エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

カンフー映画っていいよね

2020-07-26 22:50:29 | 日記
カンフー映画が好きなんですよ。
怪獣映画も好きだけど、面白さに目覚めたのは1996年「ガメラ2 
レギオン襲来」でレギオンが超かっこよかったというのがきっかけで、
一方のカンフー映画は子供のころから大好き。
四十代後半はドンピシャ「ジャッキー・チェン世代」ですからね!
弟は「プロジェクトA」をビデオに撮って何十回見ていたか。もちろん
私もその大半につきあってるんだけど(笑)こういう、ユン・ピョウや
サモ・ハン・キンポーと共演するアクションコメディのジャッキー・
チェン映画も楽しいんだけど、大人になってからは、「蛇拳」「酔拳」
等の純度100%のカンフー映画が一番イイ!
今の中国はアレだけど、カンフー映画を見ていると、中国四千年の
歴史ってやっぱりすごいよな~、ハイパーな文化だな~、と思うわけ。

でも、カンフー映画の新作を目にしなくなって幾年月…
ジャッキー・チェンがハリウッドのアクションスターになってからは
日本で「カンフー映画」の存在がなくなってしまいました。
でも、2001年、キワモノカンフーサッカー映画「少林サッカー」が
日本に上陸! 予告映像を見て、これは日本のコテコテの漫画文化を
彷彿とさせる最高級のB級コメディだと期待満面で映画館に見に行き
ました。
そしたら、あの予告編が「序章ですらない」というスペシャルな出来!
予告編は完全にミスリードを狙ったフェイクで、予告で見た場面は全部
「あっさり跳ね返される前振り」でしかありませんでした!
これはもちろん「カンフー映画」ではないんだけど、「ガンダム」が
わからなければ「Gガンダム」の真の魅力は感じられないのと同じで、
カンフー映画が好きだからこそ「少林サッカー」は最高でした。
作りに粗はいろいろあるんだけど、作りたいものを全力で作る情熱が
あれば細かいことなんかどうでもいいんだな、と思える名作。

「少林サッカー」は映画館に18+1回観に行っちゃいました。
「+1」なのは、特別上映された「インターナショナル版」を観に
行った分。これは「暴力的」とかいってちょこちょこ打撃場面がカット
されてて「参考記録」みたいな観賞だったから別カウント。
18回観ても、「少林サッカー」は全然飽きなかったなあ~。
毎回、充実感いっぱいの大きな息を吐きながら、満面の笑みで映画館を
出てきたものです。

ただ…心の隅で「でも、もう、ちゃんとしたカンフーが観られる映画は
作られなくなるのかなあ…」と寂しさを感じていました。

そしたら2004年には「少林サッカー」の監督、チャウ・シンチーが
「カンフーハッスル」という映画を作ってくれました。
これも正しい意味では「カンフー映画」ではないけど、「カンフー映画
最高!」という魂がこもった「カンフー大好き映画」の力作でした。
チャウ・シンチーめっちゃかっこいい。役者の時は若い二枚目、監督の
時は白髪交じりの落ち着いた四十代(当時)って!
でも、それ以上に、この映画は「オッサンたちのカンフーの殺陣(たて)
がめっちゃめちゃかっこいい」というのが見どころ。
(カンフーの場合は殺陣じゃなくて組手か、でも殺陣でいいや)
中国にはこの動きができるオッサンや爺さんがたくさんいる!!
彼らが動けなくなっちゃう前にこの映画を作ってもらえてよかった!!
往年のカンフースターのアクションが楽しめて、「カンフー映画」に
少しだけ再会できました。

「カンフーハッスル」は映画館に17回観に行きました。
なんで17回って、「少林サッカー」を超えない数に留めたからです。
ほんとはもっと行きたかったけど、「少林サッカー」の方が超スーパー
名作だよ、ということを表現(?)するために我慢しました。

2008年、ジャッキー・チェンとジェット・リーが共演するという
ことで、「ドラゴン・キングダム」も見に行きました。
カンフーの殺陣はあったし、その点はもちろん大満足だったんだけど、
あの映画は「カンフー映画」ではなく「中国映画」だったな。
これは1回見に行っただけだよ。(普通はそれが当たり前なんだけど)

でも、それを最後に「カンフーが出てくる映画」の新作は見ていません。
時々、衛星放送で思いがけず「酔拳」「酔拳2」とかやってるのを発見
するとガチ見してしまいます。
本日、7月26日お昼すぎ、自宅のダンナが実家の私に「BS朝日を
見るべし」と電話をしてきました。つけてみたら、「蛇拳」の何十回目
だかの再放送がやっていました。
蛇拳、ザッピングしててたまたま見かけてそのまま見ることが多くて、
冒頭からほんとにちゃんと見るの初めてかも!
見ていたら、「あーーーーっっ!」ってなって、ダンナに電話しようと
思ったら電話が来ました。電話を取るなり、私は叫びました。
「カンフーハッスルの人!!!」
映画「カンフーハッスル」でカンフーの達人をやっていたオッサンたち
が往年のカンフー役者さんなのはもちろん知ってたけど…
「蛇拳」に、「カンフーハッスル」の仕立屋の主人が出てる!!手首に
鉄の輪っかを装着して戦ってた、「洪家鐵線拳」の人!
人の顔の判別ができない私だけどすぐわかった!
そしたら、ダンナは「後ろにいる赤い服の人は、火雲邪神だよ」だって。
よく見てみたら…ほんとだ、「カンフーハッスル」の火雲邪神だ!!
1978年作の「蛇拳」から36年も経った2004年の「カンフー
ハッスル」で、この人たちがあのアクションを…。おおお…。
ううむ、これぞ中国四千年の歴史。いや1978-2004の36年の
歴史を2020年への約50年に増して見てるだけだけど。

チャウ・シンチーが「カンフー好き」の立場で制作してくれた映画は
あるけれど、カンフー映画の文化って香港でどうなってるんだろう。
ジャッキー・チェンは香港の弾圧に手を貸してる始末だし…
カンフー映画の文化ってこのまま香港と共に滅んじゃうのかなあ…
香港、独立して「ネオ香港」にならないかなあ…と、最後はGガンダム
ファンらしくしめくくっておくことにします。
カンフー映画カムバック!

