萩藩(長州藩)を主要なフィールドにしつつ朝鮮通信使迎接の歴史を研究する吉田智史さんより、標記論考の抜刷2冊を私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
この論考では、延享5年(1748、寛延元)、徳川家重の江戸幕府第9代将軍襲職を祝賀する朝鮮通信使につき福岡藩の迎接準備(馳走)を、対馬藩など近隣藩との情報交換・共有に着目しながら考察するものです。前編で信使の来航前の、後編では実際の信使往来時の、対応を説明しています。
ただ、読者の立場からすれば、前編の掲載誌87頁「延享5年の通信使馳走は、各藩の馳走体制が円熟期に入りつつあることを示す」という結論的な部分の表現が検討を要するかな、とまず感じました。さまざまな辞典の説明を総合すれば「円熟期」とは、人格・知識・技術などが円満に発達して、さらにそれらが最もよく発揮される時期のことを指します。延享度の信使は、江戸時代に朝鮮本国~江戸間を往復した全11回のうち10回目であり、しかもラスト11回目は、江戸幕府の最終年まで約100年も残す宝暦度です。ならば、宝暦度の馳走体制が江戸時代のなかで辞典どおり円熟したものだという前提なのか、それとも、あくまで「円熟期に入りつつある」すなわち宝暦度は円熟していない前提としつつ円熟期に向かう途上だという捉え方なのか、曖昧に思いました。
後編については、公的記録の目的とは何かを改めて考えさせられる内容だといえます。一般的に記録とは、次回以降への教訓に活かすため作成するもの。ゆえに、想定外なこと、イレギュラーなことに直面したときこそ入念に記すべきものと思えましょう。しかしながら、信使の想定外な航行にあえて言及していないと指摘してあり、藩の信使迎接記録とはいったい何を念頭に置くものなのか、見直すべきなのかも知れません。
これらはさておき、日本語・英語さらにハングル語で執筆されており、朝鮮通信使を分析対象に加えながらハングル語を勉強していない私からすれば、頭が下がる想いです。