エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

DA PUMP・私の青い鳥~後編~

2020-11-19 02:13:34 | 音楽
(前回までのあらすじ)
w-inds.ファンをやめて長い迷路にいた私は、ダンナの導きで
DA PUMPという青い鳥に出会う。私の幸せはここにあった…
さらに、「U.S.A.」でDA PUMPが再ブレイク!
全てが輝く時間(とき)が訪れた――…?


さて、今回は、マニアックになりすぎて濃い~ぃファンにしか全然
わからない話になっていくことをお断りしておく。
でも書いておきたいので書く!

「U.S.A.」のヒットで、DA PUMPの実力が称賛され、ずっと
頑張り続けたISSAが称賛され、10年の下積みに耐えた新メンバー
も称賛され、DA PUMPをめぐる環境は幸せ一色になった。

もっともっとDA PUMPが聴きたい! 観たい!
ベスト盤の2、「DaBestOfDaPump2plus4」も
買った! 観た!(こちらもCD+DVD!)
…そこから、私は、DA PUMPの悲しい側面にも足を踏み入れる
ことになった…。

この2枚目のベスト盤の途中からDA PUMPはセルフプロデュース
になる。セルフプロデュース初期はまだ己の何たるかを把握できずに
迷走している感がある。
ただ…このセルフプロデュース初期のISSAがめぢゃぐぢゃ格好いい。
彼の見た目の一番素晴らしい時期が低迷期に当たってしまったのは、
日本の芸能界の取り返しのつかない損失だと思う。
そして…私はこのベスト盤のDVDで出会ってしまった。
DA PUMPのセルフプロデュースによる2つの最高傑作に。

まず流れてきたのは「GET ON THE DANCE FLOOR」。
(ちょっとイントロ長すぎだけど)こんなにも楽しく、メロディアスで
アーティスティックな映像&サウンドの融合があるのか。驚愕しすぎて
声も出なかった。驚天動地に素晴らしすぎた。
ネットになんぼでも上がっているのでぜひ観てほしい。
何を語っても万分の一も表現できない。百聞は一視聴に如かず。

この曲は大半がラップで構成されている。
「ラップ」という音楽は、初期w-inds.が慶太君の声変わりから
やむを得ず楽曲に取り入れるようになったために私も仕方なく耳にする
ようになったが、なかなか受け入れられなかった。だが、聴き慣れれば
「ああ、涼平君より龍一君のほうがラップが上手いんだな」など、
ちょっとくらいは良し悪しがわかるようになった。(涼平君スマン)
そんな私の転機になったのは2004年、SOUL’d OUTの新曲
「1000000 MONSTERS ATTACK」だった。
ラップサウンドのアーティスト・SOUL’d OUTなんて、まるで
興味なかったしラップは肌に合わなかったはずが、この曲はスペシャル
ハイパーにかっこよかった。
それでSOUL’d OUTのベスト盤が出た時にCD&DVD版を
買って今なお執拗に聴いている。SOUL’d OUTマジかっけー!
w-inds.が下地を作ってくれたおかげで新しい音楽に開眼できた。
そのお陰でDA PUMPの「GET ON THE DANCE 
FLOOR」の真の価値にも気づくことができた。本当にありがたい。

この「GET ON THE DANCE FLOOR」、リリース
された2004年当時、偶然耳にした記憶がある。
その時の私の感想は「DA PUMP、いい曲持ってたのに、なんだ
この『前の方』とか『後ろの方』とかいうテキトーな曲。落ちぶれた
ものだな」。
当時の私の耳はそもそも、根本的にラップを否定していた。
「1000000 MONSTERS ATTACK」のほんの1か月
後に発売された「GET ON THE DANCE FLOOR」…
出会ったタイミングが少しだけ早かった…

SOUL’d OUTのPVは、どれも凝っていてなかなかの出来。
でも…DA PUMPのこの「GET ON~」は、私が高評価して
いたSOUL’d OUTのPVの出来を、軽々と超えていた。
(そこはSOUL’d OUTがダンサーじゃないからアクションで
勝ちようがないのは当然。優劣の話じゃなくて、「DA PUMPは
そこにさらにダンスまでプラスされる」という意味)
「GET ON~」は、ダンサブルでコミカルで、「目から音楽が
心地よい」という稀有な体験をさせてくれる衝撃作だった。

すさまじいクオリティにあ然呆然の私を、さらなる衝撃が襲う。
1曲挟んで、その次の曲は「Like This」…
もうこれは異常。言葉で表現できない。
多分宇宙全体でこれを超えるかっこいいPV作れる人いないと思う。
わざわざブログで書いてるのに、言葉ではなんも伝えられない。
音楽性の高さ、ダンスのクオリティ、演出から何から全部カンペキ。
これが「セルフプロデュース」って、なんだこのグループ。

みんなの知らない存在になっていた時期のDA PUMPは…
人知れず、勝手に、驚愕の進化を遂げていた…

だが、究極進化を遂げたDA PUMPはここで潰えてしまった。
「なぜ、なんでこのものすごい音楽とダンスが日の目をみないどころか
これでDA PUMPが終わってしまうんだ!?!?」
作品の凄まじさを知るとともに、究極進化がこの2曲だけで終わって
しまったことに果てしない嘆きと悲しみと悔しさが湧き上がる。
そう多分、DA PUMPファンはこの2曲を知らない方が幸せだ。
この「Like This」リリース時にSHINOBUが事故を
起こして謹慎→休養→脱退となり、そこから4人のDA PUMPは
崩れていってしまう。
3人でやっていくはずだったが、やがてYUKINARIも脱退。
これについてはいろいろ情報が錯綜しているが、たった一つの真実は、
「親権はYUKINARIが取った」ということだ。もう語らないで
ほしいだろうから何も言わないが、すべてはここに集約されている。

SHINOBU…なぜ、なぜよりによって「Like This」の
時にやっちまったんだ…。そのことだけは、私は神を呪う。
そのために、このPVがほぼ「お蔵入り」になってしまった…。

ただ「GET ON THE DANCE FLOOR」をテレビで
実際に生で歌った(ラップって歌うって言うのかね?)時のVTRを
ネット動画で見た時に思ったことがある。
「ハイクオリティすぎて、ISSA以外が曲についていけてない」
セルフプロデュースなのに楽曲についていけてないって何!?
でもYUKINARIもSHINOBUも、KENさえも、「曲を
再現する」ことにいっぱいいっぱいだった。
あれは、自身の能力をも超えてしまった曲とPVだったのだろう。
であれば、「Like This」もそうなのかもしれない。
あの究極進化は、DA PUMPの実体を超えてしまって、PVの中
だけで実現できる幻の名作なのかもしれない。

だけどISSAは生で「GET ON~」余裕でできてるんだよな。
あの人やっぱ、おかしいわ。天才ってほんとに理解不能~

ただ…そんな超天才のISSAを、KENが一瞬だけ超えてみせた、
それが「Like This」という楽曲。
これは作詞・作曲:KEN、編曲:YUKINARI。
PVは、ISSAとのツートップにしてはあるが、メインになって
いるのは完全にKEN。それで何ら違和感はなく、かつ、ISSA
オンリーの私ですらKENがナンバーワンに仕上がっていることに
何の異論もない。あれはあれでこそカンペキだし完全に素晴らしい。

思い出す、羽生結弦が完全体の時に「彼を超えるのが目標」とガチで
言っていた宇野昌磨の姿…
ここに、羽生結弦を超えた宇野昌磨がいる。
誰が「顔良し歌良しダンス良し」のISSAを超えようと思う?
だが、KENは超えるつもりでやってきたんだね。
…超笑えるけど、KENも射手座。本気で天才を超えようと考える
だけでもバカなのに、ほんとに超えちゃうバカもいるんだね…

そして…その次の曲ではもうSHINOBUがいない。
そこで「DaBestOfDaPump2plus4」のDVDは
終わる。1の時のような4人のトークもない。
この後も3人体制のDA PUMPはしばらく続いたはずだが、私は
もうそこを追う気になれなかった。悲しみばかりが募りそうで。

ずっとあきらめることなくDA PUMPを追ってきたファンたちは、
どんな思いでこれらの時期を過ごしたんだろう。
こんなに実力をつけてすごいパフォーマンスをしても舞台はなく…
こんなすごいアーティストに育ったのにメンバーが失われていく…
決して戻ってこない4人のDA PUMP。
深追いしたせいで、DA PUMPとファンが味わった悲劇を追体験
することになろうとは…。

人には「出会うべきタイミング」があるという。
私は…悲劇がすべて終わった後になってからDA PUMPに出会って
よかった…。失われていくのを目の前で見ていたらどうなっていたか…。

気持ちを切り替えよう。ISSAがなんとか頑張ってDA PUMPを
続けてくれたおかげで、過去の名曲がお蔵入りしなくて済んだ。
KENも、今「Like This」が圧倒的な再評価をされている
この事実はうれしく思ってくれるだろう。(ネットの書き込みなどで、
U.S.A.世代のファンからも衝撃と絶賛の嵐だからね!)