ロッテファンがいかに増えたか・追伸

2020-07-24 19:38:35 | プロ野球
前回「ロッテファンがいかに増えたか」というエッセイで、日常で
ロッテファンに遭遇するようになったエピソードを書いたけど、他に
こんなこともありました。

2011年のある日。
会社に毎日、ヤクルト売りのお姉さんが来ていて、同じ階の人から
「あのヤクルトお姉さん、ロッテファンらしいよ」と聞いては
いましたが…
ヤクルトがサヨナラ勝ちした翌日、「ご祝儀に、ヤクルトを買いに
行ってあげよう」と、ミルミルを買いに廊下に出ました。そしたら、
ヤクルトお姉さんのほうから「あの、千葉ロッテファンなんですか?
いつも椅子に(千葉ロッテ肩掛けが)かかってるのが見えてたから…」
とチョッカイをかけてきました。彼女、千葉出身だそうで…。
東京は新宿界隈で、ヤクルトお姉さんをやってる女子もロッテファン。

同じ頃、印刷屋さんの、一番頼りになる営業の女性がヤメてしまう
ことになり、その後任の人が一人で来たとき、こっそり私に声を
かけてきました。
「あの、つかぬことをうかがいますが…、千葉ロッテファンで
いらっしゃるんでしょうか?」
私は「世間話で親しくなるのも営業の一つ」と思っている営業マンは
信用しないので、微妙に身構えつつスマイルを返しました。
「…ああ、はい。お恥ずかしい」
「すみません、お仕事と関係ないことで。実は私もパ・リーグでは
ロッテファンなもので、どうしても訊きたくなってしまって…」
話題にしたこと自体を恐縮してくれてホッとしたが、それにしても
やっぱりロッテという球団の好感度が全面的に高くなったよなあ…と
思わされる出来事でした。

2015年。地元の某新聞集配所連合が、なぜか元ロッテ・里崎の
トークショーを企画しました。でも、そのチラシが新聞に入ってきて
から申込期限まで数日。7月18日開催なのに、チケット持ってきて
くれたの17日。日程がタイトすぎるだろ!
それより、なんで東京都板橋区の一部エリアでの告知&開催なのに、
ロッテOBのトークショー? 里崎は、今でこそ各所で人気ではある
けど、当時は引退後1年で、今みたいにテレビでよく見る存在では
ありませんでした。客は来るのか!?とめちゃめちゃ心配でした。
18日土曜日、開場待ちで会場付近をうろうろしていたら、新聞社の
係員が出てきてセッティングが始まりました。
ロッテユニフォーム着用の私、ダンナ(まだ普通の服)と合流して、
とりあえずドトールに入ろうと歩いていったら、新聞社の人に笑顔で
「こんにちはー」とあいさつされました。客なのモロバレ!(当然か) 
時間になり、夫婦でユニフォーム姿で入場すると、客はたった50人
ほどでした。広々と空いている客席。でも、告知遅すぎるし締切も
ギリギリだし、すいてるのは里崎のせいじゃないよね? 汗汗汗…
しかも、ユニフォーム姿の人は私とダンナだけ。他に、ロッテTシャツ
の人が一人いたけど…背中はG.G.佐藤。「ほぼ埼玉」というこの
地域、この人はGGファンなだけで、ロッテは好きじゃないのでは?
里崎は、登場するとともに、まずはロッテファンの人数を確認。
我々を指して「そちらはもちろんロッテファンですよね、ユニフォーム
着てるから」と振ってくれました。この客席の様子…ロッテファンと
明白にわかる服装の人がいて、ホッとしただろうなあ。
実際は、挙手を求めたら30人ほどがロッテファンだった模様。
中には気を遣っただけの人もいたかもしれないけど、板橋区の中の、
特定のエリアで、特定の商品を定期購入している母集団から抽出しても
30人近いロッテファンが集うとは…。

…ほんとに、時代は変わったよねえ…。
かつて、「ロッテファン」なんて言ったら、珍獣か宇宙人かという扱い
だったものよ。マジに「ロッテファンってほんとにいたんだ!」って
言われたことがありますよ。それが今では…。
「ロッテファンですか~、人気ありますもんね!」とか言われることも
あるんだけど、喜ぶというより違和感が…(笑)
「なんでよりによって、ロッテ?」と言われるほうがしっくりくる!
ダンナは千葉県民で、私の影響からだいぶ後になってファンになった
人だから、球団に対して持っているイメージがだいぶ違う模様。
その差も、ロッテ球団の歴史として、また楽しからずや。

ロッテファンがいかに増えたか

2020-07-19 00:56:16 | プロ野球
時代は変わったなあ、と心から思う。
前回のエッセイで、ロッテオリオンズと千葉ロッテマリーンズが
暗黒だった旨を書いたが、ファンが少なかった時代というのは
その当時を知る人が非常に少なくて、「不人気体験記」を書く人も
なかなかいないわけだ。
途中まで巨人ファンを兼ねていたうえに球場にもあまり行かなかった
私の体験記では不人気ぶりが伝わりづらいが、なんとか不遇な当時の
雰囲気を書いてみたいと思う。

私がロッテファンになったのは福岡在住時。周囲は巨人ファンと
西武ファンばかり。男の子たちは巨人と西武の野球帽か、町内会の
野球帽をかぶっていた。女の子で野球帽をかぶる子はいないので、
私は放課後に弟とその友達と一緒に「男の子遊び」をする時と、
弟とキャッチボールをする時と、家族旅行の時だけ、愛用のロッテ
オリオンズの帽子をかぶった。
だが、弟の友人に、私がロッテファンだと知っていた人はいない。
また、旅先で、弟の帽子を見て「巨人ファンだねー」と言う人は
いても、私に「ロッテファンなんだー」と言う人はいなかった。
まれに何か言われる時は、「それ、どこの帽子?」。
この状況は多分、ロッテオリオンズの野球帽をかぶっていても、
プロ野球チームの帽子だと気づいてもらえていなかった可能性が高い。

東京に戻ってきた中学時代、さすがに中学生女子で野球帽をかぶって
いるのは変な子すぎるので帽子はお蔵入り。
高校では周囲の巨人ファンを探し出して野球の話に盛り上がった。
クラスに2人(男1女1)、部活(漫研)に2人(男1女1)、
巨人ファンがいた。…ってロッテの話じゃないの!?
いつも「好きなプロ野球チームは巨人とロッテ」って自己紹介して
るんだけど、ロッテに関する思い出は皆無。漫研のコピー誌に、
ロッテオリオンズのにせ広告を勝手に描いた、ってことくらい。

なお、当時好きな選手は愛甲猛。そして、キャッチャーをやって、
立膝で一塁ランナーを牽制で刺したのでディアズも気に入った!
でも彼らの活躍は新聞の片隅の「打数・安打・打点…」というあの
一覧表と試合の得点経過表でしか見られなかった。(今以上にパ・
リーグは冷遇されていて、試合展開の説明文すらなかった)

