カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

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1999年12月14日から25日

2012年03月27日 01時25分40秒 | Weblog
 12月25日(土)(鎌やんは音楽に関して無知なので、表記などに誤りがあったらご指摘下さい)

 12月14日の日記書いていて、小山田圭吾を宮台真司氏が「天然系」と呼んだのを疑問に感じたので、小山田圭吾について、ディグさんに訊いてみる。
 ディグさんの評では、小沢健二と小山田圭吾を分けるのがある意味おかしい、この二人は同じカテゴリーの二つの現れにすぎない、とのこと。ふんふん、と、私はディグさんから訊き続ける。ディグさんが言うには、小沢健二も小山田圭吾も二人ともある意味オタク的だ。比べると、小沢健二は自分がカッコつけているということに正直で、小山田圭吾は寡黙で自分が悪趣味なことに正直だ。ともにサンプリングの音楽をしているが、それはアイデンティティのなさに自覚的だからだ、とのこと。
 ヒップホップは盗作自体をアイデンティティにしている、ともディグさんは言う。ふんふん、と、私はメモをとる。

 リミックスとポップについてのディグさんの意見が面白かったので、以下は、そのメモ。

 アート・リンゼイARTO LINDSAY、ヤン・ガルバレク、ビョークBJOKE、アストル・ピアソラなどをディグさんは好んでいるが、彼らには共通点がある。
 彼らは現代に生きている。現代に生きている者は風土的なものをあまり持たない。成長過程で音楽の教養とか、さまざまなものを得ていく。その、過程で得たものが、彼らのアイデンティティとなる。出自とかにはこだわらない。共同体主義ではなく個人主義だ。だが、振り返ると、個人史の制約を受けていることに、彼らは気づく。ピアソラはアルゼンチンで幼少期過ごしていた。ビョークはアイスランド出身、ヤン・ガルバレクは北欧出身、アート・リンゼイはブラジル出身。自分が個人史の中で得てきたものを、彼らはコラージュし、自分の文化的背景を軸とする。ジャズであるかポップであるかという選択した文化(音楽スタイル)と、無意識に影響を被った選択不可能だった文化(個人史、出自)を謙虚に彼らは見つめ、融合したかたちに彼らはしている。
 まっさらなオリジナリティは、人間である限りありえない。ピアソラはクラシックを勉強し尽くし、これでまっさらな音楽を作れる、と思ったが、アルゼンチンタンゴへ回帰した。まっさらなオリジナリティはありえないのだということを、受け入れ、自分の素地として利用する道を彼らは選んだ。

 リミックスは自分の選択してきた文化をコラージュできる。リミックス登場以前は、自分の受けた影響を咀嚼しているという思い込みでオリジナルを自称し、あるいは、影響を隠すことでオリジナルを自称した。リミックスは、そのことを、オリジナルはないということ、影響を逃れてないということを、あからさまにした。リミックスの面白さは、大量生産された音を解体再利用する面白さだ。
 リミックスは黒人文化から生まれた。踊るという目的に合わせ音楽の機能を追求した。3分ほどしかない曲を、より長く踊れるように、と、組み合わせ、その作業過程で色づけがはじまった。リミックスとサンプリングが交じり合い、ヒップホップが生まれた。
 オリジナルを自称するものは、誰かから必ず影響を受けている。そのことを自覚的に行なうのが、サンプリングだ。

 ビョークやアート・リンゼイは方法論(音楽スタイル)としてポップのかたちでまとめている。大衆性をもたらしている。ポップこそは普遍性を持つ、という信仰が、この二人にはある。
 ヤン・ガルバレクやアストル・ピアソラは、それに比べ、学問的(高踏的)なところをおとしどころとしている。

 ポップとは何か? より大衆的なもの、としか言いようがない。だが大衆的でかつポップでないものはある。ポップはスタイルである。大量生産的、扇情的、原色的。
 ポップとポップスの違い。ポップスは大衆的、という本来の意味ではポップ。小山田圭吾やDOOPEESはスタイルとしてポップだが大衆的ではない。ポップのスタイルは真に大衆性を獲得しようとしているわけではない。ポップは大衆が良しとしているものを拡大し、固定している。それのみを凝縮すると、扇情的部分の意識的拡大となり、むしろグロテスクとなる。(『未来世紀ブラジル』の宣伝ポスターなど)
 「パラッパラッパー」の絵はポップの悪趣味なところを可愛らしいセンスで安心できる物に変えている(ポップの高踏化から大衆化へ)