「U.S.A.」のおかげでレコード大賞にも紅白歌合戦にも返り咲き。
レコ大は「カバー曲だから」とか言って大賞くれなかったけど、あんな
裏金ヤラセ大賞どうだっていいもんねぇ~だ。
我が敬愛するNHKの紅白歌合戦で日本中が笑顔で「U.S.A.」!
こんな幸せな時間が手に入って、やっぱDA PUMP最高や~ん!

「U.S.A.」に沸きに沸いた2018年が終わり、次の春…
DA PUMPの新曲が発表された。
不安は的中した。「桜」…ありえないダサさだった。
同人誌やネットで素人小説書いてる勘違いな「耽美系」のオタクさんが
恥も外聞もなく撒き散らす「苔の生えた耽美ワード」がゴテゴテに
盛り尽くされた、素人の後塵を拝するレベルの作詞にドン引き。
もう三十年も前から「繚乱」とか「刹那」とか「時雨」とか、やたら
和風のうすっぺらい熟語ばかり並べた愚作、死ぬほど見てきたなあ~。
しかもこれ「今のDA PUMP(っていうかISSA)の心境を歌に
したよ!」的な「内輪受けソング」。これからさらに売り出そうって
時に「内輪受け」か! 身内ばかり見て作るのはアマチュアの仕事。
そのダサい路線は、「U.S.A.」みたいな「ダサいを求められる」
時だけにしてくれよ。
DA PUMPはカッコいいんだよ。「なのに」ダサいのをやったから
ウケたのに…。自分の価値を見失うなよ。

「桜」すごいよね。あんだけの「U.S.A.」ブームを急速消火。
DA PUMPは「ファンだけのもの」に戻った。「歌詞の目的達成」
ってカンジ。ここで次のムーブメントを起こせなかったのは痛い。
だがもう取り返しはつかない。どうしようもない。

ダンナが私を勝手にDA PUMPのファンクラブに入れてしまった。
自分で入れよ! 昔からのファンのくせに!
でもそれでチケット取ってライブ何度も行ったよ!
ライブの「ISSA浴」はすごいよ~。
ISSA、続けてくれてありがとう。そしてあんたやっぱり超人だよ。

4人のDA PUMPは、とんでもないアーティストに、いっときだけ、
なった。7人のDA PUMPも頑張ってるし、ISSAはやっぱり
素晴らしい。4人時代を惜しむ気持ちは捨てられないけど…それでも、
最近のライブでは、4人の頃の曲を「ここまでのクオリティで再現して
きたか!」というレベルでやってくれたりもしている。曲の再現的には
今後もあの時代を目指して頑張ってほしいと思う。

けれど…
現在のDA PUMPは結局「バカっぽいパリピ路線」をダサさと共に
歩んでいる。リリースする曲は常にダサい。m.c.A・Tの曲も
ちょっとダサかったけど、あれは「泥臭さ、人間らしさ、茶目っ気」と
いうレベルだったな。サウンドは常にカッコよかったし。
…仕方ない。それで一定の売り上げが出ているのなら、大衆が今のDA 
PUMPに求めるものが「ダサいパリピ」なんだろう。
ほんとにそうなの? カッコいいDA PUMP観たくない???
私はダサDA PUMPじゃなくて、ダンスもサウンドも歌唱力も、
すべてが超絶カッコいいDA PUMPが見たいけどな。

ってことでまた私は「プロデュースの変化で萎える」モードに入って
やや冷ややかに今のDA PUMPを見ている。
でも、DA PUMPには、m.c.A・Tの過去曲も、「GET 
ON THE DANCE FLOOR」も「Like This」も
ある。「SUMMER RIDER」とかもイイ! ISSAが歌う
仮面ライダー系の曲もカッコいい! 聴きたいものだけ聴こう!

一つだけ確かなのは、ISSAが私の青い鳥なのは間違いないという
こと。あれっ、じゃあ、エッセイのタイトル間違えてるじゃん。
「ISSA・私の青い鳥」じゃないか! でもなんかキモいから、今の
タイトルのままでいいや。

「桜」以降、シングル1枚も買ってない。
それでいいのかDA PUMP!
2020年の紅白も出られないし(超ガッデム)、彼らはどこに行くの
かねえ…。まあ、ISSAがいるから、ついていきますとも…。

DA PUMP・私の青い鳥~前編~

2020-11-18 00:32:14 | 音楽
年取って音楽をあまり聴かなくなったな~、と思う。
それでも欠かせない音楽は初期のw-inds.で、他には
T.M.RevolutionやSOUL’d OUTのベスト盤、
FAIRCHILDの「UKULELE」、それからB′zと
さだまさし、小椋佳、斉藤由貴、薬師丸ひろ子、時々村下孝蔵などを
聴いて過ごす。
最近村下孝蔵が加わったくらいで(なぜか最近、笑)、これらはもう
20年も漫然と続いている聴き飽きない選曲だ。

私にとって初期のw-inds.が永遠のマイソングなわけだが、
もう彼らの「現在」は15年以上聴いていない。
思えば私、「ハマった」アーティストはすべて「プロデュースの変更」
をきっかけにファンをやめている。
中学時代に好きだったチェッカーズは事務所プロデュース晩年の
「俺たちのロカビリー・ナイト」や「神様ヘルプ!」で萎え、セルフ
プロデュースで「普通のバンドになったな」と思って離れた。
次に出会ったチャゲ&飛鳥は、説明すると長くなるので割愛するが、
チャゲ&飛鳥改めCHAGE&ASKAの(特に飛鳥の)軽佻浮薄な
様子と曲の大衆路線に萎えていった。ワーナー・パイオニア時代の
曲でファンになったので、移籍したポニーキャニオンの路線に
とうとうついていけなくなった、とも表現できる。

そして長い迷走期を経て出会えたw-inds.もプロデュースの
変更に伴って離れてしまい、私の魂を預ける音楽がなくなった。
へなちょこに萎れた私を元気づけようと、ダンナが教えてくれたのが
「Folder」。三浦大地(現三浦大知)をメインボーカルとする
キッズグループだ。これは衝撃だった。
実は私、「子供の歌声」が嫌い。素人の子が素人として楽しく歌って
いるのはまったくかまわないのだが、「黒猫のタンゴ」や「マル・
マル・モリ・モリ!」みたいな、「子供が歌ってるから可愛いでしょ」
的な商業音楽が気持ち悪い。「考えすぎ」とかじゃなくて、生理的に
「アピールしてくる子供の歌声」が苦手。さだまさしの「関白宣言」
とか徳永英明の「Melody」とか、終盤に入る子供のコーラスが
とにかく気持ち悪い。
そんな私が、Folderは「この子供すげーーー!」と思った。
三浦大地は普通にプロの魅力的なシンガーだった。
だが、Folderもすでに声変わりで解散したグループだった…。
でもFolderの2枚のアルバムはかなりのお気に入りになった。

三浦大知として17歳で戻ってきた「Folderのボーカルの子」
は子供時代と違ってわりと普通の人の声の響きになっていたが、
ダンスと歌唱力のクオリティが高すぎたので、夫婦でCDを買って
ライブに行くという「お布施」を続けた。
その甲斐あって、大知くんは人気一流アーティストとして羽ばたいた。
でも、Folderは私好みだったが、三浦大知への想いはあくまで
「応援」なんだな。ダンスは圧倒的にみとれていられるけどね。