毎日テレビのスポーツニュースを見るけれど、パ・リーグはほぼ
スルーなうえにロッテは「その他の結果」で得点表示のみ。
「プロ野球珍プレー好プレー」ではガラガラの川崎球場がネタになる
ものの、ロッテの選手のプレーはなかなか取り上げられない。あ、
上記のディアズの立膝で一塁ランナーを刺した場面は、「珍プレー
好プレー」で見られてよかった。
高校時代、あの「10.19」があったのに、「ロッテの優勝が
かかっているわけじゃないし」と興味を持たなかったのは失敗した。
(実は結果としてテレビで中継されてたことはずっと後で知った)
めったにない、ロッテの大きく関わった国民的行事だったのに…!
なお、「10.19」を話題にしていた野球ファンは周囲にいない。
家庭内にも野球ファンが自分以外に3人いたのに、家でも学校でも
「10.19」に限らずパ・リーグの話なんてまるっきり出なかった。
とにかく、ロッテファンであろうとしても、周囲にまるっきり
ロッテという球団が存在しないような状態だった。

つまり、真の不人気球団とは、不人気を実感することすらできず、
ファンでさえ「その球団が存在しない世界」を生きることを余儀なく
されるのだ――。

大学に入ると、衝撃の出来事が!
大学の漫研の先輩に、ロッテオリオンズのファンがいたのである!
彼は川崎在住。地元ガチやないですか!
そうとは知らずに入部して自己紹介に「巨人とロッテのファン」と
書いた私に、その先輩がかけてきた言葉は…
「実は俺、ロッテファン。…でも、なんでキミ、ロッテファンなの?」
顔には「意味がわからない」と書いてある。あんたもファンやんか!
もちろん「川崎市民でもないのになぜロッテファンなのか」という
ことなんだろうけど!
私、巨人ファン時代に「なぜ巨人ファンなのか」って聞かれたことは
1回もないのに、「なんでロッテファン?」って訊かれた回数は
数知れず。それも「なぜ、よりによってロッテ?」というニュアンス
をこめて、怪訝な顔で訊かれるのが常。
もちろん先輩には「野球帽をかぶっていて洗脳された」と答えて、
「まさか自分以外にロッテファンがいるとは!」と互いに驚き合った。
とはいえ、野球ファンはTPOをわきまえている人が多いもので、
私もこの先輩も、漫画の愛好団体であるサークルに野球話を持ち込む
ようなことはなく、ロッテの話はほとんどしなかった。

この大学入学年は、私のロッテオリオンズファン最高潮の年だった。
自分以外のロッテファンに初めて出会えたのみならず、なんとあの
川崎球場に乗り込んだのである!
でも、一緒に行った人が巨人ファンというのが…。
高校時代のクラスメイトに2人いた巨人ファンの、男のほうが
偶然同じ大学に進学していてびっくり。高校時代から彼の見た目が
すっごい好みだったので、頑張って割と親しいところまでいけた。
彼との定番の冗談が「川崎球場のロッテ×ダイエー」。当時、
もちろんロッテは低迷球団、ダイエーもBクラス常連の低迷球団。
この前年にはロッテを押しのけてダイエーがパの最下位だった。
私がロッテファンも兼ねているので、純粋な巨人ファンの彼に
「じゃあ川崎球場のロッテ対ダイエー行こうよ!」と振って、
彼が「やだよ! そんな試合!」と返すのがお約束。
セの王者である人気球団のファンが、なんでパの最下位争いを見に
行くのか!? という「バカネタ」だった。
でもある時「いいよ、行こうよ」ということになって、私は人生で
初めて自分でチケットを買って野球場を訪れた。子供のころの
後楽園球場以来かな。
球場慣れしていないので、川崎球場を特にぼろっちいとは思わず、
チケットを買ってライトスタンドへ上がった。
いやあ、あの風景は独特だったなあ。見渡す限り空席というか。
もうとにかくガラガラで、逆にどこに座ろうか迷う。前方上方に
応援団がいて、そこ以外はどこでも座り放題だった。
全方位に誰もいないエリアに座って見渡すと、内野席は応援団も
いないためほんとにガラッガラ。試合開始直前に球場入りしたのに
「試合開始の3時間前」って感じ。
試合は、愛甲が9回裏に起死回生の同点ホームランを放つ!
愛甲好きなので超嬉しい! そして誰かがサヨナラホームランを
打って試合は勝った。(後日これが堀だったことを知る。ロッテの
新人はなかなか覚える機会がないので堀幸一を認識してなかった)
実際に行った印象として川崎球場は古いだけでそうひどくなかった。
多分私がトイレとか行かず、外野席と最短の通路しか見なかった
からだと思うけど。食べ物も、男へのアピールとしてお弁当作って
行ったから売店にも行かなかったし。今思えば川崎球場を隅々まで
見ればよかった。野球より男目当てだったのが悔やまれる!
ライトスタンド全景が目に入った瞬間の光景は忘れられない。
応援団をあまりジロジロ見たら気の毒な感じがするくらいすいて
いて、広大な前方の灰色と右上方の青緑色が印象的だった。

ロッテが千葉に移転するとき、正直、ついていくかどうか迷った。
オリオンズという呼称に愛着もあったし、周囲に存在感がまるで
なかったからロッテファンをやめても生活に何の変化も起こらない
ことはわかってたし。
でも、やっぱり新聞のスポーツ欄のロッテが気になるので、ロッテ
ファンはやめなかった。なお、大学のロッテファンの先輩はもう
卒業していたので、仲間は一人もいなくなっていた。

マリンスタジアムにロッテ×巨人(オープン戦)を見に行ったりも
したが、毎年、ロッテの順位は気にならなかった。5位か6位と
思っていれば間違いなかった。(4位になれば大満足)
ファンが順位にまったく興味を持たないというのもすごい。
ただ、当時同じく弱小球団だった福岡ダイエーホークスとは、
劇的(悲劇的?)なドタバタ試合が多くて、対ダイエー戦の新聞の
スコアは毎回熱心に見ていた。
しかし、巨人がFA乱獲に走っていくと共にプロ野球から目を
そらすようになり、ロッテの情報に接することもなくなっていった。
1995年に2位になった時だけ一瞬フィーバーしたけど、監督が
ソッコー解任されたことでガッカリして、ロッテももういいや、と
いう気分になってプロ野球全体から離れていった。
1998年の18連敗も、周囲の野球ファンはパ・リーグなんか
眼中にないから話題にならず、私も数字だけ確認して「いかにも
ロッテらしいな」と思っただけだった。
だって周りで多少プロ野球の話題が出ても、ロッテなんて、球団が
存在しないくらい誰も意識してないんだもん。
私が意識しなくなったら完全に存在が消えてしまう、それが当時の
ロッテという球団だった。
千葉ではそんなことはなかったのかもしれないけど。いや、でも、
千葉移転初年度だけは沸いたけど、千葉での人気もすぐ低迷したん
だよね。パ・リーグから経営努力をしろと注意されるくらい。