 音楽ジャンルとしてのポップは黒人音楽(ジャズ、ブルースなど)がルーツ。黒人音楽の発展型の一つだ。ロックもまた黒人音楽の発展型だ。ロックは、ジミ・ヘンドリックスという黒人の天才が一人で完成させた。
 ポップは大量生産的なものなので、ジミ・ヘンドリックスに相当する天才はいない。ビートルズ、プレスリー、マイケル・ジャクソンが、ある意味ポップにおける天才たちだ。音楽としてのポップを追求すると、中身があたりまえなものになってしまう。逆に、どんな音楽を作ろうとも大衆性を帯びた者が、ポップの天才と言える。

 漫画・アニメはポップ文化から生まれてきた。ポップはそれ自体追及すると、閉塞し深みがなくなってしまう。グレーゾーンを攻めることで、ポップには深みが生まれる。(例外的にデザイナーズ・リパブリックのようにポップと心中しようとする凄いのもある)テクノはポップを自覚的に行なうスタイルだ。ポップはスタイルを追求する。そのため、スタイルに囚われがちになる。スタイルに囚われると、要素を削っていく発展となり、豊かさがなくなり、痩せていく。デザイナーズ・リパブリックの凄いところは、新しいスタイルをどんどん作っているところだ。絶望のしなさかげんが凄い。テクノは、今は、成長期を過ぎ、爛熟期に入っている。

 以上、ディグさんから聞いた話のメモ。そのあと、松本人志は、「寒さ」の面白さ、ギャグが滑るその滑稽さをメタレベルで楽しむという視点を視聴者に与えた、という話、松本人志以降の芸人はむしろ回帰し「芸」で笑わせている、だがネプチューンは「芸」と同時に松本人志の開発したメタレベルの笑いも踏襲している、という話など、ディグさんから伺う。

 ディグさんと別れたあと、コミケ用のチラシコピーする。

 12月24日(金)

 寝て過ごす。

 12月22日(水)、12月23日(木)

 昼まで寝坊してしまう。宮路兼幸さんからの電話で目覚め、アシスタントに向かう。宮路さんの仕事場は禁煙なので、煙草吸うとき、玄関に出る。一緒にアシスタントしていた仲間を、繰り返し数回間間に鍵かけて締め出してしまう。21日に、締め出されたことを無意識に復讐してしまったようだ。
 明け方になると凍えそうになる。暖房に難があるのではなく、私の身体のほうの問題らしい。低血圧のようだ。父が低血圧に中年期さんざん苦しんだが、私もそうなってしまったか。自律神経失調、低血圧。おっさんの病気になってしまった。
 23日の明け方、また身体が冷えるので、ヒンズースクワットして身体温める。血は巡るようになるが、繰り返しすると身体が疲れバテるという基本的なことを失念していた。23日夜、原稿あがり、帰宅する。

 12月21日(火)

 明け方まで宮路兼幸さんのアシする。明け方、ひどく身体が冷え、仕事の能率がくんと落ちる。途中で抜けさせてもらい、宮台真司氏の授業受けに行く。アシしている間風呂にも入ってなかったし、自分の部屋に戻る時間もなかったので、かなりむさい恰好で行く。駅前でノートを買う。都立大の購買部でウォルフレンの『怒れ! 日本の中産階級』(毎日新聞社)購入。歯ブラシを買い、トイレで歯を磨く。

 教養社会学 

 現代的宗教は、行為系(オマジナイ系)と、体験系(ここはどこ? 私は誰?)に分れる。体験系は、世紀末的覚悟系と、人格改造的修養系(脳内革命的)に分れる。
 世紀末的覚悟系では、世界の運命は既に決まっている。
 人格改造的修養系は、脳内革命的である。自らの境地を汲みかえるのを目的とする。
 個人のタイプにより、以上3つのうちどの宗教性に惹かれるか決まってくる。

 現代的宗教は、個別の出来事を個人が無害化するわけだが、なぜ現代になって枠組ではなく個別の出来事が重要になったのか。
 現代社会はさまざまなオーガニゼーション、テクノロジーによって作られている。過去の時代は人の流動性が低かったが、現代社会は人の流動性が高い。そのために不透明である。ブラックボックスが増大した。その意味、原初的状態に似てきている。

 かつて、科学は、「神の御技を証明するために」という動機を持っていた。現代はそういう動機を持たない。
 だが、最も先端な(イニシアルな)科学者は、宗教的性格(メンタリティ)を持つ。ラジカル(根源的)なところに遡るほど「なぜこの法則であり、別な法則ではないのか」という宗教的課題に直面するからだ。
 その意味、科学の発達と宗教は不可分であり、宗教的情熱がなければ近代化はできない。

 日本人の多くに社会的動機づけはない。日本史上、近代天皇制の一時期以外は社会的動機づけを持っていない。

 近代化のベースには「パブリック」という概念がある。パブリックはキリスト教メカニズムから生まれたものだ。

 日本が近代化できたのは、近代天皇制があったからだ。天皇制は、密教・顕教的に使い分けられた。上から「天皇を中心とした、村村よりもっと大きな共同体」という枠で押さえることによって、ローカルな共同体を越える動機づけを獲得した。

