カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

1999年1月20日から1月31日まで

2012年03月27日 00時40分05秒 | Weblog

1月31日(日) ビッグ・リボウスキ、ギャグとユーモア

財政少なくとも一ヶ月はどうにかなる算段つく。しかしながらこれは努力の結果ではない。そのことをここに記して戒めておこ。自分は豚野郎だ。

天気が良かったのでお洗濯しようかな、などと考えているとディグさんから電話。「リング2」と「死国」を突発的に見たくなったので一緒に行かないか、との誘い。「ビッグ・リボウスキ」のほうが見たくないか? と私が提案。「リボウスキ」見に渋谷へ。
なにも自由業である私たちがわざわざ休日に映画見んでも、と、渋谷に着いてから後悔する。「リボウスキ」単館上映のせいか、映画館の中にはいるとけっこう行列してたりする。案外いい席に座れる。見る。
ハメットやチャンドラーを意識した映画だったのだ、ということに気づいたのは映画館出てから。上映中、妙にくすくす笑う男が近くにいたのが、若干不快だった。喜劇というものをどう受け取るかという意識の違いか? あるいは私の喜劇への感受性の不足か? コーエン兄弟は喜劇作家かもしれないが、笑わかす作家ではないように私は思う。喜劇性よりは寓話性が強いと私は思うのだけど、評価できるほどはまだ数を見ていない。あるいは私の知らないジャンル映画独特のお約束へのギャグがあったのかもしれない。「未来は今」のほうが観客の視点が見通しがよく、そのあたり私好みだった。「リボウスキ」は一人称の映画で、手法としてそれは正解だとは思う。

ギャグといえば。ギャグとユーモアの違い、というおもいつきについて。
ギャグとは、口にしてはならないことを口走り、恐怖に対して痙攣する行為、だと思う。笑う、という行為は、動物が牙をむく行動がその起源だが、つまり恐怖を感じる対象、脅威を覚える対象に対し、痙攣的に精神防御をはかる、これがたぶんギャグ。
ユーモアとは、滲み出る人間味、といったもの。
日本人はユーモアに乏しい。らしい。少なくとも歴史的に重要な場面でユーモアを残した政治指導者はたしかに乏しい。これは悲しむべきことだ。良質のユーモアは、良質な人間性と良質な知性から、たぶん生まれる。それが乏しい国では、タブーが増え、タブーに窒息しそうになると、破壊手段としてギャグを使用する。
口にしてはならないことを口走る、というのは不文律を壊す、ということだ。「薔薇の花嫁」な(あるいは「狼くん」な)メンタリティは、(社会的に要請されているかのように当人が感じている)不文律への服従が生む。日本人は(あるいはオタクは)この(仮想の)不文律に支配されがちだ。そんな不文律なんか、存在しない。

曽さん、仕事から帰宅。



1月30日(土) アーキレーターの集い

昼頃起きる。設計士さんに電話する。繋がらない。インターネットの「主郎PINK」に繋ぐ。繋がらない。おとっときのシャツを探す。見つからない。持っていって恥ずかしくない鞄を探す。見つからない。ええいこの紙袋でいいか。名刺代わりに「偽善者」数册詰め込む。那智さんからのメールにあった地図をプリントアウトしてワシントンホテルに向かう。迷う。たどり着く。ちと遅刻する。幸い致命的な遅刻ではない。アーキレーターの集い、無事終了。那智さん、お疲れさまでした。主郎さんには郵便で「偽善者」送ることにしよ。



1月29日(金)

いつきさん、足立真一さんと夕食を一緒にする。漫画家は鬱病に似ている、といった話をする。人づきあいしなくても困らないので、全く人づきあいしなくなると、いっそう欝に近くなる。すがわらくにゆき氏の漫画では、漫画家は皆躁鬱病だそうだ。締め切り前に編集から電話が来ると欝になる。締め切りがすぎて編集から電話がないともっと欝になる。
売り子が足りない、挨拶廻りできる余裕が全然ない、どうにかならないものか、といった話題。「初日のサークルと仲良くなれば、問題解決するよね」とか「コスプレして、コスプレ仲間作って、売り子していただくのはどうだろう」などと話す。足立真一さん、プロバイダ契約したそうなので、近日中にネット世界にいらっしゃるようになるらしい。ホームページ作成は、半年か一年さきの予定。
自分の部屋に戻り、(主郎PINKの)那智さんに電話する。明日の打ち合わせ。えらい話になっていて、「ぎゃっ」と私は悲鳴を上げる。困ったよお。
ディグさん来る。「ツインピークス」最終回見ることにする。見ている途中で私は眠ってしまった。



