1月15日(土)
ディグさんから電話。『ジャンヌ・ダルク』観に行くとのこと。どうしようか悩む。一緒に行くことにする。nutsさん、ご免なさい。
いつきこうすけさん交え、三人で観る。感想。うーん、いまいち。
ディグさんの部屋に三人で行く。私は眠くなり、コタツで居眠りする。目覚める。二人が寝る準備している。二人と別れ、自分の部屋へ戻る。
1月14日(金)
3月17日ロフトプラスワンで開催予定のイベント『セックスについて色々考える』の件で、渋谷へ。OKさん、宮台真司さん、フリーライター二本松泰子さん、南智子さん、ゲイ雑誌『ファビュラス』編集長長谷川さんほかとお会いする。二本松泰子さんから、児童虐待の興味深い話を伺う。鍋をつつく。
新宿2丁目にある、長谷川さんの経営するクラブ「エース」へ行く。ふむなるほど、クラブというのはこういうところか、と、観察する。こういうところに来るならもっとお洒落してくれば良かった、と、後悔する。OKさんが「踊りましょう」と言う。初めは躊躇した。上着と荷物をロッカーにしまい、ステップの上手な人のステップを真似る。うまくいかない。よほどぶざまな動きしていたらしい。「最初は体動かしているだけで良いんですよ」OKさんが言う。そのうち感覚が掴めてくる。なんだ他の人もそれほど上手じゃないじゃん、と、度胸が出てくる。よーし、これでもうクラブも恐くないぞ。
ショータイム。ミズキキョーカという人のストリップ。演劇やダンスの基礎をしているだろう動きが観ていて心地いい。なるほどストリップとはこういうものか、と、思う。ほか、ゲイの方々のショー。先ほどのストリップの方と違い、基礎がないので、私は観ていてもあまり楽しめず。三輪明弘の音楽に合わせての、くちパク。そのほか。2回目のショーで、長谷川さんのお話を聞く。コンドームなしのアナルセックスを「たねつけ」と呼んでいる、という話、『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)の朗読など。
もていさんとマクドへ。セックスのオリエンテーションについて、お話伺う。政治的な話を、こちらが一方的に話す。
1月13日(木)
無為に過ごす。
1月12日(水)
雨で寒かった。足立真一さんから、『ジャンヌ・ダルク』観に行くのやめるという電話。nutsさん、松代さんにその連絡。
1月11日(火)
以下、宮台真司氏の講義のメモ。講義はあと3回くらいだそうだ。この回は内容が充実していて面白かった。(以下のメモには、鎌やんによる勘違いがあるかもしれない)
社会学
性について
社会学における「性」は、性別論、性別論を土台とした性規範論がある。
性別論
自然的性別 sex;アナログなもの
社会的性別 gender;デジタルなもの
性の問題は、死の問題に似ている。
自然的死は、どの時点をもって死とするか特定できない。肉体は徐々に死ぬ。
社会においては、死はデジタルなものとされる。ある時点をもって死として特定する。かつては心臓停止を瞳孔拡大を含む3つの条件をもって死として特定した。脳死概念が生まれたことにより、脳幹機能停止をもって死と特定するようになった。だがこれについては議論が絶えない。
遺伝子的性別には、XX、XY、XXY、XYYなどある。
Y遺伝子により、精巣部分のミュラー管とウォルフ管のいずれが発達するかが決まる。ミュラー管なら女性、ウォルフ管なら男性になる。性腺の分化、ホルモンバランスの違いが生じる。内性器の分化が生じる。第二次性徴の分化が生じる。
自然的性別には、常に半陰陽がある。アナログだ。社会的性別はデジタルだ。男性か女性か言語を用いて性別判定する。恣意性が生じる。死亡判定に議論があるように性別判定にも議論がある。
3歳前後は言語習得の臨界点だ。3歳前後に人間は性別自意識・性別アイデンティティを持ち始める。性別は、単なるカテゴリ・ラベルではない。半陰陽の子どもを男女判定を保留したまま育てると、言語習得が遅れる。
言語は世界に名前を与える、世界を解釈する行為だ。ピアジェ心理学では潜在的行為可能性と呼ぶ。コップ、水、といった言葉は、水を飲むという行為との相関で習得する。(ハイデガーの「存在」の問題)行為には、性別役割による区別が大きな位置を占める。性別アイデンティティの決まらないまま、曖昧なままだと、行為の区別の習得が困難となる。
ジョン・マネーが『性の署名』で行なった、追跡調査の話。
半陰陽は遺伝子的には男子だ。半陰陽の双子を、親の希望で片方を男子、片方を女子として性別判定した。その性別判定に従ってそのとおり育っていったそうだ。性別には恣意性がある。
自然的社会的性別・身体的性別では男性だが、自分を女性だと感じる人がいる。女性型外部生殖器を手術でつけることにより、本人の望む性に、60年代後半からは日本でも手術により性転換ができるようになった。日本では法律上、戸籍の性は変えることはできないが。女性から男性への手術は技術的に難しかった。ここ10年ほどで先進国でできるようになった。
以上の話には制限条件がある。
ジョン・マネーが追跡調査した双子は20歳のとき神経症になった。どこまでが恣意的なのか、という条件である。
性の分化
�;遺伝子的性別…染色体による性別
�;性腺による性別…ウォルフ管、ミュラー管
�;内性器による性別…子宮、卵管、精嚢、前立腺
�;外性器による性別
�;第二次性徴、身体的性別
�から�までは、胎内である。�は�の情報による。�、�、�は�の情報による。Y染色体がない・Y染色体の指令が伝達されないと、ウォルフ管が衰退する。Y染色体からの指令があれば、ウォルフ管は衰退しない。�からの情報は、男性ホルモン(アンドロゲン)のバランスの情報だ。アンドロゲン受容体に問題があると、性分化の失敗が起きる。
「アダム原則」というものがある。全ての性別を持つ動物においては、メス型が基本だ。オス型は分化した発生形態だ。(イヴがアダムの肋骨より生まれたことに因むが、イヴからアダムが生まれたと言う方が正しい。だから本来はイヴ原則と言うべきかもしれない)
性分化の失敗は、メスがオスに変わる過程で起きる。
受精のとき、男女の比率は、女100:男140
出産のとき、男女の比率は、女100:男105
男は多く自然流産する。メスからオスへの性分化の失敗が起きる。
ハーレムを作る動物以外では、動物は一般にメスのほうが大きい。
性腺のホルモンバランスと脳の働きには相関関係がある。男性ホルモンは空間感覚を司る。脳の空間野(くうかんや)が発達する。オスは狩猟の役割を負った。狩猟をするためには空間感覚が重要だ。空間感覚が弱いと、言語能力(言語野)が発達する。女性は言語野が発達している。
性医療の発達した社会では、性別は医療操作の対象だ。性別アイデンティティと社会認知がずれることがある。それに起因する不安は治療可能だ。
性規範論
死とのアナロジーから。死と生は社会的にはデジタルに分ける。生きている人間に期待することと死人に期待することは違うからだ。
同様に、男性に期待することと、女性に期待することを分けるのを、性別役割分業と言う。今までは性別役割分業で、社会は来た。
性規範論には、性愛論、猥褻論などがある。
性愛論
高等でない動物は、遺伝的性別に書きこまれたプログラムに従って行動する(生得的プログラム)。
高等になるほど、「学習」によって決まる(習得的プログラム)。ここには恣意性が生じる。時代・文化で変わる。大脳生理学的には、脳の新皮質に書き込まれたものだ。
異常性愛は、妥当とされた習得プログラム以外のものを習得することだ。対象異常と行為異常がある。
A;対象異常…性愛行為の対象が妥当でないもの。死体姦、幼児姦など。
B;行為異常…サディズム、マゾヒズムなど。
社会は行為と対象を指定する。
社会は対象異常から行為異常へ切り替える歴史を持つ。
ロリコンを例にする。ロリコンは第二次性徴以前の子どもを性対象とするものと、以後の青少年を性対象とするものに分れる。近代以前は性的に隔離されるべきという青少年という概念はなかった。
フロイト派が本能と衝動の区別を提唱した。これは重要だ。本能は生得的プログラムだ。性衝動は本能に含まれる。エネルギーだ。衝動はエネルギーを外に出す方法を決めていない。対象は決まっていない。特定のものを対象とするフェティッシュ、フェティシズムはこれによる。
対象異常から行為異常へ切り替える歴史に話を戻す。
レヴィ・ストロースは、基本構造を、親族構造とした。
性愛行為の妥当性は、親族構造で決められている。
多くの社会では平行イトコ(母の姉妹の子、父の兄弟の子)を禁止し、交叉イトコ(母の兄弟の子、父の姉妹の子)との婚姻を推奨する。
半族(部族の半分)を性的に禁ずる、あるいは部族をもっと多く分け、特定部族との婚姻を認める、あるいはインセストタブー。
なぜ正しい性愛行為と正しくない性愛行為があるのか。
親族原理では、婚姻と親子関係が社会を構成している。
遺産相続、あるいは誰かがその部族で期待される役割を担えないとき誰がその役割を代わってするのか、を、決定しなくてはならない。
親子関係を指定する。
親族原理を壊さないよう、子どもが生まれる可能性のある行為をする相手を、性的行為をする相手を(未開社会では性的行為と出産の関係が不明瞭だったので)、指定する。
中世に、社会は鱗的社会(ほぼ同じ力を持った複数の部族からなる社会)から、階層社会へ変わる。
階層社会では、たいがい、婚姻は同階層社会に求められた。
近代では、階層的性愛関係から、自由恋愛結婚へ変わった。自由恋愛結婚はどういう規則に基づくか?