 天皇制は、奈良・飛鳥時代、仏教伝来によって変わった。
 天皇制は、元来、「姉がシャーマンであり、弟が政治を行なう」ヒメヒコ制、「兄が放浪し、妹が政治を行なう」生き神制を元としている。聖俗分離のシステムで聖にあたる部分を担当していたのが天皇だった。聖と俗は、横の関係だった。

 仏教には、ヒンズー教の階層思想が含まれている。
 飛鳥・奈良時代以前の日本社会はセグメンタル(環節的)だった。大小の部族が横に並び、部族集団ごと内部にヒメヒコ、生き神を持っていた。部族集団ごと内部に聖俗が横並びに存在した。
 飛鳥・奈良時代以降、仏教思想を元として、階層化が行なわれた。天皇を頂点とするピラミッドが作られた。「聖」は頂点である天皇と、底辺の不浄である娼婦などに分れた。娼婦はそれ以前は聖に属する者だった。頂点である天皇は政治的実験を握らない。
 保田与重郎が「なぜ天皇家の壁は低いのか」「なぜ万世一系なのか」という問題を立てたことがある。
 社会学的には、なぜ権力者は自分が天皇になろうとしないか、という問題となる。答えは、権力者にとってそのほうが都合がいいから、だ。自分がどんなに不浄なことをしようと、天皇に認められている、ということで聖化される。
 「なぜ俺だけが?」という端的な事実性が天皇によって聖化される。
 戦後も天皇にあたるポジションはアメリカに変わったりしながら、この天皇の役割は続いている。

 オウム教団や高橋代表のような、カルトのグル(導師)の問題。
 宗教には、副産物として、地位代替機能がある。現実社会の中で低い地位に苦しむ人が、宗教世界でのステータスアップで、上昇志向を満足させる。
 戦前は、貧困層が見えていた。70年代後半から貧困は目に見えなくなった。物が豊かになった。階層を前提とした上昇志向に意味がなくなってくる。階層は惰性的に続きはするが。
 「承認の供給不足」が問題となる。グルは「父親的承認」を与える存在だ。人々はグルに帰依する。
 「オウム叩きは日本のバカ騒ぎ」だと、ニューズウィークは言っている。オウムへ入信する者は、オウムが叩かれるほどオウムへ魅力を覚える。参入の動機づけになる。オウムへオルタナティブを見るから。

 社会学の目的

 「社会」とは非自然的総体を言う。「隠された前提」が、社会である。
 社会学は、「近代とはなんであったか」の説明を目標としていた。「なぜ特定の国だけが近代化できたのか」。初めは、宗教に注目した。宗教分析から、社会学は始まった。

 人格類型論

 自己啓発セミナー、自己改造セミナーのルーツはアメリカにある。ベトナム戦争帰還兵が日常モードへ戻れないことが社会問題化した。アメリカではゲシュタルト療法など国家的に色々試された。自己啓発セミナーはその一つ。もともと、エグゼクティブ・官僚向けに短絡化(ショートカット)されたシステム。80年代初めハイブロウ向けに日本で流行した。宮台氏は複数回参加し、観察した。
 記憶は合理化される。記憶は捏造されている。自己改造セミナーのセッションにより、自分に強い影響を与えたであろう記憶を再現すると、「記憶だと思っている」こと・「思い出してしまうと自分は傷つくだろう」と予期していたことと、記憶との落差に気づき驚く。
 再現した記憶が「本当の記憶」なのかどうかは、誰にも判らない。
 精神分析では、19世紀から(同様のことが)なされている。本当は家族の中で何があったのか。記憶の枠変えなど。
 「客観的に家族問題があったかどうかは判らない」と、フロイトは言っている。

 自己改造セミナーの優秀なトレーナーは、3分で人を洗脳できる。他者の心の鍵をどう開けるかどう閉じるかは、テクニックとして確立されている。人間の心はオートマチックに機械的に反応する。
 「これをすると自分は傷つくのではないか」というフレーム枠組と、実際にやってみて傷つくことは、別。実際にやってみると別に傷つかない。ナンパや営業など。「ナンパして失敗したら、自分は傷つくのではないか」と考える枠組は、そう考えることが思考者にとって都合がいいということにすぎない。

 自分が、ある行為に踏み出せるかどうかは、自己イメージ・セルフイメージによる。それに従い行為がなされる。行為には偶然性偶発性が伴う。前近代的共同体では、行為による結果は決まっていた。「お定まり」の結果が得られた。近代では人それぞれの反応が返ってくるので、偶発性が高くなる。行為によって得られる体験によって、セルフイメージは強化、あるいは変化する。セルフイメージはこのように循環する。