プロ野球から遠ざかっていた私に、「ボビー・バレンタイン復帰」
のニュースがわずかに届いた。
「あの、ロッテを2位にした外国人監督を呼び戻すの!?」
2004年にバレンタイン監督が戻ってきて、ロッテのニュースの
チェックが欠かせなくなった。球界再編の騒動に熱くなったりして、
2005年からは交流戦が始まって、パ・リーグの地位も向上して、
ロッテ旋風が巻き起こって…

時代は変わった。

2005年は、日本シリーズのチケットが取れたり、その第一戦で
大学時代の川崎ガチの先輩に偶然再会したりするなど、まだ若干の
「狭い世界」感があった。
しかしその後もロッテファンは増加を続け、時代は変わり続けた。
2010年の日本シリーズは、夫婦でめちゃめちゃ頑張ってもついに
チケットがまるっきり取れなかった。

私の住まいは東京都板橋区の、千葉から遠く離れた地域。
ある日、普段着の普通のオッサンが、千葉ロッテマリーンズの紙袋を
下げて駅付近を通り過ぎていった。
また別のある日、ロッテの、衣料ブランドとのコラボTシャツを着た
女子も駅前で見かけた。若いお嬢ちゃんまでがロッテアイテムを!?
時々、駅前をロッテのユニフォームで歩いている若い男性を目にする。
試合に行く様子ではない。ユニフォームを普段使いしているのか?

千葉でもないのに、街角でロッテファンを見かけるなんて…

爬虫類など珍しい生物の販売イベント「東京レプタイルズワールド」
のために池袋サンシャインシティに行ってみたら、ロッテの背番号
17・成瀬のユニフォームを着た子供が親に連れられて来ている。
なんで爬虫類のイベントにロッテのユニフォーム着てきてんの。

ある年のある日、突如、西武ドームに西武×日ハムを見に行った。
前夜に「大谷翔平が先発か…」と西武ドームのチケットを見てみたら、
母の日特別価格で指定Bが880円だったので。
試合は、大谷が159キロ、159キロ、158キロで3球三振を
取ったりするも、やがて割と打たれだした。なんてこった~
私の服装はロッテロゴ付きポロシャツ。さりげなく「西武ファンでも
日ハムファンでもないぞアピール」。
売り子の姉ちゃんから氷結を買ったら、「今日はホーム、行かないん
ですか?」と話しかけられた。確かに、ロッテはマリンで試合中。
それをわかって、「ホーム」とか言っているあんたは、まさか?
次に彼女の口をついたのは、「私もロッテファンなんで~」。
まさかの、売り子がロッテファン。千葉在住だそうだ。
西武ドームの西武×日ハムで、なぜ、ロッテファン同士が出会う!

入院した病院でも、リハビリ担当の先生が私の持ち物を見て「夫が
ロッテファン」とカミングアウト。

今は、こんな時代。本当に、隔世の感がある。
もちろん、勤め先が付き合いでロッテのチケットを束で買ったものの、
ロッテファンが社内に私しかいなかったりもするんだけど。
でも、かつては怪訝な顔で「なんでロッテファン?」だったのに、
今は笑顔で「へーロッテファンなんだ!」と言われる。「千葉の人?」
と続くことが多いのが気に食わないけど、逆に周囲が皆「ロッテは
千葉の球団」と知っているわけだ。オリオンズ時代は「ロッテ…、
本拠地どこだっけ?」というのが多くの野球ファンの認識だった。
「川崎球場…」と言うとすぐ「珍プレー好プレー」って言われるし!
古参の野球ファンでも、ロッテオリオンズというと、ガラガラとか
いちゃつくカップルとかそうめん流しとかのイメージしかないし!
それは、ロッテを知ってるんじゃなくて「『珍プレー好プレー』で
しかロッテを知らない」って言うんだよ!

ロッテファンなのに周囲にロッテオリオンズが存在せず、プロ野球
チームを応援しているのに順位を意識するだけ無駄だったあの頃。
もちろんこれは東京の一ファンの経験でしかないけれど、現在の
ロッテファンはどこにいようとこんな環境にはならないと思う。

私は、マリンで開催されるファン感謝デーで、ただなんとなく席に
座ってフィールドを漫然と見ているのが大好きだ。
ゆっくり一人でお酒を口に運びながら、何万人ものロッテファンが
ひしめき合って戯れる様子を眺めて、「ああ、ファンが増えたなあ…」
「こんなに人気球団になったんだなあ…」としみじみ感じ入る時、
なんともいえない喜びを感じられる。
18連敗に付き合ってともに泣いたファンであっても、千葉移転
からのファンは、オリオンズ時代からのこのものすごい隔世の感を
味わうことはできないだろうなあ。
古いファンが偉いというわけではないけれど、長くファンを続けると、
なんかそれなりの「ごほうび」みたいなものはあるよね。
ロッテという球団が、いるのにいなかったあの時代。正しくは、
暗黒というより、完全に透明で気づいてもらえない、って感じかな。
まあ、東京の変わりモンの個人的な感想…ってことでご容赦を!

私の野球観戦史を変えた選手・監督

2020-07-12 15:56:03 | プロ野球
長年野球ファンをやっていると、何人もの「思い出の選手」「思い入れの
ある選手」がいるものだと思います。
今回は、私の野球観戦の感覚や価値観を変えた選手・監督を挙げて語って
みたいと思います。
ラインナップは以下の通り。

ボビー・バレンタイン:ロッテの歴史を劇的に変えてくれた。
サブロー:外野守備の究極は「すでに、そこにいる」だと教えられた。
里崎智也:「投手が楽に投げられるリード」を教えられた。
荻野貴司:プロ1年目の数々の走塁の凄まじさを超える奇跡は存在しない。
大谷翔平:四十年以上野球を見てきてまだ「夢」が見られるとは…。