恋愛概念romantic loveは、ヨーロッパ1800年代後半から、日本では明治20年以降始まった。
ルージュモンの説では、romantic loveは12世紀トルバドール吟遊詩人の歌をルーツとする。
愛の対象は(身分の高い既婚者の)貴婦人、愛の主体は(貴婦人より位の低い)騎士だ。この関係は、キリスト教の神への献身的愛がスライドしたものだ。貴婦人に神を想定した。【理想化の段階】
のち、宮廷恋愛に移行した。結婚は階層的に行なわれる。恋愛はセックスに至らない。恋愛は貴族の作法だ。
これも17世紀後半18世紀には、恋愛対象が変わる。女性は理想的美徳を必ずしも持つものではない、となる。にもかかわらず、盲目的な恋愛をする、ストーカー的情熱が現れた。romanticは、主観的だ。【逆説化】
romantic loveは小説により、庶民化する。【自己言及化】 フランス革命の頃には、小説の中で恋愛の作法を学んだ。(フローベール『ボヴァリー夫人』など)
romantic love は、近代学校制度と同じくらいしか歴史を持っていない。
動物行動学者デズモンド・モリス(『マンウォッチング』)は恋愛の手順を8段階に分けた。いかにセックスに至るか、時間と手順が重要となる。この手順を飛び越えることを、逸脱とする。対象規制から、行為規制へ。手順の問題となる。
90年代のゲイ・コミュニケーションには「ハッテン場」がある。出会いの場所だ。その意味、ノンケのテレクラに似ている。ゲイは比較的性的パートナーの出入りが激しい。「ハッテン場」での出会いには、「その気があるだろう」という前提がある。そのため、関係の希薄さに悩むことになる。
手順を踏むと、時間がかかる。関係の履歴が生まれる。欲求充足が手順によって引延ばされる。関わりが引延ばされる。それによって「関係」が生まれる。手順をすっとばすと、「関係」ができにくい。
近代社会では、「正しい手順による性愛」これを「自由恋愛」と呼ぶ。
社会学は、ニヒリズムの徹底である。
以上、メモ。
以下、自習。
ピアジェ Jean Piaget 1896~1980 スイスの発達心理学者。人間の認識の発生過程を構造的に究明する【発生的認識論】を創始。初期;子どもがおかす間違い方の中に子どもの思考の特徴あ表れてくることに着目。子どもたちとの言葉による問答から子ども特有の論理世界観を明らかにする『子どもにおける言語と思考』(1923)子どもの自己中心性を重要な概念として取り出し、そこからの【脱中心化】を発達の要として重視。 その後3人子どもの父となる。新生児の段階から克明に観察。言葉以前の感覚運動段階に知的活動行動が始まっていることを見いだし、その発生を観察例に基づき理論化『子どもにおける知能の誕生』(1936)『知能の心理学』(1947)『発生的認識論序説』(1947)[ 岩波哲学・思想事典より]
レヴィ・ストロースClaude Gustave Levi-Strauss 1908~ 構造主義の創唱者。フランスの人類学者。1962年構造主義ブームを巻き起こす『野生の思考』刊行。194-71年『神話論理学』刊行。
1949年『親族の基本構造』刊行。イトコ婚の制度を例に、近親婚(近親姦)の禁忌が親族集団間の互酬的な女性の交換を促す規範とする視点を提示。イトコは、平行イトコ(父の兄弟の子、母の姉妹の子)と、交叉イトコ(父の姉妹の子、母の兄弟の子)に分れるが、男から見て交叉イトコとの結婚、特に母方交叉イトコ婚を理想的とする社会は多いが、平行イトコとの結婚は禁止される。その謎を、平行イトコ婚は姉妹との結婚と同じく他集団との交換にならないが、交叉イトコ婚は集団間の女性の交換となるからだと解き、別々とされていた事象が女性の互酬的交換という同一の構造の現れであることを示して、構造人類学の最初の成果となった。[ 岩波哲学・思想事典より]
ウォルフ管、ミュラー管;哺乳類では、発生上、雌性が性の基本型となっている。つまり、最初は雌の生殖器ができ、性分化がそのまますすめば雌となる。雄へと分化させる力がはたらけば、精巣がつくられて雄となる。つまり、雌から雄がつくられるのである。雄へと分化させる力は、Y染色体、精巣決定遺伝子などが知られている。精巣ができると、テストステロンという男性ホルモンが分泌され、ウォルフ管(のちに精管となる)の発達を刺激する。のちには、脳下垂体から放出される生殖腺刺激ホルモンとともに、精子の発達を刺激する。
雌の胚にある雌性生殖管の前身であるミュラー管は、ホルモン刺激物質なしで自然に分化するようである。雌の性であることがはっきりときまってから、子宮と胎盤で生産されるエストラジオール(女性ホルモンの一種)が、雌の生殖管の発達と機能に主要な役割をはたす。"性(生物)" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
男性ホルモン Male Sex Hormone アンドロゲンともいい、男性の生殖器から分泌されるホルモン。二次性徴をうながす。男性の二次性徴をうながすのが男性ホルモンである。おもに精巣(睾丸)でつくられる。精巣から分泌された男性ホルモンは、血液にまじって全身を循環したのち、尿や便にまじって排泄(はいせつ)される。精巣でつくられるおもな男性ホルモンは、テストステロンとアンドロステロンである。"男性ホルモン" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
ピアジェ、ルージュモン、デズモンド・モリスについてはweb catで検索されたし。
以上、自習。
この日のゼミも、内容が濃かった。私の好きな題材で、発表者の高久さんも素晴らしく優秀だった。ところが残念なことに私は前日眠りそこなっていて、ゼミの講義の間、いくたびも居眠りをしてしまった。ひどくもったいないことをした。大失敗だ。高久さん、宮台先生、ごめんなさい。(まだ続くがとり急ぎここまでアップ)
1月10日(月)成人の日
新なんか党のMUMEIさんの主催で、新年会。豊川稲理さん、重さん、日本エロマンガ党のA・浪漫・我慢さん、きょーじゅさんとお会いする。マルコムXさんには会えず。
上野クリニックでは包茎手術しないほうがいいという話や、ちんちん伸ばす手術はどういうやり方するのかとか、脂肪吸引手術するとどうなるかとか、豊胸手術すると乳がどうなってしまうかとか、男はちんちんに真珠入れたがるがそんなもの喜ぶ女はどこにもいないがソープのお嬢さんがたはお愛想にそれを褒めるが単に痛いだけだそんなもの、とか、面白い話伺う。
MUMEIさん、豊川稲理さん、きょーじゅさんでカラオケ行く。
1月9日(日)
無為に過ごす。
自分という存在の加害者性に悶々とする。
竜の資料探す。
1月7日(金)、1月8日(土)
悪人
夜になってもぞもぞと起きだす、という生活リズムになっている。これでは銭湯に行けない。
ディグさんがプレイステーションを返しに来る。
ディグさんが珍しく自身の画力について愚痴る。メインカルチャーの壁は厚い、5歳の時から英才教育受けてきた人々とまともに戦わなくてはならない、と、ディグさんがこぼす。
ディグさんや足立真一さんが彼ら自身に要求している絵のレベルの話は、標高が高すぎて私は良き話し相手になれないが、ディグさんの抱える課題とは別な側面で同様のことを私は感じているので、その意味で共感する。
判っている人には判る、という姿勢は、救われている人だけが救われる、ということと同じではないか、みたいな話をする。
「悪人が歴史を作る、と、宮崎駿が言っていたのが、判ってきた」とディグさんが言う。マンガ版ナウシカのラストで、地球を浄化し新しい人間の世界にすることをナウシカが拒み、地球の未来をナウシカがただ一人で決め、破壊し、自分一人の胸のうちに秘めたこと、これは悪だろう、とディグさんが言う。ふんふんと私は話を聞きつづける。
「『もののけ姫』のエボシ御前が、自分の国の民に朝廷のこととか教えないのと同じですよね」
そんなシーンあったっけ? とディグさんに訊く。ジコ坊から朝廷の手紙を受け取ったエボシが、それを村娘に見せ、意味の判らない村娘をきょとんとさせることで、朝廷の権威をエボシが内心嘲笑するシーンをディグさんが私に説明する。ああ、あったあった。
宮崎駿の中での「悪人」の解釈がそういうものへ熟成したのは面白い、と、私はディグさんに言う。宮崎駿は悪人を描くのが上手な作家じゃなかった。『コナン』のレプカは、独裁者だが、一人で何もかもしようとドタバタと懸命なので、視聴者からは愛嬌ある人に映ってしまった。