そんな私に、さらにダンナが教えてくれたのがDA PUMPだった。
ダンナは昔からDA PUMPを高く評価していて「彼らのダンスは
宙に浮いている」とよく言っていた。重力を感じないクオリティだと。
でも私としては「沖縄のヤンキーはちょっと…」。
もちろんデビュー当時からDA PUMPは認識していたし、好きな
曲もあるのだが(「If…」と「Purple The Orion」
「CORAZON」など)、キャラクターがどうも肌に合わなくて…。
だが確かにISSAの声質は私好み。
熱心に薦められて、仕方なく見てあげたネット動画…
そこに、私の青い鳥がいた。

「神ナントカ」という表現はアホかと思うんだけど、あえて何かを
「神ライブ」と呼ぶなら、私にとっては2009年のDA PUMP
ライブ、「THUNDER PARTY」がそれだ。
このライブの楽曲はネットに多々上がっているので、てきとうに数曲
拾って視聴してみてほしい。(ダイジェスト版なども上がってる模様)
私の中に、超絶巨大な青い鳥が降臨した。
2009年のDA PUMPは9人で、その頃はまだKENがいた。
今のDA PUMPには申し訳ないが、KENがいると、ここまでの
ライブクオリティが出せるのか…という圧巻の出来だ。

ライブDVDで通しで観ていて、ISSAのパフォーマンスが
長時間にわたってあまりにハイクオリティなので、「絶対どこかは
口パクに違いない」と口周りをガン見する始末。だが全部生歌だ…
ISSAの超人すぎる体力と歌唱力をDVDでぜひ実体験してほしい。
そして、KENがいることでISSAが安心しきってパフォーマンス
をしているのも大きい。
今のDA PUMPではISSAが保護者の役回りになっていて
窮屈な部分がある。KENがいる環境で余裕にあふれたISSAの
表情と歌声は自由で自信たっぷりで幸せに満ちている。
とにかく「THUNDER PARTY」のライブ画像は果てしなく
飽きない。DVDを、もう100回以上観ていると思う。

さらに、DA PUMPの過去作品を厳選して買った。
ベスト盤の1「DaBestOfDaPump」(CD+DVD)は
ジャリっ子からあっという間にアーティストになっていく彼らが
楽しめた。
そして、ダンナがDA PUMPを何気に好きすぎることを知った。
私の好きなアーティストで唯一w-inds.に興味を示したのは、
ライジングプロダクションのにおいを嗅ぎ取ったからのようで…
あの事務所の実力派たちにずっと注目していたらしい。

また、この「DaBestOfDaPump」にオマケで入っている
DA PUMP4人のトークを見て衝撃を受けたのは…
沖縄の同年代の仲良し4人のフリートーク、好きなように自由に、
ただ楽しくしゃべってくれてそれでいい。内輪受けになってもいいと
思う。でも、ISSAだけは、誰かに届けることを意識している。
他の3人は本当に開放されて楽しく好きなようにやっているけれど、
ISSAはプロとして商品を作っている意識が伴っている…。

4人構成の最初のDA PUMPでも、リーダーはISSAだった。
今の「ISSAだけ年上」というメンバー構成ならともかく、同年代
のグループで、圧倒的に目立っちゃうボーカルをリーダーにしたら
ダメでしょ、と思ってた。
SMAPのリーダーはキムタクじゃダメ、TOKIOのリーダーは
長瀬くんじゃダメ、V6のリーダーは岡准じゃダメ…まあこの3人は
顔で目立つだけだからDA PUMPとは状況が違うけど、とにかく
一番注目を集める立場の人がリーダーになるのはバランスが悪いもの。
でもISSAがなぜリーダーなのか…
YUKINARIとKENがワイワイ盛り上がり、ISSAと
SHINOBUはわりとおとなしめで、ISSAはこのトークが
ファンに届けられることを意識して整えようと気を配っている…
「ああ、この人は違うんだ」と思った。フラウ=ボゥがハヤト相手に
アムロを評した「あの人は私たちとは違うのよ」と同じ感覚。
ISSAは根本からプロの性根で生きているんだなと。だからこの
目立つ立場でありながらなおリーダーなんだなと。
バカでやんちゃなヤンキーだと思ってた。でも、ネットに上がってる
動画でトークとかを見たら全然真面目な人だった。
それだけでなく、誰よりもプロな人だった。
私は何を見ていたのか…。ずっと、青い鳥はここにいた。
いや…できれば慶太君が葉山さんの曲でw-inds.をやっていて
ほしかったけど、彼と僅差の2位につけられるほどの人がここにいた。
やっと、慶太君をあきらめた後の私の心の穴が埋まった2017年…

次は何を買おうかな~と物色していたら、ISSAのソロアルバム
「EXTENSION」というのを見つけた。しかし…
なんだ、この値段。楽曲提供者が豪華絢爛なのに、数百円にまで
値下がりしている。即買いじゃん!
…聴いてみて、数百円の値段なのがよくわかった…
曲が悪いわけじゃないと思う。でもISSAの声がきれいに響く音域を
意識せずに提供された曲ばかりで、「…これだったら、DA PUMP
のほうが全然いい…」という結論に達した。

でも、この「EXTENSION」、ほんとに買ってよかった。
2つのことを明白に理解するに至った。
まず、ISSAは一人じゃダメなんだなということ。
w-inds.も一部の人に「ボーカルの慶太一人でよくない?」と
言われたりしていたけど、実際に慶太君がソロアルバムを出して
みたら、「なんかやっぱ、w-inds.っていう、帰るところが
あってこそのソロだね」という物足りなさ…(あくまでも最初のソロ
アルバムに個人的に感じたことだけど)
それと同じものを、その倍、「EXTENSION」に感じた…。
今、研究を重ねて「射手座論」を確立した私は、ISSAと慶太君の
「彼一人で十分かと思ったら、グループのほうが良かった」という
あの感じは、射手座の特性の一つだと思っている。
(Folder三浦大地乙女座のソロ「Everlasting 
Love」が単独で完璧に成立し得ているのと対照的!)
そしてもう1つ理解したのは…
「m.c.A・TあってのDA PUMP!!!」ということ。
私のDA PUMPの師であるダンナは、デビュー当時からのDA 
PUMPの音楽プロデューサーであるm.c.A・Tに対して
わりと否定的で、「DA PUMPにはもっとカッコいい曲を与える
べき」と常々言っていたし、私もDA PUMPをスルーしてきた
理由の一つに「ここにラップ入れないでほしい」「時々、歌詞が
ありえないへなちょこ感…」というのがあった。
でも、他の楽曲提供者による、もっとカッコいい出来のはずの曲を
歌うISSAが全然イケてない…。衝撃の値崩れのはずが、納得の
値崩れだった…。
ISSAがいくら実力あるシンガーでも、アイデンティティを発揮
して魅力的に輝くためには、やっぱりプロデュースとのマッチングが
必要だったんだ。そして、DA PUMPはm.c.A・Tだから
良かったんだ。

m.c.A・Tについて開眼した私は、師たるダンナに逆啓蒙を
行った。「ほんとは、DA PUMPは、m.c.A・Tだから
素晴らしいんだよ! m.c.A・T天才だと思う!」
するとダンナはm.c.A・Tの動画を探して観はじめた。
…マジで天才だった。m.c.A・T…あんた、日本の音楽界に
登場するのが20年早かったよ!
ISSAより高音のキーでアングラ世界を描き出すアートな音楽が
圧巻だった。すごい世界観。ダサい部分もここまで昇華すればアート。
ダンナと顔を見合わせて「なんだこりゃー!」と絶賛の叫びをあげた。
ダンナのm.c.A・Tへの評価が圧倒的に変わった。
師匠にDA PUMPの真実を一つ知らしめてあげることができて、
師孝行ができてよかった!