〇ボビー・バレンタイン(ロッテ監督)※肩書きは当時。
かつて、ロッテオリオンズは暗黒だった。
不人気な「パ・リーグ」においても群を抜く不人気さ。いつもガラガラの
本拠地・川崎球場は、プロ野球界の盛大な「ネタ」でしかなかった。
千葉に移転して少しはマシになったが、ピンクのユニフォームの時代、
やはりロッテは不人気球団だった。不人気なだけでなく、負け犬根性が
しみついて「優勝なんか無理」という感覚で野球をやっている、暗くて
情けない球団だった。(ファンが言うのもなんだけど。笑)
そのチームにボビー・バレンタインが魔法をかけた。
おかげで千葉ロッテは「いっぱしの球団」になれた。ボビーの力と遺産で
日本一も二度経験できた。
「ボビー前」と「ボビー後」で、ロッテという球団はまるで違う。
「ファンはいるものの、客観的には愛される価値が感じられない球団」が、
「熱いファンに後押しされた楽しくて魅力的な球団」に変わった。
ボビー・バレンタインは真実、「魔法使い」だったと思う。
今の「千葉ロッテマリーンズ」は、ロッテ球団を土台にボビーが創生した…
川崎時代からのファンの私は、ボビーをそのくらい「神」だと思っている。
今もロッテを思ってくれる素敵な歴史的偉人。
先日はロッテグッズまみれのコロナ見舞いの動画をありがとう!

〇サブロー(ロッテ外野手)
それまでは、普通に「ファインプレーを連発する選手」が名手なのだと
思っていた。「守備範囲が広くてなんでもキャッチ」+「送球で的確に刺す」
が守備の名手だという認識。かつてのロッテの小坂と、今なら広島の菊池が
典型的な「守備の名手」のイメージ。外野手も跳んだり跳ねたりしてナイス
キャッチする人が名手なんだと思っていた。
だが、サブローの守備を見ていて新しい価値観に開眼した。
「上手い外野手は、『すでに、そこにいる』」

テレビでなく球場で野球を見るようになってから、不思議なことに気づき
はじめた。バッターが打つ方向がどこであっても、サブローがイージーに
キャッチする。「なんで都合よく、今回ここにいたんだ?」というところに
いつもいて、普通に捕球する。結果、何も起こらない。
そこにファインプレーはないが、毎度「都合よく」そこにいる。やがて、
「これは偶然じゃないんだ」ということを察知した。
そして、あわやホームランという打球の時、サブローがゆるーく追って、
フェンス直撃のボールを内野に返す様子を見ていて、はっとした。
「これ、フェンスまで追ったら1つ余計に進塁させてるよな!」
全力でフェンスまで追って、跳ね返ったボールを追いかけ回して、さらに
長い距離を投げて内野にぽーんとボールを返すより、「直接は捕れない」
という判断が早めにできたらクッションボールをベストの位置で処理して
進塁を阻むほうがいい。サブローの動作はユルく見えるが、実は最善を
最短で実現しているじゃないか。

つまり、追いつける打球の時には「すでにそこにいる」し、追いつけない
時にはクッションボールに最短で的確にアプローチしている…
「そうか、上手い外野手は、跳んだり跳ねたりするんじゃなくて、打球が
来るところに的確にいるから、結果として何も起こらないんだな…」
ほんとはこの「何も起こらない守備」は、サブローの前の、大塚明から
そうだったんだと思うのだけど、私が球場でそれを見て気づいたのは
サブローの時代からなのであった。
サブローが選手間投票でオールスターに選出されたのは、この守備あって
のことだろう。「どこに打っても、苦もなく捕られるぞ!?」と思った
他球団の選手がたくさんいたんだと思う。
このサブローのさらに上をいって「どこに打っても何も起こらないうえに、
届くはずのない位置に飛んだ打球まで全部捕る」だったのが岡田幸文。
でもとにかく、サブローのゆるく見える守備が実はすごい、と気づいた時、
野球の見え方がまた大きく変わった。野球って面白いと改めて思った。

〇里崎智也(ロッテ捕手)
これについては詳述を避けるが、里崎のリードは「決め球は1球投げれば
いい」という組み立てになっている。よく2ストライク目に一番いい球を
使ってしまって決め球に四苦八苦したり、外角低めの球ばかり要求して
苦しいピッチングにしたりするリードを見るが、里崎にはそれがない。
本人の著書にもあるが「2ストライクから1球外すのは無意味」。実際、
サトのリードは3球勝負も多い。これは球数が無駄に増えなくていいし、
「3球勝負で来るか、3球勝負はしないのか?」という点でも打者を
迷わせたほうがいい。
ただしサトのリードは、ある程度点は取られるリスク込み。「3点くらいは
取られるものなんだから、それで負けたらバッテリーの責任ではない」と
割り切っている。投手に完璧を求めて自爆するようなこともない。
とにかくいろいろな面で「投手が楽に投げられる」方法が追求されている。
こんなに「投手主義」なキャッチャー見たことない。
里崎は「リードは結果論」と言っているが、実際はピッチャーの精神面、
体力面の消耗までケアする渾身のリードをしている。
球場で野球を見て、また、野球について真剣にいろいろ考えて見るように
なって、さまざまな点で、サトの言うことがよくわかるようになった。
理論派に見えるけどボビー信者でロッテ球団大好きだったりする感情的な
面も垣間見えて、里崎には共感できて親しみが持てる。
里崎に教わったもの・ことは、とにかく多い。

〇荻野貴司(ロッテ外野手)
イケメンで鳴らす荻野だが、私は彼の見た目にはまったく興味がないし、
とくだんファンというわけではない。だが、荻野貴司の1年目はほんとに
ほんとにすごかった。私の野球の常識を打ち破ったドすげえ選手だった。
荻野のデビュー当時、私はすでに三十年以上野球を見てきていたベテラン
ファンだったのに、それまでに見て知っていた野球の物理法則では決して
ありえないスピードがそこにあった。
ライト前二塁打とか、普通のショートゴロが内野安打とか、送りバントで
普通に自分もセーフとか…。塁に出ればいつでも盗塁、フォアボールが
3塁打に化ける。いつどこで荻野が物理法則を超えてみせるかが、常に
楽しみだった。
荻野のすごさはスピードだけではなくて、野球勘、野球感覚がとにかく
すさまじかった。自分の打球がどこまで飛ぶから自分の脚ならどこまで
進めるか、それを脳内で感覚として認識する正しさがハンパなかった。
自分が前に進めるギリギリ・スレスレに可能な限界まで前進した。
足の速さもすごすぎるのに、進める限界を見定める能力もすごいとは…。
「今日も、荻野がすごいことをやるかもしれない」という夢にあふれた
あの短い春…
でも、人間は奇跡を起こし続けて生きることはできなかった。
荻野の能力は人間の生身を超えていたんだと思う。