映画のため多くのスタッフの時間と労力を搾り取っていることに、宮崎駿は時折良心の呵責を覚えるのだろう、と、想像する。宮崎駿は、そういう自分を「悪人」だなあ、と感じるのだろう、と、ディグさんと話す。マンガの連載するのですら、何人かのアシスタントの人生を使い潰さないとできない。「悪人」でなければことを成し遂げられない、とは私も思う。
「こういうものを私は見た、知った、それを皆に教え伝え、どうするべきかナウシカが皆と評議する、という選択だってありえたわけですよね」とディグさんが言う。
「一人で全てを抱え込むほうが英雄的に描きやすく、まとめやすくはあると思うけど…たしかに、独善だね。宮崎駿自身のワンマンさのあらわれだろうね。そこが宮崎駿の限界なんだろうね」
「今までナウシカは最高に完成された作品だと思っていたが、どこが突破口か見えてきた」とディグさんが言う。いい突破口だと鎌やんは思う。
ディグさん、プレイステーションを再び借りて、帰る。
無意識の癖
田舎で以前、妹から聞いたことを思い出した。ここに書く。
妹2号は昨年仕事を変えた。妹2号と同期に入った男性社員がいる。学歴や資格経歴は、同期男性社員のほうが、妹2号より遥かに上だ。実際に働いてみると、妹2号は有能で、男性社員は無能だった。
同期で、年齢が近いので、職場の人々は気を利かせて、妹2号とその男性社員をよく一緒にさせる。それが堪らなく苦痛だ、と、妹2号がこぼす。
その男性社員は、人前でしょっちゅう、ズボンの上から自分のきんたまをいじっている、と、妹2号が吐き捨てるように言う。そんなものを見せられると、一日中気分が悪い。同じ空気を吸っていたくない。
私はその話を聞いて、妹2号に想像を述べた。その男、勉強ばかりしていて、部屋にばかり篭っていて、オナニーぐせがついたんだろうなあ。
妹2号は私に憤慨して言う。どんなに学歴があっても、もし仮に仕事ができたとしても、人前できんたまをいじっているような男は最低だ。
まったくそうだ、と、急いで妹2号に同意した。
以来、人前できんたまを自分はいじっていないか、私はとても不安だ。
「幸せになれるよ」
正月、実家に帰ったとき、高校時代の友人からえらい久しぶりに電話があった。私の高校の同級生たちは、私の中学までの同級生と違い、それなりに知性と余裕のある人々だったので、校内に虐めはなかったが、この友人は人格タイプとして典型的虐められっ子だった。だから私の友人だった。
久しぶりに会おう、という誘いの電話だった。彼の口調は、ほんの少し話を聞いているだけでこちらがムズムズしてくるほど、典型的虐められっ子口調だ。なぜ突然電話をしてきたのか私には判らなかった。「ひょっとして宗教の勧誘?」と私は訊ねた。彼は「まさか、違うよ」と否定した。日曜日に会おう、という話になった。
土曜に、その友人から翌日の件で電話が来た。話をした。
景気が悪くて、仕事がない、という話を彼はした。同情を私は示した。彼は話を続けた。つらいことが多くて、色々考えて、某宗教団体に入った。とてもいい宗教だ、それを薦めたい、と彼は言った。幸せになれるよ、と、彼は言った。
君の客観状況が少しも幸せではないではないか、と、言いたかったがさすがにその言葉を飲み込んだ。不幸だから信仰を必要としたことは全く責められることではない。だが、勧誘となると話が違う。飲みこまないほうが良かったかもしれない。
彼のほかにそこの信者を私は知っている。その人も不幸だった。信心した後は、客観的にはいっそう不幸が続いた。宗教は人の社会貢献欲求を充たす。その人にとって、心の支えがあることは良いことだと思う。だがその人は宗教宗派の選択を誤ったと私はずっと思っている。人の弱みにつけこんでいる、と、私はその宗教団体を評価している。
君がそれを信仰することを私は否定しないが、金のかかる宗教は信じるに値しないというのが私の持論だ、と、彼に伝えた。会おうという約束をキャンセルした。
『キリンヤガ』
公立図書館へ行った。『キリンヤガ』(マイク・レズニック著、早川文庫)借りる。
読了。「SFというジャンルにとどまらず、すべての本好きに読んでもらいたい作品」と訳者が言ったのは誇張ではないと思う。ユートピア物語は常にアンチユートピア物語になる。レズニックはそのことに実に自覚的だと思う。
未来の物語だ。西洋化してしまったケニアを捨て、主人公コリバが、キクユ族のためのユートピア小惑星「キリンヤガ」に渡る。「キリンヤガ」を西洋文明に「汚染」されることから守るため、キクユ族の伝統を伝える祈祷師として、コリバは孤独な闘いをする。
『空にふれた少女』は、『キリンヤガ』連作の中でも、著者レズニックが最も好んでいる話だそうだ。「古き良き共同体で暮らすには聡明すぎた少女カマリの悲劇」と裏表紙で要約されている。『キリンヤガ』全編は、この中篇の変奏曲だと鎌やんは思う。
『キリンヤガ』にはいくつも寓話が登場する。ダチョウになろうとしたモズの寓話を、祈祷師コリバが子供たちに語る。
寓話を聞いた後、少女カマリが言う。「ダチョウになりたいと願うのと、ダチョウが知っていることを願うのは別なことよ。モズがなにかを知りたいと願ったのはまちがいじゃないわ。ダチョウになれると思ったのがまちがいだったのよ」
これにコリバが応える。「ちがう。モズはダチョウの知っていることを知ったとたん、自分がモズだということを忘れてしまった」
作中では、ダチョウは西洋文明人を、モズは少女カマリとキクユ族を指す。
だが、著者レズニックはこの寓話に暗に別な寓意も与えていると鎌やんは思う。
ダチョウは(過去の)キクユ族、「ダチョウの知っていること」はキクユ族の伝統社会、モズは「ヨーロッパとアメリカで学位を収めた」コリバを指している。寓話を語っているコリバはそのことに気づいていない。だがレズニックはそれを意識していると鎌やんは思う。読者はそれを受けとってほしいと鎌やんは思う。
西洋文明に触れた者はみな汚染され、黒いヨーロッパ人になる。コリバはそう主張する。だからコリバは防波堤になろうとする。コリバはなぜそれを主張できるか。ヨーロッパとアメリカをコリバが見てきたからだ。コリバは自分を最も純粋なキクユ族だと信じている。だが、コリバは、純粋なキクユ族になりたいと願う黒いヨーロッパ人、裏返しの黒いヨーロッパ人でしかないのだ。悲劇は全てそこから生まれている。
ユートピア「キリンヤガ」は、過去に実在したキクユ族の伝統社会ではない。ユートピア「キリンヤガ」ではキクユ族の言葉ではなく、スワヒリ語が用いられている。このことは控えめに書かれている。だが著者が込めている寓意としては重要なところだ。
著者レズニックは、少女カマリたち、コリバにとってのユートピアに苦しめられる、コリバの対立者たちに共感している。共感の筆致は控えめだ。コリバの一人称であるがゆえなのだが、むしろ読者はコリバと一体化し、物語を読み進める。読者はそのことにストレスも覚えないし、コリバを異常だとも感じない。コリバは善人だ。コリバは物語の中で最も知性と知識を持った人物だ。同時にコリバは、救いようのない父権主義者・人種差別主義者・国粋主義者・鎖国論者・衆愚政治家・狂信者だ。著者レズニックが小説家として有能で上手いのは、にもかかわらず、読者を、狂信者コリバにも(コリバの対立者と)等しく優しい視線を注がせることに、見事に成功しているところだ。
『キリンヤガ』をいたずらに短絡して政治的に読むのは危険だ、という意見は正しいと思う。狂信者であるコリバと著者レズニックを同一視したら、誤読しかできないからだ。だが、メタレベルでの政治的意図は著者レズニックにはもちろんあると思う。
鎌やん的には、K・V・ウォルフレンの日本論との呼応を感じながら『キリンヤガ』を読んだ。『人間を幸福にしない日本というシステム』でウォルフレンは言っている。…私(ウォルフレン)には「西欧中心的」という言葉の意味がよくわからない。たしかに私の育った文化は西欧文化と呼びうるし、その育ちが、私の考え方の形成に大きく影響したのも間違いない。そして、その影響のいくつかの側面に私自身が気づいていない可能性があることも認めよう。しかし、私が政治・経済のリアリティについて書くとき、私は、人類の共有財産の一部である概念体系(ランゲージ)を使っていると信じている。
…日本人技師が計算で代数を使ったら、それはアラブ中心的活動をしたことになるのか? 代数学はアラビアで発達したものだが、それを使う技師をイスラム主義者と呼ぶのはばかげている。フランスのグラフィック・アーティストが木版画の技術を応用したら日本主義者なのか?