1月28日(木) バス停ではぐれる。

寝た。起きた。疲労回復していない。昼食を足立真一さんと食べる。足立さんとこに遊びに行く約束する。部屋に戻る。ディグさんが来てる。「ツインピークス」最終回持ってきてくださっている。しかし見る時間がないことを説明。
風呂を沸かす。風呂に入る。風呂から出て、三人して部屋を出る。金を持ってきてないことに気づき、二人にさきにバス停に向かってもらう。
金を持ち、バス停に向かう。ディグさんは行き先が違うので姿見えなくて当然だが、足立さんの姿が見えない。どこのバス停なのか指定し忘れてたこと気づく。バス停三ヶ所見る。いない。いったん部屋に戻る。留守電に足立さんからメッセージが。場所を指定してくださっていたので、そこと思われるところに行く。いない。もう一ヶ所へ移動。いない。乗る予定の行き先のバスが来る。足立さんはきっと先に行ったのだろうと、自分に都合のいい考えをし、バスに乗る。
「どのバス停から乗ろうが、行き先は一緒だ」などと思う。「これは他のことでも言えるな」などとも思う。「わしらはどのバス停から乗ろうかごちゃごちゃ言い合っているけど、とっとと乗ってしまうほうが大事なんじゃないかな」などと思う。行き先がはっきりしている場合はこれは間違っていないはずだ。ただ、人生という移動では、行き先がよくわかっていないので、移動中、不安になってバスやら電車やらを降りたくなるのだ。
電車に乗り継ぎ、バスに乗り、足立さんの家に着く。玄関を開ける。足立さんの靴がない。しまった私のほうが先に来てしまった。足立さん置いてきぼりにされて泣いてるかもしれない。玄関のチャイムを数回鳴らすが、人が出ない。本屋ででも時間潰すか。道すがら公衆電話があったので足立さんとこに電話する。足立さんの妹さんが出る。「はぐれちゃいまして」と事情説明する。足立さん家に入れていただく。足立さんの部屋で寝る。眠れないので本読む。足立さん来る。どこで行き違いになったか話し合うが、結局よくわからない。自分の部屋、留守電セットし忘れたこと気づく。
いつきこうすけさんと足立さんと、夕食を一緒にする。足立さんがいつきさんに嫉妬している、といったことを足立さんが言う。独楽を廻すとき、足立さんは何回も何回も試して、やっとこさ廻すことができるのに、いつきさんは「どれどれ」と言って、一発で廻してしまう、そういうところがある。と、足立さんが言う。いつきさんがそれに対して言う。「足立は、独楽が回っても、いや、この廻りかたではダメだ。理想のフォームで回せていない、と言って、いつまでも理想のフォームにこだわるトコがある」互いの特徴をよく示していると思う。
夕食代、足立さんに奢っていただく。私は寄生虫。



1月27日(水)

足立真一さん、ディグさん、曽さんのご協力により、やっと原稿、どうにかなりました。今回は編集さんにえらい迷惑かけました。尾城さん(担当編集者)、お疲れさまです。
曽さん、仕事に行く。ディグさん、自分の部屋に帰る。足立さん、寝る。
足立さんが眠っている間、誤って新品のインクを畳にこぼしてしまう。とほほ。この金欠の状況でインク一瓶の消失は大きい。久しく「夜郎自大日記」アップしていないので、日記書こうとするが、疲れて書けない。寝る。



1月26日(火) 電気仕掛け(エナジートロン)

あんまりしんどいので、エナジートロン(電気治療器)を敷きながら原稿する。体調、それなりに回復。というか、電気仕掛けで私は動いている状態。エナジートロンが切れると私も執筆が止まる。インクが古くなっているらしくて、線がイメージ通り引けない。インク新しいのはよ買いに行かねば。午前6時。

足立真一さん、多忙の中、手伝いに来てくださる。
考えてみると、毎回、足立さん、ディグさん、曽さんのお三方に手伝っていただいているが、三人とも私なんか比べものにならないほど絵の上手な方々。私は幸せ者です。
卓袱台(ちゃぶだい)を、曽さんがアシ先へ持っていったままだったので、中古品屋へ買いに行く。なぜか二軒閉まっている。しかたなく新品を購入。ついでに座布団購入。
作業中、私が電気仕掛けになっているので、ディグさんにうかつに接触してしまい、放電し、「ぎゃっ」とディグさんが悲鳴を上げること数回。風呂上がりに見ると、ディグさんの放電した箇所、赤くなっていたりする。ごめん、ディグさん。
仕事中、BGVとして「ウテナ」をかける。「どうです、面白いでしょう」「面白いですねー」よしよし二人ともハマってくださった。ウテナ布教活動は順調だ。ロリコンとウテナは相性がいい。ロリコンは薔薇の花嫁によお似ている。