 体験によって生じる期待外れを処理する方法には、15年前に宮台氏が統計したところでは、五種類ある。(参照;『サブカルチャー神話解体』パルコ出版)名称は消費者類型に当てた仮称であり、学問的なものではない。

 ミーハー;個別に適切な期待水準を設定する。青山立教系。
 バンカラ;期待水準を高く設定し、期待外れに対しては批判をもって処理する。東大女子に多い。
 ニヒリスト;期待水準を低く設定し、期待外れを回避する。早大系。
 ネクラ;ニヒリストの模倣によって期待外れを回避する。期待外れの生じる領域、対人領域から退却する。
 よりかかり;ミーハーの模倣によって期待外れを回避する。

 80年代半ば、「新人類」「オタク」という言葉が生まれる。
 何をもって「オタク」とするかはまた別な問題になるが、ひとりでcommitment(傾倒)する遊びに嵌る度合いが高い者を、ここでは「オタク」とする。「オタク」はこの五分類では、「ニヒリスト」と「ネクラ」がそれである。「ニヒリスト」はオタクリーダーであり、「ネクラ」はオタクフォローアーである。
 「新人類」はこの五分類では「ミーハー」と「よりかかり」である。「ミーハー」は高感度消費者、新人類リーダーである。「よりかかり」は新人類フォローアーである。
 「バンカラ」は情報的には鈍感である。

 「ミーハー」「バンカラ」「ニヒリスト」は、自己イメージが高い。「ネクラ」「よりかかり」は自己イメージが低い。自己イメージが低いから模倣という行動になる。
 社会的なもの、社会問題・政治問題へ関心が高いのは、自己イメージの高い人間である。社会的なものへの関心が低いのは、自己イメージの低い人間である。

 80年代は分類の時代だった。一概に「若者は」とは言えなくなったので、分類し若者分布を見ることにより、分類に頷きあうことによって共通の地平を確認しようとした。
 90年代に至り、どのタイプがどういう情報に接するかの偶然の度合いが大きくなり、分布はいっそう不透明になった。

 現在40歳代のライターが多い。10年前は30歳代のライターが多かった。40歳代のライターが色々書いているのは、生物学的なニッチ(生態の場所)を求めてそれを得ている。

 以上、メモ。ちなみにこの五分類では、「ミーハー」は『別冊マーガレット』読者、「ニヒリスト」は『花とゆめ』読者になる。

(まだ続くが、とり急ぎここまでアップ)

 12月19日(日)~12月20日(月)

 宮路兼幸さんのアシする。

 12月18日(土)

 忘年会。豊川稲理さん、黒崎まいりさん、こけっこ・こまさん、ほしのふうたご夫妻と、呑んでカラオケする。
 そのあと、コミケに荷物発送。

 12月15日(水)~12月17日(金)

 無為に過ごす。17日、宮路兼幸さんから電話。アシの依頼。承諾する。

 12月14日(火)

 出掛けに、ノート見つからず。読んでいる途中の本、見つからず。都立大へ。以下、教養社会学のメモ。

 教養社会学
 (ところでこの回は音楽の話だったが、鎌やんは音楽に無知なので表記の間違いがあると思う。気づいたらご指摘下さい)

 大晦日、紅白歌合戦の時間帯に、TBSラジオで宮台真司氏と宮崎哲弥氏が99年の音楽状況を語るそうな。「自意識」というキーワードで今年の音楽シーンを見よう、という試み。
 音楽素材は60年代に出尽くしている。76年、77年、パンクロックが登場した。宮台氏は60年代プログレロックのファン。ハードロックのディープパープルなどは、その当初は、プログレバンド扱いされていた。プログレバンドはサイケデリックロックとも呼ばれ、ドアーズ、ピンクフロイドがルーツ、キングクリムゾンが代表。
 宮台真司氏は、中学時代、実験的ロック、プログレロックにはまっていた。ビートルズなどは相当実験的な音作りを試みていたが、それは商品化されなかった。その音を聞いていたプロデューサーらにより、プログレはジャンルとして生まれた。パンクはプログレの実験の一部を拡大したものだ。
 記憶・アーカイブarchiveを持っている人は、良心的な音作りをする(例;渋谷系、宇多田ヒカル)。記憶を持たない人は、自意識系(「私って可愛い、ぎゅうっ」ナルシシズムの無自覚な表明)となる(例;ゆず、かぐや姫)
 アーカイヴarchive(記録・公文)を知っていることは幸せなのか不幸なのか、という問題はある。調声音楽のバリエーションには数学的限界がある。1980年代以降、音楽はDJ的な、サンプリング、カットアップなどを重視するようになり、オリジナル信仰がなくなってきた。かつては日本の音楽はダサダサだったが、現在は音楽素材は良くなった。