日本にあまたいる少女カマリ、少年ンデミたちの未来が、明るいものとなりますように。
と、それはそれとして。
鎌やんのHPは3年目、鎌やんのweb日記は2年目になりました。つくづく、昨年は何もしなかったなあ、と、思う。
1月6日(木)
体調崩す。
1月5日(水)
昼に就寝。夜、ディグさんからの電話で目を覚ます。駅で待ち合わせ、『シックス・センス』観に行く。
「鎌やんさん、全然この映画の前情報知らないですよね」とディグさんが言う。
「うん、知らない」
「映画は変に前情報ないほうがいいですよね。そう言えば、この映画、あまり前情報ないんですよね。そのわりに、興業成績いいですよね」とディグさんが言う。
観る。
観終わって、なるほど、観た者が語れなくなるわけがわかった。良質な短編小説のような映画だ。
隣にいる人とまったく言葉も心も通じない、という現代人の孤独を、オカルトと心理学という似ているようでまるっきり逆のものを題材に、良質に描いている。他者と言葉が伝わらないのは、自分が何者なのか判っていないから、という、そういう話なのじゃないかな、と、ディグさんに言う。
監督はインド人だそうだ。いい意味でインド的な着想なのかなあ、と、ディグさんに言う。たしか小松左京が言っていたと思うけど、宗教的哲学的思考法は、インドを境に西と東に別れる。西は直線的で、東は円環的だ。仏教はその境界面に生まれ、西に向けて東の思考法を説明したのが仏教だ、とか、ディグさんに雑学開帳する。
『今、そこにある僕』借りよう思い、貸しビデオ屋さんへ。ない。『アインシュタインの脳』他数本ディグさんが借りる。ディグさんの部屋へ行き、観る。
『アインシュタインの脳』BBC制作。ディグさんのお気に入りの映画。終始暗い画面。画面を支配する、杉元助教授のふんぐー、ふんぐー、という鼻息。誰彼構わず「アインシュタインの脳を私は探しています。あなたはアインシュタインの脳がどこにあるか知りませんか」とヘタクソな英語で質問する杉元助教授に、通訳の女性が表情を凍らせる。登場する人登場する人、みな善人というかヒマな人たちというか寂しい人というか。切なさ目一杯。二人でヒヒヒと押し殺した笑いをしながら楽しむ。メタレベルでブラックユーモアな、ドキュメンタリー。
『ホームワーク』イランの小学生を撮影したドキュメント映画。ディグさんは楽しんだそうだが、私は観ているうちに眠りこける。
『ライフ・イズ・ビューティフル』イタリア映画。98年制作。カンヌ、アカデミー賞受賞。観る。前半一時間、クレイジーキャッツだなあ、と思いながら観る。後半一時間、えらい展開になる。観終わったあと、しばらく二人で沈黙する。「凄い映画だなあ」と二人で言う。
チャップリンのようなコメディを現代的にやっているところが凄い、というのがディグさんの感想。
私の感想。私は子供のころコメディが嫌いだった。ギャグは好きだった。ギャグは破壊的だと思っていたからだ。コメディは安全圏の中で楽しんでいるにすぎない、と、思っていた。この映画は前半はコメディだ。そのまま後半の過酷な状況に移り、コメディを続けている、その、ひりひりとした感覚が、凄い。どうやって話を終わらせるつもりなのだろう、と、観ながら思った。納得のいくラストだった。
「『アンダー・グラウンド』もそうだったけど、自分の国の政治的歴史をきっちり見据えそれをコメディにするというのは、凄いよな」
この映画を紹介してくれたディグさんに感謝して、自分の部屋に帰る。
1月4日(火)
寝て過ごす。夜、ディグさんから電話。ディグさん来室。12月25日の日記をチェックしてもらう。アストル・ピアソラはブラジル出身ではなくアルゼンチン出身です、と、ディグさんが指摘。ブラジル出身はアート・リンゼイだそうな。ディグさんの評判を落とさないよう修正する。
単行本作る上で面白いアイデアないか、と、ディグさんに訊く。今のところ、岩波新書みたいな装丁にしたいと思っているんだけど、と、私が言う。
「それではあたりまえすぎるでしょう」と、ディグさんが言う。ほうほう、と、私は聞く。
「どうせなら東浩紀さんの『存在論的・郵便的』みたいな装丁にしたほうがいい」と、ディグさんが言う。わ。さすが、センスが服来て歩いているディグさんだ。素晴らしいセンスだ。射程の長いセンスだ。けれど売れませんそれでは絶対に、ええ。
「お客さんにジャケット買いさせないといけないんだ」と、ディグさんに言う。
「写真を使ったらどうだろう」とディグさんが提案する。「ロリータエロ写真を流用しても、絶対版権とか主張されることないじゃないですか」とディグさんの提案。それはいかがわしくていいアイデアだ。問題は流通がきっと嫌がる、ということだ。…上手いやりかたを考えてみよう。
「いっそのこと、デザイナーズ・リパブリックに装丁を依頼してみたらどうですか、ダメ元で訊くだけ訊くのはいいんじゃないですか」と、ディグさんが言う。わお。ディグさんらしい。それはディグさんのコミックスが出たときにしたほうがいいと思うぞ。
明日『シックス・センス』見に行こう、という話になる。
1月3日(月)
前日同様、朝、店番する。店の中、掃除が行き届いていないことに気づく。パートを頼むのをケチるのはやめよう、と、母に提言する。提言は虚しい。自分で営業しない限り根本的解決にならない。雇用関係と血族関係が区別できないのは私にとって絶望的な状況になる。
新聞読む。選挙の候補者リスト見る。知っている政治家が何人かできたので、それなりに読むことができるようになる。えだの幸男さん、民主党の公認を得ることに成功したようだ。よかったよかった。自分が住民票置いているとこには民主党の候補立たないのね、とか思う。
えらい体調悪くなる。昼寝する。親戚が挨拶に来る。ここにいるのは邪魔だと妹1号が言うので、部屋へ行く。
午後7時起きる。夕食食べる。東京へ帰ることにする。妹2号に駅まで送ってもらう。
時間と精神力を、ムダに消費した。
1月2日(日)
(前日より)『おねぷ』から帰宅する。TVで、『朝生』している。えだの幸男さんが出ているので、番組終了まで観る。寝ようかと思ったが、開店時刻なので、そのまま店番する。
猟犬のうち最も高齢の雌犬が、昨夜から寒さと老齢で体調悪く、店内に置かれていることに気づく。その時まで、この犬がそれほど老いていることに私は気づいていなかった。犬はどこかしら、少年的な動物だ。日が昇ってから、老犬を店外の屋根のあるところへ連れて行く。老犬はまともに歩けない。昨夜よりはだいぶ老犬の調子がいいのだそうだ。父が獣医に連絡。老犬を入院させる。人間で言う中風だとのこと。
昼寝する。
妹2号、箱根駅伝の応援より帰還。母方の祖母のところへ兄妹で向かう。母方の祖母の家も、接客業で、客が宴会中だった。伯父伯母従妹の顔を見る。陽気な笑顔で私たちを迎える。疲労している。
祖母のところへ兄妹三人で来たのは何年ぶりか思い出せない。いざ祖母の顔を見ても、話題が見つからない。妹2号が素晴らしく優れている社交力で祖母と色々話する。退出する。
母が家族でトランプをしたがっている、と、妹たちが言う。それを買いにそのまま車でコンビニへ。2軒回る。いずれも売り切れ。人生ゲームを買う。帰宅。人生ゲームする、という雰囲気にならない。殺伐とした空気になる。私と母の罵り合いになる。母が言う。見合いの仲介を頼んだ人に、お前は私の悪口を言っただろう、なんて恥ずかしいことをするんだ、そのせいで最近はその人がまともに話を聞いてくれない、と私をなじる。母はその人に嘘ばかり言っているではないか、それを訂正して何が悪い、と私は反駁する。その他、妹たちも口論に加わり、不毛な口論が続く。客が勝手口から侵入したので中断。
就寝しようとする。眠れない。手荷物から創作ノートを探す。ない。別なノートに日記をつける。
2000年1月1日(土)
夕方まで寝る。妹1号帰省。妹1号に複数回起こされる。そのことを起床後なじられる。
母が建築についてバカな主張を始める。その提案を拒否する。
見合いしろとか早く東京の仕事辞めて実家に戻ってこいとか母が言う。戻って来たら毎月これだけの給金を払う、と母が提示する。私は実家の経済を把握できていない。実家にいるとき覚える無力感はそれにも起因する。以前自力で算出した年間の実家の経済規模から考えると、母の提示金額は小額すぎる。マンガで同じ金額を稼ぐには、と計算する。少しも難しくない。マンガで稼ぐほうが精神的に楽だし張り合いがある、と、母に述べる。
私が年間どれだけ稼げば母は納得がいくのか数字を挙げてくれ、と私が言う。そういう問題ではない、と、母が言う。もちろんそういう問題ではないことは私もよく判っている。母の言う意味とは別だが。
今私の稼ぎが良くないのは二年前に母が病気で倒れ、いつでも実家に戻れるよう仕事を絞ったからだ、と私は言う。弱みを見つけたとばかりに、いつまた再発するか判らない、と、母が同情買いを試みる。
資産の算定について父に質問する。相続税という概念を父母は飲み込めない。近代経済の概念を父母は全く持たないので、そのことは予想できたことだ。父母抜きで算定始めるつもりだった、と、父母に言う。母が色々錯乱したことを言うが、父は幾つか建設的な情報を出す。
妹二人と、村の話をする。私の村は、ごく最近まで、村の北方と西方とでは方言が違っていた。それほど人間が動かなかったのだ。近親交配ばかりで、村ごとに顔の特徴がある、という話。
妹二人、『おねぷ』の生中継観に行く、とのこと。付いて行く。『おねぷ』の行列らしきもの発見。それに加わる。
列はギャル風の若い女性ばかりで、みなスカート履いている。原田泰造に投げられるために遠くから来たのだろうなあ、と妹たちと話す。テレビスタッフが何か説明している。「ええ~」と下卑た声を女の子達が挙げる。私たちの目の前に並んでいる人が、スカート履いた男性であることに妹1号が気づき、喜ぶ。
タレントによって客層がはっきり違う、という話を妹1号が私にする。ウルフルズの客層は年齢幅が広く、前向きな良い子が多い、と妹1号が言う。妹1号はウルフルズのファンだ。学校の勉強ばかりしていて現実的対処能力のない青白い同僚にウンザリして、さわやかガテン系が好みのタイプになったようだ。ビジュアル系のファン層は、キメている人もいるけど、たまに凄い人もいる、仮装行列だ、とも妹1号が言う。ちなみに妹2号はビジュアル系が好みなようだ。
なるほど、自己像を投影しやすいタレントを客が選ぶので、そういう関係になるんだね、という話を妹1号とする。
妹二人は運良く特等席へ。私は外縁から撮影を見る。私は歓声上げすぎて頭痛する。「そんなに大声出したの?」とあとで妹たちから訊かれる。ああいうときは思いきり騒いだほうが楽しいでしょ、と妹たちに言う。