ケガから回復したものの、「奇跡」は起こせなくなった荻野。
だた、ある年のロッテのファン感謝デーのリレーで、荻野の秘密の一端を
見ることができた。
リレーのアンカーは、ともに超俊足の荻野と岡田。二人はほぼ同時に
スタートしたのに、荻野が一瞬にしてドバーと圧倒的加速を見せた。
「そのへんの超俊足」じゃまるっきり追いつかない、異質の加速力だった。
塁から塁への短い距離を走ることの多い野球では、あの加速力こそが
奇跡を産むのだなとよくわかった。
今も、「今日も奇跡が見られるか?」と連日興奮のるつぼだった日々を
思い出すだけで「あれはほんとに幸せだった、すごかったな」と思う。
もしかして、荻野1年目のあの春が一番、野球を見ていて楽しかったの
かもしれない。そのくらい、荻野貴司はすごかった。

〇大谷翔平(日本ハムの投手であり野手)
もうこの肩書の書き方じたいが↑変になっちゃうレベルで野球の常識を
凌駕している大谷翔平。
私は編集の仕事をしているわけだけど、もしも私の手元に「主人公は、
プロ野球で投手として160キロの球を投げて、ホームランもバンバン
打つんです」という設定の物語が持ち込まれたら、「そんな嘘くさい
物語、読者が共感できないですよ。ありえなすぎて読者ドン引きです」
って答えるだろうな。
ましてや「投手なのに先頭打者ホームランを打ったり、自分で完封して
1対0で勝利して優勝を決めたりするんです」「最後にはプロ野球の
公式戦で『エースで四番』をやって、大リーグに移籍するんです」とか
言われた日にゃあ「私も野球ファンを四十年以上やってますが、そんな
現実感のない、ありえないヒーロー、バカバカしすぎてまるっきり
読む気になれません。書くならもっと現実的な設定にしないと…」って
全否定しちゃうね。
「あっ、しかも、足も速いし、外野を守らせると肩も素晴らしくて
ライトから三塁へ酔いしれるようなぐんぐん伸びる球を投げるんです」
投手が外野をやると肩がいい、というのはアリだが…そこまで何もかも
できるドすげえ選手なんて、ありえなすぎてもはや寒いわ。
…でも、ありえてしまったね。その、ありえない奇跡が。
でも荻野と同じで、やっぱり人間の能力を超えてしまっていたようで、
ケガ、手術を経ることになった。メスを入れた影響を受けることなく、
これからもっと「ありえないだろそれー」と言わせてほしい。
2016年が大谷の最高の輝き、なんてことにならないでくれよ!


以上、プロ野球は何十年見ていても新しい驚きをもたらしてくれて、
知れば知るほど面白くてやめられない。
一対一の対戦でありチームプレイであり、アクションゲームであり
シミュレーションゲームであり、理論であり「理屈ではない何か」で
あり、有限であり無限でもある。
荻野貴司デビュー年、私は38歳。大谷の日本キャリアハイの年、
私は44歳。こんな年齢になって「こんなすごいことをこの目で見る
なんて! 奇跡だ!」と思えるって、なんて素敵なことだろう。
私のつまんない凡人頭をたたき割り、価値観をひっくり返してくれる
素晴らしき野球の世界。一時、野球を見るのをやめていたのだけれど、
私をまたプロ野球観戦に引き戻してくれたボビー・バレンタインに
あらためて感謝したい。ロッテファンやっててよかった!

想い出が多すぎて ~w-inds.へのエール~ 後編

2020-07-04 13:51:58 | 音楽
メンバーの龍一君脱退を受けて、w-inds.の思い出を振り返る
自己満足大長編エッセイの後半です。

<前回のあらすじ>
夫婦でw-inds.にハマった我が家。
クリスマスイブのw-inds.イベントに行こうというダンナの
誘いを私は容赦なく断った。友人と出かけていったダンナは、会場に
入りきれなくてすごすごと帰ってきたのだが…(つづく)


明けて2003年、大変なことがありました。
クリスマスイブのイベントは、(ダンナを含む)多くのお客さんが
入場できなかったので、1月11日にお詫びとして謎の「イベント」
をやるというアナウンスがありました。
イブのイベントはライブだったので、今回もライブかもしれない…
ということで、私も今回はダンナと一緒に行くことにしました。
現地には長~い行列ができていて、その列の誰もがこの日の「イベント」
の内容を知りません。長~く待たされた後、じりじり列が動きだしたら、
おかしなことが起こりはじめました。
イベントの建物の中から出てくる中高生女子たちが、「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と謎のすさまじい奇声をあげ、「まじで、
やばい、まじで、やばい、やばすぎる」などと意味不明の言葉を叫んで
バタバタのたうち回っているのです。
「いいいいったい、中では何が!?」
列に並ぶ我々、そして周囲の同類たちは不安にかられました。
いよいよ我々も建物に入ったのですが、そこでダンナが「男性の方は
身体検査を受けてください」と、係員に連行されてしまいました。
待ってー、この男は「怪しい奴」でも「ただの付き添い」でもない、
ガチのファンクラブ会員よ~~!!
幸いダンナは安全な人間だと確認され、戻ってきました。そして、
私を前に並んでその先へと踏み込んだのですが…
途端、凍りつく私。
なんと、イベントは「握手会」だったのです!!!
まずは龍一君(が手前だったと思う)にタッチ程度の握手。
次に涼平君(が真ん中だったと思う)にもタッチ程度の握手。
二人には笑顔で「がんばってくださーい」と言えました。
そして! 最後は! なんと! 慶太君が! ギャー!!
「あのっ、……夫婦で聴いてますっ」
動転しまくって必死でそう言いつつ、これもタッチ程度の握手。
だが私、動揺しすぎてマフラーの片側をべろーんと落としつつ退場。
慌てて振り向くと、慶太君が「あっ」と心配げな様子をしていて、
マフラーの端を後ろに続くダンナが踏んでしまっていて、拾って
手渡してくるのを無言で受け取って、瞳孔が開いたまま退場しました。
私は驚愕の出来事に動揺が冷めやらず、寒空の下で「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と意味不明の叫びをあげました。
ダンナが出てきた姿を見ると、「まじで、やばい、まじで、やばい、
やばすぎる」と言って袖をつかんでドタバタ暴れました。
その瞬間、女子中高生たちがなんであんな状態だったのかがよ~~く
わかりました。私は当時29歳だけどな!
もう、動転しすぎて慶太君の顔とかほとんど見られなかったよ!