 サブカルとしての音楽は、以下の変遷をしている。(参照『サブカルチャー神話解体』パルコ出版)
 60年代;演歌、歌謡曲…産業音楽(阿久悠、筒美京平など)
 70年代;四畳半フォーク…自己主張の始まり
 73年;荒井由美登場…ニューミュージックの発明(四畳半フォークのかっこ悪さを克服、洗練)
 70年代後半;ニューミュージックブーム…(アリスなど。深夜放送などを通じ、分かり合い共同体形成)
 ベタな分かり合い共同体(相互ナルシシズム)に対し、3つの反発が発生する。

 �ポップス系…大瀧詠一(音頭、『ロングバケーション』)、細野晴臣(クラフトワークのパロディ);豊富なアーカイヴ。「判るやつには判る」諧謔。洒落として始まるが、オシャレとして世に受け入れられる。
 �東京ロッカー、めんたいロック…ニューミュージックを「奴ら」と呼び、「死んでいる」と呼んだ。インディペンデントロック。この流れにチェッカーズなどがある。後、ニューミュージックもロックもともに産業音楽に取りこまれ、「奴ら」という差異概念が絵空事になっていく。
 �歌謡曲マニア…プログレマニアによって『よいこの歌謡曲』など裏読みの歌謡曲雑誌が作られる。プログレマニアはオルタナティブalternative(他に採りうる道)への憧れを持つ。70年代「ここではないどこか(への憧れ)」が屈折する。近田春夫が「歌謡曲は奥深い」と発言。歌謡曲の向こうに「ここではないどこか」を見る(諧謔)。歌謡曲マニアは後、VOW的なものへ短絡化する。

 ���とも、後、登場したオリジン(登場意図)は忘却され、ベタな短絡となる。

 90年代のZARD、B`Zでは、ミュージシャンの人称が隠される。商品はタイアップされ、音は消費者に刷込まれて行く。音素材自体は良質な物。
 自己主張はここにはない。プロデューサーの存在に光があたる。
 現在の人気ミュージシャンのプロデューサーは、宮台氏と同年代。洋楽アーカイヴの知識をよく知っている。80年代イギリス音楽でのプロデューサーの力を見て知っている。

 90年代の音楽は、宮台真司氏の分類では、下の2項に分れる。
 【1】ベタな自意識系(「ボクって可愛い」。小沢健二など)
 【2】アーカイヴをよく知りアーカイヴと戯れる天然系(小山田圭吾など)音はタフさを演出しているが、このタフさは幻想のタフさ、「悪っぽそうな奴」というところが限界のタフさである。(ところで、「天然系」という呼称は適切ではないのではないか、と、鎌やんは思う。これについては後日の日記で。宮台氏のつける名称は、自称と他称が未整理で、当人的には整理してあっても他者がそれを用いるときむしろ誤解と混乱を招くと思う) 
 「悪っぽそうな奴」という演出、90年代の文化はストリート的なものへの劣等感が大きく占めている。宮台氏が『野獣系でいこう!』と書名をつけたのも、このストリートコンプレックスを視野に入れてのことだ。
 前回の講義の「体験系」(修養系)の人々は、自意識系から天然系へ向かうベクトルに存在する。
 アメリカのR&B・ヒップホップは社会階層を背景としたタフネスさがある。日本にはこういうタフネスさがない。
 日本でも、60歳になっても聞けるかっこいい音楽を作ろう、という動きが近頃出ている。

 さて、宗教の講義。(参照;『制服少女たちの選択』講談社)

 宗教は4つに分類される。
 共同体が個別の出来事を「儀式」で馴致する、原始的宗教。(神道など) 
 共同体が枠組により「戒律」で馴致する、古代的宗教。(ユダヤ教、奈良仏教など)
 個人が枠組により「信仰」で馴致する、中世的宗教。(キリスト教、鎌倉仏教など)
 個人が個別の出来事を馴致する現代的宗教。

 現代的宗教は、2つの志向を持つ。
 個別的無害化戦略…現世的御利益祈願。個人を襲う個別の出来事を個別的に無害化する。観察者から見ると現実と虚構の区別がメチャメチャに見えるので「浮遊系」と宮台氏は名づけた。また宮台氏は「行為系」とも呼んでいる。
 縮約的無害化戦略:個別にではなく一気に無害化を図る。宮台氏は「体験系」と呼んでいる。これには2つの方法がある。
  【a】世界における包括…終末論的、覚悟系。運命、宿命、前世からの任務が私にはある、とする。世界・運命は既に与えられていて、私には極小の自由しかないのだ、とする。(ちなみに鎌やんの志向はここに分類されると思う)
  【b】自己における包括…人格改造的、修養系。脳内革命。自分のものの見方さえ変えれば世界は変わる、とする。自分に足りないのは自分の修行、境地だ、とする。(おそらく宮台氏の志向はここに分類されるのではないかと鎌やんは思う)
 現代的宗教教団は、浮遊系・覚悟系・修養系の3つの要素を必ず持つ。