特等席で妹たちの隣にいた女の子達は大阪から来ていたそうだ。今夜は野宿すると言っていたそうだ。「寝たら凍死するから、寝ないように頑張って」と言っていたそうだ。
326のグッズを妹たちは購入。「326のどこがいいの?」と訊く。「自分がゼロならどうしようもない」というセリフがわりとお気に入りだ、と、妹2号が言う。絶望を前提とした前向きさに共感しているのかな、と想像する。
母方の祖母にいつ空気清浄機を渡そうか、と、3人で相談する。1月2日の夜、妹2号が箱根から帰ってきてからにしよう、と、まとまる。
田舎の夜はひどく寒い。小中学生時新聞配達していたことなど話す。田舎の冬は、切ない寒さだ、と、妹1号が言う。寒さは肉体に厳しい。寒さは攻撃的だ。田舎の暖房設備は貧弱だ。
母は愛情表現のできない人で、寛ぐこと、安らぐことに道徳的羞恥心があるのだ、だから家族を寛がせないよう母は行動するのだ、と、妹たちが言う。妹たちにとって母は同性なので、母の底を見透かし許しているところが妹たちにはある。私の母への態度に比べると、妹たちは母に対し同情的で共感的だ。そのぶん妹たちは私に対し軽蔑と嫌悪を持っている。問題は妹たちの側にではなく、私の側にある。私は愛情と欲情の区別がしっかりできていないよな、と、思う。
ディグさんから電話。『ジャンヌ・ダルク』観に行くとのこと。どうしようか悩む。一緒に行くことにする。nutsさん、ご免なさい。
いつきこうすけさん交え、三人で観る。感想。うーん、いまいち。
ディグさんの部屋に三人で行く。私は眠くなり、コタツで居眠りする。目覚める。二人が寝る準備している。二人と別れ、自分の部屋へ戻る。
1月14日(金)
3月17日ロフトプラスワンで開催予定のイベント『セックスについて色々考える』の件で、渋谷へ。OKさん、宮台真司さん、フリーライター二本松泰子さん、南智子さん、ゲイ雑誌『ファビュラス』編集長長谷川さんほかとお会いする。二本松泰子さんから、児童虐待の興味深い話を伺う。鍋をつつく。
新宿2丁目にある、長谷川さんの経営するクラブ「エース」へ行く。ふむなるほど、クラブというのはこういうところか、と、観察する。こういうところに来るならもっとお洒落してくれば良かった、と、後悔する。OKさんが「踊りましょう」と言う。初めは躊躇した。上着と荷物をロッカーにしまい、ステップの上手な人のステップを真似る。うまくいかない。よほどぶざまな動きしていたらしい。「最初は体動かしているだけで良いんですよ」OKさんが言う。そのうち感覚が掴めてくる。なんだ他の人もそれほど上手じゃないじゃん、と、度胸が出てくる。よーし、これでもうクラブも恐くないぞ。
ショータイム。ミズキキョーカという人のストリップ。演劇やダンスの基礎をしているだろう動きが観ていて心地いい。なるほどストリップとはこういうものか、と、思う。ほか、ゲイの方々のショー。先ほどのストリップの方と違い、基礎がないので、私は観ていてもあまり楽しめず。三輪明弘の音楽に合わせての、くちパク。そのほか。2回目のショーで、長谷川さんのお話を聞く。コンドームなしのアナルセックスを「たねつけ」と呼んでいる、という話、『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)の朗読など。
もていさんとマクドへ。セックスのオリエンテーションについて、お話伺う。政治的な話を、こちらが一方的に話す。
1月13日(木)
無為に過ごす。
1月12日(水)
雨で寒かった。足立真一さんから、『ジャンヌ・ダルク』観に行くのやめるという電話。nutsさん、松代さんにその連絡。
1月11日(火)
以下、宮台真司氏の講義のメモ。講義はあと3回くらいだそうだ。この回は内容が充実していて面白かった。(以下のメモには、鎌やんによる勘違いがあるかもしれない)
社会学
性について
社会学における「性」は、性別論、性別論を土台とした性規範論がある。
性別論
自然的性別 sex;アナログなもの
社会的性別 gender;デジタルなもの
性の問題は、死の問題に似ている。
自然的死は、どの時点をもって死とするか特定できない。肉体は徐々に死ぬ。
社会においては、死はデジタルなものとされる。ある時点をもって死として特定する。かつては心臓停止を瞳孔拡大を含む3つの条件をもって死として特定した。脳死概念が生まれたことにより、脳幹機能停止をもって死と特定するようになった。だがこれについては議論が絶えない。
遺伝子的性別には、XX、XY、XXY、XYYなどある。
Y遺伝子により、精巣部分のミュラー管とウォルフ管のいずれが発達するかが決まる。ミュラー管なら女性、ウォルフ管なら男性になる。性腺の分化、ホルモンバランスの違いが生じる。内性器の分化が生じる。第二次性徴の分化が生じる。
自然的性別には、常に半陰陽がある。アナログだ。社会的性別はデジタルだ。男性か女性か言語を用いて性別判定する。恣意性が生じる。死亡判定に議論があるように性別判定にも議論がある。
3歳前後は言語習得の臨界点だ。3歳前後に人間は性別自意識・性別アイデンティティを持ち始める。性別は、単なるカテゴリ・ラベルではない。半陰陽の子どもを男女判定を保留したまま育てると、言語習得が遅れる。
言語は世界に名前を与える、世界を解釈する行為だ。ピアジェ心理学では潜在的行為可能性と呼ぶ。コップ、水、といった言葉は、水を飲むという行為との相関で習得する。(ハイデガーの「存在」の問題)行為には、性別役割による区別が大きな位置を占める。性別アイデンティティの決まらないまま、曖昧なままだと、行為の区別の習得が困難となる。
ジョン・マネーが『性の署名』で行なった、追跡調査の話。
半陰陽は遺伝子的には男子だ。半陰陽の双子を、親の希望で片方を男子、片方を女子として性別判定した。その性別判定に従ってそのとおり育っていったそうだ。性別には恣意性がある。
自然的社会的性別・身体的性別では男性だが、自分を女性だと感じる人がいる。女性型外部生殖器を手術でつけることにより、本人の望む性に、60年代後半からは日本でも手術により性転換ができるようになった。日本では法律上、戸籍の性は変えることはできないが。女性から男性への手術は技術的に難しかった。ここ10年ほどで先進国でできるようになった。
以上の話には制限条件がある。
ジョン・マネーが追跡調査した双子は20歳のとき神経症になった。どこまでが恣意的なのか、という条件である。
性の分化
�;遺伝子的性別…染色体による性別
�;性腺による性別…ウォルフ管、ミュラー管
�;内性器による性別…子宮、卵管、精嚢、前立腺
�;外性器による性別
�;第二次性徴、身体的性別
�から�までは、胎内である。�は�の情報による。�、�、�は�の情報による。Y染色体がない・Y染色体の指令が伝達されないと、ウォルフ管が衰退する。Y染色体からの指令があれば、ウォルフ管は衰退しない。�からの情報は、男性ホルモン(アンドロゲン)のバランスの情報だ。アンドロゲン受容体に問題があると、性分化の失敗が起きる。
「アダム原則」というものがある。全ての性別を持つ動物においては、メス型が基本だ。オス型は分化した発生形態だ。(イヴがアダムの肋骨より生まれたことに因むが、イヴからアダムが生まれたと言う方が正しい。だから本来はイヴ原則と言うべきかもしれない)
性分化の失敗は、メスがオスに変わる過程で起きる。
受精のとき、男女の比率は、女100:男140
出産のとき、男女の比率は、女100:男105
男は多く自然流産する。メスからオスへの性分化の失敗が起きる。
ハーレムを作る動物以外では、動物は一般にメスのほうが大きい。
性腺のホルモンバランスと脳の働きには相関関係がある。男性ホルモンは空間感覚を司る。脳の空間野(くうかんや)が発達する。オスは狩猟の役割を負った。狩猟をするためには空間感覚が重要だ。空間感覚が弱いと、言語能力(言語野)が発達する。女性は言語野が発達している。
性医療の発達した社会では、性別は医療操作の対象だ。性別アイデンティティと社会認知がずれることがある。それに起因する不安は治療可能だ。
性規範論
死とのアナロジーから。死と生は社会的にはデジタルに分ける。生きている人間に期待することと死人に期待することは違うからだ。
同様に、男性に期待することと、女性に期待することを分けるのを、性別役割分業と言う。今までは性別役割分業で、社会は来た。
性規範論には、性愛論、猥褻論などがある。
性愛論
高等でない動物は、遺伝的性別に書きこまれたプログラムに従って行動する(生得的プログラム)。
高等になるほど、「学習」によって決まる(習得的プログラム)。ここには恣意性が生じる。時代・文化で変わる。大脳生理学的には、脳の新皮質に書き込まれたものだ。
異常性愛は、妥当とされた習得プログラム以外のものを習得することだ。対象異常と行為異常がある。
A;対象異常…性愛行為の対象が妥当でないもの。死体姦、幼児姦など。
B;行為異常…サディズム、マゾヒズムなど。
社会は行為と対象を指定する。
社会は対象異常から行為異常へ切り替える歴史を持つ。
ロリコンを例にする。ロリコンは第二次性徴以前の子どもを性対象とするものと、以後の青少年を性対象とするものに分れる。近代以前は性的に隔離されるべきという青少年という概念はなかった。
フロイト派が本能と衝動の区別を提唱した。これは重要だ。本能は生得的プログラムだ。性衝動は本能に含まれる。エネルギーだ。衝動はエネルギーを外に出す方法を決めていない。対象は決まっていない。特定のものを対象とするフェティッシュ、フェティシズムはこれによる。
対象異常から行為異常へ切り替える歴史に話を戻す。
レヴィ・ストロースは、基本構造を、親族構造とした。
性愛行為の妥当性は、親族構造で決められている。
多くの社会では平行イトコ(母の姉妹の子、父の兄弟の子)を禁止し、交叉イトコ(母の兄弟の子、父の姉妹の子)との婚姻を推奨する。
半族(部族の半分)を性的に禁ずる、あるいは部族をもっと多く分け、特定部族との婚姻を認める、あるいはインセストタブー。
なぜ正しい性愛行為と正しくない性愛行為があるのか。
親族原理では、婚姻と親子関係が社会を構成している。
遺産相続、あるいは誰かがその部族で期待される役割を担えないとき誰がその役割を代わってするのか、を、決定しなくてはならない。
親子関係を指定する。
親族原理を壊さないよう、子どもが生まれる可能性のある行為をする相手を、性的行為をする相手を(未開社会では性的行為と出産の関係が不明瞭だったので)、指定する。
中世に、社会は鱗的社会(ほぼ同じ力を持った複数の部族からなる社会)から、階層社会へ変わる。
階層社会では、たいがい、婚姻は同階層社会に求められた。
近代では、階層的性愛関係から、自由恋愛結婚へ変わった。自由恋愛結婚はどういう規則に基づくか?