2003年5月、8thシングル「SUPER LOVER」は、
葉山さんプロデュースではないし、(あえて)バカっぽい歌詞だけど、
慶太君の声が綺麗に出ているので大きな不満はありませんでした。
しかし8月発売の9thシングル「Love is message」
あたりでそろそろあきらめはついてきました。
w-inds.は「唯一無二の独自な音楽を刻むアーティスト」で
なく、「そこそこ歌も上手いアイドル」になっていくんだな…って。
それでも、この時はまだ、夫婦揃ってw-inds.のファンでした。

2003年夏のツアーは、我々夫婦のw-inds.ファン活動に
おける最大のクライマックスとなりました。
7月下旬の川口リリアに始まり、8月半ばの長野県民文化会館、
8月下旬の富士急ハイランドコニファーフォレスト、そして8月末の
武道館…と、4公演を追い回したのです。
川口リリアでは、盛り上がってワーッとなる曲の時に、2階席の
最前列でダンナがステージ上の彼らに手を振ったら、龍一君が
「あっ」という顔をして、明らかに手を振り返してくれました。
「男性ファンが来てくれるのはうれしい」って言ってたもんな!
長野公演は、夏の爽やかな長野の風景と、タイアップのCD店の
店頭から流れるw-inds.の音楽が相まって、とても心地よい
旅になりました。
富士急ハイランドでは、スタンディングのライブだったので、あえて
少し後ろに下がって周囲の人たちと距離を取り、飛び上がって舞台を
見やすいように頑張っていました。ダンナいわく、「ヨメがジオング
になってた。ほとんど地面に足がついてなくて、浮いてた」だそうで。
そしてとうとう武道館。彼らも武道館…と感慨もひとしお。
4公演、出来は良かったりいまいちだったりいろいろでしたが、
とにかく可能な範囲内で追っかけ尽くした充実感にひたりました。

その秋には日本工業大学の学祭ライブにも行きました。
駅から大学までの道の途中にあったコンビニ内にw-inds.の
写真を貼った販促掲示が作られていて、慶太君の写真に「半袖だヨ!」
と書いてあったのには笑いました。当時、慶太君はなぜかいつも
長袖を着ていて、慶太君の半袖写真はレアだったのですが、そんな
ことを売り文句にする店員さん、どんだけガチやねん!
会場に到着すると、体育館からめっちゃ歌ウマな美声が聴こえてくる。
ああ、ほんとにw-inds.は、慶太君の歌は素晴らしいなあと、
最後の幸せな気分でいられたこの秋。
この後10月29日に発売された「Long Road」は、
私がw-inds.ファンとして聴いていた最後の作品となりました。

2003年12月17日、3rdアルバム発売。
この「w-inds.~PRIME OF LIFE~」を聴き、
デビューから葉山サウンドを中心として作り上げられてきた
「w-inds.にしかできない音楽」が終わったことを認識して、
私はw-inds.ファンをやめることにしました。
それまでの、「どこかで聴いたような不思議な懐かしさもあり、
けれど決してどこにもないw-inds.だけの透明な世界観」は
もう消滅していました。
「PRIME OF LIFE」は私にとって、「昔どこかで聴いた
アレやコレに似たような、二番煎じ的な音楽」でした。
それでも何度かはちゃんと繰り返し聴いたし、慶太君の歌声的には
綺麗だったから聴ける曲もあるといえばありました。
でも、デビュー当時のあのアーティストじゃ、もうないよね、これ。
それを別物として愛し続けていける人はついていったらいい。
でも、私は「これ」を聴きたくてファンをやっていたわけじゃない。
つまり、私にとって、w-inds.とは「葉山拓亮と橘慶太の
デジタルサウンド&クリアボイスの融合」でしかなかったわけです。
w-inds.がただのアイドルだったら、プロデュースが変わった
としてもファンでいられたと思います。でも、私はw-inds.の
あの音楽が聴きたかったファンなので、これを以て卒業を決めました。

このアルバム発売記念として、ミニライブイベントが横浜赤レンガ
倉庫で開催されるということで、夫婦で出かけていきました。
私は慶太君とのお別れのつもりで、最後の記念として…。
しかしあまりにすごい人出で、ダンナは(体が良くなかったので)
そのまま帰ることにして、私一人で人混みに突入してきました。
ライブの歌声、素晴らしかったなあ…。
慶太君への憧れの気持ちは残っていたので、失恋のようななんとも
いえない切なさと寂しさとともにステージ上の彼らを眺めて、途中で
その場を後にしました。

年が明けて3月くらいだったかな。ダンナはまだファンクラブ会員
だったので、2人でファンクラブ限定イベントに行きました。
(同伴の1人を連れてきていいファンクラブイベントって謎だよね!)
ライブ形式のイベントで、歌っている慶太君が人生最驚の近さに来て
(5メートルくらいの距離だったと思う)いい記念になりました。
でも、近くにいる慶太君を、「私の求めているのは、それじゃない」
という、えもいわれぬ顔で見つめてしまいました。
歌はかなり綺麗に歌えてたのに、「違うな」と思うなんて…
私にはもうファンを名乗る資格はなくなったんだな…と実感しました。
(多分ダンナもこの後、ファンクラブを継続しなかったと思う)

ダンナはその後も2004年3月発売「Pieces」や同6月発売
「キレイだ」といったシングルをちゃんと聴いてどうのこうのと批評
したり、2004年7月発売のベスト盤を買ったりしていました。
だから私もそれらを何度も耳にしましたが、興味を持てませんでした。

なんと、2004年10月発売のシングル「四季」は葉山拓亮さんの
プロデュースでした! さすがにそれは断固、買いました。
なんだろう、今でいうと「SMAPが解散してしまってから聴く、
『夜空ノムコウ』」って感じかな。「やっぱりいい曲だし、慶太君は
葉山さんの曲がいいよな、求めていたものはこれなんだよな」という
満足感はあるのですが、なんだか「終わってしまった寂しさと虚しさ」
みたいなものをどうしても伴ってしまって…
「『夜空ノムコウ』やっぱりいいわ」と「でもSMAPはもう…」の
間で行き来するファンの感情、それを想像してみてください。
私にとっての「四季」は、名曲なんだけど…
「君とのseasons ずっとこの先も繰り返すと信じて」
「瞳を閉じればいつもよみがえる 君とのseasons
 そのぬくもりと 痛みは消えないまま」
「君がいない四季を渡るよ」………
きっと葉山さんも同じことを思って作ったんだろうな…。
仕方ないこと、なんだけど。
声変わり前の限られたあの時期だからこそ、慶太君の歌声があれだけ
美しかったのかもしれないから。

w-inds.ファンとしての自分の心はこう思って整理しました。
「短い時期にしか存在しなかったあの稀有で貴重な慶太君の歌声を、
 最高の音楽に乗せて録音、記録できたことに、感謝」
慶太君のデビューがもっと後だったなら。
葉山さんの曲に出会えなかったなら。
私が耳にする機会がなかったなら。
w-inds.初期のあの名曲がこの世に生まれ得て、私がそれに
出会えた、今でもそれを何度も聴ける…。なんと幸せなことなのか。
別れを嘆くより、出会えた幸せをずっとかみしめていたい。