 音楽の話題と、宗教の話を鎌やんなりに総括。
1;誰もが自意識に悩んでいる。
2;ベタな自意識を出したら恥ずかしい。
3;だが上手いやり方・屈折したやり方を用いて表現というものはできる。

 

 以上、メモ。
 授業のあと、宮台氏に時間とっていただき、つきあっていただく。聴衆学生の反応が鈍く、かつ反応が年々鈍くなることもあって、
 「だんだんやる気がなくなるんだよね」と宮台氏が言う。
 宮台氏の青春期の音楽環境を宮台氏より20歳も若い聴衆に共感求めることが間違いでしょうと思うが、うまく言葉にならなかったのでそうは宮台氏に応えず、
 「僕も音楽の話は全く判りませんので」と宮台氏に言う。
 「でもその代わり得意なジャンルがあるでしょう」と宮台氏。
 そうかな? と自分を省みる。マニアとかオタクとかいう分類が宮台氏と私とでは定義が違うでせう、と思うが、うまく言葉にならなかったので、応えず。
 「もう新しいもの生まれないような気がするんだよね」と宮台氏が言う。
 ある意味において新しいものなんて何世紀も前から存在しないし、ある意味において新しいものは常に刻々と生まれているし、たとえば60年代70年代に文化的に新しい物が生まれたのだとしたら、その時期は政治的には50年代に比べ安定したからでしょう、混乱期と安定期の狭間には安定のための激動期があって、宮台氏の言う「新しいもの」はその時期の産物で、そう遠くないうち日本は政治的激動期がまた来るだろうから、それが安定した頃に文化的な副産物生まれるのじゃないかな、といったことが頭の中駆け巡るが、言葉にならなかったので
 「そうですか」と応える。
 「マンガ描く動機がうまくいかなくて、その辺で宮台さんのご助言いただけたらと思いまして」と述べる。
 今日の授業の、音楽分類は『サブカルチャー神話解体』の内容と重なっていたと思うので、その書名を挙げて
 「あれは面白かったです」と言う。『サブカルチャー神話解体』では人間のタイプを五分類していて、なかなか面白い。
 ところで宮台氏は世代と地域から私を測ろうとされた。私の主観では私のいた文化環境は同年代のそれではなく明治大正期的だし、地域自体辺縁部のうえ、地域共同体とは全く交流がなく地域共同体からぶっつり切り離された家だったので、そういう分類で把握できる部分と取り零す部分と比較すると、むしろ取り零すところのほうが多いと思ったので、その説明をしようとした。私がそういう主観であることが、宮台氏から見ると、唾棄すべき「自意識系」に見えたらしい。ATフィールド張られる。
 女子学生さんが通りかかる。宮台氏が声をかけ、女子学生さん交えての話になる。東浩紀さんの『郵便的不安たち』を女子学生さんは抱えていた。
 「この頃の学生はサブカルチャーを知らないし興味もないんだよね」と宮台氏。
 「サブカルチャーがかっこいい時代なんてあったんですか?」と、ややすっとぼけて訊いてみる。この質問はもっと限定化しないとうまく伝わらないだろう。
 「あったよお」君は今更何を言っているんだ、情けないなあ、という風に宮台氏。やはり伝わらない。全てのサブカル(マンガアニメジャンル含む)は断片化しているのでサブカルに参加しているということでもって話が通じるということを期待するのは無理ですよ、ということを宮台氏に伝えようとするが、うまく伝わらない。

 宮台氏が私を無視して研究室へ向かったので、あれあれ、私が『美しき少年の理由なき自殺』の少年だったらこれが理由で自殺しちゃうよ、と思う。しかしながら宮台氏と私では感性のレベルでは共感できない部分のほうが多いのだから仕方ないかと思う。