恋愛概念romantic loveは、ヨーロッパ1800年代後半から、日本では明治20年以降始まった。
ルージュモンの説では、romantic loveは12世紀トルバドール吟遊詩人の歌をルーツとする。
愛の対象は(身分の高い既婚者の)貴婦人、愛の主体は(貴婦人より位の低い)騎士だ。この関係は、キリスト教の神への献身的愛がスライドしたものだ。貴婦人に神を想定した。【理想化の段階】
のち、宮廷恋愛に移行した。結婚は階層的に行なわれる。恋愛はセックスに至らない。恋愛は貴族の作法だ。
これも17世紀後半18世紀には、恋愛対象が変わる。女性は理想的美徳を必ずしも持つものではない、となる。にもかかわらず、盲目的な恋愛をする、ストーカー的情熱が現れた。romanticは、主観的だ。【逆説化】
romantic loveは小説により、庶民化する。【自己言及化】 フランス革命の頃には、小説の中で恋愛の作法を学んだ。(フローベール『ボヴァリー夫人』など)
romantic love は、近代学校制度と同じくらいしか歴史を持っていない。
動物行動学者デズモンド・モリス(『マンウォッチング』)は恋愛の手順を8段階に分けた。いかにセックスに至るか、時間と手順が重要となる。この手順を飛び越えることを、逸脱とする。対象規制から、行為規制へ。手順の問題となる。
90年代のゲイ・コミュニケーションには「ハッテン場」がある。出会いの場所だ。その意味、ノンケのテレクラに似ている。ゲイは比較的性的パートナーの出入りが激しい。「ハッテン場」での出会いには、「その気があるだろう」という前提がある。そのため、関係の希薄さに悩むことになる。
手順を踏むと、時間がかかる。関係の履歴が生まれる。欲求充足が手順によって引延ばされる。関わりが引延ばされる。それによって「関係」が生まれる。手順をすっとばすと、「関係」ができにくい。
近代社会では、「正しい手順による性愛」これを「自由恋愛」と呼ぶ。
社会学は、ニヒリズムの徹底である。
以上、メモ。
以下、自習。
ピアジェ Jean Piaget 1896~1980 スイスの発達心理学者。人間の認識の発生過程を構造的に究明する【発生的認識論】を創始。初期;子どもがおかす間違い方の中に子どもの思考の特徴あ表れてくることに着目。子どもたちとの言葉による問答から子ども特有の論理世界観を明らかにする『子どもにおける言語と思考』(1923)子どもの自己中心性を重要な概念として取り出し、そこからの【脱中心化】を発達の要として重視。 その後3人子どもの父となる。新生児の段階から克明に観察。言葉以前の感覚運動段階に知的活動行動が始まっていることを見いだし、その発生を観察例に基づき理論化『子どもにおける知能の誕生』(1936)『知能の心理学』(1947)『発生的認識論序説』(1947)[ 岩波哲学・思想事典より]
レヴィ・ストロースClaude Gustave Levi-Strauss 1908~ 構造主義の創唱者。フランスの人類学者。1962年構造主義ブームを巻き起こす『野生の思考』刊行。194-71年『神話論理学』刊行。
1949年『親族の基本構造』刊行。イトコ婚の制度を例に、近親婚(近親姦)の禁忌が親族集団間の互酬的な女性の交換を促す規範とする視点を提示。イトコは、平行イトコ(父の兄弟の子、母の姉妹の子)と、交叉イトコ(父の姉妹の子、母の兄弟の子)に分れるが、男から見て交叉イトコとの結婚、特に母方交叉イトコ婚を理想的とする社会は多いが、平行イトコとの結婚は禁止される。その謎を、平行イトコ婚は姉妹との結婚と同じく他集団との交換にならないが、交叉イトコ婚は集団間の女性の交換となるからだと解き、別々とされていた事象が女性の互酬的交換という同一の構造の現れであることを示して、構造人類学の最初の成果となった。[ 岩波哲学・思想事典より]
ウォルフ管、ミュラー管;哺乳類では、発生上、雌性が性の基本型となっている。つまり、最初は雌の生殖器ができ、性分化がそのまますすめば雌となる。雄へと分化させる力がはたらけば、精巣がつくられて雄となる。つまり、雌から雄がつくられるのである。雄へと分化させる力は、Y染色体、精巣決定遺伝子などが知られている。精巣ができると、テストステロンという男性ホルモンが分泌され、ウォルフ管(のちに精管となる)の発達を刺激する。のちには、脳下垂体から放出される生殖腺刺激ホルモンとともに、精子の発達を刺激する。
雌の胚にある雌性生殖管の前身であるミュラー管は、ホルモン刺激物質なしで自然に分化するようである。雌の性であることがはっきりときまってから、子宮と胎盤で生産されるエストラジオール(女性ホルモンの一種)が、雌の生殖管の発達と機能に主要な役割をはたす。"性(生物)" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
男性ホルモン Male Sex Hormone アンドロゲンともいい、男性の生殖器から分泌されるホルモン。二次性徴をうながす。男性の二次性徴をうながすのが男性ホルモンである。おもに精巣(睾丸)でつくられる。精巣から分泌された男性ホルモンは、血液にまじって全身を循環したのち、尿や便にまじって排泄(はいせつ)される。精巣でつくられるおもな男性ホルモンは、テストステロンとアンドロステロンである。"男性ホルモン" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
ピアジェ、ルージュモン、デズモンド・モリスについてはweb catで検索されたし。
以上、自習。
この日のゼミも、内容が濃かった。私の好きな題材で、発表者の高久さんも素晴らしく優秀だった。ところが残念なことに私は前日眠りそこなっていて、ゼミの講義の間、いくたびも居眠りをしてしまった。ひどくもったいないことをした。大失敗だ。高久さん、宮台先生、ごめんなさい。(まだ続くがとり急ぎここまでアップ)
1月10日(月)成人の日
新なんか党のMUMEIさんの主催で、新年会。豊川稲理さん、重さん、日本エロマンガ党のA・浪漫・我慢さん、きょーじゅさんとお会いする。マルコムXさんには会えず。
上野クリニックでは包茎手術しないほうがいいという話や、ちんちん伸ばす手術はどういうやり方するのかとか、脂肪吸引手術するとどうなるかとか、豊胸手術すると乳がどうなってしまうかとか、男はちんちんに真珠入れたがるがそんなもの喜ぶ女はどこにもいないがソープのお嬢さんがたはお愛想にそれを褒めるが単に痛いだけだそんなもの、とか、面白い話伺う。
MUMEIさん、豊川稲理さん、きょーじゅさんでカラオケ行く。
1月9日(日)
無為に過ごす。
自分という存在の加害者性に悶々とする。
竜の資料探す。
1月7日(金)、1月8日(土)
悪人
夜になってもぞもぞと起きだす、という生活リズムになっている。これでは銭湯に行けない。
ディグさんがプレイステーションを返しに来る。
ディグさんが珍しく自身の画力について愚痴る。メインカルチャーの壁は厚い、5歳の時から英才教育受けてきた人々とまともに戦わなくてはならない、と、ディグさんがこぼす。
ディグさんや足立真一さんが彼ら自身に要求している絵のレベルの話は、標高が高すぎて私は良き話し相手になれないが、ディグさんの抱える課題とは別な側面で同様のことを私は感じているので、その意味で共感する。
判っている人には判る、という姿勢は、救われている人だけが救われる、ということと同じではないか、みたいな話をする。
「悪人が歴史を作る、と、宮崎駿が言っていたのが、判ってきた」とディグさんが言う。マンガ版ナウシカのラストで、地球を浄化し新しい人間の世界にすることをナウシカが拒み、地球の未来をナウシカがただ一人で決め、破壊し、自分一人の胸のうちに秘めたこと、これは悪だろう、とディグさんが言う。ふんふんと私は話を聞きつづける。
「『もののけ姫』のエボシ御前が、自分の国の民に朝廷のこととか教えないのと同じですよね」
そんなシーンあったっけ? とディグさんに訊く。ジコ坊から朝廷の手紙を受け取ったエボシが、それを村娘に見せ、意味の判らない村娘をきょとんとさせることで、朝廷の権威をエボシが内心嘲笑するシーンをディグさんが私に説明する。ああ、あったあった。
宮崎駿の中での「悪人」の解釈がそういうものへ熟成したのは面白い、と、私はディグさんに言う。宮崎駿は悪人を描くのが上手な作家じゃなかった。『コナン』のレプカは、独裁者だが、一人で何もかもしようとドタバタと懸命なので、視聴者からは愛嬌ある人に映ってしまった。
