まず感動したのは、
最初の子を産んだときですね。
難産だったから、余計に生まれてきてくれたときは感激が大きかったです。
それから、生まれてからも感動の連続でした。
もともと赤ちゃんは好きだったのですが、
自分の子供がこんなにかわいいとは思っていませんでした。
もう私の見る世界が、わが子のことで染まってしまいました。
親になるって、こんなに幸せなことだったんだと確認しました。
次に楽しかった時期は、
年子で生んだ子供たちが小学生になって、
障碍者枠で某一流企業に採用されて働いたころでしょうか。
結婚前、銀行に勤めたときは、
難聴であることを伏せての採用でしたから、
仕事する上で、非常な苦労がありました。
が、今度は、難聴であることを条件にしての採用でしたから、
聞こえないところは周囲の人たちが助けてくれましたし、
仕事内容も、配属された部署が教育部だったから、
銀行時代の、ある意味単調な仕事より、やりがいがありました。
にわか先生になって社員に教える場面もありました。
読み書きをしないといけない場面も多く、
読み書きの好きな私は、仕事しながら勉強させてもらっているような気分でした。
実際、仕事ながら何かを勉強して、それを発表するという機会などもありました。
ある発表会は、女性社員だけによるものでしたが、
そのとき、私は、既に34歳になっていましたが、
他の短大を出たばかりの若い人たちと比べると、
私の発表の仕方は、落ち着いていて断然よかったと
他の男性同僚社員たちに褒められまくりました。
そのせいでもないでしょうが、
同じ部の、他の課の男性からラブレターのようなものをもらったりもしました。
採用されたときに私を担当してくれた人事部の若い社員からも、
その後も、
特別に親切にしてもらいました。
また直属の課長は、真面目な人でしたから、そんなことはしませんでしたが、
隣の課の課長などは、懇親会の時などは、私に付きまといました。
ある意味では、ちょっと問題でしたけど?(笑)
でも、もちろん何もありませんでしたからね。ただモテただけです。(苦笑)
あの頃が私の人生一番のモテ期だったのかも。
私自身は、すでに二人の小学生の子持ちでしたから、
すっかりオバサン気分でしたが、
社会に出ると、まだこんなにモテるんだと、ちょっと感動でした。
この時期、どういうわけか、若い銀行員時代よりもっとモテたかもしれません。
銀行員時代は、ほとんど若い女性プラスお爺さん?の職場でしたし・・・。
若い男子行員は主に外回りするんですよ。(笑)
こういうふうに、仕事以外でも、楽しいことがいっぱいの職場でしたが、
しかし、もともと身体の丈夫でない私は、
仕事と家事の両立が身体に堪えて、だんだん咳が出るようになりました。
今から考えると、心臓弁膜症の悪化だったのですね。
そこへ、折あしく妊娠までしてしまいました。
咳は日増しにひどくなり、
その上、どうしてもほったっらかしになる子に問題も出てきました。
夫は、もう一人子供がほしいと望みましたから、
後ろ髪をひかれる思いで退職して、第3子である次男を生んだのは35歳のときでした。
第2子の長男からは9年ぶりの出産でした。
それからは、ずっと専業主婦でしたが、
また機会があれば、外で働きたいと思っていました。
が、
3人も子がいると、パートの仕事くらいしかできません。
が、パートの仕事というのは、難聴だというと断られるんですね。
短時間の即戦力がほしくて雇う仕事に難聴者は困るのでしょう。
そんなわけで、以後は専業主婦に甘んじましたが、
私自身は、もう一度、外で働きたかったです。
最初の子を産んだときですね。
難産だったから、余計に生まれてきてくれたときは感激が大きかったです。
それから、生まれてからも感動の連続でした。
もともと赤ちゃんは好きだったのですが、
自分の子供がこんなにかわいいとは思っていませんでした。
もう私の見る世界が、わが子のことで染まってしまいました。
親になるって、こんなに幸せなことだったんだと確認しました。
次に楽しかった時期は、
年子で生んだ子供たちが小学生になって、
障碍者枠で某一流企業に採用されて働いたころでしょうか。
結婚前、銀行に勤めたときは、
難聴であることを伏せての採用でしたから、
仕事する上で、非常な苦労がありました。
が、今度は、難聴であることを条件にしての採用でしたから、
聞こえないところは周囲の人たちが助けてくれましたし、
仕事内容も、配属された部署が教育部だったから、
銀行時代の、ある意味単調な仕事より、やりがいがありました。
にわか先生になって社員に教える場面もありました。
読み書きをしないといけない場面も多く、
読み書きの好きな私は、仕事しながら勉強させてもらっているような気分でした。
実際、仕事ながら何かを勉強して、それを発表するという機会などもありました。
ある発表会は、女性社員だけによるものでしたが、
そのとき、私は、既に34歳になっていましたが、
他の短大を出たばかりの若い人たちと比べると、
私の発表の仕方は、落ち着いていて断然よかったと
他の男性同僚社員たちに褒められまくりました。
そのせいでもないでしょうが、
同じ部の、他の課の男性からラブレターのようなものをもらったりもしました。
採用されたときに私を担当してくれた人事部の若い社員からも、
その後も、
特別に親切にしてもらいました。
また直属の課長は、真面目な人でしたから、そんなことはしませんでしたが、
隣の課の課長などは、懇親会の時などは、私に付きまといました。
ある意味では、ちょっと問題でしたけど?(笑)
でも、もちろん何もありませんでしたからね。ただモテただけです。(苦笑)
あの頃が私の人生一番のモテ期だったのかも。
私自身は、すでに二人の小学生の子持ちでしたから、
すっかりオバサン気分でしたが、
社会に出ると、まだこんなにモテるんだと、ちょっと感動でした。
この時期、どういうわけか、若い銀行員時代よりもっとモテたかもしれません。
銀行員時代は、ほとんど若い女性プラスお爺さん?の職場でしたし・・・。
若い男子行員は主に外回りするんですよ。(笑)
こういうふうに、仕事以外でも、楽しいことがいっぱいの職場でしたが、
しかし、もともと身体の丈夫でない私は、
仕事と家事の両立が身体に堪えて、だんだん咳が出るようになりました。
今から考えると、心臓弁膜症の悪化だったのですね。
そこへ、折あしく妊娠までしてしまいました。
咳は日増しにひどくなり、
その上、どうしてもほったっらかしになる子に問題も出てきました。
夫は、もう一人子供がほしいと望みましたから、
後ろ髪をひかれる思いで退職して、第3子である次男を生んだのは35歳のときでした。
第2子の長男からは9年ぶりの出産でした。
それからは、ずっと専業主婦でしたが、
また機会があれば、外で働きたいと思っていました。
が、
3人も子がいると、パートの仕事くらいしかできません。
が、パートの仕事というのは、難聴だというと断られるんですね。
短時間の即戦力がほしくて雇う仕事に難聴者は困るのでしょう。
そんなわけで、以後は専業主婦に甘んじましたが、
私自身は、もう一度、外で働きたかったです。