・・・この文章、誰が見ても、既知外が書いているのでは、と思うでしょうなあ。なんだよ電気仕掛けって。



1月25日(月)

肝臓が疲れているらしい。編集さんごめんなさい。



1月24日(日)

20日の日記、歌詞、えらい記憶違いしていたことに気づく。恥ずかしいのでこっそり正確なものに書き直す。午前4時。

体調が悪かったのは、低気圧が近づいていたせいかもしれない。久しぶりの雨天。いざ低気圧の中に入って気圧が安定するとそこそこ体調回復する。俺って、爺臭え。午後3時。

曽さん、仕事から帰ってくる。また来週アシ行かなくちゃならないそうだ。
足立真一さんから電話。いつきこうすけさんの手伝いが終わったので、ということで、私の助っ人を申し出てくださる。ありがとう。
一部に、足立真一さんが私のアシスタントしている、という噂があるそうですが、足立真一先生のほうが私よりお金持ちです。足立さんは友情で私の手伝いしてくださっているんです。感謝感謝。



1月23日(土)

寝冷えしたらしく体調が悪い。
今日になってサンクリのチケットに気づいたりする。机の目の前に貼ってあったこと忘れてた。俺、アホか。午後6時。



1月22日(金) 棘のない薔薇はない

電話代払ったついでに長いこと滞納していた水道代払って、ほっとしてインターネット繋ごう思ったら、回線問屋さんに止められていること気づいて、回線問屋さんに払う。
ふと通帳の残額見ると、ビリビリと痺れるような残高。最近、残高見て痺れること実に多い。今月家賃払えませんわ。そりゃあこれだけ仕事しないでいたら金もなくて当然ですわ。財政の基礎体力いったん衰えると回復がむずかしいですね。「棘(とげ)のない薔薇はない」
アシの仕事でも探そうかしら。午前11時45分。

バナーというものをどうやって取り込んだらいいか、やっとわかる。わし、電脳世界に対して愛情がないなあ。リンク集、一部、文字からバナーへ改造。ちゃんと自分のweb表題とバナーくらい絵で作ろう。と思う。午後10時。



1月21日(木) お台場人質事件

気がつくと、電話が止められている。やー、電話通じないと、静かっちゃあ静かですが、不安で堪りませんね。同居人も今いないので、誰ともコミュニケーションとっていない。とっても不健康。不健康である理由の一つは自身への客観視が緩みぼやけるからだ。人と話をしないほど、夜郎自大は強化されてしまう。人混みの中で、誰に対してというわけでなく、一人でぶつぶつと、しかもわざわざ他者に聞こえるように大声でわけのわからないことを言っている、「痛い」人に、限りなく近づいていってしまう。

お台場で、16歳少年が、9歳少年を人質に「刑法の罰則強化」を主張した、というニュース。仮に彼の主張が通り、強化された法で、まず罰されるのは主張した彼自身だということへ、果たして彼に想像力があったかどうか。筋が通らない社会への憤りを彼の妄想世界にある「悪人への処罰」ということによって解消しようという、魔術的思考・魔術的行動。刑法強化とか、少年法強化とか、父権強化的心情は、一見威勢がいいが、この事件はそういうものの本質を象徴している。思想的には「人権」概念の希薄・不在。加害者の心理を勝手に想像すると、他者からの承認不足による敗北感をどうにかするための代償行動。そして選択した行為の短絡性。「痛い」人の痛い行動。
年齢を経る、ということは、粘り強くなる、ということだ。果実は簡単には手に入らない。「やる」ことは「やってしまえば」案外たやすいが、「やり続ける」ことは、存外しんどい。そのしんどさに耐えることが、たぶん、大事なことなのだと私は考えます。