でも、私のw-inds.への感謝は、そんなちっぽけな個人的感傷
ではないんです。
今、歌もダンスも素晴らしい超一流アーティストとして活躍している
三浦大知。彼はFolderのボーカルとしてデビューした時から
ライジングプロダクション所属です。
彼は2000年から声変わりで休養して2004年に復帰、2005年に
ソロデビューしました。
三浦大知は声変わりで「喉、声をつぶさないため」に休養しています。
でもw-inds.橘慶太は、2002年に声変わりしているのに、
そのまま歌を続けています。
大知くんが実際語っていますが「声変わりの時に歌うと喉をつぶして
しまうので、歌ってはいけないということで、ダンスを勉強して
いました」…そう、橘慶太は2003年、2004年…と、次第に
低音がガマガエル声になっていきます。それでも歌い続けました。

三浦大知が休養して復帰して、自力で採算を取れるようになるまで、
誰が事務所の収入を支えていたのか?
もちろん2015年まで安室奈美恵がいたのでその収入は大きいけど、
w-inds.も収入の一端を支えていたのは間違いないでしょう。
声変わりで三浦大知を休養させているのに、w-inds.橘慶太は
声変わりを考慮することなく働かせているというのは、不公平な話
なのではないでしょうか?
また、2018年に「U.S.A.」で再ブレイクを果たした
DA PUMPも、ライジングプロダクション所属。
DA PUMPの低迷期は2002、3年頃から15年以上の長期に
わたります。2009年12月にKENが脱退した背景の一つには
事務所の金銭的な事情もあるようです。(売り上げの出ないDA 
PUMPでISSAとKENの2人を残しておく財力がなかった)
2001年から2年4か月、ライジングプロダクション社長である
名プロデューサー・平哲夫が不在となった時期をドンピシャで
支えたのは実はw-inds.なんです。声変わりを考慮して
もらえなかったのも平さん不在が大きいと思います。

声変わりで影響が出ても変わらず働かされることに不満を述べる
ことなく(そんな声を聞いたことも、そんな態度を見たこともない)、
ジャニーズ事務所の妨害も黙って耐えて、腐ることなく前に進んで
きてくれたw-inds.。
それどころか、ジャニーさんが亡くなった時、慶太君は追悼の
コメントまで出しています。
これこそがw-inds.のこれまでの姿勢そのものなんです。
声変わりしても。ジャニの妨害で国内の活動が難航してアジアでの
活躍を余儀なくされても。事務所の売れない仲間たちのために
金を稼いで回るような役回りに(結果として)なっていても。
ただ自分たちの道を、前を向いて上を向いて、ひたむきに進んで
きた彼らに、感謝し続けて幾年月。
なんとなくブログを始めてみたので、この場を借りて、これまでの
大きな感謝を伝えたいと思います。
三浦大知、DA PUMPが復活できたのは、w-inds.が
支えてくれたお陰です。また、実力派をちゃんと育てる力のある
ライジングプロダクションを守ってくれて本当にありがとう。

さらに、w-inds.という、慶太君が目立ちすぎるユニットの
中で、その両脇を支えてきてくれた涼平君と龍一君の苦労は
並々ならぬものがあったと思うのです。
「両脇の人、いなくても良くない?」と言われることも多々あった
でしょう。(実際は慶太君は一人じゃダメなんだけどね)
あの立ち位置を長く続けるのは、より強い自信と、それを維持
できる精神力が必要でしょう。
今回、龍一君にその精神力が尽きてしまったのは察するに余りある
出来事で、本当に「これまでありがとう」としか言えません…

そんなわけで、龍一君のw-inds.脱退を受けて書きはじめた
本エッセイですが…、w-inds.への思い入れが強すぎて、
書き上げるまでに1か月以上かかってしまいました…。
今でも、そしていつまでも、w-inds.(龍一君も含め)の
活躍を心から願っています。

2007年9月のある日の風景。
ダンナが部屋の大掃除中、w-inds.ファンクラブ会員だった
時の会報とか会員証とか誕生日にもらえるカードとかをいろいろ
発掘してきました。さすがに捨てるようです。
懐かしい写真などを見て、すっかり私は悲しくなりました。
もう戻らない思い出にうちひしがれ、布団に突っ伏してぐったり
していたら、ダンナが「そんなときは潔く、見ちゃえばいいんだよ!」
と、2002年のライブツアー「1st message」の
DVDをかけました…。
東京国際フォーラム…そして鹿児島…(そうまとう)
失われたもののあまりの大きさを再確認し、さらにぐったり悲しく
なる私でした。
2003年冬でファンやめたとか言って、だらだら未練がましく
引きずってて、それでこそ私…としか言いようがない。笑

2008年、会社がひょんなきっかけから社員旅行をすることに
なって、旅の準備の買い物をしていたら、ブティックで「慶太君が
いい声を出せる曲がもらえたら、こんな感じだろうな…涙」と
思わされる曲を耳にしました。曲が終わるまでじっと店内で聴いて、
帰宅してその旨をダンナに話したら「最近w-inds.の新曲が
出たらしいから、ほんとにw-inds.じゃないの?」とのこと。
即座に調べてくれたのですが、ドンピシャ。
25thシングル「Everyday」でした。
聴かなくなって突然街なかで聴いても、慶太君の声がわかる自分に
ホッとしたり可笑しくなったり。

2020年春、あるCMを見ていて「どう見てもこの集団のこの
位置にいる人は慶太君に見える。だが涼平君と龍一君がいないし、
周囲の人が誰だかわからん。こんな謎集団の一員が慶太君のはずは
ないか。でもこれは慶太君にしか見えない」とめっちゃ悩みました。
これまたダンナに訊いたらすぐ調べてくれて、今回もほんとに
慶太君本人でした。「180jacK.」っていうユニットらしい。
私が好きだったころからは見た目も相当変わってしまったのに、
そうとはわからない形で突然視界に入っても目に入って気になる
とは、私の「未練力」ってほんとすごい!!

本日、2020年7月4日も、CDプレーヤーに入れっぱなしに
しているw-inds.を聴きながらこれを仕上げました。
今でも、あの時期のw-inds.が一番好きな音楽です。