そんなことをしていたら、突如、「U.S.A」が大ヒット!
DA PUMPは「消えたアイドル」から「大人気のグループ」に
返り咲いた。
取り戻した栄光、ISSAの笑顔、新たに集まり続ける称賛の嵐…
でも、間違えちゃいけない。「U.S.A」だけの力でこうなった
わけではなくて、「そういえば…」と昔の楽曲を思い出せば名曲の
数々が並び、売れなかった時期のエピソードがストーリーを作り上げ、
さまざまな要素が「U.S.A」にのってムーブメントになったと
いうこと。かつてm.c.A・Tが築いてくれた音楽性の高さが
あってファンが他の曲を漁って「これもあれもすごい、カッコいい!」
と喜んでいられるということ。

日本中から温かい応援の声をもらえるようになったDA PUMP。
この幸せは、今度こそ永遠に続くと思ってた――

アーティストのファンになるって難しい。
でもとにかく、しばらくは幸せな日々が続くのでした…(つづく)

三浦大知の初期ライブを語る

2020-11-10 22:13:34 | 音楽
ロッテが2位を確定してCS進出を決めたのに、三浦大知の話!?
まあ、そのへんのことは間もなく書きますよ。

今はもう日本でその実力を知らぬ人はない…とまではいかないけど
かなり知名度の高くなった三浦大知。
でもね~、初期の大知くんのライブってほんとにすごく独特というか
すっごいマニアの世界でした。あれは特異で異様な、でも素敵な空間。
今のファンの人たちはあまり知らないような、あの時代のライブに
ついて紹介してみたいと思います。

まず、大知くんに対しても、ジャ(伏せ字)事務所の妨害はほんとに
エグかった。デビューから2曲目で大手携帯電話会社のTVCMに
抜擢されたと思ったら、即、そのCMのキャラクターが嵐に代わる
というあの驚愕…
「えっなんでそんな結果も出ない短期間で交代、しかも嵐クラスの
人気タレントに突然横取りされる!?」という素早さでした。
SMAP好きだったし「Dの嵐!」や実験で嵐の下積み時代も大好き
だったから血相を変えて「ジャ×の妨害が!」とわめき散らすことは
しないけど、実際、大知くんのメジャー化は10年遅れました。
そのために、彼はえもいわれぬ「マニアな大人向けライブ」を続ける
ハメになったと思います。

新規ファンの開拓を妨害されて、ファン層が広がらなかったので、
初期の三浦大知のファンは、Folder時代に「この三浦大地って
子供すげえ」と思って傾倒した年上の人たちばかり。(子供時代は
DAICHIまたは三浦大地が芸名なので表記が違います)
「三浦大知」のライブに行くと、17歳の少年の歌を聴くために、
三十代、四十代を中心に、大人がごっそり来ているわけですよ。
中高生を相手に「まじヤバい(はぁと)」で商売できるのはほんとに
楽ちんで幸せです。経験値が低くてまだひよっ子レベルだもん。
当時、私32歳、ダンナ33歳。こういう、三、四十代中心の、
J-POPの数々の名曲を聴いて育ってきた客と勝負しなければ
ならない三浦大知17歳! まじキッツー!!

ではそういう客層の中で三浦大知がライブをやるとどうなるか??
もうね、大知くんには申し訳ないんだけど、「聴き惚れてしまって、
全然ノらない」んですわ。
ほんとに三浦大知すげえと思うんだけど、アップテンポな曲とかでも
客がこぞって「ああ~、いいわぁ~」と聴き入ってしまって、会場が
じわ~んと静かに満たされていくわけ。
客はもちろんそれで大満足しているんだけど、演者の大知くんからは
「やばい会場静かになっちゃってるんだけど俺大丈夫?」って感じ。
実際、よく「え、えっと、こんなんでよかったですかね」みたいな
MCの雰囲気になってしまってました。
違うよ大知くん、みんな聴き惚れて静かになっちゃってたんだってば。

再デビュー曲「KeepItGoingOn」をはじめ、初期の
大知くんの曲はしっとり大人の味わいの曲が多くて、アップテンポな
ダンス曲でもしみじみ聴き入って味わえちゃったんですよね。
今はとにかく「ノッて跳んで拳振って一体感! それこそがライブ!」
って感じだし、大知くんのライブもそういう世界になっています。
でも再デビュー後の時期は、小刻みに首や足先でリズムを取りつつも、
ほんとに「大知の声を音楽を、かけらも聴きもらさないぜ」みたいな
「静」中心のライブでした。
そして、ファンばかりが集っているとはいえ、大人の真剣な生視聴に
耐えうるハイクオリティなパフォーマンスを常時やりきってくれる
三浦大知は、とにかくほんとにすごかったわけです。

そして、耳が肥えてる大人たちが相手なので、怖いことも起こります。
当時、アルバムが出るでもなくシングルもなかなか出ない三浦大知、
ライブにおける「新曲発表」というのは「今後ライブでやっていく
新しい曲」という意味でした。その「新曲発表」は、ファンの耳が
非常に厳しい方向にそばだちます。
「クソな曲出してきたらどうしてくれよう」みたいな緊迫した空気が
ライブ会場にピーンと張り詰めます。
今思うと、いい曲で歌って、最高のダンスパフォーマンスを見せて
くれてもノッてもあげずに不安な気分にさせておいて、新曲になると
厳しい審査眼を向けるってどんだけ過酷なのよ。もっとノセてあげて、
新曲も快く発表させてあげなさいよ。
……で、「クソな曲」が出ちゃったらどうなるのかって?
そりゃ~もう、会場中がさーっと潮が引くように冷めていき、微妙な
空気で息苦しくなるんですよ。まじ怖!

特に懐かしく思い出すあの場面。
三浦大知に「SuperStar」って曲があります。
シングル「Flag」のカップリングに収録されたこの曲、実は、
ライブで「新曲」として発表されたときは…………
いや、「SuperStar」で聴くとそんなに悪くない曲です。
ただし良くもない。三浦大知は「一般受けしない地味でマニアックな
曲でも一定のカッコよさに引き上げてしまう」という実力のせいで、
逆に「売れる曲」がもらいづらくなっています。
「SuperStar」も、大知クオリティで引き上げてしまって、
けっこうカッコいい曲になっている「まあまあの曲」かと思います。
でも、発表当時は……多分、大知ライブの歴史の中で、発表時に
あんなにも会場を凍りつかせた曲はなかったですね。

初公開された時、この曲のタイトルは「SuperStar」でなく、
「Supercar」…「スーパーカー」だったんです。
イントロに、スーパーカーの「ブロロロ~!」みたいな吹かし音が
入り、間奏にも車の効果音が入る超だっさい(編曲した人スマンな)
演出に会場がドン引き。
若い子がいてくれればもっと純粋に肯定してくれたかもしれませんが、
私たちの世代って、子供の頃にスーパーカー消しゴムで遊んで、
ランボルギーニカウンタックLP500のラジコンに憧れていたん
ですよ。だから、スーパーカーをそのまんま演出に持ってくると、
「スーパーカー? 30年も前のセンスじゃん! 今のこの時代に
エンジン音吹かすのカッコいいと思ってる? しかも『三浦大知』に
このオッサンセンスの曲をやらせる気?? だっさーーー!」という
リアクションになっちゃうんですよ。
どーっと潮が引き、凍りついた会場…。私も「萎える、寒すぎる」と
思ったし、周囲の客が同じように引いてるのも感じ取れました。
当時まだ十代のの大知くんにしてみれば、30年前にスーパーカー
流行ったとか全然知らないし、会場がドン引きする理由がまったく
わからなかったことでしょう。でもなんか変な雰囲気になっている
ことはわかっただろうし、つらいシチュエーションだ~~。
いや、いい曲でいいパフォーマンスをしても聴き入られて客の
反応がなかったりしたので、変な意味で彼も「ノリの悪い雰囲気」
に慣れてしまっていたかもしれませんが…。

さすがにあの会場の雰囲気に、スタッフか事務所の人が「これは
やばい」と感じたのでしょう、あの「スーパーカー」だった曲は、
カップリング収録で再び現れた時には「SuperStar」という
演出のまったく違う別テーマの曲に変更されていました。
この結果をして、会場がいかに明白にドン引きしたかが窺い知れると
いうものです。

こんな怖~い大人のお兄さんお姉さんたちに温かくも厳しい育成を
受けた三浦大知は、こんなにハイクオリティなアーティストに
育ちました。
十代で「大人がガチに聴きに来て忌憚なく態度に出す」という
マニアックでしんどい環境の中で結果を求められてきたんだから、
それはもう必然の結果でしょう。

