かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

昨日の関ヶ原の”ダイニング天満”の記事

2019-01-11 08:50:50 | ブログ記事
お客さんの顔が写っているというコメントが入ったので、
いったん表から消して下書きに保存しました。

もちろん、私も、わざわざ知らない人のお顔を写したりはしませんが、
しかし、被写体に写りこんでしまうことはあります。

この場合、遠景で、誰かが特定できないほどの小ささなら問題ないでしょうが、
たまたま知った人が見たら特定されるかもしれないという程度のサイズのもあります。

そういうケースを、

他の方のブログを拝見していると、
そのままにしていられる方もいらっしゃいますが、
顔の部分に何かを張り付けていらっしゃる方もいらっしゃいます。

私は、個人的な好みで、こういう顔に何を張り付けた写真が嫌いです。

自分の顔にもしてほしくないです。

そんなことをされるよりは記事に顔を出した写真を載せられたほうがましです。

もちろん大写しは嫌ですけどね。(大写しを出すことは通常考えられませんが)

プライバシーは、もちろん大切ですが、
あまりにもやかましく言うと返ってぎくしゃくするような気がするのですが、
私の考えは時代遅れでしょうか?

テレビのニュースなどに写りこんでしまった人たちはテレビ局に文句を言いに行くでしょうか?

「鶴瓶の家族に乾杯」などで偶然撮影されてしまった人はNHKに文句を言うでしょうか?

私は、ブログでも、顔を隠さないで出しているブログに好感を抱きます。


さらに持論を展開すれば、人の写りこんでいない写真は、基本つまらない。

短歌も、基本、そうです。

景色を詠っていても、そこに人の気配があるから秀作になるのです。

感受性は人それぞれでしょうが・・・。


こういうコメントがあると、うっかり景色も写せなくなる?

昨年の今日、1月11日に母が亡くなりました

2019-01-11 06:17:48 | ブログ記事
便宜上、1月6日(日)に一周忌を済ませましたが、
本当の命日は今日、1月11日でした。

昨年の記事→「母が亡くなりました」です。

1月11日の夜明け前に亡くなっていました。

「昨年の昨日の夜、1月10日」(←昨年の記事)には、一緒にホテルの夕食をとったのに、
朝には動かない人になってしまっていました。

昨日のツアーでは、母のことを思い出しながらバスに揺られていました。

もともと昨日のツアーに申し込んだのも母の命日に一人で家にいたくなかったからでした。

独りでバスに揺れれているほうが、母のことを思い出すことに集中できます。

昨年の昨日の夜は、母はホテルの夕食を「おいしい、おいしい」と言って食べました。

なら、私も今年の昨日は「おいしい、おいしい」と、ご馳走を食べようと思いました。

ハンバーグでしたから、それほどご馳走でもなかったかもしれませんが、
その後、豪華なイルミネーションを観たことは母への供養になったと思います。

私がおいしものを食べ、きれいなものを見ていれば、母が喜ぶと思うから、それが供養です。

旅行することが何より好きな母でしたから、私も、せいぜい旅行しようと思います。

と言っても、できる範囲でですが・・・。

*

★亡くなりし母を喜ばせるために旅して食べるわれならなくに

★昨年のきのふ郷里で夕食をともにせし母死にしは今日で

★午前四時すでに呼吸を止めてゐたかもしれなくて母は死にたり

★引き取るの言葉のままに引き取りし母は息吐くことができずに

★大往生せしと主治医は言ひしかどわれには今も惜しき命で

★耳悪しきわれの発見おそすぎて母は助からざりしでなきか

★いまわれがわが母になり旅をして食べて楽しむ供養のために


*

昨年の今日の記事にコメントくださった皆様、ありがとうございました。

改めて読ませていただきまして、感謝の気持ちでいっぱいです。