映画のため多くのスタッフの時間と労力を搾り取っていることに、宮崎駿は時折良心の呵責を覚えるのだろう、と、想像する。宮崎駿は、そういう自分を「悪人」だなあ、と感じるのだろう、と、ディグさんと話す。マンガの連載するのですら、何人かのアシスタントの人生を使い潰さないとできない。「悪人」でなければことを成し遂げられない、とは私も思う。
「こういうものを私は見た、知った、それを皆に教え伝え、どうするべきかナウシカが皆と評議する、という選択だってありえたわけですよね」とディグさんが言う。
「一人で全てを抱え込むほうが英雄的に描きやすく、まとめやすくはあると思うけど…たしかに、独善だね。宮崎駿自身のワンマンさのあらわれだろうね。そこが宮崎駿の限界なんだろうね」
「今までナウシカは最高に完成された作品だと思っていたが、どこが突破口か見えてきた」とディグさんが言う。いい突破口だと鎌やんは思う。
ディグさん、プレイステーションを再び借りて、帰る。
無意識の癖
田舎で以前、妹から聞いたことを思い出した。ここに書く。
妹2号は昨年仕事を変えた。妹2号と同期に入った男性社員がいる。学歴や資格経歴は、同期男性社員のほうが、妹2号より遥かに上だ。実際に働いてみると、妹2号は有能で、男性社員は無能だった。
同期で、年齢が近いので、職場の人々は気を利かせて、妹2号とその男性社員をよく一緒にさせる。それが堪らなく苦痛だ、と、妹2号がこぼす。
その男性社員は、人前でしょっちゅう、ズボンの上から自分のきんたまをいじっている、と、妹2号が吐き捨てるように言う。そんなものを見せられると、一日中気分が悪い。同じ空気を吸っていたくない。
私はその話を聞いて、妹2号に想像を述べた。その男、勉強ばかりしていて、部屋にばかり篭っていて、オナニーぐせがついたんだろうなあ。
妹2号は私に憤慨して言う。どんなに学歴があっても、もし仮に仕事ができたとしても、人前できんたまをいじっているような男は最低だ。
まったくそうだ、と、急いで妹2号に同意した。
以来、人前できんたまを自分はいじっていないか、私はとても不安だ。
「幸せになれるよ」
正月、実家に帰ったとき、高校時代の友人からえらい久しぶりに電話があった。私の高校の同級生たちは、私の中学までの同級生と違い、それなりに知性と余裕のある人々だったので、校内に虐めはなかったが、この友人は人格タイプとして典型的虐められっ子だった。だから私の友人だった。
久しぶりに会おう、という誘いの電話だった。彼の口調は、ほんの少し話を聞いているだけでこちらがムズムズしてくるほど、典型的虐められっ子口調だ。なぜ突然電話をしてきたのか私には判らなかった。「ひょっとして宗教の勧誘?」と私は訊ねた。彼は「まさか、違うよ」と否定した。日曜日に会おう、という話になった。
土曜に、その友人から翌日の件で電話が来た。話をした。
景気が悪くて、仕事がない、という話を彼はした。同情を私は示した。彼は話を続けた。つらいことが多くて、色々考えて、某宗教団体に入った。とてもいい宗教だ、それを薦めたい、と彼は言った。幸せになれるよ、と、彼は言った。
君の客観状況が少しも幸せではないではないか、と、言いたかったがさすがにその言葉を飲み込んだ。不幸だから信仰を必要としたことは全く責められることではない。だが、勧誘となると話が違う。飲みこまないほうが良かったかもしれない。
彼のほかにそこの信者を私は知っている。その人も不幸だった。信心した後は、客観的にはいっそう不幸が続いた。宗教は人の社会貢献欲求を充たす。その人にとって、心の支えがあることは良いことだと思う。だがその人は宗教宗派の選択を誤ったと私はずっと思っている。人の弱みにつけこんでいる、と、私はその宗教団体を評価している。
君がそれを信仰することを私は否定しないが、金のかかる宗教は信じるに値しないというのが私の持論だ、と、彼に伝えた。会おうという約束をキャンセルした。
『キリンヤガ』
公立図書館へ行った。『キリンヤガ』(マイク・レズニック著、早川文庫)借りる。
読了。「SFというジャンルにとどまらず、すべての本好きに読んでもらいたい作品」と訳者が言ったのは誇張ではないと思う。ユートピア物語は常にアンチユートピア物語になる。レズニックはそのことに実に自覚的だと思う。
未来の物語だ。西洋化してしまったケニアを捨て、主人公コリバが、キクユ族のためのユートピア小惑星「キリンヤガ」に渡る。「キリンヤガ」を西洋文明に「汚染」されることから守るため、キクユ族の伝統を伝える祈祷師として、コリバは孤独な闘いをする。
『空にふれた少女』は、『キリンヤガ』連作の中でも、著者レズニックが最も好んでいる話だそうだ。「古き良き共同体で暮らすには聡明すぎた少女カマリの悲劇」と裏表紙で要約されている。『キリンヤガ』全編は、この中篇の変奏曲だと鎌やんは思う。
『キリンヤガ』にはいくつも寓話が登場する。ダチョウになろうとしたモズの寓話を、祈祷師コリバが子供たちに語る。
寓話を聞いた後、少女カマリが言う。「ダチョウになりたいと願うのと、ダチョウが知っていることを願うのは別なことよ。モズがなにかを知りたいと願ったのはまちがいじゃないわ。ダチョウになれると思ったのがまちがいだったのよ」
これにコリバが応える。「ちがう。モズはダチョウの知っていることを知ったとたん、自分がモズだということを忘れてしまった」
作中では、ダチョウは西洋文明人を、モズは少女カマリとキクユ族を指す。
だが、著者レズニックはこの寓話に暗に別な寓意も与えていると鎌やんは思う。
ダチョウは(過去の)キクユ族、「ダチョウの知っていること」はキクユ族の伝統社会、モズは「ヨーロッパとアメリカで学位を収めた」コリバを指している。寓話を語っているコリバはそのことに気づいていない。だがレズニックはそれを意識していると鎌やんは思う。読者はそれを受けとってほしいと鎌やんは思う。
西洋文明に触れた者はみな汚染され、黒いヨーロッパ人になる。コリバはそう主張する。だからコリバは防波堤になろうとする。コリバはなぜそれを主張できるか。ヨーロッパとアメリカをコリバが見てきたからだ。コリバは自分を最も純粋なキクユ族だと信じている。だが、コリバは、純粋なキクユ族になりたいと願う黒いヨーロッパ人、裏返しの黒いヨーロッパ人でしかないのだ。悲劇は全てそこから生まれている。
ユートピア「キリンヤガ」は、過去に実在したキクユ族の伝統社会ではない。ユートピア「キリンヤガ」ではキクユ族の言葉ではなく、スワヒリ語が用いられている。このことは控えめに書かれている。だが著者が込めている寓意としては重要なところだ。
著者レズニックは、少女カマリたち、コリバにとってのユートピアに苦しめられる、コリバの対立者たちに共感している。共感の筆致は控えめだ。コリバの一人称であるがゆえなのだが、むしろ読者はコリバと一体化し、物語を読み進める。読者はそのことにストレスも覚えないし、コリバを異常だとも感じない。コリバは善人だ。コリバは物語の中で最も知性と知識を持った人物だ。同時にコリバは、救いようのない父権主義者・人種差別主義者・国粋主義者・鎖国論者・衆愚政治家・狂信者だ。著者レズニックが小説家として有能で上手いのは、にもかかわらず、読者を、狂信者コリバにも(コリバの対立者と)等しく優しい視線を注がせることに、見事に成功しているところだ。
『キリンヤガ』をいたずらに短絡して政治的に読むのは危険だ、という意見は正しいと思う。狂信者であるコリバと著者レズニックを同一視したら、誤読しかできないからだ。だが、メタレベルでの政治的意図は著者レズニックにはもちろんあると思う。
鎌やん的には、K・V・ウォルフレンの日本論との呼応を感じながら『キリンヤガ』を読んだ。『人間を幸福にしない日本というシステム』でウォルフレンは言っている。…私(ウォルフレン)には「西欧中心的」という言葉の意味がよくわからない。たしかに私の育った文化は西欧文化と呼びうるし、その育ちが、私の考え方の形成に大きく影響したのも間違いない。そして、その影響のいくつかの側面に私自身が気づいていない可能性があることも認めよう。しかし、私が政治・経済のリアリティについて書くとき、私は、人類の共有財産の一部である概念体系(ランゲージ)を使っていると信じている。
…日本人技師が計算で代数を使ったら、それはアラブ中心的活動をしたことになるのか? 代数学はアラビアで発達したものだが、それを使う技師をイスラム主義者と呼ぶのはばかげている。フランスのグラフィック・アーティストが木版画の技術を応用したら日本主義者なのか?