そして…他事務所による妨害なんかあってはならないのですが、
あのデビュー2曲目で抜擢された「ケータイの映像が、変わるよ」
のTVCMで「ダンスかっこいいな!」と中途半端な人気が出て
しまっていたとしたら、もしかして今のこの三浦大知という存在は
ないのかもしれないな、とも思うのです。
妨害のせいでちっさいハコの中で大人相手に商売していくしか
なかったけど、そこには、「三浦大知がいくら売れなくても、
実力への信頼はまったく揺らがない」という落ち着いた大人の
ファンばかりが集っていました。
この人たちは(私たち夫婦も含め)三浦大知を見捨てない人でも
あったのです。
また、そんな大人たちを決して失望させなかった三浦大知の実力と
努力もまた称賛されてしかるべきかと思います。
(あと、事務所の踏ん張りも称えられてしかるべきだと思う…)

最後にもう一つ、昔のライブの逸話。
三浦大知の古参のファンは、アンコールを「D-ROCK!」で
コールするスキルを持っています。
いちおう説明しておくと、「D-ROCK」は、Usherの
コンポーザーJ.Queという人が三浦大知につけてくれたニック
ネームです。
1stアルバム発売後のライブでは「アンコール!」とコールする
ところを「D-ROCK! D-ROCK!」とやっていたのです。
「D-ROCK」のニックネームがJR東日本の「E電」のように
まるで定着しなかったので(例えが古い!)、今のファンは
「D-ROCKコール」とか言っても全然わかんないだろうなあ。
でも私も当時「今回はアルバムタイトルがD-ROCKウィズユー
だからいいけど、今後もずっとD-ROCKコールでアンコールを
やるのはちょっと…」と思ってたから今の普通のコールでいいや。
でもわりと近年の大知くんのライブに行って、アンコールの声が
起こりはじめると、ついつい「D-ROCK!」と小声で言っては
笑っている悪いファンだったりします。

初期には、行けるライブはとにかく片っ端から夫婦で行ってたし、
池袋パルコのタワーレコードが穴場だったのでアルバム発売に伴う
先着順のイベント参加券を楽々ゲットして、最前列でミニライブを
観たり列をなして握手を賜ったりもしましたよ。
もう、最近は、大知くんのライブチケットが驚愕の争奪戦になって
しまいました。大知くんがメジャーになったことで「もう、私たちの
役目は終わった」とファンクラブを脱退してしまった我々夫婦には、
チケットがほぼ取れなくなりました。
それでも、2018年2月15日の映画館ライブビューイング、
「DAICHI MIURA BEST HIT TOUR 
in 日本武道館 LIVE VIEWING」は会社を早退して
映画館「新宿バルト9」に観に行きました。
今もNHK「おげんさんといっしょ」がやるといえば「大知くんは
出るのか!」と目を凝らしてテレビの前でスタンバイしたりして
います。笑
昔のライブのタオルや「D-ROCK Tシャツ」を普段使いして、
初期の大知くんのライブはいろんな思い出として生きています。

あの、初期の「大人ライブ」で全然若者に優しくない真っ向勝負の
聴き方をしちゃってごめんね大知くん。
でも、Folderで出会った時から、「子供の歌声が大嫌い」な
私が聴いても三浦大地は全然子供じゃなかった。ただのプロだった。
事務所が育てたかった「マイケル・ジャクソン」には育たなかった
けど、自分の目指した「三浦大知それこそがオリジナル」という
方向性で十分突き進めていると思う。
あのガチ育成の一端を担わせてもらったレアな一員として、まだまだ
これからも応援してるよ!

想い出が多すぎて ~w-inds.へのエール~ 後編

2020-07-04 13:51:58 | 音楽
メンバーの龍一君脱退を受けて、w-inds.の思い出を振り返る
自己満足大長編エッセイの後半です。

<前回のあらすじ>
夫婦でw-inds.にハマった我が家。
クリスマスイブのw-inds.イベントに行こうというダンナの
誘いを私は容赦なく断った。友人と出かけていったダンナは、会場に
入りきれなくてすごすごと帰ってきたのだが…(つづく)


明けて2003年、大変なことがありました。
クリスマスイブのイベントは、(ダンナを含む)多くのお客さんが
入場できなかったので、1月11日にお詫びとして謎の「イベント」
をやるというアナウンスがありました。
イブのイベントはライブだったので、今回もライブかもしれない…
ということで、私も今回はダンナと一緒に行くことにしました。
現地には長~い行列ができていて、その列の誰もがこの日の「イベント」
の内容を知りません。長~く待たされた後、じりじり列が動きだしたら、
おかしなことが起こりはじめました。
イベントの建物の中から出てくる中高生女子たちが、「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と謎のすさまじい奇声をあげ、「まじで、
やばい、まじで、やばい、やばすぎる」などと意味不明の言葉を叫んで
バタバタのたうち回っているのです。
「いいいいったい、中では何が!?」
列に並ぶ我々、そして周囲の同類たちは不安にかられました。
いよいよ我々も建物に入ったのですが、そこでダンナが「男性の方は
身体検査を受けてください」と、係員に連行されてしまいました。
待ってー、この男は「怪しい奴」でも「ただの付き添い」でもない、
ガチのファンクラブ会員よ~~!!
幸いダンナは安全な人間だと確認され、戻ってきました。そして、
私を前に並んでその先へと踏み込んだのですが…
途端、凍りつく私。
なんと、イベントは「握手会」だったのです!!!
まずは龍一君(が手前だったと思う)にタッチ程度の握手。
次に涼平君(が真ん中だったと思う)にもタッチ程度の握手。
二人には笑顔で「がんばってくださーい」と言えました。
そして! 最後は! なんと! 慶太君が! ギャー!!
「あのっ、……夫婦で聴いてますっ」
動転しまくって必死でそう言いつつ、これもタッチ程度の握手。
だが私、動揺しすぎてマフラーの片側をべろーんと落としつつ退場。
慌てて振り向くと、慶太君が「あっ」と心配げな様子をしていて、
マフラーの端を後ろに続くダンナが踏んでしまっていて、拾って
手渡してくるのを無言で受け取って、瞳孔が開いたまま退場しました。
私は驚愕の出来事に動揺が冷めやらず、寒空の下で「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と意味不明の叫びをあげました。
ダンナが出てきた姿を見ると、「まじで、やばい、まじで、やばい、
やばすぎる」と言って袖をつかんでドタバタ暴れました。
その瞬間、女子中高生たちがなんであんな状態だったのかがよ~~く
わかりました。私は当時29歳だけどな!
もう、動転しすぎて慶太君の顔とかほとんど見られなかったよ!

2003年5月、8thシングル「SUPER LOVER」は、
葉山さんプロデュースではないし、(あえて)バカっぽい歌詞だけど、
慶太君の声が綺麗に出ているので大きな不満はありませんでした。
しかし8月発売の9thシングル「Love is message」
あたりでそろそろあきらめはついてきました。
w-inds.は「唯一無二の独自な音楽を刻むアーティスト」で
なく、「そこそこ歌も上手いアイドル」になっていくんだな…って。
それでも、この時はまだ、夫婦揃ってw-inds.のファンでした。

2003年夏のツアーは、我々夫婦のw-inds.ファン活動に
おける最大のクライマックスとなりました。
7月下旬の川口リリアに始まり、8月半ばの長野県民文化会館、
8月下旬の富士急ハイランドコニファーフォレスト、そして8月末の
武道館…と、4公演を追い回したのです。
川口リリアでは、盛り上がってワーッとなる曲の時に、2階席の
最前列でダンナがステージ上の彼らに手を振ったら、龍一君が
「あっ」という顔をして、明らかに手を振り返してくれました。
「男性ファンが来てくれるのはうれしい」って言ってたもんな!
長野公演は、夏の爽やかな長野の風景と、タイアップのCD店の
店頭から流れるw-inds.の音楽が相まって、とても心地よい
旅になりました。
富士急ハイランドでは、スタンディングのライブだったので、あえて
少し後ろに下がって周囲の人たちと距離を取り、飛び上がって舞台を
見やすいように頑張っていました。ダンナいわく、「ヨメがジオング
になってた。ほとんど地面に足がついてなくて、浮いてた」だそうで。
そしてとうとう武道館。彼らも武道館…と感慨もひとしお。
4公演、出来は良かったりいまいちだったりいろいろでしたが、
とにかく可能な範囲内で追っかけ尽くした充実感にひたりました。