1月20日(水) 百万本のバラ、新世紀のオタク、学問という題材

ウテナのビデオ見直してるうちに、気になって、花言葉を調べてみる。花言葉の資料のうまいのが見つからず、断片的情報しか入手できない。

薔薇には「気高き愛情」という意味がある。「薔薇の下(もと)」という語句には「秘密」という意味がある。「棘(とげ)のない薔薇はない」という慣用句は、「人生には必ず苦しみがある」、という意味がある。
以下、
赤い薔薇;「愛、恥ずかしげな、我が心汝のみ知る」 ピンクの薔薇;「私を射止めて、背徳」 濃紅の薔薇;「内気な恥じらい」 白薔薇;「私はあなたにふさわしい、(私はあなたを)尊敬(する)、忠誠」 黄色の薔薇;「愛の衰え、美」 赤と白の薔薇「結合、あたたかい心」 赤い蕾(つぼみ);「清らかに美しい」 白い蕾;「少女」

ウテナの劇中、暁夫がウテナにひなげしの花言葉を説明する描写がある。だが視聴者にその内容は告げられない。「調べてご覧」と制作者は語っているのだ。「調べてみれば、もっとなにか見えるよ」と。(残念ながら私はまだひなげしの花言葉を知らない) その後、サボテンの花が咲く描写がある。サボテンの花の花言葉は「秘められた情熱」

加藤登紀子が「百万本のバラ」という歌を唄っている。ロシア人による作曲、リトアニア人の作詞。この作詞家が、後に、ソ連崩壊リトアニア独立の際、広場を埋め尽くした革命市民のパレードの先頭を歩んでいたのを、加藤登紀子はテレビのニュースで観た。

歌は告げる。
貧しい絵描きが旅の女優に恋をした。絵描きはささやかな全ての財産をはたいて、百万本の薔薇を買う。彼女のために。女優に百万本の薔薇の花を捧げたい。この思いは伝わることがないことを、絵描きは知っている。それでも絵描きは女優の部屋から見える広場を薔薇で埋め尽くす。ある朝、彼女は窓の外が赤い薔薇でいっぱいであることに気づく。彼女はゾッとする。どこかの金持ちが、たちの悪いイタズラをしたのだと彼女は思った。絵描きは女優のその姿を、窓の下からこっそりと見ている。出会いはそれで終わり。女優は別の街へ。鮮やかで綺羅綺羅しい薔薇は女優の人生。絵描きは貧しく孤独な日々を送る。薔薇の思いでは彼の心の中で消えなかった。

リトアニアからのニュースを見て、加藤登紀子は思った。絵描きの赤い薔薇が意味するものは、独立のときリトアニアの広場を埋め尽くした自分(作詞家)たち(独立運動家)、市民革命の過程で(自分/リトアニア人の作詞家が)流す血なのかもしれない、と。なぜ詩の中で女優はゾッとしたのか。革命の過程でなされる行為は女優には残酷にしか見えないからだ。女優は絵描きが愛情を注ぎたいと願った対象だ。革命に置き換えるなら、革命者が愛情を注ぐ対象。そして革命者はその救済対象から恐怖される。
加藤登紀子は「紅の豚」のジーナ役をした。若かりし頃、加藤登紀子は、自分の家に、新左翼の過激派集団をかくまっていた経歴がある。

ウテナのテーマの一つは、「誰かを犠牲にするような正義」など正義ではない、ということだ。私たちはこのことをつい忘れがちになる。新左翼が敗北した理由の一つは、正義の名の下に他者に犠牲を強いるという、彼ら新左翼が理念として否定していた旧日本軍の犯した過ちを、彼ら自身繰り返したところにある。
奇跡を起こしたウテナは最終回で劇中の全てのひとから忘れられる。現実と同様に・・・奇跡をなした者は、忘れられる。それが日常なのだ。薔薇の花嫁でなくなる決意を抱いた者だけが、彼女を記憶する。これも、現実と同様に。
「創作」creationは、「天地創造」を意味する。「創作」を口にする者は、「天地創造」、神DIOSの行為をなそうとしている、神への挑戦DUELをする者としての戦慄を覚えるべきだ。

・・・花言葉調べているうちに、「パイナップルの花言葉」というのを発見する。「完璧」を意味するのだそうだ。え? パイナップルって、花が咲くの? 植物園で調べたとき、職員さんから「花は退化していて咲かない」と聞いていたのに。花言葉の本によると「南国らしい鮮やかな花が咲く」ですって? どういうこと? ああ。パイナップルは謎でいっぱいだ。午後7時。