 食事する。みいちゃんに電話する。
 いくつか今日の授業などに対して思うところがあったので書きとめてみる。

 ものごとが表に現れやすい時代と現れにくい時代がある。60年代70年代は文化的側面では動きが表に現れやすかった。1945年から10年以上続いた政治的経済的な激動が一旦安定したから、文化的な変化が表に現れたのだと思う。
 「世代」という枠が有効だったのは70年代までだと思う。思春期に得た世界観がその人間の一生を支配する。40年代50年代は政治的激変期だった。敗戦直後は、アメリカの政治家の発言に日本の商店街のおじさんおばさんが神経を尖らせていた。アメリカの政治家のつまらない発言によって、日本人の生活は大嵐が吹き荒れたからだ。思春期にそれが現実だと感じた者と、そういう経験を持たない者との間では、世界へのイメージが異なる。戦争を現実として経験している者と経験していない者との間でも当然世界イメージが異なる。ほんの数年の誕生年の違いにより、共通する世界イメージが異なり、同世代ではごく当然なことが、自分より年齢を経ている者には全く通じない、という経験を、1940年代生まれあたりでは繰り返し感じていたと思う。世代に共通する経験のほうが、地域共同体の共通項より多かったため、「世代」論が意味を持った。
  が、70年代以降政治は安定した。それ以降、思春期前期までに得る世界観は「世代」では別段違わない。個々の違いのほうがむしろ大きい。そしてその世代が見るのは、60年代の夢の残骸だ。
 …ところで。横に連想する。たとえば、戦前のサブカルチャー、世界のサブカルチャー運動というのはどんなんだったのだろう。
 日本がある程度文化的に安定し爛熟できるようになったので、ようやく世界のサブカルチャーに影響を与え得るようになったのではないだろうか。発信力あるまでに洗練された文化は、政治的安定がなくては育たないようにも思う。
 …ところでサブカルチャーの定義とはなんだろう? メインカルチャーは何を指すのだろう。カウンターカルチャーとサブカルチャーの関係は? それは同じものか?
 政治的激動が精神の荒廃を招くとアンチカルチャー(反文化、文化否定)という現象が起きる。文化大革命やポルポトはアンチカルチャーだった。文化的には不毛だ。サブカルの原動力の一つにはアンチカルチャーへの衝動がおそらくある。サブカルが「かっこ悪い」のは、サブカルに内包されるアンチカルチャー的側面、不毛性にあるのだろうと思う。
 ハイカルチャーと大衆とを、サブカルは繋ぎ得るだろうか、と、思う。それともサブカルは、ハイカルチャーと大衆との障壁となっているのだろうか。おそらく両方の側面をサブカルは持つ。サブカルとハイカルチャーを繋ぐラインは常にアンチカルチャー(よりサブカルとして純粋であろうとする、文化的ラッダイト運動化する)によって絶ち切られようとする。
 アンチカルチャーはそれ自体精神の荒廃の現れであり、精神荒廃を再生産する。荒廃した精神世界を一時的にごまかすため、現在のサブカルはおそらく機能している。
 …別な連想。60年代70年代をリアルタイムで過ごした世代に共通した性格的弱点があるんじゃないのかな、と思う。そこに良質なものがあったとしても、宣伝者はその文化にベタに尊厳を預けた人々であるから、むしろ逆宣伝となるのでは。またその世代はそれ以前の文化遺産を否定することを由とした。日本人は(「教育」には熱心なくせに)文化の伝承には無頓着だ。結果、次世代には良質なところが伝わらない。
 連想する。ジョージ・オーウェルのルポを読むと、1930年代イギリスでは、社会主義思想は素晴らしいものなのかもしれないが、社会主義者はどいつもこいつも最低で、社会主義者こそ社会主義の逆宣伝をしている、とあったが、同じだなあ、と、思う。オーウェルが『鯨の腹の中』と述べた問題は、現代的問題だよな、と、思う。
 60年代何かが変わった、何かが生まれた、ということ自体、巨視的に見ると一種の幻想なのでは、と、思う。別な時代の産物の再生産だろうし。60年代にあった世界変化への過剰な期待感とそれに続く脱力感は一部の人々にとってトラウマとなっている。
 未来への憧れ、というものを人類が持ったのはごく限られた時期で、人は理想を過去の時代に投影するのがむしろ一般的だった。

 宮台ゼミ

 『私たちは大人少女』(青樹社)。発表者は五十嵐氏。
 『オリーブ』読者、少女性を持ったまま歳を経た女性が自己肯定する本。
 「大人少女」の仮想敵は『JJ』『Can Can』読者(いかにオイシイ男をゲットするか、を研究)、上昇志向の塊で『アエラ』依存症のキャリアウーマン(週刊プレイボーイライター山崎浩一氏が「アエラー」と命名)
 しかしながら、筆者が仮想敵としている『JJ』『Can Can』読者は、巨視的には筆者の肯定する『オリーブ』読者と似たようなものではないだろうか。似たようなもので、少し違うから、対抗心や敵対心が芽生えるのであって、理解不能な者は視野にすら入らないのだろう。
 『オリーブ』読者と『ビックリハウス』読者は重なる。『ビックリハウス』は「帰宅部の部活」と呼ばれた投稿誌。糸井重里、いとうせいこうなどパルコ系文化人が一時期集結していた。
 『オリーブ』読者と(92年にエロ本になるまでの)『宝島』読者も重なる。『宝島』の果たしていた役割は、今は『TVbros』が果たしている。サブカル情報誌。
 『オリーブ』読者とナゴムレーベル顧客は重なる。ナゴムはインディーズレーベルで、筋肉少女帯、人生(電気グルーブ)、たまを生んだ。
 『オリーブ』読者と岩館真理子読者は重なる。作中のキャラクターに自己を投影する。宮台氏の言葉では「これってあたし!」。くらもちふさこと並び、おとめちっくを形成。大島弓子も重なるが、大島弓子は萩尾望都と並び高踏的である。(このあたりの少女マンガ家分類を宮台氏は『サブカルチャー神話解体』でしている)岡崎京子は大島弓子のフォローアーであり、キューティーコミックの原動力である。
 『オリーブ』読者は、『Can Can』『JJ』を見ると、欲望に塗れている、と感じる。