その秋には日本工業大学の学祭ライブにも行きました。
駅から大学までの道の途中にあったコンビニ内にw-inds.の
写真を貼った販促掲示が作られていて、慶太君の写真に「半袖だヨ!」
と書いてあったのには笑いました。当時、慶太君はなぜかいつも
長袖を着ていて、慶太君の半袖写真はレアだったのですが、そんな
ことを売り文句にする店員さん、どんだけガチやねん!
会場に到着すると、体育館からめっちゃ歌ウマな美声が聴こえてくる。
ああ、ほんとにw-inds.は、慶太君の歌は素晴らしいなあと、
最後の幸せな気分でいられたこの秋。
この後10月29日に発売された「Long Road」は、
私がw-inds.ファンとして聴いていた最後の作品となりました。

2003年12月17日、3rdアルバム発売。
この「w-inds.~PRIME OF LIFE~」を聴き、
デビューから葉山サウンドを中心として作り上げられてきた
「w-inds.にしかできない音楽」が終わったことを認識して、
私はw-inds.ファンをやめることにしました。
それまでの、「どこかで聴いたような不思議な懐かしさもあり、
けれど決してどこにもないw-inds.だけの透明な世界観」は
もう消滅していました。
「PRIME OF LIFE」は私にとって、「昔どこかで聴いた
アレやコレに似たような、二番煎じ的な音楽」でした。
それでも何度かはちゃんと繰り返し聴いたし、慶太君の歌声的には
綺麗だったから聴ける曲もあるといえばありました。
でも、デビュー当時のあのアーティストじゃ、もうないよね、これ。
それを別物として愛し続けていける人はついていったらいい。
でも、私は「これ」を聴きたくてファンをやっていたわけじゃない。
つまり、私にとって、w-inds.とは「葉山拓亮と橘慶太の
デジタルサウンド&クリアボイスの融合」でしかなかったわけです。
w-inds.がただのアイドルだったら、プロデュースが変わった
としてもファンでいられたと思います。でも、私はw-inds.の
あの音楽が聴きたかったファンなので、これを以て卒業を決めました。

このアルバム発売記念として、ミニライブイベントが横浜赤レンガ
倉庫で開催されるということで、夫婦で出かけていきました。
私は慶太君とのお別れのつもりで、最後の記念として…。
しかしあまりにすごい人出で、ダンナは(体が良くなかったので)
そのまま帰ることにして、私一人で人混みに突入してきました。
ライブの歌声、素晴らしかったなあ…。
慶太君への憧れの気持ちは残っていたので、失恋のようななんとも
いえない切なさと寂しさとともにステージ上の彼らを眺めて、途中で
その場を後にしました。

年が明けて3月くらいだったかな。ダンナはまだファンクラブ会員
だったので、2人でファンクラブ限定イベントに行きました。
(同伴の1人を連れてきていいファンクラブイベントって謎だよね!)
ライブ形式のイベントで、歌っている慶太君が人生最驚の近さに来て
(5メートルくらいの距離だったと思う)いい記念になりました。
でも、近くにいる慶太君を、「私の求めているのは、それじゃない」
という、えもいわれぬ顔で見つめてしまいました。
歌はかなり綺麗に歌えてたのに、「違うな」と思うなんて…
私にはもうファンを名乗る資格はなくなったんだな…と実感しました。
(多分ダンナもこの後、ファンクラブを継続しなかったと思う)

ダンナはその後も2004年3月発売「Pieces」や同6月発売
「キレイだ」といったシングルをちゃんと聴いてどうのこうのと批評
したり、2004年7月発売のベスト盤を買ったりしていました。
だから私もそれらを何度も耳にしましたが、興味を持てませんでした。

なんと、2004年10月発売のシングル「四季」は葉山拓亮さんの
プロデュースでした! さすがにそれは断固、買いました。
なんだろう、今でいうと「SMAPが解散してしまってから聴く、
『夜空ノムコウ』」って感じかな。「やっぱりいい曲だし、慶太君は
葉山さんの曲がいいよな、求めていたものはこれなんだよな」という
満足感はあるのですが、なんだか「終わってしまった寂しさと虚しさ」
みたいなものをどうしても伴ってしまって…
「『夜空ノムコウ』やっぱりいいわ」と「でもSMAPはもう…」の
間で行き来するファンの感情、それを想像してみてください。
私にとっての「四季」は、名曲なんだけど…
「君とのseasons ずっとこの先も繰り返すと信じて」
「瞳を閉じればいつもよみがえる 君とのseasons
 そのぬくもりと 痛みは消えないまま」
「君がいない四季を渡るよ」………
きっと葉山さんも同じことを思って作ったんだろうな…。
仕方ないこと、なんだけど。
声変わり前の限られたあの時期だからこそ、慶太君の歌声があれだけ
美しかったのかもしれないから。

w-inds.ファンとしての自分の心はこう思って整理しました。
「短い時期にしか存在しなかったあの稀有で貴重な慶太君の歌声を、
 最高の音楽に乗せて録音、記録できたことに、感謝」
慶太君のデビューがもっと後だったなら。
葉山さんの曲に出会えなかったなら。
私が耳にする機会がなかったなら。
w-inds.初期のあの名曲がこの世に生まれ得て、私がそれに
出会えた、今でもそれを何度も聴ける…。なんと幸せなことなのか。
別れを嘆くより、出会えた幸せをずっとかみしめていたい。

でも、私のw-inds.への感謝は、そんなちっぽけな個人的感傷
ではないんです。
今、歌もダンスも素晴らしい超一流アーティストとして活躍している
三浦大知。彼はFolderのボーカルとしてデビューした時から
ライジングプロダクション所属です。
彼は2000年から声変わりで休養して2004年に復帰、2005年に
ソロデビューしました。
三浦大知は声変わりで「喉、声をつぶさないため」に休養しています。
でもw-inds.橘慶太は、2002年に声変わりしているのに、
そのまま歌を続けています。
大知くんが実際語っていますが「声変わりの時に歌うと喉をつぶして
しまうので、歌ってはいけないということで、ダンスを勉強して
いました」…そう、橘慶太は2003年、2004年…と、次第に
低音がガマガエル声になっていきます。それでも歌い続けました。

三浦大知が休養して復帰して、自力で採算を取れるようになるまで、
誰が事務所の収入を支えていたのか?
もちろん2015年まで安室奈美恵がいたのでその収入は大きいけど、
w-inds.も収入の一端を支えていたのは間違いないでしょう。
声変わりで三浦大知を休養させているのに、w-inds.橘慶太は
声変わりを考慮することなく働かせているというのは、不公平な話
なのではないでしょうか?
また、2018年に「U.S.A.」で再ブレイクを果たした
DA PUMPも、ライジングプロダクション所属。
DA PUMPの低迷期は2002、3年頃から15年以上の長期に
わたります。2009年12月にKENが脱退した背景の一つには
事務所の金銭的な事情もあるようです。(売り上げの出ないDA 
PUMPでISSAとKENの2人を残しておく財力がなかった)
2001年から2年4か月、ライジングプロダクション社長である
名プロデューサー・平哲夫が不在となった時期をドンピシャで
支えたのは実はw-inds.なんです。声変わりを考慮して
もらえなかったのも平さん不在が大きいと思います。

声変わりで影響が出ても変わらず働かされることに不満を述べる
ことなく(そんな声を聞いたことも、そんな態度を見たこともない)、
ジャニーズ事務所の妨害も黙って耐えて、腐ることなく前に進んで
きてくれたw-inds.。
それどころか、ジャニーさんが亡くなった時、慶太君は追悼の
コメントまで出しています。
これこそがw-inds.のこれまでの姿勢そのものなんです。
声変わりしても。ジャニの妨害で国内の活動が難航してアジアでの
活躍を余儀なくされても。事務所の売れない仲間たちのために
金を稼いで回るような役回りに(結果として)なっていても。
ただ自分たちの道を、前を向いて上を向いて、ひたむきに進んで
きた彼らに、感謝し続けて幾年月。
なんとなくブログを始めてみたので、この場を借りて、これまでの
大きな感謝を伝えたいと思います。
三浦大知、DA PUMPが復活できたのは、w-inds.が
支えてくれたお陰です。また、実力派をちゃんと育てる力のある
ライジングプロダクションを守ってくれて本当にありがとう。

