという
現実逃避をしたりもしました。
「そうか、私って、特別な優等生でもなんでもなくて、ただの人だったんだ」
この高校で、私がリアルに実感して理解したことです。
でも、ただの人でしかないけれど、私って楽しくて幸せで、いいよね…
高校時代には、もうすっかり自己愛とパワーにあふれる私になっていました。
そして「4年制」の定説どおり、私は見事浪人しました。
でも「高校の後輩たちともう1年、一緒に遊んでいられる」という感じで
全然悲壮感はありませんでした。
こうして私の人生が大きく変わった中学、高校時代はおしまい。
恋愛は結局、片想いに毛が生えた程度のことしかなく、十代の女子としては
物足りない青春時代かもしれませんが、本当に充実した時期でした。