足立真一さんと電話で話する。「新世紀のオタク」という着想について。
「新世紀のオタク」は、「普通を排し、普遍を希求する」これが特徴だ。「普遍」とは、どのような場所、どのようなときでも通用しうるものを言う。「旧世紀のオタク」にまとわりつく病、「仲間内だけの」という閉鎖性・閉塞性の打破を、それは希求する。
かつて、80年代、「オタク」というジャンルは、小さかった。小さいが故に、「わかる人にだけわかる」というかたちの仲間意識・冗談の共有があった。しかし今は、「オタク」的なものは際限なく一般化している。オタクは一般化していないからこそオタクだった。そこで私たちオタクには、新しきこの状況への態度の選択が迫られている。かつての「オタク」的環境の維持を目的とするか、その閉塞した殻をうち破りオタクとしての自覚を持ちつつ卵の殻を破壊し外へ羽ばたこうとするか。
「卵の殻(オタクであることの閉塞)を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく(オタクは「普遍」との関わりを持たないまま、幻想/妄想「鳳学園」の中で生き腐れる)。卵は世界(オタクが思いこんでいるオタク的世界の限界「世界の果て」)だ。雛鳥は我らだ。世界の殻を破壊せよ。世界(生き方)を革命するために」
普遍を前にして、それを忘れるか(「旧世紀のオタク」の生き方)、それに挑む(「新世紀のオタク」の生き方)か。
「新世紀」という語は、「新世紀エヴァンゲリオン」の「新世紀」でもある。庵野は、「新世紀のオタク」に霊感を与えた、「旧世紀のオタク」の代表だ。エヴァがその存在をもって(作者自身気づけなかった)提示した課題を、「旧世紀のオタク」が超えられなかったものを、超えようとした者・・・幾原監督、東浩紀などがその代表・・・が、「新世紀のオタク」なのだ。足立真一さんや砂さんも「新世紀のオタク」の列に加えさせていただきたい。
エロアニパロ(「旧世紀的)が司法に裁かれたこと、伊藤剛氏が司法という手段を用いて(新世紀的)、唐沢俊一氏のオタク的手法の問題(旧世紀的)を明確化する試みをすること、これらは旧世紀的手法の限界を明確化するように思う。
「旧世紀のオタク」の価値観ではそれは「シャレがわからない」ことになる。だが、冗談は冗談の共有される空間があった上で機能する。「旧世紀のオタク」の信じるかたちの「冗談の共有されるオタク世界」は既に膨張しすぎているため、「旧世紀のオタク」の信じるかたちでは、存在しない。オタク的殻という特化によってはオタクは守られない。オタク的殻のないステージで私たちはオタクを続けるしか道はない。
そして「新世紀のオタク」には、なろうとすれば誰でも「なろうとすること」はできる。



NHK「人間大学」で猫の生態を放送。私、「ハイエナは夜嗤う」という漫画で、猫科では唯一ライオンが群を作る、と書いてしまったが、チータも群で生活するそうです。動物学的に間違いをしてしまった。
てゆーか、私の描いているもの、学問的間違いは随所にあります。可能な限り誤りは減らすべく努めてますが、動物学については素人なので学問的誤りは無自覚に侵している可能性、多いです。
自覚的ホラも多いです。ホラがなければ漫画ではないからです。また学問(動物行動学、心理学、哲学など)自体が目的なわけではない。したがってその意味。漫画を学問的に信用されると困ります。学問を漫画の中で使用するのは、あくまで素材のひとつとして使用しているんです。機能としては、私の漫画にとって「学問」は、「巨大ロボットもの」での「SF考証」、「エロマンガ」にとっての「絵のデッサン力」とほぼ等しい。あっているにこしたことはないが、要は読者に対し説得力を持たせるため道具のひとつなのだ。
動物行動学者に言わせると、動物を用いた寓話は動物への偏見を助長し、百害あって一利ないそうな。私は「新世紀のオタク」を志向するので、その批判を受け止めつつ、敢えて動物行動学を素材にしてエロマンガ描きますが。

ちなみに、手塚治虫は「ブラック・ジャック」連載中、東大医学部から医学的間違いを指摘され、「そんなでたらめ描くなら漫画なんか辞めちまえ」と言われたそうです。「火の鳥」連載中は「この時代の権力形態からみてこの漫画は間違っている」と手塚は非難されました。ちなみに「やけっぱちのマリア」連載中は「子供に悪影響与える有害漫画」と非難されたそうです。
そんな手塚治虫も、死後は神様。・・・存命中から神格化されてましたけど。信者は「オタク」で、一般人にとって似た存在になった。「オタク」的なものは一般化しつつある。

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