さらに、w-inds.という、慶太君が目立ちすぎるユニットの
中で、その両脇を支えてきてくれた涼平君と龍一君の苦労は
並々ならぬものがあったと思うのです。
「両脇の人、いなくても良くない?」と言われることも多々あった
でしょう。(実際は慶太君は一人じゃダメなんだけどね)
あの立ち位置を長く続けるのは、より強い自信と、それを維持
できる精神力が必要でしょう。
今回、龍一君にその精神力が尽きてしまったのは察するに余りある
出来事で、本当に「これまでありがとう」としか言えません…

そんなわけで、龍一君のw-inds.脱退を受けて書きはじめた
本エッセイですが…、w-inds.への思い入れが強すぎて、
書き上げるまでに1か月以上かかってしまいました…。
今でも、そしていつまでも、w-inds.(龍一君も含め)の
活躍を心から願っています。

2007年9月のある日の風景。
ダンナが部屋の大掃除中、w-inds.ファンクラブ会員だった
時の会報とか会員証とか誕生日にもらえるカードとかをいろいろ
発掘してきました。さすがに捨てるようです。
懐かしい写真などを見て、すっかり私は悲しくなりました。
もう戻らない思い出にうちひしがれ、布団に突っ伏してぐったり
していたら、ダンナが「そんなときは潔く、見ちゃえばいいんだよ!」
と、2002年のライブツアー「1st message」の
DVDをかけました…。
東京国際フォーラム…そして鹿児島…(そうまとう)
失われたもののあまりの大きさを再確認し、さらにぐったり悲しく
なる私でした。
2003年冬でファンやめたとか言って、だらだら未練がましく
引きずってて、それでこそ私…としか言いようがない。笑

2008年、会社がひょんなきっかけから社員旅行をすることに
なって、旅の準備の買い物をしていたら、ブティックで「慶太君が
いい声を出せる曲がもらえたら、こんな感じだろうな…涙」と
思わされる曲を耳にしました。曲が終わるまでじっと店内で聴いて、
帰宅してその旨をダンナに話したら「最近w-inds.の新曲が
出たらしいから、ほんとにw-inds.じゃないの?」とのこと。
即座に調べてくれたのですが、ドンピシャ。
25thシングル「Everyday」でした。
聴かなくなって突然街なかで聴いても、慶太君の声がわかる自分に
ホッとしたり可笑しくなったり。

2020年春、あるCMを見ていて「どう見てもこの集団のこの
位置にいる人は慶太君に見える。だが涼平君と龍一君がいないし、
周囲の人が誰だかわからん。こんな謎集団の一員が慶太君のはずは
ないか。でもこれは慶太君にしか見えない」とめっちゃ悩みました。
これまたダンナに訊いたらすぐ調べてくれて、今回もほんとに
慶太君本人でした。「180jacK.」っていうユニットらしい。
私が好きだったころからは見た目も相当変わってしまったのに、
そうとはわからない形で突然視界に入っても目に入って気になる
とは、私の「未練力」ってほんとすごい!!

本日、2020年7月4日も、CDプレーヤーに入れっぱなしに
しているw-inds.を聴きながらこれを仕上げました。
今でも、あの時期のw-inds.が一番好きな音楽です。

想い出が多すぎて ~w-inds.へのエール~ 前編

2020-07-04 13:50:58 | 音楽
2001年~2003年、実質3年という短い間でしたが、この時期は
私の人生において、音楽から得られる幸福や快さが一番充実していた
ことを、今しみじみと思い出します。

5月末、ライジングプロダクション所属のダンス&ボーカルユニット、
w-inds.から、メンバーの1人・緒方龍一が脱退することが
発表されました。
今後は千葉涼平、橘慶太の2人でw-inds.を続けていくとのこと。
これからの彼らの変わらぬ活躍を祈りつつ、またいつか、龍一君が
w-inds.の一員として笑顔でファンの前に立ってくれたら…と
(当人の迷惑を顧みなくて恐縮ですが)思わずにはいられません。

2001年3月、w-inds.デビュー。
2003年12月、w-inds.3rdアルバム発売。
この間の3年ほどが私の人生における「音楽視聴的ピーク」でした。
実質、3rdアルバムの出来で私は彼らを見限ってしまったわけですが、
その後も心の中にはずっとずっと、彼らへの感謝がありました。
今回は、3人ユニットとしてのw-inds.に対するリスペクトと
感謝のために、自分勝手なことを書き散らしたいと思います。
「我がw-inds.歴を全部書く」って感じで読者の9割9分9厘に
とって意味不明の長文、しかも前後編になるけど、かつての思いの
たけをここに全部ぶつけることにします。(いつもそんな感じだけど)
順にアップすると、後半が上に来ちゃうんだよな。まいっか。

2000~2001年は「ポストSPEED」激戦時代でした。
2000年3月31日にSPEEDが解散して、その後を継ぐべしと、
少女グループが次々に売り出されていたけれど、あのハイレベルな
ライジングプロダクションの肝煎りであるSPEEDに匹敵する、
あるいは肉薄できる女の子たちなんて、そういるはずがないんです。
(唯一、実力だけなら対抗し得たであろう「earth」がまるっきり
日の目を見なかったのは惜しまれる。パワーが足りなすぎた…)
SPEEDは「好きだけど、ファンではない」くらいなのですが、
次々出てくる少女ユニットに、私は冷ややかな目を向けていました。
「いつまでSPEEDの幻影を追ってんだよ、二番煎じが勝てるもんか」

そこに流れ星のように現れたオレンジ色の美少女…
それがw-inds.との出会いでした。

TBSの音楽ランキング番組「COUNT DOWN TV」(以下、
CDTV)で何度も見かける、「Forever Memories」
というレトロな曲を歌っている中性的で地味めの美少女。これは誰?
映像の背景が、私の好きな色・オレンジ色だったのも印象に残った理由
だと思いますが、とにかく顔と声、そしてランキングでちょっとだけ
耳にする歌詞が私のハートをつかみました。

当時の私は「シングルは割高だから、買うならアルバムのみ」という
ポリシーというか貧乏根性から、そのシングル曲は買いませんでしたが、
次の曲が出るのを楽しみにしていました。
すると、2ndシングルで衝撃の事実が…。
ボーカルの子、ランキングの数秒しか見たことなかったけど、男の子やん。
「w-inds.」の3人とも男の子で、少年ユニットやん。
そんなのは無関係に、2ndシングル「Feel The Fate」は
音楽性もますます高く、しかも歌がめっちゃ上手いのがよくわかる!!
さらにその数か月後、3rdシングル「Paradox」をCDTVの
ゲストライブで聴いてしまい、その美しく澄んだハイトーンボイスに
完全に打ちのめされました。
曲もすごい好きだし声も好きだし歌も上手い!!!
この時点で私は完全に陥落して「w-inds.のファン」になりました。

1stアルバム発売の報を受け、駅前のCDショップにソッコー予約を
入れました。
2001年12月7日、浮足立ってCDショップに行ったら、店員さんは
言いました。「発売は18日ですね。17日には入荷しますので」
浮足立ちすぎて、日付10日間違える超~フライングでした。アホすぎる。

この1stアルバム「w-inds.~1st Message~」を
聴いて、1曲目で呆然として、2曲目で笑いが止まらなくなりました。
「曲もだいぶいいけど、何より、なんだこの慶太君の歌の上手さは」
アルバムを聴きながらずっと、ほんとにゲラゲラ笑ってました。
3人でラップやってる1曲だけは“微笑ましい出来”でしたが、
他はすべて素晴らしすぎました。「アルバムのクオリティが高すぎて、
笑いが止まらない」なんてことがあるんですね。
また、アルバムを買って初めて、彼らの魅力を際立たせている曲が
すべて「Hiroaki Hayama」という人の作詞作曲だという
ことにも気がつきました。
葉山拓亮という、派手ではないけど美しく印象深いキラキラした音を
作るプロデューサーがいてこそのw-inds.なのだと知りました。

2002年2月の4thシングル「try your emotion」
も大満足な出来。ずっとずっとこのまま、葉山さんと慶太君の音楽は
私を幸せにしてくれるのだろう、と思っていました。