 80年代の「可愛らしさ」には、1;ロマンチック(ナルシシズム)と、2;キュート(外に向けたもの)がある。「大人少女」年齢を重ねた『オリーブ』読者は前者であり、「大人少女」の仮想敵であるJJギャルは後者。

 山崎浩一氏の週刊プレイボーイの記事「パラサイトシングル」を参考資料とする。「パラサイトシングル」は、山田昌弘氏が93年に提唱したもの(『パラサイトシングルの時代』山田昌弘、ちくま新書)。山田昌弘氏は宮台真司氏の一年後輩になるそうだ。
 パラサイトシングルの定義はこうだ。
 都市部に持ち家のある中流核家族に、50~60代の親と同居を続ける独身者たち。
 彼らは基本的な生活条件を両親の収入や資産に依存しているため、自分の収入をほぼ100%「お小遣い」としてリッチな消費生活に回すことができる。このままパラサイトシングルが増えつづけると、こんなことが予想される。
1;基本的生活産業の需要が冷え込む。
2;「保守的で依存心が強いヤツ」(今のままで豊かなら社会変革を必要としない。欧米の若者が政治関心が高いのは、欧米の若者は親にではなく公的社会保障に依存しているから。幼女殺人のような欧米型猟奇犯罪者にはパラサイトシングルが多いのはたぶん偶然ではない)と、「無気力で不満だらけのヤツ」(親に寄生しているほうが幸福ならやる気も失せる)の2種類の若者しかいなくなる。
3;彼らの親世代がこの世を去った時、宿主を失った寄生虫と同じ運命が彼らを待っている。

 「大人少女」『オリーブ』読者と、『JJ』ギャル・コマダムの違いは、サブカル的ナルシシズムか即物的ナルシシズムかの違いでしかない。「大人少女」は一種の引きこもりではないか? 交流するスキルを欠いている。「大人少女」もJJギャルもともにある程度金を使ってセットアップしている。『オリーブ』読者が『JJ』読者を仮想敵にしているのは、中高時代感じたインパクトを固定しているからだ。
 80年代は、ナルチシズム的だった。90年代は、ストリート的なものへの憧れが、支配的だった。

 都立大内部で撒かれた、ファッションを4分類するペーパーを参考資料とする。
1;メジャー型肉食系…コムロ系、ビジュアルロック、GLAY。ギャル、コギャル。ブランド大好き。
2;黒人系…R&B、ヒップホップ
3;軟弱型…ギターロック、ギターポップ、電気グルーブ、トライセラ(「大人少女」はここに分類される)
4;草食系…Jポップ、ビーイング系、デューク、326
 これはセルフエスティーム(自尊心・安定した自己イメージ)が高いかどうか、逆に安定した自己イメージ低く自尊心低くナルシシズムが強いかどうか、という区分と、サブカル的である(偏差値が高い)か非サブカル的である(偏差値低い)かでどこに位置するか分けることができる。(と宮台氏は言ったが、サブカル的云々、偏差値云々に関して鎌やんは同意しない。もっと概念を練り研ぎ客体化するべきだと思う)
 安定した自己イメージを持ち、サブカル的であるのは、黒人系。
 安定した自己イメージを持ち、非サブカル的であるのは、メジャー型肉食系。
 ナルシシズム強く、サブカル的であるのは、軟弱型。
 ナルシシズム強く、非サブカル的であるのは、メジャー型草食系。

 「サブカルチャー」の定義について、宮台氏に質問する。
 「サブカルチャー」は、本来、シカゴ学派が、不良少年の文化に名づけたもの。のち、60年代カウンターカルチャー、ユースカルチャーを指すようになった。
 「カウンターカルチャー」は、エスタブリッシュメント(規制体制、支配階級)に対するカウンター、ということ。
 日本では70年代にエスタブリッシュメントの不在が明らかになり、全ての物が横並びの小文化となる。
 日本のサブカルは年齢文化という性格が強い。アメリカのサブカルは社会的階層的差異が強い。
 以上メモ。
 授業後、サブゼミをすることについての話に加わる。  
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