日本にあまたいる少女カマリ、少年ンデミたちの未来が、明るいものとなりますように。
と、それはそれとして。
鎌やんのHPは3年目、鎌やんのweb日記は2年目になりました。つくづく、昨年は何もしなかったなあ、と、思う。
1月6日(木)
体調崩す。
1月5日(水)
昼に就寝。夜、ディグさんからの電話で目を覚ます。駅で待ち合わせ、『シックス・センス』観に行く。
「鎌やんさん、全然この映画の前情報知らないですよね」とディグさんが言う。
「うん、知らない」
「映画は変に前情報ないほうがいいですよね。そう言えば、この映画、あまり前情報ないんですよね。そのわりに、興業成績いいですよね」とディグさんが言う。
観る。
観終わって、なるほど、観た者が語れなくなるわけがわかった。良質な短編小説のような映画だ。
隣にいる人とまったく言葉も心も通じない、という現代人の孤独を、オカルトと心理学という似ているようでまるっきり逆のものを題材に、良質に描いている。他者と言葉が伝わらないのは、自分が何者なのか判っていないから、という、そういう話なのじゃないかな、と、ディグさんに言う。
監督はインド人だそうだ。いい意味でインド的な着想なのかなあ、と、ディグさんに言う。たしか小松左京が言っていたと思うけど、宗教的哲学的思考法は、インドを境に西と東に別れる。西は直線的で、東は円環的だ。仏教はその境界面に生まれ、西に向けて東の思考法を説明したのが仏教だ、とか、ディグさんに雑学開帳する。
『今、そこにある僕』借りよう思い、貸しビデオ屋さんへ。ない。『アインシュタインの脳』他数本ディグさんが借りる。ディグさんの部屋へ行き、観る。
『アインシュタインの脳』BBC制作。ディグさんのお気に入りの映画。終始暗い画面。画面を支配する、杉元助教授のふんぐー、ふんぐー、という鼻息。誰彼構わず「アインシュタインの脳を私は探しています。あなたはアインシュタインの脳がどこにあるか知りませんか」とヘタクソな英語で質問する杉元助教授に、通訳の女性が表情を凍らせる。登場する人登場する人、みな善人というかヒマな人たちというか寂しい人というか。切なさ目一杯。二人でヒヒヒと押し殺した笑いをしながら楽しむ。メタレベルでブラックユーモアな、ドキュメンタリー。
『ホームワーク』イランの小学生を撮影したドキュメント映画。ディグさんは楽しんだそうだが、私は観ているうちに眠りこける。
『ライフ・イズ・ビューティフル』イタリア映画。98年制作。カンヌ、アカデミー賞受賞。観る。前半一時間、クレイジーキャッツだなあ、と思いながら観る。後半一時間、えらい展開になる。観終わったあと、しばらく二人で沈黙する。「凄い映画だなあ」と二人で言う。
チャップリンのようなコメディを現代的にやっているところが凄い、というのがディグさんの感想。
私の感想。私は子供のころコメディが嫌いだった。ギャグは好きだった。ギャグは破壊的だと思っていたからだ。コメディは安全圏の中で楽しんでいるにすぎない、と、思っていた。この映画は前半はコメディだ。そのまま後半の過酷な状況に移り、コメディを続けている、その、ひりひりとした感覚が、凄い。どうやって話を終わらせるつもりなのだろう、と、観ながら思った。納得のいくラストだった。
「『アンダー・グラウンド』もそうだったけど、自分の国の政治的歴史をきっちり見据えそれをコメディにするというのは、凄いよな」
この映画を紹介してくれたディグさんに感謝して、自分の部屋に帰る。
1月4日(火)
寝て過ごす。夜、ディグさんから電話。ディグさん来室。12月25日の日記をチェックしてもらう。アストル・ピアソラはブラジル出身ではなくアルゼンチン出身です、と、ディグさんが指摘。ブラジル出身はアート・リンゼイだそうな。ディグさんの評判を落とさないよう修正する。
単行本作る上で面白いアイデアないか、と、ディグさんに訊く。今のところ、岩波新書みたいな装丁にしたいと思っているんだけど、と、私が言う。
「それではあたりまえすぎるでしょう」と、ディグさんが言う。ほうほう、と、私は聞く。
「どうせなら東浩紀さんの『存在論的・郵便的』みたいな装丁にしたほうがいい」と、ディグさんが言う。わ。さすが、センスが服来て歩いているディグさんだ。素晴らしいセンスだ。射程の長いセンスだ。けれど売れませんそれでは絶対に、ええ。
「お客さんにジャケット買いさせないといけないんだ」と、ディグさんに言う。
「写真を使ったらどうだろう」とディグさんが提案する。「ロリータエロ写真を流用しても、絶対版権とか主張されることないじゃないですか」とディグさんの提案。それはいかがわしくていいアイデアだ。問題は流通がきっと嫌がる、ということだ。…上手いやりかたを考えてみよう。
「いっそのこと、デザイナーズ・リパブリックに装丁を依頼してみたらどうですか、ダメ元で訊くだけ訊くのはいいんじゃないですか」と、ディグさんが言う。わお。ディグさんらしい。それはディグさんのコミックスが出たときにしたほうがいいと思うぞ。
明日『シックス・センス』見に行こう、という話になる。
1月3日(月)
前日同様、朝、店番する。店の中、掃除が行き届いていないことに気づく。パートを頼むのをケチるのはやめよう、と、母に提言する。提言は虚しい。自分で営業しない限り根本的解決にならない。雇用関係と血族関係が区別できないのは私にとって絶望的な状況になる。
新聞読む。選挙の候補者リスト見る。知っている政治家が何人かできたので、それなりに読むことができるようになる。えだの幸男さん、民主党の公認を得ることに成功したようだ。よかったよかった。自分が住民票置いているとこには民主党の候補立たないのね、とか思う。
えらい体調悪くなる。昼寝する。親戚が挨拶に来る。ここにいるのは邪魔だと妹1号が言うので、部屋へ行く。
午後7時起きる。夕食食べる。東京へ帰ることにする。妹2号に駅まで送ってもらう。
時間と精神力を、ムダに消費した。
1月2日(日)
(前日より)『おねぷ』から帰宅する。TVで、『朝生』している。えだの幸男さんが出ているので、番組終了まで観る。寝ようかと思ったが、開店時刻なので、そのまま店番する。
猟犬のうち最も高齢の雌犬が、昨夜から寒さと老齢で体調悪く、店内に置かれていることに気づく。その時まで、この犬がそれほど老いていることに私は気づいていなかった。犬はどこかしら、少年的な動物だ。日が昇ってから、老犬を店外の屋根のあるところへ連れて行く。老犬はまともに歩けない。昨夜よりはだいぶ老犬の調子がいいのだそうだ。父が獣医に連絡。老犬を入院させる。人間で言う中風だとのこと。
昼寝する。
妹2号、箱根駅伝の応援より帰還。母方の祖母のところへ兄妹で向かう。母方の祖母の家も、接客業で、客が宴会中だった。伯父伯母従妹の顔を見る。陽気な笑顔で私たちを迎える。疲労している。
祖母のところへ兄妹三人で来たのは何年ぶりか思い出せない。いざ祖母の顔を見ても、話題が見つからない。妹2号が素晴らしく優れている社交力で祖母と色々話する。退出する。
母が家族でトランプをしたがっている、と、妹たちが言う。それを買いにそのまま車でコンビニへ。2軒回る。いずれも売り切れ。人生ゲームを買う。帰宅。人生ゲームする、という雰囲気にならない。殺伐とした空気になる。私と母の罵り合いになる。母が言う。見合いの仲介を頼んだ人に、お前は私の悪口を言っただろう、なんて恥ずかしいことをするんだ、そのせいで最近はその人がまともに話を聞いてくれない、と私をなじる。母はその人に嘘ばかり言っているではないか、それを訂正して何が悪い、と私は反駁する。その他、妹たちも口論に加わり、不毛な口論が続く。客が勝手口から侵入したので中断。
就寝しようとする。眠れない。手荷物から創作ノートを探す。ない。別なノートに日記をつける。
2000年1月1日(土)
夕方まで寝る。妹1号帰省。妹1号に複数回起こされる。そのことを起床後なじられる。
母が建築についてバカな主張を始める。その提案を拒否する。
見合いしろとか早く東京の仕事辞めて実家に戻ってこいとか母が言う。戻って来たら毎月これだけの給金を払う、と母が提示する。私は実家の経済を把握できていない。実家にいるとき覚える無力感はそれにも起因する。以前自力で算出した年間の実家の経済規模から考えると、母の提示金額は小額すぎる。マンガで同じ金額を稼ぐには、と計算する。少しも難しくない。マンガで稼ぐほうが精神的に楽だし張り合いがある、と、母に述べる。
私が年間どれだけ稼げば母は納得がいくのか数字を挙げてくれ、と私が言う。そういう問題ではない、と、母が言う。もちろんそういう問題ではないことは私もよく判っている。母の言う意味とは別だが。
今私の稼ぎが良くないのは二年前に母が病気で倒れ、いつでも実家に戻れるよう仕事を絞ったからだ、と私は言う。弱みを見つけたとばかりに、いつまた再発するか判らない、と、母が同情買いを試みる。
資産の算定について父に質問する。相続税という概念を父母は飲み込めない。近代経済の概念を父母は全く持たないので、そのことは予想できたことだ。父母抜きで算定始めるつもりだった、と、父母に言う。母が色々錯乱したことを言うが、父は幾つか建設的な情報を出す。
妹二人と、村の話をする。私の村は、ごく最近まで、村の北方と西方とでは方言が違っていた。それほど人間が動かなかったのだ。近親交配ばかりで、村ごとに顔の特徴がある、という話。
妹二人、『おねぷ』の生中継観に行く、とのこと。付いて行く。『おねぷ』の行列らしきもの発見。それに加わる。
列はギャル風の若い女性ばかりで、みなスカート履いている。原田泰造に投げられるために遠くから来たのだろうなあ、と妹たちと話す。テレビスタッフが何か説明している。「ええ~」と下卑た声を女の子達が挙げる。私たちの目の前に並んでいる人が、スカート履いた男性であることに妹1号が気づき、喜ぶ。
タレントによって客層がはっきり違う、という話を妹1号が私にする。ウルフルズの客層は年齢幅が広く、前向きな良い子が多い、と妹1号が言う。妹1号はウルフルズのファンだ。学校の勉強ばかりしていて現実的対処能力のない青白い同僚にウンザリして、さわやかガテン系が好みのタイプになったようだ。ビジュアル系のファン層は、キメている人もいるけど、たまに凄い人もいる、仮装行列だ、とも妹1号が言う。ちなみに妹2号はビジュアル系が好みなようだ。
なるほど、自己像を投影しやすいタレントを客が選ぶので、そういう関係になるんだね、という話を妹1号とする。
妹二人は運良く特等席へ。私は外縁から撮影を見る。私は歓声上げすぎて頭痛する。「そんなに大声出したの?」とあとで妹たちから訊かれる。ああいうときは思いきり騒いだほうが楽しいでしょ、と妹たちに言う。
特等席で妹たちの隣にいた女の子達は大阪から来ていたそうだ。今夜は野宿すると言っていたそうだ。「寝たら凍死するから、寝ないように頑張って」と言っていたそうだ。
326のグッズを妹たちは購入。「326のどこがいいの?」と訊く。「自分がゼロならどうしようもない」というセリフがわりとお気に入りだ、と、妹2号が言う。絶望を前提とした前向きさに共感しているのかな、と想像する。
母方の祖母にいつ空気清浄機を渡そうか、と、3人で相談する。1月2日の夜、妹2号が箱根から帰ってきてからにしよう、と、まとまる。
田舎の夜はひどく寒い。小中学生時新聞配達していたことなど話す。田舎の冬は、切ない寒さだ、と、妹1号が言う。寒さは肉体に厳しい。寒さは攻撃的だ。田舎の暖房設備は貧弱だ。
母は愛情表現のできない人で、寛ぐこと、安らぐことに道徳的羞恥心があるのだ、だから家族を寛がせないよう母は行動するのだ、と、妹たちが言う。妹たちにとって母は同性なので、母の底を見透かし許しているところが妹たちにはある。私の母への態度に比べると、妹たちは母に対し同情的で共感的だ。そのぶん妹たちは私に対し軽蔑と嫌悪を持っている。問題は妹たちの側にではなく、私の側にある。私は愛情と欲情の区別がしっかりできていないよな、と、思う。