しかし、幸せはあまりにも短く終わりを告げました。
2002年5月、5thシングル「Another Days」を、
うっきうきのわっくわくで買ってきました。(つまり私が「シングルを
買う人」に変わっているわけ!)
再生した私は、ひたすら自分の耳を疑い続けました。
慶太君の声が違う。「曲のキーが下げてあるせいかな」「歌いづらい
曲なのかも」といろんな思いが駆け巡ったのち、曲が終わると同時に
私はダンナに電話をかけていました。
「慶太君の声が違う!!!」
当時結婚2年目だった我々夫婦、お互いに音楽の趣味の押し付け合いは
しないのですが、ダンナは私の聴くアーティストの中で、w-inds.
だけは気に入って一緒に聴いていたので、話が通じるのです。
実際、ここで慶太君は声変わりに入りました。
しゃべる時の声は低いから、もう歌声は変わらないんだと思ってた…。
でも、私の弟も声変わりは2段階あったっけな…。

この「Another Days」の歌詞は、葉山拓亮さんの、
慶太君の声変わりへの気持ちを吐露したものだと思っています。
「果てしないこの道を二人で 行きつく場所は決まっていなくても
 ただ声を聞くだけで側にいるだけで 歩いていけると信じてた」
「夢をちりばめた未来図は 君と見上げてた空へと消えて
 これからは別々の地平線から 毎日を迎えていくよ」
私も「もう、これまでの音楽は作れないんだ…」と実感する、悲しみの
ニューシングルとなってしまいました。

この夏くらいに長野・斑尾高原に夫婦で旅行して、車で立ち寄った
CD屋さんでw-inds.のCDシングルを全部買いました。
「Another Days」の前の4曲のシングルはまだ買って
いなかったので、「これからはあの慶太君の声が聴けない、ならば
あとはこれまでのカップリングを手に入れるしかない」と思っていて、
レンタカーのカーステレオで流すために購入しました。
そしたら、それまでのシングルのカップリングも超絶いい曲揃いでした。
「まだこんなにいい曲が残ってた!」という喜びと、「もう、この声は
出ないんだな」という悲しみを同時に味わいましたが、やっぱり
葉山さんと慶太君のコンボは超ドすげえ、と感動しました。

失意の私ではありましたが、それでもダンナに引っ張られて、夏の
ライブツアーに行くことになりました。
8月、東京国際フォーラムホールA。
慶太君の音程は若干散らかっていましたが、生で聴く歌声は心地よく
素晴らしく、行ってよかった…と思いました。
そのライブで発表された新曲、6thシングル「Because 
of you」はこれまでと違って“悪い意味でレトロ”なうえに
ラップが入って泥臭くダークなテイストで、有り体に言うと「ダサい」
と感じました。(案の定、葉山さんプロデュースではなかった)
やっぱり、慶太君の声が変わってしまったから、方向転換しないと
いけないんだな…。
これまでと違う日々――“Another Days”が始まった
ことを突きつけられた6thシングルでした。

それから、私はコミケと日程がかぶっていて行けなかったのですが、
ダンナはツインリンクもてぎのライブにも単身、出かけていきました。
三十男が一人っきりで、十代男子三人のライブに行くかね~。
案の定、会場に向かうバスの中は中高生の女子ばかりだったそうで、
ダンナは時々「逮捕されなくて本当によかった」と回想します。
バスの中で女子中学生とw-inds.について会話したらしいし。

しかし、ダンナはさらに衝撃の暴挙に出ます。
「w-inds.の鹿児島ライブに行こう。チケット買っちゃった」
意味わかんないよ。鹿児島ってなんだよ。
「台風で中止になった公演の代替ライブが決まって、チケットがまだ
買えたから。行けるときに行かないと後悔するから」
ダンナは、かつて人生で一番好きなアーティストが「いつかライブに
行こう」と思っていたら解散しちゃったので、「後悔しないために、
行けるときに行くべき」という考えだそうです。
でも鹿児島って…。
結局旅行で行ってライブを見てきたのですが、9月の連休の時期
だったせいで、旅費は2人でトータル20万円ほどかかりました…
ただ、この金額、ちっとも惜しくなかった。
w-inds.の1stアルバム収録作品で圧倒的人気を誇る、
「Winter Story」という名曲が、なぜかライブの封印曲
なのですが、鹿児島では「台風で開催が遅れちゃったお詫び」として、
その名曲を歌ってくれました!!!
もうこの1曲だけでお金なんてどうでもいい。行ってよかった…
リハーサルの時に会場をうかがってたら、わりと露出多め(苦笑)の
慶太君が出てきて、見上げてる我々ファンどもに手を振ってくれたり、
前座のLeadのリハを背中でスルーしていたら、あまりの音痴さに
背中を物理的に殴られるような衝撃を受け「リアル『コエカタマリン』
だ!」と思ったり、いろいろ、楽しい鹿児島ライブ旅行でした。

こうして過ごす間もずっと、「次のシングルは葉山さんプロデュース
だったらいいのにね…」と夫婦で言い合っていました。

11月、w-inds.ニューシングル発売のニュースをCDTVで
知りました。私とダンナがパッと顔を上げると、新曲のイントロが流れ、
その瞬間に二人で奇声をあげて手を取り合いました。
お互いにさわりの音1秒で「葉山さんプロデュースだ!」と確信して、
「この曲ならオッケェェェ!!」という歓喜に包まれたうえに、
相手も同じものを感じ取ったはずだと迷いなく思った瞬間でした。
あの一瞬は、普段精神的に通じ合うことのまったくない我々夫婦の
奇跡的な名場面です。葉山曲のアイデンティティすげえな!
葉山拓亮が作るとラップ曲でもこんなに透明感があってカッコいい!
という一曲「NEW PARADISE」は、PVの慶太君もたいへん
カッコいい(笑)、盛り返しのシングルとなりました。

12月には2ndアルバム「w-inds.~THE SYSTEM 
OF ALIVE~」が発売されました。これ、ものすごく暗喩の
効いたアルバムタイトルだな…と思いました。「(慶太君のあの声が
なくなっても、芸能界で)生き抜いていく体制」だよな。
1曲目、葉山拓亮作の「Break Down,Build Up」
という曲の歌詞も、そう思って聴くと非常に思わせぶりです。
慶太君の声変わりで、これまでに築いたものを壊して(Break 
Down)、新たに作り上げ(Build Up)なくてはならなく
なったw-inds.の音楽を歌っているように聞こえます。
しかし、このアルバムは新たなw-inds.を納得させてくれました。
澄んだ金管楽器の声ではなくなったけれど、木管楽器の響きにも似た
温かくやわらかい、不透明で少し高めの慶太君の声が聴けました。
ファーストアルバムに比べると凡庸というか陳腐な曲もあるけど、
実際このアルバムも「擦り切れるほど」(笑!)聴き続けました。

葉山拓亮がいればまだまだw-inds.はイケる!
ベストオブベストではなく、セカンドベストにはなってしまったけど、
橘慶太の歌声は(生だと正直、ムラはあるけど)素晴らしい!

ダンナは2002年途中からファンクラブに入るほどw-inds.に
ハマっていました。彼いわく「ライブのチケットをとってあげるために
入った」んだそうだけど。
その年のクリスマスイブ、ダンナは国立代々木競技場オリンピック
プラザのw-inds.イベントに行こうと言ってきたのですが、
私が「ライブ以外の、イベント的なものには興味ない」と一蹴したので
(硬派だな、私)、彼は仕方なく親友を連れて出かけていきました。
クリスマスイブに、妻でなく男の友人を連れて、w-inds.の
イベントに行く三十男。さすがファンクラブ会員やんか。
しかし「人数が多すぎて入れなかった」とうなだれて帰ってきました。
なお、このイベントはミニライブだった模様。
「ライブだったら行ったのに! いや、行っても入れなかったのか」
行かなかった自分を危なく呪うところでした。

年末にはw-inds.が記念すべき紅白歌合戦に初出場。
でも、選曲が「NEW PARADISE」で、ラップ曲に慣れてない
紅白の中高年客はポカーンになってしまったし、音響レベル(質でなく
出力音量)の問題で慶太君の歌の上手さが伝わらなかったという、
痛恨の出来でした。ここでファンを増やせなかったのは痛かった…

長くなるので、ここで一旦「前編」として区切ります。
この年明けには、奇声を上げて暴れるような大事件が…!?